【2018年4月21日(土)】積丹半島
積丹出岬灯台の見学を終えて駐車場へ。
眼下に見えているのは入舸集落。

そして入舸の港。

黄色く咲いているのはスイセンかな。

神威岬に向かう途中、海岸越しに積丹岳(1255m)が見えたので、思わず車を停めた。

右の余別岳(1298m)は雲に隠れているようだ。
余別集落に、高1の時に泊まった積丹ユースがまだあった。懐かしい。

島武意から20分ほどで神威岬の駐車場に着いた。

しかし、猛烈な風が吹いている。

気温が高めなので助かるが、カメラがブレてしまうほどの強風だ。

西海岸方面の奇岩。

神威岬灯台に向けて、チャレンカの小道を行く。

ひどい向かい風だ。

右手に何やら、土管のようなものが。

な、なんと、岬への道は強風のため通行止めになっていた。

ああ、あそこまで行きたかったのに。

山でもないのに、こんなことになるとは。

その昔、ここは女人禁制の地だったそうだ。

強行突破しようにも、やはりこの風では危険なので諦めることにした。

でも、来た道を戻るのも癪なので、あの構造物を確認して帰る。

どうやら電磁台と呼ばれるものの遺構のようだ。

ロシア軍の動きを探知するため、昭和15年(1940年)に設置された電波探知塔の一部だそうだ。

ここはちょっとした展望台になっていた。

実は、かつて海岸沿いにも岬に通じる道があった。

右下の黒い部分がそのルートにあった「念仏トンネル」だろうか。

ここからも積丹ブルー。

荒々しい断崖が続く。

こんなに強い風が吹いているのに、不思議なことに兎が跳んでいない。

もう一つ先の展望台に向かう。

ここからは岬の陰になっていた神威岩が姿を現した。

絶景だ。

でも、灯台から見下ろしたかったなあ。

また、花の名前が思い出せない。

余別岳方面。

西海岸方面はかなり霞んでいる。

最後にカムイ番屋に寄ってみよう。

お土産物などをひやかしたが、とくに何も買わず、帰路につく。
神恵内まで国道229号を南下し、トーマル峠を越える。
眠くなってきたので、古平町のセタカムイ岩で車を停めて、10分ほど仮眠。

すっきりして運転再開。
忍路あたりで新しいトンネルができていたので、帰りは旧道を通ろうとしたら、何と通行止めになっていた。

あの景色のよかった道も廃道になってしまうのか。

調べてみたら、新ルートは今年3月17日に開通していた。
小樽開発建設部では、該当区間が落石・崩壊、岩盤崩壊等の危険箇所が多いということで迂回ルートを建設してきたようだ。
この区間(約3.5km)に人家がないので、旧国道は不要になるということなのだろう。
旧忍路トンネルも桃内トンネルも坑口が埋められてしまうのか。
防災のためには致し方ないのかもしれないが、残念でならない。

桃岩を眺めて、今回はおしまい。

帰宅は18時頃だったと記憶する。
(おわり)
スポンサーサイト
【2018年4月21日(土)】積丹半島
いい天気だけど、風が強い予報だったので、山歩きは止めて、久しぶりに積丹半島へドライブに出かけることにした。
のんびり朝食を摂って、9時半頃に出発。
銭函ICから札樽道に入って、小樽、余市を過ぎ、11:15頃、古平市街を通過。

T字路の正面にあるので、否応なく目に入る「中央旅館」だが、まだ現役らしい。
8室あり、1泊2食6500円から、とのこと。
この先の美国で観光案内所に寄って、観光パンフレットをゲット。
坂を登って、高原に出ると、真っ白な積丹岳(1255m)が左手に現れた。

もう、いい時間になったので、お昼にすることにした。
積丹と言えば、うに丼である。
観光パンフを見て、お店を選んでみたが、元祖の「みさき」など、めぼしい店はまだシーズン前とのことで営業していない。
というわけで、幸いこの日から店を開けたという入舸の中村屋へ。

「地元のウニは6月以降なので、この時期は北方領土産になります」とのことだったので、2800円のうに丼はあっさり断念。
1300円の刺身定食にした。

これはこれで、結構美味しかった。
第4テーブルに座ったので、伝票にはこんなふうに書かれていた。

まあ、「似ている」とよく言われますけど。
腹も落ち着いたので、観光を始める。
まずは島武意海岸。

駐車場が高台にあるので、ここからも積丹岳や余別岳(1298m)を望むことができた。

眼下は入舸の集落。

立派な売店兼レストラン「鱗晃」があったが、食べたばかりなので中には入らず。

その奥にある「レストハウスしまむい」は営業しているのかどうか分からなかった。

確かに今日は風が強い。山に行かなくて、よかったわ。

海岸に出るには、このトンネルをくぐっていく。

実は、この日の朝のテレビで、まさにここが紹介されていた。

トンネルを抜けると、立派な展望台になっている。

そして、このパノラマ。素晴らしい演出だ。

左にある巨大な岩は屏風岩と呼ばれているそうだ。

もうちょっと奥まで覗いてみた。

かなりの迫力である。

こちらは右手の眺め。

これが積丹ブルーというやつか。

本体側の地肌は黄色く、火山灰っぽく見える。

これもまた奇観と言えよう。

観光客の方々も、ひっきりなし。

それにしても風が強いので、あちこちに白波が立っている。

地元の方が、それを「ウサギが跳ぶ」と表現していた。漁師言葉らしい。

黄色い斜面をよく見ると、桟橋の残骸が残っている。

海岸へ下りる旧道の跡かもしれない。
海岸まで立派な遊歩道がついているので、せっかくなので下りてみた。

途中、斜面にカタクリが咲いていた。山の花だと思っていたから、びっくり。

少し低い位置から見た屏風岩。

ここは「日本の渚百選」に選ばれているそうだ。

かすかに石垣の跡が分かる。

その角の部分。

こちらは、しっかりと残っている。何だろう。

漁業の作業小屋もあるが、今は使われてはいなそうだ。

さらに下りると、本当に屏風のように見えてきた。

右手には、尖った岩も見えてきた。

しっかり残っている石垣には、なにやら銘板がはめ込まれている。

「紀念 斎藤丈雄 大正六年五月 石工中村我一郎」と読める。

調べてみると、屋号ヤマカギの斎藤家のニシン番屋の跡だそうだ。

初代は斎藤彦三郎(1831~1907年)。青森県脇元村(現五所川原市)の出身で、鰊角網を発明した漁業家である。

1847年、17歳のとき単身、松前に渡って、ニシンやタラの漁に従事。

後に、積丹の出岬(でさき)村に漁場を構えて鰊建網の改良に取り組んだ。
1885年、同じ青森県(小泊)出身の二代目秋元金四郎とともに定置角網(建網)の開発に成功し、ニシン漁法に一大革命をもたらした。
嗣子の丈雄は、入舸・余市などに計19統を持つ大漁業家となり、1931年には、合同漁業会社を設立し、故郷脇元村に豪邸を構えたという。

というわけで海岸まで下りてきた。

石浜であった。

入江なので、意外に波は静かだ。

積丹キャニオンと命名。

それでは戻るとしましょう。

ほんとに、きれいな海でした。


トンネルを抜けて、今度は積丹出岬の方へ向かう。

この道は逆方向で、積丹岬方面。

上にも島武意海岸を見下ろす展望所があった。

私が高1の時(1978年、なんと40年前!)に自転車で積丹に来た時は、おそらくトンネルはなかったので、ここから海を眺めたのだと思う。
全く記憶にも写真にも残っていないが。
ここから積丹出岬灯台まで約800m。

風に逆らって歩くうち、かわいい灯台が見えてきた。

塔の高さは13mだが、高台にあるので、灯光の高さは141mもある。

初点灯は昭和40年(1965年)なので、比較的新しい。

灯台の横は展望広場になっていた。

案内板は亀裂が縦横に入っていて、もはや判読不能。

眼下の断崖。

東方面は、まさに積丹キャニオン。

お~こわ。

女郎子岩は陰になっていて見えない。

ここの地質は、一体どうなっているのだろう。

どうも不思議に思って調べてみたら、ここは変質帯と呼ばれる地質であることがわかった。
北海道地質百選によると、島武意海岸の黒く見えるのは角閃石安山岩で、黄色い部分は変質して完全に粘土化し、全体に黄鉄鉱が見られるという。
なぜ変質したのかの解説はなかったが、やはり特殊なところだったんだと分かって、ちょっとうれしかった。
PM2.5の影響か、積丹岳は近くにあるのに霞んでいる。

谷あいにたたずむ幌武意集落。

光達距離は21海里だそうだ。

昭和62年に改築もされていた。

女郎子岩はちょっと遠いので今回は諦めて、駐車場に戻ることにした。
足元にはフキとフキノトウが生えていた。

昔からフキとフキノトウはどう違うのか不思議に思っていた。
フキノトウが成長するとフキになるのかな、なんて漠然と思っていたが、どうもそうではなさそうだ。
成長したフキノトウもよく見かけるが、あれがフキになるとは到底考えられない。
調べてみたら、実はこういうことだったのだ。
フキノトウは蕗(フキ)の花、フキは茎のように見える部分も含めて蕗の葉なのだそうだ。
蕗の茎は地中にあり、花と葉は地面に別々に出てくるのだとか。
だから、もちろんフキとフキノトウは同じ植物であり、出てくる部位が違うだけだったのだ。
となると、蕗は花が先に出てきて、葉っぱは随分後に出てくるということになる。
この写真のように、一緒に出てくるのは珍しいのかも。
もしかしたら、違う茎なのかもしれないが。
(つづく)
【2018年4月15日(日)】増毛
今年2回目の増毛である。今回も仕事だ。
本当は仕事の場合、マイカー使用禁止なのだが、休暇ということにして、マイカーで出かけた。
9:30過ぎに自宅を出発。
国道231号を北上する。天気は雨。前回は雪だった。
ここのところ週末の天気はよかったのに、ちょっと残念。
沿道は雪解け直後ということもあり、フキノトウがたくさん生えていた。
浜益区濃昼のあたりで、ちょっと旧道に入ってみた。

旧道自体はすぐに通行止めになった。

徒歩なら抜け道はあるけれど。

近くにあった小屋はバス停の跡か。でも、入口の向きがおかしい。

ちょうどこの地点が濃昼山道の入口であった。

濃昼山道は、1857年(安政4年)に幕府の命を受けた厚田場所請負人・濱屋与三右衛門が自費で完成させた、厚田区安瀬から濃昼までを結ぶ長さ11kmにおよぶ山道である。

完成後は庄内藩による北方警備の要路として、また地域住民の生活道路として100年以上にわたり利用されていた。

しかし、1971年に国道231号が開通してからは通行者が途絶え「忘れられた道」となっていた。
今は整備されて、気軽に歩くことができるようなので、いつか来ようと思っている。
山道のすぐ脇に沢があり、雪解け水が流れていた。

振り返ると、濃昼の集落。

フキノトウが一面に生えている。

斜面にもたくさんあったので、若いのを中心に少し摘んでみた。
帰って、天ぷらにしたら、めちゃめちゃ旨かった。

では、増毛に向かって出発。
浜益トンネルを抜けたところにある白銀の滝で小休止。

5分ほど眠った。
国道231号は旧道も多いので、いずれ自転車で走りたいと思っている。
実は、大金をはたいてクロスバイクを買ってしまったのだ。
12時半に増毛町に到着。まずは腹ごしらえ。
前回入ろうとして止めた、駅前の寿し忠にした。

カウンターは埋まっていたので、奥の座敷へ。
ここのタコザンギは「タコのやわらか揚げ」(500円)というタイトルだった。
もちろん、これは名物なのでいただきます。

あとは握り寿司の中(1300円)をオーダーした。

まあまあ普通だった。
食後はリニューアルした増毛駅を見学。

中には、ぐるめ食品が売店を出していた。

ここでもタコザンギを販売している。400円。こっちにすればよかったか。

拡張されたスペースには、廃止された留萌本線(留萌~増毛間)の写真パネルが展示されていた。

増毛駅は2016年12月5日をもって廃止された。

でも、町としては、ふるさと歴史通りの起点として、駅舎を保存。

8800万円をかけて、無人化(1984年)によって縮小された駅舎を、それ以前の規模に復元した。

高倉健主演の「駅 STATION」のロケが行われた1981年の姿がよみがえったわけだ。

もちろん、当時はこんなにきれいではなかったが。

ホームには、滝川市生まれの彫刻家、五十嵐威暢作のモニュメントが設置されていた。

「テルミヌスへの願い」という題のようだ。テルミヌスとはターミナルの意味。

線路は雪の中に消えている。

でも、増毛にもやっと春が来た。

増毛駅は1921年(大正10年)11月の開業。

2014年の1日平均乗客数は11人だったそうだ。

レールは留萌まで残っているのか。それとも増毛駅周辺だけか。

とにかく廃止前に乗っておいてよかった。

新たによみがえった増毛駅は賑わってほしいものだ。

やはり廃止は淋しい。

背後に増毛灯台。

こちらは駅の向かいにある観光案内所。

映画では「風待食堂」としてロケに使われた。

中に、倍賞千恵子演じた桐子の赤ちょうちんが再現されている。

館内では、映画で流れていた「舟唄」がかかっていた。

さよなら列車のヘッドマーク。

映画で増毛ホテルとして使用された日本通運増毛営業所の写真。

この味わい深い建物は日通が撤退して、ぐるめ食品が買い取ったが、その後、取り壊して駐車場にしてしまったという。
恨みます。
雄冬岬を山で越える増毛山道の地図。これもいずれ行かなくては。

なんと、健さんは増毛駅で車のCMにも出ていた。三菱ギャランΣだ。懐かしい。

ふるさと歴史通り。

かなり古い旅館のようだが、絶賛営業中。

国重要文化財の旧商家丸一本間家の前を通過して、日本最北の蔵元「国稀」へ。

仕事前にちょっと寄り道する。

大きな杉玉。

中に入ると、髪の毛の薄い人にご利益のありそうな駅名標が。

私は、つるつる行き一直線だが。

とにかく、のれんをくぐる。

これは一升瓶ならぬ一斗瓶。右端が一升瓶なので、その大きさが分かろうというもの。

その他、展示あれこれ。

戦後から等級制が廃止される平成4年まで製造されていた「万歳国稀」。やや辛めの二級酒だった。

やや甘めの一級酒だった「乾杯国稀」。

映画のロケは国稀でも行われたらしい。

車なので、残念ながら利き酒はできなかった。

本日の目的は実はこれ。

1時間半にわたり半生を語ってくださいました。

午後4時半に終了。役場の駐車場に置いておいた車に戻る。
その途中にあった願王寺。

増毛は古い町なので寺院が多かった。

それでは、増毛よ、さようなら。

2時間ちょっとかけて帰宅。
利き酒はできなかったが、純米吟醸の「極」を買ってきた。
おいしうございました。

(おわり)
【2018年4月8日(日)】蓬莱山
中山峠スキー場の頂上にあたる蓬莱山(980m)には、この冬のうちに登りたいと思っていた。
この週末は土日ともぐずつき気味の天気予報だったので、お出かけは諦めていたのだが、日曜日は前日になって好転してきたので、この機会に決行することにした。
1時間ほどで登れそうな山なので、8時まで朝寝坊して、9時半に出発。
せっかく土曜日に洗車したばかりなのに、夜中に雪が降ってしまい、げんなりだったが、路面は早々に乾いてくれたので助かった。
その分、きれいに晴れていた青空に雲が広がり始めてしまった。
途中、藤野のセブンイレブンに寄って、飲み物を購入。
中山峠には10時半過ぎに到着した。わりと早かった。

中山峠森の美術館方面から蓬莱山の山頂近くまで林道が通じている。

なので、わりと奥まで車で行けるかと期待していたが、美術館を過ぎると、すぐ積雪に阻まれた。

行き止まり地点には、スノーバイクを運んできたと思われるワゴン車などが3台あって、もう車を停めるスペースがない。
やむなく、道の駅望羊中山の駐車場まで戻り、車はそこに駐車。
スノーシューを手に持って、さっきの行き止まり箇所まで、ツボ足のまま歩いて行った。
雪は固そうで、雪の上もツボ足でも大丈夫そうだったが、スノーシューを持って歩くのもばかばかしいので、もちろん装着して行く。
中山峠の標高は830mなので、本日の標高差は150mということになる。

林道は完全に雪に埋まって道筋ははっきりとは分からないので、とりあえずスノーバイクの跡をたどっていく。

少し登って、左に大きくカーブすると、広い雪原に出た。

せっかくなので、バイクのトレースを外れて、自由に歩いてみた。
今朝までの降ったと思われる新雪が2~3cm積もっていて、その下は固く締まっていたので、気持ちよく歩くことができた。
小さな高まりに立つと、電波塔が林立する蓬莱山の山頂が望めた。

それを越えて再び、林道に出る。
時折、独立した木々の家族がいる。


蓬莱山の山頂は右手に見えるが、道は左。
地形図を見ても、林道は少し回り込んでいるので、とくに疑わず、左へ。
間もなく、その道も大きく右に旋回した。
まわりはあまり密ではない森だが、歩いているところは帯状に木々が伐採されている。
その端に電柱が続いているので、歩いているのは林道であることが確かめられる。

傾斜はかなり緩やかで、全く汗をかかない。

それでも、動いていると暖かくなってきたので、ゴアの下に着ていたダウンのベストを脱いだ。

30分近く歩いたところで、北海道電力の中継塔の前を通過した。

ここで、さらに右に屈曲し、蓬莱山の尾根を進む。

山頂付近には、なだらかな山に似つかわしくない大きな岩がいくつかあった。


大福のような突起の横を通過。

四角い人工物のような岩をのせた巨岩の下を進む。

終盤はさすがにちょっと傾斜が出てきたが、難なく登れた。
右手に展望が開けてきた。
白いのは喜茂別岳(1177m)。その手前の三角が小喜茂別岳(970m)。

こののっぺりした斜面が不思議だ。

頂上に立っているのはNHKの中継塔だった。

ここまでリフトが通じていたようだが、今は使用されていない。

リフトは以前3本あったようだが、現在営業しているのは第一ペアリフトだけだ。

見えているのは、上級者向けのダウンヒルコース。
小さなジャンプ台みたいなものが多数設けられていた。

頂上には中継塔が3本。残念ながら山名板は見当たらなかった。

山頂に通じる第二ペアリフトの営業を止めたのはいつのことなのかは調べ切れなかったが、第三セクターだった「中山峠健民センター宝乗山スキー場」からルスツ・スキーリゾートを経営する加森観光に移管された2003年のことなのかもしれない。

老朽化や利用者減ということもあったのだろう。

頂上付近もなだらか。

中山峠スキー場は天然雪のスキー場としては日本で最も早く営業を始めるところとして知られている。

今シーズンは11月19日にオープンした。
でもハイシーズンは積雪が多く、ルスツの営業期間とかぶるため休業。12月11日~3月31日までクローズして4月1日から営業を再開している。

春は5月13日までの予定で、それ以後も積雪の状況によっては土日のみ営業するという。

過去の最も遅い営業終了日記録は2013年の6月2日だったそうだ。

支笏湖方面の山。

さっき見た巨岩を別角度から。

期待していた羊蹄山(1898m)は残念ながら見えなかった。
少し風があって寒いので、退散。
足元には、シールスキーで登ってきた人の痕跡があった。

再び喜茂別岳。

第一リフトの頂上駅に向かって進む。

白く光っているのは、おそらく中岳(1388m)

無意根山(1464m)がかすかに見える。

今日は日曜日だが、そんなに混んでいない。

ルスツとすみわけしているとはいえ経営は大丈夫だろうか。

やはりコースが少ないのが難点なのだろう。

眼下に駐車場が見えたが、車は路駐になるほど、お客さんは来ているみたいだが。

私が登ってきたルートはスキー場のファミリーコースということになっているようだが、誰も滑っている人はいなかった。
おそらくコースとして認識されていないと思う。
同じ道を戻りなくないので、あえて森の中に入って行った。

再び、中岳方面を望む。

白い帯がゲレンデだ。

今度はスキーで来てみようかな。

というわけで、間もなく林道に合流。
12時半すぎに中山峠まで下りてきた。

小腹が空いたので、名物のあげいもを食べていくことにした。

結構、並んでいた。

食べる前に顔ハメ。

それではいただきます。

でも、これだけでは足りないので、下界に下りてきてから、本格的に昼食。

簾舞の「鬼そば」に立ち寄った。
煮干しでだしをとった塩ラーメンをいただいた。

私には麺が固めだったが、スープは抜群に美味しかった。
というわけで本日の山行は終了。
2週間ぶりに春雪の感触を味わった。
【行程】2018年4月8日
中山峠(10:50)~登山口(10:55装着等11:05)~北電中継塔(11:30)~蓬莱山(11:50撮影11:55)~中山峠(12:35)
※所要時間:1時間45分(歩行時間1時間30分)
※登った山:1座(蓬莱山)
※歩行距離:4.0km
※累積標高差:150m
【2018年4月5日(木)】栗山
本日は、栗山町でお仕事。
レンタカーで札幌市内を9時過ぎに出発した。
お約束の時間は10時半なので、安全策をとって道央道を利用した。
江別西ICで下りて、国道337号を南下。
途中、南幌町の中心部で古い木造の家屋が目に留まったので、車から下りて撮影。

旧幌向駅逓所だった。

1912年(明治45年)に松田与三によって、この場所に開設されたものだ。

1930年(昭和5年)の夕張鉄道開通によって、翌年11月に廃止されたという。

向かいには菩提禅寺という寺があった。

ついでなので、こちらも記録に留めておいた。

栗山町に入ると、大きなレンガ造りの建物が並んでいた。

「北の錦」を製造している小林酒造であった。

仕事は栗山駅舎内にある栗山町史編さん室で。
1時間ほどで終了。
会社に戻る途中に少しだけ寄り道することにした。
まずは、室蘭本線栗山駅の車両倉庫。

栗山町役場。

町民憲章のモニュメント。

駐車場の奥にあった営繕作業所。

小林米三郎氏の銅像。米三郎は小林酒造の創業者である。創業は1878年(明治11年)。

こちらは泉麟太郎(1842~1929年)の銅像。

栗山開拓の父である。

国道234号を北上。
右手に栗山トンネルが見えてきたので、車を停めて撮影。

ちょうど、雪が解けて、草も生えていなかったので、革靴でも侵入しやすかった。

栗山トンネルのある栗山~栗丘間は複線だったが、下り線が1990年4月23日に崩落。以来、復旧されることなく、単線になってしまった。

もう30年近く経っているが、見た目はあまり劣化していないように見えた。

でも、外側のコンクリートは一部、剥がれ落ちていた。

一旦、外に出て外観を撮影。

崩落箇所の南側にも行ってみた。

これが、まさに崩落箇所。

立入禁止となっているが、ちょっとごめんなさい。

崩落箇所の南側から南の方角を望む。


北側(つまり崩落箇所)を望む。

しばらく歩いて、トンネルを出ると、まさに廃線跡であった。

背中を向けているのは、立入禁止の看板のような気がする。

恐ろしいことに熊の糞が。

長居は無用なので戻りましょう。

それにしても美しい廃墟である。


外壁のコンクリートの劣化状況をもう一度確認して、トンネル見学は終了。

次は跨線橋。手前は廃止になった旧下り線。

奥が現役の線路。

この先に廃業した丸豊ドライブインがあった。

ここの息子さんが人身事故で相手を死なせてしまったことが廃業の理由とも伝えられる。

栗の森公園というところに寄ってみた。

東屋があった。

広域農道の周辺整備事業の一環としてつくられたらしい。

陸橋から室蘭本線と国道234号を俯瞰。

ここは絶好の展望スポットだ。

室蘭本線の方に注目しよう。

右が廃線となった旧下り線。レールの色が違う。

反対側(北の方角)。左が旧下り線となる。

というわけで上下両線を確認できたところで、出発。

夕日ヶ丘レストラン善生。今日はお弁当を持ってきているので通過。

国道234号に戻る。

栗沢駅にも立ち寄り。

駅前には赤レンガの倉庫が並んでいた。


日の出交通の栗沢営業所もあった。

その裏側。

駅前通り。

栗沢駅は1894年(明治27年)10月、北海道炭礦鉄道の清真布駅として開業。

栗沢駅に改称されたのは、1949年(昭和24年)のこと。

1989年11月に新築された駅舎だ。

無人化されたのは1984年4月。

ホームはかつて2面3線だったが、栗山トンネルの崩落のため1面1線となった。

島式ホームが廃止されたので、跨線橋の階段は封鎖され、その下には何もなくなった。

跨線橋自体は1955年(昭和30年)12月に設置されたものだ。

跨線橋は今、駅前と駅裏をつなぐ陸橋として活用されている。

現役ホームも柵もこの通り。お金がないので手入れが行き届かないのだろう。

この駅名標も廃線寸前の色合いだ。

岩見沢方面。

ここは栗山、栗丘、栗沢と続く「くりくりゾーン」である。

ホーム側から見た駅舎。

苫小牧方面。

なんだかさみしいねえ。

引き込み線のホーム跡。

栗沢市街の古い建物をいくつか。


次の志文駅に向かう途中で見つけた廃バス。

乗合バスのようだがバス会社は分からなかった。

志文駅に到着。

志文駅は1902年(明治35年)8月1日、北海道炭礦鉄道の貨物駅として開業した。

この駅から、かつて万字線が分岐していたが、1985年に廃止されている。

万字線廃止にあたり、外側の2線が廃止されて、現在は2面2線の相対式ホームになっている。

1日の乗客数は2012~16年の5年平均で14.6人だそうだ。

駅名の「志文」は、アイヌ語の「スプンペッ」(ウグイ・川)に由来する。

跨線橋はかなり古いがしっかりしている。


苫小牧方面。

濁点を増やすと「じぶん」になる。

岩見沢方面。

それにしても、いい天気。

駅舎は1988年に新築されたものだ。

駅舎内の待合室は実に簡素。


駅前通り。

以上で、寄り道は終了。国道12号経由で帰社した。
(おわり)
【2018年3月31日(土)】帯広・函館
函館の中島廉売で昼食を済ませて、荷物を預けてあるホテルに戻る途中。

目の前で電車が行ってしまったので、次の電停まで歩くことにした。

古い建物は記録に留めておく。

こういう普通の民家も例外ではない。

新川町電停に着いたら、ちょうど電車が来ていたので飛び乗った。今度は間に合った。

札幌行き特急の時間までまだ余裕があるので、もう少し寄り道することにして、大町電停で下りた。

目的地は、高倉健主演「居酒屋兆治」で函館警察署としてロケが行われた函館市臨海研究所。

奥さん役の加藤登紀子が迎えにきたシーンを思い出す。

ここは箱館郵便役所跡でもあった。

さらには沖之口番所跡でもあった。

近くにあった美しい廃屋。

探見倶楽部「海‘s」の事務所。

振り返ると、いつも函館山。

函館駅に向かって歩き出すと、ものすごい廃墟が姿を現した。

かつて製氷所だったところらしい。


かなり傷んでいる。

改修して再利用されるより、こういうのも残っていた方が個人的にはうれしい。

廃墟の裏にたたずむ男とネコを発見。

男は行ってしまったが、ネコは逃げない。

逃げないどころか、なんだかこびてくる。

これは怒っているのではなく、甘えているのである。

まるで駄々っ子だ。

倉庫の裏側。

どこまで行ってもネコは付いてきて、しかもすりすりしてくる。

観光客がエサをあげるので、人懐っこくなってしまったのかもしれない。
でも、製氷所の敷地以外には出ていかなかった。
きれいにお住まいの木造住宅。

電車通りに戻ると、高田屋本店跡の標柱があったが、高田屋嘉兵衛の店だろうか。

函館区公会堂が見える基坂。

北島三郎記念館が入居する函館ウイニングホール。

古くから開けたこのあたりは斜面が城郭のような石垣で固められている。

ここは日和坂。

末広町から電車に乗る。

函館駅前に到着。今年こそ、縄文遺跡群は世界遺産推薦を勝ち取れるか。

空にはいつのまにか雲が広がっていた。

函館駅はむかしの三角屋根の方がよかったと、個人的には思う。

形はおそらく青函連絡船をイメージしているのだろう。

左手に函館山。

一応、いろんな角度から撮っておこう。

このモニュメントは人間の親子なのは分かるが、四つん這いになっているのはカニのつもりだろうか(笑)。

ホテルに預けてあった荷物を受け取り、駅の売店でお土産とビールを購入して、改札を通過。

14:46発の特急スーパー北斗15号に乗車する。

こいつは、もうすっかりお馴染みになってしまった。

函館駅構内。

次の停車駅は五稜郭。

帰りも一応指定席をとっておいた。

3時間以上乗るので、お酒は2缶。

でも、残念なことに海側の席ではなかった。

新函館北斗駅手前で北海道新幹線を発見。

で、新函館北斗駅を通過。

大沼を通過する際に駒ヶ岳がきれいに見えた。これには感激。

森駅に着くまでに、ビールは空けてしまった。

16:24、長万部駅を通過。

左手に見えたのは写万部山(499m)かな。

この先で間もなく沈没。目が覚めたのは新札幌だった。
札幌には定刻通り18:41に到着。
18:43の小樽駅に飛び乗って、手稲駅に向かう。
帯広からの特急に置き忘れた水筒が手稲駅で預かっているとの連絡が入っていたからだ。
無事に受け取り、帰宅したのは20時前。
とにかく特急に乗りまくった出張だった。
(おわり)
【2018年3月31日(土)】帯広・函館
市電を使って函館市内を散策中。

シャッターが閉まっているのは朝だからか、廃業しているからなのか。

壁には昭和初期の函館市街を写した写真パネルが掲げられていた。

十字屋食料品店。

十字街の交差点にある操車塔。

交差点での電車信号表示とポイント切り換えを手動で遠隔操作をするための施設で、1939年(昭和14年)に建てられたそうだ。
1969年の時点で市内に6か所あったが、順次姿を消し、この操車塔だけが1995年まで使用されていたという。

十字街の交差点を渡ろうとしたら、谷地頭から湯の川行きがやってきた。

ここは谷地頭方面と函館どつく前方面との分岐点にあたる。

次いで谷地頭行きがやってきたが、こいつは見送る。

電車が十字街電停に停車。

発車後の十字街電停。

向かいに、坂本龍馬像があった。彼は函館には来ていないが、北海道開拓を夢見ていたという。

これはなんて建物だっけ?

十字街電停に到着。

1日乗車券で乗っているので、初乗り料金が210円であるのを初めて知った。

函館どつく前行きがやってきた。

乗り込んだが、ガラガラだった。

後ろの窓から湯の川行きを見送る。

やはり市電のある風景はいいな。

5分ほどで、終点函館どつく前に到着。

ここは車止めも何もない。珍しいかも。

折り返しなので、行き先表示は湯の川に変わった。

ちょっと散策しようと思ったが、この電車にもう一度乗ることにした。

湯の川まで結構時間がかかりそうだし。

市内を縦断し、50分もかかって湯の川に到着。

保線の方が手入れをしてくれていた。

こちらにはハードな車止めがあった。

乗ってきた電車は回送になって、さっさと行ってしまった。

さようなら~

でも入れ替わりに、代わりの電車がすぐやってきた。

五勝手屋号というらしい。

到着!

では乗り込みましょう。

時間節約のため湯倉神社の参拝は省略した。

これから仕事に向かうわけだが、行き先は北海道立函館美術館。
最寄りの駅は五稜郭公園前駅だが、一つ手前の杉並町で下りてみた。

ちょうど湯の川行きも到着したところだった。

誰もいない杉並町電停。

表通りを避けて、美術館へ向かう。

5分ほどで敷地内に入ってきた。

五稜郭タワーが見える。

10:20頃、美術館に到着。

このあと、ここで2時間ほどお仕事。

はい、終わったので、引き上げましょう。

帰り道に、旧函館商業高校の校門が保存されていた。

かつては美術館のある、この地に校舎があったのだろう。

あとは表通りを通って五稜郭公園前電停に向かう。

「若き星たち」という2002年の作品。函館ゆかりの偉人とは関係ないようだ。

フランスから贈られたというマロニエの木。

贈呈のいきさつは石碑に書かれていた。詳細は省略。

今、歩いてきた道は古戦場函館五稜郭街道と呼ばれているようだ。

五稜郭公園前電停に到着。

電車が来ていたので、あわてて飛び乗った。
お腹が空いたので、中島廉売という市場でお昼にすべく、最寄りの堀川町電停で下車した。

電車を見送る。

駅名標もきちんと押さえておかなくては。

電車通り沿いに「中島廉売入口」の標識を発見。

「皆様の台所」だそうだ。

早速、現れたのは八百屋さん。

屋台がたくさん出ている。

小樽駅前の三角市場のような生鮮食料品店の集中地区もあった。

その裏側はこんな感じ。

さて、食堂はないのだろうか。

ここは観光客にはまだメジャーではないみたいだ。

シャッターの下りた店も結構多い。

基本的には衰退している市場なのだろうが、観光で盛り返してほしいものだ。

中島れんばいふれあいセンターなる大きな建物があった。

中で、安いうどんなどを販売していたが、あまりに貧相なので止めておいた。
近くにあった寿司の立ち食いの店に飛び込み。

ランチ寿司が700円!

しばらく待って、おやじさんが目の前で握ってくれた。

2、3貫ずつ出してくれるので、きれいにそろった写真は撮れなかった。

稲荷も含め10貫(9貫だったかも)で600円。看板よりなぜか安かった。しかも、ちゃんと美味しかった。

持ち帰りもOKでした。

お隣はお豆腐屋さん。

中島廉売に別れを告げて、亀田川を渡る。

亀田川は函館市街を縦断して南側の大森浜に注いでいる。

どこにでも、こういう古い住宅はあるが、10年後に残っているかどうか。

函館商業に続き、函館工業高校跡の石碑もあった。

函工はそこそこ野球部が強かったはず。

こちらは昭和30~40年代の建築と思われる。

電車通りに出た。

千歳町電停である。

まずは湯の川行きがやってきた。

この昔ながらの車両が好きだ。

信号待ちをしているうちに谷地頭行きが来てしまった。

そして、あっという間に行ってしまった。

仕方ないので、もう少し歩くことにした。
(つづく)
【2018年3月31日(土)】帯広・函館
函館駅前から市電で谷地頭までやってきた。

ここで下りて、ちょっと散策。まずは函館市のマンホールを確認した。
国重要文化財の函館区公会堂がモチーフになっている。五角形はもちろん五稜郭。

電停前の商店街。

歴史のありそうな料理旅館「池の端」。

大きな屋敷もあった。沖野邸。

立待岬はちょっと遠いので、近くの谷地頭温泉へ。

結構立派な店構えだ。

「市営」の表記が外されていた。2013年に民営化されリニューアルされたらしい。

午前6時からの営業で、8時前なのに駐車場にはかなりの車が停まっていた。

函館バスの谷地頭温泉バス停。

小型のマンホールはハリストス正教会。

谷地頭町会館。公民館みたいなものだろう。

四つ角にある和菓子の市中屋。

その向かいに土産物屋さん。

谷地頭電停に戻ってきた。

でも、電車には乗らずに、このままぶらぶら十字街まで歩くことにした。

担々麺の専門店。

谷地頭バス停を通過。

廃業した飲食店?

なぜか店先に釣り具が売られていた。

青柳町電停への坂を登る。

おお、ちょうど電車がやってきた。

車両もレトロで、いい雰囲気。

電停はちょっとした峠の頂上にある。

古そうな木造の住宅。

でもなかなかモダンだ。

坂下の谷地頭方面を振り返る。

峠の上に青柳町のバス停。

が牛計測。「が牛(臥牛)」とは函館山のことだろう。

青柳町と言えば、やはり石川啄木である。

「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 やぐるまの花」の歌はあまりに有名だ。

ここも啄木が歩いた道なのだろう。

歩きだと電停撮影もできるので、うれしい。


逆側から。

あちこちにまだ木造住宅が残っている。

このあたりはやはり啄木をしのぶ散歩道になっているらしい。

函館のマンホール、イカバーション。

なんか古い建物が見えたので左折してみた。

小学校だった。

昔の校門かしら。

背後に函館山を望む青柳小学校である。

1934年(昭和9年)の函館大火の翌年に建てられた鉄筋コンクリート造りの校舎で、当時函館市の建築課長を務めていた小南武一(1897~1976年)が設計したという。
古く見えた建物は体育館だった。

校門の下には、しゃれた洋風の装飾が。

校庭の横にあった行幸記念碑。

その隣に創立百年記念碑。1878年(明治11年)の開校なので、今年140周年となる。

こちらが今の校門。

向かいには、小料理屋っぽい「桜路」。

アパートのような青柳町会館。

道端には早くもクロッカスが咲いていた。

電車通りに戻る。

単なる古い民家だが、こういうのは記録に残しておかなくては。

青柳坂。

昔は聖天坂と言ったが、昭和40年まで坂上に春日町があったので、「春日坂」と呼ばれた時期もあったという。

次の電停は宝来町。

ここでほぼ坂下まで下ってきたことになる。

ちょうど電車がやってきた。

電停の向かいにはキダチ写真館。函館は北海道の写真発祥の地である。

函館山に向かって坂がいっぱい。

この坂の付近に貝塚があって、アサリ貝がたくさん見つかったことから、あさり坂と呼ばれているとのこと。

その名を採ったすき焼きの老舗「阿佐利本店」。

1901年(明治34年)創業だそうだ。

精肉店が経営しているとのこと。

函館山の手前に大きな銅像が見えてきた。

たぶん高田屋嘉兵衛だろう。

この銅像があるのは護国神社坂。

坂下には千秋庵総本家があった。

護国神社坂の上にはもちろん護国神社。

中央分離帯には高橋掬太郎の歌碑があった。

掬太郎は函館日日新聞社の社会部長兼学芸部長を務めながら、小説や脚本を手掛けており、1931年(昭和6年)に作詞した「酒は涙か溜息か」が古賀政男作曲、藤山一郎歌で大ヒットした。

その奥に日露友好記念碑。

高田屋嘉兵衛が1813年にゴローニンの釈放を実現させ、日露の衝突を回避したことを記念したもので、1999年にゴローニンの子孫と嘉兵衛の子孫が函館で邂逅したのを機に建立されたとのこと。
その高田屋嘉兵衛。

ゴローニンは著書「日本幽囚記」で「この世で最もすばらしく尊敬すべき人物」と讃えている。

坂はすべて函館山に向かっている。

函館山というこんな大きな石碑があるのを初めて知った。

電車通りに戻りましょう。

蔵のある家。

珍しい折箱の店。

次は谷地坂。

谷地頭に通じる坂ということらしい。

坂下の交差点にあるラーメン店。

古そうなビルヂング。

「蔵や」は居酒屋さんのようである。

(つづく)
【2018年3月29日(木)】帯広・函館
帯広の夜は、北の屋台村「ふくろう」が1軒目。

2時間弱で切り上げて、2次会へ。
その前に屋台村にあった「いきぬきん」にご挨拶。

「息抜き」と「生き抜く」を掛けたシンボル像で帯広ゆかりの彫刻家相原正美さんが製作したものだという。
2次会は、帯広駐在の方のお薦め「大地のあきんど」へ。

この店はほんとに安くて美味しくて最高だった。
大正産長芋のお好み焼き、大正産メークインのコロッケ、十勝牛のステーキをいただいたが、いずれも素晴らしかった。
22時過ぎにお開きにして、歩いてホテルに戻る。
風呂はもう済ませてあるので、そのままベッドに飛び込んで爆睡した。
【2018年3月30日(金)】帯広・函館
ぐっすり寝て、6時に起床。今日もいい天気だ。

朝食は1階のレストランでバイキング。
6時半スタートだが、少し遅れて下りていった。
最近、少々太り気味なので、折角のバイキングなのに、ちょっともったいないが、少な目にしておいた。

このほかにスイーツもいただいたけど。
歯磨きやトイレを済ませて、8時ちょうどに出発。
本日の仕事場である音更町に同僚のレンタカーで向かう。
ちょっと早く着きすぎそうだったので、手前の道の駅おとふけで時間調整。

8:30前に、目的地のよつ葉乳業十勝主管工場に到着した。

まずは「おいしさまっすぐ館」を見学。

いろいろとお勉強。

このトンネルを通ると、牛の鳴き声が聞こえてきた。

昔懐かしい給食用の三角パック。

こちらも懐かしい、「よつ葉3.4牛乳」。CMでおなじみだ。

今の給食はこのパック。

見学の後、業務。12時半前に終了し、タクシーで帯広駅に戻った。

お昼は駅ビルの中にある「ぶたはげ」で。

一応、標準の4枚のせ豚丼(920円)をいただくことにした。

以前、札幌で食べた豚丼はたれがくどかったが、ここのはちょうどよかった。

列車の時間まで、まだゆとりがあるので、南口に出てみた。

正面は、とかちプラザと長崎屋。

トイレに寄って、13:30発の特急スーパーとかち8号に乗り込む。

車体は、1号と同じかな。

となりのホームには、普通列車の新得行きが入線していた。

14:30発だそうである。

右側(南側)の席だったので、陽射しがちょっとまぶしい。

まだ雪が残っているが、なんとなく春の雰囲気。

見えているのは、日高山脈である。

新得を過ぎると根室本線は大きくS字カーブをする。
その時、東の山々が見える。東西ヌプカウシヌプリやウペペサンケ山だろう。

これは狩勝山(985m)方面だろうか。

札幌へは帰らず、函館に向かうので、南千歳駅で乗り換え。

乗り換え時間がしばらくあるので、駅舎撮影。

西側(南側)に出たら、駅名表示が見えなかったので、東側(北側)に移動。

しかし、東側にもない。でも、新日本海フェリー苫小牧東港埠頭行きのバス停があった。

北口は千歳オフィス・アルカディアが展開している。

残る出口は北西方面。

やっと出会えた。

こんなことですっかり時間を食ってしまったが、乗り遅れることはなかった。

でも、実はさっきの特急に水筒を忘れてしまった。

忘れ物センターに電話したら、届いたら連絡してもらえることになった。

とりあえず期待することにして、16:11発特急スーパー北斗18号を待つ。

これからまた3時間以上の旅だ。

では、よろしくお願いします。

車内ではずっと読書をして、19:24、定刻通り、函館に到着。

函館に来たのは、夜行列車はまなすに乗った時に寄って以来だから3年ぶりになる。

もちろん、函館は終着駅。

始点でもあるので、大きなゼロキロポストがあった。

切符は写真に残しておくだけにした。

30周年というのは青函トンネルのことである。

駅前のルートイングランティア函館駅前にチェックイン。

荷物を置いたら、すぐ飯を食いに出た。
道路を渡ったところにある函館ラーメンの店「しなの」である。

ネットで調べたら、とくに問題はなさそうで、「駅前にしては安い」とのことだった。
定番の塩ラーメンのほか、餃子もオーダーした。

ごくごく普通の安心できるラーメン。餃子は6個でちょっと多かった。計1100円。
お腹が落ち着いたところで、お風呂へ。

この宿は天然温泉の大浴場があるということで選んだのだ。

ナトリウム・塩化物温泉(弱アルカリ性)で源泉の温度は45℃だそうだ。
あいにく、他のお客さんも多く、浴室の写真は撮れなかったが、中から函館駅の夜景を見下ろす素晴らしい展望風呂だった。
すっきりした。

若干、読書をして23時頃に就寝した。
【2018年3月31日(土)】帯広・函館
この日も6時頃に起床。今日もいい天気になった。

ホテルの窓から函館山がよく見える。

朝食は今日もバイキングで6時半から。

イカ刺しが函館っぽかった。
トイレ&歯磨きを済ませて、7時半に出発。

仕事は10時半くらいからなので、それまでの3時間、市電の乗りつぶしをすることにした。

市電の函館駅前電停に行く途中にあった少女像「函館の妖精・冬」。

この娘は「夏」。

交差点の向こうに函館駅。

北の方角には冠雪した山が見える。駒ヶ岳かな。

函館駅前電停。

しっかり仕切りの壁がある立派な電停だ。

間もなく、湯の川行きの電車がやってきた。

ほぼ12分おきに運行されている。

谷地頭行きが来たので乗車。車内で1日乗車券(600円)を購入した。

15分ほどで谷地頭電停に到着。

ここは当然ながら終点である。

電車は湯の川行きとなって間もなく発車した。

さようなら~

次の青柳町電停まではかなりの登りだ。

電車が去った谷地頭電停。

(つづく)
【2018年3月29日(木)】帯広~函館
29~31日まで2泊3日の出張である。
29、30日は帯広・音更、31日は函館ということで道内大移動になった。
仕事の内容は、このブログでは触れないことにしているので、あしからず。
仕事の本チャンは30日の朝から音更ということで、前日夜に帯広入りをしておけばいいのだが、29日はとくに用もなかったので、朝から列車に乗ってしまうことにした。

札幌7:54発のスーパーとかち1号に乗車。

お隣に並んでいる緑の車両は、7:49発旭川行きの特急ライラック3号である。
帯広の到着予定時間は10:36。3時間もかからない。
昔は車で5時間かけて行ったものだが、帯広は近くなったものだ。

車内ではしばらく朝刊を読んでいた。
2週間ほど前に夕張に行った時はまだ畑は一面真っ白だったが、もうほとんど車窓の雪は消えていた。
指定席はわりと空いていて、しかもトマムで半分くらい下りてしまった。

まだ、もちろんスキーはできるようで、春休みを利用したスキー客なのだろう。
星野リゾートの送迎バスが駅まで来ていた。
十勝清水駅を過ぎると、3月17日に廃止された羽帯駅の様子が気になって、ずっと窓にへばりついていた。

すぐ手前の平野川信号所で上り列車との行き違いのため、5分ほど停車。

そして10:16、羽帯駅跡を通過。

ホームと待合室だけの駅なので、すぐに撤去されているのかと思ったら、待合室の窓と扉に板が打ち付けられているだけで、まだ残っていた。
定刻通り、帯広駅に到着。

午前中に帯広百年記念館に行ってしまう予定だったが、ランチの約束が早まったので、午前中は用足しと市街地探検に費やすことにした。
まずは、観光案内所で十勝地方各市町村の観光パンフレットをゲット。

駅の北口に出ると、正面に大きなホテルが並んでいる。

こちらが今夜泊まるホテルリッチモンド帯広駅前である。

今の帯広駅は1996年11月に完成した4代目の駅舎である。

とりあえず、ホテルに荷物を預け、今夜ともに泊まる上司や同僚たちに手続きの仕方などメールで連絡しておく。
それにかなり時間を食ってしまい、歩き始めたのはもう11時を回っていた。

駅からまっすぐ北に伸びているのは、その名も平原通り。

数分で右手に六花亭本店が見えてきた。

そんなに大きな建物ではなかった。

初めて知ったのだが、六花亭は、千秋庵の一店舗である札幌千秋庵から1933年に暖簾分けした帯広千秋庵がその始まりだそうである。
開業したのは、札幌千秋庵の社長・岡部式二の弟で、同店店員だった岡部勇吉とのこと。
しかし、岡部は体調不良などのため4年後に辞任。やはり札幌千秋庵の店員だった岡部の甥、小田豊四郎が引き継いだ。
このレリーフの人物である。

その後、ホワイトチョコの人気を受けて、札幌進出を計画。函館の千秋庵総本家からは許可が出たが、札幌千秋庵が拒否。
こうした経緯から、帯広千秋庵は1977年5月に千秋庵の暖簾を返上して六花亭に屋号を変更したのだという。

六花(りっか)とは雪の結晶を意味するが、そのままでは読みにくいため「ろっか」としたとのことだ。
ショーウインドウには、北海道命名150年を記念して発売したお菓子「北加伊道」が展示されていた。

六花亭の向かいは藤丸百貨店。

すぐ北にアーケード街の広小路がある。

ちなみに、帯広市のマンホールのモチーフはスズラン。

アーケード街にはあまり面白味のある外観の店がなく、付近をぶらついてみた。

通りに面した店の裏側に街の歴史がにじみ出る。

帯広はこうした飲み屋が並ぶ路地がたくさん。





例えば、エイト街といなり小路が並列している。

いなり小路の入口。わざと古めかしている。

中にひしめくスナックたち。

向かいには新世界小路。

そろそろ同窓生と待ち合わせの時間なので、会場へ向かう。

バイキングが美味しいと評判の美珍楼本店。

1967年に東天紅本店として開店した老舗だ。

お相手は、娘が帯広に赴任することになり、面倒を見に来たお母さん。
高校の3期下で、山岳部の仲間Mさんだ。
お嬢さんも一緒に3人で、1100円のバイキングを楽しんだ。
食後、帯広駅まで歩き、南口からタクシーで帯広百年記念館へ。

自然と歴史の総合博物館だ。

六花亭の人気銘菓「マルセイバターサンド」のパッケージのもとになったのは、帯広開拓の父・依田勉三が起こした「晩成社」が1905年(明治38年)に北海道で初めて商品化したバター「マルセイバター」が原形であった。勉強になった。

40分ほどかけて見学、呼んでおいたタクシーで帯広駅に戻った。
今度は、バスで十勝川温泉に向かう。
昨夜は友人宅でラムしゃぶパーティーをしてお風呂に入っていなかったので、楽しみにしていたのだ。
6番乗り場でバスを待つ。

気温は17℃。この日は17.7℃まで上がり、北海道では一番暑かった。

では、十勝川温泉行きの十勝バスに乗り込む。

14:34に発車。

十勝川を十勝大橋で渡り、音更町に入る。
国道沿いには郊外型の大型店がたくさんあってびっくり。
調べてみたら、音更町の人口は4万5000人に達していた。
北海道では一番人口が多い町で、歌志内や三笠、夕張、赤平、芦別などの市より圧倒的に多い。
約30分で、お目当ての観月苑に到着。

バスは主だったホテルの前を1軒1軒回るルートになっている。

入浴料はちょうど1000円。

ちょっと高めだが、まあ仕方がない。

では、失礼致します。

早速、十勝川を望む露天風呂へ。

茶色いモール温泉がとても気持ちよかった。

帰りのバスの時間までたっぷり余裕があるので、のんびりできた。
湯上りにちょっと散策。
音更町のマンホールは東京市型の地紋の中央に町章。篆書体で「音水道」と書かれている。

町章は「音」を図案化したもので、若葉のイメージである。
バスを待つ間、隣にあった廃業したホテル「橘香苑」まで行ってみた。

橘香苑は1933年(昭和8年)に十勝川温泉ホテルとして開業した老舗である。
天皇陛下も泊まったことのある格式の高いホテルであった。
しかし、後に経営権を得ていた最上恒産が1997年に倒産。
2000年から画家の岩澤健司が譲り受けて「橘香苑」として再開したが、いろいろと曲折を経て、2011年10月から休業状態だそうだ。
送迎バスもそのまま打ち捨てられていた。

その横にあったナイトイン十勝川も休業状態。

それでは、バスが来たので戻ります。

次のバス停は、第一ホテル。

車窓から十勝川温泉のホテル群を確認した。

16:50に帯広駅に到着。
駅前のホテルリッチモンドに改めてチェックインした。
部屋の窓からは帯広駅北口の風景がまる見え。

駅の後ろに見えているのは、ホテル日航ノースランド帯広。

しばし、部屋でのんびりして、6時半に上司&同僚と4人で北の屋台村に繰り出す。
帯広駐在の方がお薦めの店はいっぱいだったので、たまたま客が誰もいなかった「ふくろう」の暖簾をくぐる。

ここは焼鳥、もつ煮の店だった。

でも、もつ煮は食べず、焼鳥やがつポン酢などをいただいた。まずまずのお味であった。
客が混み合ってきた(10人入るといっぱい)ので、20時半前に退散した。
(つづく)