山と鉄

山歩き、乗り鉄、廃線・廃道歩き、廃村歩き、駅舎探訪などの日々を記録します

大山道(1)

【2015年12月27日(日)】大山道
先日、大山(1252m)をヤビツ峠から登った時、蓑毛まで行く道でバスから古い参詣道の痕跡をいくつか見つけて、いわゆる「大山道」を歩きたくなった。
というわけで、伊勢原から阿夫利神社下社まで、大山道(矢崎道)を歩いてみることにした。

6:01新所沢発に乗り、西武新宿乗り換えで、伊勢原に7:59着の予定だったが、新所沢駅に着いた時点で、スマホの充電器を忘れたことに気付き自宅に引き返す。
日帰りなら電池切れにならないで済むだろうけど、今回は大山道を歩いた後、浜松に泊りがけで転戦するつもりなので、充電器は必須だ。
これで20分ほどロスしてしまい、6:17発の電車になってしまったが、東村山、国分寺、西国分寺、府中新町、登戸と5回乗り換えを繰り返すことで、最短ルートになり到着時間を遅らさずに済んだ。

この日もいい天気だ。
伊勢原駅からは正面に大山がくっきりと見えた。
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大山ケーブル行きのバスが目の前で発車していったが、目もくれずに歩き始める。
伊勢原市はマンホールのモチーフもやはり大山だ。
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目の前に、阿夫利神社の鳥居があるが、あの道は通らない。
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本日は主に中平龍二郎著『キャーッ!大山街道‼』(風人社)を手引きに歩くことになるのだが、それによると、鳥居のある通りは古い大山道ではない。

矢崎道と呼ばれる平塚市豊田本郷から通じる道をまずは歩いてみる。
線路沿いに200mほど西に歩くと、矢崎道に出る。
この道は小田急線に分断されている。
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大山方面は「旧道らしいカーブ」(同書、以下略)を描いている。
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130mほど歩いて大通りに出ると、「風化して何かわからないが、石造物がある」。
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ここで右折。すぐに伊勢原小学校入口の信号で、この交差点が、江ノ島から通じる田村道との合流地点だ。
当時は各地から大山を目指す道が整備され、大山道は相模国を中心に網の目のように張り巡らされているのだ。

交差点のすぐ近くに、伊勢原火伏不動尊がある。
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ご本尊の制作年代は不明だが、文化十三年(1816年)に伊勢原を襲った大火の際、この不動様の前で火がぴたりと止まったことから、以来、「火伏せの不動様」として尊崇を集めてきたという。
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交差点を左折して駅前のメインストリートを歩く。
左手奥に見えるお寺は大宝寺。
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通りには昭和の香りのする商店がちらほらと残る。
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こちらは享保十三年(1728年)創業の「茶加藤」本店。
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現社長の加藤宗兵衛さんは十代目だそうだ。

矢印の通りに目に見えて大山が存在しているのは、歩いていて気持ちのいいものだ。
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国道246号に出る手前、右手に伊勢原大神宮が鎮座している。
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当社の創建は江戸時代初めの元和年間と伝えられている。
「新編相模国風土記稿」によると、元和六年(1620年)、伊勢の山田曽右衛門と鎌倉の湯浅清左衛門が大山参詣のおり、当時千手原と呼ばれたこの松原に一夜の宿を求めたところ、清らかな水音を聞いて、この一帯が開墾可能であることを覚り、代官成瀬五左衛門の許可を得て、開墾に着手した。
そこにだんだん人が集まるようになり、今の伊勢原の基礎が形成された。
曽右衛門は新しい開拓地の鎮守として故郷の伊勢神宮から神様を勧請した。
その御祭神に由来して、この地は伊勢原と呼ばれるようになったそうである。
その後は、矢倉沢往還の宿場町としても栄えていった。

ここは伊勢神宮と同様、天照大御神を祭る内宮と豊受姫大神を祭る外宮に分かれて奉祭されている。
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なぜかペアの卵がこの神社のシンボルになっていた。
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朝早くから正月準備の真っ最中だったが、今回の旅の安全を祈願する。
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かつて、境内には神社の管理にあたる別当寺として、照見山神宮寺という普化禅宗の寺が置かれていた。
普化宗の僧は、天蓋をかぶって、尺八を吹きながら、各地を修行して回った。いわゆる虚無僧である。
明治四年(1871年)の太政官布告でこの宗派は廃止され、今や神宮寺の痕跡をとどめているのはこの石灯籠だけだそうである。
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参詣道として賑わっていた頃から営業していたような気がする煎餅屋さんとお蕎麦屋さん。
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国道246号に出た。横断する前に、ちょっと右に寄り道して、御嶽神社に参拝。
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地元の氏神様である。
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境内に、「かさ神さま」と呼ばれる石塔があった。
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幕末の頃、不治の病で亡くなった旅の女性を供養するために祀ったものだという。
以来、同じ病や目の悪い人が供養・参拝したところ、多くの方が快方に向かったとのことで、病気平癒の神様として崇められているとのこと。

道祖神や戦没者の慰霊碑なども。
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こちらは敷地提供者の記念碑。
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吉川馬吉さんが敷地64坪を寄付してくれたようだが、年月日も入れてほしかった。

とういうわけで、片町十字路でやっと246を横断。
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ここは矢倉沢往還との交差点でもあるので、そちらもちらっと覗いてみる。
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旧道らしいカーブを描いていて、余は満足じゃ。

大山道に戻る。古そうな呉服屋。こういう店を拾って歩くのも楽しい。
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伊勢原高校入口のT字路を左折。
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そこには、これまた歴史のありそうな和菓子屋「曽我屋」。
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「安田弓具店」なんて店もあった。
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しばらく真正面に大山を見ながらの直線道路が続く。
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東名高速をくぐる手前に〆引(しめひき)という珍しい地名のバス停がある。
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阿夫利神社の神域への入口ということで、しめ縄を引いてあったことに由来する地名なのだろうか。

ここには、五霊神社がひっそりとたたずんでいた。
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社伝によると、大同元年(806年)に相模国三之宮村五霊原に鎮座したとあり、もともとは相模国府の御霊神社であった。
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その後、源頼朝、宗尊親王、北条早雲などが帰依したと伝えられる。
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社殿のとなりに児童館があった。
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その看板に「七五三引」とある。
注連縄(しめなわ)のことを「七五三縄」とも言うが、地名に採用されているのは初めて見た。ここではどちらの表記も使われているのだろう。

ここも参拝して、東名をくぐる。
ガード下にはいろんな絵が描いてあり、「市民壁画美術館」となっていた。
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抜けると、右手に山口家住宅がある。
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山口家は江戸中期より、ここ上粕屋村(伊勢原市上粕屋)の名主を務めており、もともとはもう少し大山よりの石倉に屋敷があったが、幕末に曳き家でこの地に移された。
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当時この地は六代将軍家宣と七代家継の側用人を務めた間部詮房の弟詮之が治めており、山口家はその家政に深く関わっていた。
明治維新後は、当主の山口左七郎が相模最初にして最大の自由民権運動の結社湘南社の初代社長に就任し、第一回衆議院議員を務めたという。

主屋の建物が慶応年間(幕末)に領主間部氏の地代官所として改造されることになったが、その時の瓦を利用して土塀が作られている。
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関東大震災で瓦はすべて屋根から滑り落ち、瓦礫は土の中に埋められていたが、それを再利用したものだ。

山口家に伝わる様々な資料を保存している雨岳文庫。
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五霊神社に埋まっていた天保三年(1832年)建立の道標。
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二つに折れていたので破損がひどいが、見えている面は、左が「大山道」、右が「右 ひなた道」と刻まれている。隠れている面には「左 かなひ道」。
「かなひ」とは「金目観音」(平塚・光明寺)のことらしい。
なぜ「かなめ」が「かなひ」になるのかは、よく分からない。

大山二の鳥居にかかっていた石の扁額。
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関東大震災の際に落下したらしい。「石尊大権現」とは阿夫利神社のこと。
龍の彫刻が素晴らしい。

巽の井戸。
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山口家の敷地内にあったが、旅人に利用してもらうため、門は開放されていたという。

堆肥舎。
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自園茶の畑。
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明治期には旧伊勢原町の豪商の何軒かは敷地内に自家用の茶畑を持っていた。
山口家では茶畑に梅の木を一緒に植えて、半日日蔭を作り、茶の葉っぱが柔らかくなるように工夫していたという。
摘み取りの時期になると、静岡や狭山などの本場から技術者を招いて近隣の人々とともに、茶作りを学んだ。お茶は大山道を歩く旅人にも商われたとのこと。
今はその茶畑もみなマンションに姿を変え、いにしえを伝えるのは、「茶加藤」さんだけになってしまった。

旧鈴木喜三郎邸離れ。
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鈴木喜三郎(1867~1940年)は検事総長、内相、立憲政友会第7代総裁を務めた川崎出身の政治家。
曽我丘陵にあった別荘(大正12年建築)の離れを移築したものだ。

裏には水琴窟があった。
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(つづく)
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