山と鉄

山歩き、乗り鉄、廃線・廃道歩き、廃村歩き、駅舎探訪などの日々を記録します

桐蔭学園周辺

【2015年11月12日(木)】桐蔭学園周辺
横浜の桐蔭学園に仕事が入ったので行ってきた。
最近、仕事で外に出ることがあまりなくなったので、貴重な機会だ。
ちょっとだけ周辺を散歩してから社に帰ることにした。

都心から桐蔭学園まではいろんなルートがあるようだが、小田急線柿生駅からだと路線バスが桐蔭学園前まで連れて行ってくれるようなので、まずは柿生駅を目指した。
新宿から快速急行藤沢行きに乗って、新百合ヶ丘で乗り換え。
1駅で柿生だ。9:29着。
柿生駅
北口のバスターミナル4番線から9:40発の「桐蔭学園」行きに乗る。
もうこんな時間なのに、制服姿の高校生を含めすでに20人近く並んでいた。

柿生(かきお)という地名は、その名の通り「柿」と関係あるらしいことは聞いたことがあったが、いい機会なので、ちょっと調べてみた。
すると、確かにそうだった。

柿生の地名は駅名としては残っているが、行政地名としては消滅している。
実は「柿生」は明治時代に生まれた新しい地名なのである。
江戸時代には、このあたりに上麻生、下麻生、早野、王禅寺、古沢、万福寺、片平、五力田、栗木、黒川の10か村があった。
これらが1889年(明治22年)の町村制施行の際、合併して「柿生村」が成立した。
「生」は「麻生」からとったものと推測されるが、では「柿」はどこから来たのか。
この地域が、日本で初めて発見された甘柿である「禅寺丸柿」の原産地であることにちなむという。

「禅寺丸柿」は鎌倉時代の1214年(健保2年)に、現在の川崎市麻生区にある王禅寺の山中に自生しているのが発見されたという。
それまで知られていた柿はいずれも渋柿だったので、日本最古の甘柿という位置づけになっている。
その後、この寺は1333(元弘3年)の新田義貞の鎌倉攻めの兵火で焼失。
室町幕府から再建の命を受けた等海上人が栽培を広めたとされている。
生産の最盛期は明治末から昭和初期で、1932年(昭和7年)には柿生村だけで938㌧もの収穫があった。
しかし、新参の富有柿との競争に敗れて、急速に衰退し、昭和40年代後半には市場から姿を消してしまった。
現在は、地元の「柿生禅寺丸柿保存会」が細々と栽培を続けているそうだ。
バスの中から1本、柿の木を見つけたのが、それだったのかもしれない。

ちなみに、柿生村は1939年(昭和14年)に川崎市に編入した際に消滅。
そのかわり、旧村だった10か村の名は現在も行政地名として生き残っている。
合併した際に新しく生まれた地名だけが用なしとなったわけだ。

9:55に桐蔭学園バス停に到着。
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地形図にあった碑の記号は日露戦争の戦没者慰霊碑だった。
文面には「日露戦没紀念碑」とある。
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目の前に神社の鳥居が見えるが、この碑はもともとこの神社の境内に建立されたものだろう。
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神社は帰りに参拝させてもらうことにして、とにかく仕事仕事。
桐蔭学園のキャンパスには初めて来たが、実に広大で迷ってしまった。
それでも何とかお目当ての中学部校舎にたどり着き、仕事は2時間ほどで終了。

帰りはグランドの脇を通って、バス停を目指す。
桐蔭学園と言えば、甲子園の常連校で全国有数の進学校というイメージがあるが、その沿革も含め、これもちょっと調べてみた。
するとおもしろいことが分かった。

創設は昭和39年。この地が選ばれた理由はHPを見る限りでは分からなかったが、校舎の設計にはあの丹下健三が携わっていた。
学園には幼稚園から小学、中学、高校、大学とすべてそろっており、中学・高校は高2まで男子部と女子部に分かれているが、高3で合流するという奇妙は方式をとっている。
中学・高校は1学年1000人を超えるマンモス校なので、学力の差が大きいらしい。

創立7年目で甲子園に初出場・初優勝という偉業を成し遂げ、以来、甲子園出場は春5回、夏6回という実績を持つ。サッカーやラグビーも全国優勝の経験がある強豪校だ。
学業の方でも90年代には東大合格者数が100人を超えることもあり、「神奈川御三家」とまで言われたが、近年はなぜか10人前後に低迷している。

卒業生で有名なのは、何と言っても時の人、巨人の高橋由伸新監督だろう。
ほかには、アナウンサーの小倉淳、俳優の織田裕二に水嶋ヒロ、タレントの西川史子、アーティストのデーモン閣下、漫画家のやくみつるなど個性豊かな人材を輩出している。

バス停から神社の階段を登った。
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その名も「鐵神社」。「くろがね」と読ませるらしい。
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「由緒 沿革」を記した説明板には、「新編武蔵風土記稿」によると、天文年間(1533~1555年)の創建と伝わる、と書かれている。
当初は青木明神もしくは杉山明神と呼ばれていたが、明治初年に上鐵、中鐵、下鐵の3か村が合併して鐵村が成立したのを機に、神社名も「鐵神社」に改めたという。
なお、現在の本殿は昭和45年、鳥居は昭和49年に建立されたものだ。

境内には摂社が二つある。
ひとつは山倉山大六天王尊。
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もうひとつは瘡守稲荷。
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これは皮膚病の神様で、明治38年に鐵村の臼井太郎吉が、耳を病む五女ワカの治癒を稲荷に祈願するとたちまち快癒したので、ここに瘡守稲荷を請願して塔を建てたのだという。

さて、「鐵村」なる地名だが。
てっきり消滅した地名と思っていたら、「鉄町子供の遊び場」なる表示を見つけたので、調べてみた。
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なんと現役であった。
桐蔭学園の住所そのものが、横浜市青葉区鉄町であった。

この周辺はかつて鐵村であったが、1889年に周辺12か村と合併し、都筑郡中里村大字鐵となった。
その後、1939年に横浜市に編入され、鉄町と改称された。

その字面から、古代・中世の製鉄と関係のありそうな地名に思えるが、その関連を示す証拠は確認されていないという。
鎌倉時代には「黒金」と表記されていたことから、語源は「畔曲(くろがね)」で、畦道が曲がっているところという意味ではないかという説もある。
「柿生」といい、「鐵」といい、こんな郊外の住宅地にも、それなりの由来があって面白い。

参拝した後、横浜桐蔭大学の校舎の西側に回り込む。
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このあたりにはまだ猫の額ほどの畑がまだ残っていた。
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左手の竹林の中に踏み跡があるので、それを下る。
「くそしるな」という看板が目を引く。
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これは「くそするな」という意味だろうが、このあたりの方言では「す」と「し」が混同しているのだろうか。
むしろ、「くそひるな」が訛ったものと考えた方が「ひ」と「し」の混同で理解しやすいようにも思う。

竹林の中には古い墓がいくつもあった。
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下り切って舗装道路に出ると、すぐ先に宗英寺の鎮守堂がある。
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石段の脇に、「石坂供養塔」の石柱を見つけた。
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境内はイチョウの落ち葉でいっぱい。もうすっかり秋も深まってきた。
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お堂の手前には力石が安置されていた。
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「萬助力石」という。
昭和51年に建立された説明板によると、文化・文政のころ、当地の住人で「力萬助」と呼ばれた村谷萬助が多摩川河畔より五里の道のりを一人で背負って来て、ここに奉納した石だという。

石には「奉納上鐵三十六貫余」と刻まれているので、重さは約130kgということになる。
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脇から下りるとその宗英寺。
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ここには庚申塔ではなく、めずらしい庚申幢(こうしんどう)があった。
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幢とは、筒形の幕に経文を書いて仏殿の飾りにした旗のようなもので、これはそれの石造版。初めて見た。
製作は江戸時代で、四角柱の3面に「見ざる」「言わざる」「聞かざる」が浮き彫りされているので、庚申信仰に関わるものだと考えられている。

寺の右の細い道を登っていくと、車道は終わり、道は竹林へと入っていく。
その前に「鉄火松跡」という石碑があった。
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これについても帰宅後調べてみた。
こんな話が伝わっているという。

このあたりは鐵村と早野村の境界に位置する。
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かつて両者に争いごとが起こり、裁判に持ち込まれた。
殿様の裁きは「真っ赤に焼けた鉄の棒を長く持っていた方が正しい」というものだった。
先手の鐵村はすぐに放り投げ、後手の早野村はすこし時間が後だったので鉄棒は少し冷えており、早野村の勝ちだった。
この裁判が、ここにあった老木の下で行われたので「鉄火松」と呼ばれるようになったらしい。
また一説には、このあたりで賭場が開かれていたからとも言われる。
博徒のことを「テッカ師」と呼んだことにちなむらしい。
その松が昭和18~19年頃に枯れてしまい、22年1月4日に伐採されたとのこと。
1本の松を偲んで碑まで建てられるとは、よほど親しまれていたのだろう。

ここから竹林の中に入る。
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まわりはみな住宅地だが、なぜか、標高70mほどのこの稜線だけ開発を免れている。
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ものの5分で通り抜けて、出たところがもみの木台。
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丘陵地を切り開いてつくった新興住宅地である。

目指すはふるさと札幌にも同じ地名がある「すすき野」。
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由来はかつて、付近にすすきが多く見られたからだという。
「すすきの」の地名は札幌が有名だが、あちこちにあるようだ。
相模原にもある。すすきはとくに珍しい植物ではないから。すすき野も全国に多かったのだろう。

町名表示板を確認して、「すすき野二丁目」バス停から、12:59発の東急バスに乗る。
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1時間ほどの散歩だった。

行き先は、往路とは違い、東急田園都市線あずみ野駅。
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駅前の食堂でステーキランチ(850円)を食べ、大手町の会社に戻った。

(おわり)
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