【2015年3月21日(土)】青梅丘陵
昨年秋に中止になった、母校のfacebook山岳部の例会(オフ会)が3月21日開催された。
企画立案担当は私。今回は登山に10人、キャンプ場での宴会に15人という盛会となった。
骨折が完治していない自分は、登山は断念し、ひとりリハビリ班を編成して短い別コースを歩くことにした。
登山班のコースは奥多摩の高水三山。
集合はJR青梅線軍畑駅9:12とした。
私は登山班の余分な荷物(風呂道具や着替え、差し入れのワインなど)を預かるべく、車で向かう。
自宅を7時半過ぎに出発した。
リハビリハイクは、青梅丘陵ハイキングコースと決めているが、問題は車をどこに駐車して歩き始めるか。
いい場所を探しつつ軍畑に向かう。
事前に地図などを見て候補にしていたのは、青梅鉄道公園の駐車場や、沢井駅の対岸にある駐車場など。
青梅丘陵ハイキングコースは青梅駅から宮ノ平駅の背後の稜線を歩く4kmほどのコースだが、青梅側から歩くと、最後に登山道を一気に下らないといけないので、本当は宮ノ平側から歩きたい。
しかし宮ノ平駅周辺には駐車場はない。
青梅鉄道公園はハイキングコースの入口になるので、立地はいいのだが、逆コースになってしまう。
まあ、仕方ないか。鉄道公園から下ると、体育館の駐車場が空いており、「お、ここも候補になるな」とひらめいた。
次の候補地は沢井駅の対岸。行ってみると、もう満車。
ただ、そこに行く途中に見つけた軍畑駅対岸の駐車場は駐められそうだった。
ここに車を置くと、電車で宮ノ平まで移動しないといけないので、電車の時間の問題も出てくる。
第一候補:青梅の体育館、第二候補:軍畑駅近く、ということに決定し、9時に軍畑駅に到着。
すると、すでに札幌から遠征して来た2人組がすでに1本前の電車で到着していた。
それに、たくさんの人だかり。
天気は今いちなのに、やはり高水三山は人気らしく、大量のハイカーがさっきの電車から吐き出されたらしい。
ところが、トイレの数が限られているので、長蛇の列となり、みななかなか出発できないでいるのだ。
それでも、次の電車が来る頃にはほとんど人がいなくなった。
が、また大量のハイカーが下りてくる。
仲間が出てくるたびに、まずはトイレに急げと指令。
それでもまたあっという間に行列ができ、遅れて出てきた仲間たちは後ろの方になってしまった。
全員そろったところで、初対面の人もいるので、円陣を組んで、簡単に自己紹介。
私の同期が5人(男2人、女3人)のほか、2期上の男性、3期下の女性、4期下の男性、9期下の女性、20期下の男性の総勢10人(男4人、女6人)である。
女性が多いのがうれしい。
皆さんから荷物を預かって車に積み込み、出発を見送る(9:30)。

雨がぽつぽつ落ちていたが、なんとか持ちこたえてほしい。
さて、青梅行きの電車は9:42。駐車場に車を置いて、戻ってくるのに12分では到底足りないので、青梅に向かう。
体育館の駐車場にとめて出発したところで、管理人さんが建物から出てきて、体育館利用者以外はだめだという。
仕方ないので、青梅鉄道公園に移動せざるをえなくなった。

10時半にリハビリハイキングスタート。

ハイキングコースは基本的に巻き道なのだが、それでは面白くないし、あまりリハビリにならないので、稜線の踏み跡(右)を行く。

と言っても、この程度なのだが。

時々、ちょっと怖いとこもあるけれど。

踏み跡は間もなく、巻き道に合流。

しばらくは、稜線へ入ったり出たりの繰り返し。
まもなく左手にお宮が見えてきた。

裏から入る形になる。金比羅宮である。

西側には御岳山の遥拝所があった。

鳥居から見たところ。

鳥居のそばには、めずらしい石柱があった。

「十二方角碑」と呼ばれるもので、石柱を12面に面取りし、それぞれの方角(十二支)にある都市や山など名所の名前と、そこまでの里程や解説が漢文で書かれている。




高さ127㎝、太さ23㎝で、建立は寛政九年(1797年)。
この年に、金比羅宮が青梅織物の海上運搬の安全を祈願して、江戸・虎ノ門から勧請されているので、その際に奉納されたものと思われるという。

下部には、製作に関わったと思われる常保寺住職・支兀雪洞ほか地元の文化人、有力者12人の名が刻まれている。
説明版によると、「新編武蔵風土記稿」に「壺の碑(いしぶみ)に擬して」と書かれていることから、宮城県多賀城市に残る「多賀城碑」(762年建立、平城京や蝦夷などへの距離が記されている)を念頭に造られたものと思われるという。
書かれているのは、十二支の順番に、赤城山、日光山、筑波山、長嘴江、武城、房総、鎌倉、箱根山、富士山、大菩薩峰、駒嶽、浅間山の12か所。
全部きちんと見てくればよかったのだが、長嘴江と武城がよく分からない。
武城は中国の武城、長嘴江は長江のことだろうかとも思ったが、方角が全然違う。
当時の文人がどのような表現を使っていたのか、浅学のため全く分からないが、武城は「武蔵の城」ということで江戸城、長嘴江は「長江にもなぞらえられる大河」ということで、利根川と、とりあえず解釈しておこう。
境内からは青梅市街を見下ろすことができた。

ここは標高約270m。青梅駅の標高は約200mである。
江戸期の青梅の文化に触れて、引き続き、西へと進む。

ここは富士山が望めるスポットのようだが、この天気では無理。

舗装路を避けて、第一休憩所に立ち寄ってみる。


ここからは筑波山が見えるようだが、こちらもNG。

「風の子・太陽の広場」へ向かう道を右に分ける。

引き続き、第二休憩所へ立ち寄る。急な階段。

休憩所に行くたびに余計に登って、休憩しないのだから、話は逆だ。

下ってくると、観世音菩薩像。

ここにはいくつかの石碑、石塔が林立していた。



川乗山も見えません。

枝間の富士は心の目で見てください。


むらさめ広場にかかる叢雨橋。


この下は切通になっており、かつては生活道が通じていたようだ。
本日の最高地点・矢倉台まであと2km。まだ1kmしか歩いていない。

前方に山らしきものが見えてきたが、もちろん無名。


植林の中の暗い道をひたすら歩く。

そして、第3休憩所も運動のために立ち寄る。

ここには、こんな置き土産(?)が。

天気がよければ、ほんと休憩にはちょうどいい。

矢倉台まで1kmの地点は開けた場所。

眼下には青梅西寄りの市街地が見える。

そして第4休憩所。


少々、眺めを楽しめる。


もう、稜線の踏み跡に入るのは止めて、歩きやすい道を進む。

さあ、あと200m。

ここでトイレを済ませる。
矢倉台へは最後に急な登りが待っている。

ここで、知的障害の方々の団体とすれ違った。楽しんでいるようで何より。
矢倉台はその名の通り、物見櫓の跡だった。

説明版によると、戦国時代、青梅を治めていた三田氏ははじめ東青梅の勝沼城に拠点を置いていたが、北条氏照による八王子滝山城入城に伴い、二俣尾の辛垣(からかい)山に城を築いた。
この物見櫓は辛垣城の南東約3kmの地点に位置し、戦略上重要な場所であった。
「武蔵名勝図会」には「三田氏居城のころ、この山に砦を構えて遠見の地なりしゆえ、この地をまた櫓台ともいう」と書かれているとのこと。
それだけあって景色もいいのだろうか。今日はこんな感じ。



5分ほど休憩して出発。
ここからは等高線と直交して、急坂を下る。

でも、すぐに平坦に。

巻き道と交差して、あまり歩かれていないような植林の中の道を下る。


ここは当初は登りで歩こうと思っていただけに、やはり下りはつらい。
標高差が150mもある。

なんとか下ってきたところは、何かの施設の中。


正規のコースに合流して、宮ノ平駅に向かう。

11時半すぎに駅に着いたが、次の青梅行きまで30分もある。


バスの便がないか、バス停まで行ってみたら、「臨時バス停です」と張り紙があった。

1駅だし、青梅駅まで歩いてしまおうかと思ったが、ちょっと足がむくんできている気がするし、素直に電車を待つことにする。
待合室で昼食。「おにぎらす」をほおばる。
12:05の電車で青梅へ。


1駅なので、すぐ青梅に到着。

ここは映画看板そして赤塚不二夫の街だ。


急ぎ、車をとめてある青梅鉄道公園に向かう。

駅前にはセンバツに出場した東海大菅生高校応援の幟が出ていたが、この日あっさり負けてしまった。

青梅のマンホールを確認。


鉄道公園まであと300m。

途中、素敵な木造の家がいくつか残っていた。


こちらは改修して喫茶店になっている。


最後の登りは、桜見本公園の中を突っ切っていく。


はい、到着。

ここから、今夜の宿泊所兼宴会場の川井キャンプ場に車で直行。
このバンガローが今宵の宿。

13時過ぎには、炊事班の女性2人も到着。
今夜のメニューはすごい。とてもキャンプとは思えない。
焼肉は牛、豚、鶏取りそろえて大量に。
まずはけんちん汁で温まり、北海道の仲間ならではのチャンチャン焼き、そしてなんとパエリア。ごはん代わりに手作りパンを焼いて、デザートは焼きリンゴ。

登山班10人に加え、炊事班含め5人が駆け付け、総勢15人の大宴会。

肉を焼き続けてくれる人、火の調節を怠らない人と、みな進んで役割を担ってくれ、すばらしい例会となった。
地酒の澤乃井と千代鶴も堪能。

ご馳走の下拵え中に、登山班からあと30分で下山するとの連絡を受け、車2台で御岳駅まで迎えに行く。
全員そろったところで、奥多摩駅近くの「もえぎの湯」へお送りする。
皆さん入浴中、私は外の足湯で患部のマッサージ。


念入りにしていると、係りの人に「もう閉めますので」と声をかけられた。
「え、何時まででしたっけ」
「4時です」
時計を見ると、もう4時20分。
「あら、すいません。すぐ出ます」
あわてて、靴下を履いて飛び出す。
みんなもさっぱりして出てきたので、今度はキャンプ場までお連れする。
宴会は5時半くらいから始まった。
日帰り組は9時前くらいから帰宅の途につき、10時前にはお開き。
泊まり組の男女6人はバンガローに戻って、もうひと飲みして、11時過ぎに就寝。
翌朝は、帰宅する1人を御嶽駅に、大岳山に登る4人を御岳山ケーブルまで送って解散。


みんなと一緒に登りたかったが、夜に大いに盛り上がったので、満足。
次は初夏に日帰り例会をしたいものだ。
【行程】2015年3月21日(土)
青梅鉄道公園(10:00)~金比羅宮(10:12撮影10:17)~第4休憩所(10:52)~矢倉台(11:10休憩11:15)~宮ノ平駅(11:42昼食12:05)=青梅(12:08)~青梅鉄道公園(12:22)
※所要時間:2時間22分(歩行時間:1時間46分)
※登った山:1座(矢倉台)
※歩行距離:4.9km
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【2015年3月24日(火)】円海山・大丸山
円海山(153m)をあとにして大丸山(157m)に向かっている。この間、かなり長い。
道は基本的に広く平らだが、こんな場所があると足をひねりそうで、まだちょっと緊張する。

健常時のように、木の根の上を気軽に足をのせることはできない。
さて、金沢の森を過ぎて、横浜自然観察の森の区域内に入る。

いっしんどう広場から休憩2回をはさんで、ほぼ1時間。
やっと大丸山への入り口に到達。

ここから136段の階段が続く。


階段は日頃から地下鉄などの駅で鍛えているので、あまり苦にならない。
かなり急だが黙々と登る。
この標識も分かりにくい。

下向きの矢印に×が付いているので、登っている人にとっては「戻るな」と言われているような気分になる。U字形の矢印は下に置くべきだろう。
業者に設置させているのだろうが、市はちゃんと監督して、やり直しさせないと。
3分ほどで頂上に着いた。

ベンチがたくさんあって、かなり広い。
3~4組のハイカーが休んでいる。みなリタイヤ組ばかりだ。
一番端っこのベンチにザックを置いて、とりあえず撮影。

ここはめずらしく四等三角点だった。ここは横浜市最高峰である。標高157m。

二等、三等よりひとまわり小さい。
景色は金沢方面の住宅地と東京湾を挟んで房総半島も見える。

野島公園(右の山)と住友重機の造船所。

金沢文庫周辺の住宅地。

横須賀方面。奥の右に房総半島の鋸山(330m)と富山(349m)が見える。

三浦半島の山々。

ベンチに戻り、再び水分補給。一息つく。ここでは15分ほどのんびりした。
さて行くか。
階段を下りて、稜線の西側を巻くように進む。

この道はどこまでも行くと、鎌倉アルプスに通じている。
今回はもちろん欲張らない。
このあたりはコナラの道というようだ。

左の階段を少し登ると広場に出る。関谷奥見晴台だ。

見晴台というわりには、それほど何かが見えるってわけではなかった。

そのまま通過する。
遊歩道に戻り、終盤戦。

すでに7kmも歩いているので、少し疲れが出てきた。
元気な時なら、どんどん走れる道だが、もう3時間近くかかっている。
まあ、リハビリなのだからしかたない。
行き交うハイカーたち。

まもなく、鎌倉方面とバス停への分岐。

当方はここで右に折れ、バス停に向かう。

当然ながら下り。

この程度の岩場もまだちょっと怖い。右の土の上を歩いたけど。

最後は階段。

横浜自然観察の森への入口。

バス停には14時過ぎに到着。なんと横浜霊園前。

ベンチに座って7、8分待ち、金沢八景駅行きに乗車。
15分ほどで駅に到着。

車内で、帰り道にいい温泉がないかと検索したら、鶴見駅からバスで5分ほどのところに「ヨコヤマユーランド鶴見」という施設を発見。
そこに行くことにした。
京急鶴見駅に向かう。
鶴見駅からのバスの時間がよく分からないが、とにかく腹ごしらえ。
昼前にそばを軽く食べただけなので、お腹がすいた。
本当は回転寿司が食べたかったが、その辺には見あたらず、JRの駅ビル内にあった日高屋にした。

それほど美味しくもない炒飯と餃子3個を食べて、バスターミナルへ。
ユーランドのHPの記述が実際のバスの乗り場が違っていたが、ひとつひとつ確認し、29番系統の横浜駅行きに乗り込む。

5つ目くらいのバス停「下末吉国道際」で下車し、徒歩5分ほどでユーランドに着いた。


昭和っぽいネーミングだなあと思っていたら、入ってみると、やはり少し古かった。
浴槽は露天風呂も含め、あれこれたくさんあったが、天井にカビが生えていた。
帰りは17時の川崎駅行き無料シャトルバスに乗ることにして、1時間ほどゆっくり。
天然温泉で、すこし塩分があり、色も若干茶色っぽかった。
帰りのバスは結構、客が乗っていた。


JR川崎駅から京急川崎駅へ移動。

川崎市のマンホールをチェック。

これで帰宅といきたいところだが、実はどうも骨折の手術をしてもらった病院の主治医が信用できず、最近、同級生が大森で開業した整形外科に寄ってから帰ることにした。
主治医の態度は入院中から何となく気になっていたのだが、退院後2回目(3月17日)の外来診察の際、そのマイナスイメージは決定的となった。
骨折後、親指の付け根(側部)が痛むようになり、病室で診察を受けるたびに、「ちょっと痛いんですよね」と訴えてきたが、「骨折に伴うものだと思うので、心配ない。気になるなら痛み止めの塗り薬を出しておきましょう」というので、しばらく様子を見ていた。
痛みはそれほど強いものではないし、痛くなったり、治まったりの繰り返し。
だが、いつまでたっても、完全に治まるということがない。
親指が痛いと、ふつうに歩く時の、踵から爪先への体重移動がうまくできず、びっこを引く形になってしまうし、リハビリにも支障が出る。
次第に赤く腫れてきたので、2回目の診察の時に、「腫れてきてしまいました」と話すと、触診もせず、見た瞬間「これは外反母趾です」と言い出した。
「え、骨折のせいですか?」
「いえ、全然関係ありません」
(はあ?)
だって、この前は「骨折に伴う痛み」と言ってたじゃないか。
診断が変わることは別にかまわないが、この人は完全に、前に自分が言ったことを忘れている。
覚えていたら、「ああ、これはやっぱり外反母趾ですね」くらいな言い方になるだろう。
私が、骨折に関係あるのかと聞いても、平然と「関係ない」と言い放つくらいなのだから、「前は違うこと言ってたじゃないか」と問いただしても、適当にごまかされるだけだと思い、この人に診断の変化の真意を問うことはやめることにした。
とにかく、「どうすれば治りますか」とだけ質問。
「治りません。治療法もありません。痛み止め塗るくらいですね~。出しておきますか」
「いいえ、塗り薬はもうもらってますから」
そんなやりとりをして病院をあとにする。
しかし、本当に外反母趾なのか。
ネットで見ると、親指が外反する角度が15度以上を言うと書いてある。
どう見ても、そんなに曲がっていない。
セカンドオピニオンを求めて、翌々日、会社内にある診療所の整形外科を訪ねた。
事情を説明し、セカンドオピニオンを聞きに来たと伝えると、その先生も見た瞬間、
「これは外反母趾ですよ」と断言。
しかも、「セカンドオピニオンがほしいなら、こんなところに来ないで、足の専門家のところに行った方がいい。私だって間違っているかもしれない」と、なぜかけんか腰なのである。「手術を受けた病院の方がレントゲンもあるし、データがある。こちらには何もないんだから」と、私が何か悪いことをしたかのような言いっぷりなのである。
「セカンドオピニオン」という言葉に過剰に反応してしまったのだろうか。
仮に外反母趾だったとしても、外見上かなり軽度なものだと自分では思う。
それを医者というのは、触診もせず、「ここは痛いですか」とか聞きもせず、分かってしまうほど天才なのだろうか。
そのくせ、「私も間違ってるかもしれない」なんて言うんだから、よく分からない。
挙げ句の果てに、「あなた、外反母趾であることを受け入れた方がいいですよ」とまで言われてしまった。
別に外反母趾でも何でもいいんだけど、だったら今後どうすればいいのかを指導してほしいだけなのだが、それを聞く気も失せてしまった。
全く何が気にくわなかったのだか。
まあ、そんな経緯があり、友人を訪ねることにしたわけだ。
彼はちゃんとレントゲンも撮ってくれ、きちんと触診、問診してくれた。
結論は痛風だった。
レントゲンで見る限り、「全く正常な骨」だった。「外反の角度も10度以下だし、5本の指の骨が広がっていない」という。
尿酸値は7の後半から8の前半(問診)。
「今まで発作が出たことはなかったし、最近高くなってるわけでもないんだけど」と訪ねると、骨折によるストレスで発症したのだろうという。
痛風というと、ものすごい激痛だと思っていたが、こういう症状もあるらしい。
痛みがとれるまでは、ロキソニンで痛みを抑え、治まったらフェブリクを服用する方針とした。
骨折部分はもう断裂の線も見えなくなっており、きちんと付いているようだ。
手術した場所がまだ赤く、熱感があることについても、炎症があるかどうか血液検査をしてくれた。
ずいぶん安心した。やはり持つべきものは友である。
石ちゃんが取材に来た肉のおいしい洋食屋で食事をして帰宅。

しかし、克服すべき課題が一つ増えた。頑張らなくては。完全復帰の道はまだまだ遠い。
【行程】2015年3月24日(火)
港南台駅(11:13)~遊歩道入口(11:33)~いっしんどう広場(12:01)~円海山(12:14)~氷取沢分岐(12:31休憩12:36)~(休憩5分)~大丸山(13:25休憩13:40)~関谷奥見晴台(13:50)~横浜霊園前バス停(14:10)
※所要時間:2時間57分(歩行時間:2時間32分)
※登った山:2座(円海山、大丸山)
※歩行距離:7.4km
【2015年3月24日(火)】円海山・大丸山
22日(日)の代休が24日(火)にとれた。
久々の冬型の気圧配置で天気がいい。リハビリハイキングに行かねばなるまい。
今回は、先月トライして途中撤退した横浜の円海山(153m)と大丸山(157m)のリベンジを果たそう。
今日なら富士山が見えるかもしれない。
みっちり朝のリハビリをして足首を柔らかくしてから出発。
新所沢駅発は9:04。
池袋から湘南新宿ラインで大船へ。
根岸線で少し戻って、港南台駅には10:58に到着。
朝食は食べてきたのだが、小腹がすいたので、駅構内のそば屋でかき揚げそばをかっこむ。

これで、弁当はとくになくても大丈夫だろう。
大学の頃、この駅周辺に友人が住んでいたので、来たことがあるはずだが、30年以上前のこととて全く記憶にない。

駅前にこんなモニュメントがあったが、何者かは不明。

駅の西側で線路と直交する道路を左へ進む。11:13スタート。

おなじみ横浜市のマンホール。

横浜女子短期大学を過ぎたところで、環状4号線に突き当たり、ここを左折。
消防署の手前を右に折れ、ゆるやかに坂を登ると、横浜栄高校の校庭を見下ろすフェンスにぶつかる。ここを左へ鋭角に曲がる。
ここから円海山への遊歩道となる。

このあたりで標高約80m。
早速、住宅地の向こうに富士山が姿を見せてくれた。

しばらくはまだ舗装道路が続く。

3分ほど歩いたところに車止めがあり、なにやら手書きの標識が。

右には、車止めの鍵を壊す者がいる、見つけたら警察へ通報をと、昨年7月の警告。

左には、今年2月にまた鍵が壊されたとの怒りが。

不届きな奴がいるものだ。この先どうしても車で入りたいところとは思えないのだが。
この道は丘陵のほぼ稜線上にあり、右手には畑が点々と広がっている。


路傍にはハナヒラやタンポポが咲いている。もう春なのだ。


写真を撮りながら、ゆっくり歩いている間に、就学前の子供たちに抜かれてしまった。
とくにショックではないが、それなりに思うところはある。
左はフェンスで囲われているが、この向こうは「港南台さえずりの丘公園」だった。


おお、右手に再び富士山。


富士山をまともに見るのは、退院後は初めてかもしれない。
左は箱根の山々。

正面には大きなコブシの花と電波塔(ツーカーセルラー東京・円海山BS)。


このあたりの畑はこじんまりしていて、実に雰囲気がいい。

車止めから20分ほどで、いよいよほんとに車の入れない道に突入。

でも整備された歩きやすい道である。

まもなく、いっしんどう広場に到着。


ここにはベンチがたくさんあって休憩にはもってこいの場所だが、まだ1時間も歩いていないので、分岐を左に進み、まずは円海山を目指す。
地図で見ると、遊歩道はピークを通過していない。
果たして、頂上には行けるのだろうか。
しばらく行くと、左手にフェンスがある。でも侵入できる程度の隙間が空いている。

当然、突撃する。すると、ヘリポートに出たが、ここが頂上ではない。

方角的には、このヤブの中を進まなければならない。

ずいぶん我慢してヤブこぎしたが、またまたフェンスにぶつかってしまい断念。
このヤブこぎで衣服がかなり汚れてしまった。
足がまだ不自由な分、体力的にも少々消耗した。
さっきの抜け穴から脱出して、見えている柵の方へ念のため行ってみると、そこに頂上の標識があった。

柵の中には展望台のようなものがあるが、今は立ち入り禁止。なぜだろう。

あの下に三角点があるのだろうか。いずれにしろ、これは「登った山」として十分認定できる。
さっきから、近くでがさごそする音が聞こえるので、何だろうと思ったらリスだった。
ヤブの中から飛び出して、木の上にするするっと登って行った。

後で知ったことだが、このリスはタイワンリスのようだ。
もともと動物園で飼われていた外来種で、逃げ出して野生化したらしい。
競争相手や天敵がいないので、鎌倉から横浜の丘陵地帯でどんどん数が増えているとのこと。日本のリスより、ひとまわり大きい。

さて、次の大丸山に向かおう。
遊歩道に戻って、そのまま直進。ゆるやかに下っていく。

NHKのFM放送所を過ぎたところで、いやな予感がして、地図を確認。

ああ、やっぱり。大丸山方面に行くには、いっしんどう広場まで戻らなければいけなかったんだ。
でも、5分ほどのロスで済んだ。
広場に戻ってくると、写真には写っていないが、3組くらいのハイカーがそれぞれお昼を食べていた。
今日は平日だが、やはりリタイア組を中心に、結構ひとが入っている。

考えてみれば、もう12時半だ。
市街地を歩いている時に自販機でアクエリアスは買っておいたが、不運にもコンビニがなかったので、行動食を調達できていない。
ちょっと休みたかったが、食べるものもないし、しぶしぶ前進。

でも3分ほどで、氷取沢市民の森方面への分岐に出て、そこにベンチがあったので、やっぱり休むことにする。

ここは「ガールスカウトの森」と呼ばれているようだ。

道にダウンが落ちていたので、看板にかけておいた。
全く汚れておらず、ついさっき歩いた人が落としてしまった代物のように思えた。
水分を補給して、5分ほど休んで出発。

道の中央がぬかるんでいる場所が多く、杖をついている身としては歩きにくい。

切り通しを抜けると、「円海山周辺の森」の標識。かながわの美林50選らしい。


少し下ったあとは、しばらく平らな道が続く。


この看板がちょっと気になった。

日本語として少し変だ。歩きながらの喫煙は禁止という意味なのだろうが、立ち止まって吸うのはいいのだろうか。
いずれにしろ、「禁煙」だけでいいのではないか。
A7の分岐点で、右に折れてみる。
すぐ先に梅沢山休憩所というのがあるからだ。
ピークだったら「登った山」の一つにできると思ったわけだが、そうではなかった。

背後に小山があったが、道もないので、この足では登れない。
「登った山」を稼ぐことはできなかった。
この休憩所は民家と接する場所にあり、庭にはきれいな菜の花が咲いていた。

稜線上の遊歩道に戻る。
まもなく、ベンチのある雰囲気のいい場所があったので、2度目の休憩。

ベンチには、こんな説明板が打ち付けてある。

ここでも休憩は5分ほど。食べるものがないと時間がもたない。
老夫婦が通り過ぎていったので、それを追いかけるように出発。

大きな切り通しを抜け、さらに平らな道を歩いて行く。


このあたりの標高はだいたい120mほどだ。
休憩地点から15分ほど歩いて、金沢の森に進入。

右手が開けて、庄戸の新興住宅街が見渡せた。


もう富士山は雲に隠れて見えなくなってしまっていた。
(つづく)
【2015年3月15日(日)】三毳山
前夜は高校の同窓生Sさんとともに、宇都宮市大谷の栃木県勤労者山岳連盟の事務所に泊まった。たっぷり寝て、7時半に起床。
Sさんの炊事で、おそばの朝食。キットカットのチョコでコーヒーもいただいた。
骨折後初の和式トイレで用を済ませ(なんとかしゃがめるようにはなっていた)、9時前に出発。
関東平野北部の田園地帯を車でほぼ1時間。
やっと正面に三毳山(みかもやま)が見えてきた。

みかも山公園の南口に着いたのは、午前10時頃。
ここに車を置いて、さっそく歩き始める。

スタート地点は、フラワートレインの南口停車場だ。


このあたりで標高約40m。
トレインの走る舗装道路から分かれて、急坂を一気に160mも登る。

最初は階段なので、足馴らしにちょうどいい。

すぐに古い灯篭を通過する。

夏道の2足歩行としては骨折後初のリハビリハイク。
いきなりの試練だが、登りはそれほど苦にならない。
一度、舗装道路を横断する。

そしてまた階段。

しばらく登ると、日本武尊の足跡石。

この先、岩を削った階段が増える。踏みはずさないよう注意して登る。


左手には一応、杖を持っている。
再び車道に出ると、正面が三毳神社奥社に向けての最後の階段。

階段から関東平野が一望できるが、今日は曇り空であまり遠望はきかない。

ふもとから25分で神社に到着。


ここで標高は約190m。なかなか景色がいい。
足の早期快癒を祈願して前進。

今日初めての下り。

ただ、それほど起伏はない。

蝋燭岩を通過。

ろうそくの芯ではなく、炎に似ているということらしい。
鞍部はハンググライダーの離陸場になっている。


眼下には陸の松島と呼ばれる関東平野の中の小山群が見える。


中岳(210m)へは、ここからひと登り。

神社から10分ちょっとで中岳に着いた。


ここには、10人近いハイカーが休んでいた。

ベンチが空いたので、数分休憩。
ここの三角点は、標高が低いわりに二等だった。

この先は本格的な下り。足首が心配だったが、慎重に歩けば、それほど突っ張ることも痛むこともなく快調に下れた。
下り切ったところで車道に出る。
山頂広場と呼ばれる場所で、東屋があった。通過する。

ここからわずかに登ったところに犬石がある。

標識を読むと、北から見ると、犬に見えるとのことだが。

二人とも想像力に乏しく犬には見えなかった。
さらに100mほど進むと

もう一つの犬石。

でも、こちらは「犬」ではなく「役人」(威奴:いぬ)のことのようだ。
ここで三毳の関の役人が見張りをしていたから、その名が付いたと言われるという。

さらに下って、再び車道を渡る。


そこが「みかもの関跡」。


古代、ここを東山道が通過していたようだ。
かたわらに道祖神が祀られていた。

ここからは少し登ると、花籠岩。

僧がこの上で、五穀豊稔・村内安穏を祈願して一週間経を唱えたところ、村民が競って花籠を捧げたと伝えられている。
正面に三毳山のシルエットが見えてきた。

しばらくは平坦な道。


平らな道ならだいぶすいすい歩けるようになった。
浮石などがない限り、やはり舗装道路よりは土の上の方が歩きやすい。
調子が悪かったら東口もしくは西口に下りて、フラワートレインで戻ることも考えていたが、極めて快調。そのまま前進する。
団体さんとすれ違う。


その後、再び道路を横断。

三毳山(青竜ヶ岳、229m)は最後に標高差70mほどの急登があったが、それほど気にならなかった。


11:40過ぎに山頂に到着。

こちらの標識は両端が折れて「毛」ばかりの字になっている。

山頂にはデジタルテレビの中継局が立っており、狭い。

Sさんは「前はこんなのなかったのに、興ざめだなあ」と嘆息。
彼はお子さんが小さい頃、背負って来たことがあるらしい。
西には佐野市街がよく見える。しかし、やはり遠望はきかない。


ちょうどお昼時だったので、ここでランチにする。
お互いにパンだ。
私はおにぎりでもよかったのだが、カルシウム補給のため牛乳を飲まないといけないからパンを選択した。レーズンバターロール4個。
Sさんもウエストバッグだけで来ているので軽食だ。
ちょっと下ると岩場に雷電宮が祀られていた。


この先は一気に150mほど下る。階段が多い。


途中、展望台があったが、とくに何が見えるというわけでもない。

かなり下ってくると、カタクリの里のエリアに入る。
でも、まだ全然早いみたいで、その気配もない。

寄り道はせずにまっすぐ下る。

下り切ったところに、カタクリ群生地の看板があったので、ちょっとだけ立ち寄ってみる。

しかし、まったく咲いていない。

野外音楽堂の下で郵便局の人が、カタクリの切手を売っているだけだった。

群生地をあとにして里に向かうと、カタクリの代わりに水芭蕉が咲いていた。

ちょうどいい可憐な時期。
アマチュアカメラマンが熱心に写真を撮っていた。

まわりには紅白の梅も咲いていた。


管理センターに立ち寄り、Sさんが西口広場への道を聞いてくれた。

歩いて15分ほどだという。
南端から北端に縦走すると、タクシーを呼んで南口に戻るしかないなと出かける前は思っていたので、このフラワートレインはありがたい。
センターの横には、みかも山を詠んだ万葉歌碑がたたずんでいた。

「下毛野(しもつけの)みかもの山の小楢のす まぐわし児(こ)ろは誰(た)が笥(け)か持たむ」(東歌)
(訳)下野のみかもの山に生えている小楢のようにかわいい娘はいったい誰の妻になるのだろう。
西口公園へは工業団地の中を突っ切っていく。

途中、「さーのって号」のバス停。

「さーの」は佐野と掛けているのだろう。
みかもの山を振り返る。


味気ない道ではあったが、マンホールはしっかり確認。中央はオシドリのようだ。

25分ほどかかって西口公園に到着。

時刻表を見ると、次の便は13:30。


あと15分ほどあるので、近くのお土産物屋「香楽亭」をひやかす。

ここで、Sさんは花柄の傘を求めていた。
なんでも、人に傘をプレゼントするのが好きなんだそうだ。
気に入ったのは、青い傘だが、それは現物しかないそうで、それでもいいと。
「負けてくれたら、もっといいけどね」とおちゃらけていた。
フラワートレインという名の電気自動車は定刻の7分前ほどに着いたが、運転手がどこかに消えてしまったので乗れない。

発車時刻ギリギリになって戻ってきて、やっと乗れた。
ビニールの覆いがかかっているが、これがないと確かに寒そうだ。

お客さんはわれわれのほかに女性1人のみ。彼女は関係者のようだった。
トレインは電気自動車のくせに汽笛をならし、蒸気音がする。
そして、実にゆっくり走って、万葉庭園に停車。

この先トレインは「わんぱく広場」に向け、つづら折りの道をぐいぐい登っていく。
20分ほどで「わんぱく広場」に到着。

乗り継ぎ列車までは15分ほど時間があるので、付近を撮影。
子供たちが大喜びで、飛び跳ねている。

そうこうしているうちに、3本の列車が集まってきた。
コスモス号。

キスゲ号。

勢ぞろい。

そうこうしているうちに、南口行きが14:05に発車。

今度は10分とかからず、駐車場前に到着した。
「山と鉄」としては、これも「乗車」した区間に加えておこう。
初めて見た「とるぱ」。

名も知らぬ花が咲いていた。

さて、昨夜お風呂に入れなかったので、日帰り温泉に向かう。
スマホ検索で見つけた栃木市の「湯楽の里」に行くつもりだったが、途中、岩舟町総合運動公園内に「遊楽々館」があったので、そこに飛び込む。

「湯楽」は790円だが、「遊楽」は300円だ。
どちらかというと銭湯に近く、空いていたのでありがたかった。

この後、Sさんは大阪へ出張だというので、駅前に車を駐められるJR小金井駅に向かう。
駅周辺には車通勤する人用なのか、いくつも駐車場があり、当然ながら駅に近い方が安い。
大手は「当日700円」とあるが、2日目からはべらぼうに高いとのこと。
どこも埋まっていたが、1日あたり500円のところを見つけて、そこに潜り込んだ。
支払いのシステムがなかなかユニークだった。
料金を入れた袋にナンバーを書いて、鍵の掛かった料金箱に入れるだけ。
前金なので、支払っていない車はナンバーを警察に通報されるのかもしれない。
16:26発の熱海行きに乗車。


このまま熱海まで行ってしまいたかったが、大宮で乗り換え。
ここで、Sさんにはバイバイして、川越に向かう。
川越で横浜家系ラーメンをいただいて、7時すぎに帰宅。
歩いた距離は5kmほどだったが、足に痛みが出たりもせず、いいリハビリになった。
Sさん、いつもながらありがとうございました。
【行程】2015年3月15日(日)
みかも山公園南口(10:10)~三毳神社奥社(10:35休憩10:38)~中岳(10:50休憩10:53)~三毳関ノ跡(11:13)~三毳山(11:41昼食12:03)~カタクリ群生地(12:33)~カタクリの園(12:42撮影12:49)~西口広場(13:15)
※所要時間:3時間5分(歩行時間:2時間30分)
※登った山:2座(中岳、青竜ヶ岳)
※歩行距離:5.1km
【2015年3月14日(土)】奥日光
骨折からほぼ2か月が経過し、まだぎこちないながらも2足歩行ができるようになった。
スキー場が春季休業に入る前に、お礼のご挨拶に伺うことにした。
あの日は、スキー場の救護班の方に大変お世話になった。
ぜひとも、無事歩けるようになったお礼を言いたかったのだ。
自力で行くつもりだったが、あの日同じパーティーにいたSさんも同行してくれる、というか連れて行ってくれるという。
なんて、いい人なんだ。せっかくなのでお言葉に甘えることにした。
14日午前9時半ごろ、自宅を出発。
川越駅前の「くらづくり本舗」でお菓子の詰め合わせを購入。

川越線、宇都宮線経由で宇都宮へ。
この日は、北陸新幹線の開業日であったが、同時に上野東京ラインの開通日でもある。
宇都宮駅の電光掲示板に、熱海行きの電車が表示されているのを見て、感慨深いものがあった。

宇都宮にはちょうどお昼時に着いたので、名物の宇都宮餃子を食べたい。
Sさんからは、ちょっと遅れるので、東口の「みんみん」に並んでて下さい、ちょうどいい頃に着くと思うから、という連絡が入った。
店に行ってみると、この行列。

「ホワイトデーにわざわざ餃子を食うな~!」と言いたくなるくらい。
基本的に並ぶのが嫌いな私は、餃子は断念。
それにしても、東口は餃子タウンだ。




Sさんのお奨めにより、少し郊外へ走り、THE FLYING GARDENで爆弾ハンバーグを食すことにした。


このチェーン店は栃木県小山市に本社があるようだ。
結構混んでいるだけあって、とてもおいしかった。
ライスはおかわり自由とのことだが、もうこの年では1杯で十分である。
お腹がいっぱいになったところで奥日光に向かう。
天気は良好で、男体山が雄雄しい。
いろは坂に差し掛かると、道路わきにはまだ雪が残っている。
中禅寺湖を見て、随分今シーズンは日光に来たなあと改めて思う。
今回は登山ではないが。
奥日光には、まだかなり雪が積もっている。
道路などは雪の壁だ。
奥日光湯元スキー場はそれなりの賑わいだが、休日にしては少ないような気も。

スキー人口はやはり減っているのだろう。
救護所の前には、私を救助してくれたスノーモービルやスノーボートがあった。



その節は本当にお世話になりました。
そんな予感もあったのだが、あの日お世話になった救護員の方はこの日はいなかった。
直接お礼を言いたかったので残念だが、そこにいた方に「くれぐれもよろしくお伝えください」と申し上げて、辞去してきた。
さて、まだ時間は3時。まっすぐ帰るのはもったいない。
足湯にでも行こうかと思ったら、冬季閉鎖中。

それではということで温泉寺に。

温泉寺は世界遺産「日光山輪王寺」の別院。
日光を開山した勝道上人が延暦7年(788年)に湯元温泉を発見し、病苦を救う薬師瑠璃光如来像を祀ったのが始まりだという。

昭和41年に台風のため薬師堂は崩壊。今の建物は昭和48年に再建されたものだそうだ。
ここで足の早期快癒を祈願。
その後は、すぐ横に広がる源泉の見学に出かけた。

雪原に道がついているが、夏靴なのでちょっと歩きづらい。
湯が流れているところは、雪が解けている。


においはそれほどきつくなかったが、硫化水素に注意を促す看板が出ていた。

地面から湯が湧いているところが何か所もあり、面白かった。


源泉は78℃との表示があったが、少し離れるとそんなに熱くなかった。
観光客もちらほらいたが外国人の姿が目立った。
ここは切込湖、刈込湖への遊歩道の入口になっているようだ。

ここもいつか歩きたい。
温泉街を少し歩いて車に戻る。


ついでなので、湯滝にも立ち寄る。
駐車場がタダだったらという条件だったが、大丈夫だった。
湯滝の前にレストハウスがるが、それがなんとコンビニ仕様。

一応、茶色くはしているが、さすがにここにこれはないんじゃないか。
経営が厳しいだろうことは分かるけどねえ。
コンビニに入るには、こちら「あゆの塩焼」側が入口。

湯滝はさすがに冬だけあって、水量が少なかった。

中禅寺湖畔を過ぎ、いろは坂を下っている途中、レリーフを見つけて、一時停車。

急ぐ旅ではないので、下車して確認してみた。
「日光有料道路開通記念」とある。
いろは坂開通記念碑のようで、当時の小平重吉・栃木県知事の顔が彫刻されていた。
着工が昭和28年1月、完成が昭和29年9月というから、かなりの突貫工事だ。
ここの展望台からは、般若の滝(右)と方等の滝(左)を眺めることができた。


方等の滝の上には、滝より大きい砂防堰堤が築かれており、いびつな形の滝になっていた。

この砂防堰堤は国の登録文化財になっているようだ。
こちらは般若の滝のアップ。

いろは坂と男体山。

さて、これらから宇都宮で街飲みなので、車は大谷にある栃木県勤労者山岳連盟の事務所前に置いて、バスで行くことにする。
このあたりはさすがに大谷石の建物が多い。

ちょっとした遺跡のようである。
事務所から「大谷橋」のバス停(関東バス)までは5分とかからない。
バス停に着くと、次のバスは17:25.あと7分だから、ちょうどよかった。

これを逃すと40分待ちだった。
20数分ほどで東武宇都宮駅近くに到着。450円。
「東武駅前」バス停で下車。店を物色する。
店構えがレトロっぽくて気に入ったので、ここに決めた。
「もつ焼き ぴんすけ」

まだ6時前なのにかなり混んでいる。
2階に案内されたが、そこもほぼ満席。
なのに店員は2人。うち1人は今日入ったばかりのような外国人のアルバイト。
「すいませ~ん」「○○が全然来ないんだけど」という声がすでに飛び交っている。
かろうじて生ビールは頼んだものの、つまみを頼むタイミングすらない。
すぐそこで煮込んでいる「牛すじ煮込み」だけ頼み、それを食べ終わった時点で出ることにした。
ここにいてもイライラするだけだ。滞空時間は30分もなかった。
1杯450円の生ビールが午後7時までは半額というタイムサービスのせいであんなに混んでいたんだろうか。
会計は2人で1270円。レジの人は「せわしなくてすいません」と謝ってはいたが。
さて、次はどうする。
こうなったらやはり餃子でしょう。ということで、近くの餃子屋へ。
入ったのはカウンター中心の店で、今度は客が誰もおらず、少々不安になる。
焼き餃子と、フライ餃子という変わった餃子を食す。味はまあまあだった。

年寄りはすぐ満腹になるので、ここも4000円かからずにお開き。
バスで大谷に戻る前に、近くにある二荒山神社に参拝。

日光のは「ふたらさん」だが、ここ宇都宮のは「ふたあらさん」と読む。
あいにく門が閉まっており、拝殿で参拝することはかなわなかった。
でも、「神社はこの階段を上がっていく感じがいいね」と共感しあった。
帰りのバスの時間まで時間をつぶしたつもりだったが、あと5分と迫ったところで、宿舎で飲む酒やつまみを何も買っていないことに気付き、Sさんがあわててセブンイレブンに走る。
余裕で間に合って、21:01発のバスで事務所に向かった。
ここ「馬場町」には関東バスのほか東野(とうや)バスのバス停もあった。
ふと、東野の由来が知りたくなり、Sさんに聞いたところ分からないという。
車中二人でスマホを検索、調べ続けたが、「東野バス」を運行する「東野交通」の前身は、西那須野から那須小川を結んでいた東野鉄道(1968年廃止)であるということだけはわかったが、由来はなぞのまま。
私は「下野(栃木県)の東部」から来ていると思うのだが、どうだろうか。
事務所では、前回ここに来た時に持ってきたウイスキーを精進落としのつもりで、飲み干すことにする。
つまみはポテトチップとおでん。
11時半まで楽しく飲んで、さて就寝というところで事件勃発。
凍結防止のため落としておいた元栓を、トイレ使用のため復活させたところ、洗面台の蛇口から猛烈な勢いで放水され、床が水浸しに。
これを雑巾に吸い取らせて、バケツに絞るという作業が発生してしまった。
手が冷たくてたまらなかったが、Sさんのアカギレもものともしない活躍で、10分ほどで片付いた。
畳の部屋に座布団を並べて敷布団代わりにし、シュラフにもぐりこむ。
酒のおかげで、すぐに眠れた。
あすは、一緒に三毳(みかも)山でリハビリハイキングだ。
【2015年3月8日(日)】学校林(白旗山)
わが母校(高校)には、学校林という財産がある。
なんでも、明治44年(1911年)、時の皇太子(後の大正天皇)が北海道行啓の折、母校に来校されるという栄誉を賜ることとなり、その光栄を長く後世に伝えるための記念事業として植林が企画され、当時の校長の発意により学校林となったという。
学校林は札幌市郊外の丘陵地帯に位置し、面積は約122ha。毎年、ここで様々な行事が行われている。
「雪の学校林を歩こう」というも催しが今年は3月8日(日)に開かれるとのことで、かなり早くから飛行機を予約して、楽しみにしていた。
しかし、その後、骨折。出かけても歩けるかどうか、という状況だったが、2月26日には無事、松葉杖もとれた。
そろそろ、本格的に2足歩行のウォーキングにトライしてみてもいい時期かもしれない。
本来の趣旨は、間伐する樹木に印を付けていく林業調査の体験なのだが、当方としてはリハビリハイクのつもりで出かけた。
雪を踏み抜くのは怖いが、基本的に雪がいいクッションになってくれそうだ。
前日午後のANA便で札幌入り。
前夜は高校の同級生と楽しく飲んで、すすきのの札幌東急インに宿泊。
(親には骨折したことを伝えていないので、実家には泊まれない)
翌朝8時半に、友人に迎えに来てもらい、車で集合場所の母校へ。


(これは古い校門)
参加者は同期8人含め、現役や同窓生計30人ほど。
貸切バスで現地に向かう。

学校林は白旗山(321m)の裾野に広がっている。
一部はクロスカントリースキーコースの「白旗山競技場」と重なっている。

学校林の一部を札幌市に貸している形になっている。
しかし、この日は宮様スキー大会がここで開かれるとのことで、コースには立ち入るなときついお達しが出ていた。
ピークを目指したい私としては白旗山山頂に興味があるのだが、今回歩くコースとは全く逆方向であった。
車内で今日行われる作業について簡単な説明があり、学校林の入口には9時半に到着。

私はこの日のために、所沢のホームセンターで長靴を買ったのだが、右足は若干腫れている関係で、きつきつ。
厚手の靴下が履けなかったので、足が冷たくならないか不安だ(実際冷たくなった)。
ただ今日は比較的暖かい。
しばらく林道を歩く。

まだ、よちよち歩きなので、どんどんみんな先に行ってしまう。

雪はまだ1m近く積もっているだろうか。

10分ほど歩いたところで、左に折れ、道なき道となるので、かんじきを装着する。

登山靴にわかんを装着したことはあるが、長靴にかんじきは初めてだ。
みんな付け終わったところで出発。緩やかな斜面を登っていく。

この斜面は日当たりがよくて気持ちがいい。

登り切ると、カラマツと白樺の林の中に入る。

ここが入ってはいけない、クロカンのコース。

折角かんじきを履いているので、誰も歩いていない雪の上を進みたいのだが、今日は2足歩行に復帰後初めてのハイキングなので、大事をとって、みんなの踏み跡をたどっていく。

これは、昨年、関係者が建てたトイレ。

昨年、石囲いの大きな炉も設営されており、今後頻繁にリクレーションとしても活用していこうという考えのようだ。
1.3kmほど歩いて、調査ポイントに到着したので、現役生を中心にリーダーの指導のもと調査が始まる。

これは間伐する樹木に印を付けているところ。
全員でやるわけではないので、ほかの参加者は休憩。

止まっていると寒いので、たき火を熾す。

私は調査に参加するほど、足が元気ではないし、ただ立っているのもきついので、たき火のそばに座り込んで、調査の終了を待つ。
1時間近くかかって調査も終わり、たき火の周りに全員集合。お昼となる。
私はコンビニのパンと牛乳。骨が完治するまでカルシウムを積極的に摂る。
同級生のS君がカップラーメンを同期のみんなに振舞ってくれた。
これが温まった。ありがとう。
たき火では、串焼きなどを楽しんでいる参加者もいる。

現役生は、マシュマロをあぶって食べていた。

孤高の人は、facebookの山岳部創設者。

のんびり休んで、1時すぎに出発。引き返す。
帰りはちょっとルートを変えて、石囲いの炉を設けた場所を経由する。
しかし、炉は雪の下だった。
近くの木にかけられた鐘。

「これを鳴らすと志望校に合格するよ」と誰かが言うと、現役生は競うように鳴らしていた。
ここでの説明が長く、立ったままだったので、足にかなりの負担になった。
最初にかんじきを付けて登った緩やかな坂が、唯一の下りだったが、それがかなりきつかった。
それでも無事、2時すぎにバスに乗車。
3時前には母校に到着し、解散。
学校林散策は無事終了しました。
もっと長く歩く行事かと思っていたら、意外に「勉強」中心のツアーだった。
この後は、ありがたいことに同期が車で空港まで送ってくれた。
お土産屋がずいぶん混んでいたが、名残りのラーメンを空港で食べて、18:00発のANA便で帰京。
足の痛みもなく、いいリハビリハイクの口火を切れました。
【行程】2015年3月8日(日)
学校林入口(9:33)~調査地点(11:07見学、休憩、昼食13:15)~入口(14:10)
※所要時間:4時間37分(歩行時間:2時間29分)
※登った山:なし
※歩行距離:2.5km
【2015年3月1日(日)】
名鉄に乗って新羽島駅にやってきた。
羽島市は円空の生誕地だった。

新幹線駅で観光パンフをゲットして新羽島駅に向かう。


笠松まではピストンなので、車窓を見るのにもゆとりができる。
23分で笠松に到着(10:59)。乗り換え電車までの待ち時間は8分。
この時間を利用して、駅舎撮影。


あわてて両面を写して、特急中部国際空港行き(11:07発)に飛び乗る。
もう10時を過ぎたので堂々と特別車に乗車。

せっかくの快適な特別車なのに、たった12分で国府宮に着いてしまった。


まだ昼前だが、ここでお目当てのお店に向かう。
名古屋在住の同窓生にお奨めの店を聞いたら、ここの「そば松」を紹介された。

日曜日だけど、やっているだろうかとちょっぴり不安だったが、開いていた。
のれんをくぐり、人気のメニューらしいカレーラーメンを注文。

こちらは1人なので、カウンターに陣取った。
カレーうどんはよく食べるが、カレーラーメンは初めてだ。
初めてだが、なかなか懐かしい味。油揚げがおいしかった。

ここに来る途中、あちこちで「はだか祭 3月3日」というポスターを見かけていたが、その舞台が、国府宮たる尾張大國霊神社。

そば松から徒歩10分ほどなので、かなり雨が降っているが行ってみることにした。
みちみち見つけたマンホールは、どうやら「はだか祭」をデザイン化したものらしいが、顔の表現がわかりにくく、手だけが異様に目立った不気味だ。

合併前の旧市の花ベニサザンカのバージョンもあった。

神社は祭りを目前に控えて、かなり準備が進んでおり、参拝客それなりにいた。


納札所には、紅白のたすきが大量にかけられている。

「はだか祭」は正式には「儺追神事(なおいしんじ)」といい、毎年旧暦正月十三日に行われる。その起源は、神護景雲元年(767年)にさかのぼるという。

祈祷と神籤によって選ばれた神男をめぐって(触れると厄落としができる)、裸の男たちがもみ合いを繰り広げる壮絶な祭らしい。
祭は嫌いではないが、混雑は好きではないので、当日に当たらなくてよかった。
社務所でお守りの「なおいぎれ」を買った。
納札所にかけられていたのは、去年の「なおいぎれ」なのだろう。
一応、参拝して、骨折の早期治癒を祈願。
賽銭箱が神事の準備のため、一時的に撤去されたのか、小さなたらいが置かれていたのがおかしかった。

そぼ降る雨の中、駅に戻る。
傘が小さいのでダウンが濡れてしまうのが気になっていたが、とうとう催してきた。
こういう時、走れないのが苦しい。

やっと駅に着いて、地下の改札でトイレの位置を聞いたら、バスターミナルにあるという。
そんなに遠くはないようだが、あわてて階段を登り飛び込む。
和式じゃなくてよかった。まだ、足首が固く、しゃがめないのだ。
無事に用を済ませて、改札を抜ける。
食事の後はお風呂。
須ヶ口からタクシーで日帰り温泉の「太閤天然温泉 湯吉郎」に行くつもりだ。
湯吉郎への最寄駅は須ヶ口のひとつ先の新川橋で、ここからなら歩いていけそうな距離なのだが、この雨だし、この足なので、車を使うしかない。
でも、新川橋駅にはタクシーがいそうもなかったので、少し大きめと思われる須ヶ口で下りることにしたのだ。
12:19発の特急中部国際空港行きがちょうど入線したが、須ヶ口を通過されると困るので、とりあえず見送り、次の普通須ヶ口駅(12:21発)に乗り込む。
この電車はすいていたが、急行にも抜かれ、須ヶ口駅に着いたのはたぶん、12:40近く。

外に出てまずは駅舎の写真を撮ったが、肝心のタクシーがいない。

タクシー乗り場の文字の部分に白いテープが貼られていたので、最近、常駐をやめてしまったのだろう。
その代わり、「あしがるバス」のバス停を見つけ、ここから湯吉郎行きのバスが出ていることを知ったが、なんと3分前の12:38に行ってしまったばかりだった。

なんというアンラッキー。
こうなったら、タクシーを呼ぶしかないかと思っていたら、ちょうどお客を乗せたタクシーが到着。
なんというラッキー。
これに乗せてもらうことにしたのだが、お客さんのおじさんが降りるときにお金を落としてしまった。
チャリチャリーンと大きな音がしたのに、気づかずに行ってしまおうとするものだから、「あ、お金落としましたよ」と10円を渡す。
「ああ、10円」と、そんなはした金要らないというような態度をするので、無理やり渡す。
で、乗り込もうとしたら、もう100円落ちているのを発見。
「あ、まだありました」と声を上げると、またまた、どうしようかなというような素振り。
思わず、「こっちは雨で濡れちゃうんだから、早く受け取ってください!」と声を張り上げてしまった。まったく、何をかっこつけてるんだか。
気を取り直して、運転手さんに「ゆきちろうまで」と告げると、「とうきちろうね。木下藤吉郎」と言い直された。
「ああ、そういうことですか。でも、ここは信長なんじゃないですか?」
「ええ、ここ清洲は信長なんですが、川を渡ると中村だから、秀吉なんです」
「なるほど」
そうか、二人の故郷はそんなに接近していたのか。
「あそこは儲かってますよ。毎日、駐車場は行列です。友達なんて、芋の子を洗うようだったと言ってましたから」
いやなことを聞いた。昨日、お風呂をパスしているので、今日はゆっくり入りたかったのだが。
「今日は雨だから、出足がにぶいといいですねえ」
などと雑談しながら、しばらく走ると、運転手さんが首をかしげている。
「あれれ、普段なら、このあたりから渋滞なんですねどね。あら、全然並んでないなあ」
運転手さんとしては予想がはずれて恥ずかしいのかもしれないが、こちらは万々歳。
直近の駐車場はほぼ満車だったが、それほど困らずに済みそうだ。


休日は大人1人750円。
まずは帰りの交通機関をチェック。
あしがるバスは適当なのがない。もうひとつの巡回バスはちょうどいい時間のがあったが、バス停まで15分くらい歩くという。
このほかに金山駅行きシャトルバスというのが、13:45発であった。
無料だが金山駅までどこにも寄らないという。
それは全然かまわない。金山は名古屋の先だが、もう乗車済みの区間だし。
無料というのもありがたい。
現在13時ちょうどなので、ちょっと忙しいが、十分間に合う。
まずは露天風呂で体を温めて、カランへ。湯船は込んでいたが、カランは空いていて助かった。
今日は髭剃りのほか、歯磨きも(朝、忘れた)。
13:20に洗い終えたので、内湯にゆっくり浸かれた。
外に出ると、すでにバスが待っていた。

ほかに乗客1人を乗せて、定刻通り出発。
お腹もふくれて、お風呂にも入ってバスとなると当然睡魔が。
でも、なんとか我慢して車窓を眺めつつ、30分ほどで金山駅に到着。


雨もだいぶ小降りになった。
ここから中部国際空港へ往復。
乗り鉄としては各駅停車に乗るべきなのだが、足のこともあり、快適さに負けて、準急中部国際空港行きを見送り、特急ミュースカイを待つ。14:24発。


各駅は帰りにしよう。時間もたっぷりあるし。
マップル鉄道地図帳で通過する駅を確認しながら乗っているのだが、あまりに早くていくつか見落としてしまった。
中部国際空港へは、常滑までが常滑線、その先は空港線。
空港線は、空港の開業(2005年2月17日)に先立つ同年1月29日の開業。
空港ともども今年で10周年だ。

常滑線で気になったのは、道徳駅。
その名は、文化元年(1812年)に、尾張藩はそれまであった御替地(おかえち)新田を「道徳新田」に改称したことに由来する。御替地新田はもともと、藩が「道義を以て徳を施す」ため、農民に替地として与えたものであったことから、「道徳」の名が選ばれたらしい。
ホームには「気楽に楽しめる パチンコ&スロット 道徳会館」なる広告看板があるらしいが、早すぎて見つけられなかった。
空港には14:48着。金山からわずか24分で着いてしまった。早すぎる。

とりあえず空港を見学する。


ちょっとスロープを歩いただけで、もうそこは各航空会社のカウンター。
随分便利だ。
ところで、中部国際空港の開港に伴い、もとの名古屋空港(小牧空港)はどうなったのか。
調べてみると、その後「県営名古屋空港」と名を変え、現在フジドリームエアラインズ(FDA)が、青森、花巻、山形、新潟、高知、福岡、熊本の7か所に定期便を飛ばしている。
3月29日には、出雲と北九州にも航路を拡大する予定だそうだ。
このまま戻っても4時前に名古屋に着いてしまう。
準急で帰っても、それほど時間は稼げない。
待ち合わせの5時半までどう時間をつぶすか。
妙案が思い浮かばないうちに、ふらふらとまたミュースカイへ。
15:07発に乗車。
フリー切符の場合、指定券で乗車してきた客と席がかちあったら、譲らないといけないが、始発だし、名古屋市街の神宮前までノンストップなので、空席に座れば、かち合うことはほぼありえない。
安心して座っていられる。
雨で車窓もどろどろだし、名古屋についてからの振る舞いについて検討する。
足が元気で、天気もよければ、どこかで途中下車して散策という手もあるのだが、今日は条件的にまったくNG。
ふと目に飛び込んで来たのが、「あおなみ線」の文字。
おお、名鉄ではないから別料金になるが、時間的にはちょうどいい。
それに決めた。
名古屋15:35着。

これで名鉄乗り鉄は終了。計算してみると、乗車券4690円分、特別車料金1080円分に乗車したので、差し引き2670円の得であった。
標識に従って、あおなみ線乗り場に向かう。

これが長い。名古屋駅を正方形とすると、その3辺を歩かされる感じ。


15:45発には到底間に合わなかった。


ホームからは、駅前の高層ビル群が望めた。


16:00ちょうどの電車に乗り込む。


あおなみ線を運行するのは第3セクターの名古屋臨海高速鉄道。
名古屋市港区南部の旅客鉄道空白地帯を解消するため、西臨港貨物線(西名古屋港線)を旅客線化したもので、2004年10月に開業した。
進むにつれ、埋立地っぽいムードになってくる。
16:24、終点の金城ふ頭駅着。


着いてみてびっくり。大勢の家族連れがホームにあふれている。
以前は、名古屋市国際展示場でイベントが行われた日に利用者が多い程度だったが、2011年にリニア・鉄道館が開館したことで、乗降客が一気に増えたようだ。
この日も雨にもかかわらず、リニア人気が沸騰していた。
帰りが心配だったが、一応外に出て駅舎と工業地帯を撮影。


ホームに戻ると、どんどん人が沸いてくる。
電車で立ちはいやなので、きちんと並ぶ。
16:43発の電車で折り返す。無事に席を確保することができた。
車内は満員。とても車窓どころではない。
足首の曲げ伸ばしをしていたら、いきなり突っ張りが軽くなる瞬間があって、またまたびっくり。回復も順調なようだ。
17:06、名古屋に戻ってきた。
同級生との待ち合わせは桜通口の金の時計に17:30。

まだ時間はあるが、本日はここで打ち止め。
飲み会では、今夜は泊まって始発で帰れと、何度も何度も誘惑されたが、何とか振り切って、最終ののぞみ64号(22:10発)に飛び乗った。


雨にたたられたが、久々の乗り鉄&同期会に満足の1日だった。
【行程】
2/28
1730東京(東海道新幹線のぞみ55号)名古屋1912
3/1
702伏見(名古屋市営地下鉄)名古屋705
715名古屋(名鉄名古屋本線)須ヶ口721
723須ヶ口(名鉄津島線、尾西線)佐屋744
806佐屋(名鉄尾西線)弥富812
819弥富(名鉄尾西線)津島830
834津島(名鉄尾西線)名鉄一宮907
918名鉄一宮(名鉄尾西線)玉ノ井927
931玉ノ井(名鉄尾西線)名鉄一宮939
940名鉄一宮(名鉄名古屋本線)笠松948
955笠松(名鉄竹鼻線、羽島線)新羽島1017
1036新羽島(名鉄羽島線、竹鼻線)笠松1059
1107笠松(名鉄名古屋本線)国府宮1119
1221国府宮(名古屋本線)須ヶ口1236
1244須ヶ口駅(タクシー)湯吉郎1257
1345湯吉郎(シャトルバス)金山駅1415
1424金山(名鉄名古屋本線、常滑線、空港線)中部国際空港1448
1507中部国際空港(名鉄空港線、常滑線、名古屋本線)名鉄名古屋1535
1600名古屋(名古屋臨海高速鉄道あおなみ線)金城ふ頭1624
1643金城ふ頭(同)名古屋1706
2210名古屋(東海道新幹線)東京2345
※撮影した駅(新規):10駅(佐屋、名鉄一宮、尾張一宮、玉ノ井、笠松、新羽島、国府宮、須ヶ口、中部国際空港、金城ふ頭)
【2015年2月28日(土)】
名古屋在住の同級生から3月1日の同期会に呼ばれた。
「山に行けないならおいで。新幹線くらい乗れるでしょ」
とのことだった。まあ、確かに。
でも、往復2万円もかけてただ飲みに行くのも何なので、名古屋の低山を探した。
東谷山(198m)と高座山(194m)。この二つを日中に登ることにしよう。
しかし、その後、天気予報は雨に。
仕方ないので、乗り鉄に切り替えた。

以前、名古屋の中心部より東側をつぶしたので、今回は西側に狙いをつけた。
名鉄津島線、尾西線、羽島線、常滑線あたりだ。
前日めずらしく休日出勤した後、17:30東京発ののぞみ55号博多行きに飛び乗る。
旅の友は、今尾恵介著「ふらり珍地名の旅」(筑摩書房)。

この日28日は名古屋で、長野勤務時代の友人(岐阜市在住)と飲む予定なので、車内ではお茶にとどめておいた。
定刻の19:12着。友人と合流して、駅前の居酒屋で楽しいひとときを過ごした。
23時前にお開きにして、タクシーでナゴヤニューローレンホテルへ。

安さで選んだら、バス・トイレとも室外だった。宿泊費は3900円。
なかなか寝付けなかったが、それでも5時間くらいは眠れただろうか。
【2015年3月1日(日)】
6時すぎに起床。外はすでに雨が降っている。
骨折治癒のための超音波治療だけ済ませて、6:45に出発。
近くのセブンイレブンで朝食のパンを購入し、地下鉄伏見駅へ降りる。


電車を待つ間、ベンチでパンをかじり、7:02発の高畑行きに乗車。

1駅で名古屋に到着。名鉄に乗り換える。

まずは津島線。7:15発の急行岐阜行きに乗り込む。
名鉄名古屋の地下駅からすぐに地上に出て、まずは名古屋本線を北上。
庄内川と新川を渡り、須ヶ口駅で佐屋行きに乗り換え。ここから津島線に入る。ガラガラ。

以前、ここ愛知県に乗り鉄に来た時のこと。
どこかの駅で佐屋行きの電車が入線してきて、それがどこのことか分からず、乗っていいものか戸惑ったことがある(時間は合っていた)。
今回は勉強済み。津島を過ぎて、尾西線を弥富方面へ2つ目の駅だ。
その先は単線だからか、名古屋から弥富に行くには、近鉄やJRでまっすぐ行った方が早いからか、佐屋止まりが多いようだ。
この一帯は水田と住宅地が混在する濃尾平野の風景だが、天候不順のため、車窓はあまり面白くない。
旅の友が地名の本なので、こちらも地名に注目しながら旅を楽しむことにする。
須ヶ口の次は、甚目寺(じもくじ)駅。
この名は学生の時から知っていた。バイト先の先輩が甚目寺町(現あま市)出身だったからだ。
現地には甚目寺という寺がある。
伝承によれば、推古天皇5年(597年)、伊勢国の漁師だった甚目龍麿(はだめたつまろ)が漁をしていたところ、当時は海だったこの付近で観音像が網にかかった。これを近くの砂浜にお堂を建てて祀ったのが始まりという。
この観音像は、敏達天皇14年(585年)に、物部守屋と中臣勝海が海に投げ入れた3体の仏像のうち1体(聖観音)といわれている。残りの2体のうち、阿弥陀如来は善光寺、勢至菩薩は安楽寺(太宰府天満宮)にそれぞれあるという。
現在では、海から15km以上も離れているが、1000年以上の間に木曽三川が大量の土砂を運んできて、陸地化が進んだということだろうか。
それはともかく、こういう伝説は各地にあるのかもしれない。確か浅草寺の由来も、網にかかった聖観音像だった気がする。
お堂の名は建立者が自らの名をとって「波陀米泥良(はだめでら)」としたが、「甚目寺」と書くようになったのは、中世になってからとのこと。
後に漢字につられて、読みも「じもくじ」というようになったようだ。
気になる寺だったので訪ねてみたかったが、この天気だし、この足だし、今日は乗り鉄に専念することにする。
駅の設置は大正3年。
次の七宝(しっぽう)駅も気になる駅名だ。七宝焼と関係があるのかな、と思ったら、その通りだった。
この付近にかつてあった遠島村で、江戸時代末期から七宝焼による工芸品の生産が盛んになったことにちなみ、明治39年(1906年)、宝村(遠島村を含む)、井和村、伊福村の3村が合併した時に、七宝村が誕生したという。
昭和41年に町に昇格したが、5年前に甚目寺町、美和町と合併して「あま市」になった。
その「あま市」であるが、この市が成立したことをうかつにも知らなかった。
もちろん、海部郡に由来する市名である。
失われつつある郡名を採用したのはよかったが、できれば海東市にしてほしかった。
カナにしたのもいただけない。
旧海部郡はあま市のほか津島市、愛西市、弥富市に及ぶ広大な地域にまたがっており、それを名乗るのは僭称の疑いがある。
ただ、ほかの自治体はすでに別の市名を名乗っており、このままでは「海部」郡の名が失われてしまう恐れもあった。まあ致し方ないか。
あま市の成立で、海部郡を構成するのは、蟹江町、大治(おおはる)町、飛島村の3町村になってしまった。
七宝駅から木田、青塚、勝幡を経て、津島駅の手前が藤浪駅。
少し古いが、「ふじなみ」と聞くと、私は元中日ドラゴンズの藤波行雄を思い出す。
お、ここが故郷か!と思ったが、「なみ」の字が違うし、そういえば藤波は静岡商業出身だった。
藤波は中日が巨人のV10を阻止した1974年の新人王。
のちにトレード拒否事件で話題を呼んだが、代打の切り札として活躍した。
地名の藤浪は、明治22年に小津村など6か村が合併して成立した村の名称。
この村名は古代、この付近を「藤浪里」と称したことにちなむというのだから、お手本になるような立派な命名だ。
しかし、明治39年さらなる合併で、佐織村(佐織町→愛西市)の一部になってからは、藤浪の名は消滅した。
大正3年に開業した駅名にその名を残すのみである。
ちなみに、藤浪村を構成した、小津、根高、北河田、南河田、見越、諏訪の6村の名は大字として今も健在だ。
そういう意味では、古代の地名を伝える貴重な駅名なのである。
電車は津島を経て、佐屋が終点。折り返して吉良吉田行きとなった。

ここは終着駅なのだから、それなりの町なのかと思ったら、わりと寂しいところだった。

この先、弥富までは単線。

雨は本降りでしかも寒い。
もちろんホームで雨はしのげるが、屋内の待合室がないのがつらい。

駅前では、これからお出かけなのか、女子高生のグループがたむろしている。

そのうちの一人が定期を忘れたみたいで、母親が届けに来ていた。
「あんた、ほんとにバカなんだから。切符どうしたの? もう買っちゃったの? お金はあるの?」
口は悪いけど、親子関係はとてもいいようだった。
待ち時間は20分以上あったので、先に入線していた逆方向の電車に乗り込み待合室代わりに活用。
まもなく弥富行きが来たので乗り換えた。
弥富までは2駅。1つ目が、このあたりではユニークな駅名ナンバー1の「五ノ三(ごのさん)」。
私は小学校の時、5年3組だったので余計親しみが沸く。
由来は「郷桟(ごうのさん)」が変化したものというのが通説らしい。
村の端っこという意味だ。
地名は「五之三」で、現在も弥富市の大字「五之三町」として残っている。
五ノ三駅を過ぎると、廃駅とみられる高架のプラットホームがあった。

確認してみると、弥富口駅跡だった。2006年12月の廃止とのことなので、わりと最近の話だ。
かつては日本毛織(ニッケ)弥富工場の従業員が多く利用していたが、工場が縮小されたことなどにより、乗降客が激減したようだ。
弥富駅には佐屋駅から6分で着いた(8:12)。

ここでJR弥富駅に接続している。

折り返しは8:19発なので、7分しかない。
その間に跨線橋を登って下りて、駅舎を撮影し、また戻ってくるのは、この足では不安だったが、とりあえず挑戦。

雨の中、なんとか撮影して、びっこを引きつつ急ぎ足で戻る。

急ぎ足でも、普通以下のスピードだ。
幸い間に合って、尾西線を引き返し、名鉄一宮に向かう。

8:19発は津島線経由の豊明行きなので、津島で乗り換え。
津島での乗り換え時間はわずか4分なので、元気な足でもさすがに外には出られない。
8:34発の普通一宮行きに乗り換え。北上する。

津島駅の次の町方駅もいわくありげだが、角川地名大辞典を調べても、その由来は出ていなかった。
次の六輪(ろくわ)駅も興味深い。1つ少なければオリンピックだが(五輪真弓という歌手もいたけど)、明治22年に、城西、娶振(よめふり)新田、塩川、下起など6つの村が合併した際に、新村名を「六輪」としたらしい。
6つの村が仲良く輪になって発展しようという意味合いだと思うが、「和」ではなく「輪」を採用したのは、このあたりが「輪中」地帯であることも関係していたのかもしれない。
この先は、旧祖父江町(現稲沢市)の町域を通過していく。
祖父江といえば、「県民性」の研究で知られた文化人類学者の祖父江孝男氏を思い出す。
一度お会いしたことがあるが、祖先は祖父江の出であると話していた。
祖父江町の名は、稲沢市の大字の冠称として保存されている。
9:07、名鉄一宮に到着。玉ノ井行きは11分後の9:18発なので、駅舎撮影に出る。


これは一宮市のゆるキャラ「いちみん」。

わりと大きな駅で、JR側と名鉄側の両方を撮っていたら、結構時間を食い、あわてて戻る。
玉ノ井までは、駅4つ。あっという間だ。

9:27、わずか9分で到着した。
この先、木曽川港駅まで3.8kmの路線があったが、1959年に廃止されている。
折り返しの発車まで4分しかないので、駅舎撮影はあきらめていたが、ホームと改札が近かったので、撮影決行。マッチ箱のような駅だった。

折り返しは、次の奥町(おくちょう)駅で大勢の子供たちがホームで待っていたので、彼らが乗ってくるであろう車両を避けて着席。結果的にかぶりつきになった。

奥町もちょっと気になる地名だ。

「奥村」として鎌倉時代から史料に見える地名らしい。
中島郡の北端に位置することから、「奥」と呼ばれるようになったという。
明治27年に「奥町」に昇格。現在も一宮市の町名として残っている。
一宮での乗り換え時間は1分。9:40発の特急岐阜行きで北上、笠松へ。
手持ちのフリー切符は、特急の特別車にも乗れるが、乗車時間は午前10~午後4時までに限るとあるので、まだ一般車で我慢する。
木曽川を渡って間もなく、笠松駅に到着(9:48)。

7分の乗り換え時間があったが、ここでは外に出ず、素直に9:55発の普通新羽島駅に乗車する。

終着の新羽島駅は新幹線・岐阜羽島駅との接続駅だが、開業は1982年12月と、新幹線開通から20年近く経ってからだった。
これは周辺の土地区画整理事業と競合して、用地買収が大幅に遅れたためらしい。
笠松から伸びる竹鼻線は、もともと大須まで全17kmの路線だったが、江吉良から先の6.7kmは2001年10月に廃止されている。
江吉良から新羽島までの1.3kmは羽島線で、名目上は別の路線である。
新羽島までの駅で目を引いたのは、不破一色(ふわいしき)駅である。
(260)
一色のつく地名は、近くでは愛知県一色町(いっしきちょう、2011年4月に西尾市に編入)があるが、関東の人に馴染み深いのは山梨県上九一色村(かみくいしきむら、2006年3月、分割されて甲府市と富士河口湖町に編入)の方だろう。
初めて、上九一色村の標識を現地で見た時は「ジョーク一色の村!」とびっくりしたものだが、オウム真理教のサティアンで有名になってしまったのは不幸だった。
調べてみると、上九一色村はもともと九一色村で、明治22年に上下に分割して成立したようだ。下九一色村は昭和29年に分割合併・編入により消滅している。
九一色はもともと、山間地帯のため耕地に乏しく、木工で生計を立てていたことから「工一色」と呼ばれ、のちに9郷が生じて、「工」が「九」に改められたと伝わっている。
ということは、こちらの「一色」は文字通りの意味の「一色」だったわけだ。
不破一色の方はどうか?
こちらは、居敷(いしき)、すなわち屋敷のことだそうだ。
付近に、竹鼻城主不破源六の屋敷があったことから「不破一色」と呼ばれるようになったらしい。
なんか、日本共産党の不破哲三元議長が大勢いそうで、ちょっと怖い。
そんな妄想を抱きつつ、新羽島駅に10:17に到着。


こちらのホームから新幹線のホームが望めた。

折り返しは4分後だが、それではさすがに味気ないので、その次の電車(10:36発)まで新幹線の駅も含め、駅舎撮影にいそしむことにする。
相変わらず、雨が降り続いている。
新羽島駅は、こじんまりしたかわいい駅だ。

名鉄がJRの駅と接していたり、共有したりする場合、同じ駅名にしないことがおおいような気がする。
名古屋⇔名鉄名古屋、尾張一宮⇔名鉄一宮、岐阜羽島⇔新羽島などなど。
弥富は例外のようだが、なにか意図があるのだろうか。
新羽島の場合は駅自体厳密には接していないので、それほど不思議ではないのだが。
岐阜羽島駅は外から初めて見た。

ここはさすがに下りる機会がなかった。
乗降客数も東海道新幹線では最低の1日2818人である。
岐阜市に用があっても名古屋から行った方が便利なのだから仕方ない。
今回は岐阜羽島に下りたわけではないが、これで駅舎をみたことがない東海道新幹線駅は三河安城駅だけになった。
(つづく)