【2016年5月22日(日)】前白根山
前白根山(2373m)は目前。

ただ、これは三角点ではない。

つまり、ここはまだ山頂ではない。
もう少し先のあそこだ。

でも、ここも眺望は抜群。東には日光連山が望める。

これまで何度も見てきたが、三ツ岳(1945m)、太郎山(2368m)などだ。

振り返ると、前々白根山(私が勝手に付けた山名)。

中禅寺湖も姿を見せた。

でも、日光白根山(2577m)の迫力には誰もかなわない。

それを取り囲む外輪山の白桧岳(2394m)。

左手眼下には五色沼避難小屋に通じる道が確認できる。


そして、11:45ようやく前白根山に登頂。

実は、この時、頂上は前方に見えるケルンの場所だと勘違いして、ここは不用意に通過してしまった。

一応、石祠があるなあと思って写真は撮っておいたのだが。

分かりにくいかもしれないが、これのこと。

ここを左に下ると日光白根山への道だ。

すぐにケルンに達し、やった~頂上だ!と思ったが、山名板がない。

そんなバカな。

おかしいなあと思いつつ、少し進むと、エメラルドグリーンの五色沼が目に飛び込んできた。

これまた感激。

福島の浄土平から一切経山(1949m)に登って五色沼が見えた時に匹敵する衝撃だった。
白桧岳や白根隠山(2410m)には日光白根山をリベンジする時に同時に回ろう。

北から北西方面には遠く雪渓の残る山並みが望める。
平ヶ岳(2141m)の右肩に越後三山の一つ荒沢岳(1969m)。

おそらく会津駒ヶ岳(2133m)の稜線。

すぐ隣に五色山(2379m)が見える。

さて、とにかく飯だ。時間はちょうど正午。今日のお昼は、前夜泊まった宿で用意してもらったものだ。

少しくらいおかずが欲しかったが、贅沢は言うまい。
おにぎりを頬張りながら、来た道を振り返ると、さっき通過してきた石祠のピークの方が微妙に高い。

やはりあちらが山頂なのではないかと思い、戻ってみた。

すると、朽ちた山名板が石積みの上に置いてあるではないか。

なぜ、さっきこれを見逃したのだろう。
やはり思いこみというのは怖いものだ。
ここから改めて外輪山を俯瞰すると、尾根上に小さな小屋が見える。

五色沼避難小屋かと思ったが、小さすぎるし、小屋はもっと谷側にあるはずだ。
あれが何なのか、今度行った時に確認せねばならない。
山頂だと思うと、周辺の景色を見るのも念入りになる。
南の方角、2268mの三角点がある稜線。

南に延びる稜線に生じた突起。

その向こうには中禅寺湖が横たわる。

左が半月山(1753m)、右が社山(1827m)。
どれ、昼食を食べた場所に戻るか。ザックを回収しなくては。

白桧岳にお別れ。

正面には、念仏平と根名草山(左、2330m)。

日光連山の前に立ち枯れのオブジェ。ちょっと芸術的だ。

中央に於呂倶羅山(2020m)。

五色山との間には、小さなピークが一つある。

再び山頂を振り返る。

というわけでランチポイントに到着。

もう一度丁寧に、展望を堪能する。
さすがに温泉ヶ岳(2333m)はお馴染みでしょう。

やはり森林限界を超えると気分が違う。

五色沼のほとりに道が見える。誰か歩いているようだ。


外輪山の向こうに覗いている双耳峰は燧ヶ岳(2356m)だろうか。

五色山の稜線にも人影が見える。

日光白根山にもかすかに。

さて、そろそろ出発するか。

ますはゆるやかな下り。


すぐに中間ピークを通過する。

これが五色山の全容。

眼下には温泉街と湯ノ湖。

駐車場にある私の車も米粒のように確認できた。

大きな男体山(2486m)。

ごつごつしたガレ場を行く。

どこから見ても格好いい日光白根山。

前白根を振り返る。

外輪山たち。

これは何という鳥だろう。せっかくうまく撮れたのに分からない。


進路は火山らしい道だ。

右の崖下に岩場。

徐々に五色沼に近くなってきた。

はるかに平ヶ岳。

ダケカンバ。いい写真でしょ。

五色山の登りは意外に長そう。

それに急そう。

もったいないけど、急な岩場を下る。

60mくらい下ってしまった。

すぐに登り返し。

右手に雪渓。

登りもガレ場。

だいぶ五色沼を回り込んできた。

ん、外輪山の内壁に赤い屋根が見えるぞ。

あれこそが五色沼避難小屋だ。

五色山の稜線中段まで登ってきた。

あと半分。

前白根方面を何度か振り返る。


雪渓の向こうに日光連山。やはり絵になる風景だ。

(つづく)
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【2016年5月22日(日)】前白根山
前白根山(2373m)への登山道から外れて、外山(2204m)に登頂した。
鞍部から8分ほどだった。
と言っても、樹木が生い茂っていて、頂上がどこかははっきりとは分からなかった。

東側が開けていて、眺望は抜群だった。

左から大真名子山(2375m)、女峰山(2483m)、太郎山(2368m)。
眼下は湯ノ湖。

その左に於呂倶羅山(2020m)。右手前の平らな山体は三ツ岳(1945m)。その手前に湯元温泉街。

それぞれを望遠で。


温泉ヶ岳(2333m)の東の稜線。

金精道路(国道120号線)などなど。

さて登山道に戻ろう。

だが、さっき確認しておいた踏み跡のリボンが見あたらない。
山頂周辺をかなりうろついたのだが、ない。
こんな写真を撮っているバヤイじゃないのだが。


何度か、あちこち行ったり来たりを繰り返して、やっと踏み跡を発見。
その道をたどって下っていくと、登りの時なぜ、踏み跡を見失ってしまったかが分かった。
このかすかな踏み跡はヤブの中に通じていたので、思わず開けた方に進んでしまったのだ。
それがここだ。

左奥に行くべきだったのに、安易に右に進んでしまったようだ。
とにかく踏み跡を見つけて、ひと安心。

登りに8分だったのに、下りに10分もかかり、往復に20分も費やしてしまった。

もう少し距離があったら、かなり苦労していただろう。
やはりルートファインディングは難しい。
気を取り直して、登山道を進む。

ここからは、ほぼ尾根沿いに登っていく。

このあたりでも、タカネザクラが咲いていた。

これはダケカンバだろう。不思議な形に成長したものだ。

結構傾斜があるが、さっきまでの急登に比べれば、屁でもない。

冬に歩いた記憶がある傾斜だ。

コバイケイソウ。

雪洞を掘ったのは、このあたりの斜面だっただろうか。

だとしたら、この先は未知の道。ぐいぐい登っていく。

左手の斜面にはコバイケイソウの群落が発達していた。

こちらはシャクナゲの赤ちゃん。

振り返ると、外山(左)と男体山(2486m)のシルエット。

おお、前方に大きな雪渓が見えてきた。

こういうのを見ると、春山に登っているなあという実感が湧いてくる。
間もなく、白根沢分岐を通過。

ここを右折すれば、白根沢を通ってゲレンデまで下ることができる。

道は白根沢の最上流部をトラバースする。

やはり雪渓はうれしい。


コバイケイソウも、このあたりではまだ赤ちゃん。


涸れた白根沢を渡渉する。


雪解けが早かった場所は、それだけ成長も早い。

いやあ、春らしい道だ。るんるんしてくる。

ここはわざと雪の上を歩く。

固く締まっているので、踏み抜くことはない。


去年だったら、まだ全体が雪山だっただろう。

外山鞍部から30分かからずに、天狗平に到着。

ここで、しばし立ち休み。
すると、単独男性が追いついてきた。

追い抜かされないうちに天狗平を後にする。


標高も2200mを超え、さらに残雪が目立ってきた。

山頂手前のピークは巻いていく。


前方に見えるは頂上から延びる支尾根。

その右には温泉ヶ岳(右)から北西へ延びる稜線。左は根名草山(2330m)。

あれれ、もう頂上台地に出た。

ここで道は右に屈曲。

ちょっと、後ろを振り返る。

頂上台地だと思ったら、まだ先があった。

道理で早すぎると思った。

しかし、気持ちのいい高原状の道だ。


このあたりもコバイケイソウの大群落。


またまた日光連山が見えてきた。

男体山や女峰山など役者がそろっている。

おっと、これは見事な雪渓。

横に長く続いている。


爪先を蹴り込みながら進む。

なかなか分厚いではないか。

この雪渓を乗り越えて見えた光景に思わず、生つばを呑んだ。

日光白根山(2578m)が全く想像もしていなかった姿で出現したのである。

この山を何度も遠くから眺めてきたが、4年前に登った時は雨のため、間近からその姿を見ることはできなかった。

実に火山ドームらしい山容だ。
この感激は、おそらく今年のベスト3に入るだろう。
いや、今までの登山歴の中でも、ベスト3に入れてもいいくらいのインパクトだった。
私はこのピークを勝手に、前々白根山と名付けた。

前方に見えるのは前白根山のピーク。

北西の鞍部の先に見えるピラミッドは笠ヶ岳(2057m)。その右奥の残雪の山はおそらく巻機山(1967m)。

日光白根山の手前左に延びる稜線のピークは白根隠山(2410m)。

「山と高原地図」に登山道は書かれていないが、森林限界に達しており、普通に歩けそうだ。
大きな感動を胸に前白根山に向かう。

絶景ルートである。

白根隠山の左には白桧岳(2394m)が続いている。

これは白根山と前白根山のコラボ。

いや、何枚撮っても、シャッターを押す指が止まらない。

何度も立ち止まるものだから、とうとう天狗平で近づいてきた人に抜かれてしまった。

少し興奮を抑えなければ。

とりあえず樹林帯は心穏やかに歩ける。

というかダケカンバの林も見事じゃないか。

稜線で風が強いはずなのに幹が傾いていないのが不思議。

東斜面には雪渓が残る。


ああ、またあそこで展望が開けてしまう~

正面の饅頭が前白根山。

左奥に白桧岳。まだ、あのあたりは冬枯れのままだ。

右前方は温泉ヶ岳。

さあ、前白根山頂上は目前だ。

(つづく)
【2016年5月22日(日)】前白根山
奥日光湯元温泉の「実之屋」に泊まっている。
6時に起床。朝食は7時。目の前でベーコンエッグを焼けるのがヒットだった。

実は今日のお昼を買うのを忘れていた。
近くに店がないので、昨日宿に弁当を作ってもらえるか頼んでみたら、OKとのことで助かった。500円だった。
おにぎりを受け取って、8時前にチェックアウト。

お世話になりました。
車で湯元本通りの駐車場まで移動。

まだ朝早いので、さすがに車はほとんど駐まっていない。
すぐ横にかなり前に廃業したと思われる白亜のガソリンスタンドがあった。

今日もいい天気だ。

ストレッチを済ませて、8時過ぎに出発。

まずはホテル街を、登山口のある日光湯元スキー場に向かう。

道は一直線。

今回の山行の宿として検討した「奥日光小西ホテル」。

五色沢を白根橋で渡る。


右手に「奥日光高原ホテル」。

このホテルでは玄関近くに、地下60mから汲み上げた日光白根水の水汲み場を設けて、一般の人に開放しているとのこと。

左手に「東武日光湯元ロッヂ」。

その先が日光湯元スキー場。

骨折した時にお世話になったパトロール本部。何だか懐かしい。

まずはこのゲレンデを登っていく。

その前に登山届を提出。

スキー場の作業道が登山道になっている。

ここは、夏はキャンプ場としても利用されているようだ。

前方に荒々しい金精山(2244m)がそびえている。

振り返ると男体山(2486m)が霞む。

正面に見えるのが前白根山(2373m)。

このスキー場は東武系の経営のようだ。

おそらく、このあたりが事故現場。

万感の思いを込めて通過。

右手には温泉ヶ岳(2333m)。

山の上の方にはまだわずかに雪が残る。

下の方では、トウゴクミツバツツジがピンクの花を咲かせていた。

振り返ると、中禅寺湖南岸の半月山(中央、1753m)や社山(右、1827m)が浮かんできた。

夏道と冬道は違うので、どのルートをたどっていいのか、ちょっと心配だったが、一応道標が立っていた。

リフトの右側を行けばいいようだ。

間もなく休憩スポット。スキー場に入ってからちょうど30分。

標高はここで約1670m。駐車場から200m登ってきたことになる。
ここからゲレンデを離れ、本格的な登山道。
その前にせっかくだから数分休んで、息を整えた。
さあ、腰を上げよう。

この白根沢には、まだ雪渓が残っていた。

オリエンテーリングのマーキングに従って登っていく。

山腹は新緑が鮮やかだ。

足元の方はやや荒れ気味。

立派な白根登山道の道標が立っている。

何か刻んであるようだ。

「白根山新雪匂う友のため倒れし君らの御いのち崇し」
なんと慰霊碑だった。玉川大学ワンダーフォーゲル部の学生らしい。
判読に苦労している間に、単独の外国人女性が抜かしていった。

みるみる見えなくなってしまった。
こちらはゆっくり、石の堰堤の横を通過。

次はコンクリートの堰堤。

その上には雪渓が延びている。

沢沿いを離れ、山腹に取り付く。

ここで冬道と合流する感じだ。

東に三ツ岳(1945m)と、右に太郎山(2368m)。

ここからは分かってはいるが猛烈な急登。

標高差400mの急坂を容赦なく直登する。

冬にテン泊の人がいた、平坦なスペース。

急坂に加えて、木の根がかなり激しい。


この段差がまた消耗させられる。


真っ白なオオカメノキの花もほとんど励みにならない。

もちろん、これも何の慰めにもならない。

眼下にゲレンデが覗けた。

下のベンチから40分ほど歩いただけで息切れ。
とくに休憩スポットではないが、ザックを放り投げて、へたり込む。

ちょうど標高は1900mくらいの場所だ。
歩く気力がなくならないうちに出発。
今度はガレた道を登る。

おお、タケネザクラだろうか。

桜に逢えるとは。
木々を透かして、温泉ヶ岳。

よし、だいぶ登ってきたぞ。

あそこにもいずれ行かねばなるまい。

温泉ヶ岳の西の稜線。

この標識まで来ると、稜線までもう少しだった気がする。

おや、登山道に残雪が現れた。

これでも今年は少ない方なのだろう。

ところどころに残っているだけだ。

やっと稜線が見えた。

外山鞍部である。ベンチから約1時間半。ほぼコースタイム通りだった。

冬は4人で交代しながらラッセルして2時間半かかったことを考えると、これでも楽のうちなのだろうが、やはり疲れた。
でも、休むことなく、外山(2204m)へのピークハントに挑む。

標高差は40m程度。踏み跡もあるし楽勝だろうと高をくくっていたが、それは甘かった。
黄色いテープをたどりながら最初は順調。

シャクナゲのつぼみを愛でる余裕もあった。

しかし、途中でテープを見失い、激しいシャクナゲのヤブこぎを強いられた。
それでも、登りは標高の高いところを目指せば、変な岩稜さえなければ、たいてい頂上にはたどり着ける。
ここでも、強行突破を繰り返しながら、偶然正規の踏み跡に戻り、頂上に達することはできた。
残念ながら、山名板を見つけることはできなかったが。

でも、ここからの眺望は抜群だった。

(男体山)
(つづく)
【2016年5月21日(土)】刈込湖・切込湖
切込湖を過ぎて、山王峠に向かっている
右手にササ山が現れた。

と思ったら、左手が開けた。

涸沼である。奥は山王帽子山(2077m)。

一面のササ原の中に立つカラマツが美しい。

道は涸沼の縁をトラバースしている。


沼の底には土が露出している部分もある。

梅雨時などは水溜まりができるのだろうか。

それにしても、ここは絶景だ。

手を広げて下りていってしまいたくなる。

振り返ると、於呂倶羅山(2020m)。

「山と高原地図」によると、「ヤブ山だが、山王林道から尾根沿いに踏み跡がある」という。
いつか行ってみよう。
ちなみに「オロ」は日蔭、「クラ」は岩場のこと。
初夏になると一面緑色になるんだろうなあ。

いろんな植生もそれぞれ美しい。



涸沼の真ん中ではカラマツの赤ちゃんが生まれていた。

あれはクマかと思ったら岩だった。

展望スポットに着いたので、ここで小休止。

あまりに景色がいいので、10分ほどのんびりした。
この先は整備された遊歩道を進む。

斜面もササに覆われている。

歩道上にロックガーデン。

このあたりは縁石をこしらえてあった。


山王峠までは、あと900m。

涸沼周辺は不思議なことに下から紅葉が始まるのだという。

すり鉢状の地形のため冷気が底にたまりやすいからだそうだ。

ジャンプ台?

さて、登りにかかる。

車道の山王峠までは、ここから標高差120m。

思わず泳ぎたくなる。

実によくできた造形だ。

あれはさっき、刈込湖にいた2人組かしら。

少しずつ標高を上げていく。


確かに涸沼はすり鉢状だ。

谷間から見えてきたのは温泉ヶ岳(2333m)。

これで涸沼はほぼ見納め。

樹林帯に入る。

またまたオオカメノキ。

つづら折りの道だ。


この先は人工的な石が続く。



山王林道に達すると、しばらく擁壁に沿って歩いた。

ここにも、かわいいタチツボスミレ。

下の展望スポットから30分ほどで車道の山王峠に着いた。

ここから先は、2013年の10月に高校の後輩Sさんと太郎山(2368m)に登った時に歩いたコースだ。

本当の山王峠を目指して、階段を登る。

その先は木道。記憶の通りだ。

左手に男体山(2486m)のシルエット。

この角度から見るのが、頂上部分の形が最も崩れていない。
かなりつぶれた感じだが。
正面は三ツ山(1945m)。

木道は終わり。

間もなく、山王峠(1741m)。

ここからは下るのみだ。

峠から光徳牧場までの標高差は300mほど。

ダケカンバの林を行く。

それを抜けると、カラマツ林。

傾斜はそれほどきつくないが、わりと長い。

やっと中間地点。

再び明るい広葉樹の森になる。


道幅も広くなってきた。ということは、もう少しかな。

おお、牧場まであと200m。

ようやく下界に下りてきた。

この先、ハイキングコースは戦場ヶ原まで続いているが、もう4時近いので、今日のところはこのあたりで打ち止め。

とにかく光徳牧場を目指す。

その前にトイレ。

山王峠から50分ほどで光徳牧場に到着した。

背後の山は三ツ岳。

ここでは、やはりアイスクリームを食べなければならない。

下山ビールもいいが、本当は下山ソフトの方が好きだ。

ふう、生き返る。
10分ほど休んで出発。

敷地に馬頭尊などいくつかの石碑が並んでいた。

ちょっと、牧場そのものも覗いてみた。


牛たちは牛舎の近くにいた。

牧場を後にして、バス停のあるアストリアホテルに向かう。

ここには光徳温泉という温泉があり、日帰り入浴も可能らしい。


バス停に着いたのは16:17。

バスの時間は16:24なのでジャストタイミング。
身支度を整えているうちに、バスが到着した。

車を置いてある湯滝入口まで運んでもらう。
バスはわりと混んでいたが、座れたような気がする。
7分ほどで湯滝入口に到着。

駐車場までは数百mほど遊歩道を歩かされた。


不気味な樹木に、ちょっとびっくり。

車に戻ってみたら、スモールランプがつけっぱなしだった。
危ない、危ない。バッテリーが上がっていたら目も当てられなかった。
今夜の宿はちょっと奥まったところにある「実之屋」。

見かけはペンション風だが、こじんまりした旅館だ。

お部屋はこんな感じ。

ひと息入れてから、さっそくお風呂へ。

強烈な硫黄泉で、のんびり浸かって体が芯から温まった。
食事は午後6時から。メーンは豆乳鍋。

これはかなり美味しかった。
もちろん、ビールもいただきます。

さらにお昼に続いて、アユの塩焼き。

他にも2品。


そんなに高級ではなかったが、和風の小鉢がたくさんあって、年寄りには満足のいくものだった。
満腹になると、途端に眠くなる。8時すぎには寝てしまった気がする。
【行程】2016年5月21日
湯滝駐車場(11:03)~湯滝(11:04撮影等11:11)~湯元温泉(11:46)~国道交差点(12:07)~小峠(12:34休憩12:39)~刈込湖(13:08昼食13:33)~涸沼(14:20休憩14:37)~山王峠(15:09)~光徳牧場(15:57休憩16:09)~光徳温泉バス停(16:17)
※所要時間:5時間14分(歩行時間:4時間)コースタイム:4時間40分
※登った山:なし
※歩行距離:10.4km
【2016年5月21日(土)】刈込湖・切込湖
湯元温泉の源泉見学を終えて、刈込湖への登りにさしかかった。


すこし高い場所から、源泉地帯を俯瞰する。

源泉が川になって流れているのに、ちょっとびっくり。

植物も、源泉の直近ではさすがに育たないようだ。

巨木の陰にトウゴクミツバツツジ。


温泉街。有名なわりにはそれほど大きな町ではない。

10分ほど登ったところで、国道と交差する。

国道を横断すると、再び登山口。こちらにも車は駐められるようだ。

ここで標高は約1550m。

小峠までの標高差は120mほど。

トラバース気味になだらかに登っていく。

左下に蓼ノ湖(うみ)という小さな湖があるらしいのだが、樹木が邪魔して全く見えない。

オオカメノキの白い花が咲いていた。

路面に岩が露出してきた。

と思ったら、また真っ平らに。

左手に見えるのは、温泉ヶ岳(2333m)への稜線。

倒木を越えて、さらに進む。

道が石段になった。

ということは、そろそろ峠も近いのかな。

国道から30分弱で、小峠に着いた。

ここの標高は1672m。とくに展望はなかった。

でも、ベンチもあることだし、折角だからひと休み。

行動食のお菓子などをつまむ。
お腹も空いてきたので5分ほどで出発。湖畔でお昼にする予定だ。

道の真ん中に立ちはだかる巨岩を避ける。

そこにタチツボスミレがひっそりと咲いていた。


峠を越えたはずなのに、道が下りにならない。

むしろ、なだらかに登っている。

三ツ岳(1945m)の裾を巻いていくようだ。

立派な階段が整備されていた。

さらには、露岩帯。

これらを抜けると、旧林道に出た。

地形図を見ると、この道は湯ノ湖の兎島あたりから山に入っている林道のようだ。

途中にゲートがあるのだろう。その奥にあたるこの辺は登山道に流用されている。

いつごろまで車が通っていたのだろうか。

道自体はそんなに荒れていない気がするが。

おお、残雪を発見!

たぶん、例年なら、この時期まだたくさん雪が残っているのだろう。
間もなく、登山道は左折。

旧林道はそのまままっすぐ続いている。

それを見送って、立派な木段を下る。

いよいよ、刈込湖の湖岸に下りるわけだ。

立派なサルノコシカケ。

このあたりはコメツガの林である。
さらに階段を下る。

すると、間もなく刈込湖が見えてきた。

刈込湖・切込湖は三ツ岳の噴出物が沢をせき止めてできた湖だそうだ。

その昔、このあたりに大蛇が住み着いて村人たちを苦しめていた。
そんな話を聞いた日光開山の祖、勝道上人はその大蛇を切り殺して、この湖に沈めたという。

それが湖の名前の由来らしい。

湖に入ってくる沢はあるが、出ていく沢はない。


おそらく地下にしみこんでいるのだろう、とのことだ。

対岸に見えるのは、手前が山王帽子山(2077m)、その左奥が太郎山(2368m)。

北岸には、於呂倶羅山(2020m)。

さて、もう時間は午後1時を過ぎた。

さすがにお腹がぺこぺこ。景色のいい湖畔でお昼にする。
写真を撮るのを忘れてしまったが、確か助六寿司だった気がする。
お湯を沸かして、ティーパックのお茶もいただいた。

食べ終わったところで、沢の奥の方を少しだけ探検。


コバイケイソウが群生していた。

その近くには、ミツバオウレンに似たサンリンソウの花。

ここには、入れ替わり立ち替わりハイカーがやってくる。

さて、前進するとしよう。
石段を登って、登山道に戻る。

東へ進み、山王峠を目指す。

左手眼下に刈込湖を見ながら歩く。

基本的にトラバースなので道は平坦だ。


桟橋や巨岩を通過。


木々の切れ間から湖が見える。

晴れていると、もっと青いのだろうが、いつのまにか薄曇りになってしまった。
雪解け後の季節だが、水位は例年より低いみたいだ。

切込湖に近づくと、湖面の幅が狭まってくる。

ちょうど、2つの湖のくびれ部あたり。

地図では、2つの湖はつながっているように表記されているが、この日は水位が低く分断されていた。

これらの岩は溶岩だろうか。

そして、この先が切込湖。

切込湖の方がさらに水位が低い。

あんなに砂浜が露出している。

一応道標が出ていたが、湖岸に下れるわけではなかった。

というわけで、むろん直進。

ユニークな岩。人の頭のよう。

切込湖を過ぎると、ちょっとしたくぼ地に出る。

そして、すぐに登りに転じる。

ただ、それもほんのわずか。

再び左手にくぼ地が現れる。

かつては、ここも湖だった時代があったのかもしれない。

平らな道はほんとに楽チンだ。

正面に山王帽子山のシルエットが見えてきた。

この先に涸沼という場所があるようだ。

箱庭のような道を進んだ。

(つづく)
【2016年5月21日(土)】刈込湖・切込湖
右足首を骨折したのは昨年の1月。
冬の前白根山(2373m)に雪洞訓練に行った時のことだ。
あの日は風が強くて登頂は断念。スキー場のゲレンデまで下りてきての出来事だった。
それだけに、いずれちゃんと登らなくてはと思っていた。
あれから1年と4か月。
やっと、そんな時期が来た気がして、この週末は奥日光に足を運ぶことにした。
初日は、刈込湖・切込湖で足慣らし。翌日、湯元から前白根山、五色山を周回する計画だ。
東京8:08発の山形行きつばさ127号に乗車。


宇都宮には9:01到着。駅西口のトヨタでレンタカーを借りる。
ここは駐車場と事務所が離れていて、駐車場を先に発見したものだから、事務所にたどり着くのに苦労した。
とにかく手続きを済ませて出発。一路、奥日光を目指す。天気も上々である。
いろは坂や中禅寺湖畔を快調に飛ばし、湯滝の駐車場に着いたのは10:50頃。
ここは有料で1回500円取られる。これは覚悟の上だ。
そこそこ車は駐まっていたが、混雑しているほどではない。

ストレッチをしていると、団体のおじさんたちが滝の方からやってきて、「あ~こわい、こわい」と言っている。
あ、北海道の人だ、と一瞬で分かってしまった。
「こわい」は「疲れた」という意味の北海道弁だ。
サンドイッチをつまんで、トイレを済ませ、11時すぎに出発。

すぐそこに滝見のレストハウスがある。


この看板に生つばごっくん。

きゃ~うまそう。

まだろくに歩いてもいないのに買ってしまった。

美味じゃ。朝食が早かったので、少々お腹が空いていたのだ。
滝つぼを見下ろすと、なんと棹をふるっている人が。

ここでアユを釣っているのだろうか。だとしたら、究極の地産地消だ。
とにかくアユの塩焼きを頬張りながら、滝見物。

前回、秋に来た時は水量が少なかったが、この時期はやはり雪解け水もあって豊富だ。

華厳の滝、竜頭の滝と並んで日光3名瀑の一つである。

さすがに大迫力。落差50m、幅25mもある。

滝のそばに「晃山湯瀑記碑」がたたずんでいた。

説明は、この案内板をご覧下さい。

ここから滝の落差分、階段を登る。

もうアズマシャクナゲが咲いていた。白い花びらが可憐だ。

階段はけっこうきつい。歩き始めだから、調子に乗らないようにしなくては。

木々の間からも湯滝は見える。

国道の近くまで登ってくると、やっと平坦になった。

湯滝の落ち口。水が跳ねている。

奥に見えるのは、中禅寺湖の北岸に位置する高山(1668m)かしら。

湯ノ湖に出た。

湖畔の国道は何度も通っているが、湖をゆっくり鑑賞したことはなかった。

だから、今回は湯元温泉ではなく、湯滝スタートにしたのだ。

正面の凹みは金精峠。その左の荒々しい突起が金精山(2244m)。右は温泉ヶ岳(2333m)。
その左は外山(2204m)。

この山は登山道から離れているが、明日ピークハントするつもりだ。
この橋を渡ると、湯ノ湖一周ができるが、今回は時間の都合により省略。

湖面は標高1475mほどあり、まだ新緑の季節である。

岸辺は火山性の湖らしい景観だ。

では、湖岸の道を進む。

この湖に明治初期からたくさんの魚が放流されてきたらしい。

現在釣れるのは、マス系。

いきなり、目の前で放流作業が行われていた。

のんびりと木道を歩く。

外山から前白根山方面。

木漏れ日のすがすがしいハイキングだ。

おや、マガモさん。

歩くにつれて、山が見える角度も違ってくる。

お、今度はコイかな。動きがにぶい、水温が温泉で高いから、のぼせているのか。

半島の兎島へは遠回りになるので今回はパス。

湖面は鏡のように静かだ。

半島のくびれ部を通過する。

すぐ先に葛西善蔵の文学碑。

「秋ぐみの 紅きをかめば 酸くしぶく タネあるもかなし おせいもかなし」
葛西善蔵(1887~1928年)は大正13年(1924年)9月、湯元温泉の「板屋旅館」に投宿。ひと月ほどで私小説「湖畔日記」を書き上げた。
その文中にある歌で、おせいとは愛人のことらしい。
おお、トウゴクミツバツツジも色鮮やか。

湯元温泉が近づいてきた。

歩きやすい散歩道だ。

湖畔に日光湯元レストハウス。

外山がなかなか格好よく見える。

これは五色山方面。

金精山。

遊歩道が終わって、湯元温泉街に着いた。

さわやかな高原の雰囲気だ。

温泉街に入っていく。

あちこちで源泉が湧いている。

これは河原湯。

飲んではいけません。

こちらは温泉ではなく清水。

湯元温泉の発見は、日光開山の祖である勝道上人(735~817年)とされる。
日光連山を修行の場としていた修験者が古くから利用していたそうだ。
江戸時代には、ここ河原湯をはじめとして自在湯、笹湯、御所湯など8湯あり、浴槽は11か所あった。
明治に入ると、鶴湯と蓼湯が加わり10湯になったが、現在それらはなくなり、温泉街北側にある湿地帯の源泉が利用されているとのこと。
私の好きな廃屋。南間売店。


右手に温泉神社があったが、階段が延々続いていたので通過。

ここには、緞子湯がかつてあったようだ。

その向かいには、湯元温泉で最も古い老舗と言われる「湯守釜屋旅館」。

その奥に、「紫雲苑」。

さらに北に進むと、源泉のある湿原地帯に入る。

ここに来るのは、1年2か月ぶり。前回は3月だったので、まだ雪原だった。
奥にはいくつもの小屋がしつらえてある。
それぞれ、宿の源泉なのだろう。


温泉はあちこちから、ふつふつと湧いている。

このゆらゆら揺れているヒルみたいな動物(植物?)はなんだろう。

かなり気色悪い。
源泉はかなりきつい硫黄泉で、温度は78℃。毎分626㍑湧出しているとのこと。

源泉見学を終えて、いよいよ登山道に入る。

(つづく)
【2016年5月15日(日)】弥山
栃尾辻からどんどん高度を下げている。
再び展望が開けた。お馴染み、大日岳(1689m)と稲村ヶ岳(1726m)。

バリゴヤノ頭(1580m)の向こうには大普賢岳(1780m)あたりのピークが顔を覗かせていた。

午後1時半前に昨日休んだ林道出合に到着。


西に、武士ヶ峯(1035m)方面の山々。

東に稲村ヶ岳。

林道の日蔭で休憩する。

ピークハント分余計に運動したからか、すでにかなりグロッキー。
地面に大の字になって、「も~動けね~」。
でも、ここで泊まるわけにもいかない。

十数分ほどの休憩で出発する。

当方は栄養補給のため、非常食用のパンも食べてしまった。

昨日も通った鉄塔のところで再び、周辺の山々をカメラに納める。



ここは鉄塔が2基並んでいた。

眼下に北角の集落とミタライ渓谷。

その奥に、稲村とバリゴヤ。

さあて終盤、吉野杉の中の急な下りだ。

テンポよく行こう。


しかし、テンポよく行き過ぎて、門前山のピークを踏むのを忘れてしまった。
これは痛恨事だった。
もちろん火事は出してはいけない。

これはいたずら書きなのか林業関係者の記録なのか。

昨日驚いた金網の階段。

これが見えたら、下界はもうすぐだ。

午後3時すぎ、登山口まで下りてきた。

狼平から5時間弱。朝歩き始めてから9時間経過しているので、みなさすがに疲れている。

ちょっと休んでから、バス停へ向かう。

ヤエコデマリも咲いていた。

天川村のマンホール。

最後の吊り橋を渡る。天ノ川もまた清流だ。

エメラルドグリーン。

川遊びをしたくなるが、そんな時間も元気もない。

ビールを求めて、小路の駅なるお店に寄ってみたが、残念ながらアルコール類はなし。

ビールはお風呂まで我慢のようだ。
路傍に「先祖代々為菩提」の石碑。

年代は判読できなかった。
15:20過ぎ、ようやく天川村総合案内所に到着。

トイレを済ませて、15:40発の下市口駅行きバスを待つ。
バスは定刻通り到着したが、洞川温泉から乗せてきた乗客で満席。

やむを得ず、つり革に捕まって、立ち続ける。
なんと、行きの電車で一緒になったおばちゃんたちとまた一緒になった。
ついうとうとして、膝がかっくんとなってしまうが、何とか頑張った。
30分ちょっとで岩森(下市温泉)に到着。

ここにある「ごんたの湯」で汗を流して帰るつもりだ。

手前にはホテルもあった。「秋津荘」というらしい。

これが、ごんた君かしら。

1時間後、17:20にタクシーに来てもらうことにして、入浴。
いや、最高です。

さっぱりしたところで、やはりビール。

唐揚げやら、つまみも頼んで至福のひととき。
ただ、なかなか女性陣が上がって来ない。
髪の毛を乾かすのに時間かかっているのかなと思ったら、Iさんがやってきて、「あ~やっぱりこっちにいた。ロビーで待ってたのに~」と悔しそうな顔。
女子のためにタクシーの時間を10分延ばして、みんなで喉を潤した。
さてそろそろ時間だと思い、外に出ようとしたら、タクシーを頼んだ受付のおばちゃんが、これから電話しますね~とのんきなことを言っている。
「5時半にタクシーを呼んでください」とお願いしたのだが、「5時半に電話をする」と解釈されたようだ。
普通、こう言ったら、「5時半に到着するよう頼んでくれ」という意味になると思うのだが。まあ、けんかをしても始まらない。黙って待つことにした。
その間に顔ハメ。

下市町のマンホール。

ふくろうの木彫り。暇つぶしに、あたりの写真を撮る。

みんな、バス停でたむろ。

タクシーは10分でやってきた。

2台に分乗して、下市口駅に向かう。
駅には17:50前に到着。
なんと次の電車は17:54。
あわててコインロッカーから預けておいた荷物を取り出し、ホームへ。
誰かもたもたしている人がいたが、みんな乗り遅れなく、無事に乗ることができた。
車内では早速、宴会の続き。
残ったつまみを出して、コインロッカーにデポしておいた日本酒で乾杯。

まわりに他のお客さんもいるので、一応控えめに。
橿原神宮前に18:32着。ここで、大阪方面に行く3人とお別れ。
乗り換え時間7分の間に、追加の酒を買い、18:39発の急行京都行きに飛び乗る。
うっかりO君が床に置いておいたビールのロング缶を倒してしまい、みんなで新聞を広げて、床掃除を始める騒ぎに。
そんなこんなで、19:48京都に到着。
今度は19:56発のひかり482号に乗るために大急ぎ。
またまた酒を追加して、飛び乗る。まったく綱渡りだ。
本当は、この後ののぞみの方が早いのだが、O君となるべく長く一緒にいるために、ひかりにしたわけ。

それにしても、いつまで飲み続けるのかって感じだが、こうなったらもう止まらない。
三島で下りるO君は静岡で乗り換え。
私はそのまま乗車して、品川で乗り換え。
帰宅した時は日付が変わっていた。
長旅であったが、仲間たちと楽しく過ごせた、満足の例会であった。
【行程】2016年5月15日
狼平(6:01)~大黒岩(6:33)~弥山神社(7:08参拝・撮影7:13)~弥山小屋(7:15トイレ・散策7:36)~八経ヶ岳(8:07撮影8:18)~明星ヶ岳(8:37)~細尾山(8:46撮影8:54)~テラス弁天(9:12休憩9:17)~日裏山(9:23)~高崎横手出合(9:34)~狼平(9:51間食10:14)~頂仙岳(10:45撮影10:49)~ナベの耳(11:17休憩11:20)~栃尾辻(12:25休憩12:32)~林道出合(13:25休憩13:38)~門前山下(14:15休憩14:20)~天川川合(15:22)
※所要時間:9時間21分(歩行時間:7時間40分)コースタイム:7時間15分
※登った山:6座(弥山、八経ヶ岳、明星ヶ岳、細尾山、日裏山、頂仙岳)
※歩行距離:16.8km
【2016年5月15日(日)】弥山
テラス弁天を出発して間もなく、登山道は日裏山(1725m)も巻いていることが判明。
Mさんと二人して、再びみんなと離れ、ピークハント。
ここはピークが見えていたので、すぐに着いた。

看板を掛けてくれたのは「山歩人」。

ここも、ささっと写真だけ撮って、早々に登山道に戻る。

すぐ追いついて、10分ほどで高崎横手出合に到着。

ここは昨日も通ったところ。
ザック回収のため、再び狼平に下る。

昨日は曇っていたが、今日は晴れている。

この調子だと、余裕で10時前には到着できそうだ。

やはり八経ヶ岳(1915m)からのペースが早く、挽回できた。

昨日も渡った沢を、当然だが渡る。

弥山川まで下ってきた。

青空のもと改めて眺めると、素晴らしい清流だ。

Tさんは完璧にテントを撤収し、ザックもきれいに並べて待っていてくれた。

まずは、アタックザックの中のものやテントを、メインザックに収納。パッキングのやり直しだ。
作業を終えたら、まだ10時だが昼食。

朝もかなり早かったし、うどんだったから消化が速い。お腹が空いてしまった。
パンを平らげたところで、避難小屋の内部を改めて確認。


さて、これから頂仙岳(1718m)のピークハントに向かわねばならない。
余計な時間を食ってしまうので、本隊より少し早めにスタートした。
また同じ道を歩くのはいやだけど仕方ない。
さっき下ってきたばかりの道を再び登る。
高崎横手出合の先は取り付き地点まで、ほぼ平坦。


踏み跡はあまりはっきりしていないが、迷うことはなさそうだ。

向こう側に下ることも可能だが、道迷いの恐れがあるので、ピストンすることにして、ザックはデポ。

進むにつれて、踏み跡がはっきりしてきた。

赤テープもあるし、これなら楽だ。

背後には日裏山。

でもだんだん道が荒れてきた。

傾斜も急になる。

多少ヤブこぎもあったが、取り付きから10分で頂上に達した。
標高差が70mもあるので15分くらいはかかると思ったが、かなり速かった。

ちゃんと山名板があってうれしい。

三角点は三等。

ぶら下がっている板に書かれている文字はどうしても読めない。

これも判読不能。

頂上はちょっとした広場になっているが、樹木に囲まれ、あまり眺望には恵まれない。

それでも、大日岳(左の突起、1689m)と稲村ヶ岳(1726m)は確認できた。

その左に見えたのは、三ツ塚(1380m)だろうか。

では撤収することにする。

下っている途中、登りでちょっと道を間違えていたことに気付いた。
まあ、そんな損はしていないが。
ザックを置いたところには22分で戻ってきた。

しかし、この遅れを取り戻すのは容易ではない。

速足で高崎横手を歩いていく。

でも気持ちのいいトラバースだ。

後ろから、Mさんも軽快に追いかけてくる。

サルノコシカケ天国を通過。


正面に見えるは1598mピークか。

そろそろ巻きも終わり。

栃尾辻までには追いつきたいと思っていたら、皆さんナベの耳で待っていてくれた。

こちらもひと息入れる。いやあ素晴らしい新緑だ。

すぐに出発。

昨日歩いた道を忠実に戻る。

私的には、羅臼岳に次ぐ長大ピストンとなる。

単独ピストンは嫌だが、仲間がいるとそれほど気にならない。

またまたお腹が空いてきたので、さっき食べかけで残しておいたパンを食べながら歩く。

晴れていると、本当に緑が鮮やかだ。



足元は倒木が多い。


フトンド横手の手前で小休止。

疲れたので、ひっくり返ってしまった。

そしてフトンド横手に入る。1518mピークの巻き道だ。

ここでY子ちゃんが足を滑らせて転倒。

でも大事なかったようだ。私も気をつけないと。

今日は空気の透明感が高い気がする。

昨日より緑がみずみずしい。

道はわりと難しいトラバースである。


巻き道を終え、オオビヌキ坂の下り。

栃尾辻にはナベの耳から1時間ちょっとで到着。

コースタイムは50分なので、やや遅めか。
7分ほどの休憩で出発。

黙々と下る。地面には昔々の缶ジュースが露出していた。

小さなピークを通過。

林道の横に出た。


よくよく見ると、巨大な落石が道路をふさいでいるのが分かった。

これが通行止めの直接的な原因だろうか。
もったいないことである。

南の峰々。

なんか昨日見た景色と違う。

これは矢印や方向に何の意味があるのかさっぱり分からなかった。

(つづく)
【2016年5月15日(日)】弥山
弥山(1895m)から八経ヶ岳(1915m)へ向かう。

ここで、しばし大峯について復習しておきたい。
大峯山の修験道は、明治5年(1872年)の修験道廃止令で壊滅的な打撃を受けた。
しかし、羽黒山や英彦山がこの時に瓦解して神道化の波に呑み込まれたのに対し、大峯山の復帰は早かった。
明治19年(1886年)には仏寺復帰が承認され、修験道を現代まで維持させることに成功した。
いわゆる大峯山の峰入りは吉野から熊野までの尾根道を、山中の拝所をたどりながら行う修行で、全行程80kmに達する。
もともと別のものであった吉野と熊野が12世紀ごろに結び付けられ、鎌倉時代には独自の修験道として確立したという。
峰入りは、峰々の稜線を忠実にたどり、小さなピークでも踏みしめて歩く。
脇道をたどらず、丁寧に峰をたどるそうだ。
平安時代の大峯山での修行は行者が主体で、円珍、行尊、聖宝、西行などが行った。
中世になると、遊行・回国の聖が目立ち、高野聖の活躍も大きかった。
本山派(天台宗)は熊野から吉野に向かう順峰(じゅんぶ)を、当山派(真言宗)は逆峰を行ったが、近世には逆峰が大半となった。
有名な「西のノゾキ」が行われるのは、山上ヶ岳だ。
弥山は須弥山の略で、仏教の世界観では宇宙の中心となる山。
山頂には水神の弁財天が祀られ、山麓の天河大弁財天社の奥宮がある。
役行者が金峯山寺で自己の守護仏を求めて祈念した時に、最初に出現したとされる。
以上は、鈴木正崇著『山岳信仰』(中公新書)によった。
このあたりも縞枯れ現象が激しい。

八経ヶ岳の斜面は、よく見ると、意外に疎林だ。

下る途中に古今宿の跡があるはずだったのだが、確認できなかった。

その代わりにと言ってはなんだが、コバイケイソウ。

結構、雰囲気のある道だ。

鞍部はオオヤマレンゲの自生地だそうだが、まだ早いみたいだ。

なぜか、ここに頂仙岳の石碑が倒れていた。

弥山を振り返る。

いくつもお札が置いてある岩があった。

登りにかかると、オオヤマレンゲを鹿の食害から守るための柵が設けられていた。

大黒岩のピークを望む。

再び、弥山を振り返る。

頂上付近の立ち枯れがやはり激しい。


弥山の全容。かなり禿げてきているのが分かる。やはり台風が原因だろうか。

弥山は穏やかな山容に見えるが、こんな岩壁もあった。

高度を上げると、弥山小屋の背後にも大峯の連なりが見えてきた。

弥山からほぼ30分で、八経ヶ岳に到着。この区間はコースタイム通りだった。

この付近も一部立ち枯れている。


積石で三角点が埋もれた頂上。

山名板はわりと味気ない。

でも、手作りの小さな板も置かれていた。

せっかくなので、これを手に持って全員で記念撮影。

晴れていてよかった。眺望も抜群である。
この後、登る明星ヶ岳(1894m)。

頂上には、すでに人がいるようだ。

頂仙岳(右、1718m)と日裏山(左、1725m)。

南西の七面山(1624m)方面はまだガスがからんでいた。


10分ほど休憩して出発。

そう言えば、これで百名山は57座になった。
明星ヶ岳に向かって下る。
右手に頂仙岳の尖塔が目立つ。


八経ヶ岳の頂上部を振り返る。


「前鬼」。そそられる地名だが、今回はそこまでは行けない。

このあたりは傾斜もなだらかでハイキング気分で歩ける。


頂仙岳は何度見ても恰好いい。

こちらにもコバイケイソウの群落。今年は当たり年になるだろうか。

15分ほどで分岐の弥山辻に到着。

ここで初めて気づいたのだが、縦走路は明星ヶ岳のピークを通過していない。

ピークに行きたいのは私とMさんだけなので、ほか5人には先に行ってもらい、2人でピークハントに出かける。
あまり遅れてはいけないので、小走りで。
すると、数分で着いてしまった。

背後は八経ヶ岳。

南には七面山。

これだけ写して一目散に走り去る。

頂上には1分と滞在していなかった。
弥山辻からの往復にわずか7分。

さて、先行隊を追いかける。ほとんど駆け足に近い。

右手になだらかな八経ヶ岳の稜線。

立ち枯れの場所で一旦ストップ。

再び走る。追いつくまで10数分かかった。
またまた、立ち枯れた場所に出た。

ここは「山と高原地図」で言うところの細尾山近辺だが、とくにピークではない。

ただ、眺めは素晴らしかった。



細尾山ではなく、「明星の森」という看板が下がっていた。

しばらく、みなで風景を楽しんだ。

レンゲ道と呼ばれている坂を15分ほど下ると、テラス弁天に出る。

ここからは、さっき登った弥山への稜線が確認できた。

その左に修覆山(1846m)。

こちらは今下ってきた明星ヶ岳からの稜線。

この案内板の地図には、現在地が日裏山であると書いてあるが、それは違う。

日裏山はもう少し進んだ、あのピークだ。

というわけで、ここでの休憩は5分にとどめ、出発した。

(つづく)
【2016年5月15日(日)】弥山
前夜から狼平避難小屋前のテン場に泊まっている。
朝は5時ごろに起床。もうTさんが起きて朝食の準備を始めてくれていた。
早いのはだいたい男性陣、遅れて女性陣が眠い顔をして集まってくるといった具合。
朝食は昨日の鍋の残りにうどんを追加して、軽めに済ます。
米も担いできたが、それを炊くほどのことはなかった。
こんな感じで、朝食はそれぞれのペースで終了。

本日の弥山・八経ヶ岳縦走にはTさんは不参加。
今回初めて知ったのだが、八経ヶ岳(1915m)は大峯山の最高峰で日本百名山ということになる。
Tさんは、百名山登頂はバリエーションルートでと自らに縛りをかけているので、今回の一般登山道ルートはパスする意向のようだ。
我々が戻ってくるまでの間にテントを撤収して、みんなのザックも見張っていてくれるというので、お願いすることにした。
6時には全員準備完了。Tさんに手を振って出発する。
私がリーダーに指名されてしまった。

スタートから木の階段。

みな、昨日とは違い、アタックザックなので身軽だ。

背後の日裏山(1725m)が朝日に照らされている。

道は沢に沿って登っていく。


階段は徐々に急になる。

歩きやすいとも言えるが、ついペースが速くなりがちなので気をつけないといけない。

こんな崩落の跡もあった。

振り向くと、頂仙岳(1718m)の鋭い尖塔が姿を現した。

階段はなおも延々と続く。

これはブナの若葉かな。

このあたりはブナ林なので。

頂仙岳には帰りに登らなければならない。

Mさんが付き合ってくれるというので、単独行動ではなくなり、気が楽になった。
リーダーだけ別行動というのも憚られたからだ。
高崎横手出合の鞍部の向こうに、いくつか山が見えてきたが、依然として同定不能。

登り始めて30分弱で、尾根に乗り、傾斜が緩やかになった。


八ヶ岳の縞枯れ現象のように立ち枯れた木々が林立している。


正面の突起は大黒岩のピーク(1819m)。

左手にかかっていた雲が何となくとれてきた。

間もなく巨大な岩が出現。

これが大黒岩だ。

「山と高原地図」には、登山道から離れたピークにあるように書かれていたが、ピークのかなり手前の道沿いにあった。

このあたりはしばらく平らだ。

左後方には、昨日歩いてきた稜線が見える。

しばし立ち枯れの道を行く。

これはとても自然のものとは思えない。

左手の修覆山(1846m)は見えているが、右手の明星ヶ岳(1894m)にはまだガスがかかっている。


大黒岩ピークを振り返る。

おお、コケのクッション。

とうとう右手に八経ヶ岳が姿を現した。端正な三角形をしている。

南西方面。遠く山並みが続いているのだろうが、よく見えない。

八経ヶ岳は山腹も直線的な印象だ。

頂上付近に何やら黄色い看板が見える。

その右肩に覗いているのは明星ヶ岳。

弥山が近くなって、やや傾斜が出てきた。

右手がすっかり晴れてくれて、ありがたい。

相変わらず、立ち枯れの木が多い。紀伊半島をよく襲う台風と関係があるのだろうか。

おやおや、またガスが流れてきたけど大丈夫かな。

と思っているうちに、弥山神社の鳥居に着いてしまった。

ゆっくりなY子ちゃんの後ろを歩いているうちに、先頭グループとははぐれてしまったようだ。

ここが小屋と神社の分岐なのだが、おそらく神社に行っているだろうと思い、神社に行ってみた。

すると、前方から山伏の格好をした人に引率された信者&登山者が大勢下りてきた。

細い道なので、とても進めない。
諦めて待つしかない。おかげで随分待たされた。
たぶん、昨夜弥山小屋に泊まったツアーの方々なのだろう。
神社のあるところが、弥山の頂上である。

仲間は誰もいない。小屋の方に行ってしまったのかな。
とにかく、せっかく来たので参拝する。


社殿の手前には円形の石組があった。護摩を焚く場所だろうか。

なんだか、いやなガスである。

我々が行くまでに隠れてしまわなければいいが。

頂上付近もほとんど立ち枯れ。

弥山山頂の山名板がないのが不服だが、致し方ない。下ることにしよう。

下り始めると同時に、仲間たちが登ってきた。
先に小屋へ行ってトイレを済ませていたらしい。

私もだんだん催してきたので、トイレへ急ぐことにする。
小屋の前にも小さな鳥居があった。

そして、狼平方面への道標。

なんと、こっちに大きな山名板があった。

でも、やはり山頂にも欲しい気がする。
道標はあちこちにある。

ここから大峯奥駈道で、向こうは前鬼方面。

その背後には行者還岳方面。

後ろに見える小屋がトイレなので、急いで飛び込む。
でも、先客がいたので、我慢しながら、すぐ近くにある国見八方覗を覗きに行ってみる。

そこはテン場になっていた。

ガスで展望が得られそうにないので、すぐ戻る。

そうか、ここは世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部だったのだ。

トイレはやっと空いたようなので、急いで用を済ます。
そして、やっと小屋前の山名板のところで全員集合。

小屋の前には大勢の信者たちが集っていた。

彼らが出発してから小屋を探索。でも中には入らなかった。

再び、全員で国見八方覗へ。

少しの間にガスが晴れ、見事な雲海が広がっていた。

足元のコケも見事。


ガスの向こうにかろうじて大日岳(1689m)を望むことができた。

北の方角。

ここは眺望も素晴らしいのだろうが、庭園のような場所だ。


みな満足して、登山道に戻る。


さて、改めて八経ヶ岳に向かおう。
狼平から八経ヶ岳を周回するコースのコースタイムは3時間10分ほど。
狼平から弥山までは1時間だ。
でも時間はすでに7時半を回っている。1時間半もかかってしまった。
トイレ休憩や参拝などがあったとは言え、ちょっと時間がかかり過ぎ。
遅くとも10時までには、狼平に戻りたいのだが、大丈夫だろうか。
リーダーを仰せつかっているだけに、ちょっと不安になる。
すこし巻き気味に行かなくては。

(つづく)
【2016年5月14日(土)】狼平
標高1550m付近での小休止を終えて出発。

なだらかな道なので、疲れてきた身にはありがたい。

高原のそぞろ歩きといった風情である。


路面も歩きやすい。

正面に、頂仙岳(1718m)と思しきピークが見えてきた。

今日は見逃してやるが、明日はピークを極めたい。
Tさんが「このあたりが、ナベの耳というところだ」と教えてくれたので、彼が背負っているナベに耳をつけて、ふざけた写真を撮って遊んだ。

ピンクのリボンがあって、左に下って行く踏み跡があるようだが、「山と高原地図」ではもっと先の頂仙岳の手前に「ナベの耳」と書かれている。

Tさんに確かめはしなかったが、地図の間違いはよくあることだ。

1598mピークへの登りが始まった。

でも、ピークに行くわけではなく、これも巻き。

午後3時を回ると、雲が出て、なんとなく暗くなってきた。

みな口数も少ない。というか、しんがりにいて聞こえないだけかも。

このあたりが如来池・傘池と「山と高原地図」に書れている場所だが、すっかり涸れてしまったのか、跡形もない。

地形図にもそれらしき表示はない。

そして、頂仙岳を巻き始める手前が地図上の「ナベの耳」。

この巻き道はいきなり難所があった。

小崩落のため滑りやすくなっている。
それでも、難なくみなクリア。

さすがにY子ちゃんもお疲れの様子で、面倒見のいいSさんが付いていてあげている。

この巻き道は意外に傾斜がある。
巻き終えるまで標高差50mも登らされた。
結構長かった。
鞍部に出たあたりで、頂仙岳ピークへの踏み跡を探す。
「通行禁止」という看板がわざわざあるということは、このあたりなのか。

いや、そうではなく、もうちょっと先のどうやらこのあたりらしい。

ピークまで標高差は60mほどある。
状態によっては登りに15分ほどかかるかもしれない。
往復で25分みるとして、先行してしまう本隊に追いつくのはかなりしんどそうだ。
まあ、トレランして頑張ろう。
すっかり健脚者たちとは離れてしまい、3人でほんとに小休止。

かなりきつい巻き道だった。高崎横手というらしい。
オオカメノキが白い花を咲かせていた。

鞍部はしばらく平らな道。


すぐに狼平へ下る道と、八経ヶ岳(1894m)へ行く道との分岐に出た。

高崎横手出合という。

ここは左折して、狼平に向かう。

狼平まではずっと下りだ。

これはイノシシの足跡かな。

久しぶりの下りで気が抜けてしまいそう。

コケがこんもり。

左前方に、明日登る弥山(1895m)方面を初めて望むことができた。

下りは楽ちんなのだが、やや長い。

ちゃんこ鍋を楽しみに、我慢我慢。

左手は修覆山(1846m)だろうか。

登山道を横切る沢が見えてきた。

ここでもオオカメノキの白が鮮やかだ。

軽く渡渉。

水はとってもきれい。

いつのまにかY子ちゃんの見守りがMさんになっていた。

さあ、最後の急な下り坂。

下り切ると、弥山川沿いに下る道との分岐に出た。

上級者以外は通行不可とのこと。

おお、これまたひどいことになっている。

この吊り橋を渡れば、狼平だ。

今日は吊り橋に始まり、吊り橋に終わるというコースだった。

これは横木の間が空いているので、Mさんは怖いんじゃないかな。

なんとか午後4時になる前に避難小屋に着いた。
コースタイム4時間45分のところ、6時間半ちょっとかかった。

先着隊に聞いてみると、避難小屋はやはり混んでいるようだ。

女性陣4人のスペースは確保できたものの、それでいっぱいなので、男性陣はやはりテン泊となった。
Tさんのタープを含め、男子は各自みなテント持参なので、とりあえずすべて張ることにした。
O君の大きめのテントは女子更衣室としても活用してもらった。
食事の前にまずはテント設営。
これは私のとO君の。

こちらはSさんのテントと、Tさんのタープ。

この奥が、天然のトイレ。女性陣は苦労していた。

川の水で顔を洗い、身支度を整えて、宴会に臨む。

準備の整った人から順々に鍋の回りに集まってくる。

5時すぎには酒宴がスタート。
「たき火禁止」とあって、Tさんが悔しがっていたがやむを得ない。

鍋の具はエノキに白菜、春菊、ネギ、油揚げその他に豚バラと鶏肉。

量が分からなかったので、Tさんはネットで検索し、大学生8人が腹いっぱい食べられる量ということで用意してくれたとのこと。

鍋の中はみるみるなくなり、追加に次ぐ追加。
みんな食欲旺盛だ。
酒は、全員に1缶ずつの缶ビールor缶チューハイ。それに日本酒、ワイン、焼酎、ウイスキーとそれぞれ男子が500~700ccずつ担ぎ上げてきた。
話題はあちこち飛んで何を話したのかさっぱり覚えていないが、大いに盛り上がったことだけは間違いない。
7時すぎには暗くなったので、ランタンを灯して、ムード満点。

あまりに声が大きくて、寝静まっている小屋の方々や他のテン泊の方には迷惑をかけたかもしれない。
それでも、お互い何度も「小さい声で」と言い合ったのだ。
夜はどんどん冷え込んできたので、ダウンを着て、下は雨具も履いたのだが、下半身はそれでも冷えた。
イスが不安定な低い石だったので、ちょっと腰も痛くなったが、大したことはなかった。
楽しい夜も、回りの迷惑や明日の山行のことも考えて、8時半すぎにはお開きに。
キャンプファイアができないのは残念だったが、大満足だった。
女子2人は小屋の中が暑すぎて耐えられないと、Sさんのテントに寝ることになった。
Iさんはシュラフに入った途端に沈没してしまったらしい。
私は自分のテントで1人就寝。
地面が芝でそれほど固くなかったので、エアマットは使わず、丸まったままの状態のを枕代わりにした。
すぐに寝入ったが、9時半にすぐ目が覚めて、お小水。
さらに夜半の1時半にトイレに起きた時は、満天の星空で天の川も見えた。
明日も晴れそうだ。気をよくして、シュラフに潜り込んだ。
【行程】2016年5月14日
天川河合(9:23)~弥山登山口(9:33)~鉄塔(10:07休憩10:12)~門前山下(10:43休憩10:51)~林道出合(11:32休憩11:44)~小ピーク(12:07昼食12:27)~林道接点(12:40待機12:52)~栃尾辻(13:17休憩13:32)~フトンド横手(14:02休憩14:07)~1550m付近(14:40休憩14:48)~高崎横手出合(15:37)~狼平(15:56)
※所要時間:6時間33分(歩行時間:5時間15分)コースタイム:4時間45分
※登った山:なし
※歩行距離:9.8km
【2016年5月14日(土)】狼平
休憩を終え、林道から再び登山道に入る。

そこに「駐車禁止」の看板が。しかも、よくよく見ると、「大峯高野すずかけライン路線バス運行につき」と書かれている。
なんと、この林道はわりと最近まで一般車はもちろん、路線バスまで走っていたんだ。
調べてみると、少なくとも2011年まではバスが運行していたみたいだ。
やはり集中豪雨による土砂崩れ等で通行止めになってしまったのだろうか。
ちょっと、驚いた。
それにしても、いい天気になった。

右手は西の方角だが、山座同定は困難。


すずかけラインの擁壁に沿って登って行く。

確かに、よく見るとダートではあるが、よく整備された道だ。

ここにも遭難慰霊碑があった。

1965年5月3日に亡くなった人を偲んでいる。
「霊峰に捧げし命今もなお山ゆく人を守りたまえ」
合掌して通り過ぎる。
歩き出して、地形図をよくよく見ると、栃尾辻まで標高差150m。その間に小ピークを3つ越えないといけない(実際は、1つは巻いたので2つだったが)ことに気づく。

これではやはりお昼の時間が遅くなりすぎると考え、先頭のTさんに駆け寄って、もっと手前で昼にした方がいいのではと進言。
彼も快く承諾してくれた。

適地を求めてしばらく進む。

これはミヤマシキミ。

標高1300mの尾根に乗ったあたりで、Tさんが足を止めた。

ここで待ちに待った昼食だ。全員、ザックを置いて、それぞれ用意してきたものを頬張る。
みな、ご機嫌。私は最近マイブームの助六寿司。

休んでいる間、何組かの登山者が追い抜いて行った。
20分ほどで出発。

ここからはしばらくなだらかな登りが続く。


途中、ヘビを発見。

女子たちもあまり騒がず、興味深げに観察していた。
右手の山は相変わらず、よく分からない。

最初の小ピークは右側を巻いていく。
すると、再び林道が迫ってきた。

このあたりでO君が催してきた。

みんな先に行ってしまったし、私も置いていこうと思ったのだが、ここでヤマガラが「ツツピーツツピー」と鳴き出した。

さっきまでは「チクビーチクビー」と聞こえていたのだが、今度は「ツメテーツメテー」と聞こえてしまい、待っていてあげることにした。

その間に林道まで下りて、周辺を探索。

大規模な崩落ではないが、だんだんと崩れている様子が分かる。


このあたりは新緑が実に美しかった。



10分待っても来ないので、どうしたのかな、苦戦しているのかなと思い、ちょっと戻ってみたら、ちょうど這い上がって来たところだった。
「サングラス落としちゃってさあ、探してたの」
大事なくてよかった。
彼は遅れを取り戻すべく、先を急ぐ。

すると、すぐ上でみんなも待っていてくれた。

我々の到着と同時にすぐ出発。

足元にお花が目立つようになってきた。これはワチガイソウ。

しばらくゆるやかなアップダウンを経て、午後1時15分すぎに栃尾辻に到着。


ここには小さな避難小屋があった。

中を覗いてみると、床がない。

例によって、しっかり落書きも。意味ないので止めた方がいいですよ。

貸し付けの期間は昭和65年までとある。存在しない年号を書いた貴重な看板である。

ここから南西に進むと栃尾山(1257m)もしくは天の川温泉(坪内)に至るのだが、ロープが張られている。

山腹崩壊のため通行止めだ。
休憩しながら、みんなでいきなり磁石の使い方を復習した。

15分ほどで出発。

前方には、これから越えるべき小ピークが顔を覗かせている。

この先はかなりしっかりした登りが待っていた。オオビヌキ坂というらしい。


道標が地面に落ちていた。

みな黙々と登る。


かわいいサルノコシカケ。


だんだん立派な広葉樹林になってきた。

1518mピークのトラバースに入る。

フトンド横手という道だ。この地方では巻き道のことを「横手」というみたいだ。


見上げると、見事な新緑で、さすがに一同から歓声が上がる。

絶好の撮影ポイントであった。


足元にはまだ若者のマムシグサ。

トラバースの道は結構細いので神経を使う。


でも、巻き道は本当に助かる。

1518mピークに山名が付いていたら、うずうずするのだけど。

かれこれ登り始めて4時間半。

わりと変化に乏しいので、根気が必要だ。

こんな岩でも愛でることにしようか。


ミヤマシキミの実。

栃尾辻からまだ30分しか歩いておらず、巻き道の途中だが、ちょっとここで小休止。

つい休みたくなる倒木があったもので。
でも、ここは5分ほどで出発。
もう少し歩いて、やっと巻き終えた。

かなり広い鞍部に出た。

巻き道と言っても、40mほど標高を稼いだようだ。

次の小ピークまでは標高差100mほど。

間もなくナメリ坂に差し掛かる。

安定感のTさん。

すぐに、左手に下る道が現れた。

(振り返って撮影しているので、写真では右手)
「山と高原地図」では破線の道になっており、金引橋までは1時間ほどだ。
さて、本格的にナメリ坂の登り。

鞍部を振り返る。

目を上に移せば、1518mピークのシルエット。

足元にはコミヤマカタバミの花。

めずらしくガレた道になった。


標高は1550mに達した。

この先はしばらくほぼ平坦になる。

おっと、大福もちみたいなサルノコシカケ。

触ってみたら、当然のごとく固かった。
ここで昼食も含めて5度目の休憩。

さすがに休む頻度が多くなってきた。
(つづく)
【2016年5月14日(土)】狼平
バスで天川川合に9時に到着。
ここで、ビールや今夜の食材などを分担して受け持つ。
私も男の子ということでビール1缶、うどんと野菜を渡され、ザックの重さは1㌔増えた感じだ。
家を出た時は13㌔あったから、コンビニで買った食料や飲料も含め、これで15㌔になったはず。
さすがに重い。
3泊4日で飯豊山を縦走した時は、20㌔近く背負って歩いたが、昨年足首を骨折してからはずっと軽量路線だった。
4月下旬に七面山で10㌔ほどをかついで練習したつもりだが、大丈夫だろうか。
目指すはあの山のずっとずっと向こうだけど。

9:20すぎ、いよいよ出発。

まずは国道を歩く。

すぐ先の派出所に登山届を提出。

5分ほどで車道を離れる。

いきなり吊り橋だ。ここで標高は約600m。

高所恐怖症のため、「本日最大の核心部」と怖がっているMさんが先頭。

揺れないよう、1人で歩かせてあげた。
続いて、本日の隊長Tさん。今夜の宴に使う大鍋を背負ってくれている。

彼のトレードマークは地下足袋だ。
私が後に続く。
天ノ川はすばらしい清流である。


次々に仲間が渡ってきて、揺れるのだが、我慢して撮影。

O君も意気揚々。

橋詰めには「遊芸記念」と刻まれた石碑があったが、いつ建立されたものかは分からなかった。

昔の人も、この美しい渓流で紅葉狩りを楽しんだのだろう。
登山口まで再び車道となる。

でも田舎道なので気持ちいい。

歩き始めて10分の足馴らしで、いよいよ登山開始。

例によって写真を撮りまくる私が、しんがりとなる。

いきなりの急登だ。

みなザックが大きくて頭が見えない。

金網で階段を整備している登山道は初めてだ。

ぽつんと歌碑が立っていた。

「雪ふみて吉野の里の奥深く君ひたゆきし弥山への道」
平凡な歌である。誰の歌だろうと思ったままこの時は通過したのだが、帰りに裏を見たら遭難者の慰霊碑だと分かった。
遺族が詠んだのだろう。そう思うと、雪、奥深く、ひたゆきし、といった言葉が胸にしみてきた。
長崎の人らしく、亡くなったのは1992年12月31日。享年26歳という若さだった。
慣れない重量の荷物を抱えて、最初からこの傾斜はかなりきつい。

足元の若葉に慰められながら、一歩一歩、歩を進める。

幸い、先頭のTさんはゆっくりゆっくり歩いてくれる。
この林は、いわゆる吉野杉だ。

関東の杉とは違って有名な木だぞと思うと、元気も出る。

体力的に一番不安だったY子ちゃんも、毎週のように大山を歩いて鍛えていただけあって、遅れたりしないで頑張っている。

しかし、この傾斜はこたえるわい。

突然、吉野杉の林が終わり、広葉樹に。

間もなく、鉄塔の下に出て、一気に視界が開けた。
ここで標高は約830m。45分で230mほど登ってきた。

正面(東)。左端の尖塔は大日山(1689m)。その右は女性も登れる稲村ヶ岳(1726m)。

さらに右のギザギザはバリゴヤの頭(1580m)だろう。
ちょっと送電線が邪魔だが、アップにしてみた。


眼下には北角の集落。

みたらい渓谷も見えた。

左前方(北東)には観音峰(1348m)。

鉄塔の下を通過。

5分ほどTさんの説明を受けながら景色を堪能し、急登再開。

この標識は奈良県と天理大学ワンダーフォーゲル部が設置したもののようだ。

吉野杉の美林を行く。


傾斜がゆるみ、926mピークを巻いていく。

ホッとひと息つける瞬間だ。
間もなく、稜線に乗った。標高は920m弱。

朝がやや少なめだったので、お腹が空いた。
歩きながら、行動食用に買っておいたクリームドーナツを1個食べてしまう。

1時間20分ほど歩いたところで小休止。

道がちょっと屈曲していて、みんなが腰を下ろせるスペースがある。
ちょうど門前山(約1020m)の直下に当たる場所だ。
みんなでお菓子を分け合いながら、汗をぬぐった。
10分ほどで出発。

なんとなくおどろおどろしい感じの道を進む。


再び尾根に乗ると、しばらくなだらかな道が続く。


やはり杉林より広葉樹の方が癒やされるなあ。

標高1000mを超えて、やや傾斜が出てくると、右にトラバース。
1115mピークを巻く。

そして再び尾根に乗る。左手のピークには行かないよう要注意。

全員まだ元気だ。

みな不思議がっていたが、これは何という植物なのだろう。

成長すると、ウルトラセブンのワイヤール星人のようになるような気がする。

やっと広葉樹の森になった。

う~ん、気持ちいい。

11時半前に次の鉄塔に到達。一気に視界が開けた。
大日岳がやや近づいた感じがする。

観音峰の山体は結構大きいことを知る。。

これは西方向の山だが、特定できなかった。

そして洞川温泉の町並み。

標高は1150mを超えた。

ここまで2時間ほどで3km歩いてきたが、まだ先は長い。

11時半すぎ、一つの目標だった林道に出た。

ここで2度目の休憩をとる。

私はちょっと物陰まで歩いて、キジ撃ち。

その後、立ち休み。

一応、Tさんに昼食の場所について確認。
1時間ほどで栃尾辻に着くので、そこでお昼にする予定とのこと。
う~ん、みんな朝早かったし、もうお腹が空いている人もいるのではないか。
それに、このペースでは栃尾辻にあと1時間で着けるとは思えない。
登山口から栃尾辻までコースタイムは2時間45分。
現在、距離的にはその半分ちょっとまで来たが、2時間以上かかっている。
まあ、とにかく様子見ということにして、出発。

ほんの100mほど林道を歩く。

左手、バリゴヤの頭の小ピーク(左端)の奥に、ほぼ重なって見えるのは大普賢岳(1780m)だろうか。

その右に見えるのは、行者還岳(1547m)かもしれない。

手前はトサカ尾山(1119m)。
(つづく)
【2016年5月13日(金)】(移動)
この週末は、高校同窓会山岳部の初めての関西例会である。
大阪在住の後輩が1泊2日で大峯奥駈道のうち弥山、八経ヶ岳を歩くプランを提案してくれた。
こういう企画でもないと、なかなか行かないところなので、二つ返事で名乗りを挙げた。
宿泊は狼平。避難小屋が満員で泊まれないことも想定してテン泊の装備。
ザックはいつもより相当重いが、夕食の鳥ちゃんこ鍋が楽しみだ。
参加者は総勢8人(男4人、女4人)。
期で言うと、31期3人、34期3人、35期1人、40期1人ということになる。
8人のうち7人は関東勢なので、ほとんどが前泊で臨んだ。
私は同期の盟友O君(裾野在住)と名古屋で合流、近鉄特急で大和八木(奈良県橿原市)まで宴会を繰り広げる予定だ。
巨大なザックを会社に持っていくのは恥ずかしいので、朝のうちに東京駅のコインロッカーに隠しておいた(週明けから、伊勢志摩サミットのため使用不可になったので、ギリギリセーフだった)。

会社をいつもより早めに退社して、18:00ちょうど発ののぞみ121号岡山行きに乗車する。
O君が名古屋でひつまぶし弁当を買っておいてくれるとのことなので、駅弁は買わず、つまみだけにしておいた。

まだ、明るいのでしばらく車窓を楽しむ。
前日、旧東海道歩きで見てきたばかりの多摩川を渡る。

夕景の大山。

箱根の向こうに富士山のシルエットも確認できた。

登る対象は違えど、こうして前日に山を眺めるのは、私にとって相撲の仕切りと同じ。
気分が高揚してくる。
間もなく夕闇が訪れたので、飲みとfacebook遊びに専心する。
他のメンバーもそれぞれに大阪へ向かっており、交信しているだけで暇がつぶせる。
名古屋には19:40着。

近鉄線へと急ぐ。

しかし、様子がおかしい。
改札口の前が通勤客でごったがえしている。
なんと信号故障で、近鉄名古屋線が止まっているとのこと。
よりによって、この日のこのタイミングでアクシデントとは。
でも、人ごみの中でお互いを見つけるのは容易だった。
こんなに大きなザックを背負っているのだから目立たないはずはない。
運転再開の目途も立たないようなので、二人で協議の上、新幹線に乗り直して、京都経由で行くことにした。
せっかく、特急券をネット予約して支払いも済ませていたのに、がっかりだ。
しかも、かなり余計な出費を強いられた。
もともと、大和八木まで名古屋経由だと1万3980円で済むはずだった。
これは京都経由で行くより、到着は5分遅いが、880円安い。
しかし、いったん名古屋で下り、また新幹線に乗り直して京都経由となると、1万7210円もかかる。
近鉄のせいで、3230円も損したわけだ。
本当に損害賠償で訴えたいくらいだ。
すぐにJRに引き返し、入線してきた20:03発のぞみ249号新大阪行きに乗り込む。
しかし、2人並んで座れる席があるはずもなく、京都までの35分はデッキで立ちっぱなし。
O君と近鉄にブーブー文句を言っていた。
20:38京都着。うひょ~特急橿原神宮行きは20:45発だ。

あわてて、近鉄の窓口で特急券の払い戻しをして、新たに近鉄京都線の特急券を買い直し、ついでに売店でお酒も追加して、電車に飛び乗った。
いやいや綱渡りである。
やっと落ち着いて、O君と飲める。

そして、お待ちかねのひつまぶし。

しら河の「うなぎまぶし」は税込み2268円もする高級弁当だ。

買ってから随分時間が経ってしまったが、まだ何とかぬくもりは残っていた。
お茶漬け用のタレも付いていたので、半分はお茶漬けにして食べた。
美味しかったが、ご飯の量が異常に多く、お腹パンパンになってしまった。
大和八木には1時間もかからず、21:33に到着。

ここはかつて何度も通った町だ。
10年近く間が空いていたが、たまたま去年、田原本で仕事があって来たので、ほぼ1年ぶりということになる。
古い街並みを10分弱歩いて、今宵の宿「ビジネス観光ホテル河合」に到着。

宿泊はツインで、1人3400円の安さだった。

この日はそれぞれシャワーを浴びて、23時くらいには寝てしまったような気がする。
【2016年5月14日(土)】狼平
前夜、早めに休んだので、結構早く目が覚めてしまった。
窓の外を見ると、予報通り、よく晴れている。
宿の食事は7時からだったが、バスの時間との兼ね合いもあり、6時半にしてもらった。
パッキングを済ませ、出発の準備を完了して1階の食堂に下りる。
朝食の準備ができる前に、ちょっとだけ外に出てみた。
結構地味なホテルなのだが、車の人がかなり泊まっていて、びっくり。

向かいには芭蕉の句碑があった。

「草臥(くだびれ)て宿かる此(ころ)や藤の花」
芭蕉が貞享五年(1688年)四月十一日、「笈の小文」の旅で、八木町の宿に一泊した時に詠んだものだそうだ。
泊まった宿がどこにあったのかは不明だが、当時面影を残すここ札の辻界隈に句碑を建立したとのこと。

ホテルに戻って、朝食。トーストにゆで卵、バナナ。実にシンプルである。

10分で平らげ、6:40に即出発。
近鉄線の踏み切りが鳴り始めたので、駆け寄る。
特急上本町行きが通過して行った。

電車が通り過ぎると、大和三山のひとつ耳成山(139m)が姿を現した。

テツにかまけている間に先に行ってしまったO君の後を追う。
その途中でも、マンホールチェックは忘れない。

駅前のコンビニで今日明日の昼飯(助六寿司&パン)と飲み物を購入。
大和八木駅から7:17発の電車に乗り込む。

6分で橿原神宮前駅に到着。

ここで、急行吉野行きに乗り換える。
入線してきた電車には、我々が乗ろうとした乗車口のすぐ横に女性陣2人が乗っていた。
「お~、おはよ~」と挨拶し、向かいのシートに陣取る。
回りにも、山仕度の高齢女性がたくさん。
話しかけられたので、こちらの行き先を話すと、全く同じだった。
ただ、彼女たちは下市口駅からタクシーで行者環トンネルまで行き、そこから弥山に登るとのこと。そのコースだと3時間で、弥山に着く。
当然、彼女たちの泊まりは弥山小屋となる。
こちらはずっと手前の天川河合から歩き始めるので、今日のところは弥山のふもとの狼平まで。コースタイムは4時間45分である。
GWは混雑するだろうから、あえて1週遅れのこの日を選んだのだが、この日弥山で何か催しがあるらしいことが後に判明。
おばちゃんたちはそれに参加するらしい。
下市口に着くまでの30分ちょっと、彼女たちと会話しながらの旅となった。
向かいではやはり、女性陣が別のおばちゃんたちに捕まっていた。
8:01下市口駅に到着。

同じ電車に乗っていたSさんとも合流して、駅前に下り立った。

すでに到着していた主宰者のTさん君とも合流。これで6人。
駅前にはすでにバスを待つ登山者が列をなしていた。

私はとりあえず、会社に着てきた服など余計なものをコインロッカーに預ける。
当初は宿から宅配便で送り返そうかと思っていたのだが、ロッカーがあるという情報がTさんからもたらされたので活用することにした。
宅配便だと1000円以上かかるが、ロッカーなら2日預けても600円で済む。
余計な荷物が2㌔近くあったので、ほんとに助かった。
バスが出るまでの間、しばし駅前を偵察。

ここは下市口という駅だけあって、まだ下市町ではない。

大淀町である。

一応、駅構内も記録に残しておこう。

乗客はバス1台だけでは乗り切れず、2台で発車した。
正規のバスに乗り切れなかった人は2台目に移動したが、あちらの方が天川川合まで直通するという。
早く行きたい方はそちらへ移動してもいいという運転手の呼びかけがあったが、どうせ途中のバス停にはほとんど止まらないはず。
そんなに到着時間に差はないだろうから、そのまま留まった。
でも何人かが移動してくれたおかげで、膝の上に置いていたザックを床に下ろすことができた。これまた助かった。
8:20発車。バスは洞川(どろがわ)温泉行きである。
紀ノ川を渡って、下市町に入り、古い町並みを通り過ぎて、バスはどんどん高度を上げていく。
我々は天川川合で下車。

時刻はちょうど9時。40分かかった。
ここで、残る女性陣2人と合流。8人全員が集結した。
彼女たちは前日早くから現地入りし、山上ヶ岳方面の女人結界などを確認し、洞川温泉に泊まっていた。
Y子さんが財布を無くしてしまい、ちょっと大騒ぎになったらしいが、無事発見されたとのこと。これは後ほど暴露された話だ。
当方は、先月七面山で購入したイチイの腕輪を宿に忘れたことに気づき、電話を入れた。
「お風呂の蛇口に掛けてあるはずなので、着払いで送っていただけませんか?」
風呂に入った時、こんなところに掛けておくと絶対忘れるんだよな~と気を付けていたのに、やっぱり忘れてしまった。
後日、ちゃんと送っていただいた。宿の方、ご面倒をおかけしました。

(バス停の裏の渓流)
(つづく)
【2016年5月12日(木)】旧東海道
六郷神社の境内に入る。
参道がかなり立派だ。


左手には神職の方のお住まいと思しき住宅があった。

貞享二年(1685年)に六郷中町の有志が願主となって奉納された狛犬。

この頃になると、「現世利益」を造立願意とするものが増えてくるが、これはまだ中世的な「二世安楽」。
造形的にも他には類を見ない独創的なもので、実にユーモラスである。
明治16年(1883年)に架けられた旧六郷橋の親柱が、境内に保存されていた。

慶長五年(1600年)に家康が架設した六郷橋は貞享五年(1688年)の洪水で流され、それ以後は186年の長きにわたり、橋は架けられなかった。
明治7年(1874年)に八幡塚村の名主鈴木左内が私財を投じて、有料橋を架けたが、この「左内橋」も4年後には流失してしまう。
そこで明治16年、八幡塚村と対岸の川崎駅の有志が共同で、木橋の「旧六郷橋」を建設した。これは明治30年(1897年)に架け替えられ、電車も通るようになったが、明治43年(1910年)の台風による洪水で再び流失。大正14年(1925年)に鉄筋コンクリート製のタイドアーチ式の先代「六郷橋」が開通した。
旧六郷橋の遺構である親柱は昭和元年(1926年)、切妻屋根を付して、六郷神社境内に保存された。この屋根は2年前に更新されたものである。
氷川神社などの境内社。

広橋真光伯爵(1902~97年)が謹書した石製の古い扁額。

真光(ただみつ)は戦前の内務官僚で、近衛文麿、東条英機両首相の秘書官を務めた人物。
これは井戸枠だろうか。

その他さまざまな石碑が林立する。
六郷講社の碑。

こちらは御嶽講社(右)。

東郷平八郎の筆になる忠魂碑。

六郷神社創建の由来を記した「旗懸之杉由来」碑。

いったん、南側の「正門」に出てみた。

鳥居の手前に、梶原景時寄進と伝えられる石造の太鼓橋「神橋」が残されている。

この穴は何だろう。

やっと拝殿。

もちろん参拝する。

向かって左側に神楽殿。

近所の奥様方がくつろいでいた。

第一京浜は新六郷橋へと登っていくが、旧東海道はその左側を旧渡船場へと続いている。


その沿道には、古い町工場が昭和の雰囲気を漂わせていた。


六郷橋のバス停を通過。

新六郷橋のガードをくぐる。

すると右手に大田区立の公園「宮本台緑地」に出る。

ここには先代六郷橋の遺構が保存されていた。


これは鉄製のゲートだったのだろう。

近くには、「六郷の渡し跡」の案内板が立っていた。

多摩川の土手の下には「止め天神」。

「止め」とは「川止め」のことではなく、天神様が8代吉宗公の落馬を止めたという故事にちなむという。

「通りゃんせ」の標柱。

江戸時代には成立していたわらべうただが、発祥の地は小田原の菅原神社もしくは川越の三芳野神社と言われている。
なぜ、ここにあるのか。単に天神様だからか。
しかし、この歌、「帰りはこわい」の意味がよく分からない。
諸説あるようだが、いずれも「こわい」話だ。
千年石と万年石。

もともとは力石だったが、村人が健康で長生きできるように願い、ここに安置して、なぜるようになったという。
もう夕暮れということもあり、社殿には灯りがともっていた。

お参りして、土手に登る。

多摩川である。

京急の六郷橋。

もうすっかり日も暮れてしまったので、本日の旧道歩きはこれにて終了。
六郷土手駅から戻ることにする。

その前に駅周辺を偵察。
老舗っぽい和菓子「梅泉の伊東」。

この角を右折すると、旅館街。


宿場町だった時代の名残だろう。
連れ込みも可なのだろうが、見た感じは健全な宿に感じられた。
打ち上げは雑色駅近くでと思っていたが、面倒なので、近くの店に入ってしまった。

とにもかくにも。キンキンに冷えた生ビール。

つまみは赤貝とイワシの刺身。

40分ほどでさくっと切り上げ、電車に乗る。

炭水化物を何も食べなかったので、乗り換え駅の品川で、広島みはら港町「八天堂」のくりーむパンを購入。

甘さ控えめでヘルシーだったが、もう少し甘くてもよかったかな。

というわけで会社にはもちろん戻らず、直帰。
次回の旧東海道は六郷土手からのスタートになる。
(おわり)
【2016年5月12日(木)】旧東海道
この日は平日だが、午後品川に仕事ができたので、会社には「直帰」ということにして、旧東海道歩きの続きをすることにした。
仕事は午後5時前に終了。5時過ぎに品川駅から京急線に乗った。
前回(5月8日)は梅屋敷駅まで歩いたので、今回はそこから歩くことになる。
平和島で各駅停車に乗り換えて梅屋敷に着いたのは17:19。


早速、歩き始める。

しばらくは味気ない、第一京浜を南下する。
拡幅工事が予定されているのか、右側は幅広く空き地になっている。

取り残された、これら昭和の香りのする飲み屋なども早晩、取り壊されるのであろう。


駅から200mほどで、右手に梅屋敷公園が現れた。


江戸時代の商人、山本忠左衛門がこの地で和中散(道中の常備薬)の売薬所を始めた。
その子、久三郎が文政年間(19世紀初め)、三千坪の敷地に梅の木100本をはじめ、カキツバタなどの花々を植え、茶屋を開いたのが、梅屋敷の始まりとされている。

当時は12代将軍家慶が鷹狩の休憩所にしたほとで、東海道を行き交う旅人にも親しまれ、梅の咲く春には大勢の観梅客で賑わったという。

その後、明治天皇がことのほか梅屋敷を愛し、明治元年(1868年)から30年(1898年)までの間に9回も行幸したという。

とくに明治6年3月6日の観梅のおりには自ら梅の木をお手植えされたとのこと。
この梅は後に「仙粧梅」と呼ばれて、庶民にも親しまれたらしい。
そんな由緒もあり、梅屋敷は昭和8年に史蹟に指定され、昭和28年、大田区に譲与された。
ゆえに、正式には「大田区立聖蹟蒲田梅屋敷公園」という。

当然のごとく、すでに梅は終わっていたが、キショウブが見頃を迎えていた。

園内には、かつて自然石の里程標があったらしい。

(これは復元)
「距日本橋三里十八丁」「蒲田村山本屋」と刻まれていたとのこと。
伊藤博文や木戸孝允が梅屋敷で新年の宴会を開いた時、二人が合作した絵の中にも、その里程標は描かれていたという。
残念ながら、里程標は戦後失われてしまった。

このほか、梅屋敷とゆかりの深い山本久蔵の句碑が残されていた。

天保五年(1834年)の建立で「神酒ささぐ間に鶯の初音かな 麦住亭梅久」と刻まれている。
こちらは久蔵が弘化三年(1846年)に梅路と号して建立したもの。

「しら梅の梢や月の高みくら 七十五歳梅路」「松竹は表にうらハ梅の春 六十五歳梅志」「弘化三年のとしきく月 梅家女誌」
とある。梅志とは久蔵の妻のことであろう。
二人の墓は蒲田の妙典寺にあるという。
こちらは復元された歌碑。

「旅人の神に手向の幣代や白絹咲きし庭中乃梅 狂歌堂真顔」
真顔は江戸後期に数寄屋橋で汁粉屋を営んでいた狂歌師、戯作者だそうだ。
旅人だけでなく、文人も集まる場所だったのだろう。
園内にはかつて多数のこうした石碑があったらしいが、戦後の混乱期にほとんどが失われてしまった。
今はそれらしく整備がなされてはいるものの、当時の風景とはまるで違うのだろう。

ここも拡幅範囲内になっているようだが、つぶされてしまうのだろうか。

何らかの形で残してほしいものだが。
ここに「大田区体育館」の門柱があるのは、かつてここが体育館への入口だった名残だろうか。

さて、第一京浜に戻ろう。

日本橋まで15km。さっき「三里十八丁」とあったが、ほぼその通りだ。

多摩堤通りと交差。右折するとJRの蒲田駅だ。

京急蒲田駅に続く高架線。

夫婦橋で呑川を渡る。


すぐに京急蒲田駅。


かなり巨大な駅だ。

第一京浜をまたぐ京急羽田線。

羽田線は2段になっていた。

六郷用水は多摩川の狛江市付近から引いた農業用水で、今の世田谷区や大田区を潤していた。

慶長二年(1597年)から14年を要して築かれたが、今は大半が埋め立てられており、跡地の一部が「六郷用水物語」として遊歩道になっている。
第一京浜があまりに殺伐としているので、ちょっと脇道を歩いてみた。

右手に熊野神社があったので参拝。

石の扁額は破損がひどく、結構古そうだ。

でも社殿は比較的新しかった。

お隣の稲荷神社。

狛犬に力石。


少し進むと雑色駅に到着。

ここの商店街はかなり楽しそうだ。

帰りはここで途中下車して、一杯やって行こうかという気になる。

でも明るいうちはまだ歩くことにしよう。
う~ん、でもそそられる~

再び、六郷用水通過。

間もなく、六郷神社の門前に。

このあたりは多摩川を渡る六郷の渡しがあり、かつてはかなり賑わっていたらしい。

天喜五年(1057年)、東北地方で起こった反乱の平定のため、源頼義・義家父子が向かうことになった。
その途上、ここにあった大杉に源氏の白旗を掲げて、軍勢を募り、石清水八幡宮に戦勝を祈願した。
見事、乱(前九年の役)を平らげた父子は戦勝を祝って、石清水八幡宮をここに勧請した。それが、六郷神社の始まりとされる。
(つづく)
【2016年5月8日(日)】旧東海道
磐井神社を後にして、南下を続ける。
密厳院を探しに、第一京浜を離れたが、なかなかたどり着けない。
今にも取り壊されそうな古いアパートを見つけただけ。


どうやら、すぐ手前を左折して迷ってしまったようで、随分遠回りをさせられた。


ここには、八百屋お七を供養するために造立された地蔵菩薩が安置されている。

彼女は、恋人に会いたいばかりに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑(天和三年=1683年)に処された人物である。
地蔵はお七の三回忌にあたる貞享二年(1685年)に、小石川村百万遍念仏講中が建立。
最初は鈴ヶ森刑場にあったが、ある日一夜にしてこの寺に飛来したという伝説がある。
その隣には、寛文二年(1662年)建立の庚申塔。
石造舟形で阿弥陀如来を彫った庚申塔としては、かなり古いものだという。
境内にはそのほか、いくつもの石仏・石塔が集められていた。




太子堂。

本堂そのものは近代的なビルだった。

参拝は省略して、東海道に戻る。

しばらく行くと、大森神社。

社殿そのものは新しい。

ここも見学だけにとどめ、先に進む。間もなく平和島駅。

平和島駅に寄るために、ちょっと行き過ぎたので、数百m戻る。
二又の左手が旧東海道。今は三原通りと呼ばれている。

この先900mは当時の幅員を比較的よく残しているのだそうだ。


なんと廻船問屋が健在だった。

右手に美原不動尊。

提灯に灯りがともっている。

本堂の中では法要を営んでいる様子だった。

古く見えるが、昭和25年に建立されたばかりのようだ。

この通りのお店はみんなシャッターに浮世絵の絵柄が書かれている。

戦前は、映画館や芝居小屋、寄席などがひしめく繁華街だったらしい。

「三原」の語源は「北原」「中原」「南原」と三つの原があるからだった。

こうした案内板をいくつも設置してくれて、とても親切だ。
「中氷の氷」は評判だったらしい。いつ頃の話なのか知りたかった。

休憩用のベンチもあちこちに。

まだ、通りはしばらく続く。

旧東海道の標柱はあるが、街道歩きの人はあまり見かけない。

ほとんどが地元の人。その証拠に自転車が多い。

左手に徳浄寺。なんかインド風。

創業享保元年(1716年)の老舗「餅甚」。

内川を渡る。

ここは羽田に向かう羽田道の基点。

かつて、歌舞伎「浮世塚比翼稲妻」(鶴屋南北作)で有名な旅籠「駿河屋」があったので、「するがや通り」とも呼ばれるとのこと。
三原通りは大森警察署の手前で産業道路及び第一京浜と再び合流する。
その大森警察署の裏に、西南戦争(1877年)と日清戦争(1894~95年)に旧大森村から従軍し、戦死した兵士の慰霊碑が並んでいる。

警察署あった場所にはもともと、大森町役場・大森区役所があったとのこと。

昭和6年に建設された鉄筋コンクリート3階建ての建物だったという。
昭和15年に役所が移転したのちは、ずっと警察署として使用されてきた。
ちょっと街道から外れて、大林寺に向かう。
この辺は、かつて町工場が多かった地区なのだろうか。

鰯のおいしそうな店。ゆっくり飲みに来たいが、そう簡単には来られないだろうなあ。

享保14年(1729年)に、大森村の甲子講という日蓮宗の信者たちが建てた池上道道標が境内にあるというので、わざわざ来たのだが、もう門が閉じられていた。

参拝は午後4時半まで、とある。
今はもう6時前。全然お話にならなかった。
池上道とは池上本門寺に至る道のことで、今の京急梅屋敷駅あたりで東海道から分かれていたというから、ある時期にここに移設されてきたのだろう。
覗き見するだけで諦めた。

なんだか、じわじわくる名前のお店だ。八百長だから激安できるのだろうか。

日没前に第一京浜沿いの貴船神社に参拝。

最近、少し移転したような雰囲気がある。

さて、本日はこのくらいにしておこう。

梅屋敷駅から帰ることにする。

その前に、高架下にぽつんと残った洋品店「橋本屋」をチェック。

もう6時になってしまった。
この日は4時間弱で12kmほど歩いた。
10日にわたるGWはこれにて終了。
10日のうち勤務は1日、札幌帰省2日、残り7日は鎌倉の超低山も含めみな山だった。
われながら呆れます。
(おわり)
【2016年5月8日(日)】旧東海道
立会川商店街から浜川砲台に向かう。
その途中で旧東海道を横切る。
その交差点で、立会川に架かるのが浜川橋。

家康の時代に初めて架けられ、今の橋は昭和9年(1934年)の竣工だという。
江戸時代、鈴ヶ森刑場に送られる罪人を家族がこの橋で見送ったことから、「涙橋」とも呼ばれたらしい。
川に沿って、海の方へしばらく歩く。

おお、幟が出てきた。観光名所なのだ。

新浜川公園に、砲台の大砲が復元展示されていた。

嘉永六年(1853年)のペリー来航を受けて、鮫洲に下屋敷を持っていた土佐藩は幕府に砲台を築くことを願い出る。
翌年ペリーが再び来るまでに、土佐藩は8門の大砲を備えた砲台を築いた。
そこに、佐久間象山から砲術を学んだ20歳の坂本龍馬がいたわけである。

ついでに、土佐名物、鯨のモニュメントまであった。

さらには黒船?

龍馬の遺跡を後にして、旧街道に戻る。
浜川橋を渡ると、右手に天祖神社。

結構、大きな鳥居だ。

境内には厳島神社。

本殿。

略式で参拝して、再び街道へ。

競馬場通りを渡る。

見事な看板建築。

今歩いているのは、このあたり。

旧街道らしいカーブを描いている。

こちらもレトロな感じ。


鈴ヶ森中学校。

私にとっては、鈴ヶ森と言えば刑場なので、かなり際どい名称に思えるが、地元にとっては普通に地名なのだから、全然違和感はないのだろう。

浜川神社の標柱はあったが、神社そのものはどこにも見当たらなかった。

せっかく横に案内板があるのに、神社に伝わる文書のことばかり書かれていて、肝心の社殿のことは触れていなかった。
鈴ヶ森刑場跡は旧東海道と第一京浜が合流する地点にある。
まずは仏様のために、題目を唱えなければならない。

池上本門寺の二十五世貫首日顗(にちぎ)の筆になるもので、元禄十一年(1698年)もしくは元文六年(1741年)の建立と考えられているそうだ。

なぜか鯉塚。

「永代 鈴ヶ森 御花講新橋」とあるが意味はよく分からない。

磔のための柱を差し込んだ台石。

柱の上部に罪人を縛り付け、刺し殺したらしい。
火あぶりの刑で使われた火炎台。

ここに鉄柱を差し込んで罪人を縛り付け、足元に薪を積んで生きたまま焼き殺されたという。あの八百屋お七もそのように処刑された。
ついでに水難者の供養塔もある。

「一切の業障海は皆妄想より生ず」

「海のようにひろがり満ちている人間の一切の業(行為)の過ちも、それに原因する心身のさまざまな障りも、すべて自分中心に考える妄想から起こる」という仏教の教えである。
受刑者の墓。

ここは「鈴ヶ森遺跡」として都の旧跡に指定されている。

鈴ヶ森刑場は慶安四年(1651年)に開設されたお仕置き場である。
間口40間、奥行き9間の規模があった。
第一京浜の拡幅により、遺構はほとんど残っていないらしい。
となりにある大経寺は実に近代的だが、当時受刑者を供養するために立てられた寺だ。

首洗の井。

大地震や火災で横死した方々を供養する「殃死者供養塔」。

馬頭観世音まであった。

とにかく死にまつわるものをすべて集めてきたというか、ここに建立したようだ。

何度も手を合わせて、刑場跡を後にする。

この先、旧東海道はしばらく第一京浜に吸収される。

味気ない国道歩きが続く。
右手に大森海岸駅。

さらに南下すると、歩道に「磐井の井戸」跡がある。

「磐井」と呼ばれる古い井戸で、もともとは磐井神社の境内にあり、東海道を行き交う旅人の喉を潤した。
「霊水」または「薬水」と呼ばれるほど親しまれたが、道路の拡幅により歩道上に残されてしまった。
土地の人々は、心正しければ清水、よこしまならば塩水の味がすると伝えている。
その磐井神社はすぐ先。

かつては武蔵国の八幡社の総社に定められたほど格式が高く、10世紀に編纂された『延喜式』にも記載されている式内社だ。

別名、鈴森八幡宮とも呼ばれ、歴代の徳川将軍も参詣したと伝えられている。

この神社には、鈴石と呼ばれる不思議な石が保管されているそうだ。
延暦年間(782~806年)に武蔵国国司だった石川氏が奉納した神功皇后ゆかりの石と伝わる。
これを打つと鈴のような音がしたことから、「鈴石」と呼ばれ、「鈴ヶ森」の地名の由来にもなったという。
ここには、鳥の文様が浮き出した自然石の「鳥石」も保管されているのだとか。
江戸時代の書家松下烏石(?~1779年)が寄進したものとされる。
その由来を記したのが、この「鳥石碑」(元文六年=1741年建立)。


その隣に、ほとんど文字が読めないが、竹岡先生書学碑(寛政八年=1796年建立)。

その右に、復(退)筆塚(天明六年=1786年建立)。

他にも、皇太子の野立記念碑や力石など、様々なものが集められていた。



(つづく)
【2016年5月8日(日)】旧東海道
海晏寺境内を散策中。
これは与謝蕪村とともに「天明の六俳客」と呼ばれた春秋庵白雄の墓。

その師匠にあたる白井鳥酔の墓もあったらしいが特定できなかった。

その他の施設は比較的新しい。


岩倉具視らの墓は裏の丘の上にあるとのことなので、墓地への階段を登ってみた。

しかし、見当たらない。

隈川宗悦。調べてみたら、幕末から明治期に活躍した医者だった。

探し回った結果、岩倉や春嶽の墓は柵で囲われ、立ち入れないところにあることが分かった。


柵の隙間から撮影したが、家族や侍女の名前しか見つからない。

春嶽本人の墓はこれだろうか。

どうもよく分からないので、境内から出て、外側に回ってみることにした。
大回りをして、寺の裏側に来たが、入口や拝所や案内板があるわけでもない。

やっぱり柵から覗くしかなかったが、結局は春嶽の墓も岩倉の墓も特定できなかった。

仕方ないので、諦めて旧東海道に戻る。

このあたりにも古い家屋が残っている。

仙台坂公園の横を通って、青物横丁のバス停に下りてきた。


もう1時間以上歩いているのに、まだ青物横丁から進んでいないなんて。

この調子では、生きているうちに京の都には着けないかもしれない。
歩道橋から仙台坂を望む。

その名は近くに仙台藩の下屋敷があったことにちなむ。
下を仙台坂トンネルが貫通する1本南の通りが、本来の仙台坂だが、交通量が多くなったため、この池上通りが新たに仙台坂と呼ばれるようになったという。
こちらは第一京浜(国道15号)。

旧東海道を右折した地点に戻るべく、しばらく第一京浜を歩く。

「299m」とは、正確な距離というより、目に訴える数字にしたかったのだろう。
再び幸稲荷神社の前を通過。

さっき見た石塔だが、正面に「鮫洲正観世音菩薩道場」、側面に「建長三年 最明寺時頼郷安置」と刻まれている。

建長三年(1251年)、品川の海に大きな鮫の死体が上がったのを不審に思った漁師がその腹を割いたところ、中から観音菩薩の木像が出てきたという。
それから、このあたりを鮫洲と呼ぶようになり、時の執権北条時頼がこの観音像を安置する堂宇として開山したのが海晏寺であることを、この一文は示している。
この先は竜馬ゆかりの道だ。

品川から離れて、随分静かな雰囲気になった。

老舗っぽい赤飯のお店「蒲田屋」。

鮫洲駅にも立ち寄っておく。

鮫洲と言えば、運転免許試験場。それだけに、その手の代書屋さんが駅前にある。

この辺の見どころを案内図で確認。

また、街道を離れ、山内容堂の墓に行かなくてはならない。
駅の中には、こんなボックスがあった。

容堂の墓に行くべく、再び第一京浜を渡る。

渡ると、国道沿いは大井公園となっており、ここに仙台藩の下屋敷跡があったことを示す碑があった。

容堂の墓はその南にある。

巨大な墓石である。

塚の真上に墓石を置かないのは何か意味があるのだろうか。
山内容堂(豊信)はいわずと知れた幕末期の土佐藩主。開明的な言動が災いし、一時、大井村の下屋敷に蟄居させられたことがある。
維新後は内国事務総長となったが、すぐに引退。明治5年に45歳の若さで亡くなった。
遺言によって、大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていたこの地に葬られたのだそうだ。
敷地内にはいくつか係累の墓があった。


大井公園を後にして、旧街道に戻る。
鮫洲駅の東には八幡神社が鎮座する。

境内には出世稲荷。

扉で閉ざされているが神楽殿。

社務所かな。

百度石。

平林九兵衛は明治期の政治家。

小さな富士塚。

池があるから弁財天かな。


鳥居をくぐって、やっと街道に出る。

鮫洲商店街のシンボルはやはり鮫だった。

おそば屋さんの「鈴乃家」。

格子窓の家。

もう廃業してしまったのか、「矢部食品」。

これはもう判読不能。

右手に白玉稲荷神社への路地。行ってみよう。

白玉だけど、やはり稲荷だから赤い。

路地はやはり生活臭にあふれている。

おお、民謡歌手大塚文雄の道場を発見。

嶺雲寺。境内はパスした。

老舗の風情がある蕎麦の「吉田家」。

のれんがかっこいい。

たけのこせんべい? 変わった煎餅を売っている「大黒屋」。

仲町稲荷神社。これも行ってみよう。

地元のおばさんがお掃除をしていた。

このあたりの商店街がかなり寂れている。

昔ながらの煙草屋さん。

右折すると、いきなり賑やかになった。立会川商店街だ。

こういうディープな感じには、かなりそそられる。
しかも甘味とラーメンというのが何とも不思議な組み合わせ。

ここは龍馬ゆかりの街であった。

嘉永六年(1853年)の黒船来航のおり、龍馬は土佐藩の品川下屋敷近くにあった浜川砲台の警護にあたった。
地元の方々は、龍馬が志を立てた原点であると認識して、慕っているようだ。

ここから浜川砲台跡までは200mとのことなので、そちらにも行ってみることにする。
その前に立会川駅もチェック。


何だか、街道歩きというよりは、旧街道をはさんで左右ジグザグにうろついている感じだ。
駅前で立会川にかかる橋は、ボラちゃん橋というらしい。

この橋が京急線の高架化に伴い人道橋となったのを機会に、愛称を公募したところ、「ボラちゃん橋」が一番多く寄せられたという。
平成15年にボラが大量発生して、立会川が一躍有名になったにちなむらしい。
今も少しは来るのだろうか。

この汚染状態では難しいのかもしれない。

それにしても、何の色だろう。
一つ下流の端は弁天橋。

砲台そばが食べられる大村庵本店。

いつか、立会川のそばめぐりもしてみたい。
(つづく)
【2016年5月8日(日)】旧東海道
GWの最終日。帰省していた札幌から戻ってきた。
羽田空港には昼過ぎに着いたので、このまま帰宅するのはもったいない。
せっかくだから、2月に始めた旧東海道歩きの続きをすることにした。
前回は、品川から青物横丁まで歩いたので、その先ということになる。
京急の羽田空港国内線ターミナルから電車に乗り、新馬場で下りた。
よくよく考えたら、青物横丁で下りればよかったのに、前回、銭湯に寄って新馬場駅から帰宅したので、新馬場までしか歩いていないと勘違いしてしまった。
ちょっと損した気分だが、まあ仕方ない。
歩き始めた時はもう14時を過ぎていた。

駅から出ると、公衆便所にかわいい衛兵。

旧東海道に出るまでの道には寺が多い。
いちいち境内を見学していると日が暮れてしまうので、どれも門だけ確認するにとどめて通過した。
これは妙蓮寺。

となりに蓮長寺。

向かいに本栄寺。

心海寺は真新しい。

品川診療所のところで旧東海道にぶつかった。

このあたりには、こうした道標があちこちに立っている。

右折して旧東海道を南下。


青物横丁までは前回も歩いたところだ。

「東海道南品川」の信号で、青物横丁と交差する。

ちょっと寄り道して、青物横丁駅を確認。


駅のすぐ横には、こんな昭和な住宅も残っていた。


おお、井戸まである。これは現役っぽい。

京急線や京成線の沿線はときどき、こういう昭和の残骸と出くわすので散策が楽しい。
旧東海道に戻ると、すぐ右手に品川(ほんせん)寺。

地蔵菩薩坐像が出迎えてくれる。

これは「江戸六地蔵」の一つだそうだ。
案内板によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ、無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(1706年)に六地蔵造立を発願。人々の浄財を集め、江戸市中6か所に地蔵菩薩をそれぞれ1体ずつ造立したと伝えられている。
鋳造者は、神田鍋町鋳物師の太田駿河守正義。
6体のうち、深川の永代寺にあった地蔵は廃仏毀釈のため取り壊されたが、残る5体は残っているという。
ここの地蔵は6地蔵のうち最も古く、宝永五年の造立。
像高も現存5体のうちでは最も大きく、275cmもある。
江戸中期の鋳造像としては大作とのことである。
ここは東海七福神のうちの一つでもあるようだ。

さて境内へ。山門をくぐる。

すぐ右手に稲荷堂。

このイチョウの大木は幹回り5・35m、樹高25m。
樹齢は約600年と推定されている。

その根元には庚申塔。

この建物(寺務所?)の柱はちょっとユニークだ。

本堂。山号は海照山。

左奥に十三重塔。

弘法大師(空海)像。修行時代の弘法大師のことを修行大師というらしい。

ここは弘法大師の開山で、創立は9世紀初頭の大同年間とのこと。
弁天堂。

七福神。


大梵鐘。

この梵鐘は品川寺弘尊上人の発願によって、明暦三年(1657年)に鋳造された。
京都三条・大西五郎左衛門の作である。
表面には六観音像が浮き彫りされ、「東照宮」など徳川三代の号も陽刻されている。
「江戸名所図絵」などに「世に稀なる梵鐘」として讃えられてきた。
慶応三年(1867年)にパリ万博に出陳された後、明治4年(1871年)にウイーン万博でも展示されたが、その後行方不明になっていた。
大正期の品川寺・順海和上は長年、行方を探し続け、大正8年(1919年)にとうとうスイス・ジュネーブのアリアナ美術館に所蔵されていることを突き止めた。
そこで、ジュネーブ名誉領事のケルン氏に書簡をしたためたところ、ジュネーブ市議会が全会一致で返還することを決め、昭和5年(1930年)5月5日、60年ぶりに品川寺に里帰りしたという。
そういうドラマチックな存在だったのだ。
感心して街道に戻る。

旧道らしい古い建物も時々目につく。


間もなく、また右手に現れたのは龍吟山海雲寺。

参道横のレトロな民家。

山門もなかなか渋い。


塀には寄付者の名前がズラリ。おそらく明治期のものだろう。

大明王堂。

平蔵地蔵。

江戸末期、鈴ヶ森刑場の番人をしながら乞食をしている三人組がいた。
そのうちのひとり平蔵はある日、大金の入った財布を拾った。
平蔵はそれをネコババするどころか、落とし主を探して返却し、お礼の小判も拒んだという(シャレではない)。
それを聞いて怒った仲間2人は、平蔵を小屋から追い出し、凍死させてしまった。
憐れんだ落とし主の仙台藩士は彼を青物横丁の松並木に手厚く葬り、供養を続けた。
その後、明治32年になって、地蔵がある場所に京急本線が通ることになり、当時の海雲寺住職が、平蔵を社会の木鐸たらしめんと、境内に移したのだという。
鐘楼。

力石。大正中期まで使われていたのだとか。

井戸。

こちらはサンタイガーのポンプ。

護摩堂?

本堂。

千躰荒神堂奉納扁額。全部で27面ある。

千躰荒神王は火と水の神、また台所の神として知られる。

無事帰京を感謝して参拝。

役行者像。

神代講が元文二年(1737年)に奉納した「三寶大荒神」の石碑。

寄席文字家元・橘右近の筆塚。

巨大な「大日本帝国議会原始紀念」の碑。

旧水戸藩士の依田徳雲は、明治23年(1890年)の帝国議会開設を記念する碑を上野公園に建立する計画を立て、賛同者を募った。
計画では、碑閣は三層構造の壮大なものであった。
賛成員として勝海舟、伊藤博文や板垣退助ら大物政治家が名を連ねた。
一方、茨城県の山田喜平なる人物も同様の記念碑を建設しようと運動を展開し、両者はたがいに相手の義捐金集めを詐欺と決めつけ、対立を深めていった。
結局、依田の計画は実現せず、山田派の碑だけが明治29年にここ海雲寺に建てられたのだという。られます。この「大日本帝国議会原始紀念」と書かれた巨大な碑が立てられたのは明治29年、国会の開設からすでに6年も経過していました。
なぜ、ここに建てられたのかはよく分からない。
再び、街道に戻る。寄り道をしているとなかなか進まない。

少し先の右手に、岩倉具視と松平春嶽の墓地への参道であることを示す石碑が立つ。

これはかなりの寄り道になるが、はしょっても来た意味がないので訪ねてみる。
レトロな家は必ず記録に残す。

途中、左手に幸稲荷神社。


第一京浜に出た。高架は京急本線。奥に鮫洲駅が見える。

国道を渡ったところが海晏寺。


境内の一画に、古い五輪塔や石仏、石塔などが集められていた。





石碑もいくつか。


(つづく)
【2016年5月7日(土)】北海道新幹線
GWの最後の土日は札幌に帰省した。
土曜日の夜に高校のミニ同期会があったからなのだが、せっかく帰るのだから、開業したばかりの北海道新幹線に乗ってみることにした。
えきねっとで予約してみたら、GWの土曜日にもかかわらず、余裕で窓際が取れた。
北海道新幹線、ほんとに大丈夫だろうかと心配になる。
札幌には午後5時くらいまでに着きたい。
それには、大宮9:06発のはやぶさ7号新函館北斗行きに乗れば間に合う。
ということは、新所沢を8時に出ればいいのだが、えきねっとで予約したのは初めてで、ちゃんと乗車券の受け取りができるか不安だったので、30分早めに出た。
新秋津には8:25着けばよかったのだけど、7:40には着いてしまった。

まだ、みどりの窓口は開いていないので、自動券売機での受け取りになる。
画面の指示に従ったつもりだが、合計金額が想定より1万円以上高い。
あれれ、と思って、チケットをよく見ると、乗車券はあるのに、特急券が乗車券付きになっている。
どうやら、操作を誤ったようだ。
改札口で駅員に事情を説明し、発行し直してもらった。
払い戻しはカード口座に後日ということらしい。
この不手際で、乗りたかった7:49発大宮行きの直通電車を乗り過ごし、結局7:53発になってしまった。
大した遅れではないし、当然新幹線も余裕で間に合うのだが、直通を逃したのは結構ショックだった。
やむなく武蔵浦和で乗り換えて、大宮には8:28に到着。
はやぶさ7号の発車まで、あと40分近くあるので、待合室でパソコンを広げ、たまってきたブログを書き始めた。
でも、本当はそんなことしている暇があったら、新幹線を1本早いはやぶさ5号(8:44発)に変更しておけばよかったのだ。
そうすれば、新函館北斗駅であわてずに済んだのに、もう後の祭りだった。

それはともかく、内地の駅で北海道の地名の入った電光掲示板を見るのは、やはり感慨深いものがある。
私は、道産子のくせに北海道新幹線不要論者だが、できてしまえばやはり乗りたい。
空より陸路が好きだし、それが悲しいテツの業というものだ。
こんなものには萌えないぞ、と思っても、つい写真は撮ってしまう。

9時を過ぎたところで、17番線に上る。指定券なので慌てない。
間もなく、H5系が入線してきた。

実のところを言うと、この「新函館北斗」という駅名も好きではない。
北斗市にあるから、「北斗」を入れざるを得ないという事情は分からないでもないが、ここは北斗市民に太っ腹になってほしかった。
シンプルに「新函館」がした方がすっきりする。
恥ずかしながら、記念弁当を買ってしまった。

1300円もした。ま、1回くらいいいだろう。
でも、まだ9時を回ったばかりなので、お昼までお預けだ。
途中うとうとしたかもしれないが、八戸までは乗ったことがあるので、車窓はあまり気にせず、ブログに専念。
八戸を過ぎたところで11時半を回ったので、手を休めて、弁当を開封。

量は少ないが、北海道の特産品が詰まっている。
コンブが北海道の形に切ってあるのが、みそ。

車窓を楽しみながら(トンネルが多いが)、ゆっくりといただいた。
それにしても、八戸を過ぎたら車内はガラガラになってしまった。

開業したばかりだというのに、これで本当に北海道新幹線は大丈夫なんだろうか。
昨年の北陸新幹線とは大違いだ。
札幌まで通じたとしても、時間的にも料金的にも飛行機にはかなわない。
北海道新幹線が、JR北海道最大の赤字路線になるような気がしてならない。
東京~札幌の需要喚起もさることながら、東北~北海道の需要を掘り起こす必要があるだろう。
楽しみだった風景の一つは蟹田あたりから見る陸奥湾の景色。
これはまだ青森に近いところだが、津軽に新幹線が走っているのも何だか不思議な気分だ。

青函トンネルは特急列車や夜行急行で過去に2~3回通過したことがある。
散文的で申し訳ないが、とにかく真っ暗なので、とくに面白いことはない。
世界最長のトンネルという栄誉も最近、スイスのゴッタルドベーストンネルに抜かれてしまった。
トンネル内はあまりスピードが出せないらしく、しっかり時間をかけて北海道に上陸。

やはり、北海道らしい景観だ。

木古内には12:44に到着。

ここで下りる人もそれなりにいたので驚いた。
ここには江差線が廃線になる直前、駅舎建設工事中の時に来たことがある。
木古内を過ぎると、いよいよ函館山が見えてきた。

さすがにもう里の雪は消えているようだ。

七飯あたりの集落だろうか。

12:57、終着の新函館北斗駅に到着。
乗り継ぎ時間は11分しかないので、とにかく駅舎を撮影するべく、改札の外へ走る。
まずは駅前広場。

なんだか全然街がないので、地方の空港のようだ。
駅舎は当たり前だが、できたてほやほや。

今はやりのタイプなのか、新青森駅ともよく似ている。
駅前で観光客に愛想を振りまいていたゆるキャラは、ずーしーほっきー。

ホッキ貝の寿司がモチーフということだろうか。
この奥では、食の祭典みたいにいろんな露店が出ていたが、ひやかす時間もなく、駅に駆け戻る。


別に切符は買わなくていいけど、新鮮な路線図なのでパチリ。

これは在来線のホーム。

やはり札幌方面に行く人より函館に行く人の方が圧倒的に多い。

すぐに、13:08発の北斗91号がやってきた。

本当はビールとつまみを買い込んで乗りたかったのだが、そんな暇は全然なかった。
車内販売に期待したのだが、車掌に聞くと、恐縮しながら「ありません」とのこと。
やはり、大宮で1本早い新幹線に乗ればよかった。
札幌まで4時間近く、何も口に入れるものがない。
飲み鉄ができないではないか! とほほ・・・
まあ、後悔しても仕方ない。次回への教訓としよう。
大沼公園駅。

駒ヶ岳も格好よかったのだが、うまく写真には撮れなかった。
私は函館本線の車窓から見る内浦湾の眺めが好きだ。

長万部の手前あたりで見つけた、廃ドライブイン。

手前は国道5号線である。
そして秘境駅の小幌駅撮影に挑戦。

何時間待っているのか、秘境駅ハンターがたたずんでいた。
その次のカットで、かろうじて駅名標を捉えることができた。

間一髪だった。
東室蘭。

登別。

このあとはわりと見慣れた風景でもあり、とうとう眠りに落ちてしまった。
札幌には16:56に到着。
ちょっと買い物をしてから同期会の会場に向かった。
所沢から陸路9時間半の旅だった。
新幹線に乗るのが目的ではあったが、新幹線よりも在来特急の方が楽しかった。
新幹線が札幌まで通じるということは、結局在来線の特急が減るということ(新幹線が小樽経由になる前提)、なんだかどんどんつまらなくなる気もする。
リニア中央新幹線なるものも作っているし。
日本はどこへ行くのかなあ。
(おわり)
【2016年5月6日(金)】小川山
2日にわたる縦走を終えて、いよいよ風呂である。
さっき、魔子の山頂から増富ラジウム温泉の金泉閣に電話して、入浴可能であることを確認しておいた。
日帰り入浴施設は混むので、「増富の湯」は止めて、どこか宿の風呂に入ろうと決めていたのだ。
早速、金泉閣目指して車を走らせる。
10分ちょっとで旅館の駐車場に到着。
風呂に直行する前に、温泉郷をちょっぴり散策してみた。
「古湯金泉湯」は増富温泉の中でも最奥部にある秘湯だったが、もう廃業してしまったとのこと。

金泉閣の向かいには、小さな旅館「三英荘」。

近くに、かまど童(わらし)なる像が立っていた。

こんな言い伝えがあるそうだ。

さらに下ると、「不老閣」。

本谷川にかかるのは、その名も湯橋。

素晴らしい渓流である。

そのほとりに建つのが「金泉閣」。

では、そろそろ入りましょう。

フロントで入浴料を支払う。確か700円だったか800円だったか。
それほど高くはない。
浴室に入る前に、ホテル内にある湯の権現に参拝。

本日の無事下山を感謝する。

ここは福寿の湯と名付けているようだ。

ほう、湯が黄色っぽく濁っている。だから金泉と言うんだ。

足を入れてみて、びっくり。冷たいではないか。
それもそのはず、源泉は30.5℃しかないらしい。

でも入ってみると、全然寒くないし、むしろ1時間くらい浸かっているのがいいらしい。
この温度なら、それも可能だろう。
とにかくパイプからぼこぼこと湧き出しているのに、さらにびっくりした。

なんでも、地下80mから湧き出している源泉を、枡やタンクを経由させずに直接、浴槽に送っているとのこと。
ラジウム温泉はガスを吸入することにも効果がある「吸う温泉」であるがゆえに、ガスを逃すことがないようにしているんだとか。なるほど。
しかし、私はさすがに1時間も入っていられない。
お腹も空いてきたので10分が限度だった。
最初は独り占めだったのだが、途中でおじさんが入ってきて、2㍑のペットボトルに源泉を詰め始めた。
飲んでも効用があるらしいので、定期的に通ってきて、持って帰るのだろう。
しばらく、その作業を見学させてもらった。
その後、となりに湯温40℃の上がり湯もあったので、そちらで温まってから脱衣所へ。

本谷川の渓流を眺めながら着替えて、退出した。


さ~て、今度は飯だ! 目当ては、ちょっと下ったところにあるみずがき湖のビジターセンター。
以前ここで食べた丼ものが美味しかったので、再会が楽しみだ。
しかし! なんか貼り紙が。

きょえ~。休業中ではないか。

「しばらくの間」とあるが、再開の予定はあるのだろうか。ちょっとがっくりである。

仕方ないので、せっかく車から下りたから、みずがき湖を見学。

さて、どうしたもんじゃろの~
めぼしい店を見つけられないまま、中央道の手前まで来てしまった。
もう、ここは地産地消とか贅沢は言わず、ファミレスで手を打つことにした。
ガストだったかな。
オーダーしたのは、ハンバーグ。

これでは足りないので、スイーツも追加した。

満腹というわけではないが、腹は落ち着いた。
時刻は15時すぎだし、一応平日なのでそんなにひどい渋滞にはならないだろう。
須玉ICから中央道に乗る。
小仏トンネルで数キロの渋滞はあったが、おおむねスムースに帰宅することができた。
明日からは1泊で札幌に帰省する。
朝早いので、早めに寝ることにしよう。
(おわり)
【2016年5月6日(金)】小川山
小川山(2418m)から富士見平山荘まで下ってきた。
今日は高曇りで、やや空が霞んでいるが、富士山が見えてうれしかった。

シオサブから1時間半以上休まずに歩いてきたので、小屋の外のベンチで休憩。

今日もかなりの数のテントが張られていた。

10分ほどで出発。

すぐ下の水場で顔を洗う。

いやぁ、さっぱりした。

近くにコバイケイソウが若葉を広げていたが、今年は当たり年になるだろうか。

さあ、瑞牆山荘へ下ろう。

歩きながら、ちょっと思案した。
このまま下ると、ここ1か月ちょっとの間に同じ道を4回も通ることになる。
それは、何だか面白くない。
それを避けるには、林道で下る手がある。
しかし、そうするとかなりの遠回りになる。
どうしたもんじゃろの~

結論としては、結構早く下りて来られたし、林道を行くことにした。

これが大正解だった。

というのも、登山道からでは味わえない展望が得られたからである。
上半分だけでも林道を歩くのを、ぜひお薦めしたい。
まずは、上の水場から流れてくる沢を通過。

林道は、富士見平山荘の小屋番の方が車で通っている道だけあって、路面状況は悪くない。

左手に見える突起はもしかして魔子(1700m)だろうか。

500mほど歩くと、正面に瑞牆山(2230m)が見えてきた。

ここで林道は大きく左に旋回。

みずがき山自然公園に下る登山道との分岐になっている。

ここまでは最初に瑞牆山に登った時に通った道だ。
この先が未知の道ということになる。

沢の近くにはコバイケイソウがたくさん芽吹いている。

小腹が空いたので、非常食のあんぱんを歩きながら食べてしまう。

これでお腹は下界まで持ってくれるだろう。
しばらく行くと、右手が開けた。お~八ヶ岳が一望できるではないか。

右手前は横尾山(1818m)。
望遠で見てみよう。
左から、三ツ頭(2580m)、権現岳(2715m)、旭岳(2672m)。

主峰・赤岳(2899m)。

横岳(2829m)と硫黄岳(2760m)。

ここからは瑞牆山も間近に見えた。

山頂と鋸岩が至近距離だ。

地面には茎がほとんどないタンポポが咲き乱れていてびっくり。

間もなく、登山道と交差する。

この先の方が大回りなので、登山道を真っすぐ下ってしまうことも頭をよぎったが、やはりこのまま林道を行くことにした。

このあたりはやっと新緑である。

登山道と同様、左の斜面に巨石がごろごろ転がっている。

右手にはカラマツの新緑を透かして魔子。

道は相変わらず歩きやすい。

カラマツの道だ。

しばらく下ると、こんな標識が出てきた。

魔子に直接行ける道があるみたいだ。
地形図にも「山と高原地図」にも載っていない道だ。
実は予定より早く下山できそうなので、ピストンになるがこの魔子という不思議な名前の山もつまみ食いするつもりになっている。
というわけなので、ちょっと思案した。でも、近道は止めた。
その理由は2つ。
一つは、30mほどの丘を越えなければいけないこと。
二つ目は、ザックを背負って魔子を往復しなければならないことだ。
駐車場まで行けば、ザックを車の中に置いて空身で出かけることができるのだ。
慌てる必要はない。そのまま直進。
間もなく、ゲートに達した。

これを通過すると、右手に広い無料駐車場がある。

今日もかなり来ているようだ。

車を置いた場所には、ちょうど12時に到着。

助手席にザックを放り投げ、まずはトイレ。
用が済んだら、すぐに魔子に向かう。
登山口まで車で行ってもよかったのだが、駐車スペースがあるかどうか記憶が定かではなかったので、歩きにした。

間もなく、さっき発見した林道からの道が合流してきた。

やはり、山越えの道だった。

魔子の登山口には、トイレから5分もかからずに着いた。

ここからは、ほとんど駆け足に近いような速足で登った。

延々と続く階段を軽快に駆け上がる。

持っているのはカメラだけで、サブザックもなし。超身軽だ。

途中、息が切れてきたので、ちょうどいい長さの枯れ枝を2本拾って、ストック代わりにした。

ほとんどトレラン状態である。

朝5時から7時間歩き続けてきた体のどこにこんな元気があるのか、我ながら不思議だ。

たぶん、早く終わりにしてしまいたいのかもしれない。

魔子の標高差は180mほど。

中段でやや傾斜が緩むが、後半はまた急登になる。

さあ、ラストスパート。

ほぼ15分で登ってしまった。

頂上はネコの耳のような岩が突き出していた。

ここからの瑞牆山も見事である。


こちらは飯盛山(2116m)。

松ぼっくりがかわいかった。

帰りはストックをかなぐり捨てて、一気に駆け下りた。

白樺林もあっという間にすり抜けた。

下りは、なんと7分しかかからなかった。

車に戻る途中に見えた瑞牆山が見納め。

登山口には12:48に到着。ちょうど韮崎駅に向かうバスが出るところだった。

さらば、瑞牆山荘!

これで1泊2日の金峰山・小川山縦走を無事終えた。
ここ数年の懸案だっただけに、肩の荷を下ろした気分だ。
天気にも恵まれ、奥秩父の魅力を存分に味わうことができた。
【行程】2016年5月6日
金峰山荘(5:08)~登山口(5:12)~カモシカ登山道分岐(6:18)~展望台(6:23撮影・朝食A6:55)~小川山(8:30)~シオサブ(8:48撮影・朝食B9:22)~八丁平(10:16)~伐採小屋跡(10:31)~富士見平(11:03休憩11:12)~瑞牆山登山口(12:00トイレ12:07)~魔子(12:28撮影12:35)~登山口(12:48)
※所要時間:7時間40分(歩行時間:6時間10分)コースタイム:7時間20分
※登った山:3座(小川山、シオサブ、魔子)
※歩行距離:13.7km
(つづく)
【2016年5月6日(金)】小川山
小川山(2418m)登頂を果たし、下山中。
頂上から15分ほどでシオサブ(2347m)と呼ばれるピークに着いた。
なぜ、そんな地名が付いているのか見当もつかない。
登山道から少し離れて、シャクナゲのヤブを抜けると、大展望が広がった。

真正面に見えるのは昨日登った金峰山(2599m)である。圧倒的な包容力を感じる。

ここからだと、五丈石も頂上もはっきり見える。

昨日のような青空ではないが、高曇りなので視界に不自由はない。
少しずつ右に下って行こう。
千代ノ吹上。

大日岩。奥に霞むのは毛無山(1964m)。

八丁平の向こうに、金ヶ岳(1764m)や茅ヶ岳(1704m)などの山々。

その右には、南アルプスの高峰が一直線に居並ぶ。

拡大してみよう。甲斐駒(右、2967m)と仙丈ヶ岳(左、3033m)。

その右に鋸岳(2685m)。

右から、北岳(3193m)、間ノ岳(3190m)、農鳥岳(3026m)。その手前は鳳凰三山。

小川山から南に延びる稜線の東斜面。鬱蒼たる森である。

気になるのは、この縞々。伐採の跡だろうか。

眺めが素晴らしいので、ここにどっかり腰を下ろして、朝食の残りを食べてしまうことにした。

最高の展望レストランであった。

30分以上絶景を独占した後、9時半前に出発。再びシャクナゲをすり抜ける。

登山道に戻って、なだらかに下って行く。


すぐに、また展望スポットに出た。

ここからはさっきは見えなかった瑞牆山(2230m)の裏側(北側)を望めた。

この時間、まだ山頂に人はいないようだ。

その右に八ヶ岳。

反対側、東に目を向けると、甲武信岳(2475m)が見える。

アップにするとこんな感じ。中央が甲武信で、左が三宝山(2483m)、右が木賊山(2469m)だ。

これはさっき休んだシオサブ。

そのず~っと左に両神山(1723m)。

こちら側から見ると、鋸の刃がかなり刃こぼれしてしまった印象だ。
さっきから、この縞模様が気になる。なぜこんな伐採の仕方をするのだろう。

再び登山道へ。

コケがものすごい。



深い深い森である。

2290m標高点へのちょっとした登り返しもあったが、全然きつくなかった。


その先もしばらくは平らである。


多少、倒木が増えてきたような気がするが、随分前に処理されたものばかりだ。


久々に道標を見た。

下りらしくなってきた頃から、岩が出現し始めた。


う~ん、これはどちらへ行けというのだろう。

こちらは、おちゃめないたずら。

どかん。

さびついて、全く判読不能。

だんだん道が荒れてきた。


やはり、あまり歩かれてないようだ。


シオサブから1時間かからずに、八丁平に着いた。
コースタイムは2時間ほどだから、かなり早い。

上の標識では半信半疑だったが、これがあるので間違いない。

時刻は10:15を回ったところ。昼過ぎには、瑞牆山荘に下れてしまいそうだ。

ここを右折して、天鳥川沿いに富士見平山荘に向かう。

これまでの稜線と樹林帯であることに違いはないが、雰囲気ががらりと変わった。

地面の様相も違う。

湿地状の箇所も少なくない。

灯油缶の残骸を発見。伐採小屋跡も近いのだろうか。

だらだら下りであることだけは変わらない。

こちらの道もかなり荒れている。稜線より歩かれていない印象だ。

さすがに谷だけあって、湧き水も発見。

天鳥川の最上流部まで下ってきた。

いきなり渡渉する。


右岸に渡ると、そこが伐採小屋跡。

でも、トタンが散乱しているのみで、建物の痕跡は全くなかった。


廃屋フェチとしては、ちょっとがっかりして前進。

また左岸に戻る。

沢沿いの道はなんだか癒される。

再び樹林帯に戻って、直線コース。

おお、瑞牆山の正面が見えてきたではないか。

何度見ても、神々しい造形である。


道は飯盛山(2116m)の北斜面をトラバースしていく。


ここは韮崎警察署の管轄のようだ。

道標の設置まで警察の仕事だった時代もあったのか。
いよいよ瑞牆山への登山道との合流地点が近づいてきた。

瑞牆山登山道はひと月ちょっと前に歩いたばかりなのだが、八丁平からの道が合流してきた記憶がない。
まさか、天鳥川の渡渉地点まで下ってしまうのではないだろうな。
でも、それは杞憂に終わったので助かった。

ちょうど、渡渉地点から急坂を登り切った場所にぶつかった。
こんな派手は道標があったのに、前回は全然気づかなかった。

小川山まで、ここから4時間ということになっている。

下りであったが、山頂からは朝食をはさんで2時間15分ほどだった。

この分岐は、かつては交通の要衝だったようで、いろんな看板が出ていた。

それにしてもさすが破線の道だけあって、金峰山荘を出てから、ここまで誰にも会わなかった。

メインルートに出て、正直ホッとした。
この先は整備された道を歩かせてもらう。

確かにこんな岩もあったっけ。

いやいや、ほんとに歩きやすい道だこと。

増富中学校の生徒によるこの注意書きもかなり古いものだろう。

早速、登山者と出くわした。

「こんにちは~」。今日初めて人と口をきいた。

そう思うと、われながらおかしい。

さあ、富士見山荘まであともう少し。

11時過ぎに富士見平山荘に到着。


当初はここでお昼にすることも考えていたのだが、まだ早い。

こうなったら、本格的な食事は下界で食べることにしよう。
(つづく)
【2016年5月6日(金)】小川山
小川山(2418m)を廻り目平から登行中。
歩き始めてから1時間15分ほどで「展望台」に着いた。
絶景である。

岩塔が展望台になっているが、そのてっぺんに登ってみた。


ここまで来ると、北東の尾根の全貌が把握できる。

眼下に唐沢の滝も確認できた。

垂直の岩壁を滑り落ちている。

その上に目を移すと、小川山の頂上。

山肌を飾る岩塔や岩壁もみな美しい。


改めて見る屋根岩も迫力満点だ。

東には雨降山(2156m)。

その右、南東の方角は金峰山(2599m)へ続く稜線。

360度の大パノラマを楽しんだところで、朝食にする。

金峰山荘が作ってくれた弁当だが、なかなか豪華である。
一度では食べきれないので、おにぎり1個とおかず半分にしておいた。
それにしても、岩塔のてっぺんでの食事はスリル満点だ。

眺望を満喫しながら、ゆっくりお茶を飲み、30分ほどで出発。

この先はさらに難路が待っていた。

岩もあれば、木の根もある。

さすがにこのヤブをこぐわけではないけど。

ここではシャクナゲがこんなに大きく成長するようだ。

でも、開花はまだ随分先だろう。

引き続き、岩と木の根との格闘。


そしてシャクナゲのトンネル。


5月下旬から6月にかけては、見事なんだろうなあ。
しかし、きつすぎてもう1回来る気にはならない(笑)

いつのまにか2008mピークを過ぎていた。

ここからは前方に2100m付近の岩壁を間近に望める。

地形図を見る限り、あそこはちゃんと巻いてくれるようだ。

おお、昨日登った大日岩も見えるではないか。

あら、五丈石も見えてきた。

だいぶ西に進んだということだろう。
巨岩帯を通過してわずかに下る。


すぐにまた登りに。

やっと土の道を歩ける。

土というより枯れ葉だけど、足にやさしい。

こんな道標があるということは、かつては、大日岩を経て金峰山まで歩かせようという道だったようだ。

今はそういうコース取りをする人はほとんどいないだろう。

2100mの岩壁の頂上だろうか。

これをかすめて西進する。

ちょっとした鞍部から、左手の展望が開けた。

金峰山の頂上。

直下に金峰山小屋も確認できた。

そして大日岩。こちらから見ると、夫婦岩にようにも見える。

再びシャクナゲのジャングルへ突入。

抜けると、小川山の頂上と見られるピークが見えた。

まだまだ遠い気がする。

とうとう朝食の効果が現れて、もよおしてきた。
適地を探していたが、こういう樹林帯だと見つけやすい。
平日の小川山でこの時間なら、まず人は通らないだろう。
実際、ここまで誰にも会っていない。
というわけで、少し離れたところで、用を済ます。

平らな場所で、ゆっくり落ち着いてできた。
このあたりの植生は見ての通り。この3種が代表選手。

南から眺める千代ノ吹上。

この角度からでは、ちょっと迫力に欠ける。

金峰山の北斜面には雪形ならぬガレ形が見えるが、何にたとえていいのか思いつかない。

左には鉄山(右、2531m)と朝日岳(左、2579m)。

金峰山も含めた全景。

砂払ノ頭。

白骨地帯を過ぎて


再び、シャクナゲのトンネルへ。

そして、標高2200mに達すると、しばらくは緩斜面となる。


何だか、ホッとする。

シャクナゲの子供も育ち始めていた。

いやいや楽ちん。このまま頂上に着いてしまえばいいなあ。

と思っていたら、昨日に引き続き、またまた謎の数字を発見。

これも同じタイプ。何なんだろう。

少し傾斜が強くなり、標高2300mを超えたあたりで、残雪が出てきた。

まあ、あと1週間ももたないだろう。

これらは木自身が作った芸術。


立ち枯れ地帯を通過すると

小川山山頂から南に延びる登山道にぶつかった。

地形図では、まっすぐ山頂に着くように書かれていたので、びっくりした。
「山と高原地図」をよくよく見ると、確かに頂上直下でT字路になるように書かれていた。
道標もあるし、納得して右折する。

緩斜面を真っすぐに登っていく。

分岐から3分ほどで、小川山に登頂。

時刻はちょうど8時半。展望台からコースタイム2時間35分のところ、1時間35分で着いてしまった。

これは、ちょっと「山と高原地図」がおかしいのではないか。
それはともかく、ここは周りから遠望して想像していた通り、樹林に囲まれ、展望が見事にない。


ただ、大双里(2102m)に続く西の尾根には赤テープとともに踏み跡があった。

このルートは「山と高原地図」にも地形図にも、登山道の表記はない。
歩いてみたい気もするが、ここまで来るのが大変なので、きっと来ないだろうなあ。
まあ、それだけ確認して、すぐに退散。

あとはもう下る一方だ。

富士見平山荘近くまでは破線の道で、「迷」マークも付いているが、踏み跡はしっかりしているし、迷いようがない。

「倒木が多い」との注意書きもあるが、全然それほどでもない。

むしろコケに覆われた奥秩父らしい登山道だ。

こちらの斜面にも、ところどころ巨石を見かけた。

ちょっとしたピークがあったので、「山と高原地図」に言うところのシオサブかと思い、登山道を離れて行ってみた。

シャクナゲのヤブを抜けると、雄大な展望が開けた。

やはり、シオサブだった。
(つづく)
【2016年5月6日(金)】小川山
小川山(2418m)はずっと気になっていた山である。
八丁平から続く道は頂上まで破線なので、ちょっと不安だったが、他の人のブログやヤマレコなどを読むと、どうやら大丈夫そうなので、今回決行することにした。
廻り目平からのコースをとったが、優しげな山容とは裏腹に、かなり歯ごたえのある山だった。
4時半過ぎに起床。泊まっていた金峰山荘を5時過ぎに出発した。

背後には第一岩峰がそびえる。

前日、金峰山(2599m)から下りてきた道を少しだけ引き返す。

今日はGWのはざまの平日(金曜日)だが、まだ車がかなりある。
ただ、さすがに広いキャンプ場は閑散とした状態だ。

昨日も見た「マヤ石」を通過。

5分もかからずに登山口に到着した。

最初だけは林道状の道。

すぐに道は細くなり、シラビソや白樺の林の中を進んでいく。

やがて道は拡散し、一瞬見分けにくくなる。

早くも赤いペンキが頼りだ。
前方で何かが動いた。シカの親子だ。
ピュンと鳴いて走り去っていったが、動きが速すぎて撮影はできなかった。
登山口から5分ほどで傾斜は一気に急になる。

まずは標高差200mの急登だ。

唐沢の滝への分岐まではカモシカコースと呼ばれる、一応は管理された道なので、道標はしっかりしている。

ご覧の通り、赤ペンキの表示も親切だ。


いよいよ巨岩が出現してきた。

この先は結構頻繁にこうした大きな岩が出てくる。

これなどは名前が付いていてもおかしくない岩だが、こんなのはまだ序の口だった。

高度を上げるにつれ、西股沢の対岸にある山々の岩峰が見えてきた。

崩落している箇所も認められる。

足元には松ぼっくり。

一瞬、左手が開けた。

尾根の左の端を歩いて行く感じである。

右手には、修行ができそうな岩陰を発見。

間もなく、左手が完全に開けた。

小川山の2008mピークから東に延びる尾根も峨々たる岩峰である。


ミニ瑞牆のようなピークもあちこちに見える。

そして金峰山(2599m)の北斜面も望むことができた。

再び樹林帯に戻り、巨大な1枚岩の裾を通り抜けていく。

いよいよ、こちらも岩山になってきた。

これを乗り越えると、今度は右手が開けた。

屋根岩である。

こちらは、たぶん第一岩峰。

あそこには一般登山道で登れるようだ。
景色を時折楽しみながら、巨岩をすり抜けて登っていく。


一段登るごとに展望スポットに出る。

テラス状になっているのだ。

右手に長峰(左、2065m)らしき山。

その奥は、五郎山(2132m)から南にせり上がる稜線と思われる。
その右には、1855mピークの向こうに雨降山(2156m)。

眼下には金峰山荘が見えた。

ここで標高は約1850m。45分で300m近く登ってきたことになる。

左手に林立する岩塔群にも目を見張らされた。

こちらは西股沢の広い谷と金峰山。

この角度からだと五丈石は見えない。

さて、先に進もう。

これは名づけて「鏡岩」。

これを高巻きする。

おお、ハシゴが現れた。

そこに、恐ろしい文字が。「自己責任」・・・

でも丁寧にロープも垂らされていた。

岩場を登り切って振り返る。かなりの高度感。

眼前に現れた垂直の岩壁は迂回する。

あっという間にその岩壁の上に出た。

また次の岩壁。

西股沢の対岸の尾根はもう見下ろすような高さになってきた。


長峰(右)から北の大原平ノ頭(左、1969m)にかけての稜線。

ここには登山道はない。
シャクナゲのつぼみはまだ固かった。

いったん、難しい岩場を下る。


このハシゴは下りに使った。

その先は、○×試験の様相を呈する。


まさか、こんな下りがあるとは。

三つ目のハシゴも下り。

下り切って、上を見上げる。ふう、ちょっと緊張した。

この先はさらに下り気味のトラバース。


足場はかなり悪い。

4つ目。ようやく登りに転じた。

とても、あの山容からは想像がつかない難路だった。


もちろん、これもトラバース。

ただ、それも決して楽ではない。

山荘から1時間10分かかって、やっと唐沢の滝に下りる道との分岐にたどり着いた。

コースタイムは1時間なので10分もオーバーしてしまった。
何度も写真撮影のために立ち止まったとは言え、それはいつものこと。
かなりハードな道であったことは間違いない。ここまででかなりの歯ごたえだ。
休憩するようなスペースもないので、とりあえず通過。

そろそろ朝食を食べる場所も探さなくてはいけない。

と思っていたら、すぐ「展望台」に着いた。

もう消えかかっているが、岩に白いペンキでそう書いてある。

「山と高原地図」では、分岐から展望台までは80mほど登った2008mピークにあるように書かれていただけに拍子抜け。
でも、ありがたかった。

ここで朝食を摂ることにするが、やはりまずは撮影をしなければ。

北東には屋根岩。


屋根岩の本峰、目開き岩(1906m)。

直下の岩壁は針の山のようだ。


新緑とのコントラストも見事である。

北西は2089mピーク。

西に小川山の山頂がやっと見えた。

まだ標高差は500mもある。
(つづく)
【2016年5月5日(木)】金峰山
金峰山(2599m)から下り、廻り目平へ通じる林道を歩いている。
しばらく行くと、林道らしく道もしっかりしてきた。


切通しを通過。

その先にミニ瑞牆のような岩峰が見えた。

これがあるので単調な林道歩きも飽きないで済む。

小川山(2418m)の尾根の一つである。

左からの林道との合流地点で座り込んで、靴のひもを直していたら、八丁平分岐で休んでいた人に抜かれてしまった。

あんなところで休んでいたので、かなり疲れているのだろうと思っていたが、結局この後、彼には追いつけなかった。

私が何度も立ち止まって写真を撮っているせいもあるのだが。


前回は氷の上をアイゼンで歩く感じで歩きにくかったが、今回もそれなりに歩きにくい。

正面に見えるピークは長峰(2065m)だろうか。

これはかつての作業小屋の基礎?

ほう、右手の稜線にも岩峰が現れた。

こちらもなかなか鋭いではないか。


標高1750mあたりで、地形図に表記のない建物を発見。

覗いてみると、木造の神像が安置されていた。神社だ。

このあたりで、やっと林道の半分。

ここまで30分以上かかっている。

林道歩きのコースタイムは1時間だが、それ以上かかってしまいそうだ。

写真の撮り過ぎかな(笑)
せっかく沢のそばを歩いているので、顔を洗うことにした。

冷たくて、いい気持だ。ふう、さっぱりした。
林道歩き、再開。

こんな看板が出てきたということは、廻り目平も近いのだろうか。

右手の岩峰や岩壁を愛でる。



すると、林道のすぐ左にも巨大な岩塔が出現。これは見覚えがある。

クライミングのゲレンデのようで、残置やボルトがあった。


あれこれ写真を撮っている間に、山頂で見かけたピンクのお姉さんにも抜かれてしまった。

この人はザックが斜めになっているのが気になったが、あっという間に見えなくなってしまった。
こちらは相変わらず撮影に余念がない。


岩壁は登るのは怖いが、眺めるのは好きである。


それにしてもキリがないとは思う。

おお、ミネザクラ。

ここは標高1600m。考えてみれば早いくらいではないか。

サクラをはさんで、岩峰群はなおも続く。


たまには足元も。

16時をすぎて、やっと林道通行止めのゲートを通過。

このあたりは緊急車両の転回場所のため駐車禁止だそうだ。

こんな看板が必要なほど、確かに駐車車両が多い。


廻り目平キャンプ場はキャンパーで大賑わい。

明日登る小川山への登山口を確認しておく。

キャンプ場のトイレの少し上と覚えておこう。

そのキャンプ場。まわりを岩峰に囲まれている。


いくつかをアップで。



わりと開かれた場所だけに、見通しがいい。



名付けてマヤ石。裂け目でできた升目がマヤ文字のようだ。

これはハクサンコザクラかな。

そして16:15、ようやく今宵の宿「金峰山荘」に着いた。

こちらは長野県側なので「きんぷさん」ではなく「きんぽうさん」だから、宿の名も「きんぽうさんそう」である。

最後に来た道を振り返る。

あれは、クライミングゲレンデの屋根岩。

これだけ確認して、早速チェックイン。

ここは村営(川上村)ということもあるのか、受付のお兄さんがちょっととろかった。
それはともかく、ここにもいろんな有名人が来ているようだ。

あてがわれた部屋は「りんどう」。広さは8畳ほどあった。もちろん相部屋ではない。

荷物を若干整理して、早速お風呂へ。

ここは温泉ではないが、とくに不満はない。
1泊の山行で風呂に入れるだけでありがたい。
でも、外国人が大声でしゃべりながら入っているのが、ちょっとうるさかった。
同行の日本人が気を付けてあげなくては。
風呂から上がったら、当然ビール。

このために、つまみのナッツも買ってきてあるので、しばし至福の時。
売店には、地酒もいくつかあったが、さすがに飲みきれないので止めておいた。



午後6時になったら、食堂へ。お腹すいた~

食事の内容は質素な感じだが、量は十分。こちらも不満はない。

ご飯が山盛りだったので、満腹になってしまった。
生ビールを頼んでいるおじさんもいたが、こちらはさっき飲んだし、食事に専念。
食堂を見渡すと、8組15人ほどのお客さんがいた。
うち外国人(いずれも白人)が2組だった。
部屋に戻って、明日に備えて荷物の整理。
そして、朝食はお弁当にしてもらったので、それを受付に受け取りにいく。
と同時に会計。1泊2食で6800円だった。
20時すぎにもう一度、湯につかって、21時前には就寝。

千代ノ吹上経由で金峰山に登るという長年の懸案を絶好の天気の中、達成し、気分よく眠りに落ちた。
ちなみに撮影した写真はこの日だけで800枚を超えた。
【行程】2016年5月5日(木)
瑞牆山荘(7:40)~富士見平(8:15休憩8:20)~鷹見岩分岐(8:52)~鷹見岩(9:05撮影9:14)~鷹見岩分岐(9:23)~大日小屋(9:32撮影9:36)~大日岩(10:08登攀・撮影10:25)~(11:05昼食A11:20)~砂払ノ頭(11:32撮影11:36)~金峰山小屋分岐(12:07)~千代ノ吹上(12:14撮影12:20)~五丈石(12:50昼食B・撮影13:17)~金峰山山頂(13:23撮影13:32)~金峰山小屋(13:50撮影・小休止13:54)~中間地点(14:32)~最終水場(14:47)~八丁平分岐(15:03)~金峰山荘(16:15)
※所要時間:8時間35分(歩行時間:7時間20分)コースタイム:7時間30分
※登った山:5座(うち新規:鷹見岩、大日岩、砂払ノ頭、千代ノ吹上)
※歩行距離:12.8km
【2016年5月5日(木)】金峰山
金峰山(2599m)から廻り目平に向けて下山中。

この道は2012年のクリスマスに往復しており、歩くのは今回で3回目となる。

でも、当時は雪がしっかり積もっていたので、こんな木の根に悩まされる必要はなかった。

標高2300mのあたりまで下ってくると、瞬間的に平坦になる。

それにしても、根っこが激しい。


2302mピークは巻いていく。

このあたりにもまだ雪がわずかに残っていた。

北斜面だけにコケが地面を覆っている。

ピークを過ぎると、再び急降下。

前回は滑るように下って行けたが、こうなるとそうはいかない。


もちろん、このあたりも岩は花崗岩である。

14時半すぎに中間地点を通過。標高は約2150m。

木々の隙間からは瑞牆山(2230m)と小川山(2418m)を望むことができる。


そして、ここから尾根を離れ、谷の方へと進路を変える。


前回、ラッセルしながら、へとへとになって登ったのを思い出す。


この岩のあたりで、雪にマットを敷いて、しばらく休んだ気がする。

道はだんだん歩きやすくなってきた。


と思ったのは一瞬だけだった。

倒木は登山道の部分だけ切断してくれていた。ありがとうございます。

シラビソの森をぐんぐん下る。

標高差1000mを登った後のわりには、なんだか元気だ。

実に快調である。


とうとう沢が見えてきた。

しかし、ここからが長い。

標高はまだ約2000m。あと400m以上下らなければならない。

おお、懐かしい「最終水場」。

今日の私にとっては、最初の水場だ。めちゃめちゃ透き通っていて冷たそうだ。

ここからは右手に沢を見ながらの下りとなる。

とりあえず、水の補給はせず。

道は広くなったが、浮石が多くて、若干歩きにくい。


崩落箇所を通過。


正面に小川山の弘法岩が目に飛び込んできた。

この先は左右に、こうした岩峰が次々と姿を現すことになる。
道はところどころ整備されているが

沢に近づくと、崩落箇所が少なくない。

渓相もかなり荒れている印象だ。


ここは道を付け替えている。

前回、ここを登りで通過する時、迷った場所だ。

あの時は、下を通った。雪なので問題はなかったが、トレースがなくなり不安だった。
間もなく安定した道に戻る。


でも沢の方は、やはり土石流が流れた形跡がある。


15時、砂防ダムまで下ってきた。

ここまで来れば、林道は近い。

間もなく砂洗川との合流地点。

青いウエアのおじさんが1人休んでいた。
砂洗川も清冽な流れだ。これも千曲川の源流の一つである。

木橋を渡る。

そこは八丁平への道との分岐。標高は1869m。

そして前回も驚いた、打ち捨てられた車。


かつてはここまで車が入れた証拠だ。

この車の持ち主が、ここまで来た後に土砂崩れで戻れなくなり、人間だけヘリか何かで救出されたのだろう。何年前のことなのだろうか。
というわけで、この先は廃道となった林道をしばらく歩かされる。


右を流れるのは西股沢。


ここが車を置き去りにした土砂崩れの場所だろうか。

かなり、ひどいことになっている。

5分ほどの廃道歩きを経て、やっとまともな道に出た。

左手には立派な砂防ダムが完成している。

谷が広くなって、沢にも陽が差してきた。

これは崩落した場所に架けた丸太の橋が、またまた崩落した状態だろうか。

この先はさすがに大丈夫。関係者の車なら入って来られそうだ。

今も時々落石はあるようだけど。


やっと林道全体が明るくなってきた。

沢の流れも清らかで気持ちいい。


お、また出た岩峰。

実に楽しい林道歩きである。
(つづく)
【2016年5月5日(木)】金峰山
金峰山(2599m)頂上。五丈石の南側で昼食を済ませた。

時刻は13時を回ってしまった。
そろそろ本当の山頂を極めて、下山しなくては。
下山するのは、黒平方面ではなく、北側の廻り目平方面。

南の眺めもこれで見納めだ。


頂上はすぐそこ。

右手には北奥千丈岳(2601m)から南に延びる長い稜線。その向こうに小金沢連嶺が望める。

五丈石の北側に出てきた。

このピンクのお姉さん。偶然撮った写真だが、あとで下山中に抜かれた。

単独で来るだけあって、ものすごく足の速い人だった。
背景はもちろん八ヶ岳。
五丈石の前は十字路になっている。

つまり、ここには四方から道が通じている。
今回で金峰山登頂は3回目だが、これで四方からの道すべてを歩いたことになる。
ここの方位盤はかなり大型だ。

すぐに登頂。

三角点。

三角点の標高は2595m。でも真の山頂は、この上で2599m。

これは登らねばなるまい。

岩の上に立って、山名板などすべてを見下ろす。

南は五丈石と富士山。

北の方角は、小川山(2418m)の岩峰群と高原野菜畑。

西には、列をなす千代ノ吹上。

東は、朝日岳(2579m)の向こうに甲武信岳(2475m)や国師ヶ岳(2591m)。

朝日岳に続く稜線。森林限界を超えて見晴らしは最高だ。

その左は両神山(1723m)から赤岩岳への鋸の歯のような稜線。

その向こうには赤久縄山(中央、1522m)と御荷鉾山(右、1286m)を望む。

手前は長尾(2065m)から大平原ノ頭(1969m)にかけての尾根。

山頂から見下ろす五丈石も堂々たる姿だ。

少しだけワイドで。

おなじみ瑞牆山(2230m)。

こちらもワイドで。

八ヶ岳の北には蓼科山(2530m)も確認できた。

明日挑む小川山。

その左に、男山(左、1851m)と天狗山(右、1882m)。

右には御座山(2112m)。

う~ん、満足満足。登山道に下りよう。

岩の門をくぐって小屋に向かう。

小屋は15分(標高差180m)ほど下だ。

もう一度、五丈石を振り返ると、登攀にチャレンジしている人がいた。頑張れ~!

先行する2人を追う。

前回来た時は、浅い雪だったので、何度もハイマツの上を踏み抜いて難儀したが、今回は楽ちん。

岩の上を、飛び石を越えるように下ればいい。

2人は高齢夫婦のようだ。

この下り道も、千代ノ吹上の眺めは抜群。



絶景の連続だ。


2人に追いついて、しばし雑談。

今夜は金峰山小屋泊だという。のんびり旅もいいものだ。
山頂直下の小屋に泊まると、頂上でご来光を見る楽しみもある。
でも、私のコースを説明したら、「ああ、その手があったか。ちょっと泊まるには早く着きすぎちゃうんですよね」とぼやいていた。

先に行かせてもらう。
まさに飛び石の下りだ。

小屋のすぐそばにそそりたつこの岩峰に名前は付いていないのだろうか。

振り返ると、もう2人の姿は見えなくなってしまった。

かなり、ゆっくり下っているようだ。
おっと、こちらにも残雪が出現。

北斜面だから当然だろう。樹林帯に入ったらもっとありそうだ。
小屋岩(仮名)と瑞牆山のコラボ。

山頂から15分ほどで、千代ノ吹上からの巻き道と合流。

この道も冬に通ったが、あの時はトレースもなく、ラッセルが大変だった。
改めて頂上を見上げる。五丈石もてっぺんの部分しか見えなくなった。


ハイマツの中の白い花崗岩の斑点が美しい。

金峰山小屋の象徴。

きちんと整備された道を小屋に向かう。

標高が下がって、千代ノ吹上は緑の背中しか見えなくなってしまった。

金峰山小屋はわりと小ぎれいな印象だ。

小屋岩のたもとで、一瞬だけ休憩する。

こちらは冬季の解放小屋。

ここに12月下旬に泊まった時は夜中にマイナス11℃まで下がったっけ。

そして、その時は見えなかった眺望。

今回は飽きるほど見てきた。
トイレは新設されていた。

前回は板を渡しただけのトイレだった気がするが、随分立派になった。

古い方は立ち入り禁止になっていた。

この建物も新築したののようだ。

そうか、今日はこどもの日だった。すっかり忘れていた。

中は覗かずに、早々に下山。

すぐに樹林帯に入る。

やはり路面は雪である。

チェーンアイゼンを装着する。

アイスバーンの表面が解けて、滑りやすくなっているので、油断せず慎重に。

しばらくは、この状態が続きそうだ。

この道を通るのは前回の往復を2回と数えると3回目だが、そんなに損した感じはない。

こんな岩があったなあと、楽しく思い出しながら歩けた。

木々の間から、瑞牆山が見えたのも一緒だ。

そうそう小川山も見えたっけ。

このあたりが最後の雪かな。

小川山の弘法岩も鮮明に見える。

でも、こんな看板は記憶にないなあ。

雪はすっかりなくなってしまった。


シャクナゲのトンネルは覚えている。

(つづく)
【2016年5月5日(木)】金峰山
金峰山(2599m)目指して、千代ノ吹上を登っている。
右手に八幡尾根の2333mピークが見えてきた。

この先も花崗岩の白い露岩帯が続く。

左手には、金峰山小屋が近くに見える。

前方には、次々に千代ノ吹上の波頭が現れる。

さっき登った波頭の先端を振り返る。

その右には、瑞牆山(2230m)と八ヶ岳。

さらに右に小川山(2418m)。まさに絶景である。

砂払ノ頭から30分ほどで、山小屋へ通じる巻き道との分岐を通過。

眺めると、小屋付近にも岩が多い。

頂上を仰ぐと、やはり今日は大勢登っているようだ。

よし、あの波頭のてっぺんにも行ってみよう。

おっと、尾根道にもまだわずかに雪が残っていた。

ふむ、こいつを登るわけか。

中段まで登って、岩陰でいったん退避。正面に小川山を望む。

五丈石までは、残る波頭はあと1つだけだ。

岩場で苦戦する登山者を見下ろす。「見下す」ではない。

いやあ、見事な眺めだ。

波頭はかなり尖っている。


この先っぽまではさすがに登らなかった。


ここは、ちょうど分岐の真上に当たる。

南には、2333mピーク、小楢山(1713m)、そして富士山。

2333mピークはかなりガレている。

あと、どのくらいかかるかなあ。

とりあえず、ここを千代ノ吹上のピークと認定し、「登った山」に加算する。

飛び込み台のような岩があったが、怖くて乗れなかった。

さて、登山道に復帰。

もうひと踏ん張りだ。

最後の波頭を仰いで、ひと息。

千代ノ吹上を振り返る。

西の空。

最後まで、なかなか楽はさせてくれない。

いやあ、いくつも越えてきたなあ。


山小屋よりも高い位置まで登ってきたぞ。

うわ~、あれは落ちないんだろうか。

突如、謎の数字が出現。何を意味しているのだろう。想像もつかない。

こちらもわけが分からない。

はい、最後の波頭越えました。

あとの突起は五丈石のみ。

とは言っても、まだこれだけの距離はある。

八幡尾根はここから発生しているようだ。

乙女高原方面に続く広大な森。

このあたりまで来ると、五丈石が傾いていない。

小川山の岩峰越しに見る川上の高原野菜畑。

砂洗川の谷。

大日岩と瑞牆山の鋸岩。

本日の軌跡を改めて振り返る。

いよいよゴールも近い。

その証拠に、だいぶ斜度もゆるんできた。

波頭のとんがりもいささか鈍い。

今日は五丈石に登っている人はいないようだ。

荒川の広大な谷。

ふう、あともうちょっと。


おお、これは立派な残雪。

思わず上を歩いてしまった。

下りてくる人も増え始めた。

何度も後ろを振り返りながら、頂上を目指す。


直下の五丈石。角度によって、本当に見え方が違う。

12:50、登山口から5時間以上かかって五丈石に到着。

コースタイムを1時間もオーバーした。
鷹見岩に寄り道したことは差し引いても、30分遅い。ちょっと写真を撮り過ぎたかな。
岩陰には氷が残っていた。

今回は五丈石には登らない。どうせ中段までしか行けないから。

振り返ると、あれが頂上。

とりあえず、頂上はお預けにして、五丈石の南側に回り込む。

すると、東に国師ヶ岳方面の眺望が広がる。

国師ヶ岳(左、2592m)と奥秩父の最高峰、北奥千丈岳(右、2601m)。

朝日岳(2579m)。

鉄山(2531m)。

それらの左に、甲武信岳(中央、2475m)。左は三宝山(2483m)、右は木賊山(2469m)。

右には、大菩薩嶺(左、2057m)と小金沢連嶺。

南には当然、富士山。

東から見た五丈石のフォルム。

南に延びる八幡尾根。

水晶峠方面の登山道が走る尾根には奇岩がそそり立つ。以前、あれを越えてきたのだ。

川上牧丘林道と乙女湖。遠く塩ノ山(553m)も見える。

金峰山からの富士山は大好きな眺めである。

茅ヶ岳(1704m)と南アルプス。

五丈石の南側には石灯籠が立っている。


その前には石垣も組まれている。古い信仰の跡だ。

石祠に無事登頂を感謝。


賽銭をのせる石を奉納したのは北巨摩郡穂阪村の方々のようだ。

南から見上げる五丈石。

五丈石の岩陰には、かつて蔵王権現を祀っていた痕跡が残っていた。

どれ、そろそろ私も本格的にお昼にしよう。

五丈石の北側に戻るとにぎやかなので、富士山が見えるここ南側で腰を下ろす。

さっき、稲荷寿司は食べてしまったので、残るは焼き鶏の缶詰とおにぎり1個。

食べながら、南アルプスもじっくりと堪能した。
仙丈ヶ岳(3033m)。

甲斐駒ヶ岳(2967m)と鋸岳(2685m)。

間ノ岳(3190m)と北岳(3193m)。

農鳥岳(右、3026m)と塩見岳(中央、3047m)。

荒川三山(右、3141m)と赤石岳(左、3120m)。

今日は天気に恵まれて、実にうれしい。
(つづく)