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山と鉄

山歩き、乗り鉄、廃線・廃道歩き、廃村歩き、駅舎探訪などの日々を記録します

都心の山(4)

【2016年4月14日(木)】都心の山
愛宕山のNHK放送博物館を出ると、ふもとに下りるエレベーターが右手にある。
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でも、これは使わず、やはり「出世の石段」を下る。

上から見ると、さすがにものすごい勾配だ。
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格好つけずに手すりにつかまりながら、ゆっくり下った。

寛永十一年(1634年)、三代将軍徳川家光が増上寺参拝の帰り、愛宕山に美しい梅の花が咲いているのを見つけた。
「誰か馬であの梅の枝を取って参れ」と命じたところ、多くの伴の者が逡巡する中、讃岐丸亀藩の家臣、曲垣(まがき)平九郎がみごと石段を駆け上がり、枝を取ってくることに成功。「日本一の馬術の名人」と賞賛されるようになったという逸話にちなむ。
講談「寛永の三馬術」でもよく知られている。
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その後、なんと明治、大正、昭和と各1人ずつ、この石段を馬で登ることに成功した人がいるらしい。
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1人目は仙台藩で馬術指南役を務め、廃藩後曲馬師をしていた石川清馬。
明治15年(1882年)に成功し、これにより石川家は徳川慶喜より葵の御紋の使用を許されたという。
2人目は参謀本部馬丁の岩木利夫。大正14年(1925年)、愛馬の引退記念に挑戦し、観衆が見守る中成功させた。
上りは1分ほどで駆け上がったが、下りは45分を要したのだとか。
この模様は、当時愛宕山にあった東京放送局(のちのNHK)によってラジオ中継された(日本初の生中継とされる)。
3人目は馬術のスタントマン渡辺隆馬。昭和57年(1982年)、日本テレビの特別番組『史実に挑戦』の企画としてチャレンジし、安全網や命綱、保護帽などの安全策を施した上で登頂。タイムは32秒だった。
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以上はウイキペディアの記載によったが、これだけだと下りにも成功したことがはっきり分かるのは、岩木しかいない。
時間を見ても分かる通り、下りの方が明らかに難しい。
馬もよく45分間も集中力を保ち続けられたものだ。

階段の横にはひっそりと「愛宕の地名存続達成記念」の標柱が立っていた。
「愛宕」の町名は複雑な変遷をたどっているが、昭和40年以降、住居表示の実施に伴い、芝愛宕町二丁目が西新橋に、芝愛宕下町四丁目が芝大門になるなど、「愛宕」のエリアがどんどんなくなっていき、住民は消滅の危機を感じたのだろう。
運動実って、昭和53年に芝愛宕町一丁目と芝西久保広町の一部が、愛宕一、二丁目として存続することになった。
標柱はこれを記念したものと思われる。
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一旦、大通りに出て、すぐ右折する。
左手に總持寺の出張所。總持寺の本社は横浜市鶴見区にある。
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その後ろに、さっきのエレベーターの上り口。
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正面は愛宕隧道。
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昭和5年(1930年)の竣工で、首都高や立体交差などを除く純粋な「山岳トンネル」としては23区で唯一のものだそうだ。
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長さは約77m、幅員9m。両側に各2.5mの歩道があるので、車道は4mのみ。
西方面への一方通行になっている。

西側に出て振り返る。
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ここにも山頂への登山口がある。
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西側は江戸時代以来の寺町の雰囲気がわずかに残る。
愛宕山に沿って、南に進むと、左手は新しい高層マンションが立ち並ぶが
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右手は天徳寺。
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折角なので立ち寄ってみた。
天文2年(1533年)の創建で、浄土宗江戸四ヶ寺の一つに数えられているという。

境内には石仏や五輪塔などがたくさん。
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この板碑は永仁六年(1298年)七月日の銘がある。鎌倉時代のもので、港区の有形文化財に指定されている。
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上部の梵字「キリーク」は阿弥陀仏を意味する。

このほか、立派なお墓も狭い敷地に林立していた。
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由緒ある家系ばかりだ。

これらは篆刻の巨匠、高芙蓉(1722~1784年)と河井荃廬(1871~1945年)の墓。
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そして本堂。
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仮本堂。
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門前には「西ノ窪観音」の石碑。ここは江戸三十三観音霊場の二十番札所でもある。
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寺を後にして、芝公園方面に向かう。
この界隈には古い建物が奇跡的に残っている。
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高層ビル群の谷間に、こんな空間が展開していて、驚いた。
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これなどは戦前のものではないか。空襲の焼け残りか。
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さらに進むと不気味な雰囲気の光明寺。
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専光寺。
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目的地は芝公園の丸山なのだが、それまでにいくつか丘があるようなので、寄り道していくことにした。
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桜田通り(国道1号)を歩道橋で渡る。
都心方面。
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横浜方面。
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国道の反対側にも古い家屋が残っている。
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このあたりのフェンスの中は森ビルが買い占めたもの。
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その中にこんな張り紙が。
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ノラ猫に迷惑をしている住民と世話をしているボランティアが対立しているようだ。
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この先に階段があるので登ってみる。ここも「山」なのか。
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少し登ってみると、ふもとにはフェンスが張り巡らされていた。
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この界隈も近い将来、高層ビルに変わってしまうのかもしれない。

登り切ると、こんな石碑が。ここは神社の北参道だったのだ。
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昭和2年(1927年)とは随分古い。

何神社だろうか。
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西久保八幡神社というらしい。
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平成23年に、御鎮座1000年というから、かなり古い。
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江戸切絵図「愛宕下之図」に「八幡社普門院」と記されているところと思われるが、山名の記載はなかった。
芝八幡社

となりの「城山」のように「八幡山」とでも名付けてくれていれば、よかったのだが。
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境内には稲荷社と妙な石碑が安置されていた。
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こちらの石碑は平成5年の建立。皇太子の御成婚を祝って拝殿、玉垣、手水鉢の修復したことを記念しているだが、随分古色を帯びている。
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女坂の玉垣は古いが、男坂は真新しい。
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これは平成5年ではなく、さらに新しい23年の修復のようだ。

鳥居の横に、江戸中期に成立した江戸の地誌「江戸砂子」の記述を写した石碑があった。
「熊谷橋」なる石橋の名の由来が書かれているようだ。
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かつて、ここから程近い神谷町の横切下水に熊谷橋という石橋がかかっていた。
なぜ、「熊谷」か。近くの屋敷内に鷲の社が祀られており、鷲は熊谷氏の氏神であることから、この界隈を熊谷とも呼ばれるようになったらしい。
その石橋の遺構がこの神社の鳥居の手前に保存されているとのことで、この石碑が建てられたわけ。

だが、保存されている石橋の遺構とは、この石畳のことだろうか。
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桜田通りまで下ってきて、飯倉交差点を望む。
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交差点を左折すると、東京タワーに向かう永井坂。
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このあたりがかつて芝永井町と呼ばれていたのが、その名の由来だという。

左手に聖アンデレ教会。
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その隣に、聖オルバン教会。
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1956年の創立で、チェコ系米国人の建築家アントニン・レイモンドの設計という。

真正面に東京タワーが見えるが、ちょっと寄り道。
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このあたりの最高地点にあたる港区芝給水所公園を目指す。
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江戸切絵図では植村駿河守の屋敷の跡地のようだが、こんなに高い場所であるにも関わらず、山の名前は書かれていなかった。
芝給水所

台地上は公園なので遊具がたくさん。
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サッカーのグランドもある。
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北東に愛宕グリーンヒルズのツインタワーを望む景勝の地だ。
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(つづく)
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