【2015年5月2日(土)】大マテイ山
大マテイ山の登りにかかっている。こちらも気持ちのいい道が続く。


道は頂上を巻いて通過しそうに見えたので、途中から道を外れ、落ち葉を踏み分けながら、ピークを目指す。
すると、すぐに頂上が現れた。ここにもベンチがあってうれしい。

三角点はしっかりと埋まっている。

富士山も木々の隙間からかろうじて見える。

古い山名板が廃棄されずに残っていた。

ちょうど12時前なので、ここでお昼にする。
準備をしていたら、単独の高齢男性が「日向みち」方面から登ってきた。
「どちらからですか?」と聞かれたので、松姫峠からと答えると、「私は石丸峠からです。鶴峠まで行きます。バスなので間に合うように行かないと」と言い残して足早に去って行った。
さて今日はジンギスカンと五目ラーメンという豪華メニュー。


野菜もたっぷりで、栄養満点。
やっぱり、山ジンは最高だ。満腹&大満足である。
ここからは踏み跡をさっきの登山道に戻る。

さっき、登山道をもう少し我慢して歩けば、この踏み跡が見つけられたのだが、全く苦労しなかったのだから関係ない。
ここからは下りだが、あっという間に次の鞍部の棚倉小屋跡に着いてしまった。

小屋はどのあたりに建っていたのだろう。

ここからは奥秩父の眺望が得られる。
飛龍山(2069m、左)と三ツ山(1949m)。

こちらは雲取山(2017m)。

唐松尾山(2109m、左)と将監峠。

これは小菅の湯へ下っていく道。見るからに昔からの街道だ。

私はここで折り返し、今度は南斜面の巻き道「日向みち」を行く。

ツツジもあちこちで咲いている。

この斜面が、おそらく、さっきのおじさんが登って来た道だろう。

右手に雁ヶ腹摺山(1874m)。

間伐の跡?

山沢入りのヌタに戻ってきた。

ここで往路とは別の日向みちをそのまま行きたいところだが、二輪草コースに行くには再び巨樹のみちを行かなくてはならない。
ちょっとルートの選択を誤ったが、仕方あるまい。
ここからはしばらく往路と同じ道を戻る。


これは木の化石のようだ。

見覚えのある木たち。


巣箱もあちこちにあった。

鍬のような木のすぐ下で休む。ちょっと足が痛む。

この苔むした倒木がベンチ代わり。

今日は「食」にこだわる日なので、ここでスイーツをいただいた。

甘くて、元気が出る。10分ほどで出発。
ここから二輪草コースに入る。


北斜面の落ち葉の道。

相変わらず、左側に傾いている道が一番きつい。
巻き道が東方面から南に方向を変える場所に、北東にのびる尾根がある。

思わず行きたくなるが通行止め。
山側には小さな祠が祀ってあった。

引き続き、足を置く角度に注意しながら進む。

すると、間もなくニリンソウの群生地にやっとたどり着いた。

鹿の食害を防ぐため網を張ってある。
肝心のニリンソウは網の向こう側だけでなく、外側にもたくさん咲いている。
これはめずらしく二輪咲かせている。

こちらは一輪ずつ。

などと花を愛でていたら、道の真ん中に鹿の死骸。

五体がつながったままなのでクマにやられたとかいうことではなく、滑落か病死なのだろう。
最初の登山道に合流。

大菩薩嶺(2057m)が見えた。

というわけで、午後3時前に松姫峠(1250m)に戻ってきた。
まずはトイレ。

そして、懐かしの石碑をもう一度見に行く。

この峠の名は、武田勝頼の敗死後、妹松姫が八王子に落ち延びる途中、ここを越えたとの伝説に由来する。
石碑は昭和45年の建立だった。初めて知った。
さて、汗を流しに小菅の湯に向かおう。
途中、車を何度か止めて、まわりの山々の写真を撮った。ほんとに春はいい。

これは奈良倉山(1349m)かな。

小菅の空を鯉のぼりが泳いでいた。

小菅村のマンホールは、ヤマメとさっきも咲いていたミツバツツジ。

で、小菅の湯に到着。

山ではそんなに人と会わなかったが、ここはさすがにかなりの混雑だった。
さっぱりしたところで帰途につくが、まだ日が高い。
どっかに寄りながら帰ろう。
小菅村役場が新築されていてびっくり。

小河内ダムのダムサイトで車を下りてみた。
左奥が惣岳山(1348m)、その右がサス沢山(940m)。

先日行った宮ケ瀬湖もそうだったが、ここ奥多摩湖も「ダム湖百選」のようだ。

財団法人ダム水源地環境整備センターが2005年に選定したものという。
これは堰堤。高さ149mで、ダム湖の面積は4.25㎢。

竣工は昭和32年。

完成までには紆余曲折があったようだが、ここでは省略する。
昭和12年に東海林太郎が、湖底に沈んだ旧小河内村を歌った「湖底の故郷」がヒットしたらしいが、その詩碑があった。


やっと日も傾いてきた。家路を急ぐとしよう。
でも、お腹が空いたので、所沢市内のファミレスで食事をしてから帰った。
新緑を満喫した一日だった。
【行程】2015年5月2日(土)
松姫峠(10:28)~鶴寝山(10:52休憩11:01)~山沢入りのヌタ(11:27)~大マテイ山(11:52昼食12:55)~棚倉(13:07)~山沢入りのヌタ(13:41)~(13:56休憩14:06)~松姫峠(14:45)
※所要時間:4時間17分(歩行時間:2時間55分)
※登った山:2座(鶴寝山、大マテイ山)
※歩行距離:8.3km
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【2015年5月2日(土)】大マテイ山
奥多摩の牛ノ寝通りはずっと気になっており、いずれ1泊で歩こうと、機会をうかがっていた。
しかし、GWは山小屋も混みそうだ。
日帰りで、かつなるべくピストンをしないで、一部だけでも歩けないか。
地図をにらめっこして検討した結果、松姫峠から鶴寝山(1368m)、大マテイ山(1409m)までの往復なら、往路尾根道、復路巻き道の8の字コースをとれることを発見。
標高差も少ないし、今の足の状態には丁度いいので、5連休の初日はここに行くことにした。
最高の天気で、連休初日というのに、奥多摩への道はガラガラに空いている。
奥多摩はバスの便がいいので、登山客の多くはバスを利用する。
車が少ないということは、登山者が少ないのではなく、観光客が少ないということだ。
観光地としての奥多摩は完全に過去のものになってしまったようだ。
小菅を通過し、松姫峠へ登っていく。
大学3年の時、自転車部の定期戦で必死に走った道だ。
あの頃は何度か来ているが、それ以来かもしれない。
沿道は新緑や桜が実にきれいだった。
10時20分ごろ、峠に到着。ここはすでに標高1250m。
昔もあったこの石碑はまだ健在だ。実に懐かしい。

ちょうどバスが到着したところらしく、出発に備え、待避所で待機していた。

次の小菅の湯行きは13:15。3時間ここで時間をつぶすのだろうか。
別の意味で、運転手さんも大変だ。
東に行くと奈良倉山(1349m)を経て鶴峠。こちらもいずれ登るつもりだ。

大月方面は通行止めになっていた。

昨年11月に延長3000mを超える松姫トンネルが開通した。
旧道は、落石が多く危険なので廃道にしてしまうのだろうか。
立派な看板とバイオトイレがある。昔はこんな施設はなかった。

峠からは、泣坂の頭(1421m)の右肩に富士山が見えた。

左奥は御正体山(1682m)
右の一番高いのは雁ヶ腹摺山(1874m)。

さらに、その右に目を移すと、小金沢連嶺。
左から黒岳(1988m)、牛奥ノ雁ヶ腹摺山(1994m)、小金沢山(2014m)。

その右端を拡大すると、ほんとの右端に熊沢山が覗いている。

さて、軽くストレッチもしたし、出発しよう。鶴寝山までの標高差は100mほどである。

この道は延々と歩けば、石丸峠を経て大菩薩嶺(2057m)に通じている。
本当にいい天気になってよかった。

足元にはツルキンバイがお出迎え。

左手に、御正体山(右)から東へ続く道志山塊が展望できる。

まだまだ新緑が若いので、森が明るい。



影すら芸術的。

二輪草コースは帰りにして、まずは尾根道を進む。

ゆるやかな登りだ。

あれ、もう寝姿山かな?

30分もかからずに着いてしまった。

山梨県産材を使った真新しい山名板が明るい雰囲気に花を添えている。
ベンチもあるので、せっかくだから小休止。
ちょうど真正面に富士山が望める。今年は雪が少な目の印象だ。

こちらは雁ヶ腹摺山。

この先はしばらくなだらかな道が続く。


このブナの木は存在感があった。


尾根道でもニリンソウ発見。

二輪と言いながら、一輪ずつ咲くのが普通らしい。
左下に二輪目のつぼみが見える。
開花期をずらすことによって、受粉できる期間を長くしようという戦略らしい。
それにしても、こんな森の中を歩くのは楽しくて仕方がない。





タチツボスミレ。

サルノコシカケ。

今歩いているのは巨樹の道。別ルートは「日向みち」という。

確かに巨樹が多い。

ただ、葉っぱが下向きになっている木々が多い。

そういう種類なのか、このあたりに何らかのパワーが働いているのか(笑)。
木の赤ちゃん。

鶴寝山と大マテイ山の鞍部、山沢入りのヌタに下りてきた。

ここで標高は1310mほど。鶴寝山から50mほどしか下っていない。
でも大マテイ山までの登りは、たった100m。
道は左右二手に分かれるが、とりあえず行きは右の尾根っぽい方を行く。


この掘り起しはたぶんイノシシがのたうったヌタ場であろう。

さっきの鞍部の地名も当然ヌタ場に由来するに違いない。
(つづく)
【2015年4月29日(水)】小鹿野市街
小鹿野市街を散策中。
太田甘池堂の裏手に薬師堂がある。


通称、鷹巣下薬師というらしい。その昔境内に高い木があり、その木に鷹が巣をかけていたことから、そう呼ばれるようになったとのこと。
古くから、お参りすれば、目の病気が治ると信じられてきたという。
第六分団詰所と理容かねた。

本陣の裏手の方に愛宕神社がある。


本堂は明治37年の建立で、防火の神だそうだ。

上一丁目の交差点にある「小鹿野町道路元標」。

大正11年の内務省令に基づき、市町村ごとに路線の起点・終点を表示する標識が全国各地に設置されたが、その一つ。
昔の街道風の建物が並ぶ。

菓子舗「八宮松雪堂」。

八坂神社。

これらは昭和40~50年代?



つぶれて駐車場になったガソリンスタンド。

さらに昔は明治3年開校の小鹿野郷学校だった。

のちに小鹿野小学校となり、明治24年までこの地にあった。
広大な空き地。

表通りはひととおり歩いたので、一本北の通りを少し歩いてみる。榎街道と呼ばれる。

かつてはこの道に面して代官所跡があり、罪人を縛り付けた「しばられ榎」があったことから、榎街道と呼ばれるようになったという。
再び表通りに戻り、今度は路地を抜けて一本南の通りを歩いてみる。


八木写真館の跡。つぶれたのではなく、新店舗に移っただけのよう。

成田横丁と呼ばれるあたり。かなり庶民的な雰囲気。




そのまま朝日通りに抜けると、粗末な食堂を訪ねてきたカップルが「昼は終了しました」の紙を見て、がっかりしている。

何も知らなかったが、ここが有名な「わらじカツ丼」の元祖、安田屋らしい。
小林さんのお宅なので、「安田屋」というのは屋号なのだろう。
しかし「安田屋」という看板もなく、小さな「料理店」という表札しかない。
休日ともなると、ここにライダーたちが列をなすという。
銘菓梅しぐれの「こだまや」。

さすがに古い街道の町だけあって、菓子舗が多い。
この朝日通り界隈には大正から昭和中期にかけて、射的場、遊技場、各種飲食店が軒を連ね、映画館も「愛宕座」「小鹿野キネマ」「翁(おきな)館」と3つもあったという。
昔の地方都市の賑わいというものを見ておきたかった。
さらに朝日通りを進む。さびれぶりがよく分かる。




これはかつてスナックだったんだろうなあ。

さて再び路地をつたって表通りに出よう。

さびれると人心もすさむのか。

小鹿野散策マップに載っている、原町信号に近い旧家たち。
たね・釣り具の「一二三矢(ひふみや)」。

食料品の吾妻屋。元祖味付けホルモンが名物とか。

こちらの路地には「足寄」というラーメン・焼肉の店があってびっくり。

足寄出身の人が経営しているのだろうか。
あちこち、ゆっくり歩いているうちに、小腹がすいてきたので、私も「わらじカツ丼」とやらを食べていくことにした。
この時点では「安田屋」のことは知らなかったので、さっき見かけた「昭和」で食べようと向かうも、すでに閉店。

しかたなく、観光交流館の中にある「ゑびす屋」にする。

850円。ごはんは少な目にしてもらった。

ここのおばちゃん(70前だという)にいろいろと聞いた。
わらじはやはり、わらじの形をしたカツが2枚乗っているからだという。
元祖の安田屋のことはここで聞いた。戦前からやっているらしい。
私はそこの「おこぼれでやってます」と謙遜していた。
この町は古い宿場町で、隣の群馬だけでなく山梨や長野に行く人々が行きかい、やはり昔はずいぶんにぎやかだったらしい。
満腹になって店を出た。もう旧跡めぐりはおしまい。温泉に向かう。
今回は、「小鹿野」「日帰り温泉」で検索して見つけた、西谷津温泉「宮本の湯」。


宿も兼ねた大きな施設だったが、入浴客は少なく、一瞬ひとりになれたくらい。

温泉なのだが、塩素のにおいもした。
でも、さっぱりした。
飯能手前の299号で若干滞ったが、7時半前に帰宅できた。
街歩きもできて楽しい山行だった。
【2015年4月29日(水)】小鹿野市街
諏訪山(1207m)を登った後、何度も車を止めて、国道299号沿線をあれこれ見学しながら、小鹿野市街まで下ってきた。

正面は武甲山(1304m)。

ここは村歌舞伎で有名な町である。

市街地の入口に、町歩きマップが掲げられてあるのを見て、どうせならと車を駐車場に置いて、のんびり街歩きを楽しむことにした。

昭和のかおりが漂う街並みをゆっくり歩く。


昭和より古いにおいも混ざっている。

ただ、ご多聞にもれず、シャッターも目立つ。


こちらは、ただ休日だから休んでいるだけだろうけど。

通りのあちこちに、こうした小鹿野歌舞伎の写真掲げられている。


とりあえず、いくつかレトロな建物を見て行こう。
旧警備詰所。これは小鹿野町消防団第七分団の詰所だった。町内会の夜警の際には、ここが休憩所として使用されたとのこと。

金子薬局。

この立派な蔵づくりの建物は明治29年の建築。

小鹿野銀行、秩父銀行、埼玉銀行、埼玉りそな銀行と変遷してきた銀行の蔵・倉庫として利用されてきたが、現在は町観光商業情報館に衣替えしている。
きれいに改修された夢鹿蔵。

浅見商店。明治初期より絹糸紡績原料買継商として栄えた家だ。

こちらはそれらしく新築した須崎旅館。

現在の第七分団。

あれ、日通ってタクシーもやってたっけ。

と思って調べてみたら、秩父丸通タクシーだった。
日通と同じロゴに見えるが、傘下企業なのだろうか。
丸清精肉店。肉の味噌漬がウリのようだ。

今はもう診療をやめている旧荻野医院。木造の擬洋風建築で、昔の個人医院はこんな感じの建物が多かった。


ちょっと通りをはずれて、十輪寺へ。


仁王門をくぐる。


正面に芭蕉の句碑。

「梅が香にのっと日の出る山路かな」
芭蕉の流れをくむ小鹿野の俳人・中阿坊朴叟が芭蕉の百年忌に立てたものらしい。
早春の山道を歩いていると、梅の香りにさそわれるかのように、太陽がのっという感じで顔を出した、というくらいの意味のようだが、どこの山道なのかは調べ切れなかった。
朴叟さんが小鹿野の里によく合った句だと思ったのかもしれない。
本堂。

境内に立つ板碑。

時の鐘。戦時中に鐘は供出されたが、昭和40年に再建された。今も時を告げているという。

裏道で井戸を見つけた。

また表通りに出る。
常盤屋。

なぜか、この店には数学の問題と解答が貼り出されていた。

よく見ると「ときわ英数研」というスタンプが押してあるので、ここの息子さんかどなたかが、塾の先生をしているのかもしれない。
それにしても、ユニークだ。
向かいに、その名もずばり「昭和」という食堂。

幟が出ているが、この町は「わらじカツ丼」なるものが名物なのか。
昭和レトロ続きます。


本陣は当時からの建物なのだろうが、だいぶ改修されている。
明和二年(1765年)に代官の出張所として発足し、その後、本陣として利用されたとのこと。


宮沢賢治が泊まったことがある宿だそうで、今は観光交流館になっている


裏には、「雨ニモ負ケズ」の詩碑があった。

おっと、こんなポスターが。

宇都宮餃子、讃岐うどんと並び立つとは大きく出た。
しかも、吉高由里子を起用するなんて金をかけている。
上一丁目の信号を渡ると、越後屋旅館。

向かいに、羊羹の太田甘池堂。

空き地。こういう風情が好きだ。

(つづく)
【2015年4月29日(水)】小鹿野
諏訪山登山を終えたが、まだ時間は午後1時を過ぎたばかりなので、このまま帰るのはもったいない。
国道299号の旧道なども走りながら、沿道を見学しながら帰ることにした。
つづら折りの峠道を下ってくると、299号の埼玉県側最後の集落・坂本。

ここまで西武観光バスが通じている。
ここは二子山(1166m)への登山口でもあり、民宿登人に至る平沢に沿った道には「魚尾道(よのうみち)」という興味深い名前の小さな集落がある。
地形図で見る限り、車の通れる道は通じていない。
いつか訪ねてみたいところだ。
坂本集落は旧道に沿っており、入ってみると、こんな赤錆びた標識が残っていた。

ちなみにこちらが新道。

次の集落は橋詰。

橋詰集落の古い民家。

尾ノ内集落の手前にある真福寺。


この寺は応永年間(室町時代初期)の開創と伝わる。
境内に立つ記念碑によると、今の本堂は昭和55年に新築されたもののようだ。
ここにはかつて旧河原沢村の河原沢学校があったらしい。

河原沢は現在、小鹿野最奥部の大字。
国道沿いを河原沢川が流れている。

この川はすぐ下流で、日影沢と日向沢を合わせ、赤平川となり荒川に注ぐ。
合流地点の北側(南斜面)が日向、南側(北斜面)が日影という分かりやすい地名がついている。こういう地名の付け方は全国あちこちにありそうだ。
真福寺のすぐ先が尾ノ内渓谷の入り口。


何かのイベントがあるのか、幟がたくさんはためいていた。

カタクリの群生地が奥にあるようだが、もうシーズンは終わっているし、今回はパス。
すぐ上にある竜頭神社にだけ参拝した。

ここは「犬札」を配る神社として知られており、一説によれば、龍頭神社は狼を派遣する神社として三峯神社より古くから知られたという。
軒下には白い狼の絵馬が奉納されていた。

狛犬も狼。

ここは神社の前の広場は三田川第三小学校の跡地だったようだ。

真福寺に明治7年に仮開校した河原沢学校は、明治15年にこの場所に移転新築され、同19年には三田川小学校川原沢分校となった。
明治25年には独立して、三田川第三小学校になったというから、当時はそれなりの人口があったのだろう。過疎化によって、昭和49年3月、閉校している。
八日見山(ようかみさん)とは、両神山(りょうかみさん)のこと。
竜頭神社の奥社がある。

その昔、日本武尊がこの山を越えるのに8日かかったので、その名が付き、なまって両神山になったとも、イザナギ、イザナミの2柱の神を祀るので両神と呼ばれるようになったともいわれる。
近くの古い民家。

次のバス停は小金平。

このあたりが旧河原沢村の中心地だったと思われる。
河原沢村は明治22年(1889年)、下流の三川村、飯田村と合併して三田川村(1956年に小鹿野町に)が成立している。合成地名だが、河原沢の「河」は「川」になっている。
少し進んで原のバス停。

畑の中にたつ二十三夜塔。月待ちの行事に伴って立てられたものだ。

さっき紹介した日向集落を通過。

集落のはずれに古びたお堂が国道に面してたたずんでいる。

そのかたわらに庚申塔。

この先の納宮バス停は、バスの転回スペースがある大きな停留所。

そこに鯉のぼりが空高く泳いでいた。背後は二子山。

どんどん進んで間明平(まみょうだいら)集落にある法正寺まで下ってきた。

向かいは間明平中学校跡。運動公園のようになっている。

ここには旧道が残っているので侵入してみた。
入口からして古い木造民家がある。

よくよく見ると、「間中(間明平中学校)」の掲示板がまだあった。

電気屋さんには見えないが、関連商品を扱っていたのだろうか。

集落内には古鷹神社が鎮座している。

鳥居の前にはかつて商店があったようだ。

こういう山村がにぎやかだった時代を生きたかった。
境内には樹齢数百年と思われる杉の大木が林立しており、町の天然記念物に指定されている。

社殿の背後にピラミダルな山があるのが、いにしえからの信仰をうかがわせる。

境内はなかなかいい雰囲気。


神社のとなりは民宿三山荘だった。

東京電力新秩父開閉所(電路を開閉する施設)へ通じる古い橋。

現在は別の場所に新しい橋ができており、ここはもう車は通れないようだ。
ここ半平の集落に残る旧国道を行ってみる。
早速、何やら標柱が。

「半平(はんだいら)の天王焼き」は県指定の無形民俗文化財に指定されている。
7月にこの地区で行われる火祭りのことらしい。
次の久月集落でも旧道に入る。
シダレザクラで有名な光西寺への入口。

もう散っている時期なので立ち寄らずに通過。
昭和のかおり漂う集会場。「公会堂」を名乗っている。

廃屋を発見。

これは新道(上)と旧道が立体交差している場所。

田ノ頭(たのかしら)集落に入ると、瀟洒な洋館が。

旧三田川村役場のようだ。
さすがに電話も古くから入っていたようだ。

次の赤谷集落は旧道ではないが、1本山沿いの道に入る。
ちょっといい雰囲気の民宿というか旅館があった。

「山あいの宿 やしき」。HPもしっかりしていた。

そのすぐ先に、名称不詳のお寺。


国道に出ると、「犬木の不整合」の案内板。

下部が1.3億年~1億年前(中生代白亜紀)の頁岩、上部が1700~1000万年前(新第三紀中新世)の砂礫層。上下の地層に時間的な不連続が認められる関係を不整合というらしい。
ただ、なぜそういう現象が起こるかの説明はなかった。
現地まで170mほど歩かないといけないし、見ても分からなそうだったので、今回はスルーする。
上飯田の集落を俯瞰。

集落の奥に八幡神社。


すぐ近くに集会所。

めずらしい温泉スタンドがあった。

大竜寺源泉ってどこのことかと思ったら、秩父鉄道の終点に近い白久の湯のことだった。
随分遠くから運んできたものである。
再び旧道に入ると、柏木橋で岩殿沢を渡る。

この親柱はなかなか異彩を放っている。
昭和2年11月の完成で、長さ38m、幅員4.6m。
側面を見ていないが、1スパンのRCアーチ橋だそうである。
萬松山光源院を車から下りずに見学。


滝原団地のバス停を見て気づいたが、近くに整然とした平屋の団地がある。


地形図で見ても、整然とした建物の並びが美しい。
こんな町から離れた場所に団地があるのは、鉱山か工場の労働者の住宅であることが考えられる。地形図では、近くに二つの工場があるが、これが関係しているのだろうか。
ただ、社宅ではなく、町営住宅だ。
(つづく)
【2015年4月29日(水)】諏訪山
上武国境の諏訪山(1207m)を登山中。あれがもう頂上なのかな。

これは西上州の山並み。御荷鉾山(1286m)あたり。

諏訪山の前山は右に巻いて進む。
頂上直下で、右が開けているように見えたので、尾根に登ってみると、正面に両神山(1723m)の西岳、東岳などのとんがりや赤岩尾根方面が見えた。


いや、両神山ののこぎりはこの角度からみるとものすごい。

尾根上は伐採されていて見通しがきくので、登山道には戻らずこのまま登る。


頂上直前で登山道に合流。
ちょうど11時に頂上に着いた。



休憩をはさんだり、寄り道したりしたのに、コースタイム1時間半より早かったので、足の回復ぶりも順調のようだ。
頂上には諏訪大明神の社があった。


切り株に腰かけて昼食。おにぎり2個。

30分ほどの休憩で出発。


下山路の九十の滝コースは頂上を北から西に回り込み、北西の谷を下っていく。


細かい落石が多く歩きにくい。あまり歩かれていない感じ。


フデリンドウ。

これはハシリドコロ。

毒性があり、食べると錯乱して走り回ることから、その名が付いたという。
ただ、薬効もあり、その成分はロートコンという薬品として、ロート製薬のパンシロンにも含まれているとのこと。
このあたりに大量に群生していた。

こちらには気の早いシャクナゲ。

いきなり整備されたような道が出現。

山火事用心の看板。「事」だけ倒れていた。


炭焼き窯の跡。

し・ん・り・ょ・く!


アセビ群落のある展望コースは崩落のため通行止め。

この倒壊した東屋は、たぶん去年の大雪のせいだろう。


こちらも雪のせいだろうか、危険な状態。

でも通らざるをえなかった。
かなり下ってきた。


山肌の新緑がまだ幼い。


ここは休まず通過。

渡登(わたど)橋が見えた。

この橋からやっと九十の滝が遠望できた。


大きな砂防ダムの横を下る。

猪平第二ダムというらしい。小学6年生の揮毫とは、めずらしい。

間もなく駐車場に出たが、ここにも1台。

でも、今日は誰にも会わなかった。山ではなく釣りの人だろうか。
足場の悪い下りで、傷口がかなりこすれてしまい、痛い。
このあとは舗装だが、傾斜がきつく結構つらい。

新緑を慰めに頑張る。


なんとかコースタイム通り15分でこの下りをクリア。

間物の集落を見下ろしながら国道299号を登る。


この国道の群馬県側最終集落である。


春らんまん。


こちらからの山の眺めも素晴らしい。




この登りも、手負いの足にはきつかった。
やはり骨折部のプレートが取れるまで登山靴は無理だろうか。
傷口が切れているのが大きな問題なのだろう。大仁田山の時は大丈夫だったのに。
あの看板が見えたら、峠はもう少し。

この標識は倒れていたが、花はたくさん咲いていた。


結局この日は、山では誰にも会わず、登りの途中で拾った鈴を落とし主に渡せなかった。
志賀坂峠には車が1台、猪平駐車場にも1台車があったのだが。
志賀坂の人は谷コースを下りてしまったのかもしれない。
志賀坂峠に戻ると、ほかの車が2台止まっていた。

そのうちの1台は国道ですれ違った2人のものかもしれない。
午後1時に早くも下山してしまったので、時間はたっぷりある。
国道沿いの集落を見学・撮影しながら、旧道にも寄ったりして、ゆっくり戻ることにした。
【行程】2015年4月29日(水)
登山口(9:36)~旧志賀坂峠(9:53)~鉄塔下(10:15休憩10:22)~谷コース分岐(10:38)~諏訪山山頂(11:00撮影・昼食11:29)~渡登橋(12:20)~国道299号(12:34)~登山口(13:03)
※所要時間:3時間27分(歩行時間:2時間51分)
※登った山:1座(諏訪山)
※歩行距離:6.6km
【2015年4月29日(水)】諏訪山
今回は、少し距離を歩こうと、上野原駅からバス利用で、雨降山~不老山縦走を考えていたのだが、GW中、バスが大混雑するという情報を聞いて、取りやめ。
一応標高1000m以上を基準に、渋滞に巻き込まれないよう、高速を使わずに車で行けるところという条件で探した結果、上武国境の諏訪山(1207m)を発見。
朝は6時前に目が覚めたので、リハビリと朝食を済ませ、7時過ぎに家を出発。
所沢はどんより曇り空だったが、秩父に入ると晴れてきた。
小鹿野のセブンイレブンでトイレ(大)と昼食の調達を済ませる。
志賀坂峠の埼玉側で撮影のため下車。

国道299号は私の好きな国道である。
長野県茅野市から埼玉県入間市に至る延長194.7kmに及ぶ3ケタ国道としては長大な路線で、途中、大きな峠が4つある。起点側から麦草峠(2127m)、十石峠(1351m)、志賀坂峠(780m)、正丸峠(636m)である。
その志賀坂峠はトンネルで通過する。延長247mで、昭和35年に開通した。
国道に昇格したのは昭和45年で、当時は県道秩父野沢線だった。
埼玉側に「志賀坂峠開鑿記念碑」が立っている。

碑文によると、この峠は信州と武蔵を結ぶ街道として往来が盛んだったが、明治中末期以降は忘れ去られてしまったという。
ということはある意味、一からの開削だったことになる。
それはともかく、ここからの眺望はなかなか素晴らしい。
二子山の西岳(1166m)。

東岳(1122m)。

おそらく両神山(1723m)の天武将尾根。右の突起が何山なのか同定できず。

両神山の核心部。

これは観音山(698m)かなあ。

トンネルを抜けた群馬県側の駐車場に車をとめる。9時半着。

ここが諏訪山の登山口だ。

1台だけ先客の車がとまっていた。
軽く膝の屈伸だけして、歩き始める。

さっそくツルキンバイのお出迎え。

谷コースと尾根コースがあるが、当然のごとく後者を選択。

こちらも石仏が出迎えてくれた。

尾根までの道は、山と高原地図には直登のように書いてあったが、実際はジグザグ。

もう1体石仏がたたずんでいる。

文政十一年(1829年)十二月二十四日の建立。
やはり江戸時代はこの坂を越えていたようだ。
旧街道を気持ちよく登る。

尾根近くに来たところで、右折する尾根コースを一旦見送り、直進。

旧志賀坂峠に向かう。

間もなく峠に着いたが、標識も石仏も祠も何もなし。

当時の峠と位置が少しずれているのだろうかとも思ったが、南斜面から登ってくる廃道がくっきり残っていたので、たぶんここで間違いない。

この廃道はいわゆる旧道ではなく、ただの古い登山道だったのだろうか。
とにかく、とても残念だ。
ここから尾根へと続く道があるので、さっきの分岐まで引き返さず、近道をたどる。


ツツジを見ながら

間もなく、さっきの尾根コースと合流。

尾根コースというくらいだから、尾根上の道だと想像していたが、尾根のすぐ横を巻くように道がしつらえてある。

時に急坂も現れる。

古い鉄塔の跡?

これも古い分岐の跡らしいが、道は完全に消滅しており、字も全く読めない。

再び急登。

957m標高点に鉄塔があり、そこでしばし休憩。

ここからは両神山が近い。

新緑をすかして、諏訪山の山頂らしきピークが見える。

アセビの若葉は赤いのが特徴。

う~ん、見事な新緑。

めずらしく尾根上を通る急坂。ロープも張られている。

登山口から1時間ちょっとで谷コースと合流。

コースタイムは1時間10分なので、寄り道もしていることも考えると、かなり成績がいい。
谷コースと合流してからは、道はさらに急になった。
二子山・西岳が再び。

わ~空が青い。

おっと、熊鈴の落とし物。ほとんど汚れていないので、先行している人のものかもしれない。

ピストンなら私とすれ違うし、私と同じ周回コースなら、この場所にはもう戻らないだろうから、渡せるように持っていくことにした。
(つづく)
【2015年4月26日(日)】権現平・南山
南山から宮ケ瀬ダム方面に下りてきた。対岸にインクラインが見える。

ダムサイトも間近。

わりと急な舗装道路を登り、13:20過ぎ、ダムサイトに到着。

堤頂から見下ろす。

堰堤の上は広い。

宮ケ瀬湖の向こうに見えるのは丹沢の核心部。
たぶん中央が丹沢山(1567m)、その右が蛭ヶ岳(1673m)。

扇千景の筆になる「建設の碑」。完成時の建設大臣だったようだ。

堰堤に突き出た展望塔に登る。あれは、あいかわ公園。

その後、エレベーターで120m下り、ダムの下へ。

ここに来るのは2度目。2013年12月以来1年半ぶりだ。
しばし巨大なダムの迫力を体感。

観光放流は、平日が中心。休日は月1回第2日曜日だけだ。

なんて不親切な、と思ったが、県内の小中学生が授業の一環として見学に来るので、平日にセットしているのだそうだ。
登りはお金がかかるが、インクラインで。


傾斜はスキーのジャンプ台に匹敵するという。


ダムサイトに着いてから、遊覧船の切符売場に行くと、次の便は宮ケ瀬園地行きで3時だという。
2時台のがあるとHPで見てきたが、それは実は一昨日までで、昨日から繁忙期ダイヤに変わったのだとか。
しかし、繁忙期ダイヤというわりには、ダムサイト発の便が6便から5便に減らされているのはどういうわけか。
とにかく、あと1時間もある。仕方ないので、湖畔で暑い紅茶にチョコでも食べながら、時間をつぶす。


時間は分からないが、宮ケ瀬園地と鳥居原園地を結ぶ無料シャトルバスがあるというので、それに期待する。時間が合わなければ、30分ほど歩かなければならない。
船着き場に行ってみる。


14:50頃、遊覧船が到着。


写真を撮っている間に、乗客の列の後ろの方になり、デッキには座れなかった。
結構な人出なのだ。仕方なく、中の客室に入る。

前の席では若い男女のカップルが乗船中ずっとべったり。発情期か。

さあ、出発。



船内アナウンスで、ブイや湖岸道路のことなどを説明してくれて、勉強になった。
ブイの下には網がかかっており、上流から流れてくる流木などが堰堤まで到達するのを防いでいるのだそうだ。

船はかなりのスピードが出ており、たった10分で宮ケ瀬園地に着いた。

長大な350mのつり橋があったが、それは見るだけにしてパス。
まずは園内の地図を見て、シャトルバスのバス停の位置を確認。
園地の真ん中を突っ切って、大きな階段を登る。

階段から振り返ると、ここが広大な公園であることがわかる。


登り切ったら、土産物街に出る。ここもかなりの人出だ。



バス停にはすでにバスが止まっており、運転手に聞くと、鳥居原に行くというので、あわてて乗り込む。
乗った途端に、扉が閉まり、バスが動き出した。
なんというタイミング。ラッキー!
と思ったら、なんとバスは鳥居原園地とは逆の方向に走り出した。
すこし先まで行って折り返すのかと思ったら、さっき遊覧船に乗ったダムサイトまで行き、驚いたことにさらにダムの下の方へ進んでいく。
ダムサイトまで行くと知った時、遊覧船切符売場のおじさんはなんて不親切なんだと腹が立った。
「鳥居原に行くなら、ここからシャトルバスも出ていますよ」と人間なら言うべきだろう。
いくら遊覧船に乗ってほしくても。
しかし、さらに下に行くこと知り、これは一周しないと鳥居原に行かないんだと気づいてから、今度はバスの運転手にもムカついてきた。
「鳥居原までは逆方向にぐるりと回って行きますから時間かかりますよ。それでもよろしいですか」と一言聞くべきじゃないか。
こちらの質問は「鳥居原に行くか」だったから、それに答えだけと言われればそれまでだが、どうして、ここの観光に携わる人は観光客の身になって考えないのだろう。
おい、公益財団法人宮ケ瀬ダム周辺振興財団! おまえのことだぞ!
とにかくもう開き直って、車窓を楽しむしかない。
と思って外を見ていたら、清正光大薩埵なる石碑が目に飛び込んできた。

「せいしょうこうだいさった」と読むらしい。帰宅して調べてみたら、明治10年(1877年)、近くの志田山に勧請された神社?のようである。
その神体は天の三光(太陽・月・星)で、清正光の名は、三光天子(日天子・月天子・明星天子)の教えを象徴して神格としたものだという。
「清」は清らかな汚れない光で、全ての物を平等に照らしてくれる太陽の教えを、「正」は不正を破り正しい道を明らかにする明星の教えを、「光」は優しく愛する月の光の教えを顕すとのことだ。
そのあたりもハイキングコースになっているようだ。
冬に来てみよう。
バスは16時にあいかわ公園に着いた。

マイカーで来たと思われるおじさんが、「上の駐車場まで乗せてもらえないか」と頼んでいたが、あっさり断られ、結構な距離を歩いて登っていた。
家族は下で待っていて、お父さんが車を運んでくる役目だったのだろう。かわいそうに。
途中、サル発見。

4時10分、宮ケ瀬園地から45分かけて鳥居原に到着。
鳥居原に寄る4:10の船に乗るよりは早かったが、宮ケ瀬園地から歩いた方が余程早かった。
しかし、足の調子もそれほどよくなかったことだし、怒りは納めることにしよう。
しばし、土産物を売っている「ふれあいの館」を冷かす。

丹沢あんぱんに食指が動いたが、高かったのでやめた。小さいのに130円。

さて、車でまた宮ケ瀬園地に戻り、旅館みはるで入浴。


1080円とやや高かったが、他にだれも客はおらず、独占。

ここは光明石という薬石を用いた人工的な温泉のようである。
上がる時にメガネを見失い、かなりあせったが、風呂の縁石の上にあった。
保護色になって、裸眼では識別できず、手探りでやっと発見した。
帰りは城山の「寿嘉」という寿司・そばの店で、寿司とそばのセットを注文。


お腹を膨らませ、旧城山町のマンホールを確認して帰る。

帰宅したのは8時前。
不愉快なこともあったが、お昼も豪勢だったし、いろんな乗り物に乗れたし、のんびりゆったりした山行で、たまには、こういうのもいいなあと思った次第でありました。
【行程】2015年4月26日(日)
鳥居原園地(9:34)~登山口(9:39)~権現平(10:44撮影・昼食・トイレ11:58)~南山(12:21休憩12:30)~宮ケ瀬ダム(13:32)=ダム下(13:38撮影等14:00)=ダム上(14:05休憩等15:00)=宮ケ瀬園地(15:10)~宮ケ瀬園地バス停(15:23)=鳥居原園地(16:10)
※所要時間:6時間36分(歩行時間:3時間)
※登った山:2座(権現平、南山)
※歩行距離:6.5km
【2015年4月26日(日)】権現平・南山
宮ケ瀬湖北岸の権現平(569m)と南山(544m)。
ここには2月8日に行く予定だったが、骨折入院のため行けなかった。
今回はリハビリを兼ねて、そのリベンジ。
自宅を7時半に出発し、圏央道相模原IC経由で、宮ケ瀬湖畔の鳥居原園地に9時20分ごろ到着。

駐車場はものすごいバイクの数だ。

トイレに寄ったりしながら、周辺を撮影。
眼下に宮ケ瀬湖。

まだ、遅いソメイヨシノが待っていてくれた。

宮ケ瀬湖にかかる虹の大橋。

ここを下りれば、遊覧船の船着き場。

軽いストレッチを済ませ、9:34出発。
今回は登山靴だが、傷口は絆創膏だけなので、ちょっとこすれる感じがある。
でも、痛くて歩けないほどではない。
5分ほどの車道歩きで登山口に到着。


いきなり階段の急登。

振り返ると、鳥居原園地がよく見える。


しばらくすると傾斜も落ち着いた。

今日は気温も高めだし、水分をこまめに摂る。
止まって飲んでいるうちに後発の高齢ご夫婦に抜かれてしまった。
この時期はやはり新緑が気持ちいい。

道標もバカ丁寧なほど、しっかりしている。


木漏れ日の道を進む。


送電線の鉄塔の下に出ると、展望が開けた。


その鉄塔。

低山の春の花はよく分からない。

この辺にはサルが生息しているらしい。

終盤はわりとなだらかな道。

1時間ほどで頂上手前のトイレが見えてきた。

とりあえず通過して、権現平へ。


ここには立派な手すり付きの展望台があり、当然のごとく眼下に宮ケ瀬湖を望めた。


正面に高取山(705m)、その左後ろに仏果山(747m)。

その右奥には大山三峰(935m)の山並みが見える。

展望台の後ろに、三角点と標柱。

山の名前が書いておらず、標高だけというのもめずらしい。
ここには切り払われた斜面に、たくさんのベンチがあったので、その一つに陣取る。

まだ10:45だから、かなり早いが昼食の準備に取り掛かる。
腰を下ろしたベンチは少し木陰があるものの、基本的には日なた。暑くなるかなと思ったが、ちょうどよかった。
今日はGW初日の、しかもこの天気なので、もっと大勢のハイカーが山に入っているかと思ったが、先客はさっきのご夫婦だけ。
彼らは東屋で休んでいて、すぐ出発してしまったし

昼食中の1時間ほどで、山頂に来たのは10人ほどのトレランチームを含め中国人の家族連れなど数組だけだった。
今日の昼食はトマト鍋。

山めし礼賛のブログを参考に、さらに残り野菜のじゃがいもやニンジン、エリンギなどを加え、ボリュームたっぷり。
とろけるチーズで洋風に仕上げ、最後にクレソンを載せる。
もともとトマトは好きだし、これはものすごくおいしかった。
満腹になったので食後は、近くにあるバイオトイレでゆっくり用を足す。

身軽になったところで、正午前に出発。


もう一度、三角点のところを通ったら、標柱の裏側にちゃんと山の名前が書いてあった。

危うく見逃すところだった。
頂上直下には石の祠と変わった桜の並木。


この花もよく分からない。

これはマムシグサ。

展望が時々開けた。
ピラミダルな雄姿を見せるのは大山(1252m)。

高取山と仏果山。

たぶん、相模原市緑区関あたりの集落。

あまり起伏のない道を20分ほどで、南山に到着。


三角点かと思いきや、神奈川県企業庁の標柱。

ここは完全に南側が開けていて、宮ケ瀬湖のほか東丹沢の全容が眺められた。
まずは東。奥の右から焼山(1060m)、黍殻山(1273m)、姫次(1433m)。

宮ケ瀬湖と中央奥は三ノ塔(1205m)。

権現平方面。

ここにもベンチがあったが、テーブルはない。
全く木陰がないので、さっきの場所で早めの昼食にしたのは正解だった。
10分ほどの休憩で出発。


野イチゴの花。

尾根歩きは、この東屋でおしまい。

ここからは急な下り。

だんだん傷口のこすれが気になってきて、普通に歩けない。
急坂をだましだまし下ったが、すこし痛いので途中のベンチで一度休憩。
あとは一気に下り、ダムサイトに近い舗装道路へ。


直接、ダムサイトには出られなかったが、あいかわ公園を経由せずに下れる道があって助かった。
(つづく)
【2015年4月25日(土)】高岩山
御岳山近くにある天狗岩周辺は古くからの観光スポットのようだ。


あの右のとんがりが天狗岩ということなのだろう。振り返って見てみるとよく分かる。

このあと、雨がぽつぽつ落ちてきたが、雨脚はかなり弱いので、何もせずにしばし我慢。

でも少年たちはカッパを着込んでいた。
結果的にすぐ上がったので、着なくて正解だった。
一旦下って沢を渡る。七代の滝の上流だ。

渡渉地点には、どこも平らで大きな飛び石が設置されていた。

渓流沿いの新緑の美しい谷をさかのぼっていく。





それにしても、カップルの多いコースだ。
ロックガーデンにはベンチがあったので、多くの人が思い思いに昼食を楽しんでいた。


ここに掲げられた説明板によると、七代の滝から綾広の滝にかけての1kmほどの遊歩道は昭和10年に「東京緑地計画」に基づいて整備されたものだそうだ。
道理で、古い観光地のにおいがした。

私はトイレを済ませ、ういろう1個を食べて出発。



この先は随分、沢も細くなる。

しばらく進むと綾広の滝。

ここでは別の少年グループが、滝の水を飲みこんでいるように見える写真を撮っていたので、私も真似てみた。

滝の手前には禊の門。

全景。

少し上に登ったところから見下ろす。


ここからひと登りで大岳道に合流。



しっかりした道を芥場峠へ。


途中、満開のヤマザクラに出くわした。

新緑をくぐりぬけて、苦もなく芥場峠に到着。



ここを左折。

(写真では直進方向)
サルギ尾根はかなりのマイナーコースだと思っていたが、しっかりと整備されている。
2組くらいとすれ違った。意外に歩かれているようだ。
ひとつめのこぶに尾根道への標識があったので行ってみる。


でも山名板はなかった。

石段で巻き道に合流。

平らなのは、わずかな区間のみ。

これが上高岩山(1012m)かな。

やっぱりそうだった。


ただし狭くて、展望はほとんどなし。

でも岩に腰を下ろして、しばし休憩。骨折後初の1000m超えの感慨にひたった。
5つあったういろうは、ここですべて食べ尽す。あとはほとんど下るだけだし。
10分ほど休んで出発。

木々の隙間から、多少の眺望が得られる。


このすぐ先に東屋があった。

ちょうど雨がさーっと降ってきて、ちょうどいい雨宿り。
御岳山、日の出山などが一望できた。

これは大岳山(1267m)。

御岳山奥の院。

御岳山(929m)。

日の出山(902m)

これから通過する高岩山(920m)。

雨は5分もしないうちに止んでしまい、ほとんど待たずに出発できた。

ここから急な下り。


靴の縁が患部に当たるのが心配だったが、ほぼ大丈夫だった。
今日は靴の縁が当たるところにテーピングテープを貼ってきたので、その効果もあったのかもしれない。

ゆるやかな下りでは軽く走ることもできるほどだった。でも、調子にはのらない。

次の高岩山でも小休止。


あとはひたすら下り。若葉の数々。



おっと、ちょうど頭の上で雷がゴロゴロと鳴り出した。
今度降られたら、にわか雨では済むまい。ほんの気持ち急ぐ。
岩場のヤセ尾根は慎重に通過。



岩場を過ぎると、植林の中の単調な下り。


炭焼き窯跡。

終盤はかなり急になる。

最後は手すりを伝って下らないといけないほど。

シャガに迎えられ、なんとか標高差560mを下り切った。


養沢神社に無事下山のお礼。

時刻は14:49。バスの時間を確認すると14:56。しかも、ちょうど雨が降ってきた。

芸術的なタイミングだ。
トイレの水道で顔を洗い、荷物を整理して、傘をさしてバスを待つ。
今回はゆったりと乗車できた。
しかし軍道で大勢の登山者が乗り込んできた。
どうも乗り切れそうになかったが、運転手の機転で全員載せることができた。
こちらは車内で右足の靴下を交換し、多少マッサージ。
瀬音の湯に寄りたい気持ちもあったが、超満員でとても下りられないので断念。
ちょうど雨が止んだ頃に、武蔵五日市駅に到着した。
コンビニでおにぎりを2つ買い、オムライスおにぎりをホームで立ち食いして、空き気味のお腹を落ち着かす。
15:55発の快速ホリデーあきがわ号に乗車。

16:55頃、新所沢に着いた。
骨折の手術をしてから、3か月。林道が長かったとは言え、標高差約700m、歩行距離10kmをクリアできた。
ゆっくりだが着実に回復していると信じたい。
【行程】2015年4月25日(土)
養沢神社(10:17)~養沢鍾乳洞分岐(10:40)~七代の滝(11:32撮影・休憩11:43)~御岳岩石園(12:10撮影・休憩12:15)~綾広の滝(12:24撮影12:29)~芥場峠(12:51)~上高岩山(13:04休憩13:16)~東屋(13:21撮影13:25)~高岩山(13:45休憩13:52)~養沢神社(14:49)
※所要時間:4時間32分(歩行時間:3時間48分)
※登った山:2座(上高岩山、高岩山)
※歩行距離:9.9km
【2015年4月25日(土)】高岩山
今日は以前から気になっていた奥多摩のサルギ尾根を歩く。
御岳山までケーブルで登り、芥場峠から養沢神社まで下って来るコースを考えたが、それだとコースタイムはたったの3時間なので、いくら何でもちょっと物足りない。
登る標高差も少ないので、逆コースにすることを思い立ち、地図を見ているうちに、林道を使えば、七代の滝とか綾広の滝などの滝めぐりができる周回コースをとれることを発見。
骨折後としては距離も今までよりずいぶん長いし、標高差も700m近くあるので、心配だったが、林道が標高を稼いでくれそうなので、練習のつもりで決行することにした。
それでもコースタイムは4時間ちょっとだ。
目覚ましはかけずに7:10起床、8:00に家を出発。
8:23新所沢発の電車に乗る。
国分寺で乗り換えた快速ホリデーあきがわ号が、途中、踏切の安全確認のため5分ほど停車。
その関係で、武蔵増戸駅で臨時の列車交換のため、さらに5分ほど停車し、10分遅れて9:31に武蔵五日市に到着した。

駅構内のコンビニで昼食を調達していくつもりだったが、バスの時間まであと4分しかなくなってしまったので、そのままバス停に直行。
結局、食料はH君に先週、名古屋のお土産にもらったういろうの詰め合わせだけになってしまった。
まあ、4時間ほどだから、遭難しなければこれでもつだろう。
9:35発の上養沢行きに乗車。

バスには団体さんもいて超満員。私はずっと立っている羽目に。
十里木から瀬音の湯まで寄り道するので、その分も時間がかかる。
でも、瀬音の湯に通勤する人もいたし、やむを得まい。
車内では、変わった地名のバス停が出るたびに、「札立(ふだあて)」とか「軍道(ぐんどう)」とか「怒田畑(ぬたばた)」「海入道(かいにゅうどう)」などと、団体さんが口々に大声で復唱するので苦笑いをしてしまった。
終点の上養沢より1つ手前の大岳鍾乳洞入口で下りれば、前回大岳山から下ってきた道とつなげることができるし、養沢神社にお参りしてから入山できるし、あの団体と一緒に行動しなくても済む。
一石三鳥なので、そうすることにした。
10時ちょうど、養沢神社前にある大岳鍾乳洞入口バス停で下車。

神社境内で念入りにストレッチをしてから参拝、10:17出発。


春の日差しが心地よい。

右手には養沢川のせせらぎ。

左手は石碑群や春のお花。





終点の上養沢バス停はすぐ先にあった。

昔ながらの登山基地の雰囲気が好もしい。ここは標高360m。


でも、高齢者の団体はもう出発しており、いずれ追いつくだろうと思ってたいら、養沢鍾乳洞分岐まで追いつかなかった。
それにしても、若葉の淡い緑がなんとも美しい。


こいつも秋になると真っ赤になるのだろう。

ただの林道なのだが、歩いていて飽きない。




このあたりの民家は石垣が立派だ。


こちらは解体中?

山村の民家は味わい深くて、つい写真を撮ってしまう。

新緑の中を進む。


「御岳山道供養塔」なる石碑を発見。

弘化四年とあるから1847年。林道が開通するはるか前から、ここは信仰の道だったのだろう。「養」の字が異字体になっている。
20分ちょっとで養沢鍾乳洞跡を経て日の出山(902m)に向かう分岐に到着。

ここでやっと先行の団体さんに追いついたが、それもトイレの人がいたから停滞していただけだろう。

彼らは高齢者の団体のわりには足が速い。
私は養沢神社下のトイレで済ませてあるので、ここでは止まらずに通過。

この先はまた延々林道歩き。団体さんは日の出山の方に向かったので、この後、彼らと抜きつ抜かれつにならなくてよかった。
間もなく前方に、アベックらしき、2人を発見。

これにはいずれ追いつくだろうと思ったが、またしてもなかなか距離は縮まらない。

こっちも写真を撮りながら歩いているせいもあるとは思うけど。
今度は古い道しるべを発見。「右み田け山道」とある。

ここも日の出山との分岐だ。昨年7月にクマの目撃情報あり、とのこと。

林道の傾斜がだんだん急になる。
しばらく2人の後を追う。


養沢川はいつのまにか左手に来ており、渓流となっている。



この橋は「花水橋」。漢字で書くと美しいが、ひらがなだと・・・


このすぐ先の道端で、例の2人が休んでいたので、やっと追いつくことができた。
しかし、アベックではなく女性2人組だった。
そのうちの1人から、「七代の滝までどのくらいかかりますか」と声をかけられ、「バス停から1時間半くらいですね」と答えて、通過。
道はさらに勾配がきつくなる。

ここで車は通行止め。

でも落石があったのは、あの場所だけで、この先は平穏。



出発から1時間ちょっとで林道が尽き、登山道となる。

登山道に入って、林道を振り返る。

足元にタチスボスミレ。

御岳山からの道と合流した途端、いきなり通行量が増えた。


まもなく七代の滝に到着。11:32。バス停からは1時間10分だった。

滝壺はきれいな円形。

東南アジア系のグループがはしゃいでいた。

ここでしばし休憩。腰を下ろし、ういろうを2つ食べる。

高校生くらいのグループやさっきの2人連れも到着し、滝周辺は一時20人くらいの人出となった。


10分ほど休んで、少年たちのグループが出発してから、あとに続く。

とんでもない傾斜の階段がいくつも連なる。


木の根もひどい。


途中、巨岩に切れたクサリが。

さらには木の階段。

これを登り切ったところが天狗岩。


クサリが付いていて、その頂上にまで行けるようになっているようだが、私はこの足だし、少年たちで混んでいたので、登るのはやめて前進することにした。


(つづく)
【2015年4月20日(月)】大阪
今宮戎神社の参拝を終え、ホテルに戻る。
でも時間もあるし、新今宮まで意外に近いことがわかったので帰りは歩くことにした。
路上探検である。
まずはカラーの大阪市マンホール。堂々たる大阪城。

こんな落書きは序の口。

児童公園は夜間は入れません。厳重に鍵がかかっている。

ホームレスの住みつきを防止するためだろう。
はい、落書き続きます。


この貼り紙にも驚き。おにぎり50円、うどん100円の安さ。

「恵美須」はもちろん今宮戎に由来する地名だろう。

長屋。

閉じてしまったお店。

ここは現役。

ひなびた飲み屋街の朝。

「大隅アパート」はこのあたりに展開する格安のアパートのようだ。

これが重要。

正面を阪堺電車が横切る。広告は「質店」。

本当は、この日午前中、阪堺電車に乗り鉄するつもりだったのだが、仕事が入ってしまった。

阪堺電車はJR新今宮駅のガード下をくぐる。

こちらは阪堺電車の新今宮駅前という名の駅。「駅前」を名乗るのが奥ゆかしい。


その駅前には、レトロなビルヂングが残る。

まだ簡宿のままと思われる福田屋。

駅の真ん前にで~んと立つ、あいりんの職安。

部屋に戻って、コンビニで調達した朝食をいただく。
リハビリその他すべて済ませて、9時前にチェックアウト。
10時に東大阪市役所のアポを入れてある。
再び新今宮駅。

ホームから巨大な大隅アパートが見えた。

極端なラッピング電車が入線。パッと見、ドアがどこだか分からない。

大阪環状線に乗って、森ノ宮で乗り換え。


せっかくだから外に出てみたが、激しく雨が降っているうえに、駅舎は改修中。

大阪城が雨にかすんでいた。

駅名の由来となった森之宮神社にも参拝。

正式には、鵲森宮(かささぎもりのみや)という。
聖徳太子が物部守屋との戦いに際して戦勝を祈願し、勝った暁には四天王を祀ることを誓った。戦勝後の崇峻天皇2年(589年)七月、まず両親の用明天皇と穴穂部間人皇后を祀って鎮守とした。
推古天皇6年(598年)4月に、聖徳太子の命で新羅に渡った吉士盤金(きしのいわかね)が2羽のカササギを持ち帰り、ここで飼っていたことから、ここが「鵲の森」と呼ばれるようになったという。
こんな自己PRもなされていた。

さて、地下鉄に乗り換え。

近鉄けいはんな線直通の地下鉄中央線で荒本へ。

地上に出ると、高速道路の真下。

雨の中、歩くこと5分ほどで、東大阪市役所。

人口50万人を超え、大阪では大阪市、堺市につぐ大都市ではあるが、あまりにでかい。
東大阪市のマンホールは「ひ」の字を鳩の形にした市章で、市の花の梅を描いている。

こちらは、ラグビーの町であることを意識したもの。


東大阪市には花園ラグビー場がある。
2019年のワールドカップ開催会場にも決定し、祝福の垂れ幕がかかっていた。

というわけで東大阪市役所での営業を終了。
次の訪問先に向かう。
荒本から近鉄に乗り、近鉄高井田駅からJR高井田中央駅に乗り換え。


ここから、2008年に城東貨物線から旅客転換されたJRおおさか東線に乗って、河内永和駅へ。
逆方向は放出行き。

放出は「はなてん」と読む。大阪の人はみな知っている有名な難読地名だ。
こうして「放出」が並んでいるのを見ると、「大放出」という感じだ。
放出行きは見送る。

JR河内永和駅に到着。

私鉄の場合、駅名に「西武秩父」とか「京急久里浜」とか会社名が入っているのは珍しくないが、「JR」が入っているのは新鮮。
これは、当然、近鉄の河内永和駅が先にあったためだが、JRをつけない方法もあったはず。
新今宮はJRも南海も「新今宮」だし。
JRはプライドが高いので、あとから乗っかる感じになるのはいやだったのでしょうか。
この路線は次の「JR俊徳道」「JR長瀬」とJR付きの駅名が3つ連続する。

JR河内永和駅で、同僚と集合して、駅前の喫茶店でお昼。
久々にドライカレーを食す。ちょっと量が少なくて残念。
食後、再びおおさか東線でJR長瀬に移動。

現場へ移動途中、こんな看板を発見。

こんなにでかく書かないとやめさせられない地区なのだろうか。
このあたりは町工場の多いところだ。
でも、めでたい名前の銭湯がつぶれていた。

この後、無事仕事を終え、大阪本社の元同僚とキタで飲んでから最終の1本前の新幹線で帰京。
17日(金)の伊豆から始まった長い旅を終えたのでありました。
【2015年4月19日(日)】大阪
三浦半島のハイキングを終えて、出張のため大阪に向かう。
品川16:07発ののぞみ237号新大阪行きに乗車。
新大阪、大阪で乗り換え、新今宮には19:09到着。


改札を出ると正面が南海の新今宮駅。

階段を下りて、左に歩くとすぐ、今夜の宿ホテルサンプラザに着いた。

ここあいりん地区は、かつて簡易宿泊所がひしめいていた場所。
今はほとんどが、バックパッカーなどが利用する安ホテルに衣替えしている。
何年か前にも一度泊まったことがあるが、とくに不便は感じなかったので、今回もお金を節約して、このエリアを選んだ。
この宿は1泊1650円。そんな宿にわざとじゃらんポイント1000円を使ったので、払ったのはたった650円。途上国のゲストハウス並みである。
指定されたのは521号室。
エレベーターで5階に行くと、廊下の両側にドアが異様に短い間隔で並んでいる。

これはこれで不気味。なんかの収容所のようだ。
部屋に荷物を置いて、さっそく今夜の食料を調達に出かける。
新今宮駅の高架ホームの向こうに電飾された通天閣が見えた。

あそこにはいつか登ってみたい。
一応コンビニもあったが、コンビニ弁当ではおもしろくないので、お弁当屋さんを見つけて、生姜焼き弁当を注文。確か400円。それほどバカ安いわけではないが、シャケ弁当とか200円台のものもあった。とにかく、最底辺の労働者の町だけに物価が安い。

飲み物の自販機などは50円から。これには驚き。

今夜泊まるホテルの全景。10階建てである。

部屋に戻ったので、中を紹介しよう。
間取りは3畳一間。

狭さは気にならないし、和室も好きなのだが、布団の薄さには閉口した。
前回泊まったところは、こんなにケチってなかった。
これならキャンプのエアマットの方が格段にマシである。
枕もペラペラで、脱いだ服をたたんで下に敷いたほどだ。
まあ、1650円なのだから文句は言えない。
これは玄関側。

一応、冷暖房、カラーテレビ、冷蔵庫完備である。冷蔵庫の取っ手は壊れているが。
靴を置くスペースもあった。こちらサイドは合格。
当然、バス・トイレは付いていない。
テレビを見ながら、早速弁当を食べる。

めしが済んだら、お風呂。10階の展望風呂へ。
ほかに人がいて、浴室の写真は撮れなかったが、ここからの通天閣の眺めは最高だった。
あまりにきれいだったので、風呂から上がった後、カメラを持って屋上へ。
ここはなんと屋上への出入りが自由なのだ。

これは日本一高いビル、あべのハルカス。

そうかと思えば、南海沿線にはブルーシートハウスの列。

現代日本の経済格差を象徴する光景であった。
もう一つ、脱衣場にはこんな具体的な注意書きが。

さすが、あいりん地区である。
めしと風呂が済んだら、もうすることはない。
明朝の散歩に備えて、早めに就寝。
【2015年4月20日(月)】大阪
お仕事の前に、有名な商売繁盛の神様、今宮戎神社に参拝しなくては。
南海電車で新今宮から電車に乗る。

まだ7時を過ぎたところだが、もう通勤時間帯。特急サザンも走っている。

今宮戎まではひと駅。

ホームからお寺の屋根が見える。

今宮戎駅は各駅しか止まらない小さな駅だ。

さっき、屋根が見えた海泉寺。

このお寺は、その昔ここがまだ海岸だった頃、作太夫(海泉坊)が1184年に海から引き揚げた洒落木で観音像を彫って祀ったのが始まりと言われている。
「墓地あります」の看板が迫力満点。

さらには「ここはゴミ捨て場ではありません」の看板。

これだけ堂々と捨ててあると、逆に感心する。
その隣が今宮戎神社。思ったよりこじんまりしている。

早速、本日の仕事の成功を祈願。

かなり奥行がある。

これは側面。

境内には、阿波野青畝(あわの・せいほ)の句碑。

「陋巷(ろうこう)を好ませたまひ本戎」。「陋巷」とは狭くて古い町のことだそうだ。
青畝の名は知らなかったが、高浜虚子に師事し、昭和初期には山口誓子、水原秋桜子らと並んで「ホトトギス」の四Sと称されたそうだ。
明治32年(1899年)生まれ。昭和56年の作というから、82歳の時の作品だ。
こちらは大国社。

そして稲荷社。

丁寧にすべての社にお参りしているスーツ姿のビジネスマンがいた。
今も篤い信仰を集めているようだ。
東門。

塀に刻まれた社名を見ると、そうそうたる大企業が寄進していることがわかった。

(つづく)
【2015年4月19日(日)】剱崎・岩堂山
三浦半島・剱崎の岩礁のみちから県道に出た。

江奈湾を眺めながら舗装された歩道を歩く。


路傍に可憐な黄色い花。

ここは松輪海岸というようだ。

山側には庚申塔群。

だいぶ風化が進んでいる。

剱崎小学校のバス停にはベンチがあったので、ここで小休止。

もうお昼前だが、昼食を買いそびれてしまい、ザックには行動食のチョコしか入っていない。
下界だからと油断していた。コンビニはおろか、よろず屋すらない。
ちょっと甘く見た。
1つ2つかじって、5分も休まず出発。
やはり、この時間帯は干潮だ。


急カーブを曲がると、江奈湾の西半分の入り江が見える。
ここは有名な干潟らしい。
説明版によれば、アカテガニなど様々なカニが生息しているとのこと。
これは干潮時に現れる川「みおすじ」。

ちょうど、見事な干潟が広がっている。


江奈バス停を通過。

まだ、コースの半分も歩いていないが、この足では次の岩礁地帯に突入するのは無理だ。
バスで三崎港まで行って、マグロ丼でも食べて帰ろうか、という誘惑に襲われたが、とにかく平らな道なら歩けそうなので、台地の上の毘沙門天までは行ってみることにした。
前方には、またまたキャベツ畑が広がる。


バイパスのトンネルを避けて、右手の旧道を台地上に登っていくと、毘沙門天への分岐にたどりついた。

道しるべには「右毘沙門天道」とはっきり書いてある。

で、そちらへ行こうとしたのだが、ふと右手を見ると、小高い丘が見える。

「もしかして、あれが岩堂山?」
地図を見ると、方角は間違いない。
あれならそんなに遠くない。30分くらいで行けそうだ。
岩堂山は実際、この丘の向こうだったのだが、それでも大差はなかった。
岩堂山は標高88mの超低山だが、三浦市の最高峰。神奈川県では「最も低い山」らしい。
登った山も1つ稼げることだし、方針を変更して、右へ向かうことにした。
通過する江奈や渡戸の集落も、地図で見る限り、昔からの農村集落だったようなので興味がある。
歩き出した途端、乗るかもしれなかったバスが追い抜いて行った。
さて、その集落に入っていく。


やはり古くからの村らしく、庚申塔や馬頭観音が散見される。


慈雲寺というお寺があったので立ち寄った。


応安元年(1368年)の開基で、毘沙門堂と呼ばれる。
さっきの毘沙門天はここの行基菩薩の作とされているらしい。
その先で農家の廃屋を発見。

と思えば、立派な農家もある。

再びキャベツ畑の海。

さっき見えた丘が近づいてきた。

よくよく地図と照合すると、あれは岩堂山ではない、とここで気づく。
その丘の手前にある大乗バス停。

岩堂山から戻ってきて、ここからバスに乗るかもしれないので時間を調べておく。
現在12:43。三浦海岸行きのバスは次が13:13。その次が14:09。
おお、あと30分しかない。ギリギリだ。
少し足を速める。
でも丘にある神社には立ち寄る。


何の説明も扁額もないので、神社の名前すら分からなかった。
道に戻る。標高が高くなったので景色はすごくいい。
キャベツ畑の向こうに房総半島もうっすら見える。


路傍の石仏たち。


峠を越えて、やっと岩堂山の側面が見えた。

ぐるっと回り込んで、北側から登る。

結構この道が長い。

頂上直下からの眺望。見渡す限りのキャベツ畑。


三浦大根は知っていたが、三浦半島でキャベツがこんなに栽培されているとは思わなかった。
頂上はヤブの中のように見えるが、細い道があった。


しかも何やら構築物がある。
登り切ると廃墟が出現。


検索してみると、これは三崎砲台の観測所の跡だった。
ここの標高は約88mで、三角点の標高は82.1m。
実はさっき景色を眺めた場所あたりに三角点はあったはずなのだが、探すのを忘れてしまった。残念。
たんぽぽに別れを告げて、急ぎバス停に向かう。

残り時間13分。何とか間に合いそうだ。
さくさく歩いて、10分で到着。
バスはほぼ定刻通り着いて、私を三浦海岸駅まで運んでくれた。
さあ、お腹が空いた。
マグロ丼もいいが、前夜海鮮を食べたばかりなので、駅前の中華の店に入る。

タンメンとミニ炒飯のセット。確か900円だったかな。
満腹になって、品川へ。
出張の荷物を取り出し、代わりにザックを押し込み、新幹線に乗る。
一路、大阪へ。今夜の宿はあいりん地区の安宿だ。
【行程】2015年4月19日(日)
三浦海岸駅(10:15)=剱崎バス停(10:30)~剱崎灯台(10:50撮影10:54)~剱崎小学校バス停(11:53休憩11:57)~毘沙門天分岐(12:20休憩12:23)~岩堂山(12:58撮影13:00)~大乗バス停(13:10)=三浦海岸駅
※所要時間:2時間40分(歩行時間:2時間31分)
※登った山:1座(岩堂山)
※歩行距離:7.5km
【2015年4月19日(日)】剱崎
翌日は大阪出張。この日のうちに関西入りして京都の大文字山に登る予定だったが、西は雨の予報なので、活動は関東エリアに留めることにした。
ザックと出張カバンを一緒に持ち歩くのはいやなので、品川駅のコインロッカーに出張道具は預けることにして、ここを拠点に行けるところ、と言えば、やはり三浦半島。
しかし、今回は山ではなく海にした。
剱崎から三崎港まで岩礁地帯をめぐる3時間程度のコースがある。
何時に出発したのか、記録するのを忘れてしまったので判然としないが、逆算すると、たぶん8:48品川発の快特三崎口駅行きに乗り、9:51に三浦海岸駅に到着したようだ。


駅前は統一地方選後半戦告示日ということで、2人の候補者が演説を行っていて、少々やかましい。
ガード下にある海産物屋さんを眺めながらバスを待つ。


どこかにハイキングに行く高齢者の団体さんとともにバスに乗る。
10:15発車。
バスは気持ちよく三浦海岸沿いの道を走っていくが、私は逆側に座ってしまった。不覚。
「琴音」とか、面白い地名のバス停もあった。
10:30終点の剱崎バス停に到着。


早速、剱崎灯台に向かって歩き始める。路傍には近在の石仏が集められていた。

このあたりは一面のキャベツ畑で、早くも収穫が始まっていた。


10分ほどで、前方に剱崎の灯台が見えてきた。

そして灯台下の海岸も。

昔は売店をやっていたのだろうか。

灯台はもう目の前。

これは灯台への入口。

バス停から20分ほどで到着。

初点灯は明治4年1月11日というから、かなり古い。
1866年に米英仏蘭4か国と「改税条約」を結んだ際に幕府が開設を約束した8つの灯台(条約灯台)のうちの一つで、お雇い外国人のリチャード・ブラントンの設計だそうだ。
当初は石造だったが、現在の灯台は関東大震災後に再建されたコンクリート造りの2代目。
銘板にも「震災改築 大正十四年七月一日」とある。

なかなか姿のよい灯台だ。高さも約17mでこじんまりした印象。

ここは標高約30m。海岸が見下ろせる。

沖合を船が行きかう。はるか向こうは房総半島。


こちらは北側の関口漁港。

景色も堪能したので、海岸へ下っていく。


これは何の花だろう。

このあたりの海岸はこうした丸い岩山が特徴だ。

途中に井戸を発見。

矢の根井戸とある。なんでも、保元の乱で敗れ、伊豆大島に流された源為朝が「わが弓勢昔に変わらずや」と鎌倉に向かって放った矢がこの場所に落ち、泉がこんこんと湧き出したのだそうだ。
この辺は海岸に立ち入る人が多いので、こんな注意書きが。

岩礁と言われるだけあって、なかなかの造形美が広がる。




大学1年の時の地理巡検で説明を受けながら、このあたりを歩いたはずなのだが、全く記憶がない。
それはともかく、とにかく歩きにくい。前後に傾斜があるのは大丈夫なのだが、左右に傾斜があると傷口が靴のへりに当たって痛い。



だから、こういう橋はとても助かる。

小さな海食洞。

この黒いのは何の層だろう。

道をちゃんと選ばないと、水に取り囲まれてしまう。

何とか最初の岩礁地帯をクリアして、小さな入り江に。

地元の方が海藻を獲っていた。


岩の切通しを通過。

岩が浸食されて波のようになっている。

二つ目の入り江には漁船が係留されていた。

漁師の家と海辺の植物。


この時間帯はだいぶ潮が引いているみたいだ。

暖帯の奇怪な植物。

対岸には、ぽっかりと開いた海食洞がいくつか見える。

この方も何かを獲っているのかな。

お、めずらしく砂浜が出てきた。

そこにゼリーのような奇妙な生物が。何だろう?

とにかく、地層が波のようだ。時には津波にもなる。


こちらは海食台。

波というかイルカの群れにも見える。


小さな半島をぐるりと回り、江奈湾の入り口に近づいてきた。


海藻が干されている。


昆布は地面ではなく、洗濯ばさみで吊るされている。

北海道とは違って浜が狭いから仕方ない。
これは干しているわけではないだろうが、干からびている。

やっと、まともな道に出た。

まだ岩礁は1kmも歩いていないが、足がもう限界に近い。やばい。
(つづく)
【2015年4月18日(土)】高通山
高通山を下山中。
我々は、どこかで右折し巻き道の遊歩道を通って、車の置いてあるキャンプ場に戻らなければならない。
しかし、このあたりかなあと思う場所はことごとく通行止め。

現在地も正確には分からず、O君持参の地図をもう一度取り出して検討する。
まだ下ってもよさそうなので進んでみる。

道端に野生?のみかんの木。たわわに実がなっている。

しかし、道が悪い。

よくこんなところを彼女たちはあの靴で登ってきたなあと一堂感心する。
結局、分岐を見つけられないまま、波勝崎に向かう車道に出てしまった。

もう来た道を戻る気はしないので、帰りはタクシーを呼ぶこと腹を決め、波勝崎まで下ることにする。
波勝崎の駐車場までショートカットする遊歩道はあるようだが

入口はこのような状態なので

ヤブこぎは勘弁ということでかなり遠回りだが車道を行く。

まあ、見晴らしがいいので許そう。あれが駐車場。

あれれ、右手にさっきの遊歩道がよく見える。

普通に歩けそうだ。ヤブになっていたのは入口付近だけだったみたいだ。
うーむ、ここは町ではなく環境庁と静岡県が管理している遊歩道なのだから、草刈りはちゃんとしてほしいものだ。
みなブーたれながら下っていく。
すると、道路のあちこちにウンコが落ちている。

サルの落とし物だろう。夜になると、この辺まで進出してきて、排便していくに違いない。
歩いてきた山を振り返る。


駐車場が近づいてきた。今日はあまり観光客はいないようだ。

波勝崎には学生時代、車で来たことがある。
あの時はカメラカバーをサルに奪われ、追いかけて追い詰め、取り戻したことがある。
目をにらみつけて、ひるんだ隙に力づくで引っ張ったのだが、サルと目を合わせるのは危険だったと後で知った。
知らないというのは怖いものだ。
それはともかく、当時、もう30年以上前だが、こんな駐車場があった記憶がない。
しかし、こんな古い案内板があるということは当時から、あったのだろう。

それより、まずはタクシーの手配だ。
しかし、これに一苦労。電波状態が悪い上に、唯一のタクシー会社が「圏外か電源が入っていないため」という音声が流れ、通じないのである。
事情を「波勝崎苑」の受付のおじさんに説明して、電話をかけてもらうと、やはり通じない。
でも、別の手立てを講じてくれたようで、結局20分後くらいに来てもらえることになった。
助かった。
ただ直接話していないので、迎車料金がどれだけとられるのか分からない。
以前、富士五湖でタクシーを呼ぼうとした時、乗車距離より迎車距離の方が圧倒的に長いので、5000円もらわないと割に合わないと言われて、断ったことがある。
まあ、今回は3人いるから、極端な出費にはならないだろう。
というわけで待ち時間を利用して、サル見物に出かける。

海岸までは標高差がまだ50mほどあるので、ここでは送迎バスが送ってくれる。

それも含めての入園料700円か。時間があれば歩いてもいいのだが、乗せてもらう。
というわけで海岸に到着。さすがにたくさんサルがいる。



ここには300匹のサルがいて、東日本では最大の野猿の」生息地だそうだ。
近くの肥田与平という人が昭和28年から餌付けに取り組み、4年かけて成功したという。
しかし、ウンコくさい。あちこちウンコだらけ。

これが自然の姿なのかもしれないが、観光地なのだから、ちゃんと清掃してほしい。
じゃれあう子ザルたち。

ノミを取っているのかな。

サルが山ではなく海にいるのが、ちょっと不思議な光景だ。


ここはサルがいなくても景勝の地ではある。


売店の近くで、しゃがみ込み、赤ちゃんサルに人差し指を突き出すとしっかりと握ってくる。
サルはあまり好きではないし、衛生的にもよくないから、うれしさ半分だったのだが

なんと、ここの職員が「かんじゃえ、かんじゃえ、噛んでしまえ」とサルに向かってつぶやいているではないか。
なんだこいつ? とびっくりしてすぐには反応できなかったが、売店の中に入って

手を洗っているうちに、だんだんムカついてきて、とうとう文句を言わずにはいられなくなった。
「ちょっと、あんた。さっき、『かんじゃえ』って言ったな。なんでああいうこと言うんだ。本当に噛んだらどうするんだ。しかも相手は客じゃないか」
そしたら、奴は「ああ、すいません」と全くすまなくなさそうに言う。
こんな程度の低い人間に構っているのもバカバカしいので、そのくらいにしておいたが、全く恐るべき人がいたもんだ。
そうこうしているうちにタクシーが来たとの連絡が入ったので、再びマイクロバスを呼び、駐車場に戻る。
受付のおじさんは親切だったので丁重にお礼をして、タクシーに乗り込んだ。
時間は12:45。
気になっていた迎車料金は130円と表示されており、一堂黙ったままホッとした。
乗ってすぐ、さっきのカップルが下山してくるのを目撃した。
「おお、ちゃんと登って来たんだ」と、これまた一堂、感心する。
それにしても、この運転手さんは狭い道もびゅんびゅん飛ばすので、ちょっと怖かったが、事故もなくキャンプ場に到着。
料金は4000円ほどで、1人当たり1300円ちょっと。
それほど気にならない額だった。
キャンプ場の受付で

巻き道遊歩道の状況を聞いてみると、「行ったことがないから分からないけど、もう誰も通ってないみたいねえ」とのこと。
やはり廃道になってしまったようだ。
あの通行止めになっている場所が分岐だったのかもしれない。
O君の地図はちょっと古すぎたようだ。
でも、改めて山と高原地図(2011年版)を見ると、問題の道は実線で示されてはいるものの、「道崩壊、通行止」と書いてある。
もっと早く確認すべきだった。
とにかく無事に戻って来られたので、温泉に向かう。
O君が選んだのは土肥温泉の奥にある馬場温泉「楠の湯」。

実はここが土肥温泉発祥の地のようだ。
公衆浴場なので料金が安い。たったの400円。

近所にはレトロは床屋さんも。

先客はおじいさんが1人いたが露天風呂に行ったっきりだったので、内湯はわれらで独占。
いい湯であった。露天は湯温がぬるめでいつまでも入っていられた。
公衆浴場だったので、備え付けのシャンプーがなく、H君のを借りた。
帰りも船原トンネル経由。
でも、まっすぐ修善寺には下らず、船原峠から西伊豆スカイラインをトライブ。
戸田峠から修善寺方面に下り、だるま山高原レストハウスで途中下車。

ここは富士山や沼津アルプスが望める景勝の地。
この日はやはり富士山は見えなかったが、沼津アルプスと淡島はしっかりと見えた。

これは発端丈山から葛城山方面。

風が強くて寒いくらいなので、早々に退散。
小腹が空いたので、下界のコンビニでソフトを買ってペロリ。
16:10三島駅に到着。ここで解散した。私は16:23発のこだまで帰京。

銀座の魚の店での同期会に参加したのであった。

【行程】2015年4月18日(土)
民宿(8:40)~千貫門(9:02)~民宿(9:22)=雲見オートキャンプ場(9:39)~石門(10:12休憩10:16)~北側展望台(10:26撮影10:29)~高通山(10:34昼食10:55)~車道合流点(11:41)~波勝崎苑(12:02見学等12:45)=オートキャンプ場(13:00)
※所要時間:4時間20分(歩行時間:2時間27分)
※登った山:1座(高通山)
※歩行距離:6.3km(朝の烏帽子山を含めると8.1km)
【2015年4月18日(土)】高通山
西伊豆は松崎町・雲見温泉の民宿えびす屋で朝食を済ませ、8時半にチェックアウト。
とりあえずO君の車を民宿の駐車場に置かせてもらい、まずは千貫門に向かう。
漁師町らしい古い家屋を横目に太田川沿いをさかのぼる。

やはりこのあたりも過疎化は進んでおり、廃屋もちらほら。

右手にさっき登った烏帽子山(162m)が見えてきた。
頂上の巨岩がオーバーハングしていることを発見して、一堂びっくり。
遅ればせながら肝を冷やす。

千貫門への入り口は太田川を渡ったところにあった。

まずは階段を登らなければならない。

案内板によると、これから向かう千貫門や、さっき登った烏帽子山は、かつて海底火山の地下にあったマグマの通り道が地上に姿を現した「火山の根(火山岩頸)」の一部だそうだ。
千貫門は中央に波で削られたトンネル(海食洞)があることから、烏帽子山の頂上にある雲見浅間神社の門に見立てられて「浅間門」と呼ばれていたが、「見る価値が千貫文にも値する」ということで、後に「千貫門」と呼ばれるようになったとのことである。

峠に出ると、当然のごとく千貫門が横から見えた。

熊のようにも、ゴリラのようにも見える。
右手には烏帽子山。

この先、遊歩道は海岸に向かって下っていくが、途中、落石のため破壊された場所が。

こちらから見ると、烏帽子山は完全な岩山であることがよく分かる。

海岸は砂浜ではなく磯である。

海岸まで下りてきて、千貫門を見据える。まだ穴は見えない。

少し進むと、穴が見えてきた。

ほぼ正面から。

全景。この中に夕陽が沈むこともあるのだろう。

迫力ある景観を堪能して、来た道を戻る。今私には、こういう岩場がとても歩きにくい。

ここでは烏帽子山も脇役。

これも見事な岩なのだが名前はつけられていない。

その他の脇役たち。

スミヤミ峠を越えて、入り口まで戻ってきた。

千貫門あたりの海岸では、サザエやアワビが獲れるらしい。
一旦、民宿まで戻って、車を回収。高通山への登山口にあたる、雲見オートキャンプ場に向かう。これで1時間ほどの節約となった。

キャンプ場の受付に駐車の件を断ったら、無料でOKとのこと。
露天風呂もあるようなので、下山後は最悪ここで入浴してもいいかも。

ここからの景色もなかなかよかった。

本日のコースについてだが、O君が持ってきたイラスト地図に高通山の西斜面を巻く遊歩道が書かれていたので、それを使ってキャンプ場に戻る周回コースを設定した。
しかし、これがちょっとした失敗だった。
それはともかく、9:39登山開始。

ここは標高150mほどなので、頂上までの標高差は370mだ。
さっそくマムシグサのお出迎え。マムシグサがマムシらしい姿をしているのを見たのは初めてかもしれない。

最初は、えぐれた道を行く。


このあたりは暖帯林なので、すでに緑は濃い。


なぜか、蕗も常緑樹の葉っぱのよう。
やがて、岩のゴロゴロした場所を通過していく。


火山性の岩だろうか。どでかい。

15分ほど歩いただけで、頂上まで約500mの地点まで来た。

しかし、その後100m進むのに10分もかかった。

これは標識を立てる位置を完全に間違えている。
私にとってはガレ場と言っていい道がさらに続く。

今度は8分で200m進んだ。どうなっているのか。

所管の環境庁と静岡県はちゃんとチェックしてほしい。
ここには巨大な石門があった。

30分ちょっと歩いたので、ここでしばし休憩。5分ほどベンチに腰を下ろす。

まだまだ足は本調子ではない。
桜はさすがに終わってしまったようだ。

間もなく開けた場所に出た。北側展望台である。

烏帽子山と千貫門を見下ろす。

千貫門のアップ。高千穂峰のように見える。

烏帽子山。

雲見温泉の町並み。

萩谷崎方面。

西海岸の全景。やはり富士山は見えなかった。

振り返ると、頂上はもうすぐそこのようだ。

もうひとふんばり。

ほぼ平らな道だ。


ツルキンバイにタチツボスミレ、そしてツバキ。



この山はツツジの名所らしいが、少し早かった。

大きな桜の木に迎えられて

10:34、1時間弱で登頂。


ここからは南方面がよく見える。
正面に突き出ているのは、二十六山(311m)のある半島。

手前の島は、宇留井島。
北には烏帽子山が顔を出している。

かなり早いが、ここで昼食とする。私はいちごパン。

海を眺めながら、のんびり過ごす。

と言っても20分ほどで出発。

とりあえず波勝崎方面を目指す。

こちら側は、しっかりした階段が整備されている。


時々、展望が開けるのがありがたい。


丁寧な4か国語の看板。

下っている途中、軽装の若者カップルとすれ違った。
女性の方はスニーカーこそ履いているがロングスカートである。
明らかに車で観光に来て、「ちょっと登ってみようか」と山に入り込んできたような出で立ち。手をつないで男性がぐいぐい引っ張っている。
でも、女性も「こんなところに連れてきて~」なんて嫌がっている風ではなく、とても楽しそうだ。
しばらく我々は彼女たちの話題で盛り上がった。
(つづく)
【2015年4月17日(金)】西伊豆
北海道の足寄に住んでいる高校の後輩が出張で上京してくるというので、19日(日)に飲み会をセットして、facebookの高校山岳部に呼びかけたら、札幌に住んでいる同期のH君が合流するという。
「おお、北海道から2人も!」と喜んで、本人に直接連絡したら、「学会で名古屋に行くけど、その日の飲み会には出られない」という。
あれれ? よくよく聞いてみると、間違って「参加」にぽちりと押してしまっただけらしい。
でも、このやりとりで、18日(土)にH君がやはり同期のO君と西伊豆の高通山(519m)に登る計画をしていることを知った。
主宰者のO君は、私の足を慮って、私に声をかけるのを控えていたらしい。
「そこならおれも登れるよ~」と割り込むことにした。
前夜は雲見温泉の民宿に泊まるとのこと。
山も登りたいが、前夜の宴会にも参加したい。
しかし、雲見温泉は東京から見ると、伊豆の最奥地。
とても、勤務終了後に出発したのでは間に合わない。
というわけで、金曜日は午後半休を取ることにした。
当日は午後1時にそそくさと退社して、13:26東京発の新幹線で三島へ。14:19着。
三島駅では、裾野市在住のO君が迎えに来てくれていた。
H君もほぼ同じ時間に名古屋から三島に到着。
O君とは、骨折前週(1月)に蓼科山を登って以来。H君とは奥多摩での山岳部例会(3月)以来だ。
3人そろったところで雲見温泉に向かう。
ルートは修善寺、土肥経由。西海岸は海がきれいだが、かすんでいて富士山は見えない。
2時間ちょっとで、今夜の宿、民宿えびす屋に到着。


荷物を部屋に置いたら、さっそく温泉だ。
2人入るといっぱいのお風呂に大の男が3人で入る。

熱いので随分、水を埋めたが、3人まとめて入ったら、お湯が半分くらいあふれてしまった。
夕食までの時間、夕涼みに浜まで散歩に出かける。
すると、なんと海の向こうに、さっきは見えなかった富士山が浮かんでいるではないか。

これは見事だ。銭湯のペンキ絵を実物で見た感じだ。
みんな、「すごい」「すごい」と感激していた。もちろん私も。
気まぐれだったが、散歩に出て、ほんとによかった。
浜には鯨の供養碑もあった。

「雲見の浦に漂いきぬ大魚 こころ優しき人々により ここに眠る」
浜からは明日の朝食前に登ることにした烏帽子山(162m)のシルエットもよく見えた。

民宿のお向かいの商店で、お酒を買い込んで、部屋に戻る。


私は痛風なので、プリン体ゼロのビール。持ち込みだとこれが選べるのがいい。
やはり1杯はビールが飲みたい。
実はこの宿、お酒の持ち込みが自由で、「向かいのお店で買って下さいね~」と言われていた。
チェックアウトの時に持たされたお土産も、近所の店で買ったものだったし、ここの地区はお互い支え合って暮らしているようだ。
さすが漁師の宿、夕食は豪勢だった。


刺し身もさることながら、カサゴの煮付けが金目鯛に勝るとも劣らない旨さだった。
地酒は、伊豆市「万大醸造」の「伊豆の里」ほか。

満腹&酔っぱらってしまい、みな10時前には沈没。年寄りは早寝早起きだ。
【2015年4月18日(土)】西伊豆
翌朝は5時半頃、起床。ささっと準備をして出発。
民宿前の温泉街を浜に向かう。

文化十三年(1816年)に大洪水を起こし、9軒以上の家屋を押し流してしまったという太田川を渡る。

浜に出たが、今日は快晴なのに富士山が見えない。

右が夫婦(牛着)岩、左は獅子岩とでも名付けようか。

さて、烏帽子山登山開始。雲見浅間神社の鳥居をくぐる。


全国の浅間神社にはたいてい木花咲耶姫命(富士山)が祀られているが、ここや大室山など伊豆半島にはその姉である磐長姫命を祭神とした神社がある。
記紀によれば、姉妹の父である大山祇神は天から降臨したニニギノミコトに姉妹を差し出したが、容姿に劣る磐長姫命は返されてしまった。
磐(岩)は永遠の命の象徴なので、磐長姫命を捨てたニニギノミコトの子孫は、寿命の限られた存在になってしまった。
磐長姫命は美しい妹(富士山)を妬んだので、烏帽子山で富士山を褒めるとけがをするという言い伝えがあるという。くわばらくわばら。
まずは拝殿まで約130段の階段。

ご神木の夫婦松を過ぎる。

拝殿に到着。

ここにもパワースポットブームにあやかった企画が。

スタンプは押さなかったが、当然のごとく安全を祈願。

かたわらに牛頭天王。

さらに急傾斜の階段が一直線に続く。

まだ足が本調子ではない私は、2人のスピードにまったくついて行けない。
これは江戸城にも使われた、いわゆる伊豆石だろうか。

上から見下ろすと傾斜のほどがよく分かる。

階段の奥行きが狭くなり、風化して傾斜まで出てきたので、手すりが重宝する。

右手には烏帽子山の絶壁。

雲見浦や温泉街も眼下に。


320段登り切ると、中之宮。

ここで標高はほぼ130m。
この先は登山道で傾斜も緩やかになる。

ただ、木の根が張り出して、登りにくい場所も。

こんなガレ場もまだまだ歩きにくい。

だいぶ頂上に近づいてきた気がする。

これは2本寄り添っているから「相思の根」。

こんな何気ないところも、まだ怖い。

視界が開けて、東の山並みが見えた。

最後の登り。

頂上の本殿。

手水鉢。

本殿の裏にある大きな岩の上が頂上。

ふもとから20分ちょっとで登頂。わずか162mだが、海に突き出した岬なので高度貫は強烈だ。

南には千貫門。

これは直下の無名の岩。

千貫門のアップ。

沖合を行き交う漁船。

伊豆の海岸線。まるで飛行機から見下ろしているようだ。

雲見温泉の町並み。

本殿と北の海岸線。

この方向に富士山が見えるはずなのだが。

牛の鼻のような奇岩。

もう一度、千貫門だが、一番高いのがこれから登る高通山。

360度のパノラマを楽しんで下山。もうお腹が空いてきた。
その前にちゃんと参拝。

扁額は「御嶽浅間宮」となっている。

例の危険箇所を再び通過。

不思議な植物。これは何だろう。

中之宮を通過して、階段へ。

うう、下りも怖い。でも手すりにつかまればリズムよく下れる。

途中にある石段新設記念碑。昭和7年とあった。わりと新しい。

拝殿まで下ってきて、展望スポットに立ち寄る。



切り立った崖と深い入り江だ。
本当に海に突き刺さっている感じ。

説明板にこんなことが書いてあった。
烏帽子山と富士山はいつも天気が異なるので、なかなかお互いを見ることができない。
だから、磐長姫命の木花咲耶姫命に対する嫉妬伝説が生まれたと。

確かに今日も見えない。ここは伊豆半島ジオパークのひとつだ。
ここでクライミングをする人はいるのだろうか。

拝殿の手水鉢。ここで朝の清掃をしている方がいらしたのでご挨拶。

ラストの階段。

下り切ると、左手に鈴与の研修センターがあった。

まっすぐ帰らずに、想い出岬へ立ち寄ることにする。

港が美しい。

漁船が並んでいる。


想い出岬への遊歩道。

夫婦岩と「獅子岩」。

はい、岬に着きました。

振り返ると、今登ってきた烏帽子山の尖塔。

戻ります。

もう海辺も若葉が芽吹いている。


雲見の砂浜。

板の橋で太田川を渡る。
河岸には漁協直売所。まだ7時前なので開いていない。

このポストは、TBS系で2013年に放送されたテレビドラマ「とんび」に合わせてこの場所に最近移設されたものだという。ここがロケ地の一つだったようだ。見てなかったけど。


民宿の向かいの店には、こんな案内が貼り出されていた。

なつかしいホーローの看板。いずれも知らない。

7時10分すぎ、1時間ほどの朝の散歩を終えて、宿に戻る。
朝食は質素ながら、やはりおいしかった。とくに生ひじきが美味。
これは伊豆名産「さんぽの塩」。

というわけで、料理の写真を撮るのを忘れたけど、ごちそうさまでした。
(つづく)
【行程】2015年4月18日(土)
民宿(5:56)~登山口(5:59)~中之宮(6:11)~烏帽子山(6:21撮影6:27)~拝殿(6:43撮影6:47)~想い出岬(6:58)~民宿(7:10)
※所要時間:1時間14分(歩行時間:1時間4分)
※登った山:1座(烏帽子山)
※歩行距離:1.8km
【2015年5月4日(月)】鎌北湖
鎌北湖を訪ねている。
堰堤から少し奥まで行って、鎌北湖レイクビューホステルを見学。

ここも「営業しているのか?」といった雰囲気の店構えだったが、明かりはついていた。
ネットで検索してみると、安くて評判の宿のようだ。
しかし経営は厳しいだろうなあ。
真ん前が飯能の天覧山に至る総延長11kmほどの奥武蔵自然歩道のスタート地点だった。

その上の斜面がつつじの花畑になっていた。四季彩の丘公園という。

さて、駐車場まで戻って、宿谷の滝へ向かう。

家族連れのあとをついていく。階段がしばらく続く。

さらに行くと山道に。

間もなく峠。ここは標高約240mで、この日の最高地点。

この先は、ゆるやかな下り。

車道に出たら右折。

すぐに左手の階段を下る。

ちょうどお昼時になったが、食事の適地は通過して、まずは滝へ。

ここのところ雨が降ってなかったので、あまり期待していなかったが、なかなか滝らしい滝だ。


ただし、あまり清流ではない。

まわりには水にちなんだ神仏たち。


家族連れが遊んでいたので、ゆっくりできず、写真だけ撮って、後にする。
川沿いの遊歩道を下っていく。



数分で車道に出た。

埼玉県は川の表示が丁寧。

宿谷の滝は「宿谷瀑」として石碑に刻まれていた。

武甲鉱業のベルトコンベヤーの下をくぐる。

地形図によれば、これはこの先地下に潜り、日高市役所のとなりにある太平洋セメント工場まで通じている。
そのまま車道を行く。路傍にはマーガレットやアヤメなどの花々が咲いている。



お昼を食べる機会を失っていたので、河原の石垣に腰を下ろしてお昼にする。

ここにしたのは娘の提案。ちゃんとしたベンチがなくても気にしないところはえらい。
本日は、すじこのおにぎりと五目いなり。
食べ終わって出発しようとしたら、地元の方らしきおばちゃんが、河原に何かを摘みに来ていた。何だろう。

もちろん、お花ではない。

さて、富士山への道の入り口には標識がなかったが、地形図からして、ここで間違いない。

標識がないわりには、意外に整備された道。


標高差にして60mほど登ったところが峠。
ここが高麗神社方面と富士山方面との分岐だが、いきなり目立つ道標が出現。


これは見覚えがある。確か、高麗神社周辺には、このタイプのが数多く設置されているはずだ。
ここで針路を左にとる。

富士山への道は地形図には載っていなかったので、踏み跡程度かと思っていたが、こちらも意外に整備されていた。
しばらく行くと左手にピークへ直登する踏み跡があったので、これが頂上への道だと判断して左折。

しかし登り切ったところには何の標識もなく、稜線が右に続いている。
かなり手前で登ってしまったようだ。
でも、稜線にもしっかりした踏み跡があったので、そのまま進む。

頂上に近づくと、さっきの登山道が合流してきて、階段まで出てきた。

山と高原地図でもピークは巻いているように見えたので、わざわざ登山道をはずれたのに。
まあ、損したわけではないからいいや。
ピークには、ちゃんと山名板があって、うれしかった。

木造の社と石の祠もあった。さすが富士山。
しかし表記は「冨士山」になっている。地形図は「富士山」だ。
三角点は小さな四等。

ベンチがあったのでしばし休憩。
でも雲が広がってきて、遠雷も聞こえたので、そそくさと出発。
木々の切れ間から丹沢の大山が見えた。

急坂を下ると、御師岩なるものが出現。


その傍らには下浅間社。

御師岩は、かつて富士講の行者たちが禊を行った場所だという。
この岩の下には1km離れた高麗川沿いの金剛寺淵まで続いている空洞があって、その中に住んでいる白蛇の姿を山開き(6月15日)の朝に見た者はすべての願いがかなえられたという。
岩の上で足踏みをすると不思議な音色が聞こえるというが、何も聞こえなかった。
信心が足りないからか。
浅間神社の鳥居をくぐって下界へ。

舗装道路に出て、高麗川カントリークラブの横を下っていく。

今度はポピーが咲き乱れている。


路傍には、石仏や小さな社。


のどかだが、またまた日差しが戻ってきて暑い。

総合公園へ近道をしたら、橋の先に道がない。

道は、焼き物をしているらしき、この家のためのものだった。

しかし果敢に進むと、人の通れるほどの道はあった。
これを突き抜けると、山根六角塔婆。

貞和二年(1346年)の板碑を含め6枚(1枚は欠損)を六角形に組んである。


すぐそばに宿谷地蔵尊。

地元の武将・宿谷重本が寛文十二年(1673年)に建立したものだという。
さて、あとは戻るだけ。さいたまゴルフクラブの横を通る。

14:22、毛呂山総合公園の駐車場に無事、到着。
足も痛くならず無事でよかった。
帰りは狭山のCoCosに寄って、スイーツを食べて4時前に帰宅。

娘との半年ぶりの楽しいハイキングであった。
【行程】2015年5月4日(月)
毛呂山総合公園(10:48)~鎌北湖(11:26撮影・休憩11:37)~宿谷の滝(12:17)~宿谷川原(12:39昼食12:55)~富士山(13:24休憩13:34)~山根六角塔婆(14:05)~総合公園(14:22)
※所要時間:3時間34分(歩行時間:3時間5分)
※登った山:1座(富士山)
※歩行距離:8.3km
【2015年5月4日(月)】鎌北湖
前日の奥武蔵山行で足首を痛めてしまい、本日の娘とのデート山行が危ぶまれたが、夜中に念入りにマッサージして一番寝たら回復していた。
これなら、ゆるいコースなら歩けそう。中止にしないで済んで、よかった。
本日は、毛呂山総合公園から鎌北湖、宿谷の滝をめぐり、標高221mの「富士山」に登って戻る8kmほどの周回コースだ.
娘が起きるのを待って、9時半前に家を出発。
昨日の渋滞に懲りて、なるべく混まなそうな一般道を選んで行ったのだが、スタート地点の毛呂山総合公園までの22kmほどに1時間20分もかかってしまった。
駐車場はさすがに満車ではなかったが、暑い。昨日以上だ。

今年は、春は一瞬だけで、いきなり夏が来てしまった。
帽子がないという娘にマイキャップを貸して、自分は白いタオルを頭にかぶる。
念入りにストレッチをして、10:48に出発。
まずはマンホールをチェック。

これは、農業集落排水マンホール。毛呂山町の町章に町の鳥メジロ、町の木ユズ、町の花キクのデザイン。なかなか盛りだくさん。
産地直売センターのある交差点を左へ。まずは鎌北湖に向かう。

間もなく、県道から左へ分かれ、細い道を歩く。

娘が「トトロの世界だ~!」と、はしゃいでいる。


この程度で喜んでくれるなんて、ありがたいことだ。
山菜の無人販売所。いずれも1束50円で安かったが、通過。

のどかな道が続く。


馬頭観音を横目に、さらに歩を進める。



道は車が通れないほどになり、とうとう遊歩道に。


植林の中に入ると、日蔭ができて、ほっとする。
石碑があるとことを見ると、この道が昔ながらの生活道だったようだ。

明治三十四年の建立。
途中、ベンチというにはあまりに大味なベンチが、何か所か。

と思えば、こんなふうに絨毯を敷いて、テーブルが用意されているところも。

雨が降ったらどうするんだろうか。
道は大谷木川沿いをどんどん遡っていく。


そして、スタートから25分ほどで鎌北湖をせき止めている堰堤の直下に到達。

ここが大谷木川の起点だ。

藤の花もきれいに咲いていた。

急坂をえっちらおっちら登って、湖畔に。

娘から歓声が上がる。
鎌北湖は1929年に起きた世界恐慌の対策のために行われた公共事業のひとつで、農業用貯水池。1935年に完成し、当初は山根貯水池と呼ばれたという。
ダムの高さは22.6m、堤頂長は84m。

面積は4haの小さな湖だ。
検索すると、最近は心霊スポットとして知られているようだ。
つぶれたホテル「山水荘」の廃墟があるせいらしい。

窓が開いていて、カーテンが揺れていた。
とりあえず、堤頂に並ぶベンチに腰掛けて休憩。
すぐ目の前で釣り人が糸を垂れている。

ここではヘラブナが釣れる。
「サクサクしっとりチョコ」をつまんで一息。
落ち着く暇もなく、撮影がてらトイレに立つ。
目の前の瀟洒な建物は用水管理塔。


ボートもかなり出ていたが、さすがにごったがえすというほどではない。

桜や紅葉のシーズンの方がもっと人出はあるのだろう。
鎌北湖はこういう形をしている。

戦後、毛呂山町観光協会が「鎌北湖」と呼ぶようにしたらしいが、その由来がよく分からない。
「山根貯水池」は旧村名の「山根」から採ったものなので分かりやすいが、「鎌北」とは何なんだろう。
毛呂山町には鎌倉街道が南北に貫いているが、まさか「鎌倉の北」という意味でもあるまい。
堰堤の端には、湖名の銘板が埋め込まれている。

実篤書とある。町内に「新しき村」を開いた武者小路実篤に揮毫を頼んだのだろう。
「八十三歳」というから、計算すると昭和43年。
おそらく当時は、もっと多くの観光客であふれていたに違いない。
実は私もその15年後、1983年5月29日にここに来たことがある。
大学の自転車部の仲間と大勢で。その日は、吾野~顔振峠~鎌北湖~越生~長瀞と走ったようだ。
が、ほとんど覚えていない。
さびて朽ち始めているハイキングマップの看板。

すたれつつある観光地は、私にとっては最高の観光地だ。
これは湖畔にある食堂・売店の「福寿亭」。GWに店を開けていないということは、もう営業をやめたのだろうか。

こちらの「湖畔荘」もシャッターが下りているが、ペンキも真新しい。
とてもつぶれているようには見えない。

GWはシーズンオフなのか?
湖に投げ捨てる心無い人がいるのだろうか。絵に気持ちがこもっている。

こちらは駐車場にある売店「雪月花」。

しっかりと営業しており、釣り客に人気のようだ。
駐車場わきには「犬魂碑」なる碑があった。


埼玉県猟友会が昭和45年に建立したものだが、碑文は、気持ちが入りすぎて、意味がよく分からない。
犬に感謝する気持ちを後世に伝えようということのようだ。
ただ、「偉なるかな この壮挙伝えよ」と自画自賛しているのは、あまりいただけない。
となりには、鎌北湖の名物イノブタの碑。


どうやら、野生のイノシシと豚を交配して、イノブタ料理を創生したのは、心霊スポット「山水荘」の元主人・小山朝雄さんだったらしい。
名物になったということは、山水荘以外でも出していたのだろうか。
毛呂山町観光計画をネットで見ると、もう提供されていないようである。
(つづく)