山と鉄

山歩き、乗り鉄、廃線・廃道歩き、廃村歩き、駅舎探訪などの日々を記録します

井伊谷(4)

【2015年12月28日(月)】井伊谷
井伊氏の歴史を古代までさかのぼったところで、本日のメイン、竜ヶ石山(りゅうがしやま、359m)に向かう。
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ふもとに竜ヶ石洞という鍾乳洞があり、かなり賑わっていたが、今回はパス。登山に専念する。
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時間節約のため、林道を車で行けるところまで登ってしまう。
登山口には手書きの道標がたくさんあった。
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14:15過ぎ、登山開始。
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すぐに分岐。右から戻ってくるつもりなので、左へ。周回コースなのだ。
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しばらくは植林の道を行く。標高差は120mほど。
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次第に、石灰岩が露出してきた。
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見晴し台の矢印があったので、行ってみる。
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おおすごい。浜松市の中心街が遠望できる。
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ふもとの神宮寺川の流域。
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南西には浜名湖の湖面が光っている。
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さらに進むと、きれいなバイオトイレ。
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そのすぐ先に三柱の神様。
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左から大峰大神、秋葉大神、白山大神。

登山口から十数分で竜ヶ石山に登頂。
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ベンチに老婦人とその息子さんらしき人がいた。

展望塔があったので、早速登ってみる。
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いや、素晴らしい眺めである。
さっき三岳山(467m)で見落とした富士山がばっちり見えた。
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西から見る姿はとても新鮮だ。

でも、その右に連なる峰々は全く分からない。安倍奥の稜線だろうか。
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井伊谷川をはさんでお隣の三岳山。中腹に兎荷(とつか)の集落。
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井伊谷川下流の集落。
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神宮寺川流域。
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浜松市街方面。
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浜名湖。
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風車群。
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おさらいとして広角で見ていこう。
東の方角。
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南東の方角。
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南西の方角。
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頂上は南斜面の木々が伐採され、ハンググライダーの滑走場となっている。
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ここに「初生(はつおい)の鐘」がぶら下がっていたので1回鳴らしてみた。
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この鐘は昭和8年頃に設置された三方原村1区(現浜松市初生町)の火の見やぐらに使われていたもので、昭和30年代にその役割を終え、50年近く、自治会の防災倉庫に眠っていた。
浜松市が2007年4月に政令指定都市になったのを記念し、北区のシンボルとしてよみがえったとのことである。

頂上の裏手に、竜の爪石というのがあると標識にあったので行ってみた。
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これのことのようである。
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案内板などはとくになかったが、これが竜ヶ石山の名の由来になったらしい。
調べてみると、「竜が山頂に降り立ち、西の方角に向かって飛び立った時、この石に爪痕を残していった」という言い伝えがあるそうだ。

これがその爪痕なのだろうか。
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山頂に戻ると、ベンチのわきに三等三角点がひっそりとあった。
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西に尉ヶ峰(433m)。
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さて下山することにしよう。
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急な坂を下ると間もなく、カルスト地形の場所に出る。
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右折すると登山口だが、直進して三合山(297m)へ向かう。
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すぐに到着。
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樹林帯で何も見えないが、竜ヶ石山だけはシルエットで確認できた。
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なぜか「富士山」の標識。
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この方向に富士山が見えるということなのだろうか。
それとも、この山の別名? それはなさそうだが、人騒がせな看板だ。

カルストに戻る。
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こうした石灰岩の石柱をカレンフェルトと言うらしい。
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暗いトラバース道で登山口に戻る。
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はい、戻ってきました。1周45分だった。
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林道の奥200mのところにあるという夫婦岩には車で行く。
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そのうちの多分、夫の方が岩抱き桜に抱かれている。
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行者穴があるのも夫の方。
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妻の方はわりと孤高な感じだった。
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まだ明るいので、方広寺に行ってみることにした。
ふもとに竜ヶ石山がきれいに望めるスポットがあった。
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方広寺へは車で5分ほど。
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門前町が形成されていて、ちょっとびっくりした。
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しぶい料理屋さん「柳屋」。でも営業しているかどうかは不明。
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こちらは、見るからにもう営業していない。
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奥にある店はちゃんと開いていた。
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読めないが、堂々たる門である。
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奥を覗くと、拝観料を取るようだ。
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もうそろそろ暗くなるし、せっかく来たが今回は見送ることにした。
代わりに、夢の浮橋なるものに立ち寄る。
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これのことであった。
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三重塔を見上げて、おいとま。さて、次回来ることがあるだろうか。
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この後もう一度、渭伊神社に戻り、木漏れ日のない写真を撮影する。
それがさっき紹介したものだ。

さあしめくくりは温泉。ナビに従って、浜松市内の「あらたまの湯」へ。
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泉質はナトリウム-炭酸水素塩泉(アルカリ性)なので、つるつる系。660円。
近代的な温泉だったが、ゆっくり汗を流すことができた。
40分ほどで上がって、17時半に出発。

浜松18:44発のこだまに乗りたいのだが、道がかなり混んでいて、なかなか進まない。
裏道を使ったりしながら、なんとかレンタカー屋に18:30過ぎに到着。
手続きをして、走って駅へ。
弁当と飲み物を買い込んで何とか滑り込みセーフ。
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とにかく、ホッとひと息。ビールで喉を潤した。
晩御飯はひつまぶし弁当。
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温かいともっと美味しかっただろうが、まあ満足。
夜10時過ぎに帰宅できた。
遺跡めぐりに三つの小さな登山を交えた、ちょっと欲張りな旅だった。

【行程】2015年12月28日
◆三岳神社(9:43)~三岳山(10:00撮影10:06)~二の城址(10:11)~三岳神社(10:19)
※所要時間:36分(歩行時間:同)
※歩行距離:1.3km

◆総合事務所(12:33)~登山口(12:39)~城山(12:47撮影12:52)~足切観世音(13:06)~二宮神社(13:16)~総合事務所(13:33)
※所要時間:1時間(歩行時間:同)
※歩行距離:2.5km

◆登山口(14:16)~竜ヶ石山(14:30撮影14:43)~三合山(14:51)~登山口(15:02)
※所要時間:46分(歩行時間:43分)
※歩行距離:1.6km

◆累計
※所要時間:2時間22分(歩行時間:2時間19分)
※登った山:4座(三岳山、城山、竜ヶ石山、三合山)
※歩行距離:5.4km
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井伊谷(3)

【2015年12月28日(月)】井伊谷
龍潭寺(りょうたんじ)を出て、通りを渡り、数分歩いた田んぼの中に、「井伊氏出生の井戸」と伝わる井戸がある。
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立派な白壁で守られている。
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井伊氏の始祖は井伊共保とされる。
家譜によれば、藤原冬嗣六世の孫藤原共資が正暦年間(10世紀末)に遠江守に任ぜられて遠江敷知郡村櫛に来住、その子共保も長和年間(11世紀初め)に遠江守に任ぜられて井伊谷に住み、井伊氏を称した、とある。

その共保がこの井戸から生まれたという伝説がある。
龍潭寺の和尚が江戸中期にまとめた「井伊家伝記」には、「寛弘七年(1010年)正月元日、引佐郡井伊谷にある八幡宮の神主が社参のおり、神田の中にある井戸から容姿端麗な子供が誕生、その井戸の水で産湯をかかり、やがて井伊氏の始祖共保となった」と記されている。
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浜松市教委が設置した現地の説明板の内容は若干異なる。
「一條天皇の寛弘年間、藤原鎌足十二代の子孫備中守共資(ともすけ)公が遠江介として村櫛へ下向、元旦領内平安祈願のため渭伊神社へ参拝されました。たまたま神域の当井戸の傍に嬰児を見付け抱上げつくづく見れば、俊秀麗顔、常人にあらずまことに神授の神童なることを覚り己が子と致しました。後年共資公が自身の一女と婚せしめ、郷名にちなみ名を井伊共保と称し・・」

同じような出生譚なのであるが、とくに井伊氏の始祖の出生譚が井戸に関わっているところが、ミソである。
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(この碑文には「藤原共保」とある)

ここ井伊谷は古代、「井の国」と呼ばれていた。
神宮寺川、井伊谷川などが流れ、水が豊富である上、湧き水も豊富だったことが、その名の由来とされている。
文献には、平安時代に「井の八郎」、鎌倉・南北朝時代には「井伊介」の名が登場する。
「井伊」の名が「井の国」に由来することは明らかであり(「木の国」→「紀伊」と同じ)、井伊氏は代々、この地を治めてきた国人領主であった。
伝説は、その祖先が11世紀と伝えているのであるが、もっと古かったというのが近年の定説である。
先ほど見学した北岡大塚古墳が井伊氏の祖先の墓だとしたら、その歴史は4世紀にまでさかのぼることになる。

とにかく井戸の中を覗いてみよう。
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さすがにもう水は湧いていないようだ。

歴史の旅も小休止。お腹が空いてきたので、お昼にする。
井伊谷宮の門前にあった「新宮」という中華料理屋ののれんをくぐる。
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お目当ては浜松餃子。
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他と違うような特徴的な味ではなかったが、ゆでもやしを添えるのが浜松餃子風らしい。
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もちろん、これだけでは足りないので、合わせて肉にらラーメンをいただいた。
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とくに有名な店ではないと思うが、かなり繁盛していた。

お腹がふくらんだところで、井伊氏の居城があった城山(115m)を目指す。
例の井戸からは1kmほど北に位置する。
登山口がよく分からないが、観光案内板によると、総合事務所の脇にあるようだ。
行ってみると、それらしきものがあったので、車を置いて歩き出す。
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しかし、これは違う道だったようで、登り口を探しながら、東へとトラバースしていく。

すると、300mほど歩いたあたりに、城山公園への標識があった。
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ここにも直虎の幟がはためいている。

果樹園の中をぐいぐい登っていく。
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中腹に、城山稲荷大明神があったので、寄り道。
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それにしても、こちらの幟も景気がいい。
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遊歩道はずっと舗装してある。
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ここからは井伊谷を展望することができた。
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登山口から10分かからずに登頂。
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城山の南麓にあった井伊城は、井伊氏の居城だった。
延元元年(1337年)から元中二年(1385年)まで約50年間、宗良親王はここを本拠として各地を転戦したという。
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頂上からは三岳山(467m)も望める。
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ここから西に下り、二宮神社に向かう。
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ふもとに真っ赤なお社と鳥居があったので、これが二宮神社だと思ったが違った。
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ちょっと道に迷い、人に訪ねつつ、たどり着いたのが足切観世音。
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延元四年(1339年)、南北朝騒乱のさなか、宗良親王が敵の流れ矢を受け、落馬した。
駆け付けた従者が介抱したところ、不思議なことに刺さった場所に傷跡はなかった。
親王はその夜、観音の夢を見たので、翌朝、持仏堂の扉を開けてみた。
すると、観音様の片足が鮮血に染まっていたので、身代わりになってくれたことに感謝し、終生の守り本尊として祈願を続けた。
以来、この本尊は足切観世音と呼ばれ、新たに創建された円通寺がこの観音様を守ってきた。
その後、堂宇は荒廃したが、慶安二年(1649年)、龍潭寺十代黙念和尚により再興されたのが、このお堂である。

足の健康に御利益があるのか、わらじがたくさん奉納されていた。
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今はとてもひっそりとしている。
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近くの巨岩の上に立つ石仏は文化十四年(1817年)の建立。
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車に戻ろうと歩いていると、二宮神社を発見。
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立派な神社だった。
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三宅氏の始祖多道間守(たじまもり)と宗良親王の二柱の神を祀っている。
もとは三宅神社と称した。
井伊氏は、渭伊(いい)神社を象徴する井桁と、三宅神社の橘を家紋としている。

二宮神社の旧本殿跡。
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足跡石。無数にある小さな窪みが、鬼の子供の足跡だと言われてきた。
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そして御神木。
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三つの峰が連なる三岳山。
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すこし歩くと、普光寺。
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足切観世音を守ってきた円通寺が住職不在となったことから、昭和31年、隣接の明円寺と合併し、この普光寺となった。
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駐車場に戻る。
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次の目的地は渭伊神社。
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本殿の裏山に、古代の磐座(いわくら)遺跡があるのだ。
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まずは本殿。
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創建年代は不詳だが、「三代実録」には「貞観八年(866年)十二月二十六日授遠江国正六位上」とあり、延喜式にもその名が見えることから、平安時代初期には成立していたと考えられる。

もともとは龍潭寺の境内にあったが、南北朝時代に現在地に移された。
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御神木。
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左から英霊社、稲荷社、祖霊社。
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左から若宮八幡社、水神社、御鍬社、菅原社
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参拝を済ませ、裏山にある天白磐座遺跡に向かう。
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巨石群を神の依代(よりしろ)とした我が国屈指の規模を誇る古代祭祀遺跡だ。
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平成元年(1989年)に行われた発掘調査により、4世紀後半から平安時代に至るまで、連綿と祭祀が行われた場所であることが判明した。

東西に屹立する巨岩は右が高さ7.4m、左が5.2m。
右の岩の西側の岩陰から、古墳時代の手こね土器や鉄鉾、滑石製の勾玉などが出土。
また二つの岩の間からは、平安時代の経筒容器や和鏡が見つかった。
調査を行った同志社大学の辰巳和弘教授は、「井伊氏の祖先と思われる豪族が、水の祭祀を行っていた場所」と推測している。
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まさにここが井伊氏の原点というわけだ。

(つづく)

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井伊谷(2)

【2015年12月28日(月)】井伊谷
三岳山(467m)を下り、車で井伊谷へと向かう。
途中、三岳神社の鳥居があったので写真に収めておいた。
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何度か車を停めて、景色のいい場面を拾っていく。
三岳山。
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山腹の三岳集落。
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「新生の里 地蔵野」と書かれた石碑を見つけたが、調べても意味はよく分からなかった。
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柑橘類の産地であることは間違いないのだが。

ここまで下ってきて、ようやく井伊谷の盆地を見渡すことができた。
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振り返ると三岳山が両翼を広げていた。
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途中、右折して、北岡大塚古墳に向かう。
井伊氏の祖先とも考えられる豪族の墓らしい。

沿道にあった土蔵。土の色が鮮やかだ。
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周辺の里山に和む。
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古墳は現代の墓地の奥にあった。
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昭和54年に発見された古墳で、平成7年に発掘調査が行われた。
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その結果、全長約50mの前方後方墳で、4世紀中頃の築造と判明した。
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天竜川以西すなわち遠江西部では最古の古墳ということになるそうである。

近くにあるはずの北岡2号墳は探したが見つけられなかった。
近世の石碑群はあったのだが。
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再び車に戻る。
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やっと、井伊谷の本丸に乗り込む。
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まずは井伊谷宮に参拝。
駐車場からは神宮寺川をはさんで三岳山が望めた。
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井伊谷宮は、明治維新の際に建武中興に尽力した人々を祭るために各地に作られた神社のうちの一つである。
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彦根藩の知藩事だった井伊直憲が宗良親王を祭る神社を井伊谷に創建することを出願し、認められた。
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三岳城の項でも紹介したが、宗良親王はこの地を拠点に南朝勢として奮戦、当地で亡くなったとされている。
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明治3年に宗良親王御社として完成したが、明治5年に井伊谷宮と改められた。
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翌年に官幣中社に列せられている。

境内では正月の準備でおおわらわだった。
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本殿向かって左に摂社の井伊社が鎮座している。
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由来は以下の通り。
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近くに水原秋桜子の句碑。「水無月の落葉とどめず神います」
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激しい落葉なのにさすがに神社だけあって、きれいに清掃されており、玉砂利の上には落葉1枚ないというすがすがしさを詠んだ。
秋桜子は侍医として宮中に奉仕しており、昭和48年、井伊谷宮に参拝した際の前詠だそうだ。

こちらは自然石の慈母観音。
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母が子を抱いているように見えるだろうか。

本殿の奥には、宗良親王の御墓がある。合掌。
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このまま歩いていくと、となりにある井伊氏の菩提寺龍潭寺(りょうたんじ)に裏から入ることができる。
そこには、こんな幟が。
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これを見て初めて気づいた。そうだ、来年の大河ドラマの主人公は井伊直虎だった!
直虎は井伊氏の「女地頭(領主)」だ。
井伊氏にとって、戦国時代は受難の時代だった。
桶狭間の戦い(1560年)で、今川義元に従った直盛が戦死。養子の直親はその2年後、讒言のため殺され、この時点で井伊氏の男子は2歳の直政だけになってしまった。
窮地を救ったのは、龍潭寺の南渓和尚であった。直盛の一人娘直虎を中継ぎに立て、幼い直政はいったん三河の鳳来寺にかくまったのである。

直政は長じて、浜松城主・徳川家康の家臣となり、有名な赤備えで戦功を上げ、関ヶ原の戦いの武勲により近江国佐和山城主に18万石で取り立てられている。
のちに徳川四天王の一人として名をはせたのは、あまりに有名だ。
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直虎が拠点としたのは、まさにこの井伊谷であり、来年の放送に向け、盛り上がらないわけはない。
まずは、歴代当主の墓所にお参りしよう。
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向かって左が直盛の、右が始祖共保の墓である。

その左に並ぶ五輪塔は、奥からそれぞれ直盛夫人、直虎、直親、直親夫人、直政の墓。
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これらは井伊家を支えた武将たちの墓。
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龍潭寺の本堂。延宝四年(1676年)再建。
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開山堂。元禄十五年(1702年)建立。
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仁王門。これは昭和62年の建築。
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鐘楼堂。
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東門。
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折角なので拝観していく。500円。
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最近、引き出しの奥から発見した内閣制度創始100周年記念500円硬貨で支払ったら、受付のおばさんに「記念硬貨ですけど、いいですか?」と言われた。
親切な方だ。「はい、大丈夫です」
金券ショップとかで交換すれば、少しは色がついたのかもしれないが、まあいいや。

玄関には立派な屏風絵。
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売店で「浜納豆」なるものが売っていた。
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試食をしてみたら、しょっぱかった。甘納豆のように甘いお菓子だったら買おうかと思ったが、やめた。

丈六の釈迦牟尼仏。遠州最大の大仏で、享保十四年(1729年)作の寄せ木造りだそうだ。
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本堂の中を一周する。
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江戸時代初期、東橋斎旭英筆の「龍虎の襖絵」。
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ご本尊・虚空蔵大菩薩にお参り。
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宗良親王の位牌。
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琵琶湖から引き揚げられたという十一面観音菩薩像。
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江戸時代初めに琵琶湖の漁師が投げた投網に引っかかって見つかったとされる観音様だ。
彦根の殿さまに差し出され、この寺に寄進された。
これに先立つ戦国時代、織田信長が比叡山など湖畔の寺をことごとく焼き払った時、多くの寺でご本尊を火から守るため湖に沈めたと言われる。
それらの中には後に引き上げられることなく、そのままになっていたものもあったらしい。

これは近年作ったものだろう。井伊直虎の木像。
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稲荷堂。寛政八年(1796年)再建。
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中には正夢稲荷が祀られている。
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江戸中期、和尚の夢枕に稲荷大明神が立ち、「われは昔からこの地に住む稲荷だが、祠が壊れて住むところがなくなり困っている。3両置いておくので、新しい祠を作ってほしい」と告げた。
夢から覚めると、枕元に3両の金があったので、和尚は早速祠を建て、稲荷大明神を寺の鎮守として祀ったという。
以来、「夢をかなえてくれるお稲荷様」として信仰を集めてきたそうだ。

開山堂に納められている井伊家の駕籠。
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国の名勝に指定されている庭園。
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ちょうど手前側が日蔭になっており、いい写真が撮れなかった。
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露出が適正になる部分だけでお許しください。
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江戸初期に小堀遠州が作った池泉鑑賞式庭園だそうだ。
中央に守護石、左右に仁王石、池のほとりに礼拝石が配置され、池の形が心の字になっている。
全容を美しく見せられず、心苦しい。

庫裏。文化十二年(1815年)建立。
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山門は明暦二年(1656年)建立。ここから外に出た。
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(つづく)
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井伊谷(1)

【2015年12月28日(月)】井伊谷
前夜から浜松ステーションホテルに泊まっている。
朝食時間が始まる6時半に1階に下りると、もう席はほとんど埋まっていたので、食べにくいがソファ席へ。
バイキングだったので、和食風にまとめてみた。
食後、部屋に戻り、リハビリ、歯磨き、おトイレを済ませ、7時40分ごろチェックアウト。
レンタカー屋さんを遠望すると、まだ開いていなかったので、浜松駅と遠州鉄道新浜松駅を撮影して時間をつぶす。

浜松駅南口。
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北口。左はアクトシティ浜松のアクトタワー(地上45階建て、213m)
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駅前には出世大名家康くんの植え込み。
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2015年の「ゆるキャラグランプリ」で見事グランプリに輝いた。

新浜松駅への道は「出世街道」。
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植え込みでは分かりにくかったが、実際はこんなイメージ。
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新浜松駅。遠州鉄道は高架になっている。
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これは裏側。
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浜松市のマンホール。中央は旧浜松市の市章。
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8時前にトヨタレンタカーに出向くと、さすがにもう開店していた。
今日は8時の予約だ。

本日の目的地は旧引佐町の井伊谷(いいのや)だが、まずは国史跡の蜆塚遺跡に向かう。
10分ほどで到着。しばし史跡公園内を散策する。
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ここは江戸時代から、蜆の貝殻が大量にあるところということで遺跡の存在は知られており、それがそのまま地名になっている。
縄文時代後期から晩期にかけての集落遺跡(貝塚)で、1959年に国の史跡に指定されている「古い遺跡」だ。
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貝層が露出展示されている。何百年もかけて積み重なってきたものなのだろう。
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出土した住居跡などの遺構は埋め戻して、地面にその位置が分かるよう、札を立ててあるが、これでは全くイメージが湧かない。
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竪穴住居を復元しない形での「展示」なのだろうが、もうひと工夫あってもいい。
遺跡整備の黎明期そのままで進歩が感じられない。予算の都合もあるのだろうけど。

遺跡の概要は以下の通り。
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いくつかの竪穴住居跡は復元されているが、これもどの縄文遺跡も同じ。
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これではやっぱり飽きてしまう。イベントで人を呼ぶしかないのだろうか。
遺跡観光は非常に難しい。成功しているのは、青森の三内丸山遺跡と佐賀の吉野ヶ里遺跡くらいかもしれない。
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諸霊とは、ここで暮らした古代人や彼らに食べられた動物や魚介類のことだろうか。
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遺跡のわきに古い民家が移築されていたので、これもついでに見学。
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浜名湖東岸で農業と漁業を営んでいた高山家の住宅で幕末ごろのものらしい。

貝層断面の展示施設は営業時間前なので入れず。
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これで蜆塚遺跡とはお別れ。
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次の目的地は、三方原古戦場跡。
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大した距離ではないのだが、道がずっと混んでいて30分近くかかった。
三方原の戦いは、元亀三年十二月(1573年1月)に武田信玄軍と織田信長・徳川家康連合軍の間で行われた合戦。家康が大敗したことで知られる。

当時は広大な原野だったのだろうが、碑のある周辺は大規模な霊園になっていた。
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近くに徳川軍が武田軍を一気に攻めようとしたという祝田坂があった。
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向かいには、根洗いの松という名所。
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武田信玄が本陣を置いた場所だとされている。

これで寄り道は終了。井伊谷に向かう。
最寄り駅は天竜浜名湖鉄道の金指駅。
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構内には、蒸気機関車が現役だった時代の給水塔がまだ残っていた。
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井伊谷の交差点を右折して、三岳城址へ。
城跡は三岳山(467m)の山頂にあり、ここから井伊谷を一望するのが目的だが、短時間に「登った山」を1つ稼いでしまおうという下心もある。

まずは頂上直下にある三岳神社に参拝。
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コンクリート造りの殺風景な神社である。
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戦後に火災にでも遭ったのだろうか。何の説明もないので、よく分からなかった。
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神社の左に城跡への登り口がある。
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頂上まで500mか。結構あるな。
三岳城跡は中世井伊氏の本城である。
延元三年(1338年)、後醍醐天皇の皇子宗良親王が井伊谷に入り、この城を遠江における南朝勢力の拠点とした。
しかし、足利尊氏勢の高師泰らの大軍に攻められ、興国元年(1340年)に落城。
その後、戦国時代には遠江守護だった斯波義達がこの城に拠り、井伊氏もくみしたが、今川氏親勢の総攻撃により再度落城の憂き目を見ている。

城は山頂から尾根に沿って細長く、一の城(本丸)、ニの城(ニの丸)、三の城(出丸)が築かれ、中世城郭の典型的な形態を示しているという。
戦時中の昭和19年に国の史跡に指定されているのは、南朝の拠点だったからであろう。

しばらくは車が通れるような幅の道を行く。
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左に屈曲すると道は狭まる。
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かなりの斜度である。
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二の城跡への道との分岐に二代筆松の碑があった。
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大正九年(1920年)の建立だが、それらしき松は確認できなかった。

ここは一の城の枡形門の跡だそうだ。
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ここからさらに坂はきつくなる。
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巨石も目立ってきた。
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でも、あとひとふん張り。
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はい、三岳山の山頂に到着。立派な石柱があった。
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眺望が抜群だ。
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北東に白く輝くのは南アルプス。
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西側から見ることはめったにないので、自信はないが左の高いのが赤石岳(3120m)、右は聖岳(3013m)だろうか。
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東は磐田原。
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細い光の線は天竜川。
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浜松の中心街。アクトタワーの向こうに遠州灘が望める。
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南西に浜名湖。
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中央にはまゆう大橋。
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「三岳城址からのパノラマ」ということで井伊谷が見えることになっているが、木の陰になって何も見えなかった。
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ここは二等三角点。標高は466.8m。
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展望を堪能したので下山する。
急坂を下っていると、高齢の男性が登ってきた。
車で来るときに見かけた人だ。
「今日はいい天気だから富士山が見えたでしょう?」
「え、富士山が見えるんですか」
「見えますよ。案内板のあたりから」
「ああ、気づきませんでした」
なんと、富士山が見えるとは想像もしなかった。
でも、これから引き返すのも面倒だし、諦めることにした。

ただ、もしかしたら二の城から見えたりしてと思い、行ってみた。
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でも、樹林の中で何も見えなかった。
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あとは、神社までまっしぐら。
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往復35分の山行だった。
車に乗って、井伊谷へと向かう。

(つづく)
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大山道(7)

【2015年12月27日(日)】大山道
阿夫利神社下社へ最後の階段を登る。ここに来るのは、17日ぶり4回目だ。
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雄大な展望が広がった。
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知恵の輪をくぐって、阿夫利神社下社に参拝する。
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今年ありがとうございました。来年もたくさん山に登れますように。

境内には、阿夫利神社中興の祖権田直助の像。
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村山坊にあるのと似た大山獅子(獅子山)。
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ここが奥社(頂上)に向けての新たな1丁目。
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今回は、頂上は目指さず、山腹をトラバースして蓑毛越から蓑毛に下る。
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この道は前年の10月に歩いた道だが、蓑毛越から先は初めての道だ。
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時間があれば、ここから男坂を下り、ケーブルで登り直して蓑毛に行くことを考えていたが、もう2時半を過ぎてしまったので時間切れ。
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男坂は改めて歩くことにしよう。

この道もほぼ等高線沿いなのだが、緩やかなアップダウンはある。
意外にクサリ場なんかも。
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落石もありそうだ。
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振り返ると社殿が見える。
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ケーブルカーも新しくなった。
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大山ケーブルは昭和6年(1931年)に開業したが、戦時中は不要不急路線として廃止され、再開されたのは意外に遅く昭和40年だった。

相模湾がきれいだ。
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三浦半島の向こうに房総半島も見える。
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正面には浅間山(680m)。
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立派に石垣が築かれた道を小走りで進む。
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コースタイム30分のところ、22分で蓑毛越を通過。
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蓑毛のバス停に向けて下る。
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こちらもよく整備されている。
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かつての参詣道の一つだったのだ。
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こちらの道にも「百回登山紀念碑」がひっそりとあった。
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これが道標になっており、「右 拝殿道 左 本社道」とある。
大正五年(1916年)の建立である。

ただ下るに従い、道が荒れてくる。
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浮石が多く歩きにくい。
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これでも関東ふれあいの道だ。
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植林の道を抜けて、いったん林道に出る。
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安心したのも束の間、また登山道へ。
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石畳は下りにくいので、脇の土嚢の上を歩かせてもらう。
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やっと車道に出た~
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と思ったら、横断しただけ。
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しかし傾斜はだいぶ緩やかになった。
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里は近いぞ。
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今度こそ正真正銘、登山道を抜けた。
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常夜灯が立派だ。
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本当はもっと大きなものがあったのだろうけど。
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こんなところに割烹料理の店があった。
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荒れた雰囲気はないが、営業をしているようにも見えない。
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その横にお寺への入口があったので入ってみる。
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「相生山千元院」とある。

この巨大な石の玉は五輪塔の水輪だろうか。
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境内には相生稲荷も祀られている。
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本堂。
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説明板など何もなかったので、縁起などは全然分からない。

バス停に向かうが、その前に大日堂にも立ち寄ろう。
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それには金目川を渡る必要がある。
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なかなかワイルドなところを歩かされる。
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南無地蔵菩薩の石碑。
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木食光西上人入寂の地。
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享保の飢饉の際、蓑毛・宝蓮寺の光西上人は仏教の力で農民を救済しようと、全国行脚に出かけて浄財を集め、荒れていた大日堂を再興したほか、新たな御堂を造営して、民衆に心の拠り所を与えた。
その後、享保二十年(1735年)、地下に掘った石室にこもり、入寂(即身成仏)した。
「200年後に掘ってみよ」という遺言に従い、昭和10年(1935年)に村人が発掘したところ、石室の中から頭骨などのほか、鉦の脚3点、袈裟の環1点、古銭6枚、青銅の観音像1体が出土した。

遺骨は埋め戻され、今もここに眠っている。
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宝蓮寺茶湯殿。木造十王像(享保六年・1721年建立)などが安置されている。
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宝蓮寺の境内にある御嶽神社。
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不動堂。
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不動堂の石段の下に道標。「従是 不動・石尊道」とある。
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不動も石尊も江戸時代には大山寺を指した。

大日堂。
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天平十四年(742年)、聖武天皇の勅願寺として造営されたと伝わる。

本尊は金剛界五智如来で平安時代後期の作という。
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境内奥には「金剛水」。
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かつて大山詣での人々が水垢離をした場所。
蓑毛は大山(1252m)の西の玄関口であった。
でも、今は水が湧いているようには見えない。
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仁王門。
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仁王門自体は江戸時代後期の建築とされるが、中に安置されている仁王像は平安末期(12世紀半ば)というから関東の仏像としてはかなり古い。

というわけで県道まで下りてきた。
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東京少年キャンプ発祥の地の記念碑。
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駐車場にある「丹沢大山国定公園」の石碑。
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バス停の時刻を見ると、次は16:00。
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あと5分時間があるので、蓑毛の旧宿坊街を歩くことにした。
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通り自体は当時の面影がなきにしもあらずだが、住宅はみな建て替えられている。
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県道に合流したので、次のバス停で待つことにする。
と思ったら、私が乗る予定のバスが今、蓑毛バス停に向かって登って行った。
すぐ折り返して下りてくるはずだ。
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16:01乗車。秦野駅に向かう。なんだかんだで今日も15km歩いた。
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20分弱で秦野駅に到着。
まずは山麓酒場だ!と思ったのだが、雰囲気のある大衆酒場を探すのも時間がもったいないし、時間的にまだ開いていないだろうから、手近なとこで駅ビルにある「庄や」にしてしまった。
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まずは生ビールで喉を潤す。今日もほぼ8時間歩いた。
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つぶ貝の刺身を肴に飲み干し、炭水化物は焼きそばで。
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30分も滞在せずに切り上げ、16:53発の急行で小田原へ。
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小田原には17:13着。
駅ビルの和菓子店でデザートのスイーツを買って、17:36発のこだま673号名古屋行きに乗り込む。
明日は浜名湖の北東にある井伊谷をめぐる予定なので、家には戻らず、西へ行く。
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小田原銘菓「菜の花」の「月のうさぎ」と「焼きモンブラン」を1個ずつ。
これだけで合わせて500円以上した。
いずれも美味しかったが、牛乳が欲しくなった。
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18:59浜松着。
実は今回の旅で何度も着替えをしている間に、どうやら帽子をどこかに置き忘れてしまったらしい。
帽子がないと今後の山行に支障が出る。
ちょうど浜松駅の駅ビルに「好日山荘」があったので、ホテルチェックインの前に立ち寄った。
どれも高くて、なくしたことに後悔しきりだったが、一番安い3000円台のを購入した。
駅南口徒歩1分の浜松ステーションホテルにチェックイン。
10時には就寝した気がする。

【行程】2015年12月27日
伊勢原駅(8:04)~伊勢原大神宮(8:23撮影8:30)~片町十字路(8:40)~山口家住宅(8:59撮影9:14)~太田道灌公の墓(9:31撮影9:36)~石倉橋(9:56)~宗源寺(10:23)~三の鳥居(11:00)~大山駅(11:12)~東学坊(11:44昼食12:35)~こま参道(12:58)~大山ケーブル駅(13:23)~大山寺駅(13:52撮影13:57)~阿夫利神社下社(14:33撮影14:42)~蓑毛越(15:04)~蓑毛みち登山口(15:31)~蓑毛中バス停(16:01)
※所要時間:7時間57分(歩行時間:7時間6分)
※登った山:なし
※歩行距離:15.3km
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大山道(6)

【2015年12月27日(日)】大山道
女坂を大山寺に向かって登り始めた。
東京の火消しの講中が奉納した巨大な「不動尊道」の道標。
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旧松本茶屋。
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松本さんご夫婦の表札が出ていたが、まだここにお住まいなのだろうか。
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参道には古い石垣が組まれている。
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大山川も石垣で治水工事がなされていた。
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真玉橋を渡る。
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女坂にも厳しい階段がある。
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男坂だろうが女坂だろうが、ケーブルで登る分すなわち標高差300mを登らないといけないのだから当然だ。距離も男坂とそう変わらない。

しかし、こんなこども川柳に出くわして思わず吹き出してしまった。
春になると、ミツマタが咲くのだろう。
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さっきのような階段よりも歩きにくいが、こういう古い石段の方が好き。
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丁目石を発見。いきなり三丁目。
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苔むした石仏のおはす道。
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(延享三年・1746年建立)

無縁仏供養塔。
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女坂の七不思議その一「弘法の水」
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大山寺三世別当の弘法大師が大山を去るにあたり、錫杖で地面を叩いたら、こんこんと清水が湧き出した、というどこにでもある伝説。
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どんな日照りでも涸れず、水質も良いという。

どれどれ、うん、うまい。
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紅葉橋を渡る。
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その突き当りに、その二「子育て地蔵」。
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いつも赤い頭巾をかぶり、よだけかけを掛けている。
もともと普通のお地蔵様だったが、いつの間にか童顔に変わってしまい、以来この地蔵に祈ると子供がすくすく育つと信じられるようになったのだとか。

長い石段を登る。
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振り返って、紅葉橋。
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その三「爪切り地蔵」。
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大山(1252m)では珍しい磨崖仏。弘法大師が一番で爪で彫り上げたと言われる。
でも、製作は慶安五年(1652年)だそうだ。

なかなか特徴的なお顔をしている。
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大きな石垣が見えてきた。
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その向かいに、その四「逆さ菩提樹」。
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幹の上が太くて、下が細いことから「逆さ」と言われたらしいが、現存の菩提樹は二代目なので、そんなことは全然ない。
二代目も同じようになるよう、育てることができたらすごい。

石垣の高さまで登ると、前不動堂。
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安政の大火の後に、追分社の前に建てられたが、廃仏毀釈の混乱の中で、現在地に移築された。
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大山の中では、隣にある倶利伽羅竜王堂に次いで古い建物だそうだ。

こちらが、その倶利伽羅竜王堂(八大堂)。
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徳川家光の寄進で、寛永十八年(1641年)の建築。
これも安政の大火で焼け残ったが、廃仏毀釈で二重滝の前からここに移されたという。

反対側には大山寺客殿(信者会館)。
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関東大震災にも耐えた堅固な建築だが、今は使われていないようだ。

さらに登ると
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大山寺の石垣が現れた。
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山内に散在していたと思われる五輪塔の残骸や石仏などがここに集められていた。
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これはまたユニークな石像だ。
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大山寺を参拝する前に、ケーブルの大山寺駅を見学に行く。
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駅から大山寺への道には幟やユーモラスな石仏が並ぶ。
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数分で駅に到着。
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さすがに結構な斜度がある。
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ここはケーブルの中間駅だ。
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加えて、ちょうど中間点でもあるようだ。
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跨線橋に登ると、門前町や伊勢原市街を望むことができた。
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ちょうど「こま参道」のあたりだ。
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江ノ島まで見えた。
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満足して、大山寺に戻る。まずこの85段もある階段を登らねば。
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両脇に並ぶ童子像たちは不動明王の使者や従者たち。
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階段の途中に芭蕉句碑。「雲折々人を休むる月見かな」
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ここも月見の名所なのだろう。

登り切ると、大山寺の本堂が大きい。
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改めておさらいすると、大山寺の山号は雨降山。
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東大寺初代別当の良弁僧正が両親の孝養のため、天平勝宝七年(755年)に開いたと言われる。
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赤子の頃、大鷲にさらわれた良弁を探して日本国中を訪ね回った両親が盲目の乞食に成り果てていたが、不動明王の導きで親子の再会が叶ったと「大山寺縁起絵巻」に書かれているという。
聖武天皇が勅願寺とし、その後も、歴代幕府から篤い保護を受けてきた。
古来この寺は山岳宗教の道場で、大山不動信仰を広めたのは修験者たちであった。
本尊は不動明王と両脇侍像の三尊像で鎌倉時代中期の作。
不動明王は高さ97.7cmで、国内最大の「鉄仏」として国の重要文化財に指定されている。

境内には見どころが多い。
まずは人気のかわらけ投げ道場。1回300円。
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素焼きの皿を投げて、あの穴を通すことができれば、願いが叶うんだとか。
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背後には高さ11mに達する青銅製の宝篋印塔がある。
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寛政七年(1795年)に寄進されたが、これも廃仏毀釈で解体されてしまった。
この場所にバラバラになって置かれていたのを、大正三年(1914年)、東京土木建築有志によって再建されたとのこと。
大山でも随分いろんなことがあったんだと改めて思う。

宝篋印塔に奥に釣鐘堂。
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もともとは家光寄進の鐘があったが、廃仏毀釈の際につぶされ、今のは昭和24年の鋳造。
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弘法大師堂は明治40年(1907年)の建立。
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中には弘法大師の木像が88体納められているという。

では阿夫利神社に向かおう。
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無明橋を渡る。
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ここも七不思議の一つ。その五。
おしゃべりをしながら渡ると、橋から落ちたり、物を落としたり、よくないことが起こるという。
私は話し相手もいないので関係なかったが、だったら説明板は渡る手前に立ててほしいものだ。

ここにも芭蕉句碑。「山寒し心の底や水の月」。
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振り返ると、トンネルが見えた。
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阿夫利隧道というらしい。
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関係者はここまで車で来れるようだ。

七不思議その六「潮音洞」。
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この穴に近づいて耳を澄ますと潮騒の音が聞こえてくるという。

ここから再び急な石段。
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やっと十一丁目。でも、大山寺がちょうど半分だから、たぶん十八丁目が下社だろう。
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ぐいぐい登らされる。
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七不思議の最後「眼形石」。
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観音様の横にある石に、一の字のような傷があるが、これが切れ長の目ということらしい。
この石に触れば、目の病気が治るという。

この先は容赦のない階段が続くが、やっと登山らしくなってきた。
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木々の間からケーブルカーのレールが見えた。
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みんなケーブルに乗るものだと思っていたが、結構歩いている人もいて、少し驚いた。

この平らな面は狭いが、かつては何かが建っていたのではないか。
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ガシガシ登っていると、意外に早く、男坂と合流。
そこに「従是女坂道」の道標がすっくと立っていた。
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文化五年(1808年)の建立ではあるが、最近まで2つに折れたまま土に半ば埋まっていたらしい。

このあたりは、大山寺の別当の住まいだった八大坊上屋敷跡で、多くの石碑が林立していた。
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こちらは「松坂屋」の石碑。
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ここから一段上がると、茶店の並ぶ広場に出る。
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おばちゃんに声をかけられ、お茶を勧められた。
「帰りに寄りますね~」と答えたら、もう入れちゃったからと強引に紙コップを渡された。
まあ1杯いただいていくかと口をつけたら、めちゃめちゃ熱い。
全部飲み干すのに5分くらいかかりそうだったので、1口2口だけで返却した。

(つづく)
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大山道(5)

【2015年12月27日(日)】大山道
大山(1252m)の門前町をゆっくりと散策中。
「古宮」
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このお宅にはたくさんの木札が貼り付けてあった。名前を記録するのは石だけではないようだ。
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諏訪神社は、永仁三年(1295年)の勧請。
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「源長坊」
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芭蕉句碑。「花盛り山は日ごろの朝ぼらけ」。
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奈良・吉野山の桜を詠んだ句だそうだが、なぜここに?

このあたりにも石碑が林立する一角が。
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猪俣橋を渡って新道へ出る。
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おみやげ「おりべ」(右)と大山観光案内所。
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「青木館」
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1本上にある千代見橋。関東大震災後の木橋が昭和8年(1933年)にコンクリートの橋にかけ替えられた。
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ここから先は車の入れない「こま参道」に入る。もちろん「大山こま」にちなんでいる。
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この参道は新しく造られたもので、実は鈴川(大山川)沿いの道が旧参道である。
関東大震災による鉄砲水や土砂崩れで復旧が遅れたため、住民がそれぞれの屋敷地を提供して設けたとのこと。向かいに同じ屋号の店が多いのはそのためだそうだ。

階段は全部で362段。
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踊り場が全部で27あり、踊り場ごとに食堂や土産物店が並んでいる。

登り口に稲荷社。
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2段目に「和仲荘」。
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4段目は、「金子屋支店」。
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これが特産の「大山こま」。
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1450円。いいお値段だ。

5段目は「旅館あさだ」。
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9段目に「千代見荘」。
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10段目への階段はやや長い。
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11段目への階段の手前に、茶湯寺への道があるので寄り道。
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茶湯寺というのは通称で、正式には誓正山涅槃寺という。
茶湯寺と呼ばれるのは、ここで百一日参りの茶湯供養が行われるからである。
百一日参りとは、故人が亡くなってから百一日目にお礼参りをすること。
人は亡くなると49日はその家の棟の下にいて、50日目に黄泉路の旅に出る。そして100日目に無事に仏になり、茶湯寺で家族が迎えに来るのを待っているので、101日目にそのお迎えとお礼に家族がお参りに行くのだという。
それまで仏壇に供えてきた水を、この日からお茶に変える。これを茶湯供養という。

写真の左下にある「ちゃとうてら」の石碑は、もともとここにあったものではなかったそうだ。
文化八年(1811年)に建立されたものなので、震災後にできた「こま参道」にあったわけはもちろんない。
当時、茶湯供養をしていたのは、大山寺の来迎院と光園坊だけだったそうで、元来はそのどちらかにあったのだろう。
その後、移転したり放置されたり流転の日々が続いたが、「こま参道」ができた頃、涅槃寺への道しるべとして、ここに設置されたとのことだ。

橋を渡って境内へ。
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この「南無阿弥陀仏」六字名号碑は、唯念(1791~1880年)の手になるもの。
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この独特な書体が特徴。唯念は駿河、甲斐、相模を中心に念仏講を広め、各地にこの名号碑を残した。

3体並ぶ舟形浮彫地蔵。
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右は上部に梵字ではなく、「キ」の字を○で囲んで記号が刻まれているため、キリシタン地蔵ではないかとも言われているらしい。
左の風化が激しい石仏は「塩なめ地蔵」と呼ばれている。
塩をなめたナメクジのように溶けているということから名付けられたのか。
それとも潮風で浸食されたことを「塩なめ」と表現したのか。

ほかにも多数の石仏、石塔などが迎えてくれた。
三十三観音菩薩。
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その他、あれこれ。
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寺を名乗っているが、なんだか民家のようなたたずまいである。
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この寺の本尊は、江戸時代に作られた木造の釈迦涅槃像である。
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この像は幕末の頃に、茨城県の大洗海岸で漁師の網にかかって引き上げられたという。
村で大切に祀っていると、豊漁が続いたが、ある夜、この涅槃像が夢枕に立ち、「大山に行きたい」とのお告げがあった。
そこで大山の参道にあった西岸寺に預けられ、この涅槃像で茶湯供養をしたところ大いににぎわったという。
その後、西岸寺が火災にあって、涅槃像は近くの正安寺に移されたが、ここも廃寺となり、今の涅槃寺である西迎寺に安住の地を得た。

西迎寺は昭和27年に、廃寺となった西岸寺と相頓寺を合併して涅槃寺となった。
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境内の奥に進むと、わらべ地蔵が6体。
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先代の広旭和尚が建てたものだ。左端のガッツポーズをしているのがユニーク。

再び大山の参道に戻る。
11段目は「西の茶屋」。
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12段目に、大山こんにゃくの「大山ウルワシ本舗」。
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同じ段に、きゃらぶきの「大津屋」(明治5年創業)。
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14段目。こま煎餅の「橋本屋」。
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15段目は、豆腐料理の「小川屋」。
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16段目、「旅館ねぎし」。
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19段目、20段目は「ゑびすや」。
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21段目、「塚本みやげ店」。
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階段わずか5段上の22段目に、お休所「一福」。
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これはもう廃業しているようだ。

23段目、「はこざき旅館」。
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24段目、豆腐料理の旅館「かんき楼」。
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25段目、「旅館元滝」。いつでも入浴可。
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すぐ横に、かつては本滝と呼ばれた元滝がある。
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ここも往年の水垢離の場であった。

傍らに龍神様。
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階段を登ると、26段目に雲井橋。
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大山川を渡る。
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やっと参道の階段を登り詰めた。
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ようやく、大山ケーブルの駅である。
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でも私は乗らない。男坂を下りてくる時間があったら乗るかもしれないが、今日はもう難しそうだ。

大山寺に向け、さらに石段を登っていく。
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すぐに男坂と女坂の分岐。
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今回は階段が短い方(左側)の女坂を登っていくことになるが、ちょっとだけ男坂を登って、八意思兼社(やこころおもいかねしゃ)に参拝。
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男坂と女坂の分岐にあるから追分社ともいう。
祭神の思兼神は天照大神が天の岩戸に隠れた時、誘い出そうと知恵を絞った神様である。

右手には、いきなり急な男坂の階段。
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江戸時代はほとんどの参詣者が男坂を登った。途中いくつもの堂宇があったが、安政元年(1854年)の大火ですべて焼失してしまい、今は何も残っていないという。

手前にあるこの石組は手水場の跡だろうか。
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ここから初めて伊勢原市街や相模湾を展望することができた。
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少し階段を下りて、女坂を行く。
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かつて、これより上は女人禁制の地であったが、日中のみ大山寺本堂(現在の阿夫利神社下社)までの参詣は許されていた。

(つづく)
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大山道(4)

【2015年12月27日(日)】大山道
大山(1252m)の門前町を歩いている。
「おおたに」
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「大山豆腐」
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大山と言えば豆腐料理である。
大山で豆腐料理が名物となったのにはいくつかの理由があるらしい。
①参詣者に提供する料理として冷水につけて保存しておける豆腐が重宝された
②豆腐の製造と保存に適した良質な水に恵まれていた
③豆腐が精進料理として修験者や僧職にはなじみがあった
④先導師が檀家回りをした際、謝礼として大豆を受け取ることが多かった
などだそうだ。
ただ、今のようなグルメ志向の豆腐料理が流行りだすのは昭和50年代以降とのこと。
私もこの後、お昼にいただいた。

いったん参道を離れ、裏道に出てみる。
「和田周次郎」
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「上神崎」
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「原田」
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「なぎさ」
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こうした和風の旅館が並んでいる中を歩くのは、とても楽しい。

参道に戻っていきなり目の前に飛び込んできたのは愛宕滝。
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バランスが絶妙で、庭園として完成されている。
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傍らに愛宕社。享保元年(1716年)に勧請されたものだそうだ。
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浅草は一二三講の石碑。
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愛宕橋を渡る。
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しばらくは2車線の道。
「つたお」
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「小出とうふ店」
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「目黒」。目黒は阿夫利神社の宮司の姓だが、関係あるのだろうか。
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「おく村」
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こうして宿坊をひとつひとつ確認しておくと、いずれ泊まる宿を探す時に参考になる。

「東學坊」
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ここは豆腐料理を出している。
まだ12時前だが腹ペコ。最初は、一番の老舗か一番評判のいい店に入ろうなどと考えていたが、もう豆腐料理の店が出てきたら、どこでもいいから入ることにしていたので、迷わず入る。
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ランチでは小町膳が2500円。香の膳(3680円)というのがあったが、さすがに予算オーバーなので断念。
畳敷きの大広間に椅子席。私のほかに4人グループの先客がいたが、彼らは香の膳のようだった。
こちらは5品だが、1品1品時間差で出てくるので、食べ終わるまでに1時間近く時間がかかった。
豆乳におから。左手前は味噌漬け。チーズみたいな食感だった。
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湯豆腐。これは汁がめちゃめちゃ美味しくて、熱かったが飲み干してしまった。
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次の品が出るまで間がもたなかったということもあるが。

湯葉の刺身。
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天ぷら。
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御飯とみそ汁。
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どれも美味しかったが、上品すぎて量がやや少なかったのだけが残念。

パンフレットを見てみたら、なんと創業が慶長五年(1600年)だった。
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さて散策再開。店を出ると、すっかり曇ってしまっていた。
向かいには東學坊の豆腐工場「湧水工房」。
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隣にも豆腐料理の店「夢心亭」。
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こちらの方が1500円のメニュー(豆腐づくり湯葉丼)があったりしてリーズナブルだった。
まあ、あとの祭り。というか東學坊には「老舗料」も込みだろうかあら仕方ない。

店の前には大山名水の一番「相頓寺の岩清水」。
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こちらは「遠州屋酒店」。創業明治11年(1878年)。
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大山名水の酒「阿夫利山」「大山舞り」などを宣伝していた。
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めずらしく何の看板も掲げていない木造の古い民家。
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大山まんじゅうの「良弁」。
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先導師「吉川彦丸」。旅館名は「吉川」。
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石碑地帯。
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何組が読めないのだが、木遣塚。
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この先は良弁橋を渡って対岸へ。
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すると、権田公園という大きな看板。
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なんだ? 権田って。
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現地にはとくに説明板はなかったが、調べてみると、阿夫利神社の初代祠官になった権田直助(1809~1887年)を記念した公園のようだ。
権田は武蔵国入間郡毛呂本郷に生まれた幕末明治期の医者にして国学者・神道家。平田篤胤の門下で、尊王攘夷派でもあった。

公園内に権田直助の墓があった。
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公園の隣にある開山堂(良弁堂)は、明治41年(1908年)の再建。
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良弁僧正(689~774年)は相模の人で、東大寺の初代別当を務め、後に鑑真とともに大僧都に任じられた。大山寺を開いたことでも知られる。

堂内には、中央に良弁の坐像、右に赤子を抱いた猿の像が安置されている。
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良弁については、赤子の時に鷲にさらわれ東大寺二月堂の大杉にかけられているのを、山王の使いである猿に助け下ろされたという伝説がある。
それを表現したものだそうだ。

そのすぐ横に、ちょっと水量のさみしい良弁滝。
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良弁僧正が大山寺開山(天平勝宝七年・755年)のおり、禊をして山に入った場所とされる。
歌川広重や五雲亭貞秀の浮世絵の題材にもなり、禊の滝として大山では最もにぎわったスポットであった。
水を吐き出している竜頭は、東京の火消し「に組」が昭和16年(1941年)に奉納したもの。

滝の脇の石段を登ると、飯縄大権現。
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山伏の守護神、狐にまたがった烏天狗の像がご本尊だ。

階段を登り切ると、「かめ井」。
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ここには阿夫利神社の末社があるそうだ。

門前にはたくさんの石碑が並ぶ。
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火消し系が多い。
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開基橋で再び対岸に戻る。
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「みずしま」
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かなり重厚感のある常夜灯。
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「おおすみ山荘」
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ここは鎌倉時代から続く旧家で、今の先導師の佐藤大住は三十七代目。
奥州の藤原秀郷の流れをくみ、中世の大山別当佐藤中務の子孫だという。
建物は安政三年(1856年)に再建されたものだが、当時の宿坊の様式を示す貴重な建築だそうだ。

「山荘だいとう」
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「とうふ坂」を登る。
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この坂の道幅は昔のままだそうだ。
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もともとは石段だったが、そのままアスファルト舗装したので、傾斜がきつい。
「とうふ坂」と呼ぶようになったのは最近のことらしい。
江戸時代はこの道を参詣者が、豆腐をすすりながら登ったそうである。

豆腐料理「しもやま」
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石垣には多数の銘板がはめ込まれている。
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例えば、昭和34年の「東京魚がし講」。加入しているたくさんの店の屋号が刻まれている。
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(つづく)
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大山道(3)

【2015年12月27日(日)】大山道
宗源寺から県道に戻ると、すぐ左に旧道があるとガイドブック「キャーッ!」に書かれているので行ってみる。
これではない。
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こちら。
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なかなかいい雰囲気なのだが、このまま進んでも県道に合流できない。
道なき道を越えて行かねばならなかった。

この先は、みかんの無人販売所が続く。
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安いからほしいけど、ザックがパンパンなのでもう何も入らない。
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それにしても誘惑が多過ぎる。
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さらに坂は勾配を増す。
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道に面してあった易住寺。
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こちらも霊験あらたかな子安地蔵。
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南無阿弥陀仏。
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JAの農産物直売所を通過。
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子易バス停も過ぎて、旧道を行く。
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車は小バイパスを行ってくれるので、通行量が減ってありがたい。
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左手に諏訪神社。
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めずらしく畑の奉納を記念した石碑があった。
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大正十三年(1924年)、地元の吉田喜三郎氏が畑28坪、玉垣一式、金200円を寄付している。

ここでも参拝。
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そして、三の鳥居登場。
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この銅製の鳥居が大山門前町の入口に当たる。
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もともと三の鳥居は天保十五年(1844年)、所沢の阿波屋善兵衛が創建。

大正十年(1911年)、江戸の火消し「せ組」が再建した。
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しかし、老朽化した上に、バスの通行の便を図る必要もあったため、昭和61年に日本鋼管製の鋼板で作り直されたという。
ちなみに阿夫利神社には全部で11基の鳥居があったらしいが、現存するのは6基だけだそうだ。

その先は徐々に宿坊が軒を連ねてくる。
「旅館大木」
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そのすぐ先に二ツ橋がある。
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(新道の二ツ橋)

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(旧道の二ツ橋)

新旧二つの橋が並んでいるから二ツ橋かと思ったら、そうではない。
かつて板だけの小さな橋が二つ架っていたことから、そう呼ばれるようになったという。
大山に参詣した室町時代の僧道興(1430~1527年)は自著『廻国雑記』に「おぼつかな流れもわけぬ川水にかけならべたる二ツ橋かな」という和歌を残しているそうだ。

ここは江戸時代の高札場だったとか。
これらが当時のゆかりのものかどうかは分からない。
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生垣の家。
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先導師旅館「いわ江」
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先導師とは御師とも呼ばれ、信者への宿泊の提供と寺社への案内を生業としている。
それぞれ、関東一円やそれ以外にも檀家(講社)を抱えており、夏には信者を迎え、春秋には自ら檀家回りをしたという。
先導師はピーク時の江戸後期で166軒あったが、今では45軒に減っているのだとか。
それでも富士講の御師とは比較にならないくらい多い。

登拝記念の石碑は随分新しいものもある。
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これなどは平成2年の建立。講社ではなく個人のようだ。
信者の参詣は徐々に減ってはいるが、それでもバブルがはじける前までは、各宿坊とも大いににぎわったという。
『相州大山』には「夕食時の宴会が始まると、開け放した窓から・・カラオケの歌声やコンパニオンと騒ぐ声が響いて賑やかだった」と書かれている。

そんなのに巻き込まれるのはいやだが、静かな季節に泊まってゆっくり参詣してみたい気はする。
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新玉橋で鈴川を渡る。
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「あらたまばし」と読むらしい。
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その先に、いかにも古そうな「式部旅館」。先導師は式部太夫。
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向かいは「常善坊 内海三太夫」
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「太夫」というのは先導師に与えられた称号だそうだ。

突き当たったT字路が大山駅のバス停。
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ここまでバスが通うようになったのは昭和10年(1935年)。
伊勢原駅発のバスの終点だった。
当時は、バスの終点を「駅」と呼んでいたので、鉄道でもないのに「大山駅」という名が付けられたらしい。
昭和42年に、さらに奥に大山ケーブルバス停ができたが、「駅」の名は変更されずにそのまま残ったというわけだ。

ここから宿坊や土産物店が集中するエリアとなる。
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正面に大山(1252m)を仰ぎながら登っていく。
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参詣者はこれで気分が高揚したことだろう。

巨大な石刀が勇ましい「高尾」
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「かげゆ」
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「すどう」
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「東京渋谷御神酒講」の創立180周年記念碑。
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昭和34年の建立なので、創立は1779年までさかのぼることになる。

「ますき」
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「ます田」
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かすみ橋を渡って、旧参道に入る。
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正面に「獅子山荘」。
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これは、かつて「村山坊」と呼ばれた宿坊である。
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最近まで縦書きの「獅子山荘」のところに「村山坊」の名を掲げていたことが『相州大山』の写真で分かるが、今はもう取り下げてしまったようだ。

庭には石の築山がある。
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岩には「坂東三獅子」と「再建 小石川大山講 昭和三十六年五月」の銘板がある。
この獅子山はもともと、600mほど上流の良弁橋のたもとにある銅鳥居の脇にあった。
阿吽の獅子一対が獅子山の上に鎮座していたが、関東大震災による土石流で流されてしまった。
翌年下流で見つかったので、石匠講の宿坊でもあった村山坊が引き取り、新たに子獅子も加えて3頭の獅子山を建立したという。
もともとあった獅子は、天保元年(1830年)に江戸石工二十一組が奉納したもので、作者は享保年間の名工、江戸弓町の石切藤兵衛と言われている。
藤兵衛は同じものを成田山新勝寺、神田明神にも作ったそうだ。

ちなみに村山坊はかつて山駕籠を営業してとのこと。
ケーブルの開通に伴い、すっかり廃れてしまったが、駕籠かきは鳶職人の仕事だった。
大山小学校の校長室に大正9年(1920年)の「大山明神前駕籠組合一同駕籠賃金表」が飾られているそうだが、それによれば「社務所下より頂上まで往復 金七円也」。
当時の大工の日当が3円ほどだったというので、庶民はとてもフルでは乗れない代物だった。

玉垣には奉納者の名前がいっぱい。
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「かすみ荘」
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「下神崎荘」
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これほどの数の宿坊の経営が成り立っていることを見て、大山信仰は今もなお息づいているんだなあという感慨に浸った。
富士山に登るのは大変だが、大山に登るのは昔も今も手軽だ。
今はもちろん首都圏から日帰りできるし、江戸時代でも3泊4日ほどの旅だった。
そういう手軽さも長生きの背景にあるのだろう。

「大山荘」
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蕗の佃煮「きゃらぶき」の老舗「米屋」。
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安永年間(18世紀後半)の創業である。
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右手に、阿夫利神社の社務所。
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結構デカイ施設だ。
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植え込みで作った「大山」の文字。
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「大滝荘たけだ」
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懐石料理「●鈴庵」。(●は船のへんが木)
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店が閉まっているが大山コマの「はりまや」。
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コマは大山の伝統工芸品で、神奈川名産50選にも選ばれている。
その起源は江戸時代初期にまでさかのぼると言われ、「円満に回る」ことから、家内安全や商売繁盛の縁起物として売られたのが始まりらしい。
ただコマ人気も下火になり、かつては十数軒あった木地師も今では数軒しか残っていないという。

(つづく)
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大山道(2)

【2015年12月27日(日)】大山道
大山道に面して建つ山口家を見学中。
畑の水まき用に井戸端や台所で使った水をためておいた溜め池の跡。
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炭小屋と味噌倉の長屋。
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これで山口家の屋敷内の見学は終了。
まだ朝早くで家屋の中に入ることはできなかったが、門は開放されていたので敷地内は自由に歩くことができた。感謝である。

屋敷の外に出るとすぐ先に、二の鳥居が見えた。
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傍らに立つ石碑「大山阿夫利神社二の鳥居復元の由来」によると、今の鳥居は平成3年に再建されたもののようである。
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この石碑の文面は情緒的で、情報が極めて少ない。
「(幕末の建立)以来今日まで二度の災禍に遭い損壊したまま今日に及んでいた」というのは、倒壊してなくなっていたのではなく、破損したまま立っていたという意味だろうか。
また「有志山口匡一氏からの敷地ご提供によって 建立以来満百四十年に当る此の歳 大山神社を真向いに望む恰好の地に赤御影石による建設当時の威容を復元し」と書かれているとことを見ると、原位置とは微妙に異なる場所に立っているということだろうか。
他の資料で確認すれば分かるのだろうが、肝心なことが曖昧で非常に残念だ。
「此の歳」とあるのも、碑の建立年月日が「平成三年七月吉日」と書かれていることから推測せざるを得なかった。

反対側に立つ石碑「鳥居復舊紀念之碑」もよく分からない。
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これも情緒的で、情報は関東大震災(大正12年)で倒壊した鳥居を復旧したということしか書かれていない。
建立は昭和3年4月である。

いずれも幕末の工事を、言葉を尽くして讃えたくなるのはわかるが、後世の人のために自分たちが何をしたのか、事実関係をしっかり残してほしいと思う。
それと、もう一つ。前者に「二度の災禍」とあるが、それは戦災だろうか。こんな田舎に空襲があったとも思えないが。

帰宅後、宮崎武雄著『相州大山 今昔史跡めぐり』(風人社)を読んで、だいたいのことは分かった。
もともと二の鳥居があったのは五霊神社前だった。現在の位置より東に200mほどの地点だ。
嘉永四年(1851年)に再建されるにあたっては、名主だった山口左次右衛門が発起人となり、江戸も含め方々から寄付を集め、大変な苦労の末、完成した。
この点が、石碑建立者・山田恒雄氏の大いに感謝するところだったわけである。
その後、関東大震災で倒壊。間もなく建て直されたものの、昭和44年にクレーン車の接触により破損した(やはり戦災ではなかった)。
再び倒壊の恐れがあるうえ、バスの大型化による接触事故を防ぐため、鳥居はいったん撤去され、五霊神社の境内に放置されていた。
これを偲びなく思った、山田氏が働きかけ、山口氏から土地の提供を受けて、平成3年、道路をまたがないで済む現在地に移設再建されたというわけだ。
やっと合点がいった。

でも現地では消化不良を感じたまま、鳥居をくぐる。
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しばらく県道を進む。
だいぶ大山(1252m)がすっきりと見えてきた。
こうして改めてみると実に端正な山だ。いにしえの人が崇めたのもよく分かる。
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左手には、高取山(556m)。
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間もなく、「太田道灌公墓の入口」という大きな看板が見えてきた。
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一旦通り過ぎたが、地図を見ると、そんなに遠くなさそうなので、やっぱり寄ってみることにした。
右折するとすぐに、道灌塚前のバス停。
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でも、道灌塚はさらにバス停1区間分離れていた。

大山道(青山道)を横切る。なかなか古道らしい道だ。
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その先に太田神社。
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鳥居の向こうにあるのは社殿というよりは普通の民家だ。
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境内にある胸像は、この神社を開いた岡部眞直氏だそうである。
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名前と位置からして、太田道灌を祭っていることは間違いないのだろうが、由緒は不明である。

このすぐ先に、墓地はあった。
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敷地内にはたくさんの五輪塔や石仏が集められていた。
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墓の前に、心敬僧都の句碑。
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「雲もなほさだめある世のしぐれ哉」
心敬(1406~1475年)は室町時代の連歌師で宗祇の師匠にあたる。
応仁元年(1467年)に関東に下向したが、直後に起きた応仁の乱のため京には戻れず、関東を流浪。ここ大山の山麓に幽居した。
道灌とも交流が深かったこともあり、昭和48年、洞昌院の住職が五百回忌を記念して、墓前に句碑を建てたと説明にあった。

道灌自身の歌碑もあった。
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「いそがずば濡れざらましを旅人の後より晴るる野路のむら雨」

そしてこちらが「胴塚」と呼ばれる墓である。
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手前に枯れた巨木の根が2株残っている。

墓の形式としては宝篋印塔だ。
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いつもこうしてきれいな花が手向けられていのだろう。

この墓域を管理している近くの洞昌院もついでに訪ねる。
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洞昌院は道灌が関東管領上杉憲実の弟道悦和尚のために建てた寺と伝えられている。
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これは道灌の霊廟。ちょうど年末の大掃除をしていた。
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本堂。
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門前にあった道標。
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これで寄り道は終了。

思い付いて、県道との合流地点までは青山道を歩くことにした。
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道のすぐ左を千石堰用水路が流れている。
近所の人は昭和40年代頃まで、この水で野菜などを洗っていたそうで、水辺に下りる石段が今も残っていた。
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その先には道標と庚申塔、道祖神が並んでいる。
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道標の表には「上 大山道」、側面に「寛政十一年 未年六月 当村念仏講中」とある。
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このすぐ先にも庚申塔。
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これは、別の場所にあったものを道路拡張により移動せざるを得なくなったので、土地の所有者が他の自分の土地に移設したものだそうだ。
右の庚申塔は道標も兼ねており、左側面には「此方 かない道」とある。
平塚・金目観音の方角という意味。建立は寛政九年(1797年)。

青山道も今ではすっかり住宅地の中の路地になってしまった。
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このあたりで暑くなってきたので、ダウンをウインドシェルに着替えようとしたら、ない!
なんと忘れてきてしまったようだ(本当はサイドポケットに入っていた)。
仕方ないので、長袖シャツだけでしばらく歩く。
日が当たっているので、風さえ吹かなければ寒くない。
(この後また寒くなってきたので、寝間着用に持ってきたトレーナーを着た)

県道に合流したところが石倉橋。
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このあたりは新東名の伊勢原北ICの予定地にあたるため関連道路の工事が進んでいる。
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これらの石仏や石灯籠も移転させられてしまうのだろうか。
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それとも移転済みなのか。

石倉集落に入る。このあたりから道が狭くなり、勾配も出てきた。
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石倉上集会所。なかなか年季が入っている。
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このあたりまで来ると、田舎の風情。無料販売所が増えてくる。
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宝篋印塔と五輪塔をごっちゃにして積んでいる。
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子易集落に入ると、比比多神社。
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子易明神とも呼ばれ、子宝安産の神様として信仰を集めている。
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私にはとりあえず関係ないことだが、ともかく参拝。
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歌川国経筆の美人図絵馬が奉納されていた。
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国経(1777~1808年)は厚木市上荻野出身の浮世絵師で、豊国の門人だったそうだ。

境内にある大けやき。
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神社の裏には、茅葺の廃屋があった。
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でも、よく見ると、屋根がまだある部分で人が暮らしていた。

ここを右に入って、宗源寺に寄り道。
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お寺の手前に地蔵堂。
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本堂そのものは新しかった。
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阿弥陀堂。
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わらべの庭だそうだ。
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(つづく)

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大山道(1)

【2015年12月27日(日)】大山道
先日、大山(1252m)をヤビツ峠から登った時、蓑毛まで行く道でバスから古い参詣道の痕跡をいくつか見つけて、いわゆる「大山道」を歩きたくなった。
というわけで、伊勢原から阿夫利神社下社まで、大山道(矢崎道)を歩いてみることにした。

6:01新所沢発に乗り、西武新宿乗り換えで、伊勢原に7:59着の予定だったが、新所沢駅に着いた時点で、スマホの充電器を忘れたことに気付き自宅に引き返す。
日帰りなら電池切れにならないで済むだろうけど、今回は大山道を歩いた後、浜松に泊りがけで転戦するつもりなので、充電器は必須だ。
これで20分ほどロスしてしまい、6:17発の電車になってしまったが、東村山、国分寺、西国分寺、府中新町、登戸と5回乗り換えを繰り返すことで、最短ルートになり到着時間を遅らさずに済んだ。

この日もいい天気だ。
伊勢原駅からは正面に大山がくっきりと見えた。
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大山ケーブル行きのバスが目の前で発車していったが、目もくれずに歩き始める。
伊勢原市はマンホールのモチーフもやはり大山だ。
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目の前に、阿夫利神社の鳥居があるが、あの道は通らない。
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本日は主に中平龍二郎著『キャーッ!大山街道‼』(風人社)を手引きに歩くことになるのだが、それによると、鳥居のある通りは古い大山道ではない。

矢崎道と呼ばれる平塚市豊田本郷から通じる道をまずは歩いてみる。
線路沿いに200mほど西に歩くと、矢崎道に出る。
この道は小田急線に分断されている。
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大山方面は「旧道らしいカーブ」(同書、以下略)を描いている。
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130mほど歩いて大通りに出ると、「風化して何かわからないが、石造物がある」。
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ここで右折。すぐに伊勢原小学校入口の信号で、この交差点が、江ノ島から通じる田村道との合流地点だ。
当時は各地から大山を目指す道が整備され、大山道は相模国を中心に網の目のように張り巡らされているのだ。

交差点のすぐ近くに、伊勢原火伏不動尊がある。
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ご本尊の制作年代は不明だが、文化十三年(1816年)に伊勢原を襲った大火の際、この不動様の前で火がぴたりと止まったことから、以来、「火伏せの不動様」として尊崇を集めてきたという。
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交差点を左折して駅前のメインストリートを歩く。
左手奥に見えるお寺は大宝寺。
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通りには昭和の香りのする商店がちらほらと残る。
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こちらは享保十三年(1728年)創業の「茶加藤」本店。
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現社長の加藤宗兵衛さんは十代目だそうだ。

矢印の通りに目に見えて大山が存在しているのは、歩いていて気持ちのいいものだ。
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国道246号に出る手前、右手に伊勢原大神宮が鎮座している。
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当社の創建は江戸時代初めの元和年間と伝えられている。
「新編相模国風土記稿」によると、元和六年(1620年)、伊勢の山田曽右衛門と鎌倉の湯浅清左衛門が大山参詣のおり、当時千手原と呼ばれたこの松原に一夜の宿を求めたところ、清らかな水音を聞いて、この一帯が開墾可能であることを覚り、代官成瀬五左衛門の許可を得て、開墾に着手した。
そこにだんだん人が集まるようになり、今の伊勢原の基礎が形成された。
曽右衛門は新しい開拓地の鎮守として故郷の伊勢神宮から神様を勧請した。
その御祭神に由来して、この地は伊勢原と呼ばれるようになったそうである。
その後は、矢倉沢往還の宿場町としても栄えていった。

ここは伊勢神宮と同様、天照大御神を祭る内宮と豊受姫大神を祭る外宮に分かれて奉祭されている。
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なぜかペアの卵がこの神社のシンボルになっていた。
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朝早くから正月準備の真っ最中だったが、今回の旅の安全を祈願する。
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かつて、境内には神社の管理にあたる別当寺として、照見山神宮寺という普化禅宗の寺が置かれていた。
普化宗の僧は、天蓋をかぶって、尺八を吹きながら、各地を修行して回った。いわゆる虚無僧である。
明治四年(1871年)の太政官布告でこの宗派は廃止され、今や神宮寺の痕跡をとどめているのはこの石灯籠だけだそうである。
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参詣道として賑わっていた頃から営業していたような気がする煎餅屋さんとお蕎麦屋さん。
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国道246号に出た。横断する前に、ちょっと右に寄り道して、御嶽神社に参拝。
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地元の氏神様である。
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境内に、「かさ神さま」と呼ばれる石塔があった。
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幕末の頃、不治の病で亡くなった旅の女性を供養するために祀ったものだという。
以来、同じ病や目の悪い人が供養・参拝したところ、多くの方が快方に向かったとのことで、病気平癒の神様として崇められているとのこと。

道祖神や戦没者の慰霊碑なども。
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こちらは敷地提供者の記念碑。
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吉川馬吉さんが敷地64坪を寄付してくれたようだが、年月日も入れてほしかった。

とういうわけで、片町十字路でやっと246を横断。
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ここは矢倉沢往還との交差点でもあるので、そちらもちらっと覗いてみる。
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旧道らしいカーブを描いていて、余は満足じゃ。

大山道に戻る。古そうな呉服屋。こういう店を拾って歩くのも楽しい。
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伊勢原高校入口のT字路を左折。
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そこには、これまた歴史のありそうな和菓子屋「曽我屋」。
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「安田弓具店」なんて店もあった。
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しばらく真正面に大山を見ながらの直線道路が続く。
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東名高速をくぐる手前に〆引(しめひき)という珍しい地名のバス停がある。
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阿夫利神社の神域への入口ということで、しめ縄を引いてあったことに由来する地名なのだろうか。

ここには、五霊神社がひっそりとたたずんでいた。
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社伝によると、大同元年(806年)に相模国三之宮村五霊原に鎮座したとあり、もともとは相模国府の御霊神社であった。
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その後、源頼朝、宗尊親王、北条早雲などが帰依したと伝えられる。
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社殿のとなりに児童館があった。
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その看板に「七五三引」とある。
注連縄(しめなわ)のことを「七五三縄」とも言うが、地名に採用されているのは初めて見た。ここではどちらの表記も使われているのだろう。

ここも参拝して、東名をくぐる。
ガード下にはいろんな絵が描いてあり、「市民壁画美術館」となっていた。
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抜けると、右手に山口家住宅がある。
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山口家は江戸中期より、ここ上粕屋村(伊勢原市上粕屋)の名主を務めており、もともとはもう少し大山よりの石倉に屋敷があったが、幕末に曳き家でこの地に移された。
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当時この地は六代将軍家宣と七代家継の側用人を務めた間部詮房の弟詮之が治めており、山口家はその家政に深く関わっていた。
明治維新後は、当主の山口左七郎が相模最初にして最大の自由民権運動の結社湘南社の初代社長に就任し、第一回衆議院議員を務めたという。

主屋の建物が慶応年間(幕末)に領主間部氏の地代官所として改造されることになったが、その時の瓦を利用して土塀が作られている。
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関東大震災で瓦はすべて屋根から滑り落ち、瓦礫は土の中に埋められていたが、それを再利用したものだ。

山口家に伝わる様々な資料を保存している雨岳文庫。
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五霊神社に埋まっていた天保三年(1832年)建立の道標。
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二つに折れていたので破損がひどいが、見えている面は、左が「大山道」、右が「右 ひなた道」と刻まれている。隠れている面には「左 かなひ道」。
「かなひ」とは「金目観音」(平塚・光明寺)のことらしい。
なぜ「かなめ」が「かなひ」になるのかは、よく分からない。

大山二の鳥居にかかっていた石の扁額。
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関東大震災の際に落下したらしい。「石尊大権現」とは阿夫利神社のこと。
龍の彫刻が素晴らしい。

巽の井戸。
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山口家の敷地内にあったが、旅人に利用してもらうため、門は開放されていたという。

堆肥舎。
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自園茶の畑。
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明治期には旧伊勢原町の豪商の何軒かは敷地内に自家用の茶畑を持っていた。
山口家では茶畑に梅の木を一緒に植えて、半日日蔭を作り、茶の葉っぱが柔らかくなるように工夫していたという。
摘み取りの時期になると、静岡や狭山などの本場から技術者を招いて近隣の人々とともに、茶作りを学んだ。お茶は大山道を歩く旅人にも商われたとのこと。
今はその茶畑もみなマンションに姿を変え、いにしえを伝えるのは、「茶加藤」さんだけになってしまった。

旧鈴木喜三郎邸離れ。
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鈴木喜三郎(1867~1940年)は検事総長、内相、立憲政友会第7代総裁を務めた川崎出身の政治家。
曽我丘陵にあった別荘(大正12年建築)の離れを移築したものだ。

裏には水琴窟があった。
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(つづく)
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塩の山

【2015年12月31日(木)】塩の山
小倉山(955m)から塩の山(553m)へと、この日2回目の転戦。
塩山温泉の元湯慶友館の駐車場に車を置かせてもらう。
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そのすぐ横が塩の山への登山口。
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塩の山は「塩山(えんざん)」の地名の由来になった山だ。
古今和歌集に「志ほの山 差出の磯に住む千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく」と詠まれており、「塩の山」とはもともと、四方から見える「四方の山」が原義という。
塩とは全く関係ないわけだ。
ちなみに、「差出の磯」とは山梨市にある名所らしい。海はないから川のことか。

まずは階段を登る。
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登り切ると左折し、しばらく山腹を巻いていく。
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遊歩道はこんな具合に整備されている。
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標高は約556mと書かれている。地形図では552.8mなのだが。

振り返ると、慶友館の向こうに、ひと月ほど前に登った恩若峯(983m)が望める。
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塩の山のアカマツ林は「やまなしの森林100選」のひとつ。
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徐々に登っていく。
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登るにつれて、展望も広がってくる。
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手前は恩若峯から南西にのびる稜線。奥は大滝山(左)から甲州高尾山(右)にかけての稜線。

お地蔵様のところで、右折する。
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この先はまた階段だ。
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右の突起は釈迦ヶ岳(1641m)。その左は達沢山(1358m)あたりか。あまり自信はない。
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屈曲点には東屋がある。もちろん休まず通過。
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陽だまりの道。
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ベンチのある場所は景色がいいはず。
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と思って振り返ったら、なんと富士山がようやく姿を見せてくれていた。
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白髪が風になびいているようだ。
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さらに傾斜が急になる。
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右に大きくヘアピンカーブすると、再び東屋。
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木槌でたたくと「健康の響」
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山頂まで、もう少し。
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25分ほどで登頂。四等三角点。
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しかし、肝心の山名板がない。あるのは、古今集の歌を書いた看板だけ。
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頂上ではカップルがカップ麺を食べていた。
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私も隣のベンチに座って、しばし休憩。
再度、眺望を楽しむ。
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かなり富士山の雲も引きちれたようだ。
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周回コースなので、今度は北西方向の尾根を下る。
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正面にかっちょいい一本松。
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その向こうには小楢山(1713m)。
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棚山(右、1171m)と兜山(左、913m)。
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甲府盆地。
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全景。
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さらに下って、東屋を通過。
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階段を下ると、下界に至る。
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塩の山の縁に沿って、塩山温泉に向かう。
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間もなく、向嶽寺の境内に入った。
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本堂。
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かなり大きな寺である。
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向嶽寺は永和三年(1378年)に抜隊得勝禅師が開山、康暦二年(1380年)にときの守護武田信成から寺地の寄進を受けて、向嶽庵を創建した。
寺の名称は「富嶽に向かう」からきている。
戦国期は武田家の信仰が篤かったという。
山号はずばり「塩山」。

境内には、郷土の詩人大村主計が書いた童謡「花かげ」の詩碑がある。昭和32年建立。
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「十五夜お月さまひとりぼち 桜吹雪の花かげに 花嫁姿のお姉さま くるまにゆられて行きました」

その隣に、西条八十の「友情の石ぶみ」が立つ。
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「親しい友の石ぶみがたつ塩山の秋の空 流るる雲に石碑に草むす日など想ひつつ」

「花かげ」の歌はよく知らないのだが、大村と西条は親しい友人だったそうだ。
西条の詩も知られてはいたが、その真筆が発見されたのを機に、平成14年に西条の詩碑も隣に建立されたとのことである。
その説明板も横にあるのだが、西条の詩にいくつも誤植がある。
訂正した方がいいのではないか。

寺の隣には秋葉神社。
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通りに出て、慶友館に向かう。沿道に「花かげ写真館」。
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レトロ調に新しく建てたものだろう。

道祖神にも正月飾り。
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旧塩山市のマンホール。
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というわけで慶友館に戻ってきた。
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風呂に入る前に、温泉街を散策しておく。
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塩山温泉郷は、向嶽寺を開いた抜隊禅師が発見したと伝えられる。
享保九年(1724年)の「上於曽村村鑑明細帳」には当時で年間1万人の湯治客があったと記されているという。
また、「向嶽寺略由緒」には門前41軒のうち16軒が湯宿を開いていたとか。
現在も7軒が塩川に沿って軒を連ねている。
かなり寂れた雰囲気ではあるが。

向かいにある井筒屋。
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食堂の松楽。
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塩川を渡ると、昭和3年に立てられた道標があった。
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その近くには、「千野鳥居原地蔵板碑」なる石仏が隠れるようにたたずんでいた。
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16世紀前半頃に地域の人が地蔵菩薩の慈悲を願って造られたものだという。

この先は袖切坂。
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ここは甲州街道の裏街道(青梅街道)で大菩薩峠を越えて、江戸に通じていた。
その昔、このあたりは大八車が通れるだけの幅3mほどの道で、やぶが生い茂り昼なお暗い道だったという。
旅の途中で、人馬ともに疲れ果て、命を落とした旅人も少なくなかったらしい。
その霊魂が行き交う旅人に救いを求めたが、旅人は願いを叶えてあげられないことを嘆き、難を逃れることも兼ねて、老若男女問わず、着物の片袖を切って供えるようになったことから、袖切坂と呼ばれるようになったとのことである。

坂には「恵浄の泉」と呼ばれる湧き水があった。
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武田軍の残党を、織田軍が処刑した際に使った刀をこの泉で浄めたことから、誰言うともなく「恵浄の泉」と呼ばれるようになったという。

そのさらに上には萬願子育地蔵尊が祀られていた。
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このお地蔵様は延喜年間というから平安時代、10世紀の初めごろに安置されたものらしい。
江戸時代後期、この村に飯島林蔵ととよという仲睦まじい夫婦がいたが、子宝に恵まれず、毎日この地蔵尊に祈願していた。
文政六年のある日、地蔵尊が夢枕に立ち、「四国西国を行脚せよ」とのお告げがあった。
それに従い、巡礼の旅に出た二人は帰国後の文政八年、めでたく男子を授かったとのこと。

それゆえ、この地蔵をこう呼ぶようになったらしい。
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これで散策を終え、再び慶友館へ。
しかし財布を見ると、細かいお金がない。
女将さんに「1万円しかないんですけど、大丈夫ですか」と尋ねると、「今、こわしてきたとこだけど、宿泊のお客さん用だから、どこかでこわしてきてくれない」との答え。
「近くにコンビニとかありますか?」
「コンビニはないけど、その大きな通りに八百屋とかあるよ。悪いねえ」
「いいえ、こちらこそ」
このあたりでは、お金をくずすことを「こわす」というようだ。
それはともかく出直しになってしまった。
通りに出ると、スタンドがあったので、給油でこわすことにする。
所沢より随分割高だが仕方ない。

旅館に戻り、600円を渡す。やっと入れる。
ここはかなりの老舗のようで、創業100年くらいは経っているらしい。
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女将さんも正確には分からない様子だったが、パンフレットを見ると創業明治36年と書いてあった。
1903年ということになるので、もう113年になる。

古い旅館だけに、まだこんなポスターも。30年近く前のものだろうか。
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お風呂はどんどん階段を登った最上階にある。
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温泉の歴史、効能は以下の通り。アルカリ泉だ。
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一番湯なのだが、湯気もうもうで浴室はこんな状態。
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でも、実にいい湯であった。1年の汗をすっきりと流すことができた。

湯上りにちょっと館内を見学。
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大きな広間。
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これにて、2015年の活動も終了。所沢の自宅に向かう。
外に出ると、雲が大菩薩嶺の東から押し寄せてきていた。
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柳沢峠経由で帰ることも考えたが、大晦日ということもあり、早めに帰りたい。
渋滞はないらしいので中央道で帰還。
5時半すぎには帰宅できた。
1月に骨折した右足であったが、よく頑張ってくれた。感謝して1年を締めくくる。

【行程】2015年12月31日
塩山温泉(13:35)~塩の山(14:00撮影・休憩14:08)~向嶽寺(14:30見学14:39)~塩山温泉(15:00)
※所要時間:1時間25分(歩行時間1時間20分)
※登った山:1座(塩の山)
※歩行距離:3.6km
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小倉山

【2015年12月31日(木)】小倉山
帯那山(1422m)から転戦。塩山駅の北にある小倉山(955m)に向かう。
途中、塩山温泉が通り道だったので、元湯慶友館という老舗っぽい旅館に立ち寄り、日帰り入浴ができるかどうか聞いてみた。
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すると受け付けてはいるが、宿泊客が来る午後3時くらいにならないと沸かないという。
こちらも今入るつもりはないので、それで全然構わない。
塩の山を登る予定なのだが、その間、車を置かせてもらえるか尋ねたら、それもOKとのことだった。
よし!これで方針は決定。まずは小倉山に登ることにする。

小倉山のふもとはざぜん草の里ということで、立派なビジターセンターもある。
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これが目指す小倉山の一部。
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大きな駐車場に車を止めて、11時過ぎに出発。
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山全体がハイキングコースになっている。
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振り返ると滑沢山(1292m)。
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ここは標高差200mほどの登山だ。
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少し歩くと、トタン壁の売店が出てきた。
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ざぜん草の時期は多くのハイカーや観光客でにぎわうのだろう。
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この先はざぜん草の群生地。
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木道が整備されているので、何も咲いていないが、歩いてみる。
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シカ除けの電気柵を外して中に入る。今は電気は流していないと思うが、おそるおそるだ。
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古タイヤをリサイクルして滑り止めにしてある。なかなか頭がいい。
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沢のあたりに花は咲くのだろう
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木道が尽きたところで登山道に戻り、小倉山展望台に向かう。
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広い谷底を登っていく。
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一部、木が伐採されているので見通しがいい。
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稜線はもうすぐそこだ。
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振り返ると、右奥に遠見山(2234m)あたり。
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望遠で見てみよう。
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その左には小楢山(右、1713m)が見えてきた。
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稜線にのったら右折。
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冬枯れの道を進む。
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そこそこ傾斜がある。
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分岐から8分ほどで頂上の展望台に到着。
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小さな山名板が貼り付けてあった。
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早速登って、眺望を堪能しよう。
手前は扇山(恵林寺山、942m)、その右奥に小楢山。
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それぞれのアップ。
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棚山(手前、1171m)と農鳥岳(3026m)。
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南アルプスの白峰三山。
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北岳(3193m)と鳳凰三山。手前の凹みはさっき訪ねた太良峠。
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水ヶ森(1553m)。
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尖った甲斐駒(2967m)の手前のほぼ水平な稜線が帯那山あたりだろう。
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中央下の目立った山がおそらく天狗山(845m)。

アップにしてみると、ほぼ中央に白っぽく戸市集落が見える。
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南アルプスと甲府盆地の全景。
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南アルプス南部も遠望できた。
右から悪沢岳(3141m)、赤石岳(3120m)、聖岳(3013m)。
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眼下に塩の山(553m)。はるか向こう(右奥)に双耳峰の笊ヶ岳(2629m)も確認できる。
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これだ。
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塩の山は後で登るつもり。
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その左には毛無山(1964m)。
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富士山が裾野だけ姿を現した。
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それらの全景(南方面)。
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西方面ももう一度。
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う~ん、堪能した。富士山が見えれば完璧だったが、満足して階段を下りる。
お昼にはまだ早いので、三角点を確認して、前進。
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さっきの分岐を通過して、尾根通しに進む。
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左手に、今登ってきた小倉山。
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この先に小倉山より標高が高いピーク(996m)があるので結構きつい。
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タヌキの落とし物。
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岩場まで出てきた。
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傾斜が急なので、ロープがありがたい。
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頂上台地にのってしまうと、平坦になるのでひと息つける。
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頂上には山名板があった。「上条山」というそうだ。
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地形図にも「山と高原地図」にも表記がなかったので、半分諦めていただけに、ラッキー。
だが、ここもすぐ通過、100m近く下って上条峠へ。
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ここから平沢集落に向かって、谷の道を下る。
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きれいな冬枯れの斜面。
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道が分かりにくいが、踏み跡がひっそりとあった。
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広い谷が一面、落ち葉に埋もれている。
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なかなかめずらしい光景だ。
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しばらく下ると、沢が現れた。
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直進すると集落だが、船宮神社に参拝するため、左折して沢を渡る。
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この沢も厳冬期には凍ってしまうのだろう。
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大きな落ち葉を蹴散らしながら歩く。
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このコースはあまり歩かれていないのか、やや荒れた印象。「山と高原地図」でも破線になっている。
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開けたところで道標があったので、右に下る。
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平沢集落のはずれに出てきた。
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神社が見えたところで、日当たりのいい低い擁壁があったので、そこに腰掛けてお昼にする。
今日は、抹茶オレを持ってきたので、おにぎりではなくパンにした。
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ちょっとつぶれてしまったが、私はこの焼きそばパンが好きだ。
中学の時、母親が弁当を作れなかった日には、これをよく食べた記憶がある。
しばらくあまり見かけなかったが、最近は普通に売られている。

風もなく陽だまりランチでうれしい。
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正面にはたった今登ってきた小倉山も望める。
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15分ほどで休んで、神社に参拝。
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正月の準備がしてあった。
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境内には、県指定の天然記念物「船宮神社の大ケヤキ」。
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目通り2.6mとのことだが、説明板に樹齢は書いてなかった。

集落に出て、県道を下る。
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道端では、たくさんの石仏が見送ってくれた。
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湯原集落。
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この地域に特徴的な入り子風の三角屋根。
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道祖神。
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右前方に扇山。
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2時間余りで駐車場に戻ってきた。
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ビジターセンターを覗きに行ったが、やはり閉まっていた。
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というわけで小倉山めぐりは終了。塩の山に向かう。

【行程】2015年12月31日
登山口(11:05)~ざぜん草群生地入口(11:10)~稜線(11:30)~小倉山(11:38撮影11:50)~上条山(12:14)~上条峠(12:26)~船宮神社(12:46昼食・撮影13:05)~登山口(13:20)
※所要時間:2時間15分(歩行時間:1時間50分)
※登った山:2座(小倉山、上条山)
※歩行距離:5.3km
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帯那山(下)

【2015年12月31日(木)】帯那山
歩き始めて10分もかからずに、帯那山山頂に着いた。
まずは、この避難小屋を探検。
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窓や扉はもともとなかったようだ。
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それにしても荒れている。

トイレもあったが扉もなく、この惨状。
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しかし、するしかない人はするしかないのだろう。

ちょっと陰惨な気分になったので、外に出て、明るさを取り戻す。
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ただ絶景であるはずの富士山が影も形も見えない。
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「山梨市八景 帯那山の雲海」という案内板があったが、読むだに口惜しさが涌き上がってくる。
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しかし、こういうこともあるさ。

富士山の前衛の山々は、ちゃんとシルエットを確認できる。
左は三ツ峠山(1785m)、右は黒岳(1793m)。
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その右は、左から節刀ヶ岳(1736m)、鬼ヶ岳(1738m)、王ヶ岳(1623m)。
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どこの山かは判然としないが、美しい山並みである。
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少し下がったところに、別の木造の休憩舎もあった。
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頂上に戻って、奥帯那山(1422m)に向かう。
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なだらかな登り。
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しかも明るい道だ。
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このピークが頂上。
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三角点の横には「帯那山」の標識があった。
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さっきの帯那山の標識には、実際の標高は1375mほどなのに、1422mとここの標高が書かれていた。
帯那山の頂上は本来ここなのだろうが、見晴らしいのいい休憩小屋のあるピークを帯那山の山頂と長く呼び習わしてきたので、この三角点の場所をあえて「奥帯那山」などと言うようになったのかもしれない。
そうだとしても、私は「山と高原地図」の表記に従い、これらを2座として取り扱うことにする。
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写真を撮ったら、長居は無用。帯那山へ引き返す。
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次の標的は、尾根伝いに南にあるピーク見越山(1347m)である。

牧場の柵や尾根のラインが錯綜していて、コース取りが難しい。
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柵を越えたり、またくぐったり。
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途中、牛の水飲み場があった。
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右手に冬枯れの木々を透かして、甲斐駒(2967m)がその雄姿を見せてくれた。
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これには感激。ほかの南アルプスも見えそうだが、なかなか木が途切れず確認できない。

正面のシルエットは見越山。
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尾根を下ると、牧場内の作業道に出た。
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これはありがたい。牛くんたちはもう山麓の牛舎に移されているようだ。

おお出た出た。鳳凰三山と甲斐駒。後ろに白く見えるのは仙丈ヶ岳(3033m)だろう。
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地蔵岳(2764m)のオベリスク(右)もくっきり。
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こちらは八ヶ岳。
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作業道から外れてほんの少しで見越山の三角点を発見。なぜか真っ赤に塗られている。
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山名板もあって、うれしかった。
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振り返ると奥帯那山。
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作業道を引き返す。
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左手に八ヶ岳がすっきり見えるスポットがあった。
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左は茅ヶ岳(1704m)。
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ゲートの先は尾根に戻らず、そのまま作業道を進む。
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この道から直接、頂上に行くルートもあったようだ。
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というわけで、大した登りもなく1時間ちょっとで3座を制覇し、車に戻ってきてしまった。
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さて次はどうするか。
水ヶ森には行けないので、塩山駅の北にある小倉山(955m)と塩の山(553m)に行ってみることにした。

クリスタルラインを戻る。
車で林道を走っていると、帯那山山頂の小屋が見えるポイントがあった。
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さっきは気づかなかったが、小金沢連嶺も展望できる道だった。
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さて、太良峠を通過し、戸市集落まで下りてきた。
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このバス停がこの路線の終点。1日4本も運行されている。
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山梨市営バスで、どこまで乗っても100円で済むようだ。

この合掌風の三角屋根がこのあたりの民家の特徴だ。
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正面には、天狗山(左、845m)と遠くに大菩薩嶺(2057m)。
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なぜか道端に二宮金次郎の石像。
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引き続き、切差集落に入る。
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それにしても雰囲気のいいところだと思っていたら、この道は秩父裏街道と呼ばれる古道だった。
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朽ちかけた消防署の分団。
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石祠と石碑。
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このあたりの山村は三角屋根と石垣とでできている。
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この先もまだまだ写真に残したい集落がいくつもあったが、議事進行で泣く泣く通過。
甲府盆地の北辺を横断し、小倉山に向かった。

【行程】2015年12月31日
帯那山登山口(8:40)~帯那山(8:49撮影9:00)~奥帯那山(9:08)~見越山(9:32)~登山口(9:48)
※所要時間:1時間8分(歩行時間:1時間5分)
※登った山:3座(帯那山、奥帯那山、見越山)
※歩行距離:3.0km



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帯那山(上)

【2015年12月31日(木)】帯那山
前夜の年賀状書きは早めに終わったので、登り納めは少し早起きをして出かけることにした。
大晦日の高速渋滞はほとんどないという予想だったので、関越で群馬県の恩賀高岩(1084m)に行くか、山梨の帯那山に行くか、ギリギリまで迷ったのだが、冬型の気圧配置なので北の方が雲の出る確率が高いと判断。帯那山に決めた。
しかし、これが正解だったかどうか。

朝5時に起床して、6時に自宅を出発。
星も出ているし、いい天気になりそうだ。
中央道を勝沼ICで下り、甲府盆地の東部を北上する。
すると、北には見事なスカイラインが展開。思わず車を止めて、シャッターを連発。
左から、大沢ノ頭と小楢山のコンビ、奥千丈岳・国師ヶ岳方面、黒金山と乾徳山のコンビである。
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それぞれ、じっくり見ていこう。まず、小楢山(1713m)。
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たぶん奥千丈岳(2409m)。
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乾徳山(2031m)。
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これらの左にはポコポコした山並みが続くが、はっきりと特定できない。
中央が水ヶ森(1553m)だろうか。
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さらに左は、ひと月前に登ったばかりの棚山(右、1171m)と兜山(左、913m)。
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帯那山はあまり特徴のない山のようで、きちんと特定できなかった。
これらを確認したところで、再び車を走らせる。
国道140号を右折し、県道31号線(甲府山梨線)をぐいぐい登っていく。
実はこの道、1990年10月14日に自転車でツーリングした記録が残っている。
あの時は、太良峠に登って乙女高原まで走った。
それ以来だから25年ぶりの再訪となる。

沿道の様子はほとんど記憶にないが、古い街道の面影を残す、素晴らしい道である。
名物くさもちのお店。
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開いていたら行動食に買っていきたかった。

さらに進むと、諏訪にある万治の石仏にそっくりのお地蔵様が立ちはだかっている。
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傍らにある案内板によると、「首地蔵」と呼ばれているらしい。
その昔、大雨による土砂崩れで赤子を背負った娘が生き埋めになり亡くなってしまった。
それ以来、村の赤子の夜泣きがひどくなり、落ちてきた大岩からもすすり泣く声が聞こえてきたという。
村人たちは娘が祟っているのだとおびえていたが、通りかかった旅の僧が石を彫って地蔵の頭をつくり、この巨岩の上にのせて供養したところ、赤子の夜泣きもすっかり治まった。
しかしその後、道路拡幅のため、この岩を撤去することになった。岩に穴を開けた石屋が帰宅した、突然高熱を発して苦しみ始めたことから、工事は中止され、ずっとこのように道路にはみ出したままになっているということである。

この上の切差(きっさつ)や戸市集落も美しい山村だったが、帰りもここを通ることだし、とりあえずは太良峠を目指す。
8:15、峠に到着。ここは登山口ではないが、しばし撮影タイム。
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甲府方面の眺望が開けていた。
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ただ、南アルプスは残念ながら雲の中だ。
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この標識を見て、一瞬ドキリ。
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「帯那山林道は通行止め」とある。しかし、地図を見ると、ここから帯那山に向かうのにその林道を通る必要はないので問題なかった。

もうひとつ、この「冬期通行止」の看板も気になったが
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とくにゲートはないので気にせず進入することにした。
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ここからは延長20kmに及ぶ水ヶ森林道(クリスタルライン)。
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ずっと舗装されているのだろう。

再び車に乗って、クリスタルラインをゆっくりと進む。
8分ほど走ると、帯那山の登山口に到着。
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でもここは通過。私は、「山と高原地図」にある駐車場マークのところまで行くつもりだ。

しかし、そこに達する手前で、「冬期通行止」のゲートに阻まれた。
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全然雪は降っていないが、12月10日から閉鎖になっている。
ゲートの手前に1台車が止まっていたので、先客が来ているのかなと思ったら、猟銃を持ったお兄さんが車に戻ってくるところだった。
シカ狩りだろうか。それともクマか。

ここから左にダートの林道が延びており
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「帯那山高原牧場」という大きな標識も出ているので、取りあえず、この道で帯那山に近づくことにした。
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ものすごい凸凹の道を、車体を大きく揺らしながら、しばらく登ると、さっきの登山道が左から上がってきて、この林道と交差している。

この先、帯那山への車道はかなり傾斜がきついので、ここから歩くことにした。
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その前にいきなりやってきたアレに対処するため、物陰へ。

ストレッチで念入りに体をほぐして、8:40に出発。
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とりあえずはまだ車の通れる道だ。

すぐにアヤメ群生地の車止めに至る。
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右手に広がるのが、そのアヤメ群生地なのだろうか。
季節外れとはいえ、随分茶色い。
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ほんの少し進むと、右手が開けた。
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左に瑞牆山(2230m)、右に金峰山(2595m)。右手前は水ヶ森。

それぞれズームアップしてみよう。まずは瑞牆山。
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そして金峰山。五丈石の突起が目立つ。
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ついでに水ヶ森も。
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あそこには帯那山のあとに行くつもりだったが、通行止めなので断念せざるを得ない。

その右には奥千丈岳(左)と遠見山(2234m)。たぶん。
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正面に東屋らしきものが見えてきた。
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頂上直下にあるらしい休憩小屋だなと思ったら、もうここが頂上だった。
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さっきの車止めから「15分」と書いてあったのに、5分もかからなかった。実にあっけない。
15分というのは、奥帯那山(1422m)までの所要時間のことなのだろう。

(つづく)
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鳥ノ胸山(下)

【2015年12月30日(水)】鳥ノ胸山
秋葉山(887m)山頂直下にある秋葉神社への参拝を終え、頂上に戻った。
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ほんの数分の間に、富士山の雲がさらに増えている。
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このまま見えなくなってしまうのだろうか。

とにかく鳥ノ胸山(1208m)に向かう。
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若干下った後は、急登が続く。
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北斜面なので寒い。地面には大量のどんぐりが落ちていた。
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ロープ場では遠慮なく、頼らせてもらう。
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巨石を右に見送りつつ標高を稼ぐ。
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これはたぶん雨宿り岩。
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標高1050m付近でやっと一度だけ、傾斜が緩んだ。
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それもつかの間また急坂。
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右手に三ツ峠山(1785m)が姿を現した。
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やっとのことで道の駅から直接登ってくる道と合流。
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ここまで来れば頂上台地の上なので、平坦だ。
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12時前、秋葉山から50分ほどで鳥ノ胸山山頂に到着。
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コースタイムより10分早かった。
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頂上からは道志の谷と御正体山(1682m)が大展望。
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しかし肝心の富士山は完全に雲の中に隠れていた。
残念だが、秋葉山で見えたので許すとしよう。

その代わり、遠く南アルプスの農鳥岳(左、3026m)と間ノ岳(右、3190m)がくっきりと見えた。
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その左には悪沢岳(3141m)と赤石岳(3120m)も。
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三ツ峠山の右には、地蔵岳(2764m)のオベリスクと甲斐駒(2967m)もかわいく頂上を覗かせていた。
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全体の位置関係。
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頂上には各地のボーイスカウトが作ったかわいい標識がたくさんあった。
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ふもとのキャンプ場に泊まり、ここまで登ってくるのだろう。
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となりのベンチでは老夫婦がカップ麺をすすっている。
温かそうだが、こちらはおにぎり2個。温かいのはお茶だけ。
さっきの秋葉山ではぽかぽかだったのに、だんだん曇ってきたこともあり、すっかり寒くなってしまった。

食べ終えたところで、三角点を確認して出発。
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まずは、ほんの少し下る。
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そしてすぐ登り返し。
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このピークが西峰。
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あまりに鳥ノ胸山に近く、ほとんど高低差もないので、「登った山」に入れることを躊躇したが、地図に名前がある以上、例外にするわけにはいかなかった。
頂上では、先に出発していた老夫婦が荷物を直していたので、先に行かせてもらう。

ここからは一気に100mほど下る。
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かなりの傾斜でロープを張っているところもあった。
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正面には甲相国境稜線の城ヶ尾山(1199m)が望める。
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下り切ると、しばらく平坦な道。
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振り返ると、鳥ノ胸山(左)と西峰(右)のシルエット。
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最後にひと登りで、雑木ノ頭(約1140m)。
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2014年3月にO君と来たところだ。


ここにもボーイスカウトの作品があった。
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この先は前回、O君と歩いた道だが、あの時は雪で真っ白だったので、ほとんど見覚えがない。
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150mほど下ってコルに出ると、正面に岩場が現れた。
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これは雪に埋もれていたはずだが、何となく記憶がある。

少しだけ登り返して、再び植林の中の急な下り。
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前回は雪だったので、さくさく下ったはずだ。
今回はチェーンアイゼンを効かせながら慎重に下る。

ボーイスカウト作の古い標識も残っているが、表記が間違っている。
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尾根沿いの道をさらに下ると、正面が木の枝で通せんぼになっていた。
踏み跡が右についていたので、そちらを下る。
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最後はスラブ状に岩が露出している。
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チェーンでも滑りそうなので注意して進んだ。
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ここで林道に出たのだが、地図とも記憶とも様子が異なる。
地図では、林道に出たら右に行かなければならないのだが、道は左に下っている。
でも、よくよく考えたら合点がいった。
さっきの尾根は右に下りるのではなく左に下りるべきだったのだろう(道には気づかなかったが)。
つまり一本隣の枝谷に下りてしまったのだ。
そう気づけば何のことはない。このまま右に下ればいいのだ。

ここは何やら、山を削りだしているようなところだった。
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そのおかげで露出した地層。
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林道を下って行くと、思った通り道志の森キャンプ場の裏に出た。
正規の道に合流し、三ヶ瀬川沿いに歩く。
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落合橋を渡ると、その先は車で何度も通った道だ。
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舗装道路なので楽ちん。
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風景を楽しみながら歩く。
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谷が開けると正面に道志山塊がどっしりと横たわっていた。
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左手には御正体山。富士山はやはりもう見えない。
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馬頭観音のとなりにへたくそな馬の線刻があって面白い。
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見とれるような姿のいい木があった。
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道志川を渡ると、そこはゴールの道の駅。
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寒空の下、河原で遊んでいる人がいた。
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13:40、道の駅に到着。最後に鳥ノ胸山を振り仰ぐ。
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車に乗ったら、すぐに温泉へ。
今回は旧藤野町の「いやしの湯」。
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年末ということもあり、みな1年の汚れを落としたいのか、かなり混んでいた。

休憩所で懐かしいメロン玉シャーベットを発見。
もちろんいただいた。
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帰りは藤野ICから中央道にのるつもりで藤野駅方面に向かったが、藤野ICも相模湖ICも見逃して、結局高尾山ICから圏央道に乗る羽目に。
やや時間がかかったが、渋滞もなく、スムースに帰宅できた。
懸案を消化できて満足であった。

【行程】2015年12月30日
道の駅どうし(9:45)~観光農園(10:04体操10:08)~秋葉山(10:38撮影・参拝・休憩10:55)~鳥ノ胸山(11:44昼食12:07)~雑木ノ頭(12:33)~落合橋(13:17)~道の駅どうし(13:40)
※所要時間:3時間55分(歩行時間:3時間25分)コースタイム:3時間55分
※登った山:4座(うち新規3座:秋葉山、鳥ノ胸山、西峰)
※歩行距離:7.9km

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鳥ノ胸山(上)

【2015年12月30日(水)】鳥ノ胸山
この日は帰省ラッシュのピークで高速道路の下りは各地で大渋滞になるらしい。
でも電車にすると、早起きしないといけなくなるので、車で行きたい。
一般道中心で行けるそんなにハードじゃない山、という条件で行き先を検討。
思い付いたのが、山梨百名山の鳥ノ胸山(とんのむねやま、1208m)。
ここは2014年3月にO君と登ろうとしたが、雪のため手前でエスケープしたところ。
登り残したままになっていたので、いい機会だ。

前日は奥武蔵ハイキングから帰ってきて、夜は遅くまで年賀状書きに勤しんだ。
あまり早起きはできないし、この日も残り半分を書いてしまわないといけないので、そう長くは歩けない。
「道の駅どうし」からの周回で、コースタイムは4時間ほどなのでちょうどいい。

目覚ましもかけず7時前に起床。7:45に出発した。
中央道の渋滞が圏央道にまで波及することを恐れていたが、大丈夫だった。
天気はすこぶるよく、圏央道からは大岳山(1267m)と馬頭刈尾根がくっきりと見えた。
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道路地図帳を持って来るのを忘れたので、どう行けば一番近いのか確認できなかったが、相模原ICで下りて国道413号で行くことにした。
帰宅して調べてみたら、中央道経由とあまり変わらなかった。

道志みちに入ると、正面に大室山(1588m)も見えてきた。
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道志十里の二里塚で車を止める。
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ここは富士山が少しだけ顔をのぞかせているポイントだ。
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9:40、自宅から2時間弱で道の駅どうしに到着。
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店は、もう年末年始の休業に入っていた。

しばらくは車道歩きなのでストレッチは後回しにして、トイレだけ済ませ、9:45にスタート。
道の駅には、道志村の地形をかたどった湧水モニュメントがあった。
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ここには何度か来ているが初めて気づいた。

というわけで、国道413号をしばらく東の方へ下っていく。
沿道には、戦死した地元兵士の供養碑があちこちに立っている。
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名前を見ると、山口姓が圧倒的に多い。

そんな碑に混じって、雛鶴姫命由緒地なる碑もあった。
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雛鶴姫は後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王の侍妃である。
護良親王は鎌倉幕府討幕に貢献したが、後に後醍醐天皇に反目、捕らえられて鎌倉・東光寺に幽閉された。
建武二年(1335年)、護良親王は足利直義の命を受けた淵辺義博に殺害される。
この先の話は伝説の域を出ない。
無念さを隠しきれない親王は死後も淵辺をにらみつけていたため、恐れをなした淵辺は親王の首級を近くの竹やぶに捨てて逃走した。
雛鶴姫は首級を探し出すと、それを抱えて鎌倉を発ったが、山梨県の秋山郷(旧秋山村、現上野原市)に達したところで産気づいた。何とか出産はできたものの、真冬の寒さと飢えのため、母子ともに亡くなってしまった。
雛鶴姫は臨終の際、悲しみのあまり「ああ無情」と嘆いたことから、この地が「無生野(むしょうの)」と呼ばれるようになった。この地に伝わる「無生野の大念仏」は雛鶴姫の故事が発端になったとされている。

以上が雛鶴姫とこの地域のつながりなのだが、あくまでこれは道志山塊を越えた秋山川の谷でのこと。こちら側(道志川の谷)とどんなつながりがあって、この碑が建てられたのかは不明である。
ちなみに、秋山川をさかのぼったところに雛鶴神社や雛鶴峠がある。
雛鶴峠には30年以上前に自転車で行ったことがあるが、このあたりもいずれゆっくり歩いてみたい。

つい話が長くなってしまった。
道志川沿いは今でこそ、キャンプ場のメッカとなっているが、かつては道志十里とか七里とか言われた街道であった。
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古い暮らしがあったのである。
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昔から営まれている宿も少なくないのだろう。
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民宿北の勢堂には以前、ネット予約が認識されておらず泊まれなかったことがある。
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合掌風の藁葺きの建物は旧館。
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このすぐ先、観光農園のところを右折。道志川を渡る。
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農園もフィッシングセンターもシーズンオフなのか、閉まっている。
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あれが、とりあえず目指す秋葉山(887m)か。
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駐車場わきには、魚霊供養塔があった。
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釣り人向けなのであろう。

ここからは登山なので、ストレッチを入念に。
登山口がはっきりとは分からなかったが、この道を歩いていけば良さそうだ。
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200mほどで車道は途切れ、登山道になる。
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ここでダウンをウインドシェルに着替える。

しばらく沢沿いの登り。
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いったん下って、沢を渡る。
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ゴロゴロしているのは花崗岩のようだ。
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この先は朽ちかけた木の階段を登る。
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かなりの急登で、ロープも張ってある。
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随分長い。
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崩壊も激しい。
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やっと尾根が見えてきた。
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尾根にのると分岐になっている。右が鳥ノ胸山で、左が秋葉山。
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(これは振り返ってみた図)

この先すぐに秋葉山の山頂。
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山頂付近は木々が伐採してあり、眺望は抜群。
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ただ、富士山にはすでに雲がかかり始めていた。
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御正体山(1682m)。
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その手前は岩下ノ丸(1304m)。
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北には今倉山(1470m)。
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その右に道志山塊が連なる。
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東には加入道山(1418m)。
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南にはこれから登る鳥ノ胸山。
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眼下には道志村の集落。
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「山と高原地図」には神社マークがあったが、頂上にそれらしきものはない。
ちょっと北の斜面を下ってみたら、どうやって参拝したらいいんだ!ってくらい不思議な場所に建っていた。
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扉のかんぬきを外して参拝。
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足場がほとんどなく、撮影も命がけだった。

(つづく)
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鹿沼駅舎めぐり

【2015年12月23日(水)】鹿沼駅舎めぐり
石裂山(880m)登山を終えたが、まだ時間が早いので、鹿沼周辺の駅舎や役所をコレクションしながら帰ることにした。
まずは鹿沼市役所。
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かなり古い庁舎で、スローガンもレトロだ。
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鹿沼市は「鹿沼秋まつり」をユネスコの無形文化遺産にしようと申請中のようだ。
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今や本家の世界遺産だけでなく、無形遺産や記憶遺産などに登録してもらって、街おこしにつなげようと、どの自治体も必死だ。

そんな騒ぎを横目に、東武日光線の北鹿沼駅へ。
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昭和6年(1931年)12月10日開業。
開業当時からの木造駅舎は2009年5月頃に取り壊されたそうだ。

今のはいかにも効率的なの箱形駅舎。もっと早く来るべきだった。
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ちょうどスペーシアが通過して行った。
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その2分後には、普通列車の新藤原駅が到着。
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発車したと思ったら、今度は新栃木行きの普通列車がやってきた。
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ラッキーなことにすれ違いシーンを撮影することができた。
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ここで鹿沼市のマンホールをチェック。
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次はJRの鹿沼駅へ。
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開業は明治23年(1890年)6月1日だが、こちらも駅舎は新しい。
なんと2014年3月14日の供用開始。タッチの差だった。

ただ、新駅舎の雰囲気も悪くない。
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ここにも大きく、ユネスコ無形文化遺産の宣伝。
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「秋まつり」という何の変哲もない名称だが、彫刻屋台の「繰り込み」と「繰り出し」、「ぶっつけ」と呼ばれる囃子の競演が見どころらしい。
市役所の真ん前にある今宮神社に奉納される400年も続く祭りなんだとか。
彫刻屋台は町内ごとに全部で27台あり、うち14台は江戸時代に作られたものだそうだ。

駅前にある屋台倉庫は「上野町屋台蔵」だった。
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こちらは廃業した佐野ラーメンのお店「ロッキー」。
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映画「ロッキー」のファンだったのだろうか。

駅前ロータリーに石裂山の登山口、上久我にも通じていた鹿沼市民バス(愛称:リーバス)が停車していた。
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市街地を南北に貫流する黒川にかかる貝島橋からは、日光連山がうっすら見えた。
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朝のうちはもっとはっきり見えていたが、男体山、日光白根山ともに頂上付近には雲がかかっている。

東武線の新鹿沼駅は昭和4年(1929年)4月1日の開業。
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なんか岡本太郎っぽいモニュメントがあるなあと思って確認してみたら、やっぱりそうだった。
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鹿沼市民文化センターのオープンにあわせ、昭和59年に作られたものだそうだ。今はここに移されている。タイトルは「夢の樹」。

駅の横には木造のままの自転車預り所があった。
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何だかホッとした。

JR鹿沼駅にもあったが、ここにも芭蕉の木像がたたずんでいた。
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国道293号(例幣使街道)を南下、次は樅山駅。
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新鹿沼駅と同時の開業だが、ここも駅舎は建て替えられ、待合室すらない。
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子供泣き相撲で有名な生子(いきこ)神社の最寄り駅とのことだが、今回は立ち寄らなかった。
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またも箱型の楡木駅。
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しかし、なかなかしゃれた自転車置き場。
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屋根が高すぎて、雨が降ったら濡れてしまいそうだけど。

駅前には「東武鐵道楡木驛開設紀念碑」が立っていた。
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ここも新鹿沼駅と同時開業だが、記念碑の建立は昭和7年7月。
東武鉄道の初代社長、根津嘉一郎の揮毫である。

線路は続くよどこまでも。
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こちらも同じ日に開業した東武金崎駅。
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ここから旧西方町(栃木市)に入る。
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とくに商店もない駅前通り。
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スマホ検索で、西方町いきいきロマンの湯という温泉を発見したので来てみたら、入浴施設ではなく温泉スタンドだった。
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いろいろと効能がありそうだが、持って返るわけにもいかない。
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栃木市役所西方総合支所(旧西方町役場)に寄り道。黄色い塗装が印象的だ。
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西方村が町制をしいたのは平成6年10月。
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そして栃木市に編入合併したのは平成23年10月。町としては17年の寿命だった。

旧西方町のマンホール。
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わりと近くに、これまた栃木市に編入された都賀町の旧役場があった。
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現在は、栃木市役所都賀総合支所。

旧都賀町のマンホール。
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旧都賀町マンホールのデザインを残しつつ、市章部分のみ栃木市に差し替えたパターン。
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次の家中駅に至っては、駅名板のみ。
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ちょうど、区間快速浅草行きが入線してきた。
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合戦場駅。家中駅とともに新鹿沼駅と同時開業。
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これまた味気ない駅で残念。2007年5月の供用開始。
古い木造駅舎はその後取り壊されたそうだ。
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(ネットより借用)

駅前の民家にきっぷ発売所があった。
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東武日光線が伊勢崎線から分岐する春日部駅から、ここがちょうど50km。
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これで駅舎撮影は打ち止め。日帰り温泉に向かう。
今回は栃木市の「栃木温泉 湯楽の里」にした。
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料金は790円。「湯楽の里」はチェーン展開しているようで、あちこちにある。

結構大きな施設だったが、休日ということもあり、かなり混んでいた。
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ゆっくり汗を流し、東北道と圏央道で帰宅。
渋滞にもつかまらず、早めに帰れた。
久しぶりの栃木の山だったが、ちゃんと日光連山が見えたら、なおよかった。

(おわり)
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豆口山(下)

【2015年12月29日(火)】豆口山
風木クボ(約600m)と呼ばれるピークの先はしばらく平坦な道が続く。
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間もなく、竹寺の鐘楼に到着。
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ここは581mのピークだが、後で確認すると金毘羅山という名が付いていた。
かなり眺望がいい。
正面には金毘羅尾根とその左奥に棒ノ折山(969m)。中央奥は川苔山(1363m)。
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眼下に見える白い像は鳥居観音。
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鳥居観音は、旧名栗村出身の銀行家(旧埼玉銀行の初代頭取)平沼彌太郎(1892~1985年)が昭和15年に開いた寺院である。
秩父御嶽神社といい、奥武蔵には自分で寺を開いてしまう篤志家が少なくない。
観音信仰に熱心だった母の遺言で、この地に観音堂を建てたのが始まりだそうだ。
その後、彌太郎は仏像彫刻の修行も積み、現在本堂に安置されている観音菩薩像や大黒天などの仏像はみな彌太郎(桐江)の作品だという。
左奥の三重塔は玄奘三蔵塔、右手前の像が救世大観音である。
今回、鳥居観音の存在を始めて知った。

右の奥は蕎麦粒山(1473m)方面。
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川苔山を望遠で。
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振り返って北東には筑波山(877m)。
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中央は大高山(493m)。
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関東平野。
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眼下は旧名栗村役場付近。
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撮影後は釣鐘堂に腰掛けて一服。十数分で出発する。

少し下った鞍部は十字路になっていた。
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左に下ると竹寺、右に下ると小殿バス停。

当方は直進。尾根を登ると左手に竹寺本堂の屋根が垣間見えた。
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踏み跡に従っていくと、どうも様子がおかしい。
進行方向が違う気がするのである。
地形図を確認すると、尾根が二股に分かれている。
右の尾根を選択すべきなのだが、左へと道が通じている。
危ない、危ない。
引き返して、急坂を登る。

するとピークに「牛頭ノ峰」という表示があった。
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おお、ラッキー。道もこちらで間違いなさそうだ。
標高は590mとあるが、今回は地形図ともほぼ符号している。
ちなみに「登山詳細図」には「八幡坂ノ頭」と表記されている。

「大山祇神」と書かれた紙を入れたペットボトルや「山の神」と書かれた札があったが、祠らしきものは見当たらなかった。
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ここから下っていくと、鉄塔の下の木々が伐採された開けた場所に出る。
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送電線が邪魔だが、さすがに見晴らしがいい。
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大持山(左、1294m)と武甲山(右、1304m)。
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武甲山の手前の鞍部は妻坂峠(833m)。

武甲山の右には武川岳(1052m)。
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坂を登り切ると、送電線の下の伐採地を歩くことになる。
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この稜線上にある560mピークは滝ノ入山という名前が付いているらしい。

送電線を外れると、再び植林の中に入る。
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しばらく歩いて鉄塔に達すると、そこが548mピークの直下。
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とくに期待はせず、登山道を外れてそのピークに行ってみる。
標高を書いたビニールテープはあったが、山名の表示はなし。
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しかし、これまた帰宅後、「登山詳細図」を見ると「嶺」なるピーク名があることが判明。結局、今回の山行で11座ものピークを踏破することができた。

ここからは仁田山峠(401m)まで150m近い下り。
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峠近くには小さな祠が祀られていた。
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仁田山峠に着いた時点で、もう15時を大きく回っている。
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この先、天神峠(345m)を越えて、原市場まで歩くことも考えていたのだが、さすがにそれは取りやめ。
一応、そこへ行く道だけは確認しておく。
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そのすぐ脇にはバイクの走った跡もあった。
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引き返すと、楢抜山(554m)への道標を発見。
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地形図にも、「山と高原地図」にも道は表記されていないが、踏み跡はあるようだ。
いつか、ここも含め近くのノボット(436m)や周助山(383m)など道の表記のないルートもまとめて歩いてみたい。
全部、植林で何も見えないだろうけど。

ここからは延々車道歩き。
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車が全く来ないので、ありがたい。
でも、後ろからシャーって音がするので、何だ?と思ったら自転車だった。

正面に鳥居観音。
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観音様のほかにも、いろいろと建物が見える。
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右手に今歩いてきた稜線を仰ぎ見る。
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しばらく下ると、「コア山」なる石碑が目に飛び込んできた。
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有間ダムの建設にあたり、コア材(ダム本体建設に使う土)を採取する土取り場として、ここ鍛冶屋橋地点が最適と判断され、昭和54年より4年間にわたり採土が行われた。
このため地元住民が誰言うともなく、このあたりを「コア山」というようになり、その名を後世に伝えるため、この碑が建てられたらしい。
建立は平成26年5月とのことで、ごく最近のことだ。

その鍛治屋橋のバス停まで下りてきた。
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バスの時間まで30分ほどあるので、歩けるだけ歩くことにする。
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古い建造物は写真に収めておく。
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間もなく、尾須沢鍾乳洞への入口があったが、今回はパス。
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こうもり岩の名で親しまれているが、今はこうもりはいないという。
見学には懐中電灯が必要なようだ。

さわらびの湯への分岐を通過。
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ここは何度も入ったことがあるし、混んでいるような予感がするので、これもパス。

この道は「じゃがいものらぼう街道」のようだ。
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「名栗支店」の文字が新鮮。
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古い街道らしい木造家屋が所々に残っている。
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車道歩きもこういう建物を見られるのなら飽きない。

これはかつての名栗郵便局。
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昭和4年の建設らしい。
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となりには現役の郵便局がある。古い建物を残しているのはとてもいいことだ。
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その向かいにはお地蔵さま。
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この交差点から旧道に入る。
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バス停の名にある四海橋とは、名栗川を渡るこの橋のこと。
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由来はよく分からない。
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おお、サギでないか。
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名栗川の静かな流れ。
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こちらは市場延命地蔵尊。
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名栗川橋のバス停。
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道端に湧き水があった。
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「庚申の水」という。
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近在の方々がよく利用しているらしい。私は飲まなかった。
名前の由来は、となりにある庚申塔と馬頭観音。
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市場の集落。
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対岸の小山。
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そして路傍の石仏。
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諏訪橋バス停に着いたところで、本日は打ち止め。もうバスの時間も近い。
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5分ほど待ってバスが到着。
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今日は意外に長く6時間近い山行となった。
飯能駅で西武池袋線に乗り換え、小手指で下車。
久しぶりの奥武蔵ハイキングだったが、やはりもう少し早く家を出てもよかったかな。

【行程】2015年12月29日
吾野駅(10:30)~秩父御嶽神社鳥居(10:48)~本殿(11:19撮影11:25)~吉田山(11:40)~小床峠(11:56)~阿宇山(12:39撮影・昼食12:59)~豆口峠(13:48)~豆口山(13:57)~金比羅山(14:19撮影・休憩14:32)~仁田山峠(15:16検討15:24)~鍛冶屋橋(15:48)~諏訪橋バス停(16:25)
※所要時間:5時間55分(歩行時間:5時間15分)
※登った山:11座(御岳山、吉田山、阿宇山、子の山、新館の頭、豆口山、風木クボ、金比羅山、牛頭ノ峰、滝ノ入山、嶺)
※歩行距離:14.8km
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豆口山(中)

【2015年12月29日(火)】豆口山
子の権現近くの阿字山(約620m)に丸太のベンチがたくさんあったので、ここで昼食にする。
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東屋もあったが日蔭だし、誰かいるようなので、そちらは選択しなかった。
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メニューは例によって、コンビニのおにぎり2個。
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ビーフデミオムライスというのが結構おいしかった。
20分ほどで出発。子の権現に向かう。

鳥居の手前に二本杉がある。
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寺の縁起によると、この杉は延喜十一年(911年)この峰に初めて登った子の大権現が食事に使った杉の箸を地面に刺したら根付いて大木になったとのこと。
南北に2本並んでいるが、見えているのは南側の方。
樹齢は約800年で、かつては高さ36mあったというが、よく見ると、上部は切断されている。

子の権現という名は通称で、正式には大鱗山雲洞院天龍寺と呼ばれる。
天長9年(832年)、子の年、子の月、子の日、子の刻に生まれ、湯殿山で徳を積んだ子の聖が草ぶきの庵を建てたのが始まりと言われる。
弟子の恵聖上人が聖人を祀ったのがこの寺だそうだ。

お寺ではあるが、神仏習合の名残か、真っ赤な鳥居がある。
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鳥居の手前で売店が営業しており、バッジが売っていたので覗いてみた。
すると「子の権現」に混じって、「子の山」というのがある。
「ほう」と思い、店番の方に「子の山ってどこのことですか」と聞いてみた。
すると、「この辺の一帯の山のことだよ」と教えてくれた。
一番高いピークは釣鐘堂のあるところだという。
これはいい情報を得た。そこにも行って、「登った山」を一つ稼ごう。
バッジはぐっとこらえて買わなかった。

鳥居をくぐると、すぐに黒門がある。
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扁額には「大鱗山」と大書されている。
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子の聖は紀伊国天野郷の阿字長者の御子として生まれたという。
これがさっきの「阿字山」の由来であろう。
聖は比叡山をはじめ出羽三山でも修行を積んでいたが、ある日、月山山頂で「我が永く跡を垂るべき聖地を示し給へ」と般若心経を天高く投げたところ、経巻はここ子の山の頂上に達し、光明を放った。
聖はその光を頼りに旅を続け、ふもとの吾野郷にたどり着いたが、山賊(悪鬼)どもが「聖に山を開かれては、もう悪行ができなくなる」と、山に火を付けた。
聖が端座合掌したところ、天龍が現れて大雨を降らせ火は沈下したが、この魔火によって、聖は腰より下に傷を負ってしまった。
後の長和元年(1012年)、聖は「私はもう土に返るが、腰より下に病のある者は、誠の心で我を念ずれば、必ず霊験を授けん。能除一切苦」という言葉を残して亡くなった。
以来、子の権現は足腰守護の神様として広く信仰されることになったということである。
これが、聖人法難の図だそうだ。
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私が昨年1月に右足首を骨折して入院中、仲間が子の権現で私の治癒を祈願した後、見舞いに来てくれた。その時にいただいたわらじのお守りはずっとザックにぶら下げている。
今回はその時のお礼参りも兼ねている。
あれから約1年が経過し、ほぼ普通に登山ができるまでに回復したが、今度は中に埋め込んであるプレートを抜去する手術を受けなくてはならない。
その成功と早期治癒も祈願しなくては。
と説明が長くなったが、子の権現の由来は恥ずかしながら初めて知った。
引き続きお世話になります。

仁王尊の間を抜けて、聖橋を渡る。
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正面に藁葺き屋根の宿坊。
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その手前右にある階段を登ると、本堂。
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お賽銭を奮発して、手を合わせる。
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こちらは子の権現の象徴、大わらじ。
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こちらはめおと下駄。
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本堂の右わきを抜けると、子の山の山頂経ヶ峰(630m)が見える。
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ふもとに閻魔堂。
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中腹に地蔵堂。
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頂上には釣鐘堂と釈迦堂。
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古い石碑群。
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眼下に宿坊と本堂。
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西には蕨山(1044m)。
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東は都心方面。
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拡大して、スカイツリーから新宿の超高層ビル群。
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近くの山々は中央に天覚山(446m)、左に大高山(493m)。
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これで撮影終了。再び宿坊の前を通って、豆口山(629m)へ向かう。
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左手にその豆口山が望めた。
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林の中に見える白い物体は何だろうと思ったら、巨大な手であった。
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大きな観音像の残骸?だろうか。

愛宕山(650m)との鞍部に出ると、右手に伊豆ヶ岳(右、851m)と古御岳(左、830m)の雄姿。
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その向こうには二子山(左、883m)。
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愛宕山(愛宕社)の鳥居のある分岐をかすめて、左へ巻いていく。
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途中、この道でいいのかどうか、地図を見て確認していたら、後ろからすたすたと足音がする。
誰か来たみたいだ。
すぐ先、穴沢峠(600m)の道標を確認していたら、後ろの人が追い越して行った。
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ハイキングの格好ではなく、どちらかと言うと普段着に近い。
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結構な速足である。

しかし、階段の急な登りでいきなりスピードダウン。
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あっけなく抜き返してしまった。

この先のピークに山名板があった。
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「新館の頭」。地図に山名の記載はない。儲かった。

標高は620mとあるが、地形図の表記は617mである。
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植林の急坂を50mほど下ると、豆口峠。
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ここの標高はなぜかさっきのピークより高い。
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630mとあるが、実際は570mほどである。

ここには「神送り場」があったらしい。
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病が流行ると、村中総出で鐘や太鼓をたたきながら峠に駆け上り、疫病神を追い払う神事を行ったという。

これはその跡というわけではないだろう。
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古い東屋の残骸だろうか。

ここから登山道は巻き道となるが、当方は豆口山(629m)への尾根を登る。
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「山と高原地図」には破線で記されているが、かなり急な登りで踏み跡も拡散している。

それでも頂上近くになると傾斜も緩み、道もはっきりしてきた。
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10分もかからずに頂上に到着。
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雨乞山という山名板が目に飛び込んできた。
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「※別名:豆口山」という注記がある。
地元では「雨乞山」の方がポピュラーな呼び名なのか。

ただ「豆口山」の山名板もあった。
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それにしても、またしても標高は630m。
豆口峠の標高はここと混同してしまったのだろう。
ちなみに、地形図では629mである。
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眺望はないので、撮影だけで通過。

この先尾根通しに緩やかに下って行くが、踏み跡が分からなくなってきたあたりで、右下に登山道が見えた。
そこに下る道もはっきりしないが、目標ははっきりしているので、枝がたくさん落ちている斜面をガシガシ下る。

下ったところがちょうど、尾根ルートと巻き道との分岐だった。
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当初は竹寺にも寄るつもりでいたのだが、そうするとかなり下ってしまい、次の581mピークに行くには100m近くも登らなくてはならない。
それはとても億劫だったので、今回は諦めて尾根道を行く。

こちらもかなりの急登。
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登り切ったところに山名板はなかったが、帰宅して新しく出たばかりの「奥武蔵登山詳細図」で確認したら「風木クボ」(約600m)と呼ばれるピークだった。

ここから東の展望が得られた。
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都心の眺めもさっきより鮮明になった気がする。

(つづく)
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豆口山(上)

【2015年12月29日(火)】豆口山
前夜遅く浜松から戻り、朝はゆっくり寝ていたかった。
というわけで、この日は近場。地元の奥武蔵を歩くことにした。
コースはかねてより、いつか歩こうと思っていた吾野駅~秩父御嶽神社~子の権現~豆口山~仁田山峠。
「山と高原地図」では、御嶽神社から子の権現までは破線になっているが、首都圏に近いのでよく踏まれている道に違いない。

家を9時過ぎに出て、小手指発9:30の飯能行きに乗車。
飯能で乗り換えて、吾野に着いたのは10:24。
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軽くストレッチを済ませ、10:30ちょうどに出発した。
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しばらく国道299号の旧道歩き。
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旧吾野宿のはずれである。
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間もなく吾野鉱山方向に左折し、二股を右に行く。
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跨線橋で線路を渡って右折すると、間もなく登山道となる。
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右手に中野の集落が見える。
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西武線切通しの擁壁工事の最中だった。
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この道は、ほぼ10年前、伊豆ヶ岳(851m)に登った時に歩いたことがあるはずなのだが、全く記憶にない。
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芳延集落に出ると、路面の水たまりが凍っていた。確かに今朝はかなり冷え込んだ。
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正面に諏訪神社。
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近所の子供たちが境内で遊んでいた。
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道路を渡ると、秩父御嶽神社の入口。
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もうお正月を迎える準備も整っている。

参道を登って行く。奥社まではかなりある。
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ここは明治28年(1895年)に地元の農家に生まれた鴨下清八(1861~1955年)が開山した神社で、境内は東郷平八郎を記念する公園になっている。
17歳のときに母が危篤となり、薬も医術も効かないことから、御嶽教の信徒となって修行したところ、母が快癒したため、その新徳を深く信じ、ここに秩父御嶽神社を開いたという。

この案内板を見ると、境内にはいくつもの摂社や東郷元帥にちなむ見どころがあるようだ。
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とても全部は見切れない。

右手にちょっと雰囲気のいい自動車祓所。
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間もなく、樹林帯に入り、あたりが暗くなる。
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と同時に坂の傾斜もきつくなる。
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境内には日露戦争に関連したものもいくつもある。
これはロシア軍バルチック艦隊から発射された砲弾。
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旅順港口に布設されたという水雷。
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その上の段に、東郷元帥の銅像。
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鴨下は東郷の武勲と威徳を後世に伝えるため、「皇国興廃存此一戦」の名言になぞらえ、一戦を一銭として毎日一銭ずつ貯金をして銅像の建設を志した。
東郷は生前に自分の銅像をつくることには反対したが、鴨下の熱意に根負けし、大正14年(1925年)、この地にこの銅像が建立されたという。

その隣には、東郷の乗る旗艦三笠がバルチック艦隊の集中砲火を浴びた際の甲板の一部が展示されていた。
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巨大な弾痕がハチの巣状に残されている。

さらに上の段へと進むと、日露戦役記念碑。
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木の陰に見える洋館の至誠館は東郷元帥が休憩されたことがある施設だそうだ。
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この先は頂上の奥社まで365段の石段となる。
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中腹に祈祷殿。
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三笠山神社にも立ち寄る。
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そして最後の登り。
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山麓の鳥居から30分かけて奥社の本殿に到着。
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本日の安全登山を改めて祈願する。
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かなり新しいが、平成10年に開山100周年を記念して建て替えられたものだそうだ。

幸の鐘を1回だけ撞かせてもらう。
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ここは展望台にもなっており、都心やスカイツリーがよく見えた。
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木々のほんのわずかな隙間から、飯能アルプスの大高山(493m)の山頂を覗き見ることもできた。
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眼下には芳延の集落。
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ここで家から持ってきたバナナを1本いただく。

さてこの先の登山道はどこにあるのか。
道標がなかったが本殿に向かって右側に入り込むと、それらしき登山道があった。
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そこそこ傾斜がある。
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でも、ひと登りで御岳山(約370m)に登頂。
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山名板はなかったが、こんな「署名」があった。
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諏訪八幡神社の飯能氏子一同によるものだが、秩父御嶽神社の直上にこういう痕跡を残すのは何の意味があるのだろう。

暗い植林の中を標高差で70mほど登るだけで
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吉田山(445m)に至る。
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眺望はゼロなので、すぐに通過。小床峠に向かう。
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アップダウンはあるが、それほど坂はきつくない。
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吉田山から15分ほどで、小床峠を通過。ここは林道が横切っていた。
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古い道標が地面に。
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もう字も薄れてよく見えないが、「小床峠」と手書きで書き足してあった。
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この先はこぶを2つ越えてながら、子の権現へとどんどん高度を上げていく。
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途中、右手の木々を透かして伊豆ヶ岳とその左に古御岳(830m)が確認できた。
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この道で単独の登山者とすれ違って、びっくり。
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この道では絶対、誰にも会わないと思っていたのに。

標高550mに達したあたりで、西吾野駅からの道と合流。
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ここから左へトラバース気味に登っていく。
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さすが実線の道だけあって、いきなり歩きやすくなった。
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幅も広く、よく踏まれている。
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間もなく、舗装道路に合流。
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子の権現まで続く。
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左手に下りていくと、浅見茶屋。うどんが名物らしい。
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このすぐ先で、ショートカットする登山道があったので、そちらを通る。
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わずかな登りで子の権現の門前に飛び出した。
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右手が子の権現だが、左に文学碑があるようなので行ってみる。
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しかも阿字山という名前がついているではないか。これは儲けた。
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打木村治とは1990年に没した児童文学作家で、東松山の育ちということもあり、1972年に埼玉文化賞を受けている。
文学碑には「子どもの騒ぎは 雲のさわぐのに 似ている」とある。
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出展は『天の園』という小説とのこと。

阿字山(約620m)の山頂には、石仏がぽつんとたたずんでいた。
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ここからの眺めはなかなか素晴らしい。
黒山(右、842m)の稜線。奥に覗くのは大岳山(1267m)。
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蕎麦粒山(左、1473m)と有間山稜(右)。
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北に目を転じると、顔振峠方面。
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顔振峠の見晴台の向こうに筑波山(877m)がうっすらと見えた。
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高山不動(赤い屋根)と関八州見晴台。
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八徳集落。
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吾野鉱山と大高山。
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都心と左にスカイツリー。右に東京タワーも見えている。
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西武ドームが左に見える。はるか向こうの稜線は房総半島。
DSC_0038_20160104203530ab7.jpg

横浜方面。
DSC_0039_201601042035314b0.jpg

大山(1252m)のシルエットも美しかった。
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(つづく)
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