長万部町の町民センターで停滞中。
「鉄道村」の展示室を見学し終えて、次のコーナーへ。
これは、さっき行ってきた静狩湿原の航空写真。
ここは泥炭地なのだそうだ。
続いて、静狩金山の様子。
静狩金山が発見されたのは明治23年(1890年)で、大正6年(1917年)に採掘が始まった。
昭和8年(1933年)からは静狩金山株式会社が経営し、昭和15年頃の最盛期には従業員の数が1600人に達したという。
しかし、昭和18年、不要不急の金山は操業を休止するとの政府の方針により閉山することとなったのだとか。
採掘された金鉱石(石英安山岩)。
当時は鉱山の周辺に何百もの社宅が並ぶ賑わいぶりだった。
当時の製錬所や鉱山事務所。
函館本線の静狩トンネルと当時の坑道。
鉱山跡は現在も地形図に残されているが、集落は完全に消滅している。
もう閉山後75年以上経過しているので、ほとんど森に戻ってしまっている気がするが、いずれ訪ねてみたいと思っている。
(静狩鉱山歌)
次は、長万部出身の作家和田芳恵のコーナー。
和田芳恵は明治39年(1906年)生まれで、読売文学賞や川端康成文学賞などを受賞しているが、基本的には地味な作家という印象だ。
直筆の色紙。
作品群。実は1冊も読んだことはない。
埋蔵文化財の資料室に移動。
北海道式石冠と呼ばれる縄文時代の擦り石。
ナイフ形石器の接合資料。
同じ場所から出土した石器の破片を集めて、くっつくかどうか一つ一つ試していく。
くっついたものを重ねていくと、縄文人が石材をどのように割って石器を作ったのかがわかるという非常に貴重な資料だ。
北方文化との交流を示す石刃。
新聞でも紹介されたようだ。
静狩貝塚の解説パネルもあった。
お次は民俗資料。
昔は「長万部劇場」なんて施設もあったのか。
昭和14年(1939年)に改築されたばかりの長万部駅舎。まだ木造だ。
昭和30年代だろうか、賑わう長万部駅前商店街。「蟹めし」の文字も見える。
長万部町の変形マンホール。アヤメは町の花である。
町民センターの南隣に植木蒼悦の記念館が建つ。
十字架があれば教会に見えるような建物だ。
無料だったが、時間の都合で見学は割愛。次の機会に。
というわけで、やっと長万部温泉街に移動。
まずは温泉街のはずれにある大円寺に啄木の歌碑を訪ねた。
かなり立派な寺院である。
歌碑は前庭にあった。「かの旅の夜汽車の窓におもひたる我がゆくすゑのかなしかりしか」
啄木は明治41年(1909年)4月19日、小樽から夜汽車に乗って長万部で夜を明かし、翌朝8時40分に函館に着いたという。
それが最後の函館だった。
啄木の歌はとても分かりやすく、胸にすとんと入ってくる。
温泉街には全国各地どこにでもある廃屋。
中央にある長万部町の町章は「長」の字を図案化したものである。
長万部温泉の中でも最も人気があるのが、この丸金旅館。
源泉100%でもちろん日帰り入浴可能。最初はここに入ろうと思っていたのだ。
その向かいには長万部温泉ホテルが構えている。
丸金の隣に、温泉旅館もりかわ。建て直して間もない感じだ。
丸金の向かいに巨大な石碑が立っていた。「長万部温泉発祥之地」である。
石碑の説明によると、この温泉は町の天然ガス試掘の際、昭和30年(1955年)に湧出したそうだ。
その後、温泉街が形成されたというから、かなり新しい温泉なのだ。
スナックけい。これは廃業しているようだ。昔は温泉客で大いに繁盛したのだろうに。
スナックキャンドルは何とか生き残っているのだろうか。
ホテル四国屋は、四国出身の人が創業したのかしら。
温泉旅館の「昇月」。見た目は地味だが現役である。
ホテルあづま。長万部温泉なんて実は聞いたことがなかったのに、かなりの数の宿があってちょっとびっくりだ。
カフェバーMIMOZA。
福屋旅館は建物はきれいだが、廃業したっぽい。
150mほどで温泉街は終了。長万部保線管理所の前で引き返す。
温泉街の雰囲気。
昔はもっと華やかだったのだろう。
これらは昔、何か商売をしていたのかなあ。
長万部町の町章と町の花アヤメを大胆にあしらったマンホール。
脇道に入ると、もう1軒あった。温泉大成館。
脇道の突き当りにビジネスホテルエクセルイン。
ここは温泉を引いているわけではないようだ。
大成館の向かいには廃業した旅館が残る。
こちらが玄関だが、宿の名称は分からなかった。
庭の池の縁石は遺跡のように残っていたが。
温泉街を後にして、駅前通りの銭湯栄湯に行ってみたら、廃業していた。
いくら「廃」が好きな私とはいえ、こういう施設は現役で頑張っていてほしいだけに残念だ。
こうなったら、ついでに長万部町役場のコレクションもしてしまおう。
かなり新しく立派な庁舎であった。
1998年に竣工したらしい。
長万部は難読地名の入門編として全国的にも知られた町だが、人口はピーク時の3分の1にあたる5000人余りしかいない。
立派な町民憲章の石碑。
役場の周辺には、このほかにもいろんなモニュメントがあった。
こちらは長万部開基110年を記念したもの。
昭和58年(1983年)に建立された。
北海道新幹線の長万部駅は当然高架化されるようだ。
花壇。花時計にはなっていない。
かなり古びた長万部町商工会。
もう12時半近いので、さすがにお腹が空いてきた。
なにかいい店がないか探しながら進む。「てんぷら幹」。天ぷらという気分ではない。
検索して、ここは?と思った中華料理屋は休業日だったので、やむなく南下を続ける。
国道沿いにもいろいろあるが、かにめしが食いたいわけではない。
だからこれらはスルー。
この迎賓館風の「長万部市場」は見事に廃墟。
カニの巨大な広告塔が泣いている。
この建物もおそらくドライブインだったと思われるが、もぬけの殻。
ゲーム・お食事のビクトリーも時代に付いて行けず。
ラーメン、そば、洋食、弁当、売店など幅広く展開していたドライブイン「ヒデ」も森に還ろうとしていた。
長万部郊外の国道沿いは廃墟街道の様相を呈している。
もちろん、現役ばりばりのかにめし屋や成功したレストランもあるのだが。
しかし、私の好みではないので、見送った。
ちょっと、ごちゃごちゃしたゲストハウスの前を通過。
なおも、廃レストランは続く。
道の駅風の店構えだが、「漁師の家」もつぶれてしまった。
極めつけはファミリーレストラン「アイドル」。
さっきの迎賓館もそうだが、こういうタイプは絶対成功しない。
成金が道楽気分で始めた商売に違いないからだ。趣味が悪すぎる。
国縫まで南下してきた。
2014年3月に閉校した長万部町立国縫小学校。
かつては「国縫」を「訓縫」と書いたこともあった。
5年前に閉校したばかりなので、校舎はきれいに残っている。
ただ、とくに再利用されている気配はなかった。
5年前に時計が止まったままだった。
校庭にシャクシャイン古戦場跡の碑が立っていた。
シャクシャインは1669年に和人の不当な扱いに立ちあがったアイヌの英雄である。
(「1906函館本線」につづく)
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