【2016年3月26日(土)】大山
見晴台から20分ほどで、二重滝橋が見えてきた。

その手前に、謎の岩穴。

昭和6年に徳島県の岡部兼蔵さんらが寄付したものだそうだ。

岩を掘ってて寄付するということは、何かに利用されたのだろう。
防空壕にしては狭いし、時期も早い。
神社の「物置」だったのか。
滝のほとりには二重社が建つ。

阿夫利神社の摂社で雨乞いの守護神だそうだ。
狛犬ならぬ狛龍。

これが二重滝。

上段から突如湧出しているというから驚く。

さっきの沢登りの方はここを遡っていったのだろうか。
関東大震災の前までは、ここに呪いの杉と呼ばれる樹齢1000年を超える老樹があったという。丑の刻には、わら人形を杉に打ち付けて、恨みを晴らしたらしい。
今はこの二本杉が当時の面影を伝えている。

ワンちゃんもさすがにへたりこんでいる。

みんな「かわい~」とおおはしゃぎ。
君のおかげで、みんな元気をもらったよ。お疲れ様でした。
二重滝橋を渡って、ケーブルの駅へと向かう。


この桟橋は一昨年来た時にはなかった。

崩落箇所に整備したのだろうが、このルートはどんどんものものしくなっていく。
登山者だけでなく、観光客も多いからやむを得ないのかもしれない。
道端にある大新稲荷神社を通過。

これで二重滝への道は終了。

茶屋の前に到達した。

そのまま、大山ケーブルの阿夫利神社駅(678m)へ。

下山者がかなり並んでおり、15時40分の便は満席で乗れなかった。

待ち時間を利用して、眺望を楽しむ。
高取山(556m)。

伊勢原市街。

ここからはテツの領域となる。

これは昨年10月に導入された新型車両だ。

大阪の工場で製造されて、まずは秦野まで30時間かけて陸送。
そこからヘリに吊り下げて大山ケーブル駅まで空輸し、座席などの取り付けは現地で行ったという。
設計は、関西国際空港旅客ターミナルや小田急ロマンスカー「VSE」などを手掛けた建築家の岡田憲明だそうだ。
大山観光電鉄さん、結構気合が入っている。
大山ケーブルの営業キロは800m、標高差は278m、定員78人。
初代のケーブルカー「たんざわ号」と「おおやま号」は昭和40年(1965年)の営業再開以来、50年にわたり活躍していたが、昨年5月17日をもって引退。
以後、車両のほか設備の大幅更新のため9月30日までの長期休業を経て、10月1日に装いも新たに再スタートを切った。
通常の運行は20分間隔だが、この日はお客さんも多いので15時50分に臨時便を出してくれた。

みんなは往復切符もしくはフリー切符があるが、私だけ持ってないので、片道630円の切符を買って乗車。
窓が大きく、かなり視界が広い。

トンネルを通過。

途中の大山寺駅で上り電車とすれ違い。


そして上に行ってしまいました。


所要6分で山麓の大山ケーブル駅に到着。
ペット用にケージを貸してくれていた。

駅から出たところに根之元神社。

古事記の神話に基づけば、悪縁を断ち切ってくれる神様だそうだ。

大山コマの顔はめがあったので、遊んでみた。

駅のすぐ下にある旅館元滝では赤と黄色のミツマタが競演。

かなり香りがきつかった。
こま参道をひやかしながら、さらに車道を下る。

16時半すぎに、400年の歴史がある宿坊の東學坊に到着。

ここで豆腐料理をいただくのだが、その前に入浴。
食事の人は、お風呂が無料とのことで、非常にありがたい(通常800円)。
露天風呂はなんと大山川を渡った対岸にあった。

そして、かなりの広さ。

5時までは男子の入浴タイムとのことなので、先に入らせてもらった。
あ~気持ちいい。おやじ声が漏れてしまう。
のんびりしたいところだが、女子も早く入れてあげたいので早々に内湯に転戦。
きれいな体になったところで、お部屋へ。
畳にイス席でとても楽だ。
私どもは3680円の「春の膳」を注文。



軽くビールを飲んだ後、七沢温泉の地酒「木花咲耶姫」をいただいた。

ここの豆腐は向かいの湧水工房で作った自家製だそうで、ものすごく柔らかい。
やはり、湯豆腐が一番おいしかった。
話にも花が咲き、食べ終わった頃にはもう7時を過ぎていた。
バスの時間を確認したら、7時4分に行ったばかり。
次は1時間後なので、伊勢原駅までタクシーに分乗して帰ることにした。
酔っていたので何時の電車に乗ったのか忘れてしまったが、登戸、府中本町、新秋津、所沢と間違えずに乗り継いで、夜の10時に帰宅した。
飲み過ぎたのか、食べ過ぎたのか、「明日は榛名山に行くぞ~」と宣言していたのに、翌朝は結局立ち上がれず、休養日になってしまった。
でも、気の合う仲間と歩いて、うまい料理と酒で締めくくる山はほんとにいいものだ。
【行程】
大山ケーブルバス停(8:36)~大山ケーブル駅(8:56)~下社(9:40トイレ、休憩、集合10:10)~十六丁目追分の碑(11:04)~富士見台(11:20)~大山山頂(11:56参拝、撮影、昼食13:15)~見晴台(14:37休憩14:57)~二重滝(15:22)~阿夫利神社駅(15:38)
※所要時間:7時間2分(歩行時間:約4時間20分)
※登った山:1座(新規なし)
※歩行距離:8.2km
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【2016年3月26日(土)】大山
山頂で1時間以上休んで、時間も午後1時を過ぎた。
そろそろ下山することにしよう。

帰りは見晴台方面、つまり雷ノ峰尾根を下ることにした。

大学時代に大山に登った時、この尾根を下ったはずなのだが、全く記憶にない。

つまり今回のルートは登りにしろ下りにしろ、実に新鮮だった。
しかし、こちらもつるつるじゃないだけマシだが、路面は泥でべちゃべちゃである、

湿地状態で完全にぬかるみになっているようなところは歩いたことがあるが、こういう整備された道で、こんな状態なのは初めてだ。

とにかく、ゆっくり慎重に下っていくしかない。

足を接地するのも柔らかくしないと、はねが飛んで面倒だ。

ふいに、右手のヤブの中からヘルメットをかぶった男女2人組が現れた。

沢登りをしてきたようだ。場所的に、大山川を遡ってきたのだろうか。
でも山頂には全く関心がないようで、登山道に出たら、息もつかずにさくさくと下っていった。

下山を始めた途端、晴れてきた。よくあることだが、やっぱり悔しい。

しばし、平坦な道が続く。



馬酔木にもエビのしっぽが生えていた。

ここは大山の肩。

振り返ると、大山のシルエットが見えた。

肩を過ぎたら、再び急な下り。


右手の展望が開けると、高取山(556m)が確認できた。

その手前には大山道の宿坊街が蛇行している。

阿夫利神社下社も背後から見ることができた。

間もなく、大山三峰(935m)や鐘ヶ嶽(561m)方面への分岐を通過。

下社までまだ3km以上もあるのか。

この時期にまだ雪渓が残っているのに驚いた。

高取山の西麓にある東京カントリー倶楽部。

高取山の向こうには湘南の山々。鷹取山(219m)あたりだろうか。

さあ、どんどん、どんどん下っていく。



このコンクリートの構造物は何だろう。

吊り橋の基礎に似ているが、そんなわけはない。謎のまま通過。

その他、奇観あれこれ。


岩場が出てきた。


40分ほど下ってきて、やっと泥んこから解放された気がする。


でも、トラバース気味の下りでクサリ場が出現。

みな慎重に下る。

かなり道幅の狭いところもあり、このあたりが雷ノ峰尾根の難所だろう。

ここを抜けると、一瞬だけほっとできる。

そして再び、岩のゴツゴツした下り、


ここを下り切ったところで小休止。

Sさんから、「あと50m下って、20m登ったら、見晴台」との案内がある。
もう少しだ。

右手には二重滝に向かう道がもう見えてきた。

最後の登り返し。

午後2時半すぎ、見晴台に到着。結構賑わっていた。

コースタイムは1時間だったが、ぬかるみがひどく1時間半近くかかってしまった。

ここは標高769m。

「山岳安全」と書かれた大きな石碑がある。

我々も休憩。久々にゆっくり座れた。
いよいよ、ここでMさん持参のイチゴが登場。ご苦労さまです。

とても甘くて好評だった。
それにしてもすっかり晴れてしまった。

ただ、ここからは富士山方面は全く見えず、大山三峰のみ記録にとどめた。

登山に来ていた他のグループの女の子が、ワンちゃんに興味津々。
随分汚れているのも気にせず、一生懸命かわいがっていた。
他にも犬を連れたグループがいたが、あちらは服を着ていて完全防備。
でも、全然汚れていなかったので、山頂までは行ってないのだろう。
2匹が近づいて、お互い体をすりすりしていたが、いきなりこちらのワンちゃんが吠えだして、びっくり。

犬もなかなか警戒心が強いのだ。
さて20分も休んでしまったので、そろそろ行きましょうか。

下社までは、下り基調の巻き道となる。

しばらく休んでいたせいもあるが、植林の中に入ると体がひんやりした。

途中、飛行機遭難者の頌徳碑を発見。

所沢陸軍飛行学校所属の第27期操縦学生沼田熊一さん(明治38年、兵庫県生まれ)が昭和3年8月8日、偵察機で訓練中、濃霧に遭遇し、当地に墜落したとのこと。合掌。
この道は手すりなどが厳重に整備されている。


近年、豪雨で崩落した場所もあるし、滑落事故も少なくないらしい。

崩落した箇所は新しくできた鉄橋で渡る。

今度は、注連縄がかけられた立派なスギの木を発見。


右側は別の種類の木だ。由来がありそうだが、何の説明板もない。
根元に築かれていた石垣は一部、崩落していた。

賽銭箱は1円玉や5円玉で山のようになっているので、信仰の対象なのだろう。

では先を急ごう。

(つづく)
【2016年3月26日(土)】大山
登り始めて1時間10分ほどで富士見台に到着した。

あいにくの天気なので、エア富士山で我慢する。

ここでみんなの注目を集めたのは、こちら。

これは何なのか、誰も全く分からなかった。
モヤモヤしたまま出発。

右手に伊勢原方面を遠望。

左には、木の芯にコンクリートで作った珍しい石仏。

もう剥がれ落ちてボロボロなので、針金で応急処置を施してあった。
「二十一丁目」(11:25)通過。

そしてすぐ「二十二丁目」(11:28)。

標高1102mと刻んであるので、あと150mちょっと。距離はあと600mだ。
ここで数分立ち休み。ベンチがあったが濡れて座れる状態ではなかった。
大山の参道には明治以降、多くの茶屋ができたそうで、ここにも「日の出茶屋」という店があったらしい。
ちなみに、下社から山頂までにあった茶屋は12軒。
列記してみると、5丁目「石屋」、8丁目「屋号不明」、10丁目「松葉屋」、13丁目「きくや」、14丁目「屋号不明」、15丁目「米屋」、16丁目「追分茶屋」、18丁目「屋号不明」、20丁目「富士見茶屋」、22丁目「日の出茶屋」、23丁目「えびすや」、28丁目「喜太郎茶屋」となる(「相州大山」より)。
そんな時代に歩いてみたかった。ただ、茶屋は登山道を挟むように建っており、登山客は茶屋の中を客引きにもまれながら歩いたという。
その後、登山客の装備が整い、ペットボトルやコンビニなどが普及するにつれ、茶屋で休む客が減り、経営者の高齢化や後継者不足もあって、徐々に廃業していったらしい。
一時は1軒もなくなってしまったが、平成14年に山頂で開業した大山山頂茶屋が元気に営業中だ。
いよいよ路面がぬかるんできた。

「二十三丁目」(11:37)の標柱は倒れて放置されていた。

標高が高くなり、路面はとうとう雪道に。

「二十四丁目」(11:40)付近は「縁結びの道」というらしい。

周囲の木の枝に願い事を書いた紙を親指と小指で結ぶと恋が叶うのだとか。
私も含め一同そんなこととはつゆ知らず、通り過ぎていく。

まあ、みんな50がらみなので縁のない話だが。
それにしても女子のおしゃべりは強烈だ(笑)。
登って疲れて口数が少なくなるどころか、どんどん話題が豊富になり、声も高くなる。
元気すぎる。
それにしても3月下旬の大山で雪景色を見られるなんて思いもしなかった。

間もなく、ヤビツ峠からの登山道と合流。

ここが「二十五丁目」(11:44)。標高1174mまで来た。

この先、やや傾斜が急になる。でも、頂上まで10分の表示も出た。もうひと踏ん張りだ。

「二十六丁目」(11:47)の標柱には「来迎谷」の表記がある。

御来光を拝む場所だったのだろうか。
あと残り2丁。

「二十七丁目」(11:51)の銅鳥居。

標柱に「御中道」とある。

富士山と同様、山腹を一周する道のことで、かつては夏山シーズンが終わると、下の門前町の有志が雑木を刈る「お刈りまし」を行ったという。
今も一部を除いて歩くことができるらしい。
さあ、最後の登りだが、路面がつるんつるん。

ここまで来てアイゼンを付けるのもばかばかしいので、みんな我慢しつつ慎重に登る。

そして、ようやく「二十八丁目」(11:54)、山頂部に到着した。下社から2時間かからなかった。

しかし周辺はガスで何も見えない。

お馴染みの灯籠たち。


頂上へ最後の階段を登る。

この標柱には標高1247mと記されているが、実際の標高は1252m。

阿夫利神社の本社に参拝。

無事登頂を感謝し、無事下山を祈る。

山頂の山名板のところで記念撮影。
初心者も含め、全員転倒や事故、疲労などもなく登頂できたのは幸いだった。
さて、昼飯をどこで食べるかが問題だ。
山頂付近はごったがえしているというほどではないが、泥のない落ち着ける場所はほぼ埋まっている。
親切なH君が、周辺に偵察に行ってくれ、一段下に空いているベンチを見付けてくれた。
しかし、そこもテーブルが濡れていたり何だりで、条件は必ずしもよくない。
女子には敷物を敷いて、ベンチに座ってもらい、男子は立ったままの食事となった。
私は下社近くの茶屋で買ったおにぎり。

すっかりつぶれていたが、さっき握ったばかりなのでおいしかった。
ポットを持ってきたのだが、カプセルホテルでお湯を入れてくるのを忘れてしまった。
Sさんにお湯を分けてもらい、チエもくカップで今日もロイヤルミルクティー。

これは温まった。
あとは、みんなで持ってきたおやつを分け合って、わいわいがやがや。
昼食後、初の大山だったKさんが用事があるということで先に下山することに。
あの雪道を一人で下るのは危険なので、2つ持ってきた軽アイゼンのうちチェーンアイゼンの方を提供した。
後で無事下山できたという知らせが届き、ホッとした。
そうこうしているうちに、下界が見えだし、ときどき青空も覗いたが、なかなかすっきりとは回復しない。
でも、一応風景は写真に納めなくては。
北東には鐘ヶ嶽(561m)。

その左に、大山三峰(935m)。

相模原方面。

この時期に低山では珍しく霧氷やエビのしっぽを鑑賞できた。


最後に、淡い期待を込めて、富士山のビューポイントに移動。
ああ、でもやっぱり三ノ塔(1205m)しか見えなかった。

塔ノ岳(1491m)でさえ雲の中。

みんなで残念がっていたところに、遅れて来ることになっていたMさんが到着。
ケーブルに乗ったという時間から計算して、我々が下山途中に合流するくらいかと想像していたのに、さすがに早い。
わざわざイチゴのパックを手に持って来てくれた。
トレラン用のザックだったので入れられなかったらしい。
しかし、みんな満腹でこれからまた何かを食べるという雰囲気ではない。
とはいえ、下りも手で持って歩くのは、少々危ない。
ここでも親切なHさんが「おれのザックなら入るよ」と運搬を引き受けてくれた。
彼はとても紳士である。
(つづく)
【2016年3月26日(土)】大山
10時ちょうど、阿夫利神社下社の前で総勢10人のうち、9人(+1匹)が集合。

もう一人は遅れて来て頂上近辺で合流の予定だ。

仰ぎ見ると、頂上付近はまだガスっているが、下界はわりとよく見える。

全員で記念写真を撮影したところで、10:10に出発。
まずはここで初穂料100円を支払い、自分たちでお祓いを済ませる。

大山に登るのは、これが4回目になるが、実はここから登るのは初めてだ。
過去3回はいずれもヤビツ峠から登った。
しかも、ここに下って来たのが、見晴台からだったり、蓑毛越からだったりして、この表参道は十六丁目までの区間だけ歩いたことがないことに気付いた。
道理で記憶がないはずだ。
登拝門をくぐる。

かつては夏季以外、この扉は閉ざされており、誰も登ることができなかったそうだ。
今は常時、半分開いていて、いつでも誰でも登ることができる。
この銅の鳥居は、享保四年(1719年)の製作で、江戸神田須田町の桝屋七郎兵衛らの寄進。

大山の「八の鳥居」に当たる。
いきなり急な階段。これを見て萎えてしまう人がかなりいるとのこと。

観光で来た人なら、さもありなん。114段もあるのだとか。
階段の途中に早くも「二丁目」(10:12)。登拝門が「一丁目」らしいが見落としてしまった。

登り切ると、旧白山神社の平坦地。

江戸四谷・佐藤屋伊兵衛寄進の石塔。

石垣を寄進したのを記念したもののようだ。
その奥には大きな句碑。

「豊作をたたへ大山仰ぎけり」
大正13年(1924年)松本生まれの俳人・医師滝沢伊代治の作品。
ここにもひっそりと石仏。

またしても、「二町目」の石柱。これは少し古い時代のもののようだ。

正面に、巨大な「阿夫利大神」の石塔。


苔の上には結構雪が残っている。

「三町目」(10:15)。

これは江戸時代に立てられたもので、「天保十年(1839年)六月 神田三河町四丁目陸天長蔵 取締御師相原但馬」とある。
こんなに次々と「町目石」が出てくるなんて、いくつあるんだろうと思ったら、28丁目で終わりだそうだ。

下社の上も、男坂に負けず劣らず険しい。

大山は修行の山だったわけだが、それにはそれなりの理由があるのだ。

「四丁目」通過(10:18)。

古い石柱の表記は「町」、新しいのは「丁」になっている。

続いて「五丁目」(10:20)。

初心者も混じっているが、改めて見ると、みなそれなりにきちんとした装備である。

先回りして、たまには前から撮影。

歩いているのは7人。私を含め8人。

ワンちゃんと飼い主さんは随分先に行ってしまったみたいだ。
それにしても大山は賑わっている。

この調子では、頂上はどんなことになっているのか。

だいぶ暑くなってきたので、このあたりで小休止。ダウンを着ていた人は脱ぐことにした。
「七丁目」通過(10:27)。「六丁目」は脇道を先回りしているうちに見逃してしまったようだ。

夫婦杉は「八丁目」(10:29)。


かなり大きい木だった。

「九丁目」(10:32)。1丁がほぼ2~3分のペースである。

「十丁目」(10:34)。新しいタイプの石柱は昭和41年7月の建立なので、今年でちょうど半世紀だ。

みんな現時点では順調(この先もずっと順調だった)。

「十一町目」(10:35)。この石柱は明治7年(1874年)3月の建立。もう140年以上経つ。

新しい「十一丁目」は少し離れた場所にあった。

このあたりから雪が目立ってきた。標高は約900m。


「十二丁目」(10:39)。約30分で200mほど登った計算になる。

石垣がある。ここには松本茶店(きくや)と呼ばれた茶屋があったそうだ。

旧「十三町目」。

たまには後ろを振り返ってみる。

「十三丁目」(10:42)。

登りに不安を覚えていたY子さんだが、なんと先行グループに追いついてしまうほど。

今週平日2回、練習のため山に行ったそうで、その成果が表れたようだ。
急斜面が続く。


久しぶりに展望が利く場所に出た。伊勢原方面が見える。

「十四丁目」(10:50)は、ぼたん岩地帯。

ぼたん岩とは、このあたりに散在する凝灰岩の球体の石のことで、牡丹の花のように見えることからそう呼ばれている。

玉ネギの皮がむけているようにも見えることから「タマネギ岩」とも呼ばれるらしく、岩石の風化現象の一つである。

牡丹というより、恐竜の卵の化石に見える。
みんな、「ここにも、ここにも」と歓声を上げながら通過した。
ここがほぼ中間地点ということになる。
小腹が空いてきたので、伊勢原駅前で買った地元のバターどらやきを歩きながら食べてしまった。

この先にかなりしっかりした石垣の遺構。

ここも茶屋の跡だろう。
「十五丁目」(10:55)には、天狗の鼻突き岩。


この岩の左端に拳が入るくらいの穴が開いている。
これは天狗が鼻を突き当てて開けた穴だと言われている。

中にお賽銭が詰まっていた。ほとんど1円玉と5円玉だったが。
ひと登りで「十六丁目」(11:04)。ここにはかつて追分茶屋があった。

蓑毛や浅間山に下る道との分岐点(追分)になっており、巨大な「十六丁目追分の碑」が立つ。

大山詣でを終えて、富士講の人や最乗寺に向かう人はここから右に下るわけだ。
碑は宝暦十一年(1761年)の建立で高さは3m68cmもある。
正面には「奉献石尊大権現大天狗・小天狗御寶前」、右側面に「従是右富士浅間道 東口冽走(すばしり)江十四里 小田原最乗寺江七里十町」、左側面に「新吉原町中 宿坊寶寿院」と刻まれている。


裏面には、奉献者の名前が連ねてあるようだが、判読しにくいので断念。

脇に「三十六丁目」の丁目石があったが、これは蓑毛からのものだろうか。

しばし、みんなで見学した後、また歩き始める。

新しく木道が整備されていた。以前はなかった。

新旧の石柱が向かい合っているという「十七丁目」はなぜか見落とし。

「十八丁目」(11:12)が出てきてしまった。

十六丁目から先はわりと明るい尾根道である。

「十九丁目」(11:15)通過。

これで3分の2まで登ってきたことになる。

期待の「二十丁目」(11:20)の富士見台はやはり何も見えなかった。

(つづく)
【2016年3月26日(土)】大山
大山ケーブルのバス停からこま参道を経て、大山ケーブル駅まで登ってきた。
ここから先は山道となる。
昨年暮れには女坂を登ったので今回は男坂を行く。

道は階段の途中で分岐している。

左の女坂は大山寺(不動大明王)を経由して、阿夫利神社に行く道だ。

この石段を登ったところに追分社(八意思兼社・やこころおもいかねしゃ)がある。

祭神の思兼神は、天の岩戸に隠れた天照大神を誘い出すため、知恵を授けた神様である。
「八意」とは、多くの知恵という意味だそうだ。
ここで本日の安全登山を祈願する。
この社に向かって右に急勾配の階段がある。男坂の始まりだ。

女坂も含め、ここから先はかつて女人禁制だった。
振り返ると、追分社の前にちょっとした平地がある。

ここにはもともと元禄年間に建立された前不動堂があったという。
階段は最初のうちだけだろうと、高をくくっていたら、下社まで延々と続いた。


「さすが男坂」と感じ入ったのだが、それより何より、これだけの石材を引き上げて、階段を組む労力に恐れ入った。信仰の力というものは畏敬に値する。


間もなく「三町目」の標柱があったが、これは前不動堂からの標識だろうか。

この先に、男坂三十三祠其ノ六「弁」という標識があった。

礎石らしきものも残っている。

標識の意味はよく分からないが、かつて男坂にはいくつもの堂社が置かれていたというから、その痕跡のことだろう。
全部で33か所あったうちの、下から数えて6番目ということか。
「弁」の文字は「弁天社」の略?
「新編相模国風土記稿」には、男坂に神明社、子権現社、秋葉社など26の堂社があったと記されているとのこと。
そのうちの一つなのだろうが、ちょっと標識が不親切だ。
かつて一般の参詣者は主に男坂を登ったらしい。

しかし、安政元年(1854年)の大火で、前不動堂も含め、これらの堂社はことごとく焼失してしまったという。


石の階段だけは、焼けずに残ったというわけだ。

今はケーブルで登ってしまう人が大半だろうが、歩くとすれば大山寺のある女坂を選ぶ人が多いのではないか。
昨年暮れに女坂を歩いた時と比べると、やはり男坂を歩いている人は格段に少ない。
道は階段だけでなく、岩を削って、平らに普請している箇所もある。

しかし、階段が途切れることはない。


しかも段差が大きいので、かなりももの筋肉を使う。


今度は「其ノ十六 愛」が出現。

ここには愛染堂があったのだろうか。

引き続き、びしびし登っていく。



と言ってもペースはゆっくり。心拍数があまり上がらない程度に。

途中にたまにはさまる緩斜面で、ひと息つける。



この平坦面にも何かあったのではないだろうか。看板はないけれど。

ただ、汗はさすがに出てくる。

急斜面では石段が崩落したのか、金属製の階段が設置されていた。

この階段を登ると、再び平坦面。


樹種の異なる木が絡み合っている。

こういうものには何か名前が付いていそうなものだが、男坂はそっけない。
女坂には「七不思議」とかいって、いろいろとアトラクションがあるのに。
それにしても、男坂の石段は容赦がない。

大山というのは実は険しい山だったのだと、今さらながら気づく。

考えてみたら、バス停の標高が約310m。
下社が約700mなので、男坂で標高差400m近く登らなければならない。

ケーブルの音が聞こえてきたと思ったら、大山ケーブルの中間点・大山寺駅の真上だった。

まだ半分か。追分社からここまで20分で来ているので、あと20分で下社に着く計算。

コースタイムは35分になっている。私のペースは40分なので、かなり速い想定だ。

だけど、ガンガン標高を稼げるので、あまり飽きない。


ペースを守って、一歩一歩足を上げていく。


標高600m付近で雪が現れた。

先週登った茅ヶ岳(1704m)では1400m地点だったので、ちょっとびっくり。
その後、寒い日が続いたので、最近の雪なのだろう。
石段ばかりで見ている方は飽きてきたのではないでしょうか。


もちろん、さっさと飛ばし読みしてもらって結構です。


「其ノ三十一」は「学」。

何があった場所なのか、さっぱり分からないので、気にせず進む。


仁王門の階段の手前で休んでいた外人さんのグループを追い越した。

この外人さんは、同じバスに乗っていた人で、大山ケーブルの手前の大山駅で下車した方々だ。
私がバス停近くで身支度をしている間にもう追い越して行って、追分社のところで彼らがストレッチをしている時に私が先行。
でも、写真を撮っている間に、また抜かれてしまったという、抜きつ抜かれつの関係なのだ。
仁王門前の石段はかなり精緻なまま残っている。

中段には石垣も残っていた。


かつての景観は「相中留恩略記」の「大山」などで知ることができるが、こんな山の中にこんな大伽藍が展開していたことに驚く。

すべて灰燼に帰してしまったのは実に惜しい。
まあ、残っていたとしても廃仏毀釈で明治には大半が破却されてしまったのだろうけど。
階段を登り切ると仁王門の礎石があった。

その奥には東屋が見えるが、ここがかつて大山を支配していた別当の住まい、八大坊上屋敷跡である。


今は石仏が1体ひっそりとたたずんでいるだけ。

何の遺構かは分からないが、コンクリートのようなので、八大坊とは関係ないかもしれない。

ミツマタが風に揺れていた。

ここには「万国忠霊塔」が立っている。

建立者は神道系の新興宗教「七曜会」の創始者・溝上恵照(1892~1984年)。
世界各国でお国のために忠節を尽くして倒れた勇士の霊を慰めるための施設だそうだ。
建立は昭和33年。
歌碑には「仰ぎ見る富士の高嶺の雪よりも清くちりにしますらをの友」とある。

歩き始めてから、ほぼ1時間。

だんだん、いろんな大山講の記念碑が並ぶようになってきた。


間もなく、女坂と合流。

このあたり石碑に取り囲まれているようだ。



平坦面があると、何かの遺構があったのではないかと気になるようになってきた。

阿夫利神社は儲けているのだろうから、かつての堂社の場所に「○○跡」という標柱を立ててほしいなあと思う。伊勢原市教育委員会でもいいのでお願い致します。
女坂と合流すると一気に人口が増えた。

右に行くと、二重滝、見晴台方面。

さっきから我慢していたのだが、やっとたどり着いた。

やはり昨日は食べ過ぎた。
しかし、ここでしばらく座っている間にすっかり体が冷えてしまった。
階段を登ると、下社は目の前。

茶屋のおばちゃんに声を掛けられたので、寄っていく。
食料を買わないといけないし、本隊が来るまで待たないといけないからちょうどいい。
食料はおにぎり(300円)があったので、それを購入。まだ温かかった。
しかし、湯のみで出されたのは、冷たい水だった。
大山湧水なのかもしれないが、ここは熱いお茶が欲しかった。
寒いので雨具の上にダウンを着込む。
ほどなく、本隊が到着したようで、呼びに来てくれた。
(つづく)
【2016年3月26日(土)】大山
この日の山行は高校の同級生Y子ちゃんの企画。
「顧問」を依頼されたので、同行させていただくことにした。
メンバーは同窓生を中心に総勢10人(男4人、女6人)。
小田急伊勢原駅に8時半集合、バスとケーブルを乗り継いで阿夫利神社下社から大山頂上(1252m)を目指すという計画だ。
しかし、私は大山ケーブル駅から下社までの男坂を歩いたことがないので、皆さんとは下社で合流することにして、先行することにした。
前夜は横浜・野毛で、高校の先輩の定年祝いの酒席があったので、それに参加。

横浜から所沢の自宅に帰って、翌朝また伊勢原まで遠征するのは難儀なので、そのまま横浜に泊まってしまうことにした。
宿は野毛の繁華街にあるカプセルホテル「ビジネスイン・ニューシティー」。
せっかく大浴場もあったのに、眠気が勝り、あっという間に沈没してしまった。
しこたま飲んで、〆ラーまでしてしまったので、とても風呂に入る元気がなかった。


それにしても、横浜にこんな昭和な飲み屋街があるなんて知らなかった。
しかも規模がでかい。気に入ってしまった。
翌朝は6時の目覚ましで起床。
二日酔いでもなく、わりとシャキッと起きることができた。
でも、大量の大○が出た。
6:30から朝食があったのだが、さすがに食べられず、6:40に出発。
早朝の野毛繁華街を興味深く徘徊しながら関内駅に向かう。
関内駅の手前に「吉田橋関門跡」なる石碑があった。

幕末、開国に伴って横浜港が開港すると、東海道と横浜港を結ぶ横浜路が開かれた。
この場所には「吉田橋」が架けられ、関門が設けられたそうだ。
これを境に、海側(馬車道側)を関内、陸側(伊勢佐木町側)を関外と呼ばれるようなったのだとか。
その関門も明治4年(1871年)には廃止されてしまったというから、「関内」という地名が生き残ったのは意外な感じもする。
関内からは6:55発の根岸線に乗る。

横浜で相鉄線に乗り換えて、終点の海老名まで。


小田急海老名駅では、ロマンスカー海老名駅停車記念の式典が終わったところだった。

北海道新幹線開業のこの日、小田急では一部のロマンスカーが海老名駅と伊勢原駅に停車するダイヤ改正が行われたのだ。
今回の山行メンバーの何人かは、その該当列車に乗って、現地入りすることになっている。
ちょっとした感慨を胸に、小田急に乗り換え。

伊勢原駅(7:59着)ではさらなる歓迎ムードで、大きな騒ぎになっていた。
この子は、伊勢原市のゆるキャラ「クルリン」。

地元の名産「大山コマ」を逆さにして頭にかぶっている。
クルリンとは、コマが回る擬態語から来ているのだろう。
ここでも式典が行われたようで、もう撤収作業が進んでいた。

武将姿の方々のお迎えを受けたが、これは太田道灌の墓が伊勢原にあることに関係があるのだろうか。

後でメンバーに聞いたところでは、太田道灌を主人公にしたNHK大河ドラマを実現すべく、署名運動をしていたのだそうだ。
この日は「てんきとくらす」の予報では晴れだったのに、あいにくの曇り。
ただ、車中から大山の山頂は見えていたので、晴れることを期待していた。
なのに、外に出たら雨が降り出した。ええっ、どうなってるの?。
とにかくバスに乗らないといけないのだが、この行列。

もちろん、丹沢の山々に行くバスは乗客があふれたらすぐに臨時便を出してくれるので心配はしていないが、ちょっとびっくり。
こんな桜の季節でも新緑の季節でも紅葉の季節でもないオフシーズンにこれだけの登山者を集めるとは、やはり大山とは大した山だ。
ロマンスカー効果がそれほど大きいとも思えない。
さすが、江戸時代から多くの参詣者で賑わった山だけある。
ところで、お腹が空いていなかったので、まだ朝食を食べていなかったし、わりと乗り継ぎが忙しかったこともあり、何も食料を買っていない。
ちょうど、バス停近くに露店が出ていて、おにぎりやらどら焼きを売っていたので、ここで調達することにした。
赤飯おにぎり2個パック200円と、クルリン印のバターどらやき1個150円。
お昼はたぶん下社の茶屋に何かあるだろうから、そこで買えばいいや。
この時間は、定刻8:05発のバスの前に、臨時の直行便を出してくれたようなので、そっちに乗った。
これを見送れば、もうすでに待機している定刻のバスで座れたかもしれないが、大した時間じゃないから気にしない。
車中では早速、赤飯のおにぎりをいただいた。

これで少しはお腹が落ち着いた。
バスは私が昨年暮れに歩いた大山道をほぼたどり、20分ほどで大山ケーブルに到着した。
運賃は310円。
下車すると、目の前に大山コマをモチーフにした、かながわ古道五十選「大山宿坊街」の石碑があった。

「かながわ名勝五十選」はあちこちで見かけるが、「古道五十選」なるものがあるなんて初めて知った。うち7つは各所からここに集まる「大山道」だそうだ。
それにしても雨は降り止むどころか雪になってきた。
本降りにはならないだろうが、用心して雨具の下も履いていくことにする。
前日着ていた衣類や着替えなどもあってザックがパンパンなので、少し身に付けないと弁当も入れられない。
15分ほどでザックの整理や身支度をして、8時半過ぎに出発。

4期下のSさん夫妻は車で来ているというので、駐車場に行って、まずは彼女たちに挨拶。
お二人はワンちゃんとともに、後発の本隊と一緒に登る予定だ。
まずは舗装された参道を大山ケーブル駅まで登る。
ここは昨年暮れに歩いた道だ。

ジンチョウゲやヤマユリ、キンモクセイなどが植えられて「香りの街道」とも呼んでいるようだが、まだ季節は早い。

間もなく、こま参道に入る。


前回もリポートしたが、今回は参道にある店舗をくまなく記録していくことにする。
まだ時間が早いので、シャッターが下りたままの店も少なくなかったが。
金子屋支店。


中村屋。

平の屋。

山ゆり。

大山で最も古い土産店、西の茶屋本店。

江戸時代には大山寺(現・阿夫利神社下社)の本坂入口西側で店を構えていたから、その名があるという。
大山うるわし本舗。

きゃらぶきの大津屋。

どれも美味しそう。帰りに買って帰ろうと思って忘れてしまった。

こちらは大山煎餅の雷神堂。


ハート形だから甘いのかと思ったら「大辛子」とある。

大判かつ手焼きではあるが、それにしてもちょっと高かった。
昭和な雰囲気のすぎやま食堂。玉こんにゃくがいい香りだった。

豆腐料理の小川屋。

う~ん、頂上付近ガスってるなあ。

旅館ねぎし。


大山こまを製造販売している数少ない代々木地師の店ゑびすや。


塚本みやげ店。

この時期、「大山とうふ味めぐりキャンペーン」を開催中だった。

参加店舗ではそれぞれのオリジナルメニューをどれも500円で提供している。
パンフレットをみると、どれも美味しそうで、山に登らず食べ歩きに来るだけでも価値があるように思えた。
いのしし鍋のかんき楼。

路傍の小さなお社。

最後に旅館元瀧。

小さな元瀧の「滝壺」にはコイがたくさん泳いでいた。

その脇に「竜神の神」。

大山川(鈴川)を渡って、さらに階段を登ると、大山ケーブル駅。

9時の始発に乗るべく登山者や観光客が行列をなしている。
これには学生時代(1983年10月30日)に大山登山に来た時に乗ったことがあるはずなのだが、全く記憶にない。
チケットが残ってないか探してみたが見つからなかった。
今回は下りで乗ることになるので、それも楽しみだ。
(つづく)
【2016年3月21日(月)】茅ヶ岳
女岩を通過して、急斜面を登攀中。


谷底に炭焼き窯を発見した。


標高1400mを超えたあたりで、ようやく雪を見ることができた。

今年は本当に少ない。
なおも急登が続くが、ここが踏ん張りどころ。


道がジグザクについているのがありがたい。


さあ、稜線が見えてきたぞ。


女岩から35分で尾根にのった。でも休まずに進む。

Yさんが「上で平らに歩いている人が見えたよ」と言っていたが、稜線もかなりの傾斜。

ほどなく、深田久弥終焉之地に出た。

みなで手を合わせる。1998年建立だった。27回忌ということか。

ここは梢の向こうに金峰山(2599m)を望むことができる場所だった。

少し登ると大日岩も見えた。

ロープ場を通過。

瑞牆山(2230m)も確認できた。

さらに10分ほどのアルバイトで茅ヶ岳山頂(1704m)に到着。

時刻は11:43。コースタイム2時間20分のところ、2時間35分ほどかかった。

休憩時間も含めれば、ほぼ標準タイムと言っていいだろう。

恒例により、眺望を堪能する。
北西、指呼の間に双耳峰の金ヶ岳(1764m)。右は南峰。

その左肩に八ヶ岳。赤岳(2899m)の山頂は雲の中。
北東に奥秩父の主脈。中央が金峰山。

左に瑞牆山と小川山(2418m)が重なって見え、右には北奥千丈岳(2601m)。
それぞれアップにしてみる。
右が北奥千丈岳、左が国師ヶ岳(2592m)。左端は大弛峠(2365m)。

金峰山山頂の五丈石と千代の吹上。

瑞牆山(左)と小川山(右)。

北は横尾山(1818m)。

その右に男山(左、1851m)と天狗山(右、1882m)。

またしても富士山は残念。今回はそれだけがツイていなかった。
ここで同窓会山岳部のおそろいのTシャツで写真に納まるため、近くにいた人にシャッターを押してもらう。
そのデザインを見て、「わあ北海道からですか?」と質問された。
「いいえ、1人を除いて、みんな東京近辺です。北海道の高校の同窓会仲間なんです」
「え~じゃあ、長い付き合いなんですね」
「いいえ、みんなここ数年です」
てな、調子でことごとく否定してしまった。
何だかちょっとおかしい。
さあ、お昼にしよう。
昨日より気温は低いはずだが、山頂はなぜか暖かい。日が当たると、うなじが熱く感じるほど。ランチには絶好の陽気だ。
O君が昨日食べた富士吉田のB級グルメ「吉田うどん」がうまかったというので、今日は「吉田うどん」のカップ麺にした。

それと、山梨限定の煮カツおにぎり。

これが、かなり美味しかった。地元限定とはもったいない。
食後は昨日も使った「チエもく」のカップでロイヤルミルクティー。
う~ん至福のひとときじゃ。
みんなでわいわい歓談しながら食べる山めしは本当に美味しいし楽しい。
単独行中心の看板を下ろすつもりはないが、時々こうした登山も交えていきたい。
そうこうしているうちに、遠くの雲がとれてきた。
甲斐駒(2967m)がりりしい岩壁を見せてくれた。

その左に鳳凰三山。

八ヶ岳もこの通り。

赤岳(右)と阿弥陀岳(左、2805m)の競演。

入笠山(1955m)も遠望できた。

忘れていたが、すぐ東には曲岳(1643m)。その右に升形山。

その奥のなだらかな稜線は遠見山(2234m)あたりだろうか。
北東をもう一度。直下の突起は中岩。男山・天狗山の右奥に御座山(2112m)。その手前の双耳峰は高登谷山(1862m)。

そのアップ。

これがうわさの立体方位盤。

みんなが触りすぎるものだから富士山と茅ヶ岳周辺はすっかり剥げてしまった。


どりゃ、1時間近くのんびりしたことだし、そろそろ行くべか。

「尾根道経由 深田公園」の方へ下る。

女岩コースと違って、やさしげな下りだ。


5分ほどで千本桜への下山道との分岐。

ここは直進する。

鈴を鳴らしたおばさんがぐいぐい登って行った。

また暑くなってきたので、上着を脱ぐ。もうすっかり春だ。

しばらく急坂を下る。


でも、地面の土が柔らかく、ショックが膝に来ない。
名付けて猿岩。

茅ヶ岳山頂を振り返る。

ヒオドシチョウ。成虫のまま越冬する蝶のようだ。

山頂から40分ほど下ると、広い防火帯に出た。

ここもジグザグに道がついており、歩きやすい。


途中、熟年の4人組が休んでいるところを通過。

山頂で一生懸命、山座同定していた方々だ。

こちらもそろそろ疲れてきた。


山頂から50分近く下ってきたところで一服。

来た道を振り返る。


休んでいる間に、さっきの熟年グループにまた先行されてしまった。

それを追うが、なかなか追いつかない。

山頂で「今年は薬師に行きたい」などと話していたので、かなりの健脚なのだろう。
それはともかく岩場があちこちに出てきた。



傾斜は相変わらず急である。


しかし防火帯歩きも30分で終了。


いったん林道に出る。


ちょっとだけ林道を歩いて、登ってきた道と合流。
あとは同じ道を引き返す。
行きで見た廃屋を今度はじっくり見学。



先に行ってしまった、みんなの後を追う。
午後2時過ぎ、駐車場に到着。所要約5時間。いい運動になった。
今日も後半はずっと晴れていたし、天候に恵まれた2日間だった。
ここで、おそろいのTシャツの後ろ姿を撮るため、全員整列。

胸と背中の両方にプリントしてあるが、いつも正面ばかりなので、背中が撮りたかったのだ。
では、汗を流すため、北杜市のハイジの村クララの湯に向かう。
本当は明野温泉太陽館という日帰り温泉に行くつもりだったが、歩きながらネット検索してみたら、ハイジの村で茅ヶ岳のバッジを売っているという情報を発見したので、バッジのコレクションをしているH君のため行き先を変更したのだ。
でも、ナビに従って行ってみると、何だか見覚えがあるところ。


受付の人に聞いてみると、一昨年に太陽館からクララの湯に変わったそうだ。

それはいいのだが、バッジは売っていなかった。
H君をぬか喜びさせて悪いことをした。
温泉は南アルプスが一望できる展望風呂。これはいい。


なんとようやく富士山も顔を出してくれた。

泉質は低張弱性アルカリ性高温泉で、源泉は45.1℃。ぬるぬるの美肌の湯だった。
でも30分もかからずに上がり、女子が上がるのを待つ間、展望台からの眺めを楽しむ。
裾野を広げる八ヶ岳。

右から甲斐駒、アサヨ峰(2799m)、鳳凰三山。

地蔵岳(2764m)のオベリスク(右端)もくっきり見える。

本日登ってきた茅ヶ岳(右)と金ヶ岳(左、1764m)。

これで本日の総括も終了。全員で韮崎駅に向かう。
H君は16:23発の特急あずさ24号に乗り、北海道へ。
MさんとIさんは16:38発のホリデー快速ビューやまなし号で帰京。
O君は車で裾野市の自宅へ。
私は渋滞を避けて、大月から松姫峠を越え、Yさんを青梅駅まで送り届けた。
途中、お腹が空いたので、御嶽駅前の中華料理店「東峯園」で五目炒飯を食べた。

ここは『山を下りたら山麓酒場』に載っていた店なので来てみたかったのだ。
というわけで8時過ぎには帰宅。
同窓生との山は最高である。
(おわり)
【2016年3月21日(月)】茅ヶ岳
高校同窓会山岳部の春の例会(3月20~21日)は山梨県の瑞牆山(2230m)と茅ヶ岳(1704m)に登った。
本稿では、茅ヶ岳の山行を紹介する。
茅ヶ岳に登るのは、2013年10月12日以来なので、ほぼ2年半ぶりとなる。
前回はキャンピカ明野ふれあいの里から金ヶ岳(1764m)も含めて登ったので、今回は深田公園からの周回コースとした。女岩経由の谷コースを登り、尾根道を下る。
そうすれば、同じ道をほとんど歩かないで済む。
茅ヶ岳は『日本百名山』の深田久弥(1903~1971年)終焉の地として知られている。
深田は昭和46年3月21日、親しい山の仲間たちとこの山に登り、頂上まであと十数分というところで、突然脳出血で倒れ、亡くなった。
仲間から「このあたりはイワカガミ咲いて、きれいです」と声をかけられ、「そうですか」と喜んでうなずいたのが最後の言葉だったという。
今日はまさに命日なのである。
計画を立てた当初はそんなことなど全然気づかなかったが、同級生のO君から「命日に登るなんて、さすがK君」と言われ、初めて認識した次第。
くしくも死後45年の追悼登山ということになってしまった。
ただ、同じ季節なのに、イワカガミは全然咲いていなかった。
もう盗掘され尽くしてしまったのだろうか。
命日ということで、深田信者が大勢集まるのではないかと、ちょっと心配したが、当然行列をなすというようなことはなかった。
でも、9時に登山口に着いた時点で、駐車場はほぼ満車。
30台くらいはあったのではないか。
深田公園は随分小さくて、ちょっと拍子抜けだった。
「百の頂に百の喜びあり」という自筆の石碑と、深田久弥に関する説明板、ふるびた東屋があるだけだった。
茅ヶ岳の名は、酸性土壌のため全山がカヤで覆われていることに由来するという。
金ヶ岳とセットで「ニセ八ツ」などと呼ばれるが、標高の低い茅ヶ岳だけが200名山に選ばれている。
これは明らかに、茅ヶ岳が深田終焉の地であることを意識した選定だろう。
深田本人が200名山を選ぶとしたら、おそらく選外だっただろうし、選ぶとしても標高の高い金ヶ岳の方にしたに違いない。
最初はだらだらとした登りが続き、ちょうどいいウォーミングアップになった。
女岩は崩落のため近づけなかったが、その直前からいきなり岩場の急登となる。
急坂は岩場を過ぎてからも延々と続き、一気に高度を稼ぐ。
かなりきついのだが、皆さん元気。いいペースで登れた。
尾根にのっても、全く楽にはならず、あと150mの登りが待っている。
その途中に、深田久弥終焉之地の小さな石碑が立つ。
前回は、頂上からこれを見るためだけに、標高差100mほどを下ってきたのだった。
ここで写真を撮っている間に、何組かの登山者をやりすごしたが、いずれもこの日が命日だと知っている様子はなかった。
混み合っていると思ったのは、命日だからではなく、連休だからというだけの理由かもしれない。
それでも頂上には4~5組の登山者が休んでいた。
眺望も富士山と白峰三山は前日に続いて見えなかったが、ほかはみな面白いほど見えた。
前日登った瑞牆山もおとなしく金峰山に従っていた。
下山路の尾根道は、下の駐車場の案内板に破線で書かれていたので、ちょっと不安はあったが、山頂の道標にしっかり「深田公園」と書いてあったので安心した。
(717)
女岩コースと違い歩きやすく、見通しのいい防火帯のあって楽しく下れた。
【行程】2016年3月21日
深田公園駐車場(9:06)~深田公園(9:11撮影9:15)~林道交差点(9:42)~女岩(10:25休憩10:30)~尾根(11:05)~深田久弥の碑(11:11撮影11:14)~茅ヶ岳(11:43昼食・撮影12:37)~千本桜分岐(12:43)~駐車場(14:12)
※所要時間:5時間6分(歩行時間:3時間45分)コースタイム:4時間15分
※登った山:1座(新規なし)
※歩行距離:6.9km
前夜すっかり酔っぱらったが、男3人みな6時前には起床。
窓の外を見ると、どんより曇っている。でも、茅ヶ岳の頂上は見える。
何とか持ちこたえてくれるといいが。
朝食は7時半でお願いしているので、それまでパッキングや歯磨きなどして準備を整える。
それも7時前には終了。
お腹が空いてきた。朝食は7時にしておけばよかった。
することもないので、少し早いが7時15分には食堂に下り、朝食を出してもらった。


この日は8:28韮崎着の電車で同期のYさんが合流するので、韮崎駅に迎えに行った。
早く着いたので、駐車場で待っていたら、彼女は1本前の電車に乗れたようで、もう駅の外に出てきていた。
というわけで本日のメンバー6人全員集合。
前日と同じセブン―イレブンで昼食を調達し、深田公園の登山口に向かう。
わりと近くて、9時前には登山口の駐車場に着いてしまった。

それぞれ出発の準備。昨日に比べるとかなり気温は低い。

でも、瑞牆山では1700m付近まで登ってもほとんど雪がなかったので、今日はたぶんアイゼンは使わないだろう。
みなスパッツを装着したが、私はレインウェアのズボンで済ませる。
登っている時はちょっとごわごわするが、止まって休むときに寒くならないから、こちらの方を愛用している。
ここのトイレは清潔で無料だった。

9時すぎに出発。

歩き始めた途端、日が差してきた。

昨日といい、今日といい、晴れ男H君の神通力は絶大だ。
みんな私の嗜好を知っていて、「おい、廃屋があるぞ」と教えてくれる。

理解してもらえて、ありがたいことだ。
すぐ先の分岐で、深田公園は左、登山道は右。
公園は登山道と反対方向だが、すぐそこに見えている。
やはり先に挨拶しておくべきであろう。

ここで、しっかり記念撮影。

振り返ると、茅ヶ岳の山頂を望むことができた。

さて、いよいよ登山開始である。

四駆の車なら通れるような幅の広い、なだらかな道をしばらく進む。


このあたりにも左に右に廃屋が目立つ。



すぐ暑くなってきたので、みんなで上着を脱ぐ。


だらだら登りなので、足慣らしにはちょうどいい。

白鳳会と韮崎ライオンズクラブが掛けたこの看板が、登山道の至るところにあった。

深田公園から30分弱歩いたところで舗装された林道を横断。

道は少しずつ傾斜が出てきた感じ。


岩も目立ってきた。


苔むした岩が独特の景観をつくっている。


しばらくして、先行のカップルに追いついた。


日が差したり隠れたりだが、冬枯れで明るい谷だ。

速足のおじいさんに抜かれる。地元の人だろうか。何度も登っている人という印象だった。

またさらに暑くなってきた人がいたので、しばし立ち休み。

「山と高原地図」には載っていなかった水場。

「これはあまり飲みたくないなあ」との声が上がった。

しかし、地図に掲載されている女岩の水場は現在、近寄れないようだ。
ケルンの連続する箇所を通過。


だんだん傾斜が増してきた。


気にせず、どんどん登っていく。


一度くらいは振り返る。

もうすぐ女岩だ。


登山口から1時間20分ほどで女岩に到着。

しかし、女岩の手前50mで立ち入り禁止。

奥の様子はうかがい知れないが、かなり崩落しているようだ。

ここで小休止。

一人だったら女岩まで探検に行ったかもしれないが、今回は団体行動なので止めておく。
どれ、それじゃあ、行くとしますか。


岩場を登って、女岩を高い位置からのぞき込んでみたが、やはりよく見えなかった。


それにしても急な坂だ。

まさによじ登る感じ。

これは女岩の迂回路なので、やむを得ないのか。
高巻きを終えると、間もなく平和な道になった。

(つづく)
【2016年3月20日(日)】瑞牆山
13:10、瑞牆山(2230m)に登頂。所要時間は3時間ちょっと。
コースタイムは2時間50分なので、休憩時間を考えれば、ほぼコースタイム通りだった。

頂上には、もう雪がないのではと思っていたが、かなり残っていた。

とりあえず眺望をカメラに収めていく。
私はこれが楽しみで山に登っているようなものなのだ。
まずは東側の岩稜。


西側の岩稜。


その他、岩峰の数々。



南東には金峰山(2599m)。


金峰山の左奥に朝日岳(2579m)。

五丈石から千代ノ吹上にかけての稜線。

さらに下がると砂払ノ頭(2317m)。

北東には小川山(2418m)。


北には天狗山(右、1882m)と男山(左、1851m)

手前の岩稜は大双里(約2110m)の西にある1986mピーク。
アップにしてみよう。

天狗山の右奥に御座山(2112m)。

西には八ヶ岳が展開する。

赤岳(2899m)の山腹には清里スキー場が見える。

その手前中央は横尾山(1818m)、右に女山(1734m)、左は飯盛山(1643m)。
南には飯森山(2116m)。その右奥から鷹見岩(2093m)が覗く。

南西の眼下に鋸岩。


結局、富士山と南アルプスは見えなかった。
南アルプスは、朝方は見えていたのにすっかり霞んでしまい残念。
ひと通り撮影を済ませたところで、遅めの昼食にする。
今日は煮干醤油ヌードル。コンビニでいい加減に選んだのだが、これは美味しくて、つゆも楽々飲み干してしまった。


それと、しらすのおにぎり。

他のメンバーも、カップ麺が多かった。
いやあ、それにしても風もなく、暖かい。
ダウンを着る必要など全くなく、レインウェアで十分だった。
おやつを分けてもらったりして、1時間近くのんびりランチを楽しんだ。
穏やかな山頂だった。
午後2時過ぎ、下山開始。楽園に別れを告げる。

雪道らしいところは、山頂直下の北面のみ。


尾根から谷へ。

びしばし下っていく。


登りではあまり意識しなかったが、途中、シャクナゲの大群落があった。

クサリ場も下りはより慎重に。


飯森山を正面に見る。

いったん休憩を入れて、もうひと踏ん張り。

この階段を下ると、氷瀑。


下りも思い切って、氷の上を歩いてみた。

全く危なくなかった。

引き続き、順調。

ほぼ1時間で桃太郎岩まで下りてきた。コースタイム通り。


ここで一服。

ここでH君から、北海道の干し芋を分けてもらった。

これは口の中の水分を持ってかれないので、山ではとても重宝すると薦められた。
10分ほどで出発。
天鳥川の渡渉は、わずか数時間で雪がすっかり解けていて、びっくり。

危うく、水にちゃぷんと入るところだった。

ここから標高差60mほどの登り返し。最後の試練だ。
一気に登り切る。

この先はトラバース気味にゆるやかに登る。

泥がつかないよう、土が見えた途端、アイゼンを外した。

再び、富士見平小屋で小休止。

金峰山方面にある大日小屋に泊まる場合は、ここで手続きが必要のようだ。

やはり富士山は見えなかった。

ここで、もう一度、用足し。

あとはまっすぐ下るだけだ。


下り始めて間もなく、先頭のMさんが泥でスリップして尻餅。
身を呈して、滑りやすいところを教えてくれた。
登りでも見た瑞牆山の雄姿。

この先、急な下りがしばらく続く。

里宮参道という道標があるのだが、どこに里宮があるのかわからない。

登りの時は、登山道そのもののことだと思っていたが、山頂まで往復してきたけど何もなかった。
この先かなと思って、ちょっと登山道を外れてみたら、それらしきものがあった。
他の4人には「先に行っててね」と伝えて、ひとり探索に。

このお宮は、かつて村人が奈良・大峰の金峰山から山の神を奉迎して祭ったものだそうだ。

現在の祠は昭和45年に再建したもの。
参拝していたら、女性陣が興味を持って来てくれた。
「無事下山のお礼をしなくちゃ」とのこと。えらい!
この間に、男性陣2人は先に行ってしまったようだ。

我々3人も後を追う。巨岩の中の道を下り、林道を横断する。


登山口はもうすぐそこだ。


というわけで、午後4時20分に山荘に到着。

お疲れ様でした。
私とH君、Mさんの3人は翌日の茅ヶ岳(1704m)登山のため韮崎に泊まる予定だが、AさんとYさんは日帰り。
日帰りの2人のために、増富の湯に寄るつもりだったが、2人は我々が宿に着く時間が遅くなるのを気にして遠慮してくれたのか、「風呂は入らなくていい」とのこと。
とくにYさんは、このくらいでは汗をかいていないらしい。
さすが、トレラン大会の常時入賞選手だけある。
お二人を韮崎駅に送り届けて、宿の清水屋旅館へ。
ちょっと迷ったが、午後5時45分頃、無事たどりついた。


ちょうど旧韮崎宿本陣跡の向かいだった。

二人帰ってしまったが、入れ替わりで別の二人が宿に先着していた。
Mさんと同期のIさんと、私の同期のおなじみO君である。
IさんとO君は初対面だが、二人とも部屋飲みですっかりいい気分になっていた。
早く晩飯にしたいところだったが、お風呂が男女共用で1か所しかなく、先客を待たねばならぬ。
待つ間、当方も部屋飲みに合流して、あれこれ語らった。
こちらも女子→男子の順に入ったので、みんな風呂から上がったのは7時前。
さっそく、食堂に下りて、夕食とした。

ビールは部屋で十分飲んでいたので、ここでは熱燗を注文。
追加で頼んだほうとうがまた美味しかった。
北海道のH君にとっては初めてのほうとうだったが、気に入ってもらえたようだ。
食後は部屋に戻って、10時すぎまで宴会は続いた。
エアコン2つ付けて、湯沸かし器も作動させたら、ブレーカーが上がってしまい、真っ暗になるというアクシデントもあったが、実に楽しい夜。
修学旅行のようだった。
(茅ヶ岳につづく)
【2016年3月20日(日)】瑞牆山
水場のすぐ上が富士見平小屋。コースタイム通り、ほぼ50分で到着した。

ここは金峰山(2599m)と瑞牆山(2230m)との分岐点に当たる。

緩斜面が広くテン場になっていた。

本来なら、ここから富士山が見えるはずなのだが、今回も残念賞。

とりあえず100円払って、小用を済ませ、このベンチで休憩。

同窓生に木工をやっている後輩がいて、彼女の作品を買ってきたばかりだったので、この日がデビュー戦。

ポットのお湯でロイヤルミルクティーをいただく。美味。
材質は北海道のハンノキ。そんなに重くもなく、保温力もある。いい買い物をした。
この場所はちょうど南斜面なので、いい陽気。風もなくぽかぽかだ。
でも、こんな明るい雰囲気からは想像もできないような事件が今から33年前、ここで起こった。
事件の概略はこうだ(ウィキペディアなどより)。
昭和58年9月4日、東京都内のOL、Sさん(当時22歳)の家族から、娘が前日の3日早朝、瑞牆山に1人で登山に行ったきり、帰宅予定の4日夜になっても戻ってこないと警察に届け出があった。
山梨県警韮崎署が捜索したところ、同月19日、富士見平小屋から北東に2~300mほど離れた登山道下の山林でSさんの遺体を発見した。
韮崎署は他殺と事故の両面から捜査を開始。富士見平小屋の管理人T(当時50歳)に事情を聴いたところ、Tは「Sさんは3日午後4時頃に山小屋にきたが、5時頃呼びにきた若い男と一緒に出て行った」と答えた。
しかし、その後、この日に限って管理人が宿泊名簿をつけていないことが判明。当日夜、助けを求める女性の悲鳴を聞いたという登山者の証言や、以前この山小屋を利用した女性が管理人に襲われそうになったという情報も得た。
このため韮崎署は9月23日、Tに任意同行を求めて取り調べた結果、殺害を認めたため、同日逮捕した。
起訴状によると、Tは9月3日夜、同小屋に泊まった会社員Sさんが小屋の外に出たところを襲い、乱暴しようとした。しかしSさんに激しく抵抗されたため、襟首をつかんで今井さんの体を宙づり状態にして窒息死させた。Tは翌朝、犯行を隠そうとSさんの遺体を小屋から百数十メートル離れた山林内に運んで捨てた。
Tは両親と妻、娘の5人暮し。前年から、増富ラジウム温泉観光協会経営の同小屋で管理人を務めていた。性格は無口でおとなしいが、以前から山小屋で女性に悪戯したとの噂は絶えなかったらしい。地元では女性登山者に対して富士見平小屋には泊まらないように注意する人もいたのだとか。
Tは公判途中から「3人組の犯行だ」と否認に転じたが、裁判所には認められなかった。
被疑者は翌年10月の控訴審で、婦女暴行致死、遺体遺棄などの罪で1審より重い懲役13年(求刑同15年)の実刑判決を受け、服役。平成9年に出所している。
まだ生きているのだろうか。生きていたとしたら83歳だ。
こんなことがあるから、女性の単独行はとくに危険だと言われてしまうのである。
Tは山梨県山岳連盟所属のベテランだったそうだ。
その後、富士見平小屋がどうなったのかは、よく分からない。
2009年9月に管理人が不在になり、閉鎖されていたが、2011年に再開したという記事は出てくるので、事件後も別の管理人に代わって営業を続けていたのかもしれない。
それにしても、こんな事件のことなどもう全く知らない登山者がほとんどだろう。
ただ、富士見平小屋に泊まろうとして検索すると、この事件の話は必ず上の方に出てくる。
小屋に泊まることを検討する人は否応なく知ってしまう情報だ。
気味悪がって宿泊を取りやめる人もいるかもしれない。
風評被害はネット時代になった今の方が実は大きいのではないか。
そんなイメージを覆そうと、この小屋は必死に努力しているように見える。
小屋自体は古いが、玄関は明るい雰囲気にしつらえている。

こんな明るいイメージの看板もあるし。

食事のメニューも豊富で、人気も高いと聞く。

山小屋初の地ビールも開発してしまった。

ネットを見ると、「小屋番の方の態度が悪い」というログがやはり上の方に出ているが、負けずに頑張ってほしい。
というわけで、15分ほど休んで出発。

ケルンを抜けて、尾根から沢へトラバース気味に下っていく。

北斜面なので、路面にはアイスバーンがあちこちに出現。
しばらく我慢したが、転ぶ前にアイゼンを付けることにした。

この先、ほとんど凍結していたので、早めに付けておいてよかった。

個人的には、この時アイゼンを付けて歩ける喜びをひしひしと感じた。
骨折のせいで足首を覆うような登山靴が履けなくなり、ずっと雪道は避けてきたからだ。
骨を固定していた金具を1月に抜去してから、ようやく痛みがなくなり、靴が履けるようになった。
氷を噛むガリガリという音と感触が実に気持ちよかった。

沢に近づくと、一気に高度を下げる。

ここはアイゼンなしではとても歩けなかっただろう。

みな危なげなく下り、天鳥川に出た。


川面はまだ雪に覆われているが、その下はちゃんと水が流れている。


無事に渡渉して、ちょっと登ると、目の前に巨大な桃太郎岩が現れた。


その名の通り、桃がぱっくり割れているように見える。

転落の衝撃で割れたのか、この位置で何かの衝撃、浸食によって割れたのか。
それにしても自然の力は想像を超えている。
この石が転がってしまわないよう、つっかえ棒がたくさん立てられていた(笑)

さて、ここからが本番。谷の中の道を詰め上げていく。

5分ほどで、階段状になった氷瀑が現れた。

面白いのでピッケルを取り出し、この上を歩いてみることにした。

アイゼンがよく刺さるので、ピッケルは必要ないくらいだった。

気温が高くなり、このあたりはガリガリではなくザクザクという感触だった。

しばらく急坂が続く。

この谷にも巨石はふつうにある。


日の当たる場所はすっかり雪も解けている。

天気はほぼ快晴だ。

この巨石は細い枝2本で支えられている。

岩だらけ。


飯森山(2116m)の左に金峰山が見えてきた。

五丈石もくっきり。

クサリ場出現。

雪もザクザク。

標高2000m付近で小休止。乾徳山の時に続きMさんからスアマの配給を受ける。

さあ、鋸岩が見えてきた。と思ったら、その手前の岩だった。


私も1本、つっかえてみた。

いよいよ核心部。傾斜もかなりきつくなる。

巨石も折り重なるようになってきた。



健脚の女性陣。

「小鋸岩」と名付けてみたが、それにしても大きい。


そして、あれが頂上。まだ、もう少しあるなあ。

足元にはつらら。

巨岩の後ろにもう1本さらに大きい岩峰が見えてきた。

岩の表面に薄く氷が張った岩場。


クサリがあるけど、かなり怖い。

次から次へと巨岩が現れる。

これは本物の鋸岩。

さあ、最後の登り。


鋸岩とほぼ同じ高さまで来た。


頂上のとなりにある岩壁。


これが見えると、ようやく尾根に乗る。

頂上の裏側(北側)に回り込んで、クサリ場をへつる。


その次はロープ。

そしてはしご。

これを越えれば、頂上に躍り出る。

前回と違って、晴れ渡っている。

360度の大パノラマが待っていた。
(つづく)
【2016年3月20日(日)】瑞牆山
瑞牆山(2230m)に登るのは、ほぼ4年ぶりである。
前回は2012年の6月30日、梅雨の間隙をついて訪ねた。
しかし、山頂はガスでほとんど何も見えず。下山してから晴れ渡るという悔しい思いをした。
いつかリベンジを果たそうと思っていたが、その機会がやってきた。
高校の同窓生H君が3月の連休で上京するので、どこかに登りたいというのである。
せっかく北海道からわざわざ来てくれるのだから、やはり名山にお連れしたい。
といって、本格的な雪山に案内できるほどの技術もないので、そろそろ雪も解けかかっているであろうこの山を選んだわけだ。
時間の制約もあり、今回は瑞牆山荘からのピストンとした。
周回コースをとると6時間近くかかるが、ピストンだと5時間で済む。
ピストンはあまり好きではないが、周回コースは前回歩いているし、今回ピストンにすることで、これまで歩いていない道を歩くこともできる。
何の問題もないのだ。
瑞牆山は言わずと知れた日本百名山である。
標高はそれほど高くはないし、すぐ西にある名峰金峰山(2595m)に隠れて、実は目立たない存在だ。
しかし、近づいて見ると、その奇観に驚かない者はいないだろう。
ニョキニョキと林立する岩峰群。
遠望すれば、その峨々たる山容に目を見張り、近づけば、その巨大な岩の迫力に圧倒される。
あれを一つ一つ登らなくても、頂上にたどり着けるのが奇跡のようだ。
そびえる岩峰は黒雲母花崗岩で、それぞれ鋸岩とか大ヤスリ岩、トサカ岩などの名前が付けられている。
この姿に心を動かされたのは、深田だけではなかったようで、詩人の尾崎喜八(1892~1974年)は随筆「花崗岩の国のイマアジュ」(『山の絵本』所収)で瑞牆山のことを「清浄明潔な花崗岩の金字塔」と讃えている。
また、俳人の前田普羅(1884~1954年)も「茅枯れてみずがき山は蒼天に入る」の句を詠んでいる(1917年来訪)。
それにしても、「瑞牆」というのは難しい名称だ。
パソコンによっては変換してくれない。
深田久弥も『日本百名山』の中で、「昔の人はこんな凝った名前をつけない」と指摘している。
同著によると、地元では瑞牆山のことをもともと「瘤岩」と呼んでいたそうである。
瑞牆とは神社の周囲の垣根のことだが、山名の由来について、深田はこう想像している。
「三つの山稜が集まるところを三繋ぎと呼ぶことがある。瑞牆山は、金峰山から小川山に至る山稜の途中から西に派生した尾根上の突起である。山稜が三つに分かれるところが、三繋ぎと呼ばれ、そのミツナギが聞き誤られ、ミズガキという風流な名前に」なったのではないかと。
また、江戸後期に成立した『甲斐国志』をおそらく引いて、「金峰山を玉塁(たまがき)とした古図があるそうで、小尾・比志の里人は金峰山の麓を指して瑞塁(みずがき)と呼んだという。瑞牆の名はそこから来たのかもしれない」とも記している。
「瑞牆」という文字を用いたのは、明治38年(1905年)以後のことで、当時の山梨県知事だった武田千代三郎だとされる。
今年は雪が少なかったので、あまり心配していなかったのだが、登山日の1週間前に雪が降った。
木曜日(18日)になって瑞牆山荘に問い合わせると、積雪は多いところで20cm、日陰は凍結しているという。
週の後半はかなりの陽気になるので、降った雪がシャーベット状になって、靴がビチャビチャになるのではないかと心配していたが、実際に行ってみると、状況は想像と随分違った。
北斜面や日陰はアイスバーンで、アイゼンガリガリ、それ以外はすっかり雪が解けて、土や岩が露出していた。
全面的に雪が積もっていてくれた方が余程楽だっただろう。
でも、今回のメンバー5人のうち、アイゼンデビューだった人もいたが、とくに問題はなかった。
そうそう、今回のメンバーは私とH君のほかに、高校の後輩の女性2人(MさんとYさん)、そしてH君の小中学校の同級生で現在町田在住のAさんの計5人。
Aさんは初対面。Yさんと一緒に山に登るのは初めてである。
今回から趣向を変えて、ここで行程を掲示しておこう。
【行程】2016年3月20日
瑞牆山荘(10:07)~林道交差点(10:29)~富士見平小屋(10:56休憩11:11)~桃太郎岩(11:44)~瑞牆山(13:10昼食14:05)~桃太郎岩(15:03休憩15:12)~富士見平小屋(15:36休憩15:46)~瑞牆山荘(16:22)
※所要時間:5時間15分(歩行時間:3時間35分)コースタイム:5時間
※登った山:1座(新規なし)
※歩行距離:5.9km
当日は5時過ぎに起床。5:45に出発した。
今回は同乗者が多いので、愛車のパジェロミニではなく、家内の車(車名は忘れた)。
やはり普通車は疲れないので、ありがたい。
小仏トンネルを抜けると、雨がポツポツ落ちてきて富士山も見えなかったが、甲府盆地はきれいに晴れ渡っていた。
甲斐駒も八ヶ岳もよく見える。これはうれしい。

途中、双葉SAでトイレ休憩。
待ち合わせ場所の韮崎駅には8時過ぎに到着。

昨年ノーベル生理学・医学賞を受賞した、地元出身の大村智博士の幟が町のあちこちにはためいている。

ここは「武田の里」「サッカーの町」で売り出していたはずだが、すっかり大村博士に席巻されてしまったかのようだ。

さて、女性陣2人は8:28着の普通列車で到着。
男性陣2人は8:37着の特急スーパーあずさ1号で顔を見せた。
これで全員集合。
初対面のAさんと軽く挨拶を交わし、市内のコンビニで昼食を調達、一路登山口の瑞牆山荘に向かう。
いよいよ近づいて、瑞牆山の山容が見えると、一同から「お~」と声が上がった。
完璧に晴れている。私のリベンジも無事に果たせそうだ。
山荘の駐車場には9:40頃に到着。

金峰山に行く人の車もあるのだろうが、奥の駐車場も含めて、かなりの台数が止まっていた。
バス停を発見。
ここへのバスの運行は廃止になったと思っていたが、再開したのか、私の単なる勘違いだったのか。

夏季だけのようだが、山梨峡北交通が韮崎駅から毎日6~7往復も運行している。
北杜市の「ハイジの村」を経由するので1時間15分もかかるけど。
標高はすでに標高1520m。そこそこ雪が残っているかと思ったら、驚いたことに全くない。


ちょっと拍子抜けした。
しかし、入れるはずのトイレが冬季閉鎖のため使用できず。

ほかの面々は、山荘で150円払って用を済ませたが、私は靴を脱ぐのが面倒なので、もう少し上の富士見平小屋まで我慢することにした。
登山届を提出して10時過ぎに出発。

山頂までのコースタイムは2時間50分だ。

アイゼン要らずのなだらかな道を快調に進んでいく。


しかし、この日は甲府で20℃近くまで上がったぽかぽか陽気。
あっという間に暑くなって、すぐに着替えタイム。
私の脅しに従って、防寒具をあれこれ用意してきたH君は額から汗をぽたぽた落としていた。すいません。
左手の浅い谷には、巨大な岩がゴロゴロしている。

これなどは、女王蜂というか、「風の谷のナウシカ」のオームというか。

すぐに谷だけでなく、もう至るところ、巨石だらけ。


こんなのが転がってきたら、ひとたまりもない。

傾斜も徐々にきつくなってきた。

歩き始めて20分ほどで林道と交差。

この道はもちろん一般車両は通行禁止。
富士見平小屋の従業員の車が使う道だ。
これを使えば、林道終点から10分かからずに富士見平小屋にたどり着ける。
さて、ここからもぐいぐい登りが続く。


巨岩の間をすり抜ける。

標高1700mあたりで、やっと雪にお目見え。

1722mの標高点がある平坦地に出ると、木々の向こうに瑞牆山の雄姿が姿を現した。

ここでも一同歓声。写真では分かりにくいが、実に格好いい。
鋸岩(左)と山頂(右)をアップにしてみた。

その左側の岩稜。

この先少しずつ雪が目立つようになってきたが、登山道には影響なし。

しばらくは勾配も落ち着いた感じだ。


林道の終点には、やはり車が1台止まっていた。

このあたりは、やまなしの森林100選「富士見平のミズナラ林」だった。

さらに、黙々と進む。

足元にも雪が出てきた。

間もなく、水場「富士見平湧水」に到着。

凍結せずに、しっかりと湧いていた。

私も手ですくって一口だけ飲んでみた。思ったほど冷たくなかった。
たぶん水温はほとんど変わらないだろうから、夏はめちゃめちゃ冷たくて気持ちがいいのだろう。
地面には缶ビールが冷やしてあった。

テン泊の方々のものだろうか。
(つづく)
【2016年3月13日(日)】釜ノ沢五峰
秩父札所三十二番法性寺の奥の院まで登ってきた。
あのてっぺんに大日如来はいらっしゃる。

どうして、わざわざあんなところに安置するのかなあと呆れるほど。

ここは危険回避のため、ザックもおろして、身軽にして臨んだ。

怖いので途中の写真はなく、いきなり拝顔。

これを撮るのも、全体重をかけると折れてしまいそうな細い手すりに捕まりながら。

一応、上まで上がって、手を合わせる。

足をすくませながら、展望も押さえておいた。


下りももちろん後ろ向きで。
昔の人は信仰も命がけである。
登山道を進むと、奥の院の岩山のてっぺんに出た。

これを「岩船山」山頂と見なしていいのだろうか。
道はさらに登る。

間もなく分岐に出た。

正規の道はここから左へ巻いているが、それではどのピークにも達しない。
地形図を見ると、このまま尾根を直登すれば、478mの三角点に達することが分かった。
新・分県登山ガイド「埼玉県の山」(山と渓谷社)に出ていた般若山はここかもしれないと思い、登ってみる。
幸い、鉄塔の横から踏み跡があった。

しかし、よかったのは最初だけで、道はどんどん荒れ、しかも急になる。

10分程度のアルバイトだったが、斜面は滑るし、トゲのある木に邪魔されてかなり難儀した。
軍手は、へばりつく植物の種かなんかでこんな状態。

一つ一つ取り除くのに随分時間がかかった。
三角点は四等だった。

山名板はなく、ここが般若山かどうかは不明。
でも木々が伐採されていたので、展望は開けていた。
棒のすぐ右に見える突起が四阿屋山(772m)。

その左奥に両神山(1723m)が見えるはずだが、雲の中。
長若近辺など下界の集落。



中央左が秩父御岳山(1081m)、その右手前が猪狩山(822m)。

一番目立つはずの武甲山(1304m)も雲の中だった。



帰宅して「埼玉県の山」をもう一度よく読むと、般若山というピークはなく、このあたりの山全体の総称だということだった。
であれば、あの三角点をもって般若山に登ったことにしよう。
この先も正規の道ではないが、とにかく次のピークまで登る。


このまま進むと釜ノ沢五峰に行ってしまうので、ここで左折して急な尾根を下る。

途中、尾根を行くべきなのに、谷に下りてしまいそうになったりして、この付近では何度も地図ロイドのお世話になった。
鉄塔に出ると、いきなりしっかりした道に。

でも、どこで巻き道が合流してきたのか。全然気づかなかった。
あの雄々しい山も同定不能。

ここから尾根を離れて、右側の谷へ下る。
巨岩の岩陰を通る。

かなり急な下り。

谷に達すると見覚えのあるなめ滝が。

いやあ、なんか随分早く下ってこられたなあ。
ラッキー!と思ったが、何か違う。さっきのなめ滝はこんな角度で写真は撮れなかった。

道標を見ても、どうも記憶と異なる。

釜ノ沢への標識が谷の下ではなく、尾根に向かっているではないか。

そもそも、道は谷の下には通じていない。
地形図を確認して、合点がいった。
下山するにはもうひと尾根越えなければいけなかったのだ。
この道は階段になっており、よく整備してあって助かったのだが、もう着いたと思った後だけに、気分的にはきつかった。

階段を登り切ると、また開けた鉄塔の下に出た。

この先はしばらく尾根歩き。

そして、ふと左を見てびっくり。

亀の頭のような巨岩でできた山がある。ものすごい景観だ。

これを見てピンときた。

法性寺の前に書かれていた「亀ヶ岳」とはあれのことだ。
つまり、ここの標識に書かれている「亀ヶ岳展望台」というのは、亀ヶ岳にある展望台ではなく、亀ヶ岳を望む展望台のことだったのだ。

亀ヶ岳という山を1つ稼げるかなと思ったが、それは叶わなかった。
あとはほんとに下るだけ。
と思ったら、またまたクサリ場。

最後まで楽しませてくれる山だこと。

こんなけばけばしいキノコにも目を見張った。


この下にも、もう1か所、亀ヶ岳展望台があった。


雨乞岩洞穴なるところが、すぐそこに見えたので寄り道。


中は広いのかもしれないが、とても入る気にはならない小さな穴だった。


ここからひと下りで里に出た。

釜ノ沢五峰の登山道に合流するかと思ったら、長若山荘の裏だった。
時刻は14時半。コースタイム1時間50分のところ、2時間以上も要した。
見どころが多かったし、ヤブこぎもしたので、まあそんなもんか。

早く下りて来られたら、14時半で日帰り入浴タイムが終わってしまう柴原温泉の柳屋旅館に行くつもりだったが、こんな時間ではとても無理。
そういう時のために考えておいた巴川温泉に向かう。
しかし、「山と高原地図」に書かれている地点にお目当ての巴川荘はなく、迷いに迷った挙句、とうとう電話を入れて確認。
近くだったけど意外な場所にあった。20分近くロスした気がする。

「日帰り入浴やってますか」との質問に、電話に出たご主人は「ああ、まあやってますよ」という何か気のない返事だったが、宿に着くと、てきぱきと案内をしてくれた。
入浴料は700円。
期待した通り、独り占めだった。

単純アルカリ泉だが、浴槽の檜は樹齢2000年の古代檜だという。
鉱泉なので加温してある。
湯温もちょうどよく、私にしては随分長湯をした。
「上がり湯」を使うときは水を出しっぱなしにすると段々温かくなりますのでと言われたが、全部温泉の湯を使って体を洗った。
十分温まって16時前においとま。入れ違いに高齢女性2人がお風呂に入りに来ていた。
ご主人が「(駅まで)送りますよ」と言ったら、2人は「助かるわ~」と喜んでいた。
バスの時間が合わず困っていたのかもしれない。
こちらはマイカーなので、その心配はない。
国道299号は順調だったが、所沢市内でいつものとおり渋滞、帰路に2時間かかり18時ちょうどに帰宅した。
【行程】2016年3月13日
登山口(8:57)~一ノ峰(9:21)~二ノ峰(9:29)~三ノ峰(9:40)~四ノ峰(9:49)~五ノ峰(9:58)~布沢峠(10:10)~中ノ沢分岐(10:29)~文殊峠(10:32撮影10:46)~竜神山(11:00)~賽の洞窟(11:17)~兎岩(11:31)~キャンプ場(11:42)~長若山荘(12:01昼食12:21)~法性寺(12:41)~お船観音(13:24)~般若山(13:54)~亀ヶ岳展望台~(14:21)~長若山荘(14:34)
※所要時間:5時間37分(歩行時間:5時間23分):コースタイム:4時間50分
※登った山:5座(釜ノ沢五峰、中ノ沢ノ頭、竜神山、岩船山、般若山)
※歩行距離:8.4km
【2016年3月13日(日)】釜ノ沢五峰
釜ノ沢五峰から下山し、自分の車の中で昼食。
20分ほど休んで、今度は般若コースを歩く。

秩父札所三十二番法性寺までは舗装道路を歩く。
登りじゃないので体が温まらない。結局、途中でダウンを着込んだ。
釜ノ沢の集落にもいくつか廃屋があった。


道祖神と弁財天も。


梅の木がぽつんぽつんと山村を彩っていた。


県道に出たら左折。

正面に紅白・大小の梅の妙。

沿道にあった秩父大神社を参拝していく。

鳥居がなかなか渋い。

ここは聖天宮とも呼ばれて親しまれているという。

本殿は寛政八年(1798年)に再建されたものだそうだ。

境内に、わりと大きい石の祠が2基あった。


近くに「長若自然休養村」の案内図。かなり年季が入っている。

廃屋&廃橋。


馬頭観世音。

いよいよ法性寺の世界へ。


ここは秩父札所巡礼の道。

今日は冷え込んでいるけど、福寿草の季節になった。

ジオパークの案内板。「タフォニ」という言葉を初めて知った。

ここから北の里山にもハイキングコースがあるようだが、それはまたの機会に。

大日峠も今回はパス。

ここは小鹿野観光八景の一つのようだが、亀ヶ岳とは何だ?

また「登った山」が稼げるかな?と、ちょっぴり期待が高まる。
法性寺の楼門はとてもかっこいい。
「般若山」と山号が書かれた扁額が掲げられている。

この地に嫁いだ娘が里帰りの折、水辺で怪魚に襲われた。
そこ笠を被った女性が船を漕いで近づき、娘を救ったという。
その女性は法性寺本尊の化身で、それを知った娘の父は三日三晩、般若心経を写経し、この寺の観音菩薩に深く帰依したという。
それが、この寺の山号の由来であり、このあたりの集落の地名「般若」の由来だ。
楼門をくぐると、長い階段。

右手に六地蔵。

石垣が立派だ。


本堂。


その前にある奥の院遥拝所に立つと

はるか上の方にお船観音が望めた。


船の上に乗っているように見えるというのがその名の由来であろうが、その建立は宝暦年間(18世紀半ば)にさかのぼるという。江戸神田講中の寄進らしい。
しかし、太平洋戦争の際に供出の憂き目に遭い、今の観音様は昭和46年に再建されたものだという。

さすがに秩父札所ということで、いろんなかわいいグッズが売店で販売されていたが、誰もいないし、それほど興味がないので、スルーしてしまった。

本堂のすぐ奥には、巨大な一枚岩が露出している。

そこには、いろんな石碑が並んでいた。



(全景)
さらに階段を登っていく。


毘沙門堂。

深山幽谷に分け入っていくムード満点だ。


本堂と毘沙門堂を振り返る。


観音堂への参道。



舞台づくりの建築でかなり迫力がある。宝永四年(1707年)の建立。


石で成り立っている景観には魅せられる。

観音堂は土足禁止だったので、参拝は断念。登山靴なので脱ぐのはちょっと面倒なのだ。
奥に回ってみて、その光景にびっくり。


これが、噂のタフォニか。
岩石から浸みだした塩類が水分の蒸発によって結晶となり、岩石の表面を崩していく現象だそうだ。なぜ蜂の巣状になるのかは、さっきの説明板だけでは分からなかった。

石塔やお堂も含めて、この景観を完成させている。

この寺はなかなか見所が多いぞ。
今度は胎内くぐりのように巨岩の間をすり抜けていく。


その先もぐいぐい登る。


一枚岩が多いので、岩を削った階段があちこちにある。

今度はなんだ?「龍虎岩 胎内観音」?

見上げると、屏風絵の雲のような形の穴が。

ここもクサリで登る。釜ノ沢五峰と違って、足場を穿ってくれているので助かった。

登ってみると、胎内観音が横向きに祀られていた。

それにしてもユニークな穴の開き方だ。

これが自然にできたということ自体驚きである。

下りはやはり怖い。ちゃんと後ろ向きで下った。

改めてみると、あの蛇みたいな顔を龍に見立てているのだろうか。

濡れていて座れないので通過。

この巨岩は沈没した船のようだ。


奥の院へ続く月光坂。


年代不詳。顔が欠けているのは廃仏毀釈か。

またまた岩階段。

それが延々続く。

登り切ると、岩陰に掘っ立て小屋。

中には何もなかったが、お堂なのだろうか。
でも横には石仏が十数体並ぶ。


そのうちの二つは明らかに顔の部分が復元してある。バランスがかなりおかしい。


ここからお船観音まで40m。「岩船観音」とあるのは、この山のことを岩船山というかららしい。「登った山」に数えてもいいだろうか。

お船にあたる岩は、北面が断崖。

観音様はその一番下に立っていた。

岩の上を歩いても行けるのだろうが、この日は湿っていて滑って転ぶと転落死する怖れがあるので、脇の道を歩いた。

観音様を仰ぎ見る。

きれいなお顔だが、左目から涙が出ていた。

眼下に本堂。


聖天集落。

北は赤久縄山とか父不見山あたりなのだが、どのピークなのか特定できない。

それでは大日如来へ向かおう。


(つづく)
【2016年3月13日(日)】釜ノ沢五峰
中ノ沢ノ頭(590m)から数分下る。


すると、峠の手前に金精神社が姿を現す。

ここでしばし休憩。座るところはないが、ザックからタオルを取り出して、顔を拭く。
汗もさることながら、木の上から落ちてくる雪のしずくが激しいのだ。
落ち着いたところで参拝。

ここは日光の金精神社から勧請してきたのだそうだ。

鳥居の前に出ると、舗装道路が通っている。ここが文殊峠。

峠には小屋があって、その前に車が2台止まっており、小屋の外に靴が2足あった。
誰かいるのは間違いないが物音がしない。
すぐ上に長若天体観測所があるので、昨夜徹夜で観測していた人がまだ寝ているのか。

調べてみたら、前夜、文殊星倶楽部による定例観測会が開かれていたらしい。
晴れていれば、確かに観測条件のよさそうな場所だ。
せっかくなので私も観測所に行ってみた。

1986年の開設とのこと。設置者の一人に長若山荘が名を連ねている。

一般に開放しているとのことだが、鍵は閉まっていた。

まあ当然だろう。開けっ放しにしていたら、いたずらされるに決まっている。
仮に望遠鏡を覗けても、今は昼だし、厚い雲だし、何も見えない。
ただ景色はすこぶるよかった。

晴れていれば言うことないのだが。

これは中ノ沢ノ頭。

東屋があったが、やはり止まると寒いので休憩はしなかった。

さっきの分岐まで戻り、周回コースに復帰する。

まずは100mほどの下り。


鞍部は中ノ沢林道への分岐になっている。

当方は直進する。

一気に直登すれば竜神山(539m)。山名板があって、うれしい。

四等三角点があった。

この先も80mほど下る。

この小ピークが見えた時に、踏み跡が右へトラバースしていたので、それに従った。

しかし、これがひどい道だった。道に平らな面がほとんどない上に、かなり滑る。

潅木などにつかまりながら、ほうほうの呈で通過したが、再び尾根にのると、しっかりした道がピークから下りてきていている。
ご丁寧に道標まであった。

なんとトラバースではなく直進が正しい道だったのだ。
わざわざ危ない道を選んでしまった。まだまだ若いわ。
悔しいので、この小ピークに登ってみた。

木々のすきまから布沢の集落が見えた。

鉄塔を通過。

これはさすがに巻くでしょう。

右に巻くと、岩陰が「賽の洞窟」になっていた。

奥には独特の浸食現象タフォニが見られた。

しばらくは岩陰の道を下る。

木も自分がそう育ったらいいか分からない感じ。

タフォニも浸食が進むと岩に穴を開けてしまうようだ。


この先はロープ場。

これをつたって岩の上に出る。

360度の展望が広がった。



反対側に下ってみると、こんな岩だった。

ほんの少し礫岩のヤセ尾根を歩くと、兎岩が現れた。


両側にクサリの手すりがついているのだが、それでも恐ろしい。

接地面が斜めになっている上に濡れている。
スリップしないよう、中腰で体勢を低くしながら、おそるおそる下った。

岩が乾いていて、登りだったらなんてことなかったのだろうけど。

でも景色は抜群だった。
さっき歩いた釜ノ沢五峰の稜線。

外秩父方面。

南にそびえる標高475mの岩稜。

ここから一気に急坂を下ると、舗装された林道に出た。

林道釜の沢伊豆沢線である。

目の前にキャンプ場の管理棟。

キャンプ場自体がどこにあるのかは、よく分からなかった。
沢に沿って林道を下る。

まもなく巨大な一枚岩が現れると、林道布沢線との分岐。


「巳」の下はよく判読できないが、「待」だろう。

巳の日に遅くまで起きていて精進供養する「巳待」のために建立した供養塔だ。
庚申塔や二十三夜塔などと同種のものだ。
反対側には石仏が激しくコケを生やしていた。

水道関係施設の廃虚。


小さな沢の入口に灯籠のような石造物があったが、奥をのぞいても祠らしきものは確認できなかった。

墓地と割れ石を通過。


次は神社。

惶根(かしこね)神社というそうだ。初めて聞く名前だ。

惶根尊は神世七代中の第6代の神で、男神の面足尊(おもだるのみこと)とともに生まれた女神だそうだ。
なぜ、ここにそんな珍しい神様を祀る神社があるのだろう。

これは上が欠けている。これも「巳待」か。もしくは「月待供養」だろうか。昭和9年の建立だ。

その向かいの巨岩の上には「百三十二部塔」。

こちらは文政元年(1818年)の六十六部供養塔。数字はちょうど半分だ。

「六十六部」とは、全国66か国を巡礼して、1国1か所の霊場に自ら書写した法華経を1部ずつ納経する行者のことをいい、「六部」とも「廻国聖」とも呼ばれる。
「六十六部供養塔」は、それを満願結縁したことを記念して建立したもの。
この村出身の行者が日本一周を達成したということなのだろう。
「百三十二部」はその倍だから、日本を2周したのか、それとも2部ずつ納経したのか。
いずれにしろ、鎌倉時代以降、こうして全国を歩き回った修行者がたくさんいたことは間違いない。
ようやく釜ノ沢の集落に戻ってきた。

集落の最奥には大きな養豚場があった。

ピーピー、ルフルフといった豚の鳴き声が響いていた。
コースタイム通り、ほぼ3時間で長若山荘に戻ってきた。
ちょうどお昼なので、少々味気ないが車の中でお昼を食べることにする。
その方が寒くないし、落ち着く。
本日は、いくらのおにぎりとお稲荷さん。

おにぎりとは合わないけど、ホットココアもいただいた。

ここで本日の山行は終了ということにすれば、14時半で終了してしまう柴原温泉に行けるのだが、やはりこれで帰ってしまうのはもったいない。
法性寺・般若コースも歩いてしまうことにした。
(つづく)
【2016年3月13日(日)】釜ノ沢五峰
この日は翌週に控えた高校同窓生の山岳部例会(瑞牆山&茅ヶ岳)に備え、近くにある標高が同程度の横尾山(1818m)に積雪の具合を見に行くつもりだった。
でも、金曜日は里に冷たい雨が降り、山には新雪が積もったのが確実なので、「下見」は中止。
たぶん、登山口である信州峠まで車で行くことも困難だっただろう。
天気予報も曇りで今イチなので、近場の低山に行くことにして、地図とにらめっこ。
秩父の釜ノ沢五峰に行くことにした。
当日は6時に起床。7時に出発した。今回は車だ。
秩父までは国道299号。その先は秩父ミューズパークを経由して、登山口のある長若山荘には8:40に到着した。

この旅館の駐車場に車を止めさせてもらうため、挨拶に行ったら、宿のご主人はかなり高齢の方だった。

ガイドブックに書かれていた通り、条件なしでOKしてくれた。
釜ノ沢五峰の登山道はこの方が整備して下さったらしい。
駐車場の横にある離れの建物の玄関に手書きの地図が置いてあり、「ご自由にお持ちください」とあった。親切な方だ。
なぜかこの旅館には古い貨車が置いてあった。

気温は5℃程度だったが、風もなくそれほど寒く感じなかったので、ダウンは脱いでウインドシェルで出発。

ストレッチをするのを忘れたので、ここで軽く膝の屈伸と足首回し。
いきなり滑りそうな木の橋を渡る。

ものすごく太い手すり(笑)

最初のうちは、沢に沿って登る。

しっかり道普請しているという感じではないが、歩くには困らない。

間もなく、「般若コース」(法性寺方面)への分岐を通過する。

山自体が大きな岩でできている印象で、なめ滝が多い。

大きな岩もゴロゴロしている。



5分ほどで沢を離れ、尾根への急坂となる。


湿った植林でコケが見事だ。

山腹にも岩が多い。


これなどは、かなりの巨岩である。

しばらく、急登が続く。


山歩きは1週間ぶりだから通常の間隔なのだが、今日はやや体が重い気がする。

10分ほどで尾根にのった。

あの岩峰が一ノ峰かと思ったら違った。さすがにあれは登れない。

尾根にのっても、引き続き道は険しい。

間もなく、右手が開けた。

標高の高いところには雪が積もっているようだ。

そのまま滑りそうな一枚岩を進むと

ピークでも何でもない場所で、一ノ峰に出た。

見晴らしがいい場所ということで、石碑を設置したのだろう。

地衣類のせいで「二の峰」に見えるけど。

本当のピークはすぐ先にあった。

展望には恵まれず。

少し下って、すぐにまた登り。五峰もあるのだから覚悟しなくては。

二ノ峰は巻き道もあるようだが、ピークを省略するわけにはいかない。

礫岩の急登が待っている。


でも、すぐに二ノ峰。

ここはかなり開けていた。

ただ、こんな天気なのであまり遠望はきかない。
正面に竜神山(467m)らしきピークが見えるだけだった。
ここの下りが、垂直なクサリ場。

岩が湿っているのでスリップしそう。相当緊張を強いられた。

改めて振り返ってみると、ものすごい岩だ。

地面に下りると、再び植林の道。

そして、また登り。

岩は砂岩か礫岩なので、そんなに滑らないはずだが油断は禁物。

三ノ峰の登りで初めて、積雪に遭遇した。

二ノ峰から10分かからずに三ノ峰。


どの「峰」もみんな巨岩の上だ。

五ノ峰方面。

竜神山方面。

雪景色が幻想的だ。

この岩はクサリで下るのではなく、少し戻れば巻き道がある。


と思ったら、結局はクサリで下らないといけなかった。

コケが滑りそうで、怖かった。

クサリを握る軍手が泥で真っ黒になってしまった。
しばらく錆びた鉄のにおいがした。
またすぐ登り。

そして、すぐ四ノ峰。あっけない。

あまり展望もないので、すぐ通過。「すぐ」ばっかり。

再び植林。

このあたりから、木々の葉の上に積もった雪が解けて、雨だれのように落ちてくる。

カメラが濡れてしまうので、帽子を脱いでカメラを覆い、自分の頭はウインドシェルのフードで防御した。
登山口からちょうど1時間で五ノ峰(565m)に登頂。

ここで休憩したいところだが、止まると寒いのでほとんど滞在せず、歩き続ける。

標高が500mを越えると、かなり積雪が目立つようになってきた。


鉄塔のあたりでかなり視界が開けたが、曇天のためやはり高い山や遠くの山は見えない。


まあ、それを予想して景色の見慣れたエリアに来たのだから文句はない。
仕方ないので、ここも通過。

鉄塔のすぐ下が、布沢集落に下る布沢峠。

当方は下らず、そのまま尾根道を行く。雪がなんだかうれしい。



次のピークは順番的に七ノ峰と言ってもいいところなのだが、「五」で打ち止めにしたのはどうしてなのか。


展望は北の方角。右端が四阿屋山(772m)。


これは北西に突き出している尾根。

を横目に、ここも休まず通過。

雪のしずくが落ちてくる植林の中に再び突入する。


めずらしく尾根の真ん中に主のような大木がそびえていた。

そのたもとに小さな祠がある。

ここはかつての生活道路の峠だったのかもしれない。
この先のいくつかのピークは巻いていく。

すると、こんな標識が。

見上げると、確かに1本だけ異彩を放っていた。


まもなく、文殊峠への分岐。

あとで知ったのだが、このピークは中ノ沢ノ頭(590m)というところだった。

「登った山」を一つ得した。
(つづく)
【2016年3月6日(日)】琵琶湖沖島
伊崎寺の境内を散策中。琵琶湖の湖岸を目指して石段を下る。
斜面にはヒメリュウキンカの黄色い花が咲き乱れている。


若い僧職がモノレールで枝払いした枝を運んでいた。

門に掲げられているのは、この寺の山号「姨倚耶山」。

長い石段を下り終えた。

琵琶湖はすぐ目の前。

湖岸の風景。



やはり広い。


桟橋があったので、僧職の方に聞いてみたら、灯油などの燃料を配達してもらうために使っているのだとか。
モノレールもその時にまた活躍するのだろう。
以上で拝観は終了。参道を通ってバス停に向かう。

バスの時間まであと15分。到底間に合わないだろうから、のんびり歩く。
巨石の上の祠も省略せずに撮影。

バラバラになった五輪塔たちも。


参道の入口まで出てきた。

このあたりは琵琶湖の干拓地だ。

ここから休暇村まで2km。ということはバス停まで10分くらいだろうか。

ちょうどバス通りに出た頃、目の前をバスが通り過ぎてしまうようなタイミングだなあ。
手を挙げたら止まってくれないだろうか。
そんなことを思いながら、急ぐ気もなく歩いていたら、通りに出てしまった。

バスはまだ来ない。
ていうか、バス停まであと300mくらいしかない。
とぼとぼ歩いて手を挙げても止まってくれないだろうけど、バス停に向かって走っていれば、バスはバス停で待っていてくれるのではないか?
これは乗れる! そう思って走り出した。
そしたら、バスがちょうど来るタイミングでバス停に到着。

なんと15:29の便に本当に間に合った。急いで何かを省略せずに回り切れて、非常にラッキーだった。
16:00過ぎに近江八幡駅に到着。
このあとは近江鉄道で米原に行き、そこから新幹線に乗り換えて帰るつもりだ。
東海道線で行けば米原までは30分かからずに行けてしまうが、近江鉄道の未乗車区間近江八幡~八日市間を乗るのが目的なので、遠回りだがこれでいいのだ。
ただ、さすがに今日は風呂を諦めざるを得ない。
ザックをコインロッカーから回収して、近江鉄道の改札へ。
次の電車は16:14なので、まだ10分近く時間がある。
改札前でパッキングをし直し、切符を買おうとしたら、米原まで950円のボタンが自動販売機にない。
仕方ないので窓口で「米原まで」と言ったら、駅員に「え、米原まで?」と驚かれた。
「はい、いいんです。お願いします」
「じゃ、1デイ・スマイル・チケット(一日フリー乗車券)が880円でお得ですから、こちらを」
「あ、それはご親切にありがとうございます」
「ただ、次の電車は米原まで行きませんので、乗り換えになりますよ」
「はい、構いません。ちなみに米原には何時に着きますか?」
「えーと、ちょっと待って下さい。あ、18:08になります」
「はい、分かりました。ありがとうございます」
と言ったものの、それはちょっと遅すぎる。

とにかく電車に乗り、車窓もそっちのけで、駅探で時刻をあれこれ確認する。
18:08米原着となると、乗り換えなしで東京まで一番早く着くには18:58のひかりになってしまう。それだと、新所沢着が22:22。かなり遅い。
18:24発のこだまに乗り、名古屋でのぞみに乗り換えれば21:53に着くが、のぞみで座れる保証はない。
そもそも八日市での乗り継ぎ時間が30分近くもあって、これが無駄なのだ。
で、思いついた。
未乗車区間さえ乗ればいいのだから、米原まで律儀に全部近江鉄道を使う必要はない。
八日市から引き返して、近江八幡から東海道線で米原まで行けばいいのだ。
そうすれば、八日市に16:32着。折り返し16:40発の電車に乗り、近江八幡には16:59に戻って来られる。
17:05発の東海道線に乗れば17:25に米原着。17:58発のひかり530号に乗れる。
なんと引き返した方が1時間も早い新幹線に乗れるわけだ。
改めて近江鉄道の不便さを実感した。
とにかく方針は決定。近江八幡~八日町往復運賃は900円なので、スマイル・チケットで損はない。
いいことずくめである。
これでやっと落ち着いて車窓を楽しめる。
と思ったら、もう八日市に着いてしまった。

かわいいラッピング電車も待機していた。

待ち合わせ時間は8分あるので、余裕で駅舎撮影。

近畿の駅百選に選定されているようだ。

大海人皇子の蒲生野遊猟の図が焼き物で表現されていた。

八日市は東近江市(人口約11万人)の中心なので、駅前も比較的活気がある。

では、引き返す。

今日はここにあかね号がいた。2日連続で会えるとは相性がいい。

となりは新八日市駅。

かなり年期の入った駅だ。

次は太郎坊宮駅。

太郎坊とは正面のとがった山の山腹にある寺院のこと。

次の市辺駅は撮影失敗。
観音寺山(433m)が見えてきた。

平田駅で上り電車とすれ違い。


だいぶ暗くなってきた。

武佐駅通過。

新幹線が目の前を猛スピードで横切っていく。

正面の山並みは琵琶湖の向こうの比良山系か。

予定通り、16:59近江八幡に到着。

JRに乗り換える。

17:05発の東海道線新快速は3分遅れだが、全然余裕。

電車は結構混んでいたが、ありがたいことに座れた。
米原には17時半前に到着。
待ち合わせ時間は30分あるので、ゆっくり売店で買い物。
缶ビールに缶酎ハイ、枝豆に乾き物。
前日買った糸切餅がまだ余っているので、これを晩飯代わりにして、駅弁はなし。
お土産はひこにゃんのクッキー。

新幹線の待ち時間が長すぎるので、我慢できずホームでビールを飲み始めてしまった。

一番前に並んでいたので、2人席に余裕で座れた。
名古屋までは隣に人がいたので、ただただ飲んでいたが、その先は一人になったので、ザックからパソコンを取り出し、ずっと記録整理に精を出していた。
21時半には帰宅。新鮮かつ充実した関西の「山と鉄」「島と船」だった。
(おわり)
【2016年3月6日(日)】琵琶湖沖島
石切り場跡から集落に戻る。
こちら側にも、えり漁の木杭があった。

えり漁とは、アユや鮒を矢印形に張った定置網に追い込む琵琶湖の伝統的な漁の方法だ。
このあたりの湖岸の石は石切り場で大量に発生した石くずのようだ。

宙を飛ぶドナルドダック。

十字架にかけられたかのようなプーさん?

それにしても、彼らは鳥除けなのだろうか。

再び集落に戻る。

最後に頭山の北岸を探検する。

これは廃屋。

石仏には夏みかんが供えられている。この島らしい風景だ。


わざと迷宮に入り込みながら、港に向かう。

笛や太鼓の放送がかかって、港のゲートボール場では何かが始まる気配。

でももう見ている時間はなかった。
14:00の船が出るまで、あと10分。

疲れたので、早めに船に乗り込んだ。

さようなら、沖島。満喫させていただきました。


船内は観光客でかなり混んでいたが、デッキには出ず、おとなしく席に座っていた。
10分で堀切港に到着した。
ここには近江鉄道バスだけでなく、市民バスも通じているようだが、あいにく平日は運休。

思いついて、歩いて15分ほどかかると思われる休暇村に電話してみた。
入浴をさせてもらえないかと思ったのだ。
歩いて休暇村まで行き、風呂から上がった頃にバスが出る計算になる。
バスは休暇村が起点なので、堀切港まで戻る必要はない。
しかし、無情にも「入浴は3時まで、受け付けは2時までとなっておりますので・・」とのこたえ。
すでに2時を10 分以上過ぎているので諦めるしかない。
やはり当初の予定通り、伊崎山(210m)のハイキングコースを歩いて時間をつぶすしかない。

しかし、次のバスまで1時間15分ほど。それだけの時間で戻って来られるだろうか。
まあ、間に合わなかったら、またその1時間後にあるから、2時間かけてゆっくり歩くつもりで出かけよう。

この山は野鳥の楽園のようだ。

しかし、それをおびやかすのが優勢なカワウのようで、棲み分け対策が行われている。


さすがにあんな詳細な案内板があるだけあって、道はよく整備されている。

まずはこの地図にある展望ポイントを目指す。

が、展望ポイントと言っても、この程度しか見えない。

これはちょっとひどいではないか。

憤然として先を急ぐ。

半島の先端にある伊崎寺まで900mの標識。

そんなに遠くはないような気がする。本当にそんなにあったら、到底1時間ではバス停に戻れない。
はい、気をつけましょう。

ぐいぐい登る。

原生林。ちょっと気持ち悪い。

思いがけず、五輪塔群が出現。

伊崎寺と関係があるのだろうか。


沖島で見たような石仏もたくさんあった。


300mも歩いていない感じなのに、いきなりあと250mになった。

でも、伊崎寺に行く前に、伊崎山の山頂を目指す。
ある程度のヤブこぎを覚悟したのだが、「↑三角点」という表示があり、助かった。

かなりの急坂を数分よじ登る。

頂上にしっかりと三角点。

山名板はなかったが、文句なく「登った山」の一つに加えられる。

さっさと下山して、伊崎寺に向かう。

今度は急な坂を下る。

まもなく参道に合流。

すぐ先に寺務所。

安土山(198m)方面の琵琶湖もきれいに見えた。

さっそく本堂に参拝。

伊崎寺は奈良時代に役行者がこの地を見つけて、行場としたのが始まりとされる。
その際に、イノシシが役行者を導いたことから「猪先(いさき)」という地名になったらしい。
寺の創建は平安時代初期の貞観年間(9世紀後半)で、相応和尚が開いたと言われる。

境内の様々。




この奥に棹飛堂なるものがあるそうなので行ってみた。

これだ。

堂内の様子。

棹飛びとは、水面より数㍍の高さに突き出した棹の先端から琵琶湖へ飛び降りる勇壮な行事で、毎年8月1日の千日会で行われるとのこと。初めて知った。


「捨身の行」で、1000年以上続いてきたと伝えられているらしい。
う~ん、これはまず先端に行くまでが怖い。

普段は当然ながら飛び込み禁止だ。

ちょっと、ドキドキした。戻ろう。

本堂の側面に二重の鳥居。これはどんな意味があるのか。


境内から湖面に下れるようなので行ってみた。


(つづく)
【2016年3月6日(日)】琵琶湖沖島
沖島の西端から引き返す。
えり漁の際に使う木杭が沖に見える。

沖島町簡易水道浄水場。

沖島にはかつて井戸がない時期が続き、琵琶湖の水を生活用水として使っていたらしい。
簡易水道が整備されたのは昭和55年になってからというから、かなり最近まで不便を強いられていたようだ。
頭山南斜面の集落の裏道に入る。


ここに奥津島神社に上る階段があった。

社標は憲政の神様・尾崎行雄の揮毫だそうだ。
この神社は近江国守だった藤原不比等が和銅年間に創建したと伝わる。


お宮は島で42歳になった人が1年間お世話し、その交代式は大晦日の深夜に行われるという。

島の起源とも言える神社なので、丁寧に参拝する。


境内から見下ろすいらかの波。


ひときわ目立つのは、西福寺の屋根。

港の奥に軒を連ねる倉庫群。

奥の院まで登ってみよう。

昼なお暗いので電灯がともっている。


かつての祠の基壇らしきものが残っていた。

神社の背後の斜面では崩落防止の工事がかなり大がかりに行われていた。

最近土砂崩れがあったのだろうか。

このあたりの集落の区割りは、うなぎの寝床方式のようだ。

再び、港の周辺に戻ってくると、なんと軽トラを発見。

やはりナンバーがなく、廃車になっている。
島内で車が1台も走ったことがない、というわけではなさそうだ。
島で唯一の郵便局。

またしても、さっきの山車を発見。何軒も回ってお祓いもしくは祈祷をしているのだろうか。

この地名プレートがちょっとレトロで気に入った。

のんびりしたたたずまい。

駅前駐輪場ではありません。

本願寺の8代門主蓮如(1415~1499年)が比叡山に追われて、琵琶湖西岸に沿って逃げた際、嵐にあってたどりついたのが沖島だと言われている。

おきしま資料館でもう少し勉強したかったが開いていなかった。

電話の連絡先が書いてあるので、帰りに時間があったら、かけてみよう。
沖島コミュニティーセンター前の広場。

蓮如から得度を許された島民の西居某が開いたとされる願證寺。

とても狭かった。

ひしめく家々の中になぜかここだけすこんと抜けた空間。

井戸も全くなかったわけではないようだ。

小さな石仏を祀った民家の入口。信心深い島民が多いのだろう。

初めて、島の北岸に出た。

こちらは風も静かで波も穏やかだ。

わりと大きめの桟橋が見える。

いったん集落に戻る。「いっぷくどう」が営業中。

「きままランチ」1000円か。お昼はここで食べてもよかったかな。
路傍の石仏。あちこちにある。


西福寺に参拝。


近江源氏の落ち武者7人のうちの一人茶谷重右衛門の末裔が、蓮如に帰依、法名西了坊として、文明三年(1471年)に庵を建てたのが始まりとされる。
境内には蓮如上人の像があった。

再び北岸に出て、石切り場跡に向かう。

こちら側にも1軒、民宿があった。

釣り人たち。彼らとは帰りに一緒になった。

頭山(140m)の全景。

道は護岸を兼ねている。

冷蔵庫は物置代わりかな。

菜の花が咲いていた。

こちらは下水道の浄化センター。

3m四方1区画千円で売り出された千円畑。


正面の丘が石切り場の跡か。

風呂おけにたまった雨水。

畑仕事に来ていたご婦人に聞いてみたら、やはり農業用水だそうだ。
雨水を溜めて使っているらしい。
空梅雨の時には、琵琶湖の水をポンプで汲み上げるのだそう。
そういう意味では水には困らない土地だ。
ちょっと高みから見ると、畑が細かい区画で分かれているのがよく分かる。


これが全貌。

この中を分け入り、石切り場跡を目指す。

切り出した石の破片で囲んだ花壇。

細い作業道をどこまでも分け入っていく。

これが石切り場の一部なのだろうけど、草が繁茂していて、切断面がよく分からない。

この段々も石切り場の痕跡か。


千円畑は丘の上まで続いている。

キリがないので、適当なところで切り上げ、湖岸に下りてきた。

これは観潮のための施設だろうか。

それでは来た道を戻ることにしよう。

(つづく)
【2016年3月6日(日)】琵琶湖沖島
沖島の東部にある弁財天(厳島神社)に参拝。


太い竹の賽銭箱にコインを落とすと、いい音がした。

本殿の前に木造のテラスがあったので、展望を楽しむ。

鳥居があんなに低く見えた。対岸は休暇村。

祠の背後は断崖だった。

湖岸まで下りて来た道を戻ろうとしたが、まだ奥に道が続いているので、ちょっと行ってみると、巨大な岩が出現。


ここは島焼酎の原料となるサツマイモを栽培しているエリアだった。

湖岸にも奥にも畑があった。


探検はここまでにして、集落へ戻る。

これが何なのかは、全くの謎。

戻る途中、学生らしき若者グループとすれ違った。

(ここには写っていないが)
湖岸の道路には、堅固な石垣が組まれている。

数少ない浜。

壊れかけた桟橋なども、みな人間スケールで安心できる。


水鳥の楽園でもあるのだろう。

集落のはずれあたりまで戻ってきた。


私のすきな風景ばかりで、シャッターを押す指が止まらない。


パパと釣りをしている少年は島の子だろうか。

この平地は、沖島小学校の校庭。

この校舎が建てられたのは、そう古くない気がする。

沖島小学校は明治8年(1875年)、西福寺に開かれた学校が原点。
明治26年(1893年)に島村立沖島尋常小学校が開校したのをもって創立とする。
昭和34年年度には児童数が129人に達したというから驚く。
併設されていた近江八幡市立八幡中学校沖島分校が昭和39年に本校に統合されて以来、卒業生は本土の八幡中学校に通うことになっている。

現在の児童数はわずか10人。このうち7人があえて島外から船で通学しているという。
島出身の親とか、島での生活に意味を見いだしたりしている親が送り出しているのだろう。
島内の児童がいるうちはいいが、いなくなったらあえて小学校を存続させる意味があるのかという声は当然上がるに違いない。
部外者としては残してほしいと思うが、人件費も含め経費のことを考えると、かなり厳しいかもしれない。
沖島漁業組合の元入口?

お決まりの廃屋。

ここから島のメインストリートに入る。


幅員は1.5~2m。
小学校から港まで続くこの道は「ホンミチ」と呼ばれ、水産庁が選定した「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選ばれている。


もちろん、車は走れない。
この階段を登ると、旧小学校の跡。

廃虚の趣が十分ある。

現在はすっかり更地になっていた。


この階段は子供たちが裏山へ登っていく道か。

高台にあるだけに眺めはよかった。

通りに戻ると、さっき見た山車がこんなところに移動していた。

御輿がくくり付けられている。
神職のような方が1軒1軒回っているようで、アマチュアのカメラマンもカメラを持って追いかけ回していた。
何かの伝統行事なのだろうか。誰かに聞いてみればよかった。
島のおばちゃんたちが井戸端会議。

玄関に時計。

わりと、まとまった畑。

どう見ても路地にしか見えないが、これがメインストリート。

玄関はみな、きちんとこの通りの側を向いている。

いったん、湖岸の道に出てみた。

食堂・民宿の港屋とか冨田屋があるらしいので、それを探すのが目的だ。
ネコの島とも言うだけあって、何匹か見かけた。

魚が豊富だから食べ物には事欠かないんだろうなあ。
消防艇の「車庫」。こういうのはめったに見られない。

これが正真正銘の路地。

自然石を加工しないまま石仏に見立てている。

映画の一場面のようだ。

この石垣はかつての湖岸なのだろうか。

お、やっと港屋を発見。でも、どうやら営業していない雰囲気だった。

では、引き返しましょう。
携帯をかけているおばちゃんと、網の手入れをしているおじちゃん。


再び、メインストリートへ。

まるで迷宮のようだ。

燃料は薪。

土壁も素朴だ。

幅員がさらに狭くなった気がする。

目を開けてくれないネコ。

というわけで港に戻ってきた。

沖島漁業組合で昼食にする。
奥でせっせと弁当を作っているが、私はうどんが食べたい。
そこにいたおばちゃんに聞くと、うどんは弁当づくりが終わってからだから、あと30分かかると言われた。
そんなに待てないので、弁当で手を打つ。1000円。
ここで食べていいかと聞くと、「正午の船に乗るんじゃないのかい?」と怪訝な顔。
「いえ、乗りません」
いやあ腹減った。

メインは鯉こくならぬ鮒こく。とは言わず、鮒の煮付けというそうだ。
甘く煮付けてあったが、骨が多く食べにくかった。
それより美味しかったのは、小エビと島野菜のかき揚げ。
かき揚げはあまり好きではないが、これはバリバリ食べることができた。
このほかには、わかさぎの天ぷら。
後で来たおじさんが、これを見て「アユかい?」と聞いていた。
(こんな小さいアユがいるかい!)と心の中でつぶやいたが、おばちゃんによると、川のアユが大きいが、琵琶湖のは稚アユなので小さいのだという。
今はちょうど鮒のシーズンなんだとか。
いろいろと勉強になった。
かつ満腹になった。お茶も振る舞っていただき、ごちそうさまでした。
ちなみの、この「店」は「沖島婦貴の会」の運営である。

こういうお土産も売っていたが、ザックに入りきらないので見送り。

今度は島の最西端に向かう。
途中、トラクターを発見。なんだ、車があるではないか。

でも廃車になっているようなので、数には入れていないのだろう。
湖岸の道を行く。

風がかなり強い。

個人の港。というか湖の玄関。

これはやや小粒なので八朔かな。

おお貝塚だ。貝の漁獲が多かった時代の遺跡だ。

かなり波も高くなってきた。

ちょっと湖とは思えない。

行き止まりにある民宿湖上荘。

でもシーズンオフなのか営業はしていない様子。

まだ波打ち際に道が続いているので、もうちょっと前進してみる。

この畑で本当に行き止まりのようだ。

ここで引き返すことにした。
(つづく)
【2016年3月6日(日)】琵琶湖沖島
沖島に上陸し、尾山(225m)に登り始める。

登山口には、小さな石仏が祀られていた。


甘夏がたわわに稔っている。食べたいが、さすがにもぎ取るわけにはいかない。

でも、落ちているのがあったので、きれいなのを拾ってザックに収める。

あとで、おやつにしよう。
集落の裏の斜面をトラバースして登っていくが、地形図の表記では最初から尾根筋をたどることになっている。

しかし、見晴らしがいいので、このまま進むことにする。


斜面が露出しているのは頭山(140m)。
湖面の標高が85mほどなので、実質的な高さは55mしかない。
斜面には先祖代々の墓地が築かれている。



実に美しい島ではないか。

墓地を過ぎると、登山道になる。

ここから尾根に登っていくようだ。

岩壁を乗り越え、さらに進む。


手づくりの道標が丁寧に設置されていて、ありがたい。

島の子供たちも遊びに来ることがあるのだろう。
墓地から10分ほどで尾根にのった。

なだらかで、よく踏み固められた道を数分歩くと、ケンケン山に出た。

とくにピークでもないが、せっかく「山」を名乗っているので、「登った山」に加えさせていただく。標高は175mほどか。
別名「お花見広場」だそうだが、まだ季節が早すぎて、何も咲いていない。

ただ、左右に琵琶湖を展望することができた。


この先は210mピークを巻いていく。

こちらも、ほぼ平らで歩きやすい道。

暖帯らしい植生だが、雪国生まれの私にはちょっと気色わるい。

右手に琵琶湖と本土の山々を眺めながらのハイキングだ。


左手には、枯れ木に白いキノコ。

そして男の横顔のような岩。

まもなくホオジロ広場という開けた場所に出た。


ホオジロとはスズメに似た小鳥のことだが、このあたりにたくさん棲息しているのだろうか。鳴き声はとくに聞こえなかった。
トラロープで作ったブランコがあったので、琵琶湖を眺めながらしばらく揺られてみた。

ブランコなんて何年ぶりだろう。何だかとても癒された。


では、次の見はらし広場に向かおう。

引き続き、起伏のほとんどない道だ。

と思ったら、徐々に登り始めた。


登り詰めたところが見はらし広場。

目の前に本土の伊崎山(210m)。

堀切港と休暇村。

厳密にはここは尾山の最高地点ではない。
地形図を見ると、三角点はこのあたりにあるようだが、最高地点はもっと先のようだ。
「行き止まり」と書いてあるが、行けるところまで奥に行ってみることにした。

なんとなく踏み跡はある。

ただ、ちょっとヤブがうるさい。

このあたりが最高地点のように思えるが。

地図ロイドを確認すると、閉じた等高線の中心はもう少し先だ。
もうちょっと進んでみよう。
う、こういうの、ちょっと気持ちわるい。

この先の高まりには、石が方形に並んでいた。

むむ、これは人工のものだろうか。中世の祭祀の跡だったりするのか。
すぐ近くに、こんな岩もあり、遺跡のにおいがぷんぷんする。

しかし、ざっと調べてみた限りでは、ここが遺跡であるという記録は見当たらない。
ぜひ発掘調査をしてもらいたいのだが。
とにかく、ここが沖島の最高地点であることを確信して戻ることにした。

帰り道、素直に踏み跡をたどればいいのに、ちょっと色気を出して、右手の高まりに登ってみたら、なんと山名板がつるされているのを発見。

これにはびっくり。見逃さないでよかった。寄り道してよかった。

蓬莱山とも呼ばれているようだが、最高地点はやっぱり、さっきの「遺跡」のあった場所だった気がする。
巨岩を見送って、見はらし広場に戻ってきた。


名残にもう一度、眺望を楽しむ。


満足して下山。「小学校の水えい場」へ。

歩き出してびっくり。

道の真ん中に三角点があった。

あれだけヤブをかき分けても見つからなかったはずだ。こんなところにあるとは。
山名板も三角点も確認できたので、わだかまりなく下れる。

ただし道はそれほどよくはない。

巨岩の回廊を通過。


しばらく下ると、階段状になった平坦面が森の中に展開していた。

畑の跡だろうか。
サプライズだったのが、このサルノコシカケ。

こんな分厚いのは初めて見た。

こちらは、名付けて沖島の亀石。

というわけで、岸辺まで下ってきた。


まずは左折して、弁財天に向かう。

すると、正面から島の方がやってきたので、呼び止めて聞いてみた。
「山の斜面に段々に平らになってるところがありましたが、あれは畑の跡ですか」
「そうだよ。戦時中に食糧不足で大豆を植えていたと聞いたことがある」
「そうなんですか。いつぐらいまで作ってたんですか」
「どうかな。わからない。私も戦後生まれなんだよ」
というようなことを関西弁で話してくれた。
戦後生まれというから、60代後半くらいだろうか。

この先も一人だけ歩ける幅で道は続いている。

湖岸には小さな、ほんとに猫の額のような畑。

大根やネギなどの作物が栽培されているが、ほとんど自家用だろう。
振り返ると、港近くに集中する集落が湖をはさんで望める。

木道を渡り、打ち捨てられたような作業小屋を通過する。


いきなり春の便り。フキノトウとイヌフグリ。


淋しげな湖岸の風景。


かなり歩き続けてきたので、ちょっと、このあたりでひと休み。

小屋の出入り口に腰をかけて、さっき拾った夏みかんを食べる。
少し裂けていたのだが、とても甘酸っぱくて、おいしかった。
弁財天(厳島神社)はすぐ先にあった。

参拝の前に、鳥居のとなりにある桟橋に行ってみる。

かなり波がある。足場がすけすけなので、ちょっと怖かった。


振り返って弁財天を望む。

由来はこの通り。

階段106段をゆっくり登った。
(つづく)
【2016年3月6日(日)】琵琶湖沖島
前夜、近江八幡のホテルに泊まった。
この日の天気予報は曇りのち雨だったが、目覚めてカーテンを開けると晴れている。
ありがたい。
昨夜は10時すぎに沈没して、今朝は6時に起きたので、8時間近く眠れた。
前日は久しぶりの本格的な登山だったが、幸い筋肉痛もない。
足首にも違和感がない。回復も順調のようだ。
6時半から朝食ということなので、その時間に合わせて階下の食堂に下りる。
バイキング方式だった。今回は和食にした。

麻婆豆腐、ハンバーグ、ウインナー、肉団子、玉子焼き、大根の煮つけ、がんもどき、ししゃも、キャベツサラダをちょっとずつチョイスした。
味はまずまず。最近は朝食を出してくれるホテルが多いので助かる。
ここは1泊6800円だったが、じゃらんポイントを使って、5700円で済んだ。
沖島への船が出る堀切港までのバスは、近江八幡駅発が8:40。
ホテルを8:15に出れば余裕で間に合う。
パソコンや着替えなどの荷物はコインロッカーに預けて、アタックザックだけで出かけるつもりなので、時間をかけて、ゆっくりパッキングした。
予定通り8:15に出発し、駅に向かう。
駅前通りは「ぶーめらん通り」と名付けられている。

道がくの字に曲がっていることから、そう呼ばれるようになったらしい。
この通りには、こうした石彫がぽつんぽつんと並んでいた。

近江八幡市のマンホールは市章のみで、ちょっと味気ない。

近江八幡駅にはJRと近江鉄道が乗り入れている。

まずはザックをコインロッカーに預けて、近江鉄道の乗り場をちらっと下見しておいた。


駅の連絡橋からは北に観音寺山(433m)が見えた。

ちょうど近江鉄道の電車がやってきた。

西武電車を青くカラーリングしている。
駅前には、前夜、晩飯を買った平和堂。

まだバスが来ていないので、観光案内所に立ち寄った。

ここで沖島の地図を入手する。
ついでに、乗り継ぎについて尋ねてみた。
実は8:40のバスが堀切港に着くのは9:12。
船の出る時間が9:15。こんな短時間で乗り継げるのでしょうか?
案内所のおばちゃんの話では、ちゃんと接続していますよ、とのこと。
安心してバスに乗った。

近江鉄道バスも西武バスそのままのデザインだ。
実はこの路線にはかなり前に乗ったことがある。
1988年の夏休み、山形勤務時代だったが関西を1週間かけて回った。
その時、このバスに乗って琵琶湖畔に近い長命寺を訪ねたのである。
もう30年近く前のことなので、記憶はおぼろげだ。
バスは近江八幡の伝統的町並みの横を走り抜けていく。
今回は街歩きをする時間はない。
メンタームの近江兄弟社は知っていたが、近江兄弟社高校があることをバス停の名で初めて知った。
調べてみたら、昭和23年開校のかなり古い学校だった。
さっき観光案内所でもらったマップに載っていたバスと船の時刻表を車中で見て、いささか悩んだ。
帰りの船の便は、12:00、14:00、16:00と午後は2時間おき。
12時と16時の便に乗れば、すぐ接続のバスがあるが、14時の便だと1時間半近く待たなければならない。
沖島をゆっくり回ると、多分14時の便になる。
どうしようか。とりあえず結論は先送りにしておいた。
バスは当然、長命寺を経由する。

ここから南の岡山(188m)が見えた。最初はこれが沖島かと思った。

9:13、堀切港に到着。

バス停の前にハイキングコースの入口らしきものがあった。

よし、もしバスを長時間待たなければならなくなったら、このコースを歩こう。
コースタイムなどよく考えずに、そう決めて、港に向かった。
港には広い駐車場があり、車が何台も止めてあった。

これは観光客の車ではなく、島民の車なのだろう。
「本土」での移動用だ。
沖島まではフェリーはなく、島内には車が1台もないらしい。
港からはすでに沖島が見えている。

乗船するのは「おきしま号」。

片道10分の旅なのに、500円もかかる。やや高い。料金は船内で払った。

この便のお客さんはかなり少なかった。
基本的にデッキにいて、ずっと写真を撮っていた。
さあ出港。琵琶湖はほんとに海のようだ。

どんどん本土から離れていく。

対岸に見えるのは、休暇村近江八幡。

赤い鳥居は沖島の弁財天(厳島神社)。

左手には長命寺山(333m)方面。

背後には伊崎山(210m)。

だいぶ沖島に近づいてきた。木造の建物は沖島小学校。

漁業関係の作業小屋。

集落もはっきり見えてきた。

入港。

漁船がたくさん停泊している。


上陸。ちょっぴり胸が躍る。離島はすきだ。わくわくする。

まずは港にある沖島漁業会館でお昼を食べられるかどうか確認。

うどんや弁当があるようなので、安心した。

バスなどないのにバス停があって面白い。

これには堀切港バス停の時刻表を掲示している。
手書きの沖島マップ。

沖島は琵琶湖の沖合1.5kmに浮かぶ小島で、周囲6.8km、面積1.5平方㌔。
琵琶湖の島では最も大きく、日本では唯一人が暮らしている湖の島である。
約320人の人口を有し、小学校もある。
奈良時代の和銅年間に奥津島神社が創建されたが、人の定住は、保元・平治の乱による源氏の落ち武者7人が移り住んだのが始まりとされる。
文化二年(1805年)の資料によれば、戸数43戸、人口194人だったとされるので、意外にも今の方が多い。
港に向かって漁村の碑が立つ。

昭和45年に石材の切り出しを止めて漁業の島になったことを宣言したものだ。
この島ではかつて漁業とともに石材業が盛んだった。
良質の石英斑岩が産出され、明治期には琵琶湖疏水や東海道線の鉄道工事に供給されたという。
しかし、コンクリートの時代を迎え、陸上輸送が主流となるにつれて競争力を失い、昭和45年ついに沖島石材販売組合が解散するに至ったのだとか。
隣には、魚介類供養塔があった。

沖島は琵琶湖の漁獲高の半分を占めると言われているが、水揚げは年々減少の一途をたどっている。
滋賀県の水産統計によると、昭和30年には1万600㌧に達していたが、平成26年には1053㌧と60年間で10分の1に激減している。
その主な原因は、漁獲の4分の3を占めていたしじみなどの貝類がほとんど獲れなくなってしまったことだ。
名産のフナもかなり減っているが、アユや外来種のブラックバスなどが踏ん張っているようだ。

鮒寿し、食べてみたいが・・・

島内の主たる交通機関は、自転車。とくに、この三輪車が活躍している。

公害知らず、事故知らずである。
ただ、この道は一応、車が通れる幅がある。

集落の中心にコミュニティーセンター。

その前のちょっとした広場に小さな祠が。

この山車のようなものは何だろう。

さて、集落をくまなく歩く前に先に最高峰の尾山(225m)に登ってしまおう。
このケンケン山というのは、その別名なのか。

よく分からないが、この標識に従っていくことにする。
(つづく)
【2016年3月5日(土)】霊仙山
霊仙山(1094m)登山を終えて、次は乗り鉄。
近江鉄道の未乗車区間、多賀大社前~高宮間を乗りつぶす。
「山と鉄」本領発揮である。
乗車するのは「あかね号」。近江鉄道では1編成しかない貴重な電車にたまたま乗れる。

多賀大社前駅は当然、終着駅。

車内は特急仕様で快適だ。

16:24発車。右側に陣取り、車窓を眺める。
次の駅の名はなんと「スクリーン」。

スクリーンとは京都に本社がある印刷機器メーカーで、その工場がこの駅前にあるのだが、せめて「スクリーン前」にできなかったのだろうか。
電車はたった5分で高宮駅に到着。
そこには、見覚えのある黄色い電車がいっぱい。

西武電車のお下がりだ。
運転士に運賃170円を支払って下車。
Y字形のホームにも見覚えがある。

ここは以前、近江鉄道の乗り鉄に来た時、いったんホームに下りて撮影した駅だった。

折り返しまで16分があるので、今回は駅の外に出てみることにした。
駅舎に行くには線路を渡らないといけない。

わりと新しい駅舎で少し残念。
老朽化に伴い、2002年に改築されたものらしい。
コミュニティーセンターが併設されている。

駅前の食堂かつらだにそそられたが、ちょっと時間が足りなすぎる。

駅前を200mほど歩いてみた。

すぐ引き返す。ここは彦根市で、マンホールは市章のまわりに市の花タチバナ。

ホームに戻ると、自転車の少年が。

近江鉄道は自転車をそのまま乗車させることを許しているらしい。
さて多賀大社前に戻ろう。

発車は16:45。


帰りは、車窓から霊仙山を狙ったのだが、どの山だかよく分からなかった。

でも、手前の黒い山は多賀大社の前にそびえる青竜山(333m)だろう。

多賀大社前駅には16:51着。
たいぶ日が傾いてきた。
さっき歩いてきた参道を引き返す。

改めて見ると、駅前はだいぶ寂れていた。

多賀大社も車で来る人が増え、電車利用の参拝者は減っているのかもしれない。
橋を渡ると、喫茶店「いっぷく地獄」。


夕暮れの絵馬通り。

さっきの撮り忘れを押さえておく。


鳥居前まで戻ってきたが、案の定、「多賀や」しか開いておらず、晩飯までのつなぎのつもりで糸切餅を購入(10個入り600円)。
車に戻って、早速食べてみる。

手にくっつくほど粘着力があったが、餡は上品で甘すぎずおいしかった。
翌日帰りの新幹線までに10個食べ切ってしまった。
この後は、予め探しておいた直近の日帰り入浴施設「クレフィール湖東」の至福の湯へ。

ナビの言う通りにしたので、どこをどう走ったのかよく覚えていない。
でも神社からは20分かからなかった。
ここはちょっとした高台にあり、琵琶湖方面に沈む夕日がよく見えた。

休日料金700円。

地下水を汲み上げているということで、厳密には温泉ではないが、別に不満はない。
露天風呂が一瞬空になったので、撮影することができた。

わりといい湯であった。
ここの食事処で何か食べようと思っていたのだが、地元の名物のようなそそられるメニューがなく取りやめ。
とにかく今夜の宿に向かう。
その前に、車の中に散乱した荷物をまとめて、ナビをセットする。
まずはトヨタレンタカー近江八幡店に行って、車を返却しなくてはならないのだが、その名前で入力しても該当なし。
あれこれやってみたが、いずれも不可。結局近江八幡駅にセットして出発したが、随分時間を食ってしまった。
もう真っ暗だが、とにかくナビが連れて行ってくれる。
途中のスタンドでガソリンを入れたら、ちょうど3㍑で333円だった。
走行距離は60kmほどだったので、燃費はリッター20km。やはり軽はいい。
19時半、無事にレンタカー屋さんに到着。
名前を名乗ったら、パソコンをいじりながら首をかしげているので、「乗ったのはここじゃないですよ。米原から乗って、ここに乗り捨てです」と告げたら、「あ、返却でしたか。出発だと思いました」と店員2人して、意外そうな顔。
もうこんな時間なんだから、まずは返却だと思うでしょう。
初めて見る顔なので、出発だと思い込んだのだろうか。
それはともかく、ザックが重いので、「駅まで送ってもらえたりしますか」と聞くと、「駅まで400mなので、送迎はしていないんです」とのこと。500m以上からするのかな。
残念だったが、それは規定なのだから仕方あるまい。
近江八幡駅の連絡通路を通って西口から東口へ。

とぼとぼと歩きながら、晩飯のことを考える。
これからホテルにチェックインして、また外に出るのはもう億劫だ。
今夜はせっかくパソコンも持ってきているので、ブログを書く作業もしたい。
そうだ、じゃあ缶ビールと惣菜を買って、部屋で食べよう。
そう思いつき、駅中のセブンイレブンと駅前のファミマに寄ったが、そそられるつまみがないのでパス。
ホテルに向かいつつ別の店を探すも、どんどん暗くなるばかり。
こりゃやばいと、やっぱり戻ったら、駅前にスーパー平和堂があった。
しかし、もう閉店間際なので、惣菜もほとんど売り切れ。
困っていたら、半額で390円になったお寿司があったので助かった。
あとはポテトサラダ、ビールを購入してホテルへ。
駅から5分とうたっているが7~8分かかった。

(翌朝撮影)
和室の315号室に泊まる。

いつもならその方がいいのだが、今日はパソコン作業をするのでイスの方がよかった。
でも頑張って、お寿司を食べながら、せっせと今日の記録を付ける。

で、10時には電池切れ。そのまま沈没してしまった。
【行程】2016年3月5日
今畑登山口(9:34)~今畑集落(9:47撮影9:59)~笹峠(10:30)~近江展望台(11:14休憩11;18)~最高地点(12:02)~霊仙山(12:21撮影・昼食12:57)~経塚山(13:12)~お虎ヶ池(13:38)~お猿岩(13:48)~六合目(13:56靴のごみ落とし14:01)~汗ふき峠(14:21)~落合集落(14:50撮影15:05)~登山口(15:11)
※所要時間:5時間37分(歩行時間:4時間52分)コースタイム:5時間
※登った山:4座(近江展望台、最高地点、霊仙山、経塚山)
※歩行距離:10.7km
【2016年3月5日(土)】霊仙山
霊仙山(1094m)から下山中。落合登山口に近い沢まで下りてきた。
上流と同様、相変わらず大水で削られた箇所が多い。

植林の中を徐々に高度を下げていく。


この橋は破損していた。

いよいよ林道の終点あたり。

炭焼き窯の跡。


大昔には、ここまで車が入っていたのかもしれない。

平成25年度竣工の砂防ダム。

道幅的にかなり人里が近くになってきた気がする。

治水のための古い石垣も出てきた。

山頂から約2時間、15時前に落合集落まで下りてきた。

集落の一番奥にあったのがお寺。


だが、もう閉鎖されていた。


集落には10軒ほどの家屋があるが、廃墟になっている家もあり、比較的しっかり残っている家にも人が住んでいる気配がない。



これなどは比較的新しいのだが。

なのに、選挙の掲示板があるということは、まだ住人がいるのだろうか。

「多賀町霊仙落合荘」というかなり新しい建物があり、その前に1台車が止まっていたので、ここに誰かお住まいなのか。

車は登山者のものかとも思ったが。
廃村ファンとしては、ひと通り集落を見学する。
落合神社が「無人」の集落をしっかりと守っている。


これは何かの建物の基壇だろうか。

こぢんまりとした社殿。

ほかの民家も見てみよう。


離れの便所は私の母の帯広の実家にも昔あった。

川の対岸の家屋群は完全に廃墟と化していた。


廃村のムードたっぷりである。


戸障子もめちゃめちゃ。

室内も荒れている。


自転車のタイヤにまでコケ生していた。

このあたりは打ち捨てられてから、どのくらい経つのだろうか。


廃村探索はこれにて終了。車の置いてある登山口に向かう。

川の対岸の墓地はコケに覆い尽くされそうだった。


集落から登山口まではすぐだった。

時刻は15時10分だから、1周5時間半ほど。
靴ひもをゆるめて、車に乗り込む。ふう、お疲れ様でした。
関西にわざわざ来た甲斐がある新鮮な山歩きだった。
ナビをセットし、とりあえず多賀大社に向かう。
30分もかからずに大社前に到着。

大鳥居のすぐ横に5台くらい止められる駐車場があり、料金は「気持ちで」とあったので100円を料金箱に投入した。
昭和4年竣工の多賀橋を渡る。
(018)
門前の土産物屋はわりと賑わっている。

糸切餅なるものが名物のようだ。
ひやかしは後にして、まずは参拝。

立派な狛犬が迎えてくれた。

境内はこんなに広いが、とても全部は見られそうもない。

鳥居をくぐると、そり橋。

秀吉が篤い信仰を寄せたことからという理由で「太閤橋」とも呼ばれているが、実のところは「太鼓橋」の転であるという。


正面に拝殿。檜皮葺きの見事な建築だ。


私も無事下山できたことに感謝し、柏手を打つ。

向かって左に能舞台。

手水舎と神馬舎。


さざれ石。

関西の銘酒。

境内にそば処があったが、なぜかそそられずパス。お腹は空いていたんだけど。

天満神社。

スピード参拝を済ませて、門前町に戻ってきた。

このあとは参道の「絵馬通り」をたどって、近江鉄道の多賀大社前駅に向かう。
何か食べたいのだが、鳥居のまん前をすぎると、これと言った飲食店もない。
乗り鉄をして戻ってくる頃には、お店も閉まっているだろうから、いま引き返して鳥居の前の店に入った方がいいぞとも思ったが、足はどんどん駅に向かっていく。
意外に結構遠くて10分くらいかかった。
その道すがら。
多賀町のマンホール。

多賀町の町章の中に、町の鳥ウグイス、その回りに町の木スギ、外縁には町の花ササユリ。
ここは営業してみるみたいだが、ちょっと入りにくいし、喫茶店ぽい。

昭和38年の大河ドラマ「花の生涯」のヒロイン村山たか女なる人物の生家があった。

多賀大社別当の娘で、幕末の頃、大老井伊直弼を支えた女性だそうだ。
恥ずかしながら初めて知った。
糸切餅は鳥居前の「多賀や」だけでなく、いくつか製造元があるらしい。
こちらはその一つの「元大阪屋」。創業は文政六年(1823年)。

鍋焼うどん、中華そばの「はまてつ」は残念ながら営業終了。

和菓子という気分でもないなあ。

この旅館はかなりの老舗だろう。

調べてみたら、寛政八年(1796年)の創業。
現在の建物は国の有形文化財に登録されており、多賀大社の本殿を設計した宮大工が手がけたものだそうだ。

その斜め向かいに建つのが、やはり登録有形文化財の「かぎ楼」。

こちらはさらに古く元禄二年(1689年)の創業で、宿泊は1日1組限定だそうだ。
絵馬通りが屈曲する地点に立つ道しるべ。

「右 本社道 左 京道」。本社とは多賀大社のことだろう。

明治19年(1886年)の建立である。
多賀大社の旧本地仏である阿弥陀如来を安置する真如寺。

もう一つの糸切餅の店「ひしや」。

手前に立つ道標は「右 とりもと」と読めるが、どこのことか分からない。
延命地蔵菩薩。

この先を右折すると、ようやく駅前通り。

駅舎はおそらく多賀大社を意識したものと思われる。

大きな駅だが無人だ。

振り返ると、巨大な多賀大社の鳥居。お正月は初詣客でかなり賑わうのだろう。

ホームをのぞいてみると、すでに電車が待っていた。

次の発車は16:24。今は16:11なのであと13分ある。
観光案内所でパンフレットをゲットしたり、車両の写真などを撮たりして、電車に乗り込む。

高宮まで2駅しか走らないのに、特急仕様の車両だ。
調べてみると、近江鉄道開業100周年を記念して、西武401系を改造してつくった700系車両だそうだ。
「あかね」の由来は、このあたり蒲生野で詠まれた万葉歌「あかねさす・・」にちなんでいるという。1998年6月に運用を開始したとのこと。
1編成しかないので、これに乗れるのは運がいいらしい。
私は往復だったので2回も乗ってしまった。
(つづく)
【2016年3月5日(土)】霊仙山
経塚山(1040m)を下る。
前方に、小さな池が現れた。

これがお虎ヶ池だと思っていたが、実は違った。
左手に霊仙山の山頂(1084m)が見える。

正面にはほんとにうっすらと伊吹山(1377m)らしき輪郭が見えたが、幻かもしれない。

これから登る稜線も木が極端に少ない。

でも夏になると、この茶色い景色は緑のじゅうたんを敷き詰めたようになるのだろう。

カルスト台地のハイキングはとても楽しい。



さっき見えた池にたどり着いた。

なかなか絵になる風景だ。

経塚山を背景に。

さらに上を目指す。

振り返ると、避難小屋の前を単独の登山者が歩いていた。

あれ? さっきの若者たちは経塚山から別の道を下っている。

あっちに道があるのか?

地図を改めてみると、大洞谷への下山道はこっちの尾根を通らない線が引いてあった。
正しい道を歩いているつもりだったという意味では、「道間違い」だった。

景色のいい稜線だったので結果的にはよかったが、注意しなければ。

山頂に道標はあったが、直進だと決めつけていて、全く見なかった。
とりあえず、こちらにも踏み跡はあるし、見通しが利いて道に迷う心配はないので、このまま稜線を行く。

こんな感じなので、どこを歩いても構わない。


対岸の稜線から見る経塚山と霊仙山。


こちら側もすり鉢状になっている。


稜線のピークに立つ。


経塚山が雄々しい。

谷間の登山道が見下ろせた。

こちらも下り気味に進路を変更。

対岸の霊仙山の山頂から谷へ細い雪渓が延びている。

そこをまっすぐ下ってくる登山者の姿が。

おそらくまた経塚山を経由して下山するのが面倒で、ショートカットしたのだろう。
この山なら晴れていれば、どこでも歩けてしまう。
前方に鳥居のある池が見えてきた。あれが、本当のお虎ヶ池だ。

お虎という娘の伝説があるのだろうか。
ちょうどさっきの若者達が通過して行った。

完全に抜かれてしまった。

ここの水は夏でも涸れないのだろう。ここが八合目の扱いのようだ。

ここまで神社がなかったので、遅ればせながら初めて安全祈願。

「スリップ転倒せずに、無事下れますように」

シカの骨はお供えかな。

振り返ると、今歩いてきた稜線。

その右に経塚山。

背後に霊仙山。

陥没した穴には雪がたまっていた。


では先を急ぐ。

しばらくはなだらかな下りが続く。


登りの時とは打って変わって平和な道である。

まわりも平坦。夏はとくにきれいだろう。


盆栽のような植生に思わず笑みがこぼれる。

左手には霊仙山の隣のピークの曲線。


のんびり歩いている間に後ろから単独男性が迫ってきた。

道はびちゃびちゃの雪になってしまったので、外れて芝の上を歩く。

ほんの少し登り返した、饅頭のようなピークがお猿岩。

とくにサルのようには見えないが。
ここが七合目。

歩いてきた道を振り返ってみた。

琵琶湖方面の展望も開けたが、相変わらず霞んでいる。

ここからいきなり急な下りになる。

斜面の状態は、近江展望台の登りに近い。

でもきちんとジグザクに道が切ってあるので助かる。


ロープもあるし、こちらを下りにして正解だった。

こっちを登りにしていたら、近江展望台からの下りは地獄だったに違いない。

六合目を通過。

このあたりで、靴の中に入り込んだ砂粒や枯れ枝が気になり出したので、一度靴を脱いで靴下をほろい、靴の中を掃除した。

その間に、さっきの単独男性に先に行かれてしまった。
それにしても、この先の道がすべることすべること。
ほんとに「キケン」だった。

ロープがなければどうなっていたことか。
ただ、さっきの男性のスピードが極端に落ちて、追いついてしまった。
でも五合目で写真を撮っている間に、少し先に行ってくれた。


このあたりから傾斜もゆるくなり、だいぶ歩きやすくなる。

四合目を通過。愛称?は「松林」。

さらに下ると

大洞谷源頭。源頭そのものは確認できなかった。

再び急な坂になり、ようやく山頂の青年たちに追い付いた。

安全なところで先に行かせてくれたので、こちらもピッチを上げる。三合目通過。
女子が半分くらいいるグループで経験者もいるように見えたが、初心者にあの道は大変だっただろう。大学生だろうか。

再び傾斜はゆるやかに。


間もなく、汗拭峠に到着。


ここで尾根を離れ、一気に谷まで下る。

汗拭峠から谷までの下りも、かなりハードだった。

谷沿いの道はあちこちで、川の縁が大水で削られ、大木が根元ごと倒れている。

これはひどい。倒れたのは最近のように見えるが、昨年の台風だろうか。

石割桜ならぬ、何だろう。

登山道は沢のすぐ脇を通っている。


ロープが張ってあるところを、あまり気にせず直進したが、前方に道がなくなっているのに気づき引き返す。

ここで渡渉しなければいけなかったのだった。

しばらく左岸を下る。


その後も対岸が広く平らになっているところに出た。
このあたりで渡るべきなのではと思いつつ、踏み跡がそのまま続いているので直進したが、道が次第に怪しくなる。
対岸に赤テープがあるのを発見し、引き返して渡渉。
ここは行き止まりロープも誘導ロープもないので、かなり分かりにくい。
若者たち、ちゃんと迷わず渡れただろうか。
(つづく)
【2016年3月5日(土)】
霊仙山の最高地点(1094m)を目指している。
だいぶ雪が多くなってきた。

芝のところを選んで歩く。

お昼は最高地点まで我慢しようと思っていたが、やはりお腹が空いてしまったので、歩きながら予備食のあんパンを食べることにした。

左手に見える霊仙山(1084m)の山腹にはほとんど木が生えていない。

この尾根もほとんど生えておらず、どこを歩いてもいい。

振り返ると、これまで歩いてきた長大な稜線が一望できた。

正面は南側が鋭く切れ落ちている。

最高地点もなだらかなピークのようだ。

雪の深さは10cmほど。

小ピークの茂みを抜ける。


あとは最高地点まで草地を行けばいい。

なんと最高地点を目前にしてガスが出てきた。

12時すぎに到着。

頂上では、単独の男性と女性が会話をかわしていた。

標柱には1098mとあるが、地形図では1094m。ネットなどの情報も1094mなので、後者が正しいのだろう。
初めて見えた最高地点のさらに北東にある山並み。

阿弥陀ヶ峰(876m)方面の稜線には避難小屋が意外に大きく見えた。

山小屋コレクターとしては行ってみたいが、往復で30分近いロスになりそうなので止めておいた。

みごとなカルスト台地の向こうに山頂を望む。

さっきすれ違った2人組はどんどん遠ざかっていった。当たり前だが。


南西方面。

経塚山(1040m)。

経塚山への分岐がある小ピークにはグループの方たちが一瞬たむろしていた。

それにしてもカルストの岩たちは生き物のようだ。


カラスが1羽。こんなところに餌があるのだろうか。

登山者のおにぎりをねらっているのか。
ここでお昼にしようかと思っていたのだが、早く頂上に行ってみたい気もして、ここは通過することにした。

さっき流れてきたガスも消えてくれた。一瞬のことで助かった。

右手の経塚山や避難小屋もくっきり見えてきた。


いったん下って、まずあそこまで登る。

そして最高地点を振り返る。

弧を描いて連なる霊仙山のピーク群に囲まれた谷はすり鉢のようになっている。


分岐点への登りは雪を踏みしめながら。


こんなにきれいに穴の開いた石灰岩もあった。

再び最高地点。

1030mピークが左手に見えてきた。

分岐点ピークに到着。

ここも岩だらけ。

もう山頂はすぐそこだ。

分岐点を通過。

いよいよ最後の登り。雪が時々、靴の中に入ってしまった。

すり鉢。

ラストスパート。

はい、到着。

時刻は12:20。登山口から2時間40分ほどかかった。

コースタイムは2時間50分なので、まずまずのペースだった。

三角点は二等。

風下では若者の団体さんがにぎやかにお昼を食べていた。

山頂のすぐ西にある小ピーク。

1030mピーク。

やはり人気の山らしく、ひっきりなしに登山者が行き交う。

標柱で自撮りをしていたら、カップルのうちの男の方が「撮りましょうか」と声をかけてくれたので、お願いした。
お礼に2人で撮ってあげた。彼のカメラは私と同じニコンの一眼レフだった。

そしたら、横からおじさんが出てきて、「私もお願いします」と言うので、こちらも快諾。
頂上からは伊吹山(1377m)が見えるはずなのだが、霞んでよく見えない。
これは残念だった。
琵琶湖もかすかに見える程度。

pm2.5の影響もあるのか、この時期はそもそも厳しいのかもしれない。
風が避けられそうな北斜面の石の上に腰掛けて、お昼にする。

それでも寒いので、ダウンを着込んだ。
ゆずレモンをポットのお湯で飲み、🍙2個いっぺんに食べる。
さっき、あんパンを食べたばかりだったので、すぐお腹いっぱいになった。
唐揚げは2個残っていたが、1個しか食べられなかった。
腰かけた石のすぐ横にあった木に、別の山名板がくくりつけてあった。

電波が通じたので、facebookに投稿。30分ほど休んで出発する。
標柱の近くには、また別の団体が集結していた。

お疲れの方も。

さっきの団体は出発の準備。

来た道を分岐点まで戻る。


最高地点と山頂。


ここから急な下り。足元がぬかるんでいる。

経塚山の登りも急に見えるがそれほどでもない。

道は泥濘と化しており、めちゃめちゃ滑る。

これはマジでアイゼンが必要だ。

チェーンアイゼンを持ってきていたが、これではほとんど意味がないと思い、つぼ足のまま耐える。
道は滑るので道を外れると、今度はコケが根っこごと地面から剥がれて、さらに滑ってしまう。
汗が出てきたので、山頂で着たダウンはまた脱いでしまった。
後ろからさっきの若者グループが下ってきた。
女子がキャーキャー悲鳴を上げていた。

こちらは、なんとか転ばずに鞍部まで下りてきた。

登り返し。


分岐点ピークを改めて振り返る。

その左に、最高地点と分岐点ピークの鞍部。

経塚山の山頂はすぐだ。

ここは落合口もしくは柏原口から霊仙山へのルートの九合目という位置づけになっているようだ。

右へ行けば避難小屋。

すぐ近くに見えるので、ちょっと心が動いたが、やはり寄り道はせずに前進する。

経塚山から眺める最高地点(左)と霊仙山山頂(右端)。

スリップに気をつけながら、尾根づたいに下っていった。


(つづく)
【2016年3月5日(土)】霊仙山
登山口から1時間ほどで、芝生状になった尾根が見えてきた。

道を離れて登ってみたら、基準点があった。

このあたりが笹峠のようである。

地形図には行者の谷に下りていく道との分岐になっているが、それらしき道は見当たらなかった。もう廃道になっているのだろうか。
その代わりというのも何だが、白骨化した木々が何本も横倒しになっていた。

ここからは、正面にこれから登ることになる霊仙山のにせピーク(近江展望台、1003m)が望めた。

あんなの登るの?ってほど急なのだが、地形図を見ると、確かに300mほど登っている。

でも、あそこまで登れば、あとはほぼ平らだ。

しかし平らと言っても楽な道ではなかったことを後で知ることになる。
この峠はちょっとしたカルスト地形になっていた。

南の方角もやや展望があった。
自信はないが、これは鍋尻山(838m)か。

こちらはヨコネ(764m)だろうか。

こののっぺりしたのは御池岳(1247m)のようだが。

いったん下り、苔むした石灰岩の中を登っていく。


海獣の群れのようにも見える。


この注意書きを出してくれたのは、上丹生バス停前の西出商店。

この道標を過ぎると、傾斜が一気に急になる。


ハゲ山なので、登るに従い眺望はみるみる開けてくる。
ただ初めての土地なので、どれが何山なのかさっぱり分からない。
この不安定な状態では地図も広げられないので、下山してから改めて確認することにした。
鍋尻山?

比婆山(669m)かなあ。

遠くに御池岳。

急坂は石灰岩が露出した斜面だが、土の部分が多く、それが道になっていない。

登山者の歩くコースが拡散しているので安定した場所がなく、ほんとによじ登るという感じだ。

歩いてきた尾根を振り返る。

さっきの2人組も振り返って景色を眺めている。

こんな歩きにくい斜面はめったにない。


途中、休んでいる単独男性を追いついた。
「いやあ、これはもはや登山道じゃないですね。よじ登っている感じです」
と声をかけると
「ほんまですわ。でも、景色がよくて最高です」
と関西弁。そうだ、知らないうちに晴れてきていたのだ。
「今朝はぐずついていたので、どうなるかと思いましたが、よかったですね」
ほんとによかった。
振り仰ぐと、もう少しのように見える。

さっきの男性はかなりバテテいるようでピッチが上がらない。

雪はそれほど深くないようで助かった。

傾斜も緩やかになってきて、ひと息ついたが

目指すピークはもう少し先だった。


気を取り直して雪の上を行く。その方が歩きやすい。

あちらは琵琶湖方面なのだが、霞んでいて湖岸線がよくわからない。

再び、南西の方角を振り返る。

それにしても、このカルスト台地は激しい。


後ろの方々も苦戦している。


こんな山は初めてである。


とうとう単独男性はさらに後から来た2人組にも追い抜かれてしまった。

頂上直前で初めて霊仙山の最高地点のピーク(1094m)が見えた。

おお、ようやく1003mピークに到着。

笹峠から45分かかった。

道標には「近江展望台」と書かれている。
かなり甘い採点だが、「登った山」に参入する。
別に、ギネスに申請するわけでもなし、自己採点で構わないのだ。
それにしても、ここからの展望も見事だ。
霊仙山がいくつものなだらかなピークで構成されているのが分かる。

右奥の饅頭のようなピークが三角点のある霊仙山の山頂(1084m)。

西の方角には男鬼山(683m)あたりだろうか。

ここからほぼ平らだから楽だと思っていたのが大間違いだった。
石灰岩が尖って露出しており、足場が非常に悪いのだ。

常に下を見ながら歩かねばならず、スピードが出ない。
しかし、想像していたのとは全く違う奇観である。


こんなのが見られて、ガスでなくてほんとによかった。

土が露出している斜面からは湯気が出ている。

陽射しに温められて、土中の水蒸気が盛んに蒸発しているのだ。

道は徐々にトラバースしていくようだが、私はあえて尾根筋を歩き、1030mピークを目指した。


ここに地図にはない山名があることを期待したわけではないのだが、来てよかった。

前面に霊仙山のピーク群が一望できたからだ。

左から順に拡大してみていこう。

これは霊仙山の山頂。

経塚山へ向かう分岐のある小ピーク。

最高地点との鞍部。

最高地点。

その手前の登山路。

石灰岩も雪と一緒では黒く見える。


今まで見たことのない山岳景観だった。
いったん下って、1030mピークを振り返っておく。

深く切れ落ちた、その南斜面。

この後もさらに、足場の極端に悪い道が続く。

トラバースも難儀なので、素直に尾根を行くしかない。

石と土だけで木がほとんどないのは土壌のせいもあるのだろうが、風と雪の影響もあるのだろう。


風を避けて、登山者が昼食中。


そういえば私もお腹が空いてきた。最高地点まで頑張ろう。
だが道のりは長い。


見て下さい。この岩だらけの景観。

こんな空き地があると、ホッとする。

下の方は、土。どんどん土砂が流出しているのではないか。

若い灌木がまばらに生えている程度だから。

完全に稜線にのると、左手にある山頂がよく見える。

あそこまで行くにはぐるりと回り込まなくてはならない。

前方には、最高地点の前の小ピークが現れた。

つい一月くらい前までは、あの谷も真っ白だったのだろう。

やっと岩がまばらになってきた。

のはいいのだが、ところどころ尾根が広がっていて、残雪がある分、道が拡散している。


これはガスが濃かったら、道に迷ったかもしれないと思った。
(つづく)
【2016年3月5日(土)】霊仙山
もともと2月13~14日で琵琶湖に行く計画を立てていた。
禁足期間なので山には登れないから、ということで行き先をあれこれ健闘した結果、琵琶湖に浮かぶ二つの離島(沖島と竹生島)を訪ねることにしたのだ。
このうち、沖島には人が住んでいるということを初めて知り、俄然興味がわいた。
しかし、この2日間は「春の嵐」になるという直前の予報で、予め取っておいた新幹線乗車券を3月5~6日に変更、旅行そのものを延期したのだった。
でも、3月になると禁足期間が明けているので、山に登ってもよくなった。
2日間とも登ってもいいのだが、日曜日の予報が一時雨だったので、登山は土曜日だけにして、日曜日は当初の予定通り、沖島に渡ることにした。
では、土曜日はどこに登るか。
地図を見たら、彦根の東に霊仙山(1094m)という手頃な山があるではないか。
コースタイムも5時間ほどで周回コースがとれる。
ヤマレコを見ると、登山道沿いには「廃村」もあるらしい。
こんなおいしい山はない! ということで即決してしまった。
問題は、登山口までの足である。
最寄りの駅は近江鉄道の多賀大社前。
これだと未乗区間の「高宮~多賀大社前」を乗ることもできる。
ただ、登山口までのバスはもう通じていないのでタクシーを使わざるを得ない。
検索してみると、多賀大社前駅から登山口まで片道3500円ほどかかる。
う~ん、だったらレンタカーの方が安い。米原駅からレンタカーを借りることにした。
乗り鉄は、たった2駅なので、下山してから車を駅前に置いて、ピストンすればいい。
車を借りれば、日帰り温泉にも手軽に行けるので一石二鳥三鳥だ。
うん、これで方針は決定。
当日は4時半前に起床。駅前で朝食だけ調達して、5:11新所沢発の電車に乗り込む。
まだ早かったけど、お腹が空いたので車内でパンを2個とも食べてしまった。
車中はずっと、岡田喜秋「定本 日本の秘境」(ヤマケイ文庫)を読んでいた。
高田馬場で山手線に乗り換え、品川から6:23発のぞみ3号博多行きに乗車。
今日の予報は曇り時々晴れなのだが、かなり霞がかかっていて丹沢すら見えない。
富士山は何となく見えたが、あまりすっきりしない天気だ。
この先は名古屋近くまで爆睡してしまった。
名古屋で、7:56発こだま695号新大阪行きに乗り換え。

わりと混んでいたけど、普通に座れた。
米原には8:27に到着。西口に出て、200m離れたトヨタレンタカーへ。


路面は濡れている。空には厚い雲が垂れ込めていて、なかなかテンションが上がらない。
せっかくの車だし、長年の懸案でもある湖東三山(山ではなくお寺)を回ってしまおうかという気分すらもたげてくる。
その一方で、ここは初めてのエリアなので、山に登っても周りにどんな山が見えるのかよく分からない。
そういう期待がない分、逆に、ガスってももったいないという気持ちが薄い。
結果として、情報の少なさが登山決行を後押ししたことになった。
旧米原町のマンホール。

町章の中に、町の花サツキ、外側に町の木イチョウ。
町章は「まいばら」の「マ」の字を図案化したもの。
米原を8:45に出発。初めて「軽」のレンタカーを借りたが(12時間、保険込み会員割引で6210円)、愛車のパジェロミニより走りがとても軽快。
パジェロがあまりに燃費が悪く力もないので、買い替えの時は普通車にしないといけないかなあと思っていたが、これなら軽で十分だ。
最近の軽は進化したなあ。
途中のセブンイレブンで昼食を調達。
アクエリアス500cc2本、🍙2個、行動食のあんぱん、そして鶏の唐揚げ(5個入り)。
小腹が空いたので、唐揚げは運転しながら3個食べてしまった。
登山口はナビに設定する適当なスポット名称がないので、最寄りの多賀大社で設定。
その先は地図を確認しながら行くことにする。
段々、山奥に入ると心細い道になる。
関西という見知らぬ土地で、今にも泣き出しそうなこの天気。
ちょっと緊張してきた。
でも、登山口に着いてみると、車が6~7台並んでいる。

「あ、こんなに入ってるんだ」。ホッとした。
普段なら、「げ、こんなに来てる」と思うのに、人間と言うのは現金なものである。
軽くストレッチをして、靴ひもをしっかり結ぶ。
足首を回しても、ほとんど違和感がなく、治っていることを実感できてうれしい。
9時半すぎ、出発。

登山口周辺には、車庫や物置の廃屋が並ぶ。



こんな里にもまだ雪が残っていてびっくり。ちょっと先が思いやられる。

でも、登山口で2組の登山者と鉢合わせし、何だか心強い。


登山届のポストがあるので記入しようとしたら、用紙がなかった。
これではポストの意味がない。
登山口には増えすぎたニホンジカの駆除を伝える立て看があった。

「捕獲」というやわらかな表現にしてある。
さて、こちらも登り始めましょう。

いきなりの急登である。
登山口の標高は330mほどなので、標高差850mほどの登山となる。
禁足期間明け2回目の登山としては、少しハードかもしれない。
10分ほどで苔むした石垣が姿を現した。


廃村となった今畑集落に足を踏み入れることになる。


私は友人に「廃屋フェチ」などと言われるが、そもそも遺跡が好きなのである。
石で作った建物は何百年も何千年も残るが、日本のように木の建築はあっという間に自然に返り、土に埋もれてしまう。
掘らないと分からないし、掘ってもせいぜい「柱穴」が確認できる程度である。
そういう意味で、日本の村が破棄されて、その痕跡をとどめているのはせいぜい数十年、長くて100年だろう。
ここ今畑集落は、ざっと10戸ほどの家屋があったように見えるが、最後の住民が離村したのは10数年前くらいのように見える。
車道から徒歩10分ほどだが、家の前まで車が横付けできないのは、住民が高齢化してくるとかなりきつい。
廃村にならざるを得ない運命だったのだろう。
それにしても、この村を成立させていた生業は何だったのか。
急峻な傾斜地なので、畑はあったとしても猫の額程。
林業や炭焼きあたりなのか、きちんと調べてみたいが、その時間もないのが残念だ。
いよいよ集落の中心部。


共同で使用されていたと思われる水場がある。

集落そのものが急傾斜地にあるので、屋敷の敷地は階段状になっている。

石垣もかなり堅固だ。


屋根や壁の痕跡がないのは、離村する際に丁寧に解体したのだろうか。


そうするメリットが思い浮かばない。不思議である。

こんな小さな集落にも寺があったらしい。

宗金寺とある。
離村した住民の子孫らが墓参りの際などに戻ってくるのか、寺はその後も手入れがされているように見えた。
このほか、土壁の蔵も残りがいい。


最もしっかり残っている家屋には多賀町教育委員会の看板があった。

この集落を若干整備して、観光資源にしようとしているのだろうか。
というより、まずは「調査」対象にしているのかもしれない。

無人になった村にも春はやってくる。

福寿草が落ち葉の中から、あちこちで顔を出していた。

実は福寿草を見るのは初めてだった。
梅の花も何となく淋しげだった。

ここは廃屋というより屋敷跡の景観だ。

五右衛門風呂や流しなど、タイルやレンガで作った「施設」が残骸となっていた。



もっと隅々まで丁寧に見たかったのだが、登山が主目的なので、そうそう序盤から時間を食っているわけにもいかない。

適度に切り上げて、先を急ぐ。

集落を抜けても、尾根づたいの急坂が続く。

ジグザグに道が切ってあるので、まだましだが。

いったんやや平坦な場面もあったが

あとはまた容赦のない登り。


しばらくしてだんだん、この山を形づくっている石灰岩が目につくようになってきた。

座るのにちょうどいい石だが、休まず通過。
集落から200mほど登ると、道はトラバース状となる。

間もなく、先行していた2人組に追いついた。


その頃、木々を透かして顕著なピークが見えてきた。

あれは霊仙山の頂上ではなく、手前の1003m標高点と思われる。
それにしても随分急峻だ。
路面にも雪が残りだした。頂上の方は大丈夫だろうか。

しばらくは2人の背を追うように歩いた。

(つづく)
【2016年2月28日(日)】嵐山・小仏峠
小仏峠から八王子側の登山口に下ってきた。
この先はもう舗装道路である。でも、これも旧甲州道中だ。

間もなく影信山(727m)への登山口があった。

学生の時、高尾山(599m)から景信山まで縦走したことがあるが、その時はここに下ってきたはずだ。
前方には下山して家路を急ぐ方々がちらほら。

梅干や梅酢、ゆず、漬物などの無人販売所を通過。

道沿いにあった寶珠寺に立ち寄ってみた。

小仏宿と刻まれた馬頭観音。

このお寺の山号は小仏山。

古びた石仏が並ぶ階段の参道を登る。

これはクスノキの仲間カゴノキ。

幹回り4.3m、高さ13m。関東有数の大樹で「小仏のカゴノキ」として都の天然記念物に指定されている。
観音様にご挨拶して、本堂へ。


境内は狭く、ひっそりと静まりかえっている。


裏には、小仏大聖不動明王尊。

紅白の梅が見ごろを迎えていた。

お寺をあとに、南浅川に沿った道を進む。

浅川神社にも参拝しておく。

午後3時半、登山口から20分ほどで小仏のバス停に到着。

次の高尾駅北口行きバスはちょうど10分後だ。

ばっちりのタイミングだが、駒木野まで歩いてみたくなった。
以前、高尾駅から歩いて駒木野を経由し、北高尾山稜を縦走したことがある。
駒木野まで行けば、歩いた道がつながるからだ。
バスは30分おきに出ているので、タイミングがよければ駒木野から乗ればいい。
歩き出すとすぐ、15:40発のバスがやってきた。

それを見送り、川沿いを歩く。

川の向こうに線路が現れた。

小仏トンネルの八王子側の坑口に達したのだ。

線路より高い位置を川が流れているのがおもしろい。
またまたバスがやってきた。さっきのは回送だったから、2台体制だったのだろうか。

バスを待っていたのは2~3人しかいなかったけど。
梅が見事。

またまた特急あずさ通過。


大下バス停も通過。

赤レンガのガードをくぐる。

明治43年(1901年)に八王子以西が開通した時のものだろうか。

高尾山へ通じる道への分岐を通過。


沢を渡る橋も赤レンガだった。

日影バス停も通過。

浅川国際マス釣場。

喫茶店の「ふじだな」は火水木がお休み。

裏高尾という地名があることを初めて知った。

旧街道らしいゆるやかなカーブを行く。

左手に小山神社を遠望。

これは一体なんだ!

石彫のアトリエだ。

しかし、こういうのを野外に放置しないでほしいなあ(笑)。暗くなると怖い。

常林寺。

摺差(すりさし)とは、なかなか由緒ありげな地名。

ここに豆腐の名店があった。

高尾山ジャンクション。静かな山里もやかましくなったかな。


南浅川の雰囲気もよろしい。


梅がまたまた見事。


高尾山道の石碑がこちらにも。

このあたり一帯は高尾梅郷だった。

その先に蛇滝口バス停。

ここから高尾山の北麓にある蛇滝に行ける。今度はこちらから登ってみよう。
路傍の井戸。まだ生活用水として現役のようだ。


南浅川の渓谷美。


もう随分、日が傾いてきた。

荒井のお地蔵様。

ちょうど次のバスが通る時刻になったが、駒木野までもう少し頑張る。

ここも梅がきれいだった。

この石碑群の前でバスが通過。

と思ったら、すぐそこが駒木野宿だった。

あと2分早く歩いていればさっきのバスに駒木野から乗れたのに。
バッドタイミングだった。
こうなったら高尾駅まで歩くしかない。
待てよ。最近、高尾にできた日帰り温泉施設って、高尾駅だっけ?高尾山口駅だっけ?
確認してみたら高尾山口駅だった。
危ない、危ない。でも、高尾山口方面の道は歩いたことがないので、初めての道を歩けるのはありがたい。
史跡小仏関跡を通過。

南浅川を渡る。

国道20号に出たら、右折。高尾山口駅へ。

途中、侠客関東綱五郎住宅跡の石碑を発見。

清水次郎長配下の「清水二十八人衆」の一人だそうだ。
閉店してしまった旅館花藤、花藤食堂。

京王線の陸橋をくぐって

やっと高尾山口駅に着いた。

小仏峠の登山口から1時間半かかった。

それにしても、この駅はすっかり垢抜けてしまった。

昨年4月に建て直されたそうである。
温泉には駅の中を通りぬけていくらしいが、まだ混んでいるような気がして、先に食事をしてしまうことにする。

お店を物色がてら、ケーブルカー&リフトの高尾山駅へ。

やはり、この時期は高尾の冬そばを食べたい。
ただ、老舗の有名店「高橋家」は混んでいたのでスルー。

表参道にもそそられる店がなく、再び国道に出てしまった。


これが高尾まんじゅうの有喜堂本店。

結局駅前まで戻ってきてしまい、最初に目をつけていた稲毛屋支店に決めた。

特別なそばを作っている店ではなさそうだが、昔ながらの駅前食堂の雰囲気が気に入った。

まずは山麓酒場を実践。熱燗ともつ煮を注文する。銘柄はその名も「高尾山」。

ほかのお客さんが「ここは何時まで営業してるの」とお店の老夫婦に尋ねた。
「まあ、5時くらいですね」
なんと、もう5時過ぎている。それじゃ、あまり長居はできない。
あわてて、とろろそばもお願いする。

明らかに手打ちではなかったが、つるつるしてて、こしもあり意外においしかった。
食べながら、あれこれ聞いてみた。
高尾山の冬そばはこの地区のそばを扱っている店全部が参加しているとのこと。
京王が音頭をとって始めて、今年で13年目だが、ブームはだいぶ落ち着いてきたという。
この店は、高尾山口駅が開業する5年前の昭和37年(1962年)に開店。
店舗は今のご主人の父君が用意してくれたものらしい。本店は八王子にあるので、ここは支店。
駅ができて、やはり繁盛したという。
「こんなとこに店があったんだね」と言われることもあるんだとか。飲食店は表参道の方に集中しており、ここは駅前の1軒宿ならぬ1軒店なのだ。
食べ終わって、5時半すぎに京王高尾山温泉「極楽湯」へ。

駐車場にも大量に車が止まっていて、かなり混んでいることを覚悟したが、芋の子を洗うほどではなかった。
これまであちこちで言った日帰り温泉と違い、客層がかなり若い。
その分、回転が速いような気がした。
真新しい木の浴槽でのんびり浸かって、さっぱり。

18:31発の電車に乗って、高尾、国分寺、東村山で乗り換え、8時前に帰宅。
今日は、禁足明け初日にも関わらず結局20km近くも歩かされてしまった。
でも足に全く違和感がなくうれしい。
【行程】2016年2月28日
相模湖駅(9:15)~プレジャーフォレスト(10:10)~嵐山(11:10休憩・撮影11:22)~登山口(11:35)~弁天橋(11:55)~小原宿(12:13トイレ・昼食13:00)~底沢(13:25)~小仏峠(14:11休憩・撮影・雑談14:42)~小仏登山口(14:59撮影15:10)~駒木野宿(16:22)~高尾山口駅(16:45)~稲毛屋支店(16:56)
※所要時間:7時間41分(歩行時間:6時間)
※登った山:1座(嵐山)
※歩行距離:19.5km
【2016年2月28日(日)】嵐山・小仏峠
旧小原宿から小仏峠に向かっている。
振り返ると、さっき登った嵐山(406m)とプレジャーフォレストの観覧車が見えた。

間もなく、国道20号と旧甲州道中の分岐にある底沢のバス停。

「照子姫の水鏡」伝説がある七ツ淵の入口でもあるが、今回はコース外。

七ツ淵の手前には美女谷温泉がある。

しかし、気になる貼り紙が。

なんと閉店してしまったらしい。
私は5年前の夏に食事付きで入浴したことがある。ものすごく熱い湯だった。
猛暑だったこともあり、汗がなかなか引かなくて大変だった記憶がある。
こんなに都会に近いのに秘湯の雰囲気があり、気に入っていたので残念だ。
閉店したのはいつなのか確認できないが、遅くとも2013年10月には閉じていたようだ。
左折して、白沢川に沿って遡る。
「山と高原地図」では、途中に橋があって対岸に渡れるような道が書かれているが、そんな道はなかった。
あてにしていたのに、結局、美女谷温泉に行ったときと同じ道を歩くことになってしまった。
やむなく右岸の道をそのまま進み、中央本線のガードをくぐる。

この道は旧甲州道中のようなので、小仏峠へ行くには正当なルートだ。
ということで納得することにする。
タイミングよく、すぐ横を特急あずさが走り抜けて行った。


それはいいのだが、かなり真剣にもよおしてきてしまった。
全く、さっきしたばかりだと言うのに。
どうやら出し足りなかったようだ。
どこかで野○ソができないか、キョロキョロしながら歩く。
明治16年建立の馬頭観音を通過。

この裏にある中央道の橋脚の裏に回ってみたが、完全な死角にはならず断念。
美女谷橋を渡り、いよいよ苦しくなってきた。

標高が上がると、ちょうど谷間に嵐山(手前)と石老山(702m)が重なって見えた。

いよいよ登山口に入るというあたりで、強行突破を試みた。
峠道に入ると、逆に適地がないような気がして、ここから植林の中の急斜面を少し下ることにした。

足場が悪かったが、なんとかクリア。やっとすっきりした。
ではリラックスして登りましょう。

小仏峠の標高は548mなので、標高差は300mほど。

旧五街道ということもあって、峠道なのに道幅が広い。


傾斜も緩くなるようジグザグに道を開いている。


何百年も人が歩き続けたからか、道は随分えぐれてしまっていた。


鉄塔の下を通過すると、束の間の平坦な道。

小仏峠までは、あと1.2km。

このあたりは中峠というらしい。峠道のちょうど中間点というような意味だろうか。

さらに、ぐいぐい登っていく。


途中で単独の女性とすれ違い、「福寿草の群落って、どこにあるか分かりますか」と聞かれた。
「このあたりに咲いているところがあるんですか」
と逆に聞き返したくらいなので、全く役に立たず。
実はこの時点で、私はまだ福寿草を見たことがなかった。
ショートカット禁止の柵を通過。

登山口から30分ちょっとで小仏峠に到着。

ここに来るのも、美女谷温泉の時以来だから5年ぶりということになる。

東屋の屋根が傾いているのは、経年劣化か2年前の大雪のせいか。

あちこちにある「高尾山道」の石碑。「道」の部分がコンクリートで固められていた。

ここで一番目立つのは、この「明治天皇小仏峠御小休所址及御野立所」の石碑。

明治天皇は明治13年6月17日、山梨、三重、京都を御巡幸した際に、この峠を越えた。
午前7時に八王子駅を出発、9時45分頃、峠に到着し、当時あった茶店武蔵屋の佐藤清兵衛方にて御輿のまま小休止。10時15分出立したという。
八王子~上野原間の鉄道が開通したのは明治34年(1901年)のことだった。
この左にあるのは、三条実美が高尾山薬王院を訪れた時に詠んだ和歌の碑。

「来てみれば こかひはた織 いとまなし 甲斐のたび路の 野のべやまのべ」
左に茶屋の廃屋があるが、いつごろまで営業していたのだろうか。
今は旅人が峠を越えるのではなく、ハイカーが尾根を歩くので、やはり山頂で休みたくなる。
客も山頂の茶屋に奪われてしまったのだろう。
当方も竹のベンチで一息いれることにしよう。

せっかくお湯を持ってきたので、カフェオレでほっこりと温まる。

15分ほど休んで出発。すぐ下るのではなく、やや北に進む。
広場は青木茶屋跡。

こちらにも標柱があった。

旅人を見守る石仏たち。

その横で、「詳細登山図」の現地販売が行われていた。

「詳細登山図」(吉備人出版)には私もお世話になっている。
持ち歩くにはかさばるので、携帯するのはいつも地形図と「山と高原地図」だが、帰宅してからルートの復習などで使う。
本当は事前にこの地図で予習しておいた方が意味があるのだが、ついつい忘れてしまう。
この地図には、ほかの地図や現地の山名板にない山名が掲載されているので、「登った山」を稼ぎたい私としては、とてもありがたい資料なのだ。
それにしても、書店だけでなく、こんなところでも販売していたとは。
実に商売熱心だ。
聞いてみると、週末にはいつも小仏峠でお店を広げているという。
「本当は高尾山でやった方が売れるんでしょうけど、地主の許可が得られたのがここなんです」
そっか。そういう事情か。
「いつもは明治天皇の碑のある方でやっているんですが、今日は地面が少しぬかるんでいたんで」
男女2人で仕事をしていたが、女性が男性の方を「ジロウさん」と呼んでいたので、この方が現地踏査から地図製作まで全てこなしている守屋二郎さんなのだろう。
「実は全部持っているんで、ここでは買えないんですが、頑張ってください」
とエールを送ると
「あ、じゃあシールをあげましょう」
と言ってくれたが、結局シールはもうはけてしまっていた。
小仏峠もこっちからは少し展望が得られる。

うっすら見える街並みは八王子方面だろうか。

下り(八王子側)も道が広く、しっかりしている。


とても歩きやすい。トレランには最適だろう。


この下りを最後に、車道に出る。


このダートは一般車両は入れない。


道端にあった水場でちょっと喉を潤す。あんまり冷たくなかった。

車止めの手前に水準点。

丁寧な説明版が立っている。明治17年の埋設のようだ・

15分ちょっとで登山口まで下ってきた。

この左手に人工の滝がある。

「真(まこと)の道」なる宗教法人が造った滝行の場らしい。

ついでにやる滝行は修行にならないと戒めている。
まわりを見回すと、山の中に入っていく階段がある。
これが「真の道」の施設への参道のようだ。

もう移転しているという噂もあるようだが、きちんと確認してはいない。
それより気になったのは階段の脇にあるレール。

これは何だ?
(276)
この傾斜からすると、運行されていたのはケーブルカーだろう。

荷物やお年寄りを山奥の施設まで運ぶのに使っていたのだろうか。

しかし、完全に廃線となっている。
ネットで検索しても、現役時代の画像を見つけることはできなかった。
運行されている時に来てみたかった。
意外なものを発見して、うれしくなった。
さて、バス停まで最後のひと歩き。登山口の駐車場を後にする。

(つづく)
【2016年2月28日(日)】嵐山・小仏峠
鼠坂(ねんざか)の登山口からほぼ1時間で嵐山(406m)の山頂に着いた。

産霊宮水上(むすびのみやみなかみ)神社が鎮座していた。

創建は昭和30年というから、かなり新しい。

相模ダムが首都圏の人々を潤していることから、湖水の浄化と平安を祈り、お宮を祀ることにしたのだとか。
私も遅ればせながら、山の恵みに感謝し、登山の安全を祈願した。
山頂からの眺めは、いささか木々が邪魔しているものの、冬枯れのためかなり見通せる。
城山(670m)の南西斜面。千良木の集落。

旧小原宿と中央自動車道。

小仏峠と影信山(727m)。

相模湖。

相模川にはいくつもの橋がかかっている。

手前から、勝瀬橋、日連大橋、弁天橋。
頂上には、国道の歩道橋あたりで見かけた方々と思しき中年女性4人グループがいた。
私とは反対の道から登ってきたのだろう。

頂上のベンチは占拠されていたので、私は少し離れた場所で休憩。

と言っても、行動食もおにぎりも何もないので、腰をかけてアクエリアスをぐいっと飲むだけ。
5分ほどで下山開始。弁天橋(上記の弁天橋とは別)方面に向かう。

こちらは標高差200mを一気に下る。


10分ちょっとで駆け下り、登山口に出た。

この道は産霊宮水上神社の参道という扱いであった。

「嵐山からの相模湖」の眺めは、かながわの景勝50選ということになっている。
古い道標がさびていた。

車道を右折し、弁天橋に向かう。
途中通ったのは奥畑という集落だが、まさにその名の通りの景観。


養護学校の手前を左折して、川岸へと下りていく。

これが弁天橋。これも「かながわの橋100選」の一つらしい。

昔はこのあたりでもボート遊びができたようだ。

ここで野良猫が近づいてきた。

みゃあみゃあ泣きながら、体をこすりつけてくる。

明らかにエサをねだっているのだが、こんなに人懐こいネコは初めてだ。
今日はあいにくネコが喜びそうなものは何も持っていない。

はちみつ梅をちぎってあげたら、案の定見向きもしなかった。
顔をしかめるところを、ちょっぴり見たかったけど。
ネコは橋を渡って、しつこくついてくる。
「おいで、おいで~」と誘ったからだろうか。

このあたりの相模川は相模ダムの直下だが、この先に城山ダム(津久井湖)があるので、ほとんど流れがない。


橋を渡り切ると、架け替えを記念した石碑があった。

弁天橋は昭和22年に相模ダムが完成後、桂川渓谷に残った唯一の景勝地として、同27年、観光目的で架けられた。
以来30年、有料橋としてハイカーや地元住民に親しまれてきたが、老朽化のため架け替えられることになり、昭和61年4月に現在の橋が完成をみたのだそうだ。
橋の名前の由来となった弁財天が、橋詰にある高台の上に祀られているので登ってみた。

柏手を打って参拝。

振り返ると、今度は別のネコが後をつけてきていた。

と思ったら、さっきのネコも一緒だった。

いやいや、ネコはそれだけじゃなかった。

どうやら大勢住みついているようだ。


雰囲気からして、ネコだけでなくホームレスもここで暮らしている様子がうかがえる。
今日はお留守なのか姿が見えない。
このネコたちはその人が飼っているのだろう。
それで、こんなに人懐こいんだと納得。
それにしても、こんなにいてはエサ代もバカにならないだろう。
どうやって稼いでいるのか。
などと考えながら、うろついていると、平らなエリアの真ん中に石仏があったりする。


かつてはお堂があった場所なのだろうか。
古い石組の橋台も残っていた。

相模川をもう一度眺めて、ネコちゃんたちともおさらば。

石仏に見送られ

旧小原宿へと急坂を登る。

標高差は70mもある。

途中に昭和10年建立の馬頭観音。

汗をかいて、段丘上にたどり着いた。


さて、昼飯だ。めざすは道の駅っぽい施設の「小原の郷」。

ここには何度か来たことがあるが、よくよく見ると、食べ物を売っていることを示す幟が出ていない。
あれれ。窓から透かして中をのぞくと民芸品のようなものしか売っていないではないか。
やべ~。どうしよう。
そんな時でも催してくるので、トイレに駆け込む。目の前にあって、よかった。
便器に腰かけながら対応を考える。
「小原宿」「食堂」とか「小原宿」「コンビニ」で検索すると、「本陣の向かいのコンビニで」などという記述を発見。
やった! 個室で小さくガッツポーズ。
さっそく本陣に向かうと、コンビニではなかったが、ラーメンの幟が出ている。

おお、ありがたい。躊躇なく入り、メニューをガン見。生姜焼き定食にする。
ワンコイン500円は安い。

しかも、なかなか美味であった。
食後のお茶をすすっていたら、この店のご主人と思しき方に声をかけられた。
「高尾山かい?」
「いえ、嵐山です」
「あ、そう。全然、人いなかったでしょ」
「いえ、それなりにいましたよ」
「弁天橋から上がって来たの?」
「ええ」
「ネコいたでしょ」
「ええ、たくさんいました」
てな感じで、彼の言うとことによると、弁天橋のたもとに仙人のような人が住んでいて、猫を20匹くらい飼っていたという。
近くの老人が集まって酒盛りをすることもあったが、長く糖尿病を患って入退院を繰り返し、昨年亡くなってしまった。
「家(東屋)あったでしょう」
「はい、食器もあったし、わりときれいでしたよ」
「あそこも片づけないといけないなあ」
それと、このあたりには猿がかなりいるらしい。
「90匹くらいいてね、農作物の被害がすごんだよ。神奈川県は条例で駆除ができない。山梨はどんどんやっているのに。あとはイノシシやシカも。ここに登山者が来ると、絶対エサをやらないように言っているのさ」
幸か不幸か、その他の動物には会わなかった。
「うちは代々林業をやってきたんだけど、最近は全然だめ。杉やヒノキなんて、50~60年ものが1本500円でしか売れない。祖父の代に植えたものだけど、乾かしたりちょっと手間をかけるだけで赤字になる。だから間伐材で、こんな椅子をこしらえたりしている」
店内には、木工のイスやテーブルのほか、動物の木彫などが並んでいた。
「最近はナラやクヌギの薪の方が商売になる。ホームセンターでは1束800円するがうちは680円で売ってるのよ。2束で1晩もつ。おきも温かいからね」
話は変わって
「去年(11月27日)、皇太子が石老山に登ったときは大騒ぎだった。機動隊からいろいろと指導された。沿道で手を振る時は脇をしめてやるようにって。手を伸ばして大きく振ると、何かものを投げるのではないかと思われて警察がすっとんでくる。二階から手を振るのもだめ。機動隊は当日200人も出た。皇太子がちょっと山に登るだけで、どれだけお金がかかっているのか分からない。石老山のベンチはみんな相模原市が新しくしたし」
確かにお金はかかるのだろうけど、たまには気分転換に山に登らせてあげたい気もする。
「近くの五本松という割烹旅館で、皇太子が休憩入浴したのだが、その前にあそこは檜風呂に新調した。皇室から領収書の要らない金が出ているのではないかと噂になっている」
それは多分ないと思うけど。
話は尽きなかったが、そろそろ出発しなくては。
外に出て看板を見ると、この店は確かに木関係の店だった。

向かいにある小原宿本陣を撮影。見学はパスした。また来る機会もあろう。


今回は役に立たなかった「小原の郷」の前を通り、小仏峠へ向かう。

(つづく)