山と鉄

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侍塚古墳(中)

【2016年2月11日(木)】侍塚古墳
再び、笠石神社を訪ねると、社務所が閉まっていたので、呼び鈴を鳴らした。
すると、宮司の奥さんが出てきて、「今日は建国記念日なので、宮司はたった今出かけちゃったんですよ」と申し訳なさそうに言う。
つまり、解説はできないということのようだ。
私も説明があまり長くなると困るので、「10分バージョンでお願いします」と言うつもりだったので、それほどがっかりしなかった。
説明なしだと那須国造碑の拝観料は300円、説明付きだと500円だそうだ。
さっき来た時、他のお客さんに説明しているのを後ろで数分聞いていたが、第19代宮司伊藤克夫さんの口上はなかなかの名調子であった。

奥さんが碑堂のカギを開けて、碑を見せてくれた。
国造碑
撮影禁止なので、500円で販売していた写真を購入した。
実物を見るのは、2度目である。前回のことはあまり覚えていない。

延宝四年(1676年)、磐城(福島県)の旅僧円順が那須郡湯津上村の草むらに倒れている碑を見て、「この古碑は高貴な人の石碑かもしれない」と、那須郡武茂郷小口村(旧馬頭町)の名主大金重貞に伝えたことが、大発見につながるきっかけだった。
なぜ、円順はそう思ったのか。
腰をかければ痛みを発し、馬をつなげば脚をくじく、といった不思議なことが度々あることを村人から聞いたからである。
重貞は息子の小右衛門、佐太郎とともに湯津上村に6度も通って、表面を覆っていた苔を落として判読に努めた。
そして、自著の『那須記』に草壁皇子(天武天皇の皇子)の御廟碑であるとの説を書き記したのである。

実は円順の「発見」以前より、この石碑の存在は知られていた。
内容は把握されていなかったが、笠石をかぶせて雨乞いをすれば必ず雨が降るという霊験あらたかな石碑として、近在の信仰を集めていたようである。
そういう神聖な存在であるからこそ、腰を掛けたり、馬をつないだり、粗末に扱うと罰が当たると信じられていたのだろう。

さて、ここで水戸光圀の登場である。
光圀は寛永五年(1628年)、徳川家康の十一男頼房の第三子として水戸で生まれた。
つまり家康の孫である。
寛文元年(1661年)、三十四歳で光圀は第二代水戸藩主となった。
光圀は「天下の副将軍」などと言われるが、「副将軍」という公式の職制はない。
諸大名は参勤交代が義務付けられたが、水戸藩主は御三家のうちでも参勤交代がなく「江戸定府」であったので、後世そのような名称で呼ばれるようになったらしい。

ただ、光圀は歴代藩主の中でも突出して国元に帰る「就藩」期間の長い藩主であった。
初代頼房は藩主在任53年のうち11回就藩し、水戸在留は4年3か月だったが、光圀は在任30年のうち同じく11回だが、期間は7年2か月に達している。
2人以外では三代綱條(つなえだ)が4回で最も多く、八代斉脩(なりのぶ)に至っては0回である。
光圀は就藩のたびに領内をくまなく巡村した。
こうした旅の生活がモデルとなり、供に俳人を連れて諸国を漫遊して世直しをするという講談『水戸黄門漫遊記』に発展、現代の黄門様のイメージが形成されていったのである。
ちなみに「黄門」とは中国唐代の官職で、日本では中納言に相当することから、隠居してから中納言に任じられた光圀は「黄門様」と呼ばれるようになった。
この理屈で言えば、中納言格の人物はみな「黄門」と呼べることになるが、日本で「黄門様」と言えば、水戸光圀ただ一人である。

その光圀が天和三年(1683年)六月、那須七騎の居館を上覧するため武茂郷に巡村に訪れた。
那須七騎とは江戸幕府成立に功のあった那須、芦野、伊王野、大田原、大関、福原、千本の那須に根を張る七氏のことで、光圀はこれらの旧居館を重貞宅に近い小口長峯から眺めたのである。
案内した重貞は、この時、光圀に『那須記』を献上した。
ここに記された古碑に深い関心を持った光圀は貞享四年(1687年)9月、碑の主を突き止めるための発掘調査を思い立ち、テレビドラマ「水戸黄門」の助さんのモデルとなった佐々介三郎宗淳にその指揮を命じたのである。

ここで、この碑には何が書かれているのか確認しておきたい。
碑文は全部で152文字。1行19字詰めで8行に割り付けている。
碑詳細
最初の3行にはこのように刻まれている
 永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲・・・
「永昌元年(689年)四月、飛鳥浄御原の大宮(持統天皇)から、那須国造を務めた追大壹(ついだいいち)那須直韋提が評(のちの郡。すなわち那須郡)の長官に任ぜられた。その後、庚子年(700年)正月二日辰の節に亡くなったので、意斯麻呂らが碑を立てて、(以下のように)銘を刻む」といったところが大意である。以下は、韋提がどれだけ立派な人物だったかが、るる書かれている。

要するに、この碑は那須国造、那須郡長官を歴任した那須直韋提(なすのあたい・いで)が西暦700年に亡くなったため、その遺徳を顕彰するために立てられたものなのである。
建立者の意斯麻呂とは誰のことかこの碑文だけでは分からないが、韋提の息子ではないかと考えられている。
建立年代は韋提の死後そう時間が経っているとは思われないので、西暦700年頃とみられる。
ただ、上記のような解釈が光圀の頃から確立していたわけではない。

宗淳は、「直韋提」の部分を「宣事提」と読んだことから、このくだりを、那須地方の長官である「那須国造の追大壹」と、その補佐に当たる次官の「那須宣事の提評督」と解釈してしまった。
つまり、いずれも官名しか書かれておらず、肝心の碑の主の名前が記されていないと理解したのである。
「本邦の碑これより古なるはなし、奇絶世に冠たり」と絶賛していた光圀は、碑の主を明らかにすべく、墓誌を求めて、まずは碑が横たわっていた塚を発掘するよう命じたのである。
ちなみに、日本で最も古い石碑は、京都府宇治市にある宇治橋断碑で、大化二年(646年)の建立。那須国造碑は3番目に古い。

元禄四年(1691年)3月、碑を保護する碑堂の普請が始まるとともに、塚の発掘調査も行われた。
重貞が記した『那須拾遺記』によれば、石碑が倒れていた塚は深さ7尺(約2.1m)ほど掘ったが、墓誌などは見つからなかった。
このため、高さ7尺のうち3尺削って平らにし、1間四方の碑堂を建立したという。
ということは、現在の笠石神社の碑堂のある場所がまさに円順が古碑を発見した場所であり、おそらくはこの地こそが碑建立の原位置ということになる。
つまり、碑の位置は建立以来1300年以上にわたって動いていないのである。
これは実に奇跡的なことだ。

碑があった塚から何も出なかったことで、光圀は村人が那須国造の墓と伝える侍塚古墳の発掘に着手する。
それまで「発掘」と言えば、珍品を得て金に換えようとする盗掘でしかなかったが、墓の主を突き止めようとする日本で初めての学術的な古墳の発掘調査がここに行われることになったのである。

発掘調査は下侍塚、上侍塚の両古墳を対象に、元禄五年(1692年)二月に行われた。
しかし、ここでも期待した墓誌などは発見できなかった。
実は近代になってから分かったことなのだが、中国などと違い、日本の古墳には被葬者が誰かを示すような誌石などは入れないのが普通である。
見つからないのは当然だった。

しかし、いくつかの出土品はあった。
すべて木箱に入れて、埋め戻されているので、実物を見ることはできないが、記録が残っている。
光圀は忙しかったのか、墓誌が出なくてがっかりしたのか、出土遺物を見ることはなかった。
ただ、水戸から絵師を派遣して、絵図など記録は残すよう指示した。
そのおかげもあり、両古墳の築造年代は4世紀後半から末にかけて、ということが後になって判明したのである。
遺物の埋め戻しは三月一日に行われた。

当時の発掘によるものと思われる凹みが今も、前方部の墳頂に残っている。
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墳頂からは東に御亭山(こてやさん、513m)のなだらかな稜線を望むことができた。
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下侍塚古墳は昭和26年に国の史跡に指定されている。

光圀は目的こそ果たせなかったものの、古墳に対しては丁重に扱った。
発掘した場所は埋め戻し、墳丘には芝を張り、修理記念に松を植えるよう、指示したのである。
遺物を埋め戻したのも立派だが(おそらく近代の発掘では例がない)、これもまた頭の下がる行為である。
本邦初の文化財保護活動と言われるゆえんだ。
この美しい古墳をもう一度見てほしい。
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日本の考古学の父はモースなどではなく、黄門様なのである。

感激を新たにしたところで、もう一つの古墳、上侍塚古墳に向かう。
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下侍塚古墳の南800mの地点に位置する。
那須地方に現存する6基の前方後方墳の中でも最も大きく、全長114mに達する。

上侍塚の近くにも馬頭観世音が祀られていた。
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上侍塚の北約50mの場所に上侍塚北古墳が横たわる。
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全長48.5mの前方後方墳だが、ほとんど原形をとどめていない。
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上侍塚はビニールハウスに囲まれている。
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その間を縫って、近づいていく。
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ここからは銅鏡のほか、石釧、管玉、鉄鏃、鉄鉾、鉄刀、鐙の破片、高坏などが出土した。
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後方部は高さが12mもあり、傾斜も急なので、墳頂に登るにはやや骨が折れる。
墳頂からは、上侍塚北古墳や那須連峰を望むことができた。
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前方部を見下ろす。形がほとんど崩れていない。
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古墳を守った原点は光圀だが、その後も日本一美しい古墳であり続けたのは、地元の方々の尽力があった。
せっかく光圀が植えた松も明治以降は減少し、大正期に入るとハゲ山に近い状態になってしまっていたという。
戦時中は両古墳の間に飛行場の滑走路が造成されるなど、危機が迫っていたらしい。

そのため戦後になると、地元有志が松を植林したり、下草を刈ったり、保護活動に乗り出した。
現在は地元の「松守会」が継承しており、冬には害虫駆除のための「こも巻き」が風物詩になっている。
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前方部から。
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ビニールハウスの向こうに那須連峰。
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雪が若干残っていた。
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古墳と那須連峰のコラボ。
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この古墳も実に美しい。

(つづく)

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