【2016年4月23日(土)】七面山
身延山(1153m)から下ってきて、赤沢宿を散策中。
「親屋」の敷地に間違って侵入してしまい、再び石畳の道に戻った。

目の前に大きな土蔵。

今は「宿の駅」として休憩所になっている清水屋だ。

ソフトクリームやジュースもあるみたいだが、とりあえず我慢。

眺めのよい場所だ。江戸屋(右)と石屋(左)を望む。

大阪屋の屋根。

かつては養蚕も盛んだったようだ。
清水屋で「よかったら、展示も見ていってください」と声をかけられたが、時間も気になっているし、「登山靴なので~」と言い訳して退散した。

下にある大阪屋もかなり大きな宿だった。

軒先に下がる屋号札が決まっている。

門構えも立派。


講中札が往年を偲ばせた。

その下は福田屋。

ここにも牧水の歌碑。集落内に3つあるそうだ。

「花ちさき山あぢさゐの濃き藍のいろぞ澄みたり木の陰に咲きて」
その下は鶴屋。


集落の最も低い場所にある「下久保」。

これにて、赤沢宿散策は終了。

細かく写真を撮ったので30分以上費やしてしまった。
特別に古い家屋はなかったが、変に復元したりせず、自然体の集落だったので印象はよかった。
さあ、登山口へ急ごう。

右手を流れる春木川はいかにも暴れ川といった風情。


河川敷が広い。しかも急流だ。
七面山(1989m)の斜面にも堅固な砂防ダムが築かれていた。

山肌は新緑とヤマザクラ。緑の濃い杉もあり、モザイク模様が絶妙だ。



支流を白糸橋で渡る。


左手には、岩肌をなめる滝。こんな立派なのに無名だ。

コンクリートを吹き付けた法面に、しぶとく咲くお花。

湧き水には水神様が祀られていた。


一口手ですくって飲んでみた。それほど冷たくなかった。
それにしても、結構な勾配の坂だ。汗が出てくる。
春木川があんなに急なんだから仕方あるまい。
私の好きな廃屋を通過。

左手は滝や涸れ沢が続く。


七面山表参道登山口に渡る直前に増田屋旅館。


お堂が併設されているところをみると、かつては宿坊だったのかもしれない。

しかし、この犬には随分と吠えられてしまった。

羽衣橋を渡る前に白糸の滝を見なくては。

ここからいきなり、信仰の山らしい雰囲気になる。

七面山はもともと女人禁制だったが、徳川家康の側室だったお萬の方が、この白糸の滝に打たれて祈念し、衆僧の制止を振り切って登詣を果たした。
それ以来、女人禁制は解かれ、七面大明神の威光や霊験がますます広く知られるようになって参詣者も増えたので、その法勲を讃えるため、この銅像が建立されたのだとか。

この石碑にはその由来が記録されている。

白糸の滝は見て、びっくり。

こんなに高い滝だとは思わなかった。


かたわらに脱衣所があったが、これは滝に打たれる白装束に着替えるための施設だろう。

写真を撮るのを忘れてしまった。
さらに奥に行くと、雄滝という名所があるようだ。

現在、12時前。「徒歩3分」とあるが、撮影時間も含めれば往復10分はかかるだろう。
なるべく早く登り始めたいのだが、もうめったに来ることはあるまいと思い、行ってみることにした。これが大正解だった。
羽衣橋越しに羽衣集落を望む。

道はこんな状態なので歩きやすい。

伽藍坊童子塔。このあたりに伽藍坊という宿坊がかつてはあったのだろうか。

荒々しい渓相の春木川。

雄滝の前にたつ願満弁天堂に参拝する。

そして雄滝。お~

白糸の滝より高さは低いが、勢いを感じる。

ここでも滝行ができるようだ。


滝の脇にたたずむ石祠。

満足して、足早に羽衣橋へ戻る。


すでに10分経ってしまった。

羽衣橋から見た羽衣集落の宿坊群。

春木川の激流。

弁天堂を望む。

ここからもかすかに白峰三山らしき稜線を確認することができた。

12:10、ようやく登山口に着いた。

ここが登山道の「元(0)丁目」である。

さて出発!と行きたいところだが

右下に宿坊群が見えるのが気になる。

結局スタートがさらに遅れるが寄り道することにした。

奥には春木屋旅館も見える。

そこまでは行かずに、明浄院のお堂を確認。

白糸教会なる信仰宗教の道場になっているようだ。

ここはまだ営業しているのだろうか。

こんな貼り紙のある車を発見。

実は敬慎院に予約を入れた時、「現在ケーブルの調子が悪くて、荷物を運べないのですが大丈夫ですか」と折り返し電話があったのだった。
そんなシステムがあるとはしらなかったので、「はい全然構いません」と答えたのだが、普段なら頼めばザックを荷揚げしてくれるらしい。
サービスしすぎではないかとも思ったが、実際に登ってみて分かった。
とくに登山経験のない参拝者にとって、ここの1200mの標高差は相当にきついだろう。
羽衣集落をぐるりと一回り。
「妙法教会」の看板。たぶん、日蓮宗系の新興宗教なのだろう。

あとで敬慎院の同宿者に聞いたのだが、ここは新興宗教の参拝者が異常に多いのだという。
ちょっとたれ目の石仏。

明浄院はいくつも宿泊棟を持っていた。

こちらは参拝用のお堂。


石段を登って、登山口に戻る。


石塔群はかなり荒れたままだった。


もうお世話をする人もあまりいないのだろうか。


登山口に戻ると、こんな看板があったことに気づいた。

なるほど1個につき、500円徴収するわけだ。それでも安いと思う人は多いだろう。
1周するのに10分かかってしまったが、お腹が空いた。
ベンチがあったので、ここでお昼を食べてしまうことにする。
でも、満腹で歩くとお腹が痛くなりそうなので、おにぎり1個とゆで卵1個に抑えておいた。

(つづく)
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【2016年4月23日(土)】七面山
身延山(1153m)から七面山(1989m)の登山口に向かっている。
十萬部寺を過ぎると、北の展望が開けた。

残雪の南アルプスがわずかだが見えてうれしかった。
1000mに満たない低山は新緑真っ盛り。

眼下に見えるのは、おそらく早川の北岸にある千須和の集落。

右前方には948mピークを望む。

七面山の北の稜線。頂上付近は依然として雲の中だ。

新緑を愛でつつ、しばし下ると

廃寺が現れた。

地形図には載っているが、観光マップには掲載されていない寺だ。

石塔も崩れかけている。

お、何か貼り紙がしてあるぞ。

お堂の裏の崖崩れのため、本尊の妙正大明神は妙福寺に移してあるとのこと。

妙福寺はこれから行く赤沢宿にある。
中を覗いてみると、確かに仏壇?は空っぽになっていた。

この寺の名称を知りたかったのだが、どこにも書いていなかった。

スイセンはけなげに花を咲かせていたが

建物は荒れる一方のようだった。

ここからは急な下りとなる。
間もなく、さっきの貼り紙にも書かれていた崩落箇所に差し掛かった。

道を完全に付け替えるべく大がかりな工事が行われている。

待てよ。となると、十萬部寺にあった車はどこから登ったのだろうか。
追分から、あの落石を乗り越えて行ったのか。
ちょっと不思議だった。
それにしても激しい土砂崩れだ。

稜線はあんなになだらかなのに。

シダレザクラを通過して、林道の入口まで下りてきた。


ぽつんと1本、ヤマブキ。

淡い緑が本当に美しい。

七面山の山肌がやっと見えてきた。

そして赤沢宿の家並み。

宿場町へは林道から離れて、整備された石畳の道を下る。

入口には、若山牧水の歌碑。

「雨をもよほす雲より落つる青き日ざし山にさしゐて水恋鳥の声」
水恋鳥とはアカショウビンのことらしい。
ここを左に折れる。

ゴツゴツしていない石畳でよかった。

七面山頂上部。なかなか姿を現さない。

かつての食堂、芳野屋。


「名物 手打生そば 御中食」などと書かれた看板が下がっている。

向かいに、古びた枡がコケ生していた。

ずっと下り坂。

赤沢宿は傾斜地に展開している。


身延山と七面山を結ぶ身延往還にあり、かつては参詣者が多く行き交ったのだろう。

斜面ではお茶が栽培されていた。

私は街道と山村が好物なのだが、この集落はその両方を兼ね備えている。

心躍らないわけがない。

これは普通の住宅のように見えるが、旅館えびすやである。

若山牧水が泊まった宿だそうだ。

講中札。常連の講や客の名前だろうか。

今はもう営業していないようだ。


向かいは、屋号「南(亀屋)」。

その下に玉屋。

玉屋の向かいに小さな池がある。

6月にはモリアオガエルが鳴き声を響かせるらしい。

ミズバショウはもう終わっていた。
さらに下がって中野屋。

そして柳屋。


このお宅の屋号は「川戸」。

この石畳の整備が評価され、平成元年に当時の建設省から手づくり郷土賞を受賞、「いこいとふれあいの道30選」に選ばれている。

古くからの集落だけに、こうした石碑も少なくない。



集落の上部にある妙福寺。


山号は長徳山。

屋根の向こうは七面山。

市町村単位のマンホールではなく、この集落独自のもの。めずらしい。

妙福寺の向かいは両国屋。


その下に大黒屋。


屋号の通り、大黒様が祀られている。

さらに下って、喜久屋は赤沢宿歴史文化公園の休憩処になっている。


赤沢宿が重要伝統的建造物群保存地区に指定されたのは平成5年のことらしい。

この辺の大きな家は、かつては講中宿だったのだろう。萬屋。

改めて振り返るとかなりの急坂だ。

升屋の玄関先に張り出されたお札。

その向かいは美好屋。

きれいなお庭だこと。

なんだかフラワーアレンジメントみたいだ。

どんどん下る。

木工房淳司。

屋号を確認するのを忘れたが、吉田屋だろうか。
さらに勾配がきつくなり、階段まで出てきた。

桃の花が目にまぶしい。

枡田屋さんは「市下」とも呼ばれる。

あとは残り3分の1。

右手に、そば処武蔵屋。


赤沢宿で唯一営業している江戸屋旅館。

ちょっと石畳から離れて、江戸屋に向かう。

この細い建物は「石屋」。

手前は新屋、左奥が清水屋、右奥が大阪屋。

江戸屋旅館はこの集落では一番大きな家ではないか。


左奥の大阪屋の右の赤い屋根は「上久保」。

「親屋」はパンフレットにある「新屋」のことだろう。

お庭もきれいだった。

(つづく)
【2016年4月23日(土)】七面山
身延山ロープウェイに乗車中。
このロープウェイは昭和38年に開業したので、もう半世紀以上経っている。
距離は1665m。標高差763mを7分で駆け上る。
眼下に門前町が見えてきた。

このあたりが中間地点。下りのロープウェイとすれ違った。

南には、思親山(1031m)方面の山並みを望む。
東には毛無山(1964m)。その向こうに富士山が見えるはずなのだが。

う~ん、山頂付近がかすかに見えるか。

再び門前町。

これは富士川と身延川の合流地点。

身延橋の右にJR身延駅が見える。
到着直前、富士山が一瞬見えたので、ガイドさんに合図をしたら、「たった今富士山が姿を現しました」とアナウンスしてくれた。

7分で、山頂の奥之院駅に到着。


ツツジが美しい。

駅のすぐ横に展望台があるので、そこからの眺望を確認する。
蛇行する富士川と天子山地。

富士山がほんとにかろうじて見えた。

ここは山頂ではないが、行けない人のためなのか、ここに山名板があった。

さて、9:10を過ぎた。いよいよ出発する。

当初の予定では9時出発のつもりだったから、10分程度の遅れで済んだ。
正面に見える奥之院は前回お参りしたのでパス。

山頂には寄らずに七面山へのハイキングコースを進む。下りからのスタートだ。

なんと車の通れる道だった。これはびっくり。

歩き出してすぐに七面山の展望台があった。

しかし、残念ながら雲に隠れて何も見えなかった。

その代わり右に覗いていたのは笊ヶ岳(2629m)だろうか。

わりと古い指導標が残っていた。

標高1000mを超えているので、4月下旬になってもヤマザクラが満開。

すぐにまた七面山拝礼所が出てきたが、もちろん何も見えない。

ただ、これから歩いて行く稜線だけは確認することができた。

道はしっかり車道である。

舗装してある部分すらある。

実際に車が通りすぎて行った。

斜面にはコバイケイソウが緑の葉っぱを広げている。春の風景だ。

右手に大きな「南無妙法蓮華経」の石碑。

付近には「妙法」と刻んだ小さな石碑もいくつか並んでいた。


ここは展望所のようで、ベンチがあったが、どうせ七面山は見えないので通過する。

柵で囲われた石があるが、これは何なのだろうか。

七面山を開いた日朗上人が座ったという「朗師腰掛石」だろうか。
隣にある石碑も真っ白に地衣類が覆っていて、碑面は読めなかった。

近くには妙法坂十一丁目の丁目石が傾いていた。

これも説明がないので、よく分からない。
奥之院までの丁目石と思われるが、頂上近くなのに数字が少なすぎる。
木々を透かして右手に見えるのは、おそらく夏秋(なつあき)の集落。

同じ地名が北杜市にもある。地名の由来はよく分からない。
その奥になだらかな稜線を見せているのは櫛形山(2052m)だろうか。

ちょっと近すぎる気もするが。
しばらく石垣に沿って歩くと

桜並木が現れた。



心が洗われる。
このすぐ先に石塔群。

追分の感井坊に到着した。


二王門より四十三丁五十間とある。

この車道も昔からあるれっきとした奥之院への参道なのだ。
ここを左に折れると、妙石坊を経て日蓮大聖人御廟所、久遠寺三門に至る。
七面山への登山口まではあと2時間半も歩かねばならないようだ。

現在9:40なので、ちょうどお昼になってしまう。
5時までに敬慎院に着けないようなら、電話をしないといかんなあ。


予約の電話を入れた時、「何時頃どこから登りますか」と聞かれ、ちょっとサバを読んで「表参道を11時くらいから」と答えていたのだ。
「ふもとから4~5時間かかりますからね~お気をつけていらして下さい」と言われたので、遅くなると心配するかもしれない。
身延山方面を振り返る。新緑の季節は本当に気持ちがいい。

ここにはかつて何かが建っていたのだろうか。それとも単なる井戸の屋根か。

感井坊は身延山13世日脱上人の代に創立されたと伝わる。

追分帝釈天が祀られている。

とても静かで雰囲気のいい所だ。

軽自動車が1台。坊の人が通勤してきて、清掃をしていた。


まだ30分ほどしか歩いていないので休まずに進む。


ここからは若干登り基調。

新緑が実に鮮やかだ。


法面に吹き付けたコンクリートがすでに剥がれているのが気になる。

やはり、あちこちで土砂崩れが発生しているようだ。

でも、これならまだ車も通行可能だ。
左手は滑め滝のような谷になっている。

桜の木の下を歩き

小さな尾根を越えるところに石碑があった。


遠くに見えるのは蛾ヶ岳(1279m)だろうか。

背後には身延山。


ここにも落石。こうなるとさすがに車は無理だ。

案の定、すぐ先に「通行止め」の標識が出ていた。

まもなく十萬部寺に到着。


日蓮六老僧のひとり日朗上人の開山で、永仁五年(1297年)の開創と伝わる。


立派な門をくぐる。

門には、神仏習合の名残か、妙法両大善神が祀られていた。

こちらは小さな新しい本堂。

境内ではシデコブシが満開だった。

小腹が空いたので、朝の残りのパンを歩きながら食べる。

ハンバーグのランチパックだったが、これはなかなかのヒット。おいしかった。
しばらく歩くと、岩が露出した法面にスミレがけなげに咲き乱れている。



このあたりも落石が多い。

細長く平らに延びた尾根を越える。

すると残雪をまとった南アルプスが目に飛び込んできた。

白峰三山だろうか。
こちらは富士見山(1640m)かな。

(つづく)
【2016年4月22日(金)】七面山
七面山(1989m)は日本二百名山の一つである。
登るとしたら、安倍奥の八紘嶺からの(までの)縦走になるだろうなあと思っていたので、八紘嶺に登ったことのある私としては、あまり優先順位が高くなかった。
しかし、田中陽希の「グレートトラバース2」を見て、かなり興味をそそられた。
どうすれば効率よく回れるか真剣に考え始めた。
表参道を登って裏参道から下れば、周回コースが取れるのだが、1日の行程としては長すぎるし、山頂直下の敬慎院で1泊すると、今度は1日の行程が短くなりすぎてしまい、もったいない。
じっくり「山と高原地図」を眺めて思いついたのが、初日を身延山からスタートすることだった。
身延山と七面山は信仰の山としてはセットである。
身延山もふもとから登って七面山に向かうのはさすがにきついが、ロープウエーで登ってしまえば、時間も労力も節約できる。
というわけで、身延山の山頂から七面山の表参道登山口まで下り、そこから敬慎院まで登って宿泊。翌日は山頂を往復して裏参道を下るというプランにした。
2日目の行程がやや短いが、これは止むを得まい。
初日、下りの途中に赤沢宿という重要伝統的建造物保存地区もある。
変化に富んだ山旅が楽しめそうだ。
始発のロープウェイの乗るため、甲府に前泊することにした。
金曜日の仕事を午後6時に切り上げ、コインロッカーに預けてあったザックを回収して、東京駅から中央線に乗車。
新宿で19:00発のあずさ31号松本行きに乗り換える。

発車の20分近く前に着いたので、前に並んでいたのは6、7人ほど。
余裕で自由席に座れた。
座席を確保してから、ホームの売店で缶ビールとつまみを購入し、すぐに飲み始める。

駅弁を買いたかったが、ホームには売っていなかった。残念。
でも、夕方お腹が空いて、会社でパンを食べたばかりだから、ちょうどよかった。
発車が近づくにつれ、どんどんお客さんが乗り込んできて、とうとう満席に。
特急券が510円だからか、立川とか八王子への通勤に使う方が多いようだった。
それにしても、夜汽車はいい。
仕事を終えた解放感、山に向かう高揚感・・・
暗くて車窓を真剣に見なくていいから、寝てしまってもいい。
甲府までたった1時間半なんて足りないくらい。
松本まで行ってしまいたいくらいだ。
とにかく、東京の夜景をぼーっと眺めながら、のんびりとくつろいだ。
甲府には定刻より5分近く遅れて、8:40に到着。

北口に出て、コンビニで明日の朝食と昼食、2日目の昼食用のカップ麺を調達する。

今夜の宿は甲斐駒に泊まった時にも利用した駅前のホテルニューステーション。

1泊5000円のところ、じゃらんポイントを利用して、4400円。
パッキングをし直して、お風呂に入り、10時半には就寝した。

【2016年4月23日(土)】七面山
本日乗る電車は6:44発なので、6時に目覚ましをかけておいたが、5時半過ぎには目が覚めてしまった。
カーテンを開けると、天気は晴れ。雲がやや多く、南の山並みは雲の中だが、まずまずだ。

甲府城址の上に富士山もしっかり見えた。

お腹が空いたので、パンを1個だけ食べる。
6:20にはチェックアウトして、甲府駅へ。
身延線の電車はすでに入線していた。

ガラガラだったのでボックス席を独占できた。
身延線に乗るのは、ほぼ3年ぶり。前回もちょうど今頃だった。
乗客は乗ったり下りたりで出入りが激しい。地域の足として定着しているようだ。
身延駅に近づくと、車窓から身延山(1153m)を望むことができた。

たっぷり1時間以上乗って、身延駅には8:01に到着。

身延山行きのバスは8:10発なので、それまで駅前をうろちょろ。

バスは山交タウンコーチだった。

定刻に発車。すぐに富士川を渡る。


総門をくぐって、久遠寺の門前町にある身延山バス停が終点。
十数分で着いた。

なんと、ここから新宿への直行バスも出ているようだ。
すぐ歩き出す。にぎやかな門前町を身延山に向かって北上する。

身延山ロープウェイの始発は8:40なのだが、あと17分。間に合うかどうか。
それを逃すと次は20分後の9時ちょうどとなる。

しかし、だからと言って、わき目も振らずに歩くことはできない。

門前町というのは、私の好物なのだ。
数分で巨大な久遠寺の三門の前に着いた。

この向かいに観光協会があったので、ちょうど出勤してきたおばさんに聞いてみた。
「ロープウェイの駅まで、ここから歩いてどのくらいかかりますか?」
「そうねえ、15分か20分くらいかかるわね」
「そうですか。ありがとうございます」
それじゃ、とても無理だ。
出発が少し遅れるが、9時の便目指して、ゆっくり向かうことにする。
ちなみに、この三門は寛永十九年(1642年)に建てられた先代が慶応元年(1865年)に焼失し、明治40年(1907年)に再建されたもの。
関東三大門の一つだそうだ。
この先は沿道に宿坊が並ぶ。まずは恵善坊。

その隣に、昭和の香り漂う清水屋商店。

向かいには、田中智学先生法勲碑が立つ。

田中智学(1861~1939年)は日蓮主義運動を展開、日本国体学を提唱した宗教家。
「八紘一宇」を造語したことでも知られるので、軍国主義者のように思われているが、それは誤解で戦争批判や死刑廃止を訴えていたという。
定林坊。

右手に清兮(せいけい)寺。


日蓮大聖人の御廟参拝は見送り。

見上げると身延山の新緑が美しい。

樋之沢川を三昧橋で渡る。かなりの登りだ。

左手に智寂坊。


続いて武井坊。

さらに林蔵坊。


その上に樋沢坊。


茅葺の門は明治元年(1868年)に修復されたもので、身延町の指定文化財になっている。

身延山地の稜線。

清水坊。


堅固なその石垣。

麓坊への入口。

樹種を確認するのを忘れてしまった。

最後に本行坊。



駐車場の奥に斜行エレベーターが見える。

身延山は5年ぶりの再訪だが、あれには前回乗った。
8:45、バス停から20 分ほどで身延山ロープウェイの久遠寺駅に到着。

これなら、急げば始発に間に合ったかもしれないが、ここまで十分楽しめたので悔いはない。


今回は久遠寺参拝は省略。

まずはチケット購入。下の観光協会で割引券をもらったのでそれを提示したら、片道では使用できないとのこと。
なんとそれは残念。定価の730円を支払う。
9時の便まで、お土産をちょっとひやかし。

おいしそうだが、荷物になるので買いはしない。
外に出て、あたりを撮影。
ロープウェイのルートを見上げる。

まだ時間があるので、念入りにストレッチをしておいた。
9時に乗車。

乗客は10人ほど。みな高齢者ばかりだ。
私は後ろ側に陣取り、撮影態勢。まずは宿坊街が見えてきた。

そして久遠寺の五重塔。

右前方に大きく鷹取山(1036m)。

斜行エレベーター。

久遠寺の伽藍がだんだん見えてきた。

(つづく)
【2016年4月14日(木)】都心の山
芝給水所の銘板を見ると、ここは信濃小諸藩主牧野遠江守康済の屋敷跡地だという。

あれれ、江戸切絵図には植村駿河守とあったのだが。
自分が見ている切絵図は嘉永三年(1850年)のものだから、その後廃藩置県(1874年)までの間に、牧野家の屋敷となったのだろうか。
ちなみに、植村家は大和高取藩主。駿河守を名乗ったのは9代家長と13代家保だけで、家保が藩主になったのは嘉永六年だから、こちらも微妙に食い違っている。
まあ、あまり深入りはしないでおこう。
この地に給水所ができたのは明治29年(1896年)。明治31年12月に淀橋浄水場からの水をここから給水した。
東京の近代水道の始まりとなった施設で、当時はレンガ造りだったという。

「芝給水池」の銘がある。

こちらは現在の芝給水所の門。

中には当時の遺構がいくつか野外展示されている。

左が水道管で、右は馬蹄型通路の断面である。
給水所の向かいには、幸稲荷神社が鎮座する。応永元年(1394年)の創建と伝わる。

勧請当時は、岸之村の地名をとって岸之稲荷と呼ばれていたが、氏子の願望がことごとく叶ったので、これ幸い哉と、寛永元年(1624年)に今の名称に改められたという。
瘡護神社も兼ねているらしい。

両方の扁額が掲げられている。

境内に茅野天満宮と松野天満宮。いずれも聞いたことがない。

御祠石の影向石。

これに水を注いで祈願すれば、熱病や夜泣きがピタリと治まるという。
社務所は昭和レトロな建物だった。

では、丸山に向かおう。
いくつかの寺院の横を通過していく。


後者は切絵図に「金地院」として登場する。

東京タワーは眺めるだけ。

「日本電波塔株式会社」が管理していることを初めて知る。

ハイボール好きです。

もう一度見上げる。

道路を渡って、芝公園に入る。
すぐに観音堂。

ここが、かつての観音山だ。

手水鉢は「千住驛 坂田七兵衛」の奉納。

芝公園も新緑がまぶしい。

秋は紅葉の名所になりそうだ。

江戸開府400年、芝公園開園130年を記念し、日本専門新聞協会が設置した電波時計「複眼的報道の塔」。

観音山からはもみじの滝が流れ落ちている。

これは水をポンプアップしているのだろう。

ここにも気になる高まりがあるが、山の名前はなさそうだ。


大きな石の橋を渡る。

さらに信号を渡って、増上寺の裏から侵入する。

増上寺が経営する明徳幼稚園。

こんなのを写していると怪しい人だと思われそうだ。

でも園児を撮りたいのではなく、増上寺の「最高地点」を探しているだけだ。
どうやら最高地点は、あれのようだ。

これは昭和8年に建立された大納骨堂だった。

本尊は高村光雲作の仏様をもとにした地蔵菩薩だそうだ。
堂内には有縁無縁のお骨が納められている。

増上寺の参拝は省略して、まっすぐ南下し、プリンス芝公園に出る。

正面はザ・プリンスパークタワー東京。

振り返ると東京タワー。

ツツジがあでやか。


森のチャペルを回り込むと、いよいよ丸山への登り。

標高16mの台地の上に築かれた前方後円墳(芝丸山古墳)なので、かなり高い。

頂上は平らな広場になっている。標高は正確には分からない。

後円部は江戸時代にかなり削平されてしまったようだ。
その頂上に伊能忠敬を顕彰する石碑「伊能忠敬測地遺功表」が立つ。

伊能忠敬の測量のスタート地点がここに程近い高輪の大木戸だったことから、東京地学協会がこの地を選んで建立したらしい。
これは何のモニュメントだろう。

後円部を後にして前方部に移動する。

前方部には猛虎の像。

実は戦後、衆議院議長を務めた政治家大野伴睦(1890~1964年)の句碑。

「鐘がなる春のあけぼのゝ増上寺」
調理師会の名誉会長も務めていたため、調理師法施行5周年を記念して昭和38年に建立されたものだという。
芝丸山古墳は5世紀の築造とされる。

日本考古学の先覚者坪井正五郎(1863~1913年)が明治25年(1892年)、欧州への留学から帰国する船の上から陸地を眺めた際、この小山の高さに不自然なものを感じた。
明治31年(1898年)に発掘調査を行ったところ、埴輪の破片などが出土し、古墳と判明した。
埋葬施設は削平されていたため、発見できなかった。

前方部。

後円部。

全長106mというから、都内ではかなり大きい方だ。


墳丘には円山随身稲荷大明神が祀られていた。

ちなみに東南斜面には縄文時代後期とみられる貝層が残っており、丸山貝塚と呼ばれている。

これにて、本日の縦走は終了。
あとは、地下鉄芝公園駅へ下山するだけだ。
途中、インド系の外国人に呼び止められ、丸山を背景に写真を撮ってくれと頼まれた。
これが古墳だと知っていて訪ねてきたのだろうか。
だとすればかなりのマニアだ。日本人ですら、ほとんど知られていないのに。
園内には、江戸時代に今の西新宿三丁目にあった「梅屋敷銀世界」の梅林がここに移植されたという。
当時、梅屋敷にあった石碑も移設されている。

琉球の陳応昌の筆になるという。
「この木なんの木」のような木。

庭園風の涸れ川を見学して

芝公園駅に到着。

ここにも外国人が多い。
考えてみれば、今日登った主要4つの山すべてに外国人の姿があった。
日本史を歩いて、外国人と出会う。
そんな意外な発見もある「山行」だった。
【行程】2016年4月14日
赤坂見附駅(11:25)~一点張(11:30昼食11:45)~日枝神社(11:52撮影12:03)~国会議事堂裏(12:19)~日比谷公園(12:37散策・撮影13:30)~南桜公園(13:41)~愛宕山(13:57撮影14:08)~放送博物館(14:10見学14:35)~西久保八幡神社(15:08撮影15:15)~芝給水所公園(15:25撮影15:32)~芝公園(15:40散策・撮影16:15)~芝公園駅(16:18)
※所要時間:4時間53分
※登った山:6座(星ノ山、ツツジ山、三笠山、愛宕山、観音山、丸山)
※歩行距離:10.0km
【2016年4月14日(木)】都心の山
愛宕山のNHK放送博物館を出ると、ふもとに下りるエレベーターが右手にある。


でも、これは使わず、やはり「出世の石段」を下る。
上から見ると、さすがにものすごい勾配だ。

格好つけずに手すりにつかまりながら、ゆっくり下った。
寛永十一年(1634年)、三代将軍徳川家光が増上寺参拝の帰り、愛宕山に美しい梅の花が咲いているのを見つけた。
「誰か馬であの梅の枝を取って参れ」と命じたところ、多くの伴の者が逡巡する中、讃岐丸亀藩の家臣、曲垣(まがき)平九郎がみごと石段を駆け上がり、枝を取ってくることに成功。「日本一の馬術の名人」と賞賛されるようになったという逸話にちなむ。
講談「寛永の三馬術」でもよく知られている。

その後、なんと明治、大正、昭和と各1人ずつ、この石段を馬で登ることに成功した人がいるらしい。

1人目は仙台藩で馬術指南役を務め、廃藩後曲馬師をしていた石川清馬。
明治15年(1882年)に成功し、これにより石川家は徳川慶喜より葵の御紋の使用を許されたという。
2人目は参謀本部馬丁の岩木利夫。大正14年(1925年)、愛馬の引退記念に挑戦し、観衆が見守る中成功させた。
上りは1分ほどで駆け上がったが、下りは45分を要したのだとか。
この模様は、当時愛宕山にあった東京放送局(のちのNHK)によってラジオ中継された(日本初の生中継とされる)。
3人目は馬術のスタントマン渡辺隆馬。昭和57年(1982年)、日本テレビの特別番組『史実に挑戦』の企画としてチャレンジし、安全網や命綱、保護帽などの安全策を施した上で登頂。タイムは32秒だった。

以上はウイキペディアの記載によったが、これだけだと下りにも成功したことがはっきり分かるのは、岩木しかいない。
時間を見ても分かる通り、下りの方が明らかに難しい。
馬もよく45分間も集中力を保ち続けられたものだ。
階段の横にはひっそりと「愛宕の地名存続達成記念」の標柱が立っていた。
「愛宕」の町名は複雑な変遷をたどっているが、昭和40年以降、住居表示の実施に伴い、芝愛宕町二丁目が西新橋に、芝愛宕下町四丁目が芝大門になるなど、「愛宕」のエリアがどんどんなくなっていき、住民は消滅の危機を感じたのだろう。
運動実って、昭和53年に芝愛宕町一丁目と芝西久保広町の一部が、愛宕一、二丁目として存続することになった。
標柱はこれを記念したものと思われる。

一旦、大通りに出て、すぐ右折する。
左手に總持寺の出張所。總持寺の本社は横浜市鶴見区にある。

その後ろに、さっきのエレベーターの上り口。

正面は愛宕隧道。

昭和5年(1930年)の竣工で、首都高や立体交差などを除く純粋な「山岳トンネル」としては23区で唯一のものだそうだ。

長さは約77m、幅員9m。両側に各2.5mの歩道があるので、車道は4mのみ。
西方面への一方通行になっている。
西側に出て振り返る。

ここにも山頂への登山口がある。

西側は江戸時代以来の寺町の雰囲気がわずかに残る。
愛宕山に沿って、南に進むと、左手は新しい高層マンションが立ち並ぶが

右手は天徳寺。

折角なので立ち寄ってみた。
天文2年(1533年)の創建で、浄土宗江戸四ヶ寺の一つに数えられているという。
境内には石仏や五輪塔などがたくさん。





この板碑は永仁六年(1298年)七月日の銘がある。鎌倉時代のもので、港区の有形文化財に指定されている。

上部の梵字「キリーク」は阿弥陀仏を意味する。
このほか、立派なお墓も狭い敷地に林立していた。



由緒ある家系ばかりだ。
これらは篆刻の巨匠、高芙蓉(1722~1784年)と河井荃廬(1871~1945年)の墓。

そして本堂。

仮本堂。

門前には「西ノ窪観音」の石碑。ここは江戸三十三観音霊場の二十番札所でもある。

寺を後にして、芝公園方面に向かう。
この界隈には古い建物が奇跡的に残っている。


高層ビル群の谷間に、こんな空間が展開していて、驚いた。


これなどは戦前のものではないか。空襲の焼け残りか。


さらに進むと不気味な雰囲気の光明寺。


専光寺。

目的地は芝公園の丸山なのだが、それまでにいくつか丘があるようなので、寄り道していくことにした。

桜田通り(国道1号)を歩道橋で渡る。
都心方面。

横浜方面。

国道の反対側にも古い家屋が残っている。

このあたりのフェンスの中は森ビルが買い占めたもの。

その中にこんな張り紙が。

ノラ猫に迷惑をしている住民と世話をしているボランティアが対立しているようだ。

この先に階段があるので登ってみる。ここも「山」なのか。

少し登ってみると、ふもとにはフェンスが張り巡らされていた。

この界隈も近い将来、高層ビルに変わってしまうのかもしれない。
登り切ると、こんな石碑が。ここは神社の北参道だったのだ。

昭和2年(1927年)とは随分古い。
何神社だろうか。

西久保八幡神社というらしい。

平成23年に、御鎮座1000年というから、かなり古い。

江戸切絵図「愛宕下之図」に「八幡社普門院」と記されているところと思われるが、山名の記載はなかった。

となりの「城山」のように「八幡山」とでも名付けてくれていれば、よかったのだが。

境内には稲荷社と妙な石碑が安置されていた。


こちらの石碑は平成5年の建立。皇太子の御成婚を祝って拝殿、玉垣、手水鉢の修復したことを記念しているだが、随分古色を帯びている。

女坂の玉垣は古いが、男坂は真新しい。


これは平成5年ではなく、さらに新しい23年の修復のようだ。
鳥居の横に、江戸中期に成立した江戸の地誌「江戸砂子」の記述を写した石碑があった。
「熊谷橋」なる石橋の名の由来が書かれているようだ。

かつて、ここから程近い神谷町の横切下水に熊谷橋という石橋がかかっていた。
なぜ、「熊谷」か。近くの屋敷内に鷲の社が祀られており、鷲は熊谷氏の氏神であることから、この界隈を熊谷とも呼ばれるようになったらしい。
その石橋の遺構がこの神社の鳥居の手前に保存されているとのことで、この石碑が建てられたわけ。
だが、保存されている石橋の遺構とは、この石畳のことだろうか。

桜田通りまで下ってきて、飯倉交差点を望む。

交差点を左折すると、東京タワーに向かう永井坂。

このあたりがかつて芝永井町と呼ばれていたのが、その名の由来だという。
左手に聖アンデレ教会。

その隣に、聖オルバン教会。

1956年の創立で、チェコ系米国人の建築家アントニン・レイモンドの設計という。
真正面に東京タワーが見えるが、ちょっと寄り道。

このあたりの最高地点にあたる港区芝給水所公園を目指す。

江戸切絵図では植村駿河守の屋敷の跡地のようだが、こんなに高い場所であるにも関わらず、山の名前は書かれていなかった。

台地上は公園なので遊具がたくさん。

サッカーのグランドもある。

北東に愛宕グリーンヒルズのツインタワーを望む景勝の地だ。

(つづく)
【2016年4月14日(木)】都心の山
まだ日比谷公園から出られないでいる。

大噴水は昭和36年(1961年)9月、日比谷公園における戦後復興の締めくくりとして設けられた。直径は30mもある。

こちらは小音楽堂。

小さすぎる東京タワー。

カレーや洋食が評判の松本楼。

ここには2回ほど来たことがある。
その間近に、唐突にはにわ。

昭和40年(1965年)、東京都日比谷公園と宮崎県立平和台公園が姉妹公園として結ばれたのを記念して、宮崎の西都原古墳群で出土した埴輪のレプリカが寄贈された。
花壇には色とりどりのチューリップが満開。きれいだ。


フランス料理の南部亭。ここにもいずれ来てみたい。

これでようやく日比谷公園ともお別れ。
横断歩道を渡って、対岸から日比谷公会堂を望む。

昭和4年(1929年)の竣工で佐藤功一の設計。
堂々たるネオ・ゴシック様式の建築だ。
地下鉄の内幸町駅を通過。

その先に放送記念碑。

NHKがここに1938年から73年まであったことを記念したものだ。
富国フォレスト・スクエア。

このまま大通りを歩いていくのも面白みに欠けるので、裏道に入ってみた。
すると、南桜公園というところにぶつかった。

江戸時代から大正時代にかけて、この界隈から南を望むと、「田村のお化け銀杏」と呼ばれる大銀杏があったそうだ。

もともとそこは奥州一関藩田村家の上屋敷で、元禄十四年(1701年)三月十四日に、江戸城松之廊下で刃傷事件を起こした赤穂藩主浅野内匠頭が自害した場所でもある。
園内には紀元二千六百年記念の二宮尊徳像。

「南桜」創立八十周年記念碑なるものもある。

そして「みんな手をつないで」のモニュメント。

何だろうと思っていたら、ここは南桜小学校の跡地だった。

関東大震災の復興事業の一環として、昭和3年に鉄筋コンクリートの小学校校舎が竣工。
昭和20年の戦火は免れたが、都心空洞化と少子化により平成3年に統廃合されて閉校。
しばらく福祉会館などとして活用されてきたが、平成21年に解体された。

環二通りを渡る。

この昭和っぽいお店は、染物の明石屋。

と思えば、頂上がファインダーに収まりきらないほど高い虎ノ門ヒルズ。

恥ずかしながら初めて見た。
間もなく、愛宕山(愛宕神社)の参道。

たいていは表玄関の出世の石段で登るのだろうが、そちらは下りで使うことにして、裏道から。
これが愛宕山の山体の一部。

ふもとに、毘沙門天?の騎馬像。

坂道の途中に由緒ありげな石仏がたたずむ。


北麓では発掘調査が行われていた。

江戸切絵図を見ると、あそこはわりと狭い区画の屋敷が並んでいるところだ。
旗本屋敷の跡だろうか。
坂道の左手には、損保ジャパン日本興亜が所有する料亭?の「愛宕荘」。

門前には、「左 芹生(せりゅう)の里 右 鞍馬」の道しるべが立つ。

なぜ、京都の道しるべがここにあるのだろう。作り物なのか、譲り受けたのか。
その上には、田崎真也ワインサロンなるものも。

道はかなり登っていく。さすが23区最高峰だ。

頂上右手にはNHK放送博物館。

こちらは後で寄ろう。

まずは愛宕神社に参拝しなくては。

提灯の家紋は葵の御紋。

顔はめの写真は、なかなか一人では難しい。


平九郎手折れの梅樹(将軍梅)。

神社の神門は真っ赤に塗られ、かなり新しい。

愛宕神社は、徳川家康が江戸に幕府を開くにあたり、江戸の防火・防災の守り神として慶長八年(1603年)に創建された。
にもかかわらず、大老井伊直弼を襲う水戸浪士たちの集合場所になってしまったのは皮肉なことだった。

万延元年(1860年)、浪士たちはご神前で祈念の後、桜田門外に向かい、目的を果たしたのであった(桜田門外の変)。
狂歌師長者園萩雄(1784~1873年)が選者となった狂歌合の石碑。

冒頭に蜀山人(太田南畝)の名が見える。
狂歌合の日取りは「甲子年正月廿二日」とある。長者園の存命中で甲子年と言えば、1804年と1864年。前者だと若すぎるので、やはり1864年だろう。
上段に描かれているのは、戎天・大黒天・弁天だろうか。
下段には、社頭霞、愛宕山、甲子などをお題にした狂歌が碑面いっぱいに刻まれている。
その正面に弁財天。

天然の山としては23区最高峰であることを示す標高25.7mの三角点は地下に埋設されている。

ふたに穴があったので、指をひっかけて開けようとしてみたが、重くてびくともしなかった。
背後には、越谷市の立花房枝さんが奉納した銘石。

弁財天は池に祀られている。

コイがたくさん。奥にいる人は水を舟に入れているのだろうか。

何のために?

この石碑は何が書かれているのかさっぱり分からないが、ひどいことになっている。

いったん、境内を抜けて、下界を見下ろす。こちらは女坂。

ここは立ち入り禁止になっているが、かつては展望所かなんかだったのだろうか。

再び境内に戻って、福寿稲荷神社。

その隣に、太郎坊社と次郎坊社。


社務所の売店の下には、人慣れした猫が一匹。

かまっても嫌がりはいないが、愛想は全くない。
起倒流拳法碑。

起倒流とは江戸時代初期に開かれた柔術の流派で、講道館柔道の基礎になった流派として知られているらしい。全然知らなかった。
石碑の建立は安永八年(1779年)。何が書かれているかは、しっかり読んでいないので分からない。
さて、最後にようやく参拝。

招き石をなでて、放送博物館へ。

放送博物館の外には歴史あるアンテナがいくつか展示されていた。
これは東京タワーの先端にあったスーパーターンアンテナの一部。

平成23年7月24日のアナログ放送終了とともに52年半にわたる役割を終えた。
こちらは日本初のテレビ放送アンテナ。

昭和25年3月から2年間テレビの実験放送に使用されたとのこと。
館内は歴代の朝ドラや大河ドラマなどNHKの人気番組が紹介されていたり、放送に関する歴史的な資料が展示されていたりで、かなり面白い。
平日なのに見学者も多かった。
時間がある時なら、もっとゆっくり楽しめるところだ。
貴重なのは終戦時に玉音放送を録音した玉音盤。

動画としては、昭和29年2月21日に行われたプロレスタッグ世界選手権、シャープ兄弟対力道山・木村政彦組が興味深かった。
力道山の空手チョップに熱狂する観客たちの姿が印象的だった。
(つづく)
【2016年4月14日(木)】都心の山
山王日枝神社から日比谷公園に向かって移動中。
国会議事堂の左側面の坂を下る。

ここは茱萸(ぐみ)坂というようだ。

かつてこの坂の両側のグミの木があったことに由来するとのこと。
財務省上の交差点に出た。

左は国交省、その右奥は総務省。

外務省と財務省の間の坂を下る。

かつて海を見ることができたから潮見坂という。
今はもちろん見えない。

霞が関二丁目の交差点。左前方は農林水産省。

左後方は外務省。

外務省前の桜並木はすっかり葉桜になっていた。

右後方は財務省。

そのまま国会通りを直進する。

農林省はツツジが見頃。

もう一度信号を渡ると、日比谷公園。何年ぶりかなあ。

噴水のオブジェは淀井敏夫作(1986年)の「鴎」。

門柱があったので、いったん外側に回ってみたが、「日比谷公園」の看板はかかっていなかった。

これが公園の案内図。目指す三笠山は北端にある。

かつて何度も通った都立日比谷図書館。

園内はすっかり新緑に覆われていた。

シャガも満開。

三笠山の前にツツジ山に登る。標高差は1mくらい。

肝心のツツジはまだほころび始めたばかり。

頂上にはベンチがいくつか。

傘を差してOLが休んでいた。

ツツジ山を下ると、藤棚。こちらはそろそろ見頃だ。

左奥は厚労省。
雲形池。

なかなか美しい日本庭園になっている。

鶴の噴水。


橋を渡って

反対側に回ってきた。


まぶしいほどの新緑。

明治8年(1875年)に架けられた京橋の欄干柱。

大正11年(1922年)に架け替えられたので、ここに移設されたとのこと。
日比谷公園が明治36年(1903年)に開園した直後に開店したレストラン日比谷パレス(当時は結婚式場高柳亭)。

フランス料理のお店で、メニューを見るとランチが1800円だった。
ヤマブキも真っ盛り。

日比谷パレスの裏側に回る。

ここから祝田通りに沿って北上すると、三笠山にたどり着く。

築山が2つあり、南側の山には自由の鐘が設置されている。

わずか9段の階段を登ると頂上。

自由の鐘はそもそも1776年に米国が独立した際に鳴らされたものだ。

戦後、米国の有志が日本にその複製を寄贈しようとした。
寄贈先を託された当時の連合軍総司令官リツジウエイ大将は「自由の擁護者たる新聞を通してこれを広く日本国民に贈ることが趣旨にかなう」と判断し、昭和27年4月に日本新聞協会に贈られた。

その後、平成23年にこの鐘の修復が行われ、以来毎日正午に鐘が打ち鳴らされている。
もう一つの築山の方が背が高い。

ここも頂上の標高ははっきりしないが、日比谷公園の前の道路が2.5mなので、5mほどだろうか。

しかし、眺めはすこぶるいい。
新緑の向こうに丸の内の高層ビル街を望むことができた。

頂上に山名板はなかったが、大名の刻印のある江戸城の石垣の破片が転がっていた。

山名板はふもとに立っていた。

説明にある通り、この山は日比谷公園造成の際に、雲形池を掘った残土を積み上げて築いたものだ。
当初は3つあったので三笠山と呼ばれたが、後にテニスコートなどの造成に伴い、1つが削平され、双耳峰になってしまった。

これらの石は江戸城の石垣由来のものとは思えない。あえてどこかから運んできたのだろうか。

ふもとに残されている開園当時の水飲み場。

鋳鉄製で馬も飲めるようなデザインになっている。

法務省と最高裁をバックに。

北門は赤い門柱だが、こちらにも看板はなし。

ガパオライスを800円で出しているヒビヤサロー(旧日比谷茶廊)。

園内には松本楼のほかにもたくさんレストランがあることを今回初めて知った。
いずれ試しに来てみたい。
第一花壇のペリカン噴水。

旧日比谷公園管理事務所は結婚式場になっていた。

明治43年(1910年)に竣工したドイツのバンガロー風の建築で、都の有形文化財に指定されている。

昭和51年に公園資料館として使用するため、若干改装されたとのこと。

設計は東京市の技師福田重義。

近くには木の化石が。

松石と呼ばれている。昭和初期に福岡市の炭鉱で見つかったものだそうだ。
この先に伊達政宗終焉の地の案内板があった。

この場所には、仙台藩祖伊達政宗から三代綱宗の時代まで、仙台藩の外神田上屋敷があった。
政宗は寛永十三年(1636年)五月、この上屋敷で最後の戦国大名の生き残りとして、70年の生涯を閉じた。
案内板は仙台市が設置したものだった。
江戸城日比谷見附の石垣。

日比谷公園は日本初の洋式公園で、「公園の父」と呼ばれる林学博士の本多静六(1866~1952年)の設計による。
様々な設計案の中で、この石垣を残す本多の案が採用されたのだとか。

手前は心字池。

サギの横にいる亀は生きているのだろうか。

雨が降ってなければ、このベンチで一息入れたいのだが、濡れているので通過。


こちらはスカンジナビアの古代文字。

1957年にスカンジナビアの人々が北極海経由の日本への空路を開拓したが、その開設10周年を記念して、古代北欧文字碑を模して建立したものだそうだ。
こちらは南太平洋ヤップ島(ミクロネシア)で使用されていた石の貨幣。

大きいもので直径3mもあるらしい。
これは長径1.3mで大正14年当時、1000円くらいの価値で通用していたとのこと。
当時ヤップ島は日本の委任統治領で、ヤップ島支庁長からもたらされたようだ。
喫茶店の日比谷パークセンター。

日比谷公園の象徴、大噴水。

(つづく)
【2016年4月14日(木)】都心の山
この日は会社の業務として都心の「山」を歩くことになった。
手引きは、手島宗太郎著『江戸・東京百名山を行く』(日本テレビ放送網)である。
この中から、星ノ山、三笠山、愛宕山、丸山の4座を選んだ。
天然の山あり、明治の築山あり、古墳ありで、変化に富んでいる上に、お互いにわりと近い。
5時間もあれば、余裕で歩けそうだ。
前日は、国立国会図書館のデジタルアーカイブから江戸切絵図をダウンロードしたり、現在の地図をプリントアウトしたりして、しっかり街歩きの準備をしたのだが、出かける時に持参するのをうっかり忘れてしまった。

全く、しょうもない。こうなったら記憶とスマホの地図で歩くしかない。
朝からあいにくの雨だったが、午後には上がるとの予報だったので、家を10時すぎくらいに出た。
赤坂見附駅に着いた時点で小雨。すでにお腹が空いていた。
空きっ腹で歩くのは非常によくない。
まだお昼前だが、店が空いているうちに入ってしまおう。
気分としてはラーメン。山王日枝神社の鳥居前に「一点張」という店を見つけたので飛び込み。

人気店なのか、昼前なのに結構混んでいた。

汁は、北海道と京都の合わせ味噌に鶏がら豚骨スープと魚介の清湯スープを混ぜたものだとか。
黄色い太めのちぢれ麺で、もやしもしゃきしゃきしていて、かなりの高得点だった。
炒飯を頼んでいるお客さんも多かった。
お腹も落ち着いたところで散策開始。
本日最初の「山」は星ノ山である。山王日枝神社が鎮座している小高い丘だ。
その名は、嘉永3年(1850年)新刻の「麹町永田町外桜田絵図」に、「日吉山王大権現社」の文字の横に書かれていた。

今は、プルデンシャルタワーや東急キャピトルタワーなど超高層ビルに取り囲まれて、すっかり目立たなくなってしまったが、江戸時代には立派な山だったのだ。
文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城の際、川越の星野山無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を、紅葉山に勧請したことに由来するという。
赤坂側から登るわけだが、切絵図を見ると、こちら側は溜池になっており、神社の出入り口は全くない。赤坂側はもともと神社の裏側であった。
その溜池は明治時代に埋められてしまい、今は外堀通りになっている。

外堀通りに面して山王日枝神社の赤坂大鳥居が立つ。

扁額には「山王」の文字はない。正式名称は「日枝神社」だけでいいようだ。

この狛犬は昭和9年の奉納。

奉納したのは「日本橋区七之部」の有志。

当時の町内会の集まりで、現在も「日本橋七の部」として存在している。
現在の日本橋兜町、日本橋茅場町一~三丁目が該当するらしい。
稲荷参道という参道から丘に登る。

その名の通り、稲荷の鳥居が行列をなしている。

結構狭い。

登り切ると、大きめの鳥居に迎えられた。

この山の標高はよくわからない。今、15mくらい登っただろうか。
左手に神輿庫がある。

町内会ごとに神輿が納められているようだ。
末社の八坂神社と猿田彦神社は修復工事中。

空襲で焼けて後、昭和41年に再建されたが、半世紀を経てまた破損が激しくなっていたらしい。
こちらは御文庫。車の祓所にもなっている。

回廊を横断すると、広い空間に出る。
正面に拝殿と夢御殿(右)

拝殿の前には、狛犬の代わりに神猿像が安置されている。


猿は音が「縁」につながることから、縁結びの神として信仰されているという。
縁結びはともかく、せっかく来たのだから参拝。

かつての本殿は昭和20年の空襲で焼失し、これは昭和33年に再建されたものだ。

拝殿の前には、ほかに銅製の燈篭が一対立っている。

高さは2m57cm。幕府御用を務める鋳物師渡辺銅意・正次父子が鋳造し、万治二年(1659年)に奉納されたものだ。
日枝神社は、二代将軍徳川秀忠の江戸城改築の際、城外の麹町隼町(現在の最高裁のあたり)に遷座したが、明暦の大火(1657年)のため焼失。四代家綱が万治二年に現在地に遷している。そのタイミングで鋳造されたということだろう。
大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊したが、昭和28年に再建された。
千代田区の指定有形文化財である。
ところで、日枝神社の祭神は、須佐之男神の孫にあたる大山咋神(おおやまくいのかみ)である。
「咋」とは「主」の意味だそうで、大山咋神は大山の主であるとともに、広く地主神として崇められてきた。
というわけで別名を「山王」という。
この神社が「山王社」とか、「日吉山王社」「日吉山王大権現社」「江戸山王大権現」などと呼ばれるのは、そのためだ。
神門には「皇城之鎮」と書かれた扁額が掲げられている。皇居の守りということだ。


くぐって振り返ると、「日枝神社」の扁額。

目の前は急な広い階段。こちらが表参道の山王男坂だ。今度はこちらを下山する。

段数を数えるのを忘れたが53段あるらしい。
「山王男坂」の説明板に「山王台地は又の名称を星が岡ともいう景勝の地」だったと書かれていた。「星が岡」とも呼ばれたようだ。
明神鳥居の上に三角の破風がのっているのを山王鳥居という。

仏教の胎臓界、金剛界と神道の合一を示しているとのこと。
左手に山王女坂。今は車道になっている。

将軍が御成りの際は急な男坂を避けてこちらを通ったので、御成坂とも呼ばれたという。
戦火を免れた大イチョウ。

かなり古いが、この図を見ると、星ノ山の全容がよく分かる。

下界に下りたら、いったん左に進み、交差点を右折する。
交差点からは、38階建てのプルデンシャルタワーが見える。
あそこはかつて、1982年に火災に遭ったあのホテルニュージャパンがあった場所だ。

ちなみに、星ノ山を挟んで向かい合う東急キャピトルタワーの場所には、陶芸家北大路魯山人ゆかりの料亭星ヶ岡茶寮があった。
この地図に従い、山王坂に向かう。

国会議事堂に向かって登る山王坂は、意外に勾配がある。

そこを登る前にちょっと寄り道。
角にある歴史のありそうな天竹酒店。

調べてみたら、創業は大正15年(1926年)だった。
その隣には「永田町 黒澤」。

古そうに見えるが、創業は平成10年。その前は高級料亭だったらしい。

経営者はかの黒澤明監督の身内で、メニューは黒澤監督が家庭で食べていたものなんだとか。

メニューを見てみると、そばのほか鹿児島産の黒豚、黒牛のしゃぶしゃぶなど。
ランチメニューは1000円前後で意外にリーズナブル。
ラーメンを我慢して、こっちにすればよかったか。
今度来てみよう。

さて、山王坂に戻ろう。

国会議事堂が見えてきた。

切絵図を見ると、この坂に鳥居が2つ描かれている。
今は溜池側にエスカレーター付きの参道があり、あちらが正面のように思えるが、かつては永田町側が表参道だったのだ。
ちなみに、明治時代には近くに豪商鹿島清兵衛の屋敷があったので「鹿島坂」とも呼ばれたという。
坂を登り切って、国会議事堂の裏面を右折する。

右手に議員会館。

衆議院の入口前では日本共産党の国会議員の方々が何やら写真撮影をしていた。

総理官邸前の信号で首相官邸にカメラを向けていたら、警察官が近寄ってきて、「ちょっとすいませんが、写真は遠慮してもらっていいですか」と注意されてしまった。
内心、「何の法律に基づいて、そんなことが言えるのか」とも思ったが、申し訳なさそうな態度だったので、協力してあげた。
伊勢志摩サミットを目前に控えて、警備は大変なのだ。つまらない小競り合いをして、彼らの邪魔をしてはいけない。
国会記者会館なら問題なかろう。

共産党の次は、冤罪問題に取り組む人権団体「日本救援会」のデモに出くわした。

司法取引を認める刑事訴訟法改正反対を訴えていた。
でも、デモに参加している人はニヤニヤしたりしていて、なんか義務で参加しているという感じだった。
(つづく)
【2016年4月16日(日)】天城山
シャクナゲコースも終盤戦。
振り返ると、単独の男性が追いついてきた。

道にはどんどん岩が多くなってきた気がする。

なんとか倒れずに立っている大木。

裏に回ると、木の根が地面を覆っている。

この木には見覚えがある。

振り返っていたら、さっきの後ろのおじさんがものすごい大きなくしゃみをした。
花粉症だろうか。
コケ地帯に入る。


前方の高齢登山者はこの悪場を実にゆっくり歩いていた。

おじいさんを抜かしても、道はよくならない。


めずらしくケルンが出現。

このあたりはコケむした涸れ沢だらけである。

やっと万三郎岳(1406m)の頂上で会った子連れのグループに追いついたので、頂上で拾ったカメラキャップのことを尋ねてみたら、「あ、山頂のベンチにあったやつですね」との答え。

ということは彼らの落とし物ではない。
間もなく厳しい登り返しになったと思ったら、崩落箇所を越えるための一時的な登りだった。

斜面に大仏のような岩を発見。

次の悪場には、ごついハシゴがかけてあった。

あまり意味のよく分からない石柱101地点。

ようやく道が落ち着いた。

右手の斜面もなだらかになった。

歩きやすくなったので、先行の夫婦に追いつけた。

先に行かせてもらう。

それにしても往路に合流する四辻までが長い。

林道が見えてきたので、もうすぐかと思ったら、そうでもなかった。

もう一つ大きな涸れ沢を渡る。

これが出たら、やっと四辻はすぐそこだ。
四辻には午後4時すぎに到着。

コースタイムより5分オーバー、涸沢分岐点から1時間かかった。
ここで、さっきの子連れグループが休んでいた。
ベンチが空いていたので、私も小休止。枝豆の残りを食べてしまった。
さっき抜かしたご夫婦が到着したところで、出発。

下山時の登り返しは思いの外きつい。

しかも道も決してよくない。

往路で歩いた道だが、頑張って歩く。

ペンキでいたずら書きした石を発見。

木に書くよりはましだが、感心しない。なぜみんな自分の名前を残したいのだろう。
きれいなコケ沢を通過。

ゴルフ場からの排水と思われる水たまりがあった。

往路では気づかなかった。

ピカチュウ砂防ダムの上に出た。

で、彼に再会。

最後の最後、登山口までのわずかな登り。

はい到着。お疲れさまでした。

四辻から20分。コースタイムは15分だが、ここは往復とも20分がいいのではないか。
そうなっている地図もあることだし。
一周、休憩も含めてちょうど5時間半。これは予定通りだった。
トイレで顔を洗い、今夜の宿、川奈ホテルに向かう。
川奈ホテルは昭和11 年(1936年)12月に開業したリゾートホテルで、国の有形文化財に登録されている。
一度見学に来たことはあるが、いつか泊まりたいと思っていた。
天城高原から1時間かからずに到着。

なんか登山靴を履いて、ザックを背負って泊まるホテルではないが、断られたりはしないだろう。

フロントでチェックイン。
レストランでは、室内着、浴衣、サンダルは遠慮してほしいとのこと。
まあ、本格的なホテルなのだから仕方あるまい。
部屋は5階。最上階だ。

展望台もあるようなので行ってみた。

随分階段を登らされたが、塔のようになっている所なので、眺めは抜群。
川奈ホテルゴルフコースの向こうは太平洋。

大島もうっすらと浮かんでいる。

もっとアップにしてみよう。ここには今年の1月に行ったっけ。

右手の白い建物が温浴施設のブリサマリナ。

こちらは北の方角。

きわどい角度でちゃんと富士山が見える。
ちゃんと計算してこの位置に建てたのだろうか。

中央は箱根の神山(1438m)。

初島と左奥に大山(1252m)。

真鶴半島と丹沢の山並み。

伊豆の高原。

ゴルフコースはホテルの南北に広がっていた。

眼下の岩礁。

天城山から見るより、ここからの眺望の方が素晴らしかった。
満喫したところで温泉へ。
温泉は2階にある。2014年7月にできたばかりだそうで、スペイン語で潮風を意味する「ブリサマリナ」という名前が付いている。

浴室は空いていて、露天風呂はずっと独占だった。

弱アルカリ性の温泉で、源泉は60℃以上だが、湯温はそれほど熱くなく、ゆっくり浸かることができた。
海もかろうじて見えた。

さーて、お腹が減ったぞ~。
和食を予約しておいたので、地下1階のグリルへ。
エレベーターのボタンが、びっくりするほどデカかった。

食事は、訓練を受けたウェートレスが一皿一皿お給仕をしてくれる。

まずはきめの細かい泡がうれしい生ビール。

先付の若草豆腐と、鮭と青菜に続いて、前菜。
エビとイカ木の芽和え、ハマグリ時雨煮梅かゆ、鴨サラダ、わらび、数の子、花ユリ根

お造りの3点盛り。マダイとなんとか。忘れてしまった。

煮物は金目鯛塩麹と高野豆腐、野菜の炊き合わせ。

湯葉しんじょう、ワカサギ桜葉揚げ、竹の子など彩り野菜の天ぷら。

桜エビの御飯に赤だし、香の物。

デザートは桜餅。

コーヒーカップに富士山。初めて見たレモンつぶし。小鳥みたい。

どれも上品でおいしく、適量。贅沢な夕食だった。
帰りはちょっと館内を探検。展示などを見学する。
これは富士山と噴煙を上げる大島をデザインしたオリジナルのお皿。

戦後、米軍に接収されていた頃。

改修前の川奈ホテル。

ここで、橋本龍太郎首相とエリツィン露大統領の首脳会談が1998年(平成10年)4月に行われた。

案内板の文字が独特。へたうまというか何というか。


1階第2ロビー。

メインロビー。

サンパーラー。

大理石の階段。

部屋に戻ると、あっという間に寝てしまった。
朝食は1階のメインダイニングルーム。

今度は洋食にしてみた。



こちらも言うことなし。
サンパーラーから外に出て、ホテルの外観を撮ろうとしたら、いきなり雨が降ってきたので急いで退散。

この日は午後まで風雨の強い1日となった。
仕事を済ませ、午後6時過ぎには帰宅した。
無事、天城山のリベンジを果たし、あこがれのホテルにも泊まれたので、いい旅であった。
【行程】2016年4月16日
登山口(10:57)~四辻(11:16)~万二郎岳(12:06昼食12:36)~馬の背(12:58)~石楠立(13:19)~万三郎岳(13:50休憩14:08)~涸沢分岐点(14:52)~四辻(16:02休憩16:08)~登山口(16:27)
※所要時間:5時間30分(歩行時間:4時間35分)コースタイム:4時間15分
※登った山:2座(新規なし)
※歩行距離:8.3km
【2016年4月16日(土)】天城山
万二郎岳(1299m)を下り、鞍部から登り返し。
アセビの花が満開だ。

振り返ると、万二郎岳のまあるい山容が姿を現した。

木のはしごを登ると、展望が開けた。1325m標高点だ。

風車が並ぶのは箒木山(1024m)だろうか。

万二郎岳も今度ははっきり見えた。

万二郎から北東に延びる1187m標高点のあるなだらかな稜線。

わすかに下ると馬の背に出る。

ここからは北側の眺望が得られた。
天城高原ゴルフコースを従えた遠笠山(1197m)。

伊豆高原方面。

その中央に見える塔は天城霊園だろうか。

こちらはリフトで登れる大室山(580m)。

さて前進しよう。

馬の背の名の通り、しばらくは平坦な道。

やがてアセビのトンネルに入る。

えぐれた道が続く。


まさにトンネルの状態。


振り返ると、おじさんが追いついて来た。

このタイプの標識がコース上にずっと設置されていた。

トンネルを抜けると、はしごの下り。

おお、正面に万三郎岳(1405m)が見えてきた。

下り切った鞍部が石楠立。これで「はなだて」と読む。

しかし、近くに石楠花(シャクナゲ)は見当たらない。

ここから、万三郎までは標高差150mほどの登り。

馬の背を振り返る。

20mほど登ると、また平坦になる。


このあたりは木の根の張りが激しい。


その関係で、埋まっていた土から出てきてしまったのか、何十年の前のものと思われる古い空き缶が露出していた。

引き続き、木の根シリーズ。


60mほど登ると、再び平坦に。いいリズムだ。


穴だらけのヒメシャラがアートのよう。

この低いのはヒメシャラの赤ちゃんかな。

頂上直下までは、踏み固められた道。


そして、いよいよ最後の登り。

やっと右手にシャクナゲを発見した。

時折、すれ違う人がいるのだが、彼らは八丁池方面から縦走してきたのだろうか。
それともシャクナゲコースを逆回りしているのだろうか。

いよいよピークも見えてきた。

頂上直前で右手の展望が開けた。
伊東市街の沖に初島が浮かんでいる。

初めて、遠笠山の全貌がすっきりと見えた。

最後の急登。

13:50万三郎岳に登頂。

ほぼコースタイム通り、1時間15分かかった。

2歳くらいの小さい男の子が走り回っていて、転んで泣いていた。
パパが背負子で担いできたようだ。
ここは一等三角点。やはり格好いい。

「弥栄の神」と刻んだ石碑もあった。

昭和48年の建立のようだが。建立者も建立の目的もよく分からなかった。
20分近く休憩。行動食のワッフル風のお菓子を食べる。

改めて考えてみると、百名山で2度以上登ったのは、筑波山、雲取山、那須岳、八ヶ岳、甲武信ヶ岳、金峰山、瑞牆山、大菩薩嶺、丹沢山に次いで10座目だ。
ちなみに、頂上の道標のところに「KTK」の銘のあるレンガがあった。

調べてみたら、そんなに古いものでもなく、京都陶芸機材なる会社が扱っているものらしいが、それがなぜここにあるのかは謎だ。
子連れのパパママたちのグループ(6~7人)も出発したようなので、こちらも出発しようかと思ったら、ベンチにカメラのキャップが置きっぱなしになっている。
もしかして彼らの忘れ物かなと思い、持っていくことにした。
たぶん、どこかで追いつくだろう。

最初はちょっと下るが、しばらくは平らな道。


右手がちょっと開けて、うっすらと真鶴半島が望めた。

5分もかからずに万三郎岳下の分岐点を通過。

周回コースは右。いずれ八丁池経由天城峠まで縦走しなければなるまい。

このあたりはブナの林が美しい。


こちらは用を足すのに最適な茂み。

間もなく、右へ急な階段を下りていく。

この下り口は記憶にある。
ここが分岐だという記憶があったが、違った。
やはり人の記憶など、あてにならないと実感する。
とにかく歩きにくい階段が延々と続く。

彼もこの下りにうんざりして休んでいるのだろうか。

馬の背から北に延びる尾根を望む。

例の標識。

黄色いヒメシャラたちをすり抜けていく。

おなじみ遠笠山。

なおも階段。

特定不能の稜線。

気になったあれこれ。



やっと下りも一段落しそうだ。

下り始めてから25分ほどで、道はようやくトラバースに転じた。


この辺もブナ林である。

道の屈曲点に「一名 裏見の滝」という壊れた標識があったが、「一名」の意味がよく分からない。

どう行けば、裏見の滝に行けるのかも分からない。
道が分かりにくくなっていて行かせたくないなら、古いものは撤去した方がいいように思う。
まあ、あまり気にせず通過。


再び涸沢を渡る。

トラバースになってからは歩きやすい道だ。

頂上から45分ほどで、涸沢分岐点に到着。

この区間もほぼコースタイム通りだった。

ほんのちょっぴり休憩。枝豆を食べる。

そして先を急ぐ。

次第に道が暗くなる。
木の根が大きな岩を抱きかかえていた。



(つづく)
【2016年4月16日(土)】天城山
この週末は伊東市で仕事があったのだが、日曜日だけ出ればよくなったので、空いた土曜日は天城山に登ることにした。
天城山は2012年の11月、高校の同級生O君、ブログの師匠おつ山さんと初めて登った山なのだが、あの日はあいにく雨模様でほとんど展望を楽しむことができなかった。
極力登ったことのない山に行く主義だが、展望に恵まれなかった場合は話が別。
今回、予報では快晴マークだったので、リベンジにすることにした。
朝6:40に出発。8:26東京発のこだま639号に乗り込む。
自由席はガラガラだったが、品川や新横浜で続々と乗ってきて、結構埋まってしまった。
熱海には9:14着。待ち時間が24分あったので、この間に昼食を調達。
乗り換えの電車は9:38発の普通伊豆急下田行き。
車両は、リゾートドルフィン号だった。


こちらも最初はガラガラだったのに、発車時間が近づくと、どんどん団体さんが乗り込んできて、満席になってしまった。
初島など車窓の眺めを楽しみながら、伊東には10時ちょうどに到着。

すぐに駅前のトヨタレンタカーに向かう。
登山口の天城高原までは車で行く。
ルートはナビにお任せで、10:45頃、登山口の駐車場に着いた。

うん、確かに見覚えがある。

さすがにこの時間だけあって、ほぼ満車状態だった。
トイレとストレッチを済ませて11時前に出発。

ここは標高約1045m。万二郎岳の山頂は1299mなので、標高差は250mほど。

今回も前回と同様シャクナゲコースの周回ルートをとる。
まずは若干の下り。

真新しい木橋を渡る。

3年半前は丸太を縦に並べてあったので、その後架け替えられたのだろう。
小さな涸れ沢まで下ると、ピカチュウに似た砂防ダムがあるのは前回ともちろん同じ。

涸れ沢はしっかりと苔むしている。

ここからはなだらかな登りとなる。

石のゴロゴロした歩きにくい道を進む。


さっそく、元気なヒメシャラの木。

これは前回も撮影していた。
再び木橋を渡る。

その後は少しずつ高度を上げていく。

えぐれた箇所を抜けると、またまた大きなヒメシャラ。

ツバキ科の落葉高木で神奈川県以西に分布する。

幹は淡赤黄色で肌はなめらか。夏に2cmほどの白い花をつけるという。
その先ではアセビがスズランのような白い小さな花を鈴なりに咲かせていた。

だらだら登り。

登山口から標高差30mほど登って、20m下ったところが四辻。20分ほどで着いた。

ここに「ひとり一石運動 ボッカのお願い」と書かれた看板があったが、何のためにどこまで運べばいいのか全く不明。

そこを丁寧に説明してほしかった。
休憩はせずに通過する。


この先で左手に沢が現れた。

前回は、こんな沢に出会った記憶はないのだが。

ましてや、渡渉した覚えもない。

こんな岩も前回の写真には写っていない。

若干ルートが変わったのだろうか。

しかし、この場面は記憶にも写真にもある。

また元の道に合流したようだ。

でも、旧道らしきものには気づかず通り過ぎてしまった。

このあたりで、木々を透かして、北東に位置する遠笠山(1097m)が見えてきた。

電波塔のある頂上まで車道なのだが、いつかは登りたい山だ。

小腹が空いたので、ちょっと立ち休みして、石屋製菓の「美冬」を1個いただいた。

さっきの涸れ沢を過ぎてしばらくすると道は急登となる。
標高差150mを一気に登る。
頂上に近づくと、路面がさっきまでの丸石から板状の石に変わった。

そしてずっと気になっていたのだが、木の階段がわりと新しいのに、用をなさなくなっている箇所が非常に多い。

登山道の階段は、どこも登山者や雨などによって大きな負荷がかかるものだが、ここは破損してしまうのが早すぎる気がする。
工事を発注したであろう行政や施工業者は反省すべきだ。
間もなく緩斜面になってきた。頂上は間もなくだ。

頂上直下に、南東の箒木山(1024m)への古い道標がある。

そちらの道は地形図にはあるが、「山と高原地図」には破線すら引かれていない。
踏み跡があるのかどうか確認するのを忘れてしまった。
そして正午すぎ万二郎岳に登頂、

所要時間は1時間10分。コースタイム通りだった。
前回は雨にもかかわらず大勢の人がいたが、今回はちらほら。
登り始めたのが遅かったので、ほとんどの人はもう万三郎岳まで進んでしまっているのだろう。
おかげでわりと静かな登山が楽しめた。
いい時間なので、ここでお昼にする。
南面する岩場に腰かけて、コンビニのおにぎり2個(竹の子ご飯と鮭稲荷)、ゆで卵、笹かまをいただく。
間もなく10人近い団体さんが到着して、私のそばの岩場に近づいてきた。
なんかうるさそうで嫌だなあと思ったが、別のところに移ってくれたので助かった。
お腹がふくらんだところで眺望を撮影。
樹林に阻まれ、見えているのはわずかに南から西方面。
まずは南に東伊豆の海岸線。

最奥に突き出しているのは爪木崎と思われる。
南西方面。左端は三筋山(821m)だろうか。

その右。中列の右端は青スズ台(1237m)のような気がする。

西の突起は天城山の最高峰、万三郎岳(1405m)。

前回見えなかったのが見えてうれしかったが、やや霞んでいるのが残念だった。
頂上に三角点はなかったが、「御料局測点」と書かれた石柱があった。

裏面には「第八号」とある。

御料局とは、皇室財産を管理するため明治18年(1885年)に設置された役所のこと。
このあたりはかつて御料林があったということなのだろう。
30分ほど休んで、万二郎岳を後にする。


万三郎岳までは、あと2.1kmだそうだ。

正面に木々を透かして、馬の背と万三郎岳が見える。

それはいいのだが、しばらくは急な下り坂でもったいない。

赤い芽が膨らんでいるが、これは何だろうか。

少し下ったところで、展望が開けた。

頂上の眺望とそれほど変わらないが、木々がない分すっきり見える。

とにかく復習。馬の背と万三郎(左)。

三筋山方面。

引き続き、急な下り。


アセビの花は今が見頃のようだ。

下り切ると、ほぼ平坦な道となる。


この岩は何だか人の(妖怪の?)顔に見える。

しばらく平ら。

こういう道があるとちょうどいい休憩&調整となる。

なおも平らでありがたい。


(つづく)
【2016年4月10日(日)】琴平丘陵
大山祇(おおやまつみ)神社を過ぎて、しばらくなだらかなハイキングコースを歩く。


道は次第に登りとなる。

竹田宮恒久王(1882~1919年)の台臨を記念した明治45年(1912年)建立の石碑。

恒久王は近衛騎兵連隊に属し、日露戦争に従軍。
ここ武甲山で射撃演習を行った旨、銘文には書かれている。
間もなく399mピークに登頂。

立派な三角点があるのに、山名がないのが残念だ。

ここからはまたしばらく下り。

道端にはヤマブキの花。

そして若葉。

道はトラバースしながら下っていく。

こんな里山にも熊が出るらしい。

下り切って、集落へ向かう道とハイキングコースの分岐に出た。

そこには山の神が祀られていた。

「登山者の無事を見守る」と書かれている。ありがとうございます。

秩父の地図をまとった石仏。

山の神を後にして、沢に沿って遡る。


左手にはかつての畑の跡と思われる石垣が。

直進すると武甲山(1304m)への登山道ということになっている。

でも、この道は昭和59年いっぱいで石灰岩採掘の範囲拡大のため通行禁止になった。

「武甲山入口」の石碑は、登山の長い歴史を伝えるためにあえて残してあるのだという。

ここは鋭角に戻るように左折して、ハイキングコースを行く。

すぐ左に集落に行く道が分岐しており、わざわざ遠回りをさせられた感じ。
石碑を見せたかったのか、集落の中をハイキングコースが通るのを住民が嫌ったのか。

ベンチがあったが通過。

羊山公園まで行くには、もう一つ小さなピークがあった。

再び馬頭観世音。この道はかつて巡礼や山仕事の道だったのだろう。

それにしても、道はよく踏まれている。


ゴミ捨てするのはハイカーより地元の人なのだろう。

左手に廃屋。


いつの間にか、羊山公園に入ってきた。芝生の広場だ。

林を抜けると、武甲山がその雄姿を現した。

何度見ても痛々しいが。
ふれあい牧場ではサフォーク種の羊が飼育されていた。


ここからはもう観光客のエリアだ。
仮設トイレに立ち寄ってから、お花畑へ。
多くの行楽客がお花見を楽しんでいる。

芝桜の丘は桜も満開。

芝桜は五分咲きといったところ。

GWにかけて地面は真っ赤に染まるのだろう。

チューリップ畑もあって、その花びらの大きさにちょっと驚いた。


娘と撮影会を開いて、しばし観賞。
娘も喜んでいた。
さて、秩父路の特産市の会場に行って、ひと休み。

休憩所のベンチに座って、ソフトクリームをいただく。
前日、日光で食べた黒ごまはちょっと甘すぎたので、今日はオーソドックスにバニラにした。
あとで気づいたが、こんな店もあった。

埼玉県で一番おいしいとのことなので、話のネタに、こちらにすればよかった。
10分ほどで出発。

桜並木の道を下っていく。


お花見のお客さんがみんな楽しそうに春の休日を楽しんでいた。

車道を離れて、遊歩道に移る。

その分岐に再び大山祇神社。

無事下山のお礼をして、急坂を下る。


この道の下を西武線がトンネルでくぐっている。

その沿線を桃や桜が彩っていた。


この坂は松坂(まっつぁか)と呼ばれ、神社のあった場所は松坂峠といったそうだ。

気が付かなかったが、そこにあるツガやヒノキは札所12番野坂寺の和尚が植えたものだとか。
若者の願いが叶うようにと抱き合わせて植えたもので、「思いやりの木」と呼ばれているという。

さあ、下界に下りてきた。

右手に隠れ家的な旅館「比与志」。

古い石仏や石塔が散在する通りを西武秩父駅に向かう。


娘が見つけた極小の仏様(上)。

旧秩父市のマンホール。

「父」の字を図案化した市章と、旧市の鳥ヤマバトと旧市の花きぶね菊。
地蔵大菩薩。

ちょうど午後2時に西武秩父駅に到着。

特急は14:25なので待ち時間がありすぎる。
14:08の各駅停車飯能行きに乗ることにした。
空きボックスはなかったが、進行方向を前にして座れるボックスがあったので、そこに座る。
私は歩いている途中、花粉症による鼻水がひどく、ハンカチを完全なぬれタオルにしてしまったが、娘は電車に乗ってからがひどかった。
鼻が水道のように出てくるので眠れなかったみたいだ。
飯能で乗り換えて、小手指に15:24着。
家には16時前に到着した。
歴史と花を楽しみ、花粉症に苦しんだハイキングだった。
【行程】2016年4月10日
影森駅(10:12)~大渕寺(10:25)~護国観音(11:02休憩11:07)~岩井堂(11:32参拝11:36)~長者屋敷跡(11:55昼食12:12)~399m三角点(12:31)~武甲山入口(12:49)~羊山公園(13:13散策・休憩13:30)~西武秩父駅(14:01)
※所要時間:3時間49分(歩行時間:3時間20分)コースタイム2時間20分
※登った山:1座(長者屋敷跡)
※歩行距離:6.3km
【2016年4月10日(日)】琴平丘陵
秩父札所27番大渕寺の裏山にある護国観音の足元で5分ほど休憩。
ベンチに腰掛けて、眺望を楽しむ。眼下に影森の集落。

北西には城峯山(1038m)。

その左に、御荷鉾山(1286m)。

そのさらに左には、両神山(1723m)が全容を現した。

観音様の足元には、焼き物のカエルと線刻があった。

桜も今日で見納めだろう。

出発して、26番札所の岩井堂に向かう。

この先は小刻みなアップダウンだが、いきなりクサリ場が現れた。

娘はまあまあ危なげなく下っていた。

左手に秩父市街。

植林の中を進んでいく。


ここはわりと気軽なハイキングコースなのでハイカーは結構多かった。

標高約350mの一つ目のピーク。

と数え始めたらキリがないので止めておく。


と言いながら、二つ目にピーク。

右手に鉱山の関連施設。

鞍部は切通しの峠道になっているが、それを鉄の橋で渡る。


そのすぐ先に石祠や灯籠のようなものが残されている。


岩井堂はこの階段を登ったところにあるようだ。

登る前に、季節外れの大きなキノコを発見。

百万遍の石碑を左に見て、階段を登る。


お~何だか小さい清水寺のようだ。

斎所山というのは、このあたりのことのようだが、どこがピークなのかよく分からない。

古い灯篭。

岩井堂の背後はチャートの岩陰。

32番法性寺の雰囲気とも似ている。

閻魔様?

岩井堂の正面に回る。

「二十六番岩谷堂 補碇厳」と判読できるが、「補碇厳」とは何のことかわからない。
「補陀落」とは違うのか。

ここには畠山重忠の掲額があった。

作者は月影堂にあったものと同じ「秩父宮側 三千女」。
秩父宮側とは秩父宮の側室という意味だろうか。
正面の扉の中央には個人の名前の千社札が貼り付けてあった。

こういうのはあまり感心しない。
御詠歌「たつねいりむすぶしみづのいわゐどう こころのあかをすすがぬはなし」が刻まれた扁額が掲げられていた。

「いわゐどう」とはもちろんここ岩井堂のこと。
「万松山圓融寺」はふもとにある寺を指す。
岩井堂を後にして前進。

岩を削ってつくった階段を登る。

岩井堂を振り返る。

登り切った左手に小ピークがあったので、娘を待たせて行ってみた。

三つ巴の家紋が木に巻き付けてあったが、なぜここにあるのかはよく分からない。
ここが斎所山だろうか。
この先には大仏様。

そして石灯籠。

さらに奥には修験堂があった。

お腹が空いたので、ここで休もうかと思ったが、気持ちよく座れそうもないので、もう少し我慢する。
ここは四方に門の名前がついており、正面は妙覚門。


中央の柱には念仏と干支が書かれた「マニ車」のようなものがあった。

修験道の道場だっただけあって、急峻な断崖の上に建っている。
なので、この先は急な階段。


娘もおそるおそる下っていた。

この先しばらくは、なだらかなアップダウン。


お腹が空いたので早く休みたいのだが、ベンチがない。

結局、琴平ハイキングコースで最も標高が高い(約410m)長者屋敷跡まで来てしまった。
もう正午近い。

ここには東屋があったが、先客がいる。

娘も私も人見知りなので、あまり同じ空間には入りたくなかったが、ほかに休む場所もなく、我慢して東屋の中に入る。
でも、先客のおばさん3人は意外に静かに会話をしていて、やかましくなかった。
本日のメニューはおにぎり2個とピリ辛きゅうり。

この漬物がヒットだった。
ゆっくり食べたが、必ずしも居心地がいいわけでないので、食べ終わったらすぐ出発。
長者屋敷の石碑のまわりで6、7人のグループがお店を広げていたが、「すいませ~ん」と言って写真を撮らせてもらった。

このあたりにはツツジが咲いていた。

帽子の落とし物。汚れていないので、さっき落としたものかもしれない。

しばらくは下り。

これは名のありそうな岩だと思ったら

べっとく岩というそうだ。

随分腫れぼったい目をした仏様だこと。

「虫に刺されたのかなあ」と娘。
左目の下から亀裂も入っていてブラックジャックのようだった。
そのすぐ先に馬頭観世音。

続いて大山祇神社。

この神社は明治27年(1894年)、武甲山登拝者と山仕事に入る村人の守護神としてもっと山奥に建てられたそうだが、秩父セメント(当時)の開発に伴い、昭和60年、当地に遷されたとのこと。
自然石をくり抜いたかわいい手水鉢がぽつんと置いてあった。

このすぐ近くに箪笥岩なる景勝地があるらしいのだが、見逃してしまった。

(つづく)
【2016年4月10日(日)】琴平丘陵
今日は久しぶりに娘(23)とハイキングである。
しばらく運動していないから軽いところにしてほしいとのリクエストだったので、秩父の琴平丘陵にした。標高差はせいぜい150mほどだ。
帰りは羊山公園を経由するので、芝桜も楽しめる。
スタート地点の影森駅周辺に車を置ける場所があるかどうか分からなかったので、電車で行くことにした。
当初は新所沢から乗って、所沢で特急に乗り換えるつもりだったが、同じような時間で小手指から三峰口・長瀞直行の特別快速が出ていることが分かったので、それに乗ることにした。
8:36発なので、朝食を食べて8:10に自転車で家を出発。
駅前のコンビニで昼食を調達して、電車を待つ。
ちょっと嫌な予感はしたのだが、直通列車はすでに満席で立っている人も多い。
立ったまま影森まで行くのはちょっときつい。
次の入間市で特急に乗り換えることも考えたが、特急も満席だったら万事休すなので、飯能まで我慢して様子を見ることにした。
多少は下りてくれて、席が空くかと期待したが、ほとんど動きなし。
やはり直通電車に乗るくらいだから、みんな秩父までは行くよなあ。
仕方ないので、ここで下車。
次の特急ちちぶ7号の掲示を見ると、「空席あり」となっている。
助かった。でも、発車は9:13だから、あと20分以上ある。
これに乗っても、西武秩父で今乗っていた直通電車に乗り換えることになるのだが、ちゃんと追いついてくれるのかと、ちょっと不安になった。
でも、改めて検索すると大丈夫なようだ。
こんなことなら当初の予定通り、新所沢発にすればよかったが、多少運賃を節約できたので、よしとしよう。
西武秩父駅での乗り換え時間は3分。
かなりあわただしかった。
さっき乗っていた三峰口行きに乗車。
まだ空のボックス席はなかったので、乗降口横の席に座る。
10時ちょうどに影森駅に到着。

ここは武甲山(1304m)で産出した石灰岩の搬出駅だ。

娘は昭和の雰囲気に興奮気味。古いものが嫌いではないようだ。
改札はないらしく、ホームの券売所で清算。

秩父鉄道はSUICAが使えないので、秩父鉄道分(1人170円)のみ支払い、西武線区間については未払い証明書をもらって外に出る。
この地下通路もかなり渋い。

駅舎は修理中で駅名標が地面に下ろされていた。

トイレで小用を済ませ、10時10分すぎに出発。

線路に沿った道は旧秩父往還なので、古い家が多い。


すぐに栄町バス停を通過。

やきそばいまいは「4/1~5/10まで芝桜のためお休みします」の貼り紙。

その期間中は羊山公園で出店しているということだろう。
これは昔床屋さんだったらしい。渋い洋館である。

娘は木の形に反応していた。

分岐には延命地蔵尊。

この新井屋は何屋さんだったのだろう。「新井」はこのあたりに多い姓だ。

板塀の旧家の前に影森バス停。

この手前で左折する。

正面に武甲山を見ながら路地を南に向かう。

板塀の中に建つ母屋。それほど大きくはなかった。

前日の日光に続き、秩父にもアカヤシオが咲いていた。

秩父鉄道の踏切を渡る。

左の一段高いところを走る線路は鉱山への引き込み線。

まだまだ現役のようだ。

正面に秩父札所27番の大渕寺。

桜が満開だ。

境内に入る前に案内板を見ると、「影森用水」とある。
なになに。安政四年(1857年)、当時の上影森村の名主関田宗太郎が、戸数82戸の同村に井戸が2か所しかなく、飲み水にも困っていることを憂い、私財を投じて水路を設け、三輪谷から水を引いたとのこと。
その用水とはこれのことだろうか。

やけに細い気もするが、わざわざこの位置に案内板を設置するということは、たぶんそうなのだろう。
門前の石仏に挨拶して、境内へ。

踏切のカンカンという音が響きだしたので振り返ると、電車が通過して行った。

この札所は明治、大正の火災で堂宇はすべて焼失してしまったが、平成7年に観音堂が再建されたという。

山門をくぐると左手に延命水。

この水を飲むと三十三か月長生きするという。

一口いただいた。まずまずかな。
その奥に鐘楼。

そして本堂。

境内にはいろんな再建記念碑が並んでいた。



階段を登って本堂の裏に回る。

その上に新たに建てられたという観音堂(月影堂)。

本日の安全登山を祈願する。

側面には行脚僧宝明の事績を記した絵が奉納されていた。

遥拝所に立つと、護国観音を仰ぎ見ることができる。


アカヤシオに囲まれている。
眼下には本堂。

石仏の脇をさらに登る。


これらなど表情が実にユニーク。


この上の段には、歩兵七十五連隊通信隊戦没者之碑。

フィリピンにおける激戦で数多くの犠牲者を出した通信隊の慰霊碑が昭和60年、現地ルソン島南部のバクサンハンに建立されたが、故あって日本に移され、平成9年にここ護国観音のもとに再建されたという。
この先は登山道となり、分岐の右手にはカタクリの群生地があるという。

しかし、すでに終わってしまったのか、それとも群落自体が衰えてしまったのか、ほとんど数えるほどしか咲いていなかった。

娘に先週道の駅あらかわ近くで咲いていたようなカタクリを見せてあげたかったのに、ちょっと残念。
登山道に戻り、護国観音を目指す。
足元にはカタクリならぬスミレ。

上から月影堂を見下ろす。

娘が下手くそだなあとつぶやいた石仏。

彼女によれば、「おれ下手だから無理だよう」と断ったのに無理やり作らされたものだそうだ。
急斜面をジグザグに登っていく。


途中で、西に両神山(1723m)が見えてきた。

間もなく尾根にのった。

右手は361m標高点なのだが、コース外。
でも古い階段の遺構があるので、娘にはちょっと危ないかなとも思ったが行ってみた。

丸石で組んだ、なかなか立派な石組だ。

しかし、頂上はきれいな更地になっていた。

残っていたのはコンクリートの基礎の一部と、手水鉢と思しき石組のみ。


ここにあった堂宇も、大正8年(1919年)火災で焼失してしまったのだろう。
この火災は秩父鉄道の蒸気機関車の煤煙が原因だったらしい。
慎重に下って、登山道に戻る。

巨大な三角岩や小さな石仏の前を進み、アカヤシオの花園へ。



桜やツツジも満開で春爛漫。

見上げれば、ちょっと琴将菊に似たコンクリート製の観音様。

高さ16m。昭和10年(1935年)に建立されたそうだ。
(つづく)
【2016年4月9日(土)】鳴虫山
鳴虫山(1104m)に引き続き、外山(880m)に登頂。

ここからはとても見晴らしがいい。
正面にその鳴虫山。

南東は宇都宮方面。

眼下に日光市街。

左端は高平山(830m)、その右奥は鶏鳴山(970m)。
そこをアップで。

市街地のアップも。

今市方面。奥はたぶん古賀志山(583m)。

日光駅周辺。緑の大きな屋根は東武日光駅。

左の赤い橋は霧降大橋。
さらにそのアップ。

改めて、東に裾野を延ばす鳴虫山。

社山(1827m)方面は若干木の陰。

ここが山頂かと思っていたら、毘沙門堂の裏にまだ道があった。

こっちが本当の山頂だった。栃木百名山の62座目だ。

石仏、石塔が林立している。



古い石祠。

騎馬像は珍しい。

三角点は三等。

そして、北西に展開するのは日光連山。これは実に見事。

ちょっと形が変わってしまったが、これが男体山(2486m)。

その右に大真名子山(2375m)。

そのさらに右は帝釈山(2455m)と女峰山(2483m)。

赤薙山(2010m)と丸山(1689m)。

しばし、石仏の基壇に腰掛けて、うっとりと眺めていた。
しかし、もう3時半を過ぎているので、そうのんびりもしていられない。
10分ほどで出発。

靴の紐を締め直して、さくさく下る。

もう1回だけ日光市街を目に焼き付けて。

そして手すりのジグザグ道。

この山はピストンだが止むを得まい。

走るように駆け下って、登山口に15分で下りてきたら、そこが三丁だった。

1,2、4、7、8、9丁の丁目石は失われたようだ。
縁石に腰掛けて、また靴の紐を緩める。
さっきの稲荷川橋まで下ってきて、今度は左手の坂を登る。
目指すは日帰り温泉の「ほの香」。
峠には梅屋敷旅館の入口があった。老舗っぽい雰囲気だ。

その横に大きな馬頭観世音。

その向かいには、日光山興雲律院の入口。

門前の石仏と石柱が歴史の古さを語っていた。


これは作りかけか、作品なのか。

日光霧降アイスアリーナまで下ってくると、小倉山国有林の看板。


小倉山(754m)は地図に道は書かれていないが、登れそうな山だ。

乗馬クラブ。白馬がりりしい。

木彫りの里工芸センター。日光彫を体験できるのだろうか。

登山口から20分ほどで「ほの香」に着いた。

ここは温泉だけでなく、イチゴ農園でもあるようだ。
高平山を望む場所である。

温泉施設の建物はとても小さい。

しかも、受付の人がおらず、自販機で買ったチケットは、すぐ横のカゴの中に入れよとのこと。

これじゃあ、ずるしてタダで入ってしまう人が続出しそうだが、大丈夫なのだろうか。
私は当然500円支払った。
泉質はアルカリ性単純温泉でph8.8。源泉の温度は45℃。

小さかったが露天風呂があったので、そちらでのんびり。

他にお客さんが入れ替わり立ち代りだったが、最も多くて4人だった。
上がったらもう5時。
さすがにもう山麓酒場は無理だ。帰宅が深夜になってしまう。
駅弁があったら買って、車内で食べよう。
その前にもうお腹が空いてきたので、予備食のパンを歩きながら食べてしまう。

最寄りの下丸美バス停で時刻を見ると、あと15分以上ある。

これなら歩いた方が早い。

だんだん薄暗くなってきた。
スマホで検索したら、もう特急は運行していない。
区間快速浅草行きが17:39。ちょうどいいくらいの時間だ。
霧降大橋で大谷川を渡る。

橋からの眺めがまた格別。
男体山と大真名子山。

女峰山と赤薙山。手前はさっき登った外山。

全景はこうなっている。

早く、縦走したくなった。
大笹牧場直営店の手前で左折。

8時間近い活動を終えて、やっと東武日光駅に戻ってきた。

来た時は気づかなかったが、線路際に枝垂桜が。

私が乗る予定の電車。もう入線している。

ということは、もしかしてもうかなり乗っているかな。
駅の売店で、あわてて缶ビールとつまみと弁当を買い、改札に駆け込む。

まだ発車15分前だというのに、ほとんどのボックスが埋まっていたが、1つだけ空いていた。ラッキー。
これで心置きなく弁当を食べられる。

やはり日光に来たなら湯葉でしょう。ゆばちらし寿司。
車内はやはり外国人が多い。
定刻の17:39出発。
のんびり車窓を眺めながら、まずはぐびっと。
今日はたくさん歩いたので、ビールがうまい。
飲み干したところで、お弁当。

かなりいっぱい具が入っていて、これで880円。
量もそこそこあったのでお腹いっぱいになった。おいしかった。
行きと同じルートで帰宅したが、帰りは特急じゃなかったので3時間以上かかった。
夜9時に帰宅。
久しぶりの日光を堪能した。
【行程】2016年4月9日
東武日光駅(9:37)~鳴虫山登山口(9:54)~神ノ主山(10:30)~鳴虫山(11:24昼食11:52)~合峰(12:10)~独標(12:40)~日光第一発電所(13:18)~かんまん茶屋(13:45休憩14:00)~神橋(14:28)~外山登山口(14:54)~外山(15:26撮影15:36)~登山口(15:54)~ほの香(16:17入浴17:00)~東武日光駅(17:21)
※所要時間:7時間44分(歩行時間:6時間)コースタイム:6時間
※登った山:5座(神ノ主山、鳴虫山、合峰、独標、外山)
※歩行距離:14.7km
【2016年4月9日(土)】鳴虫山
鳴虫山(1104m)から下山して、市街地に向かっている。
史跡探勝路の指示に従い左折。

菅笠日限地蔵堂は拝観せず。

東に延びる道には、サイロのような形の石升が並んでいる。

近くの湧水を水源とし、自然石をくりぬいた升を石管でつないだ大正時代の水道だそうだ。

このあたりは板挽町と呼ばれる地区で、江戸の東照宮造営の頃から「職人の町」として栄えたという。

この建物は、板挽町の家体(ここではこう書く)を格納する倉庫。

毎年4月に行われる日光二荒山神社の祭典「弥生祭」で練り歩く屋台だそうだ。
アカヤシオのピンクもきれいだが、純白のコブシも実に美しい。


立派な石垣は、磐裂(いわさく)神社。

社殿を取り囲むように石碑が林立している。


側面の石橋を渡って境内に入る。

無事下山できたことを感謝して、参拝。

板挽町や大工町の住民の氏神様で、かつては星の宮と称したが、明治2年(1869年)に現在の名称に改められた。

本殿はこの大谷石の覆堂(さやどう)の中に納められているという。
その後ろには、天保二年(1831年)の庚申塔や変わった容貌の石仏が並んでいた。




鳥居をくぐり、石段を下りて辞去。

往年の雰囲気を色濃く残した町だ。

大谷川が雪解け水をどんどん下流へと運んでいく。


やはり、この季節は水量が多い。


対岸に見えるのは老舗の日光金谷ホテル。

まだ冬枯れの山肌をアカヤシオが先頭を切って彩っている。


間もなく、世界遺産・神橋が見えてきた。

今年は1年間、この橋を渡ることができるらしい。

東照宮400年式年大祭に合わせたものだろう。

参観料300円とのことで、それほどこだわりもないので、今回はスルーした。

ただせっかくなので、ちょっとだけ付近を散策する。
神橋の向かいに深沙(じんじゃ)王堂(蛇王権現堂)。

勝道上人一行が大谷川を渡れないでいると、深沙大王が現れて1匹の蛇を放ち、一行を渡らせてあげたという、「山菅の蛇橋」の伝説。
その深沙大王(毘沙門天の化身)が祀られている。

その隣に太郎杉。樹齢550年、樹高43m、目通り5.8m。
写真を撮ったつもりだったのに写ってなかった。失敗。
輪王寺や東照宮の参道はここから始まる。このあたりはさすがに観光客が多い。

世界遺産の石碑も誇らしげだ。

でも、今回はパス。
杉並木寄進碑(国特別史跡)だけ確認する。

松平正綱とその子正信が親子二代で20余年をかけ、山内地区と東照宮へ通じる日光街道、御成街道、例幣使街道、会津西街道の計37kmにわたり、二十数万本の杉を植え、東照宮に寄進した。
この碑はそれを記念して、正信が慶元元年(1648年)に建てたものである。
ちょっと高い場所にあって碑面は全く読めなかった。
右手に神橋を見ながら、国道の「新神橋」を渡る。

正面には日光金谷ホテル直営の日光食堂本店が堂々たる店構えで建つ。

神橋の渡橋券売り場を、ちょっと未練がましくのぞき込む。

ま、でも、やっぱり、いいや。
その隣に、なぜか板垣退助の銅像。

板垣は戊辰戦争の折、新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介ら旧幕府軍の説得し、社寺を兵火から守ったという。

そうだったのか。
銅像は昭和4年の建立だが、戦中供出され、昭和42年に再建されたもの。
道路をはさんで、天海大僧正の銅像が板垣と向かい合っている。

天海は比叡山で天台宗の奥義をきわめた後、徳川家に仕え、日光山の貫首となった。
当時の日光は秀吉に寺領を没収され、荒廃の極みにあったが、家康の死後は、遺骨を日光に移して、東照宮の創建に尽くした。
108歳の長寿であった。
天海の背後に、日光のおいしい水、磐裂霊水。

1200年前に日光開山の祖、勝道上人が発見したと伝えられる。
確かにおいしかった。
当方の行き先は逆方向なので引き返して、大谷川をもう一度渡る。

右手に日光美術館を見ながら、坂道を登る。

まだ時間があるので、もうひと山登ることにした。
正面に見える外山(880m)である。

そこに行くには、大谷川の支流、稲荷川を渡らなければならない。

土砂災害が頻発した川らしく、砂防堰堤が数多く築かれてきたようだ。


奥にそびえるのは女峰山(左、2483m)と赤薙山(右、2010m)
外山はなかなか傾斜がきつそうだ。

外山は信仰の山のようで、橋を渡った先に道しるべと石仏があった。

登山口に向かって登ると、左手に鳴虫山の稜線が見えてきた。

右端のピークがおそらく頂上だろう。

右折すべき地点には、ちゃんと道標があった。

別荘地のような区画に入っていく。

その突き当たりが登山口。山頂に毘沙門天があるみたいだ。

「左外山道」に従って登る。

いきなり鳥居。

すぐに二の鳥居。

続いて三の鳥居。

こりゃいくつあるんだろうと思ったら、しばらく出てこなくなった。
三の鳥居の手前に、日輪と月輪を刻んだ石碑。

坂が険しくなる手前で小さな石祠が見送ってくれた。

さっき見た山容通り、傾斜がきついが、参道なのでジグザグに道をつけてくれているので助かる。

四の鳥居。

大正12年(1923年)の奉納だった。

えぐれた道は参詣者が多かった証拠。

お、丁目石。いきなり五丁だが、四丁までは見逃してきたのだろうか。

2分ほどで六丁。

登山口から8分で五丁だから、あと10分かからずに登頂できるのだろうか。

そんなに甘くないように思うが。

六丁から6分で五の鳥居。

ここが八丁あたりかと思ったが、丁目石は見あたらない。
いよいよ山頂が近いのか、大きな岩石が露出してきた。

お、手すりが見える。あそこが山頂への階段か!

と思ったら、階段ではなく、手すりは延々と続いていた。


ちょっとゴツゴツしたハート岩(筆者命名)。

やっと、山頂が見えた。登山口から約30分。

アカヤシオのつぼみに癒やされた。

(つづく)
【2016年4月9日(土)】鳴虫山
鳴虫山(1104m)を下山中。
独標(925m)を過ぎると、激しい下りが待っていた。

ロープが延々と垂らされている。

ちょっとここは使わざるを得ない。

土砂が流れて、階段も用をなさない状態だ。

土が露出している部分は、この通り滑りやすい。

もう何が何だか分からない。

しばらく辛抱して何とか落ち着いたが、それでも階段のステップになるべき土は流失してしまっていた。

やっと緩斜面である。

ちょっと登り返して小ピークを越える。

ここで道は右に屈曲。

山名板はもちろんない。

でも、女峰山(2483m)と大真名子山(2375m)が望めた。


あとはだらだらと下っていく。

独標から30分弱で林道に出た。


しかし、林道はほとんど歩かず、どんどんショートカットしていく。

林道が錯綜していて、次第に登山道を歩いているのか林道を歩いているのか分からなくなった。

この涸れ沢で登山道は終了。

頂上から1時間20分かかった。ほぼコースタイム通りだ。

ブルドーザーが踏み固めた道を歩きながら、鳴虫山方面を振り返る。

下界から見る男体山(2486m)。

さっきの林道の成果か、木材が山積みになっていた。

日光宇都宮道路をくぐる。

左折すれば、やしおの湯だが、今回は別のところに行くことにしているので右折。

すると、日光第一発電所が現れた。

大正7年(1918年)に造られたもので、石積みが立派だ。


このあたりで一旦腰を下ろし、靴のひもを緩める。

この先が憾満ヶ淵。「危険なので立ち入り禁止」とあったが、自己責任で川辺に近づく。

大きな岩には磨崖仏的な何かが彫り込まれていた。

憾満ヶ淵は男体山が噴出した溶岩が大谷川に浸食されてできた奇勝である。

古くから不動明王が現れる霊地として信仰を集めてきた。


川の流れが不動明王の真言を唱えるように響くので、江戸時代前期の僧晃海が真言の最後の句カンマンを取って、憾満ヶ淵と名付けたという。


「含満」とも書くので「ガンマン」と濁って読まれることも多いが、「カンマン」と読むのが正しいそうだ。


松尾芭蕉も「奥の細道」行脚の途中、ここに立ち寄っている。


ネコヤナギが川面を流れる風に揺れていた。

第一発電所の坑口を確認して遊歩道に戻る。

この先は並び地蔵(化け地蔵)。

慈眼大師天海の弟子約100人が「過古万霊、自己菩提」のため寄進したものだそうだ。


明治35年(1902年)の大洪水の際に、いくつかの地蔵が流されてしまったという。


参詣者が地蔵の数を数えると、その都度数が違うので「化け地蔵」とも呼ばれるようになったとのこと。


私は数えたりはしなかったが、実際いくつあるのだろう。

表情はどれもみな異なっていた。

時々、首のない地蔵があるが、これはおそらく洪水もしくは自然劣化によるもので、廃仏毀釈のせいではないだろう。

上領玄碩墓と読めるが、詳細はよく分からない。

晃海大僧正は憾満ヶ淵に慈雲寺や霊庇閣、不動明王の大石像などを建立した。

このうち、霊庇閣は承応三年(1654年)、慈雲寺創建と同時に建立された四阿造りの護摩壇である。

対岸の不動明王の石像(現存しない)に向かって、天下泰平を祈り護摩供養を行ったという。

当時の建物は流失してしまい、現在のものは昭和46年に復元されたものだそうだ。
ここからの憾満ヶ淵の眺めも捨てがたい。


外国人が自撮り棒片手にアングルを思案中だった。

このあたりは淵と呼ぶにふさわしい場所。


この先もまだ並び地蔵は続く。


さすが日光だけに見せ場が多い。

こちらの地蔵には「覚謙」など、いろんな文字がそれぞれに彫られていたが、僧の名前だろうか。

地蔵以外の石碑、石塔類も林立している。


一つ一つ解読できたら楽しいのだろうけど。

これでお地蔵さんともお別れだ。

端っこにあったのは慈雲寺の本堂。

慈雲寺は晃海が阿弥陀如来と師の天海を祀ったものだ。
明治35年の洪水で流されたので、現在の建物は昭和48年の再建。
慈雲寺の棟門は枡形になっている。


門を出ると、大正天皇の御製歌碑があった。

「衣手もしぶきにぬれて大谷川 月夜涼しく岸づたひせり」
大正天皇は日光をこよなく愛し、明治29年から大正14年にかけて延べ1千余日も日光に滞在したそうだ。
その間に詠んだ「水辺夏月」の歌を、日光市が市制20周年を記念し、昭和51年に建立したとのこと。
門前の明るい道を東に進む。

慈雲寺の門前は含満ストーンパークと呼ばれるところ。
そこに昭和48年、地元の方が桜の苗500本を寄贈して植樹したらしい。
その記念碑。

記念碑の前には西町太子堂が建つ。

江戸時代の創建で、現在の祠は昭和62年に建て直されたもの。
含満児童公園を過ぎると、茶屋が見えてきた。かんまんの茶屋だそうだ。


さっき昼食を食べたばかりなので、そばはちょっと重いが、何か甘い物でも。

生ではないが、ソフトクリームがあったので、黒ごま味をいただく。

テラスに腰かけてくつろいでいると、同世代かちょっと上くらいのご夫婦が近づいてきたので、ご挨拶。
彼らは宇都宮から車で来たとのこと。
30分で帰れるので、温泉には寄らないのだとか。
失礼して先に出発。

茶屋の裏には、炭住みたいな木造の平屋が並んでいた。

里まで下りてくると、アカヤシオがきれいに咲いていた。


右手に日光第二発電所の100周年記念碑があるというので寄り道。


これがその記念碑。

明治26年(1893年)に建設された日光発電所(現在の日光第二発電所)は東京電力としては、現存する最古の水力発電所だそうだ。
その100周年を記念して、水と光の調和を表現したこのモニュメントが建立されたとのことである。
茶屋からしばらくは道端に、こんな石のイスがいくつも並んでいた。

大谷川を渡る。

上流には男体山が覗く。

廃屋を見て、町中へと進んでいった。

(つづく)
【2016年4月9日(土)】鳴虫山
登山口からほぼ1時間を経過して、標高1000mを超えてきた。
このあたりから木の根が半端ない。


前方では女性含めた3人グループが苦戦している。

足をかけるところは売るほどあるが、なかなかルート取りが難しい。

先に行かせてもらった。

難所を抜けると、今度はヤセ尾根。

左手に鳴虫山(1104m)の山頂付近がやっと見えてきた。

めずらしく岩場。

あれが1058m標高点かな。

どうやらそのよう。

このピークはわりと平らだ。

かなり古そうな道標がしっかりと残っている。

できれば山頂までの距離を書いてほしいところだが。

終盤の登り。

こちらの道標は南向きなので、すっかり日に焼けてしまって、ほとんど読み取れない。

ちょっとガレてきたけど。

山頂はすぐそこだ。

11時半前に登頂。

駅から1時間45分ほどだったので、コースタイムより30分近く速かった。

何はともあれ展望である。
木々があって、スカッとは見えないのだが、日光連山は分割して見ることができた。
まずは女峰山(2483m)、赤薙山(2203m)、丸山(1689m)。

女峰山をアップにしてみよう。左の突起は帝釈山(2455m)。

その左に、大真名子山(左、2375m)と小真名子山(右、2323m)。

そのさらに左に男体山(2486m)。

これ以外の山は木々に遮られ展望することができなかった。
先客が2組4人ほどいて、ベンチが埋まっていた。

やむなく、壊れたベンチに腰かけてお昼にする。
今日もコンビニおにぎりで、五目いなりと辛子明太子。

おかずにスモークささみも。これがかなり美味しかった。

今日見えている日光連山をどう縦走するかが課題で、ずっと悩んでいたのだが、おにぎりをかじりながら地図を眺めていて、いい案を思いついた。
これまでは、志津乗越に車を置いて、大真名子、小真名子を越えて女峰山に至り、頂上直下の唐沢避難小屋に宿泊。翌日、馬立経由で車まで戻るというプランを何となく思い描いていたのだが、これだと初日がかなりきついのに対して、翌日が楽すぎる。
車を置ける保証もない。
そこで考えたのが、霧降高原まで日光駅からバスで行き、そこから登山開始。
円山、赤薙、女峰と縦走して唐沢避難小屋。翌日、小真名子、大真名子を経て戦場ヶ原まで歩き、バスで日光駅に戻るというコース。
これだと、両日ともそれほど苦行でもなく楽でもないバランスのとれた配分になるし、女峰山の東の稜線を歩けるのもいい。
近いうちに実行に移したいと思う。
そんなことを考えているうちに、さっき私が抜かした方々が次々と到着した。
木の根で苦戦していた3人連れは、30代の娘とその両親という間柄だったようで、登頂を喜びビールで祝杯を挙げていた。
「お父さん、まず乾杯でしょ。なんで一人で飲んでるのよ」
などと娘にたしなめられていた。
賑やかになってきたので、そろそろ退散することにする。

周回コースなので、帰りは別の道。

いきなりの急坂である。

しかも階段の土が飛んでいて、歩きにくい。

ふと、背中の会社スマホが鳴った気がしたので、ザックを下ろして確認したが、空耳だったみたいだ。
その間に単独男性に抜かれてしまった。

階段をもう一度振り返っておく。

この後、またしても急傾斜の組み立て階段。

ステップは木だった。

50mほど下ると、早速登り返し。


この山は登りと下りとでは随分表情が違う。

でも、ガレ場を過ぎると、木の根もなく歩きやすい道になった。


振り返ると冬枯れの木々を透かして、鳴虫山のシルエットが見えた。

ほぼ平らな稜線を歩き、1084m標高点を目指す。


最後にわずかな登り。


あれが、そのピーク。

1084m標高点を「合峰」もしくは「松立山」ということは「山と高原地図」で知っていたが、こんな立派な山名板があるとは思わなかった。

小さな山名板も木にくくり付けられていた。

小さな石祠もあったので、柏手を打って、登頂に感謝するとともに下山の安全を祈願。

「山と高原地図」では、ここから銭沢不動尊に下る破線の道が書かれている(2011年版)が、「危険」の表示とともにロープが張ってあった。

通行禁止ということではなさそうだ。
別に行くつもりはないが。
頂上直下で抜かれた単独男性が、ここでお昼を食べていた。
たぶん、鳴虫山頂上が賑やかだったので避けたのだろう。
ここからまた80mほど急坂を下る。


その先はしばらく緩斜面。


めずらしく大きな石。

緩斜面の突端にも目印のように立石があった。

再び、傾斜が急になると、正面に男体山の雄姿。

見とれていないで、慎重に下る。

下りも結構アップダウンが激しい。



おお、なんか見晴らしのいい場所に出そうだ。

約930mの小ピークである。

ここで行き違いのハイカーたちが立ち話をしていた。

疎林なので、そこそこ見える。これはもちろん男体山。

丸い独標(925m)の向こうに女峰山。

ここから60mほど下る。


鞍部を通過して

また登り返し。


合峰からちょうど30分で独標に着いた。

ここにも、立派な山名板があった。
「独標」という言葉自体は普通名詞だが、こんなふうに固有名詞なっているのでは「登った山」に数えざるを得ない。
頂上で見かけた人が、ちょうど出発するタイミングで独標に到着したのだが、なんか動きが変だったので、あたりを見回してみたら、小用の痕跡があった。
やはり、そういうことだったか。
地形図ではここから左の尾根を下る道が書かれているが、そちらは通行止めになっていた。

廃道になったのだろうか。
指導に従い、右手の道を下る。

すると、ピンク色の花が目に飛び込んできた。

アカヤシオである。

まだ、つぼみだが一部花びらが開いていた。

まだ時期的に早いから期待していなかったが、少しでも見られてよかった。
5月になるとシロヤシオも見頃を迎えるらしい。
ここから先はひたすら下りである。

(つづく)
【2016年4月9日(土)】鳴虫山
鳴虫山(1104m)は日光の「山と高原地図」を見るたびに気になっていた山だ。
駅から気軽に登れそうなので、ずっと機会をうかがっていた。
ただ、ヤシオツツジが盛りになる5月は、混みそうなので避けたい。
ここは日光連山の絶好の展望台なので、むしろそれが見たい。
とすれば、絶対曇らない日を狙うしかない。
関東一円、晴れマークしかなかったこの日、満を持して、日光に向かった。
6:40新所沢発の電車に乗り、武蔵野線を経由して、東武の春日部から8:03発の特急スペーシアけごん1号に乗車する。
ホームでのアナウンスは「満席」とのことだったので、予めチケットレスサービスを使って予約しておいてよかった。
このためにわざわざ東武の携帯ネット会員に登録したのだった。
スマホの特急表示画面を駅員に示して、3号車に乗車。
なんだかやけに賑やかだ。
私の席の前2列8人が同じゴルフ仲間のようで、朝からビールを飲んで、声高らかにおしゃべりを続けている。
中でも女性2人のけたたましい笑い声が、かなり響く。
こりゃ落ち着かないなあと思いつつも、自分だって8人グループになれば多少は騒いでしまうだろうから、「しゃ~ない」と思うことにした。
8:20頃、利根川を渡る。

前のグループの一人が「あれ、そろそろじゃない?」と言い出す。
「いや、8:40くらいのはずだから、あと20分あるよ」
なんと、この方々、日光まで行くんじゃないんだ。よかった~
というわけで、彼らも含め半分以上の乗客が栃木で下車。
ゴルフもさることながら、この町は結構な観光客を集めているようだ。
古い街並みが人気なのだろう。
ようやく車内も静かになった。

時々、うとうとしながら、車窓を楽しむ。
北関東の桜は今がちょうど満開だ。

しかし、どうも天気がすっきりしない。
晴れてはいるのだが、かなり霞んでいる。
9時を過ぎて、日光連山が見えてきたが、色が薄い。

う~ん、ちょっと条件が悪いなあ。
9:18、定刻で東武日光に到着。


ここは当然、終着駅なので車止めがある。

別のホームには、各停や区間快速の電車が並んでいた。

ちょうど催してきたので、トイレに駆け込んで朝のお勤め。
どうせなら、車中にいるときに来てくれれば時間の節約になったのだが。
まあ、贅沢は言うまい。
東武日光駅は乗り鉄で来て以来なので5年ぶりくらいか。

外国人が多いのにびっくり。観光案内所のおじさんも英語ペラペラで案内していた。
改札を出ると、鳴虫山の前山、神ノ主(こうのす)山(842m)が真正面に見えた。

スマホの山旅ロガーをセットして、9時半過ぎに歩き出す。

緩やかな傾斜した国道120号を西に進むと、正面に日光連山が見えてきた。

左から大真名子山(2375m)、小さく小真名子山(2323m)、帝釈山(2455m)、女峰山(2483m)、赤薙山(2010m)。
望遠で見てみよう。女峰山。

赤薙山。やはり、かなり霞んでいる。

その左には男体山(2486m)が覗く。思ったより雪が少ない。

日光市のマンホールも2種類確認。


このあたりは石屋町というらしい。

とすると、この街頭の文字は町名から採ったのか。

日光消防署を過ぎたところで左折し、志渡淵川を渡る。

橋を渡る時に、「指導員」の腕章をしたかなり高齢のおじさんが右の道から入ってきたので、「こんにちは~」と挨拶をしたら、一瞥をくれただけで行ってしまった。

機嫌があまりよくなかったようだ。
ここからは大きな案内看板がいくつもあった。

いよいよ登山口というところで立ち止まり、念入りにストレッチ。

登山口で標高約550m、頂上が1100mちょっとなので、今日は標高差が550m。
ちょっと気合を入れ直す。

登り始めてすぐ、カタクリのお出迎え。

気をよくして、九十九折の坂道を進む。

北東に見えたのは、日光駅の北にわだかまる804mピーク。

眼下には木々の陰に天理教日光大教会の赤い屋根が見える。

50mほど登ると、右手に鳥居が見えてきた。

ちょっと寄り道して、安全祈願の参拝。

何という神社なのかは、よく分からなかった。

境内には、明治天皇の第六皇女常宮昌子殿下と第七皇女周宮房子殿下お手植えの松の石碑があったが、肝心の松は枯れてしまったのか、よく分からなかった。

たぶん、明治後半ごろのことだろうから、もう100年は過ぎている。
この先はかなりえぐれた道。

参拝している間に、例の指導員が追いついてきて、私が撮影している後ろで待っているような気配を感じたので、「あ、すいません」と頭を下げたが、今度も無視されてしまった。
さっき抜かした時は、何か植物を確認しているようだった。
普通なら、「何を見ていらっしゃるんですか」と声をかけるところなのだが、橋での出会いが感じ悪かったので止めておいたのだった。
この道標は頂上までずっと続いていた。

こちらは作業道なのかな。それとも廃道になった登山道だろうか。


スギ林の中、高度を上げていく。


一瞬、少し日が差し込んだ。

ストレッチしている時に先に行った高齢のお二人に追いついた。

彼らとは別の踏み跡をたどり、先に行かせもらう。

標高700mを超えたあたりで、尾根を右折。

初めて、神ノ主山の道標が出た。日光らしい山の名前だ。

右手眼下に日光市街。ちょうど稲荷川と大谷川が合流するあたり。

その上には女峰山と大真名子山。


大真名子山はかなり尖っている。手ごわそうな山だ。
こちらは霧降高原方面。

そうこうしている間に、あっけなく神ノ主山に着いてしまった。
コースタイムは駅から1時間なので、7分ほど速かった。

先着の方が2人いた。ここはとくに展望もないので、ゆっくりせずに通過した。

ますは少し下る。

木の根が入り乱れた歩きにくい下りだ。

20mほど下ると、しばらく平坦な道。


ここから892m標高点まで60mほどの登りとなる。

最初はかなり急傾斜。

そこをトレランの女性が、ハーハーゼイゼイ言いながら登ってきたので、もちろん先に行ってもらった。

序盤はゆっくり登っていたのだが、私もちょっとつられてペースを上げた。

緩斜面になったこともあり、いいペースで歩けた。

これが892m標高点だと思ったら、もう少し先だった。

だらだら登りがなおも続く。

あれが、892mだ。

もちろん山名板などはなかった。

さらに登ると、ロープ場出現。

地形図にある標高925m付近の分岐は、左の道が通行止めになっていた。

この登りには、地形図に現れない小さなピークがいくつもある。

でも、標高1010mを超えると、平坦な道になり、かなり助けられた。


(つづく)
【2016年4月3日(日)】弟富士山・城山
城山(648m)から下山して、「道の駅あらかわ」に向かっている。
素晴らしい山村のたたずまい。

こんなところを歩けるなら、車道歩きも悪くはない。

荒川の支流、湯ノ入沢を渡る。

荒川の対岸は断崖が続く。かなりの峡谷になっている。

下り電車が通過していく。

通常の車両だった。

少々疲れたので、路傍の石仏に見守られて休憩。

文化三年(1806年)の建立。

この頭は丸石をのせたものではなく、きちんとつながっており、かすかに顔の彫りも残っていた。

となりまたまた薬師様。

馬立薬師堂。昭和50年に改築したもののようだ。
引き続き、沿線を楽しみながら歩を進める。



大きな橋を渡ったところで、ここには廃道があるはずと思ったら、やっぱりあった。


この道は国道140号の旧道にあたり、秩父甲州往還道という標柱がぽつんと立っていた。

街道ならではの石仏。ちょっと傾いている。

秩父札所の道標を兼ねているようだ。

ようやく、道の駅にたどり着いた。


ちょうど正午だ。さあ、めしめし。
でも、このお蕎麦屋さんは混んでいそう。

道の駅に併設されている味わいの里・鈴ひろ庵の方にする。

そばが食べたかったのだが、メニューを見て、あまり食指が動くものがなかったので、ラーメンにした。
行者にんにくラーメン。地元の食材を使ったものがいい。

行者にんにくは薬味のようになっていた。
あっさりして、おいしかった。
満足したところで、カタクリのリベンジ。
朝、弟富士山(386m)で見たカタクリはしぼんでいたが、もうこれだけ日が高くなればもう開いているだろう。
弟富士山にもう一度行かなくても、すぐ近くに大塚カタクリ園というのがあるようだ。
おお~すごい。見事に反り返っている。


これが見たかったのだ。


白いカタクリもあって、びっくり。

花の文様が手で描いたかのようだ。
うん、これで満足。
こんなところに日帰り入浴施設があるのを発見。


でも、今日は柴原温泉と決めてあるので、またの機会に。
ここは標高312mもあることを初めて知った。

たけのこ掘りはまさにこれからのようだ。


いきなり蒸気機関車の汽笛の音が聞こえてきたので、線路に向かって走る。
今日は休日だからSLが運行されているんだった。
まずは位置取りして待機。

3分ほど待っていると、やってきた、やってきた。

ちゃんと煙を吐いている。

ほかの観光客の方々もみなカメラを向けていた。

客車もなかなか格好よかった。

さあ、鉄分も摂ったことだし、お風呂に向かいましょうかね。
「道の駅」を後にして、柴原温泉に移動。
10分ほどで着いた。一見してびっくり。柳屋は廃屋ではないか。

しかし木造3階建ての立派な建物である。
玄関は閉鎖されていた。

もちろん、ちゃんと新館があった。


到着したのは午後1時前なので、日帰り入浴の終了時間2時半までなので余裕だ。
フロントに入り、「ごめんくださ~い」と声をかけると

わりと若い男性が出てきて、親切に浴室まで案内してくれた。
カタクリと清雲寺のシダレザクラの季節なので、何人か先客がいるのではと思ったが、誰もおらず独り占めできた。
内湯とは別に露天風呂もあるというので、そちらに先に入ることにする。

でも、四方のうちの一方に壁がないだけの半露天風呂で、しかもその正面が崖なので、あまり風情がない。

だったら、内湯でいい。再び移動して、屋内でゆっくり入ることにした。

泉質は単純硫黄泉で、源泉は11.4℃。ph8.1の弱アルカリ性。
湯温も熱すぎず、ゆっくり浸かることができた。
帰り際に、フロントにいたご主人にいろいろと聞くことができた。
柴原鉱泉は秩父七湯のひとつに数えられ、江戸時代初期から400年以上も湯治場として利用されてきたらしい。
湯元は5分ほど沢を遡ったところにあるそうだ。
最近まで、4軒の宿があったらしい。
現役なのは、ここ柳屋と川をはさんで隣にある「かやの家」の2軒。
湯元の菅沼屋は2010年10月末で閉館、武州日野駅に看板があった「きくや」も最近廃業したとのこと。
柳屋は明治10年の記録は残っているものの創業がいつだったのかははっきりしないらしい。おそらく幕末の頃だっただろうとのこと。
秩父事件の首謀者らが潜伏したこともあったらしい。
建物も明治の頃からのものだという。
「早く壊してしまいたいんだけど、お金がね」と言っていたが、保存できるものなら保存してほしい。
今のご主人で4代目。5代目になる息子さんは板場を仕切っているとのこと。
「バブルの頃はよかったけど、2軒はやめちゃったね。でも、今はネットで予約が入るから、商売になっているよ。とくに秘湯目当てというお客さんではなく、関東観光の通り道だからって感じで選んでくれる。国道140号が山梨に通じたから、そちらからのお客さんも多いね」
とのことだった。
経営は厳しいよという話になるかと思ったら、そうでもないみたい。
いいことだと思う。
丁重にお礼をして辞去。
柳屋の駐車場のすぐ先に「きくや」の看板が残っていたので行ってみた。

こちらも廃屋になっていた。

菅沼館は取り壊されたらしく跡形もなかった。

(プリムラ・ブルガリス)
かやの家も偵察。

こちらはわりと新しい。

石祠や供養塔に挨拶して、帰途につく。


山村風景を見ながら車を走らせたかったので、帰りは小鹿野経由。
途中、秩父ミューズパークの売店でアイスを買って食べた。
秩父から先のルートも山伏峠越えの名栗経由で帰るか、旧国道の正丸峠経由にするか迷ったが、正丸峠まで行って、引き返し山伏峠経由で帰るという欲張りな帰り方をすることにした。
正丸トンネルの手前で右折すると、芦ヶ久保小学校入山分校跡の石碑があった。

入山分校は昭和27年の開校。昭和42年廃校だったので、存在したのはわずか15年間。

その後、入山公会堂としてその面影を保っていたが、正丸トンネルの開削に伴い、その用地はほとんど失われてしまったのだとか。

15年の間にここを巣立ったのは約100人というから、1学年平均7~8人ほどの小規模校だったことになる。
それにしても、当時はこんな山奥にも、まだ人の生活はあったのだ。
すぐ先に旧正丸峠への道があったので、潜入してみた。
正丸峠へのバス道路が開通する以前の、徒歩で越える道である。
車道が切れるまで行ってみる。

行き止まりで引き返し、カエデの大木の下に追分の道しるべを発見。

「右 なぐり(名栗) 八王子」「左 子ノ権現 江戸」と刻まれている。
再び県道に戻り、旧道を正丸峠へ。

いずれ、この奥村茶屋でそばでも食べてみたい。

ここはライダーがよく来る峠だし、ハイカーの通り道でもあるから、下にトンネルが開通しても営業が成り立つのだろう。

4年前に来た時には気づかなかったが、昭和天皇と今上天皇皇后両陛下の記念碑が立っていた。

昭和天皇は昭和30年11月11日、今上天皇ご夫妻は皇太子時代の昭和39年11月20日に当地を訪れたそうである。
碑の建立は平成18年だから当然、前に来た時も見ているはずなのだが。
中央右の尖った山は大高山(493m)。

秩父側は武川岳(1052m)の前山が望めた。

再び車に戻り、山伏峠へ。

この先は旧名栗村をゆっくり走る。
緑色に塗られた洋館を発見して、小休止。

JAの建物のようである。
写真の最後はレトロな「サン美容室」。

時間も早かったので、柴原温泉からあちこちに寄り道してしまった。
帰宅したのは4時半だったから、2時間半もかかった。
でも、天気に恵まれ、花の季節の気持ちのいい山歩きだった。
(おわり)
【2016年4月3日(日)】弟富士山・城山
林道熊倉線の起点から10分ほどで熊倉山(1427m)日野コースの登山口に着いたが、ここからは侵入禁止になっていた。

でも、迂回路があるようだ。

当方は城山(648m)に行くので、このまま林道を進む。

間もなく林道秩父中央線との分岐。

この先に日野コースの登山口があるようだ。


林道熊倉線はヘアピンカーブを繰り返しながら、なおも続く。

水場があったが、清潔かどうか分からなかったので、手は出さなかった。

今度は林道三又線との分岐。

そして、観音堂から50分で、熊倉山城山コースの登山口である峠に到着した。

谷津川林道コースは現在通行禁止なので、いずれ熊倉山を登る時には、この道を登っていくことになるのだろう。

別の林道もあったが、これも通行止めだった。

10分ほど休んで、城山へと登り始める。

こちらも延々階段が続く。

尾根に乗ると、道は緩やかに。


登山道はしばらく丁寧に竹で縁取ってあった。

山頂付近は現在伐採中。

峠から10分で城山に登頂。ここは熊倉城跡でもある。

山頂付近はかなり平坦に削平されていた。ここは二の郭跡。

この高まりは土塁の跡。ここが最高点と思われる。

空濠の跡。


こちらが本郭の跡。

本郭と三の郭の間の空濠。

三の郭。

説明板によると、関東管領山内上杉氏の家宰長尾影信の死後、管領の上杉顕定は影信の弟忠景に跡を継がせたが、それを不満に思った景信の子景春は、文明六年(1474年)、上杉家に反旗を翻した。これを知った扇谷上杉氏の家宰太田道灌は文明十年、景春を鉢形城(寄居町)から追い出し、景春の籠るここ熊倉城を攻め、降伏させた。とのことである。
さて、下山。尾根通しに北へ下る。

左手に熊倉山の聖尾根。

60mほど下って、約40m登り返す。

山と渓谷社の分県登山ガイド「埼玉県の山」では、この稜線にP1からP6まで番号がふってあり、激しいアップダウンがあることが示されている。
P6が頂上で、当方は5、4、3・・と下っていくことになる。
そのP5はここで、標高約620m。

このすぐ先からは北に城峯山(1038m)を望むことができた。

下に見える赤い鳥居は、柴原温泉に行く途中にある稲荷神社のもの。

さらに下ると、荒川を渡る日野鷺橋が見えた。

左手に見えたのは三峰山(1102m)あたりか。

その右には、かろうじて両神山(1723m)を捉えることができた。

急な下りとなり、ロープが出現。

樹種は分からないが、ほれぼれする大木だった。

とうとうお腹が空いて、我慢できず最後の食料あんパンを食べてしまう。

遭難さえしなければ、これで下界まで持つだろう。
どんどん階段を下る。

いったん平らになった場所がP4(標高約530m)のようだ。

ここから見えたのは秩父御岳山(1081m)。

さらに下ると、国道140号の荒川橋が見えた。

P3(標高約520m)は標高差20mほどの急な階段を登ればすぐ。


とくに展望なく、通過する。
この先でやっとすっきり展望が得られる場所に出た。
もちろん武甲山(1304m)。

すぐに岩のごつごつしたヤセ尾根となる。


ここはロープがあって助かった。


これを登り切ると小ピークなのだが、これはP2ではないみたいだ。

早咲きのツツジ。

左手に白久温泉がある橋場集落が見えてきた。

「山火事注意」の看板があるピークを通過。ここもまだP2ではない。

どういう数え方をしているのだろうか。
ここからまた一気に下る。

どうしたらここまでねじれてしまうのだろう。

「埼玉県の山」では、このあたりに「タコのような形をした木」との注があるが、これとは違うよなあ。

左に再び聖尾根。

頂上から45分ほどでやっとP2に着いた。

ここは地形図にいう510m標高点である。
眺望なく、ここも通過。

杉の枯れ枝が敷き詰められた道を歩く。

間もなくP1(標高約500m)。

P1とP2の間に「パラボラアンテナ」があるように書かれていたが、見あたらなかった。
この先はひたすら下るだけだ。

それにしても、どこも階段がよく整備されている。

平坦地に出た。「TV中継所」と書かれた場所と思われるが、撤去されてしまったのか、何もない。

でも、若干の展望が得られた。


(秩父御岳山)
ここからは尾根を離れて、つづら折りに下っていく。

結構な急斜面だ。

こんな緩やかな道にもコンクリート丸太の階段があるので、ちょっと歩きにくい。

しばらく我慢していると、どうやら林道の終点に出た。


しかし、林道としては完全に廃道状態だ。

落石がひどいからだろう。


そんなところにも確実に春は来ている。


それにしても、よくこんな岩石地帯に林道を切り開いたものだ。


しばらく下って、ようやく道が落ち着いてきた。


頂上から1時間10分ほどかかって、やっと里に出た。


再び武甲山を正面に、「道の駅あらかわ」を目指す。

祠と石仏が仲良く並ぶ田舎道。

白久駅の方が近いが、当方は反対の武州日野駅方向に行かねばならない。

秩父鉄道の踏切を横断。

秩父鉄道に武甲山はよく似合う。

振り向けば、秩父御岳山が大きい。

県道に出た。

山里の雰囲気を楽しみながらの車道歩き。


将門のかくし湯みやこ旅館が道沿いにあったが、日帰り入浴もできるなら今度来てみよう。


このあたり、ピンクの桜や桃がとてもきれいだ。


道端の小さな小屋は薬師堂。

薬師尊と古い表示がある。

中には小さな仏様が祀られていた。

外に出ると、ちょうど電車が通過して行った。

「急行桜」。この時期ならではだ。
(つづく)
【2016年4月3日(日)】弟富士山・城山
改めて最初から報告しよう。
7:40過ぎ、道の駅あらかわを出発する。
まずはカタクリ園に向けて、東へ歩き出す。

すぐ左手にあるのが浄光寺。

秩父の札所ではないが、古い石仏が並んでいた。

日野学校跡とある。

明治の頃、このお寺が学校として利用されたのだろうか。
何の説明もないので、よく分からない。
上大塚沢を渡る。

しばらくは車道歩き。

とりあえず武州日野駅に向かう。

桃が見事に咲いている。

正面には武甲山(1304m)が大きい。

振り向くと、秩父御岳山(1081m)。

日野駅近くに食事処「ぽるかどっつ和我家」。

「ダルメシアンに逢える」と書いてある。愛犬家の店のようだ。
日野駅横の踏切を渡る。

駅前には「弟富士山登山口 山頂眺望雄大」と書かれた昭和3年建立の石碑があった。

当時は木々が成長していなかったのか、今回は樹林に阻まれ何も見えなかった。
それにしても、山の高さには不釣り合いの大きさだ。
武州日野駅。

すぐ近くに、柴原温泉きくやの看板。

下山後に行ってみたら、もう廃業していた。
線路沿いの垣根はシナレンギョウ。

ちょうど電車が入線してきた。

派手なラッピングだった。
線路の向こう側に神社があるようなので行ってみた。
ヤマレコでは、神社が登山口になっているので。

踏切を渡ると、センサーが感知して「危険です!」という音声が流れる。

ビクッとしてしまった。
鳥居はこんなにある。

風穴稲荷神社というようだ。

今度は下り電車がやってきた。なかなか絵になる。

神社の先がカタクリ園のようなので行ってみた。
でも、どの花もしぼんでおり、がっかり。

あの反り返った花びらを見たかったのだが、朝早すぎたのかもしれない。
このまま進んでも頂上へは行けそうもなかったので、戻って、線路沿いをさらに東に進む。

すると、もう一つ神社が現れた。

浅間神社だ。

この神社は筑紫国造の末裔石井大乗睦則が昌泰三年(900年)、氏神として旧日野村の座成山というところに祀ったのが始まりとされる。
その後、天徳四年(960年)のある夜、「この山は私の住む山ではないから、他の山に移すように。移すべき山には雪を降らせる」という神告があった。
間もなく、この山に季節はずれの冠雪があったので、このことを富士山麓の浅間神社本社に報告すると、「弟」の冠称を与えられ、以来「弟富士山(おとふじやま)と呼ばれるようになったという。
境内には立派な神楽殿があった。

ここで市の無形文化財に指定されている神楽が演じられるようだ。
摂社。

参拝を済ませて、登山開始。
すぐに二合目の標柱があった。一合目はどこにあったのだろう。

登山道は階段になっている。


すぐに三合目。

御胎内入口の標柱があったので、そちらに行ってみたが、注連縄が張ってあるだけで、それらしきものを見つけることはできなかった。

登山道に戻って、五合目。四合目はたぶんなかった。

六合目。

七合目。寺澤や芦ノ平など、奉納者はみな近在の村からだ。

立派な尾根道。

八合目は見つからず、九合目。

そして山頂。10分ちょっとで着いてしまった。

ここが浅間神社の奥社。

しばし休憩して、のどを潤す。今日は暑くなりそうだ。

すぐに出発。階段を下る。

すぐ下に分岐。さっきのカタクリ園の道を抜けると、ここに出たようだ。

あとはしばらく尾根歩き。


木々の隙間から寺沢の集落が覗ける。

ちょっとしたピークに小さな祠。

少し登って、鉄塔の手前で左折。尾根を離れる。

下り切ると、簡易舗装の道に出る。

左手に素掘りの古い隧道が見えた。

この尾根をはさんで両側に畑を所有している住民が多く、不便解消のため昭和16年に完成したとのこと。

中はかなりの傾斜になっている。

踵を返して、舗装道路を下っていく。

この道は「西街道」というらしい。

方言ではなまって、「にしげえとう」と読むようだ。
ここ寺沢集落も美しい山里である。

城山へ通じる道への分岐点には、観音堂が建つ。

ご本尊は如意輪観音で、「寝入り観音様」と呼ばれている。

秩父札所を決める時、たまたま如意輪観音が寝込んでしまい、札所に入ることができなかったから、そう呼ばれるようになったとも言われている。
安産、子育ての仏様として信仰を集め、今でも一年中、腹帯を貸し出しているのだとか。
境内には様々な供養塔など。


この先は車道を寺沢川に沿って遡っていく。

古い民家や小さな神社を眺めながら。



このたたずまい、和むなあ。

番号の付いたこうした黄色い看板がいくつかあったが、意味が分からないものも少なくなかった。

水車小屋。


せせらぎ。

このあたりの砂防ダムは機械的に造ったわけではないみたいだ。

寺沢川を山の神橋で渡ると、日野鉱泉の一軒宿、山翠荘がある。

いずれ、日帰り入浴とかで利用してみたい。
この橋のたもとから林道熊倉線がスタート。

熊倉山登山口への道標もあった。

(つづく)
【2016年4月3日(日)】弟富士山・城山
前夜、北武蔵方面から帰宅し、明日(日曜日)はどうしようかと眠い目をこすりながら考えた。
天気予報は依然として曇り。
高いところに行っても眺望は期待できないので、またしても近場の低山を物色する。
最初は、西武線の正丸駅からツツジ山を経て刈場坂峠に向かい、大築山を経て越生駅に下るコースを考えていたのだが、帰りの電車が前日と同じになってしまう。
日帰り温泉にも行きにくい。
山と渓谷社の分県登山ガイド「埼玉県の山」を引っ張り出してきて検討したところ、秩父鉄道の武州日野駅から弟富士山(386m)を経て城山(648m)に登り、白久駅に下ってくるコースがわりと手頃であることがわかった。
カタクリの群落で知られているとのことで、今がちょうど見頃らしい。
白久駅近くにある民宿しらかわでお風呂に入れるらしいが、どうせならこの前断念した柴原鉱泉の柳屋に行きたい。
となると車で行かなければならないが、ちょうどいいことに白久駅と武州日野駅の間に「道の駅あらかわ」がある。
ここに駐めておけば、周回コースが取れる。よし!
というわけで、コースは決定。
柳屋の日帰り入浴は午後2時半までなので、早めに出ることにした。
前夜、荷物を整え、5:45にアラームをセットして、就寝。
翌朝は目覚ましがなる前の5:30に目が覚めたので、5:50に出発できた。
しかし、外に出てみて、びっくり。なんと雨が降っているではないか。
う~ん。でも、予報は朝のうち雨の残るとこともある、と言っていた。
上がることを信じて、勢いで出発する。
電車で行くプランを立てていたら、駅までの自転車移動で濡れるのが嫌なので、きっと中止にしていただろう。
コンビニに寄って昼食を調達。
走り出して、ふと気づいた。「あ、朝食買うの忘れた」
もう1度、どこかのコンビニに寄ればいいのだが、それが面倒くさい。
お昼に買ったおにぎり2個を朝食に回し、予備食に買ったもっちりあんパンをつなぎにして、お昼は下山後にどこかで食べることにしよう。
そういう方針にして、道の駅あらかわに直行する。
雨は飯能あたりで止み、正丸トンネルを抜けると、なんと晴れてきた。
これは素晴らしい。両神山(1723m)も見えるではないか。
「ああ、こんなことなら、もっと高い山に行けばよかった」と欲が出てきたが、贅沢は言わないことにする。
早く着きそうなので、先に清雲寺のシダレザクラでも見ておこうかと思い、そちらにハンドルを切ったが、駐車場500円という表示を見て、あっさり取りやめ。
実は1度見たことがあるから、そんなにこだわりはないのだ。
時間的には混んでないはずだから、本当はいいタイミングなんだけど。
とくに渋滞もなく、7:20に道の駅に着いた。
2時間見ていたが、1時間半しかかからなかった。
トイレの便座が温かかったので、ゆっくりと朝のお勤め。

(背後は熊倉山)
念入りにストレッチをして、7:40過ぎに出発した。
先に弟富士山に登ることにする。
カタクリは弟富士のふもとに群落があるそうなので、朝のうちに行けば、人込みを避けられる。
それに、こちらからだと城山の頂上直下まで舗装道路で登れてしまうのもありがたい。
武州日野駅の裏手に小さな赤い鳥居がいくつも並んでいる神社がある。

あそこが登山口かなと思って行ってみたら、カタクリ園の入口だった。もちろん見ていく。
しかし、どれも萎んで下を向いている。開いているものでも、この程度。

花びらを反り返らせている花はほとんどない。
これは朝早すぎたからだろうか。
また下山後に来るのは面倒だなあと思いつつ、とりあえず登山に専念する。
登山口を探しながら、線路沿いに東進すると、浅間神社が現れた。

ああ、登山口はこっちの神社だったんだ。

参拝していると、電車で来たと思しき単独の登山者が追いついて来た。
獣除けのネットの扉を私が開け、そのおじさんが閉める形になった。
このおじさんとはこの後、何度も行き会うことになる。
しばらく私の後をやや離れて歩いてきていたが、倒れた御胎内入口の道標の写真を撮っているうちに、先に行ってしまった。

その後、九合目で彼が着替えているすきに、私が再び先行。
すぐに弟富士山の頂上に着いた。

今度は私がここでウインドシェルを脱いでいる間に、おじさんは行ってしまった。
私は早くもお腹が空いてきてしまったので、ここでチョコを2かけ口に放り込む。
こんな調子で、私のお腹はちゃんと昼まで持ちこたえてくれるだろうか。
少し下って、カタクリ園への分岐に着くと、カタクリ園の方から彼がやってきた。
(カタクリを見に行ってたのかな?)
会釈をして、今度は私が先行。
しばらく尾根道を少し離れて付いてくる。

もっと近づいてくれれば、「さっき、カタクリを見てきたんですか? 萎んでいるのは朝だからですか?」と聞こうと思っていたのだが、ずっと距離を置いたままだ。
尾根を外れて、階段を下り、簡易舗装の道に出る。
左手に「矢通反隧道」という素掘りのトンネルがあるので、行き先とは逆方向だが見学に行った。

すると、彼もこっちに来たので、やっと声をかけることができた。
「(このトンネル)渋いですね」
「ええ」
「さっきはカタクリを見に行かれたんですか」
「いや間違えただけです。地図見ても何だかよく分からなくて」
「どちらへ行かれるんですか」
「熊倉山(1427m)です」
「熊倉山なら、この道を戻ったら、大きな道にぶつかるので、その道を登っていけばいいんです。私もそちら方面に行きます」
彼は「ありがとうございます」と言って、先に行ってしまった。

しかし、彼は大きな道に出たところで、本来行くべき方向とは逆の方向に歩いていく。
あわてて下り、「そっちは違いますよ」と叫ぼうとしたら、もう姿が見えなくなってしまっていた。
さすがにいずれ自分で間違いに気づくだろうと思い、追いかけることまではしなかった。
それにしても、あんなによく道を間違えて、あの人大丈夫なのか。
本当に熊倉山にたどり着けるんだろうか。
熊倉山の登山口に向かって20分ほど歩いたところで振り向くと、後ろにさっきのおじさんの姿が見えた。
やっぱり気づいたか。それにしても足が速いなあ、もう追いついて来た。
と安心したが、パッと見、さっきのおじさんと着ているものが違う。
あれ? 別の人か。いずれにしろ足の速い人だ。
そう思いながら、九十九折の車道を登っていく。

どうも登山道と違って、車道歩きはペースが早くなりがち。
だんだん疲れてきた。
アクエリアスを飲もうと思って、後ろ手にザックのポケットをまさぐると、なんとボトルがないではないか。
え、どこかで落とした?
いや、普通に歩いてきただけなんだから、そんなはずはない。
すると・・・あ、弟富士山の頂上で飲んだ時に、神社のテラスに置いたままにしたんだ!
まだ、一口しか飲んでないのに。
というか、この先、飲料は飲みかけのお茶しかない。
残りは多分200cc程度。大切に飲まなくては。
最近はほんとに物忘れがひどい。
朝食の買い物だってそうだ。やはり確実に老化は進んでいるんだなあ。
まあ、いい。とにかくお茶を飲もう。
ザックを下ろして、チャックを開けると、なんと中にアクエリアスがあるではないか。
弟富士山の頂上で飲んだ時、ポケットに入れずに、ザックに放り込んだだけだったのだ。
飲み物があってよかったが、どう始末したのか忘れていたことには違いない。
あまり喜べた話ではない。
観音堂から50分歩いて、やっと熊倉山への登山口がある峠に着いた。

すっかり疲れてしまったので、防火水槽の上に腰掛けて休んでいると、間もなく後ろにいた人も到着。

よくよく見ると、さっきのおじさんではないか。
彼は登山届を書いて、ポストに入れると、休まずに登って行ってしまった。

さすがに「また間違えてしまいましたね」と声をかけるわけにもいかず黙っていたら、彼も間が悪かったのか、私にウソをつかれたと思ったのか、私の方を振り返ることはなかった。
私はここで10分ほど休憩。残りのチョコを3かけとも食べてしまった。
あとはあんパン1個しかないが、もう下るだけなので多分大丈夫だろう。
こちらは彼とは逆方向、城山に向かう。ちょうど10分で到着。

頂上は中世の山城、熊倉城の跡で、かなり平坦に普請されている。
山名板が城跡の標柱にくくりつけられていたので、それを外して、真の頂上まで持っていき、そこで記念撮影を行った。

この先の下りは急坂を含むアップダウン。

「埼玉県の山」には城山を含め6つのピークをP1、P2・・として表記されている。
あと5つの登り返しがあるということだ。
この道はもともと熊倉山に登る時に使う予定だったのだが、このアップダウンでかなり消耗したかもしれない。
今度実際に登るとしたら白久温泉経由で林道を歩くことになるが、今回を教訓に車道はゆっくりめに登ることにしよう。
途中やっぱりお腹が空いたので、なけなしのあんパンを結局歩きながら食べてしまった。

お昼は道の駅で何かしっかり食べよう。豚丼とかあるといいなあ。
P1から先は尾根をはずれて、落石の多い廃道になった林道をトラバース気味に下っていく。

意識してゆっくり下ったこともあるが、コースタイム通り1時間20分かかってしまった。
ここからの車道歩きもかなり長かった。
途中、段差のあるところを見つけて、靴のひもを緩める。

ついでに10分ほど腰をおろしたまま、足を休ませてあげた。
道の駅にたどり着いたのは、もうお昼前。
トイレで顔を洗って、食事処で行者にんにくラーメン(750円)を食べた。

そばを食べたかったが、あまり食指の動くメニューがなかったので、ラーメンになってしまった。
あっさりしておいしかった。
以下、今回の行程である。
【行程】2016年4月3日
道の駅あらかわ(7:42)~武州日野駅(7:56)~浅間神社(8:12)~弟富士山(8:26休憩8:31)~如意輪観音堂(8:50)~熊倉山登山口(9:40休憩9:48)~城山(9:58)~城山登山口(11:16)~馬立薬師堂(11:32休憩11:42)~道の駅あらかわ(11:55)
※所要時間:4時間13分(歩行時間:3時間50分)
※登った山:2座(弟富士山、城山)
※歩行距離:10.3km
【2016年4月2日(土)】弓立山など
金比羅山(214m)を登っている。
すぐに踏み跡は拡散してしまい、この有り様。

でも、ヤブではないし、とにかく高い方を目指せばいいだけなので、困ることはない。

こういう登りはペースがめちゃくちゃになるので息が上がる。

それにしても、追加で登った山の方がハードだ。
尾根らしきところに出ると、また踏み跡が復活した。

頂上は大きくえぐれ、その真ん中にぽつんと小さな祠があった。

昔は、ここにもっと大きな社が建っていたのだろう。
尾根に戻り、西へ向かう。

すると、すぐに三角点。

その傍らに、古びた山名板が置いてあった。

こちらにも山名の表示が。

とくに展望もないので、すぐ通過。
左折するように下り出したのだが、これでは愛宕山(183m)から離れるばかりだ。
つい踏み跡をたどってしまったが、本当は西に行きたいので直進しなければならなかったのだ。
20mくらい下ってしまった気がするが、戻る。
そして下り直し。

こちらにもなんとなく踏み跡があるが、こんな状態。

通せんぼも無視して、ひたすら西へ。

なんとか里に出ることができた。

県道に出たところが深町のバス停。

向かいには、木のむら物産館があって、かなり賑わっていた。

ここから愛宕山の全景をとらえることができる。

県道30号で愛宕山の登山口に向かう。

途中に、大銀杏の案内板。

確かに太い。

秋には黄金色に染まるのだろう。

右手に、さっき登った弓立山(427m)が見えてきた。

前沢バス停の手前を左折する。

今度の登山口もディープである。

道標も何もないが、ここで間違いなさそう。

赤テープはあるが、ほぼ道ではない。

ただの山の斜面を、草木を避けながら登るだけ。

木々もどうしたらいいか分からないほど。

とにかく傾斜が急なので、またしても息を切らして急いでしまう。

それでも7分ほどで登頂できた。

山名板はないが、愛宕神社がしっかりと鎮座していた。

本日の無事を感謝し、柏手。
二つあるベンチがいずれも用をなしていない。


裏には、ふもとの幼稚園の園児の登頂記念の絵が残されていた。

さて、もう16時に近い。
ここからだと明覚駅の方が近いが、やはり温泉に入らずに帰るわけにはいかない。
あと30分ほど歩かなくては。

下山路はしっかりとした道だった。


ロープ場もあるにはあったが、とくに問題なし。

でも園児を引率する先生はハラハラしたかもしれない。
里に下ると、お地蔵様が迎えてくれた。


あたご山花の会が植えた花だろうか。


正面に金比羅山。

左手は愛宕山。

もうチューリップの季節か。

愛宕山三景。



この角度が一番端正かな。
桃木簡易郵便局を正面に見て、右折。

路傍の弁財天。

その由来はこちらを。

こんなものまで丁寧に石碑を残してくれるのは、ほんとにありがたい。
田中桃木用水路屋敷内出口跡だそうだ。

右手に、今日登るのは諦めた堂山(250m)。

正面は弓立山。

左手は金比羅山。

花桃の里とやらに足を踏み入れる。

ちょうちんが吊されているが、祭りがあるのかな。

ちょうど満開だし。


やっぱり明日3日に花桃まつりという催しがあるようだ。

その主会場になると思われる八幡神社で祭りの準備が行われていた。

本殿までは遠いので、遠くから会釈するのみにとどめた。

めずらしい1文字の店名。

県道を渡って、幟のところで左折する。


温泉の手前には、豆乳めんの店「斑鳩」。


夕食に立ち寄りたいところだが、そんな時間はなさそう。
16時半すぎに、やっと「四季彩館」にたどり着いた。

7時間にわたる長い里山歩きだった。

この建物は、古民家を改造して作ったもののようである。

帰りのバスの時刻を確認する。
県道の桃木バス停まで行かなければいけないと思っていたが、ここの目の前からバスが出るようだ。
次はなんと18:15。まだ1時間半以上もある。
でも、せせらぎバスセンターというところでバスを乗り継げば、越生駅まで行けるみたいだ。
それはありがたい。八高線はほぼ1時間おきだが、東武越生線は15分おきに出ている。
しかも、バスセンターでの乗り継ぎは1分。完全に接続している。
方針は決まったので、ゆっくり汗を流す。
温泉はアルカリ性(ph8.6)のナトリウム・塩化物冷鉱泉で源泉の温度は20.5℃。
つるつるの美肌の湯であった。
露天風呂にも風をしのげる洗い場があったので、内湯には入らなかった。
さあ、バスの時間までゆっくり飯でも食おうと思ったが、ここは食堂の営業はしていない。
その代わり、弁当を販売していたので助かった。
まずは缶ビールをぷしゅっ。車じゃないから、これができる。
食事はつまみ代わりにもなるように、やきそば弁当にした。

休憩所は古民家の雰囲気を残し。吹き抜けの天井になっている。

Facebookに投稿したり、「山と高原地図」を眺めたりして、のんびり過ごし、18:10に外に出た。

ここが始発なのにバスは定刻間際に到着。

イーグルバスだった。

せせらぎバスセンターでの乗り継ぎもスムースで、越生駅には18:35頃到着。
18:37の八高線があったが、そちらはかえって帰りが遅くなるので見送り、18:45の東武線に乗車。

西武線への乗り換えは今度こそ、新しくできた本川越駅の西口を使わせてもらった。

確かにこれは便利だ。19:44新所沢着。
夜8時には帰宅できた。
低山ではあったが、なかなかハード&ディープな登山だった。
【行程】2016年4月2日
越生駅(9:30)~弘法山(10:23撮影・休憩10:32)~雨乞山(12:01)~六万部塚(12:40昼食12:59)~弓立山(14:04)~金比羅山(15:27)~愛宕山(15:53)~四季彩館(16:35)
※所要時間:7時間5分(歩行時間:6時間40分)
※登った山:6座(弘法山、雨乞山、六万部塚、弓立山、金比羅山、愛宕山)
※歩行距離:18.2km
【2016年4月2日(土)】弓立山など
弓立山(427m)への登山口らしきところを見つけて、細い車道に入る。

この先で、やっと道標が現れた。

ここからは登山道。

それほどいい道ではない。

5分ほどで再び車道に出る。

その入口に馬頭観世音。

車道を登って行くと、山小屋風の建物が見えてきた。

「弓立山荘」とあるが、宿泊施設ではなさそうだ。

誰かが自分の別荘をそう名付けただけだろう。
長谷川芳男という方は存じ上げないが、埼玉成恵会病院の創設者(理事長)のようだ。

記念館があるということは、何かコレクションでも展示しているのだろうか。

とくに興味はないので通過。
電波塔へ行く車道と分かれて、最後の登山道に入る。

といっても、こちらも車が走れそう。

すぐに頂上部に出た。

そこからの眺め。まずは西に武蔵丘陵ゴルフ場。

その奥の堂平山(876m)方面は雲の中。
(215)
すぐ北に本当の頂上。

南東には、さっき登った弘法山(164m、中央左)とその奥に越生の街並み。

弘法山のアップ。

南には大高取山(376m)と埼玉ロイヤルゴルフ倶楽部。

その右に雨乞山(340m)と奥武蔵の山並み。

奥武蔵を遠望。

突起は越上山(567m)。

東には金比羅山(214m、左)と愛宕山(183m、右)が横たわる。

まぎらわしいが、その奥も愛宕山(180m)。
愛宕山にはさまれて、明覚小学校。

弓立山山頂の鞍部にテラスがあり、ハムの二人が談笑していた。

頂上は木々が伐採されている。

ジークテクトという会社が森林づくり活動をしているとのこと。

これから別の樹種を植えていくのだろうか。
ここが本当の頂上。

標柱の裏面は道標になっていた。

天慶8年(945年)に武蔵国司の源経基が慈光寺の四囲境界を定めるため、龍神山で蟇目(ひきめ)の秘法をおこなった。経基が四方に放った矢は、北が小川町青山の「矢の口」、東が小川町大字瀬戸の「矢崎」、南が越生の「矢崎山」、そして西が「矢所」に落ち、それ以降、この山は弓立山と呼ばれるようになったという。
三等三角点があった。

ジークテクトが植えたのはミツバツツジだった。

景色はさっき堪能したので、ここは早々に通過する。

北側の登山道を下る。

最初はわりと急な坂だ。


すぐに男鹿岩が見えてきた。

むかしむかし、この男鹿岩には雄の大蛇が、慈光寺の女鹿岩には雌の大蛇が棲んでいたという。そして毎年7月7日の夕方になると、都幾川のほとりで逢引を楽しんでいた。
ところがある年の夏、日照りが続いて女鹿岩の大蛇が姿を消してしまった。悲しんだ男鹿岩の大蛇は大粒の涙を流し、男鹿岩を去っていったという。
ここは岩石地帯。


なかなかの造形美。


男鹿岩を下から見上げる。

この先は木の根地帯。

その後は一直線に下る。

ただ、途中で右折しないといけないので、その道を見落とさないようにする。
怪しげな踏み跡があったので行ってみたが、どうやら道ではなく引き返す。3分ほどのロス。
すぐ先に分岐があった。ちゃんとした道だったのだ。

保育園が見えてくると、右手に古い墓地が現れた。


(248)(249)
こうした庶民の歴史に触れられるのが里山の魅力だ。
(250)
さらに先には、新しい子そだて観音。
(252)
保育園は今日はお休み。
(254)
車道に出たら右折して、金比羅山の登山口に向かう。
弓立山から日帰り温泉に直行することも考えて、下山しながら明覚駅の列車の時間を検索したら、15:44、16:54、17:37・・・
今は14時半過ぎなので、お風呂に寄ったら、15:44は間に合わない。
かといって、16:54だと時間が余りすぎる。
じゃ、いいや、予定通り金比羅も愛宕も行ってしまおう。
時間的には金比羅だけにした方が、16:54にはちょうどよさそうだが、愛宕山だけ残してしまうと、今度雷電山に登る際に寄り道して片付けないといけなくなる。
結局、17:37になってしまうだろうが、憂いは消しておかなくては。
というわけで、余力もあるし、もうふた山登ることにした。
車道を登り切った場所に、ときがわ町の温泉スタンドがあった。

近在の人が温泉を汲みに来ていた。
それをまた自宅の風呂に張る手間を考えると面倒だが、慣れてしまえば、そうでもないのかもしれない。
大きな道路に出たところで左折。やはりアスファルトの道は足に負担が大きい。

我慢して歩く。

手作りケーキの店「ぽっぽの木」はちょっとそそられたが、今回はパス(いつもパスばかりだけど)。

振り向けば、名もなき206mピーク。

左の少し細い車道に入る。
右手に愛宕山(183m)。

赤い鳥居が見えたので、ちょっと寄り道。

オオアラセイトウ。白い花もあるようだ。

(283)
登山口はヤマレコの情報では、この奥の寺の裏にあるらしい。

寺の門前の道とは1本それた道を来ちゃったが、寺も見ておきたい。
望遠で入口の六地蔵を確認。

寺には裏から入った。

そうしたら、犬に随分吠えられてしまった。


境内をひと回りしてみる。

瑞松山晈圓寺というらしい。

ガンダーラ仏を思わせる石仏。

奥には薬師堂があった。

では林道に戻り、行き止まりへ。

こちらにも禅寺らしきものがあった。
(287)
ちょうど作業に来ていた方がいたので、登山道はこの先の道でいいのか聞いてみた。

「ああ、通り抜けられるみたいだよ」
「いえ、通り抜けちゃうと困るんです。山頂に行きたいんで」
「そっか。でも、獣道のようなのがあったよ。ここ入っていってすぐ右に」
「そうですか。ありがとうございます」
読めない歌碑を2基、記録に納めてから、竹林に突入する。


確かにすぐ踏み跡らしきものが山腹に延びていた。

(つづく)
【2016年4月2日(土)】弓立山など
正午すぎ、雨乞山(340m)に登頂。

わりと広い山頂だが、くつろげる場所がない。

ちょうどお昼だけど、しばらく我慢することにした。

いい場所を探しつつ、とりあえず下山する。

わかりやすい道が北へ続いているが、このまま行くと、目指す川入集落とは離れて行ってしまう。

左に草の生えた旧林道らしきものがあるので、勘でそちらに進むことにする。

でも、道がつづら折りのように見えたので、いきなりショートカットし、斜面を駆け下る。

降り立った道を進むと、さっきの道と合流してしまった。

とにかく西へ西へと向かうような道を選択しながら高度を下げていく。

どうやら、いい方向になってきた。

通せんぼしている箇所では、素直に右折。

ちゃんと車道に出ることができた。

この道を左に少し登ると峠に出る。


峠からは車道を通らず、またショートカット。

すると廃屋が出てきた。


川入集落の最奥部の家だ。

こんな山奥にどんどん車が来るので、何事かと思ったら、この上谷の大クスというのがお目当てのようだ。

2月20日放送の「出没!アド街ック天国」で紹介されたらしい(11位)。

もう1か月半も経つのに、みんなよく覚えているなあ。

こちらはまず山村の風景を堪能。


そして大クスとやらを見上げる。

見に来た人がみんな「お~」と歓声を挙げていたが、さもありなん。確かにデカい。

昭和63年度に環境庁が実施した「みどりの国勢調査」では、全国巨木ランキング16位、埼玉県では第1位に認定されたという。

幹回り15m、高さ30mで、樹齢は1000年以上と推定されている。
暖かい地方によく見られるクスクキが関東の山間部でこのような大木に成長するのは極めてめずらしいとのこと。
県の天然記念物に指定されているが、国指定にしてもおかしくないのではないか。
まわりには見学用のテラスが設けられていた。

人の大きさと比べてみると、その巨大さがよく分かる。

根っこも流れる溶岩のようだ。

ふもとには小さな祠が祀られていた。いにしえより信仰の対象だったのだろう。

後ろに回りこんでみる。

すると、峠越えの細道があり、石碑が並んでいた。


いずれも江戸時代のものだ。
おっと、私の目的はクスノキではなかった。
六万部塚(308m)に向かわなくてはならない。いったん引き返す。
ここにも道標は全くないので、地形図を確認しながら、それらしき方向に向かう。
一面の蕗畑?を過ぎると

またしても石碑が並ぶ。



ということは、この道で間違いなさそうだ。
植林の中をわりとしっかりした踏み跡が続いている。

大クスから10分ほどで頂上に着いてしまった。

ここが六万部塚と呼ばれるピークだ。

308mと書かれているが、地形図では310mを超えている。
それはともかく、六万部とは法華経二十八品を繰り返し6万回にわたって唱えること。
これは、それを達成した人が建てた石碑なのだろうか。

碑文の書き出しが「六万部」であることは分かるが、ほぼ解読不能。時間もない。

ときがわ町のHPが転載した「新ハイキング」2013年12月号の記事によれば、「旅の僧がここに塚を築いて六万部のお経を納めた」といういわれが彫ってあるらしい。
そんな大量の経をここに埋められるものだろうか。
というより、経典を6万部も集めようがないではないか。
読めていないのに何だが、私は達成記念の供養塔と解釈したい。
ここはときがわ町と越生町の境界。比企郡と入間郡との境でもある。
「境」と彫られた石碑もひっそりと立っていた。

ここもあまり落ち着ける場所ではないが、お腹も空いたので、お昼にする。
メニューはいつもの通りコンビニおにぎり2個。
今日は、ホークソーセージマヨネーズと信州天然醤油使用の焼きおにぎりにした。


おにぎりとは合わないが、せっかくお湯を持ってきたので、カフェオレをいただく。

チエもくさんのカップは本当に重宝している。
これがわずかに覗けた眺望。

20分ほどで出発する。

ちょっと下ると、鉄塔の下に出る。

ここから北に見えたのは、さいたま梨花カントリークラブのクラブハウス。

背後の突起は364mピーク。
南に見えるのは関八州見晴台あたりだろうか。

その西の方はすでに雲の中だった。

本当はここから北に下らないといけなかったのだが、正面に踏み跡が見えたものだから、つられてそのまま西進してしまった。

イノシシの糞も踏み越えて、どんどん行くが、なかなか下りにならない。

あれれと思い、地図を見直すと、やはり行き過ぎていた。
しかし、鉄塔のところに下る道はあっただろうか。
戻ってみると、急な坂があるではないか。

5分ほどロスしてしまった。
この斜面は細かく砕けた石が一面に散乱していた。


奇妙な景観だった。
30mほど下ると、ようやく傾斜が落ち着いた。

そして渡渉。

かつては丸太の橋があったようだが、すでに朽ちていた。

この先は沢沿いを下る。


植林を抜けると、明るい山里に出た。


ツツジが満開。ちょっと早すぎるのではないか。

まさに春爛漫である。

ここは桃源郷のようなところだ。



ツバキやムスカリ、オオアラセイトウ、ハナニラもあちこちに咲いている。




振り返ると、鉄塔のあるピークが六万部塚。

山里の斜面にある細道を登っていく。

夏みかんもたわわに稔っていた。

庚申塔や祠が、ここが昔ながらの集落であることを物語っている。


実に美しい。


再び車道に出ると、そこはオンデマンドバスのバス停「十六石」。

いわくありげな地名だ。
もう弓立山(427m)の登りに入っているのだが、登山口がよく分からない。

登り口を探しながら、景色も楽しむ。

これは雨乞山(340m)。

雨乞山と六万部塚の鞍部から越上山(567m)が覗いていた。

(つづく)
【2016年4月2日(土)】
越生駅から弘法山(164m)に向かっている。
県道から脇道に入る。

沿道の小さな墓地に比留間良八(1841~1912年)の墓があった。

比留間は高麗郷(日高市)の生まれ。
その父、半蔵については昨年の「高麗郷・日和田山(1)」で触れた。
良八も甲源一刀流の名手で、一橋家に召し抱えられ、慶喜護衛のため上洛、鳥羽・伏見の戦いを経験した。
のちに彰義隊に加わり、上野戦争、飯能戦争を戦ったが敗れ、この近くに潜伏していたという。

明治5年に許され、近くの旧成瀬村で剣術指南をして生涯を閉じたとのこと。
家並みが切れ、弘法山(164m)の全景がよく見えるようになった。

ネックレスのように桜が帯状に咲いている。

西には奥武蔵の峰々が連なる。

美しい日本の田園風景だ。


いよいよ弘法山の観音様の参道に入る。

入口には古張庵の句碑。

碑面は読めなかったが、古張庵は越生出身の江戸時代の豪商。
句碑そのものも江戸時代のものだ。
参道は桜が満開。

晴れていれば、もっと青空に映えただろうに。



一つの木に紅白2種類の花が咲くのを初めて知った。

撃ち捨てられたバイク。今回はこうした廃車をよく見かけた。

観音堂の門前も満開。いい季節である。

階段を登る前にお勉強。

この山は古くは「高房山」と呼ばれ、当地の小字名も「高房」だそうだ。


観音堂の本尊の観音菩薩は弘法大師の作と伝えられることから、「弘法山」と表記されるようになったらしい。

江戸時代の『新編武蔵風土記稿』には、その眺望が詳述されている。

筑波山や房総半島の山並み、信州の山も見えたそうだが、今日は当然無理。
乳房をかたどったぬいぐるみを奉納する風習があるという。
乳の出がよくなるのだろうか。
武蔵越生七福神の弁財天も祀られている。
私は本日の安全を祈願した。

境内に子育て観世音。

そして馬頭観世音。

鐘?の供養塔。

その他の石塔群。

ここで軽くストレッチをしておく。

いよいよ登山開始。

標高差はふもとから80m。観音堂からは45mほど。

最後は諏訪神社の階段となる。

5分もかからずに頂上に到着。

もう一度参拝する。

眼下には越生の町並み。

南にたちはだかるのは大観山の裏側だ。

南西は越生梅林の方角。もう梅はすっかり終わってしまった。

灯籠は安永六年というから1777年。

狛犬もかなり古そうだ。

本殿の右後ろに回り込んでみる。

裏にも道があったが、どこに下りていくのは不明なので、色気は出さずに戻ることにする。
小腹が空いたので、歩きながらパンをかじる。

分岐を来た道と違う方に下ると、諏訪神社の鳥居に出た。

もう一度、観音堂の前を通って、越生梅林方面の近道を行く。

すると左手に墓地とお寺が見えてきた。


見正寺というようだ。

『新編武蔵風土記稿』にも紹介された由緒ある寺のようだが、今はひっそりしている。


寺に寄り道しなければ、ここから出てきたのだろう。

この先は車道歩き。途中に車地蔵なるものがあった。

字も判読できず、説明板もないので由来も分からない。
越生の特産品。


菜の花やスイセンが今は盛りだ。


奥武蔵の山々を眺めながらの、穏やかなハイキングだ。

分岐は左に進路をとる。

このすぐ先に田代三喜の生地というかなりくたびれた標柱があった。

「関東医祖古河公方侍医田代三喜翁之生家田代吉澤家 翁生誕四百年記念 昭和三十八年・・」とある。

説明板によると、田代三喜は室町時代の人。明に渡って、当時の名医月湖に師事し、金と元の二大医学を修めた。帰朝後は古河公方足利政氏の侍医になったという。
近隣の古い民家。

その先にある小さな橋は、その名も三喜橋。

梅はもう散っていたが、ムスカリがあちこちに咲き誇っていた。


越辺川の支流。

これはミツマタ。

配色だけではどこのバスか分からないが、広告から推測するに、横浜市営バスのようだ。

なぜ、ここに?
右手に雨乞山(340m)が見えてきた。

路傍に新旧いろんな石碑を見ながら、登山口を探す。




ツバキが満開!これはど迫力だった。

おっと、タヌキ君ではありませんか。


近づくとさすがに逃げてしまった。
毛が抜けて肌が露出しているが疥癬だろうか。かなり痩せているようにも見えた。
ちょっとした高台にある109.4mの三角点。

これが登山口の目印となっている。

ここからの展望。右端が大高取山(376m)。

中央の突起はおそらく越上山(566m)。

登山口には何の道標もないけど、たぶんここで間違いあるまい。

しっかりした道が続いていた。

しかし、きちんと整備されているわけではなく(「山と高原地図」には破線すらない)、かなり荒れている。


ただ、オリエンテーリングの標識はあるので大丈夫だ。

この先、傾斜が急になる。

一応この黄色いテープが山頂へと導いてくれているみたい。

標高差で170mほど登ると、285m標高点。

ここで尾根に乗り、右折すると、ほぼ平坦な道がしばらく続く。


と言っても道はあるような、ないような。


いったん鞍部に下り、リボンに導かれ、右に回り込む。

こんなところも通過しながら、最後の急登。


登山口から40分ほどで雨乞山の山頂に到着した。

(つづく)
【2016年4月2日(土)】弓立山
天気予報は曇り。照準を近場の低山に絞り、行き先はときがわ町の弓立山(427m)に決めた。
最初は、山と渓谷社の分県登山ガイド「埼玉県の山」のコース取りに従うつもりだったが、だんだん欲が出てきて、近くの山をしらみつぶしに登りたくなってきた。
「山と高原地図」にルート表示がない山も、ヤマレコで登っている人がいるのを確認。
そのルートを手持ちの地形図に落とし込み、弘法山→雨乞山→六万部塚→弓立山→金比羅山→愛宕山と回ることにした。
時間があれば、さらに北に展開する堂山や雷電山を周回してもいい。
下山後は「都幾の湯四季彩館」で入浴、バスで明覚駅まで行って、八高線・東武線を乗り継いで帰宅するという、かなり欲張りプランである。
先週の日曜日、晴れたのに休養日にしてしまったのが、やっぱり後を引いているみたいだ。
晴れていれば眺望が期待できるのは弓立山くらいなので、曇っていてもそれほどストレスを感じなくて済む山ばかりだ。
歩き始める越生駅までは新所沢駅から1時間ほどなので、ゆっくり出発することにした。
8:15新所沢発の電車に乗り、本川越→川越市、坂戸で乗り換え、越生には9:13着の予定だ。
ところが、ささいなことで、それが大きく(って程でもないが)狂ってしまった。
8:15の電車に乗るには、昼食調達の買い物の時間を含めて、7:55に自宅を出ればいい。
でも朝食も済ませ、早く準備ができたので、7:50に出発。
駅に着いて、改札に入った瞬間、気づいた。「あ、コンビニに寄るの忘れた!」
でも、早く着いた分、1本前の8:07発に乗れるから、差し引き8分間の余裕がある。
川越での乗り換え時にコンビニに寄ればいいや。
気にせず、電車に乗り、8:23本川越着。
いつもの通り、ぺぺを大回りして東武の川越市駅へ向かう。
駅前のファミマで昼食を調達。市駅に着いたのが8:40。

電光掲示板を見ると、森林公園行きの普通電車が8:41発。次が8:48発の急行小川町行き。
買い物したとは言え、+8分の余裕があったはずなので、そんなすぐの電車を駅探が指示しているわけがないと思い込み、余裕かましてトイレに寄った。
41分は見送って、48分の電車に乗ってわけだ。
坂戸に8:58に到着。
駅探では、坂戸駅で確か2分の待ち合わせのはずだったのに、9分もある。
あれ?って思いつつも、9:07発の越生行きに乗車。
到着予定の9:13になっても越生に着かないどころか、まだ駅が3つも4つもある。
ここで改めて駅探を検索して初めて、川越市駅で8:41発の電車に乗るべきだったと認識した。
結局、越生到着は予定より11分も遅い9:24。
家を予定より5分も早く出ただけに、なんとも悔しい。
原因は、本川越から川越市への乗り換えにあった。
よく見ると、駅探では乗り換え時間を6分しか設定していない。
以前は確か10分以上あったはずだ。
なんと、本川越駅に新しく西口ができ、ぺぺを回り込まなくても、まっすぐ川越市駅に向かう最短ルートができていたのだ(帰りに駅員に聞いたら、2月20日からオープンしているとのことだった)。
これは不覚。以前、本川越駅で工事をしていたような気もするし、改札を出てから、ちらっと左を見るだけで気づいたはずなのに。
わき目も振らずというのは、必ずしもよくないことを思い知った。
と言ってもまあ、遅れたのはたかだか10分。
山行に大きな影響が出るわけではない。
まずは越生駅で確認作業。

なんとホームの真ん中に11kmのキロポストがあった。

坂戸駅からの距離と思われるが、ホームにあるのはめずらしい。
乗ってきた車両はモハ82111。

いわゆる8000系という車両だが、カラーリングがレトロな印象。

8000系は1963年から1983年にかけて、私鉄では最多の712両が製造されたそうである。
越生駅前に降り立つ。

ここに来るのは関東地方に大雪が降った直後の2014年2月9日以来2年ぶり。
駅名標の書体が当時とは変わっていた。当時はゴシック体だった。
まずは越生町のマンホールをチェック。


こちらは越生、毛呂山、鳩山町の共用。

駅前の観光案内所に立ち寄って、ハイキングマップを入手しようと思ったが、棚にはなかったので、そのまま退出。
歓迎を受けて、歩き出す。

県道との交差点手前は広場になっていた。

2年前はここにまだ何か建っていたような気もするが定かではない。
ただ、こんな観光案内板は少なくともなかった。


一里飴はなめてみたかったのだが、1個1個では売ってないだろうし、1袋だと多すぎるだろうから、店には入らなかった。

この住吉屋、前回来た時は閉まっていたが、この日は開いていた。
やはりつぶれていたのではなかったのだ。
今日はしばらくメインストリートを歩くので、昔ながらの商店にも注意を払っていきたい。
町の本屋さんとして頑張っている「のとや書店」。

蔵造りの「まちだ」は何の店だったのかよく分からないが、まだ営業しているのだろうか。

カーブに位置するため、店頭に反射板が設置されている。

越生町の道路元標を発見。

大正8年(1919年)の旧道路法で道路の里程の起点となる「道路元標」を各市町村に1か所ずつ設けるよう定められたという。
その横に、かつての「和田横丁」の案内板があった。

越辺(おっぺ)川をはさんで北隣にある旧和田村(現・越生町大字西和田)への道が通じていたのが、名の由来。
大正時代から昭和初期にかけて公衆浴場があったことから「銭湯横丁」とも呼ばれたという。
この界隈がかつての市街地の中心だったとのこと。
お茶や海苔の「小松屋」。

現在のメインストリート。奥に見えるのは桜の名所、大観山。

国の登録有形文化財、金子家住宅。

生糸の仲買取引で財を成した越生屈指の豪商・嶋野伊右衛門によって、江戸末期の安政5年(1858年)に建てられた店舗及び住居である。
二七の市の跡。

越生町の中心部(江戸時代は今市村と呼ばれた)では、毎月6回、二と七の日に市が立ったという。
幕末の横浜開港以降は絹取引が盛んになり、明治・大正期に最盛期を迎えた。
旧越後屋・三井呉服店(現三越)出張所跡。

かつては、あの三越が出張所を置くほど、越生は賑わっていたのだ。

この家もかつては商家だったのだろう。

寿司・ちゃんこの満寿屋。

これで「あらじゅく」と読む。

曙会館跡。昭和21年に地元有志が開館した劇場。

昭和20年代後半からは映画上映が主となったが、42~43年頃に閉館した。
その隣に八幡神社跡。

駅前にある法恩寺の鎮守として奈良時代に勧請されたと伝えられる。
うちわ工房しまの。


柄に直交する肩竹をはめる渋団扇は越生の特産品だった。

「越生名物生絹に団扇 誰が着るやらつかふやら」
昭和8年(1933年)の八高線開通を祝して発表された野口雨情作詞の「越生小唄」にも唄われた。
最盛期には50軒ほどの団扇工房があったが、今では「しまの」1軒のみだとか。
里の駅おごせに立ち寄る。

ここでハイキングマップをゲットしたが、あまり役に立たなかった。
閉店したと思しき「すずもと食堂」。

茶舗改めクリーニング店なのか、まだ両方営業しているのか、はっきりしない。

梅最中、栗酒まんじゅうの梅泉堂。このカーテンの雰囲気はもう廃業しているのか。

ほぼ向かいにある菓子舗河田屋は現役。

このあたりは中心部から1kmほど離れているが、最盛期は商店がここまで続いていたのだろうか。
五大尊ツツジ公園も越生では人気の観光スポット。


ただし、ツツジにはまだ早い。
駅から20分ほど歩いて、やっと本日の1座目、弘法山(164m)が見えてきた。

手打ちうどん、だんごの黒田屋。

越辺川を高橋で渡る。


垣根にはシナレンギョウの花が咲いていた。

(つづく)