【2015年2月21日(土)】能見堂緑地
リハビリハイキング第3弾は、横浜市の最高峰・大丸山(157m)に登ることにした。
山と渓谷社「新・分県登山ガイド 神奈川県の山」に紹介されていた、円海山(153m)とセットで歩くコースである。
しかし、「山と渓谷」の最新号(3月号)の「郷山めぐり」コーナーで、金沢文庫駅から出発する「ロングコース」が紹介されていた。
コースタイム3時間半なので、今の体では倍の7時間はかかる。
歩き切れるとは思えないが、こちらの方が面白そうなので、行けるところまでということで「ロング」を選んだ。
小手指駅9:24発の副都心線、東横線直通の元町・中華街行きに乗車。
横浜方面に向かうには便利な電車だが、長時間座り続けていたので、エコノミークラス症候群に似た症状が出てしまった。
とうとう東横線の自由が丘を過ぎたところで立ち上がってしまった。
学生時代よく通ったあたりなので、懐かしい景色を見たいという気持ちもあった。
分かっていたことだが、田園調布も新丸子も日吉も、駅の風景はまったく変わってしまった。
横浜での乗り換えは少々距離があったが、駅探で表示された京急「三崎口行き」には間に合った。
わりと混んでいたが、若い男性が席を代わってくれた。ありがとうございます。
金沢文庫駅には11:01に到着。

下りて気づいたが、乗っていたのは西武カラーの黄色い電車だった。

改札を出て、向かいのセブンイレブンで昼食用のサンドイッチとおやつ(ポッキー)を購入。
11:17に歩き出す。

しばらくは、線路に沿った歩道を北へ進む。

途中で、「ハイキングコース」の道標があった。

ヤマケイの記事では、さらに一般道を進んで、不動池からハイキングコースに入るようなコース設定だったが、それでは能見堂跡が見られないので、道標に従う。
まずは横浜市のマンホールを確認。


谷戸のわりと古い住宅街を分け入っていく。

駅から500mほどで、ハイキングコースの入口があった。

ハイキングコースは、ここから鎌倉市の天園まで続いているようだ。
いきなりの急坂だが、階段なので、こういう体の時は助かる。

切通には厳重に金網が張り巡らされていた。

尾根にのって、しばらく進むと、「能見堂緑地」の標識。


この先はなだらかな道が続く。

右手に視界が開けた。



駅から30分ほど歩いたところで、ベンチのある場所に出た。

ここで、休憩。足の傷口が痛い。やはりガーゼにほんの少し血が滲んでいる。
靴下を脱いで、患部をやさしくなで回した。
6分ほどで席を立つ。
間もなく、能見堂跡に到着した。


案内板によると、能見堂とはこの地に明治2年まであった「擲筆山(てきひつざん)地蔵院」という寺院のこと。
文明十八年(1486年)の『梅花無尽蔵』という資料に「濃見堂」の名が見えるので、遅くとも室町時代には存在していた寺のようだ。
江戸時代に書かれた『能見堂縁起』では、平安時代に藤原道長が結んだ草庵を始まりとしている。
能見堂はもともと小さな辻堂だったが、寛文年間(1661~1672年)に領主の久世大和守広之が、江戸増上寺の廃院となっていた地蔵院を、ここに移して再建したのが、寺院としての歴史の始まりとなる。
ここからの眺望がすばらしかったので、中国の「瀟湘(しょうしょう)八景」になぞらえて、「金沢八景」と呼ばれていた。
江戸時代初期に、心越禅師が能見堂で「金沢八景」の漢詩を詠んだことから、能見堂の名は広く知られるようになり、多くの文人墨客が訪れたという。
しかし、明治2年に火災のため焼失し、その後再建されることはなかった。
これは、能見堂焼失後の明治期の写真。

「筆擲松(ふですてのまつ)」がひときわ高く見える。
その下に見えるのは「金沢八景根元地」の石碑。
右の台地には、石灯籠なども見える。
「根元地」の碑は、今も同じ場所に残っている。

享和三年(1803年)の建立。銘文は江戸の書家・図南田翼の手になるもので、裏面には寄進した百数十名の名が記されている。
能見堂跡には、この「根元地」碑しか残されていなかったが、平成16~21年にかけて、周辺にあった能見堂にちなむ句碑など以下の4基がここに移設された。
「一方句碑」

「露落て なを静也 峯の月」。建立年も、作者の一方についても詳細は不明。
建立者の雁金屋清吉は享保十九年(1734年)創業の江戸の有名な出版元。
「江耆楼美山句碑」

「百八の鐘の別れやほととぎす」。美山は江戸吉原の遊郭の主人。
文化九年(1812年)、息子の二世美山が、父の書いたものが紙魚の食われないよう、父の愛した能見堂の下に埋め、その上にこの碑を建てたと裏面に書かれている。
「武蔵国金沢碑」

安永七年(1778年)春、金沢に遊んだ幕臣・岡部四溟が能見堂に泊まり、当時荒れ果てていた金沢文庫を訪ねた。人の作ったものは荒廃するが、自然の美しさは永遠であると気づかせてくれた能見堂からの美しい景色に感慨を覚え、この碑を建てたそうだ。
「山室宗珉居士墓碑」

江戸の医者・鈴木宗珉の墓で、もとは筆擲松の根元にあった。
能見堂の景色を愛した宗珉は生前の享保十六年(1731年)に墓を建て、明和八年(1771年)に亡くなってから、墓に辞世の歌を加え、この地に葬られた。
辞世「月雪も 花ももみしも むかしにて けふそうきよの 夢はさむらん」
当時の人々がどれほど、ここからの景色を愛していたかがよく分かる。
明治時代のその眺め。

左に矢島、中央に瀬戸の内海から州崎、瀬戸崎をはさんで平潟湾を、右に瀬戸神社の森が一望できる。
現在の風景。

野島は写真の枠外左。中央は東急車輛工場。
随分変わってしまったものだなあと感慨にふけっていたら、5~6人の高齢者グループが反対側からやってきて「ここが能見堂跡。もう何もないよ」と言って、あっという間に通りすぎていった。もったいないことだ。
それはともかく、このあたり、白梅、紅梅が見ごろを迎えていた。


史跡見学を終えて前進。
まもなく、左手が開け、住宅地と接するように歩く。

前方には、今日行く予定の大丸山方面の丘陵が見える。

あんな遠くまで歩けるだろうか。
スイセンがきれいに咲いていた。

右下には木々の隙間から不動池が覗けた。

駅から1時間ほど歩いて2度目の休憩。やはり足が痛い。

傷口の痛みもあるが、小手指駅で階段を下りるときに、筋を突っ張ったのが原因なのか、脚そのものに力が入らない気がする。
ポッキーを食べて、エネルギーを補給。

装具を巻きなおして出発。
すると、目の前をリスくんが横切った。


木に登って、何かを食べている。

こんなに写させてくれるリスもめずらしい。
道は基本的になだらかだが、時々階段のアップダウンが頻出する。


駅から1時間半で3回目の休憩。靴下を脱いで痛み止めを塗る。

やはり今日は歩き切るのは難しそうだ。
実はセブンイレブンで昼食用の牛乳以外にドリンクを買い忘れてしまい、水分が足りない。
ハイキングコースの中にはさすがに自販機はない。
喉が渇いて死にそうということはないが、どこかで補給したいところ。
でも、その前にランチタイム。
コースからはずれた広場でお弁当を広げる。

と言ってもサンドイッチ。

牛乳で水分補給した。
ここのすぐ近くに能見台車庫とみられるバス停が見える。
もうバスに乗ってしまおうかとも思ったが、さすがにそれでは情けないし、7時半からの飲み会までどう時間をつぶしたらいいのか分からない。
もう少し頑張ることにする。
次の目標である給水塔に向かって黙々と歩く。

途中、50人以上の高齢者の団体とすれ違う。ちょっと異様だった。
お昼から25分ほど歩いて給水塔に到着。

ここで住宅街と接触するので、ためしに車道に出てみたら、すぐそこに自販機があった。

これはありがたい。早速アクエリアスを購入して、一口飲む。う~ん、ちょっぴり生き返った。
もう少し頑張ることにする。
間もなく横浜横須賀道路のインターに沿った道に出る。

砂利が敷いてある。これが長い。
ベンチが欲しくてたまらなくなった。
急な坂を登り切ったところに、やっとベンチがあった。
でも、前から来る人とのすれ違いに気をとられて、通過してしまった。

こがね台広場なる場所だった。
少し先にまたベンチが見えたので、倒れ込む。

いやあ、足が痛い。もう今日は歩けない。帰ることにしよう。
金沢自然公園の駐車場に沿って、とぼとぼ歩く。

車道に出ると、公園入口の駐車場まで通っていると思われるバスが止まっている。
下まで連れて行ってくれるなら乗ろうかと思ったが、もうほぼ満席になっており、「貸切バス」と書いてあるのに気後れして断念。
見送ってしまった。これはコアラバスと呼ばれるシャトルバスだった。

仕方なく、橋を渡って海の見える小径へ。

展望台からは、能見台や野島方面が見渡せた。


下に見えるのがバス通り。あそこまで下らないといけない。

力を振り絞って歩く。下りは歩きにくい。

とうとう、階段の手前にあるこのベンチで横になってしまった。

と言っても、だらだら寝ているわけにもいかない。
頑張って、やっとのことで下まで下りてきた。

こっち側のバス停は、京急富岡駅行きがあったが、20分以上待たなくてならない。

仕方ないので、反対側に渡り、金沢文庫駅行きを待つ。
10分ほどで、15:13発のバスが着た。ふう、助かった。
10数分で金沢文庫駅前に到着。

しかし、どうしてこんなに疲れたのか。
片松葉はさすがに勝手が違う。怪我をした足に2/3の荷重をかけるので、負担が大きかったこともあるだろうが、別に原因がありそうだ。
ともかく、15:29発の品川行き普通に乗り込む。
他の電車に乗った方が早いのだが、全く急ぐ必要はないし、普通列車の方が空いているのでありがたい。
一旦、会社に寄って、18時前に0次会に合流。
19:30からは新橋で本チャン。翌日の東京マラソンに参加する仲間たちの激励会だ。
松葉杖なので転んだら最後。酔っぱらってしまわないよう注意した。
【行程】2015年2月21日(土)
金沢文庫駅(11:17)~ハイキングコース入口(11:31)~(休憩6分)~能見堂跡(12:00撮影12:08)~(休憩2回12分)~(13:05昼食13:15)~給水塔(13:39)~こがね台広場(14:05)~(休憩9分)~海の見える小径展望台(14:27)~(休憩8分)~バス停(15:03)
※所要時間:3時間46分(歩行時間:3時間1分)
※登った山:なし
※歩行距離:4.9km
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【2015年2月15日(日)】藤岡庚申山
庚申山総合公園をひとまわりして、光徳寺を訪ねる。

ここにも庚申塔が並んでいる。

本堂は工事中のようだ。
ここを訪ねたのは、関孝和の墓があるから。
墓地の入口に案内がなかったので、寺の人に墓の場所を聞こうと寺務所に立ち寄ったが、誰もいない。
仕方なく、墓地に入って、坂を登って行ったら、かなり上の方に看板が見えた。


見つけられてよかった。
関孝和(1642?~1708年)は江戸時代の和算家で、ここ藤岡の出身だという(江戸説も)。
ニュートンやライプニッツと並んで世界の三大数学者とも呼ばれているそうだ。
世界で初めて「行列」の概念を提案したり、円周率も1681年の時点で、小数点以下11位まで正確に求めたりしている。すごい人だったのだ。
しかし、上州のからっ風はすさまじい。早々に下りて、今度は本郷古墳群に向かう。
光徳寺の門前には六地蔵。

このあたりのマンホールは鬼瓦ではなく埴輪だ。

藤岡は、鬼瓦の里であるだけでなく、古墳の里でもあるのだ。
実は藤岡を訪ねるにあたって、付近の地形図を見ていたら、妙な記号を見つけた。

「小林」という文字の左下に集中している工場のような記号である。
色が茶色いし、不整形なので工場ではない。
しかも田んぼの中にある。
いったい何だろうと思って、facebookの地図サークルに問い合わせてみたら、これは盛り土(崖線)記号が閉じているもので、古墳群であろうとのことだった。
なるほど、言われてみれば合点がいく。
そういえば、このあたりは群馬でも有数の古墳地帯なのだ。
すでに列車の中から確認済みであったが、きちんと地上から見ておきたい。

いずれも、せいぜい直径は10m内外の円墳。これらを丁寧に地形図に落としてくれた職人さんに感謝である。


ちなみに、この地形図は、2万5000分の1「藤岡」(平成11年部分修正測量)である。
電子地図では省略されていた。
満足して諏訪神社に向かう。
ここは、かなりだだっぴろい敷地の真ん中にある盛り土の上に社殿が乗っかっている。


ここがもともとは古墳だったのではないか、と思ったらそうだった。
全長57m、高さ4mの前方後円墳で、6世紀後半の築造。
切石積み、全長5.9mの横穴式石室がある。
境内には、諏訪神社のほかに天満宮と、八坂神社、大国神社も祀られている。


そして立派な池もあった。

その北側に陪塚と思われる古墳。

こちらには何の説明もなかったが、諏訪神社北古墳(藤岡4号墳)と思われる。
直径約25m、高さ2mの円墳。
墳頂には高山長五郎の碑が立っている。

長五郎は、このほど富岡製糸場とともに世界遺産に登録された高山社(養蚕業の研究・教育機関)の創始者である。
引き続き、大通りを北上、天龍寺に寄り道する。


古びた五輪塔がたたずんでいる。

さて、境内に古墳があるはずなのだが、と探してみると、駐車場の奥にあった。

霊符殿古墳。墳頂に霊符殿があるので、その名が付いたという。
直径33m、高さ5.9mの円墳(または前方後円墳)。
横穴式石室を覗いてみると、藤岡市内にある伊勢塚古墳と同じ片岩と珪岩を用いた模様積み。

中には東日本大震災以降、自由に出入りはできなくなったそうである。
さて、帰りの列車の時間まで、あと1時間となった。
本当は富士浅間神社にも寄りたかったが、今回は時間切れ。
中央公園にある関孝和の碑だけ見て帰ることにする。
途中、立派な道しるべが。「右 秩父」「左 江戸」とある。

天保三年(1832年)に建立されたもので、「一丁目の道標」と呼ばれている。
当時、この三叉路で道に迷う旅人が多かったことから、建てられたものらしい。
そして中央公園の胸像と算聖碑。


あとはのんびり駅に向かう。のろい足だが、たぶん余裕で間に合いそうだ。
行きのタクシーから見えたシャッター街を歩いていく。


「ヘアサロンおぼかた」に目が釘づけ。

「小保方」の地名は群馬県伊勢崎市にあるようで、小保方姓は群馬県東部や栃木県南部に多いらしい。あのおぼちゃんもご先祖様はあのあたりだったんだろうか。
変わった苗字だけに、全国の小保方さんもずいぶん迷惑したことだろう。
この「イノウエ」は営業しているが、3時半に店じまいしていた。

日曜日とは言え、銀行並みの早さ。
地方都市の商店街はどこも厳しいことを目の当たりにする。
というわけで15:40過ぎ、群馬藤岡駅に到着。


待合室でしばらく休憩。今回の歩行距離は8kmちょっとだったが、それほど疲れなかった。
右足に体重の半分をかけられることになって、手のひらの負担も軽減されたようだ。
列車の到着5分前にホームに出たが、ひどい強風で凍えてしまった。
で、またかなり混んでいたが、優先席に座ることができた。
車窓を楽しみたかったが、あまりよく見えないので読書。
なぜか、森達也の「死刑」。
今度は高麗川まで乗って、東飯能から西武線経由で帰る予定なのだが、高麗川での乗り換え時間が2分しかない。
どうせ、向かいのホームに電車がいるだろうと思っていたら、向かいにいたのは川越線。
八王子行きはなんと地下通路を通って、1番線に行かなければならない。
うひょー、これは間に合うだろうか。
ちょっと階段であわててしまい、松葉杖を落としてしまった。
それでも、何とか間に合い乗車。
ホッとし過ぎて、今度は乗り過ごしてしまった。
東飯能は高麗川から1つ目の駅なのに、何駅かあると思い込んでいたのだ。
気づいたのは、東飯能の次の駅、金子を過ぎてから。
あちゃー、こうなったら拝島まで行って、そこから西武線で帰るしかないかと思っていたのだが、次の箱根ヶ崎で向かいに下り電車が止まっていたので、それに乗り換えて東飯能に戻る方針に変更。
結局、帰宅が30分も遅れてしまった。
それでも、まあ無事に第2回リハビリハイキングは無事終了。
第3回は松葉1本ということになる。
【行程】2015年2月15日(日)
新所沢=本川越~川越市=寄居=群馬藤岡=市民体育館(11:42)~庚申山(12:20)~さくら山(12:54)~市民体育館(13:07昼食13:20)~光徳寺(13:49)~本郷古墳群(14:18)~諏訪神社(14:37)~天龍寺(15:00)~中央公園(15:17)~群馬藤岡駅(15:44)=東飯能=飯能=小手指
※所要時間:4時間2分(歩行:3時間49分)
※登った山:2座(庚申山、さくら山)
※歩行距離:8.5km
【2015年2月15(日)】藤岡・庚申山
どうやって、この山を見つけたのか、もう記憶は判然としないのだが、リハビリハイキング第2弾は群馬県藤岡市街の南にある庚申山(189m)に行くことにした。
新所沢9:25発の本川越行きに乗車する。

健康な足なら、次の9:36発でも本川越駅から東武川越市駅への乗り継ぎに間に合うのだが、まだ松葉杖なので、1本早い電車で出発。
やはり本川越から川越市までの移動に、普段の倍の20分を要した。

10:05発の小川町行きに乗り込む。
小川町で寄居行きに乗り継ぎ、寄居で今度は八高線に乗り換える。
待ち合わせ時間は8分あったので余裕だ。

八高線は意外に混んでいて、ボックス席には座れず、ロングシートになってしまった。
神流川を渡ると群馬県に入る。

間もなく群馬藤岡に到着(11:28)。八高線はわずか24分の乗車だった。


駅前でマンホールを見つけたので、それを撮影してからタクシーに乗車。

鬼瓦の絵柄だ。調べてみると、藤岡は良質な粘土を産することから、古くから瓦の産地だったという。ただ、鬼瓦の職人は現在、市内に一人しか残っていないらしい。
タクシーで庚申山総合公園の中にある市民体育館に連れて行ってもらう。
帰りは16:05の列車を予定しているので、持ち時間は4時間半しかない。
前回みたいに通しで歩いてへとへとになりたくないし、行きだけは車を活用することにした。
地方都市らしいシャッター街を通過。しばらく行くと、正面にまあるく尖った山が見えてきたので、運転手さんに「あれは、なんて山ですか」と聞くと、「御荷鉾山(1286m)」とのこと。ははあ、ここからはこんな風に見えるんだ。
体育館には11:40頃に到着。1070円。

すぐに歩き出す。

ここを選んだのは、整備された道が頂上まで通じているからだ。
いくら超低山でも、普通の山道のあるところは、まだ怖くて歩けない。
ここは頂上まで車道が通じているし、急傾斜のところは階段がついているようなので、歩行可能と判断したわけ。
まずは園内に3つあるため池を見学する。
1つ目は、ひょうたん池。

冬鳥が大勢渡ってきているようで、マガモやオシドリの姿が見えた。

橋を渡ると、石祠があった。


その先には、小坂秀雄氏の顕彰碑。

「ふるさと高山 その歴史と伝承」を著した方だそうだ。全く知らない。
何も咲いていないしょうぶ園から階段を上ると、だるま池。

一段高いので、振り返ると、ひょうたん池もよく見える。

この奥にも、もう1つ池があり、その先に庚申山に直接登る男坂があったようだが、下調べ不足でその情報が得られず、車道に戻ってしまった。

ここで、一人の男性に声をかけられた。
「骨折ですか」
「はい、リハビリです」
「そうですか、私は心のリハビリです」
そう言いながら、私の横に並んで着いてくる。そして話し続ける。
定年後、何をしていいか分からず、時々、ここに来て、いろんな人と話しているのだという。
しばらく黙って聞いていたが、話の内容がだんだんうざくなってきたので、思い切って言った。
「ひとりで歩かせてもらっていいですか」
その男性は「あ、どうぞ」と言って、離れてくれた。
なんとなく後味が悪いが、こちらも自分のリハビリに専念したい。
道はそれなりの傾斜で登っていく。

体育館から25分ほどで峠めいたところに着いた。

ここを右折すると、260mで庚申山山頂である。
女坂というわりには、かなり急な坂だ。帰りがちょっと不安。

峠から10分ほどで頂上に到着。


その名の通り、大小の庚申塔が並んでいる。


展望塔があったので、登ってみた。一段一段。階段が一番時間がかかる。

上からは赤城山がうっすら見えた。今日は風が強い。

眼下には藤棚。初夏にはきれいに咲き乱れるのだろう。

ちょうどお昼なのだが、ここは寒そうなので、ランチはお預け。
急な女坂を慎重に下る。
峠からは城峯山(1038m)や東西の御荷鉾山が展望できた。


峠を横断して、南斜面を歩くと、ここは日当たりもよく、風もなくて暖かいくらいだった。
休憩スポットでは、何人かのハイカーが休んでいた。


この先、ちょっと道が分かりにくい分岐などもあったが、地図ロイドの助けを借りて、さくら山に向かう。
地形図にある163mピークはさくら山ではなかったが、東屋があり、藤棚の歩道が続いていた。

歩道は階段で歩きにくかったので、脇の芝の上を歩いた。
いったん下って少し登り返したところに大きな展望塔があり、そこがさくら山だった。

展望塔の入口に標識があった。

ここの眺望は庚申山とあまり変わらないだろうと判断し、上には登らなかった。
時間節約である。
ここからさっき体育館に向かって下る。

ほぼ1時間20分ほどで、ひと回りしてきた。
庚申山とさくら山の2座征服である。
リハビリ中であっても、「登った山」の数は増やしていきたい。
風が強いので、屋外での食事は断念。体育館のロビーでいただくことにした。
メニューは、新所沢駅前のコンビニで買った、おにぎりとお稲荷さん&お茶。
20分ほどで平らげ出発。
体育館の受付の人に「庚申山総合公園」のパンフレットはないかと尋ねたら、そこには、わら半紙に印刷された園内地図しかなかった。
中央広場を横断して、谷の北辺の道を市街地に向かう。
このあたりなかなかいい雰囲気。

左手に山崎神社があった。

藤の丘トンネルの東で国道254号を渡ると、まもなく光徳寺にたどり着いた。

(つづく)
【2015年2月11日(水)】狭山丘陵
荒幡富士から八国山へ向かっている。
左手眼下には昔ながらの畑が残っていた。

荒幡小学校の右手に見下ろしながら進むと、左の展望が開けた。

ここは「ドレミの丘公園」と呼ばれる場所のようだ。

もうお昼も過ぎているし、あのベンチでランチにしようかと思ったが、お尻が冷たそうなのでやめた。まだ、お腹もすいていないし。
荒幡小を回り込み、標高を下げる。
谷に下りて、しばらく歩くと、光蔵寺。山号は「荒幡山」だ。


創建年代は不明ながら、境内には寛和(985~987年)、貞和(1345~49年)、康安(1361年)、永和(1375~79年)の記銘がある古碑があったとされる。
今は、人の悩みに耳を傾けてくれる「聞くぞう地蔵」が迎えてくれる。

ここからが長い。延々、車道の脇を歩く。
小さな峠をひとつ越えると、街道のおそば屋さん。


駐車場は満杯で、なかなか人気の店のようだ。今回はおにぎりを買ってあるのでパス。
次の峠は、埼玉県所沢市と東京都東村山市の境界。

境界を示す標識はなかったが、マンホールが両市の境を示していた。
手前が東村山市。奥が所沢市。
ここを下ると左手が八国山緑地の西入口。

でも、ここからは入らず、西武園線の踏切を渡り、「下宅部遺跡はっけんのもり」に立ち寄る。

ここは縄文時代後期から晩期を中心とする遺跡で、水場遺構や巨大な丸木舟のほか、様々な漆製品が出土している。
ここには発掘調査が行われていた1999年に見学に来たことがある。
都営住宅の建設に伴う発掘だったが、一部が保存され、遺跡公園になっている。
「日本の歴史公園100選」のひとつに選定されているようだ。
懐かしいというより、風景がまったく変わってしまったので、戸惑いの方が大きい。


ここでお昼にしようと思っていたが、ベンチがない。
仕方ないので、地べたに腰を下ろして、おにぎりにぱくついた。

20分ほど休んで、出発。
再び踏切を渡って、八国山緑地に入る。

ころころ広場では、高齢者が青空将棋に興じていた。

園内の歩道は一部舗装されており、松葉杖の身にはありがたい。

右手を西武線の電車が駆け抜けて行った。

少し歩くと、舗装が終わって、森らしくなる。

このあたりに池が2つあり、「ふたつ池」と呼ばれる。


江戸時代のこのあたりを記録した「野口村絵図」にも、この二つの池は描かれている。
形が四角いので人工的に掘られたため池とみられるという。
谷戸に集まる水を溜めて、水田用水として利用したようだ。
明治13年の資料では、これらの池を「鍛冶谷池」「鍛冶谷小池」と呼んでいたようだが、いつの間にか、その名はすたれ、「ふたつ池」と呼ばれるようになったらしい。
当時は今より1mほど水位が高かったとのこと。
その鍛冶谷を遡り、尾根道へ出る。

右へ進むと、すぐにさらに右への分岐がある。これを進むと八国山緑地の最高地点に至る。

標高は100mちょっと。標識も何もない。
でも、ピークハンターとしては、この場所に足跡を残さなければならない。
八国山は「となりのトトロ」に登場する「七国山」のモデルになった場所だ。
メイやさつきの母親が入院していた「七国山病院」のモデルになったかどうかは分からないが、ふもとには結核診療の重要施設だった「東京白十字病院」が実在している。
八国山の名は、上野、下野、常陸、安房、相模、駿河、信濃、甲斐の8国を望むことができたからというのが由来らしい。
ピークをおさえた後は、尾根道に戻って、東に向かう。


これがかなり長い。途中のベンチに腰掛けて、いったん休憩。

だんだん影も長くなってきた。
さらに東へと進む。

おおぞら広場では、子供たちがボール遊びに興じていた。写っていないけど。

まもなく将軍塚に到着。

元弘三年(1333年)、鎌倉幕府を倒そうと上州で挙兵した新田義貞が、小手指ヶ原で幕府軍に苦戦を強いられた後、一時この地に逗留し、塚に籏を立てたことから「将軍塚」と呼ばれるようになったと伝えられる。(しかし、義貞は将軍でも何でもない)
江戸時代に編纂された「新編武蔵国風土記稿」には、ここは「富士塚」とも呼ばれ、古代の塚(古墳)の可能性もあると記されているらしい。
この塚の手前に「元弘青石塔婆所在址」の石碑がある。

ここにはもともと、義貞の鎌倉攻めの際に討ち死にした斎藤盛貞らの供養碑である「元弘の板碑」(国重文)が立っていた場所だそうだ。
その板碑は現在、東村山市・徳蔵寺の板碑保存館に展示されている。
これを過ぎると、八国山緑地も終盤。
東入口の近くからは所沢市街のビル群が遠望できた。

慎重に坂道を下って、住宅街に出た。


ここまで西入口から約2km。随分歩いた。
このすぐ近くに、久米川の古戦場がある。

ここも新田義貞ゆかりの地だ。
さて、あとは帰るだけなのだが、所沢駅まで歩くのはかなり大変だ。2km半くらいある。
大通りに出てもバスは通っていないので、タクシーが通りかかるのを期待したところだ。
とにかく、しばらくは歩くしかない。
勝陣馬橋やら公事道やら、由緒ありげな橋や道を通過する。


二瀬橋で再び、柳瀬川を渡る。


それにしても、歩けども歩けどもタクシーは来ない。
やっと1台来たので手を挙げたが、気づかないで行ってしまった。
さすがに疲労困憊である。足じゃなくて、手の方が限界だ。
豊川稲荷まで来ると、もう所沢駅はすぐそこ。

へとへとになって駅にたどりついた。もう4時半近い。


通算11km近く。松葉杖でこんなに歩くことになるとは思わなかった。
さすがに新所沢駅から自宅へはタクシーを使った。
リハビリにしては過酷な1日だったが、足が痛くなることはなかったのが幸いだった。
【行程】2015年2月11日(水)
自宅(9:57)~小手指駅(10:42~10:49)=西所沢=下山口(11:05撮影・買い物11:20)~浅間神社(11:54)~荒幡富士(12:07撮影12:11)~ドレミの丘公園(12:26)~光蔵寺(12:48)~下宅部遺跡(13:27昼食13:50)~ふたつ池(14:08)~八国山頂上(14:24)~将軍塚(15:05)~久米川古戦場(15:23)~二瀬橋(15:39)~所沢駅(16:20)
※所要時間:6時間23分(歩行時間:5時間10分)
※登った山:2座(荒幡富士、八国山)
※歩行距離:10.8km
【2015年2月11日(水)】狭山丘陵
2月6日に退院したものの、2月いっぱいは松葉杖生活を余儀なくされる。
だからと言って、大人しくしていたら体がなまるばかり。
無理をしない程度にリハビリをしなくては。それには、やはり歩くのが一番。
ということで、近場の「山」を目指すことにした。
人工の山である「荒幡富士」と、「となりのトトロ」に登場する「七国山」のモデルとなったと言われる「八国山緑地」をセットにした。
この日は幸いなことに好天で、気温も平年並みに上がりそう。
健康な足にはトレランシューズを履いて、10時前に4本足で出発した。
目指すはとりあえず、西武池袋線の小手指駅。
普通なら自宅から歩いて20数分といったところだが、さてどのくらいかかるか。
骨折した右足には、3分の1の体重をかけていいという段階に来ている。
片足ケンケン状態の時は、ちょっと歩いただけで、松葉を握る手がすぐに痛くなったが、右足をつけるようになっただけで随分、楽になった。これだけで歩ける距離がかなり違う。
15分ほど歩くと、プランターに花を植えて、町並みをきれいにしている青葉台を通過。

この後すぐに、砂川掘を暗渠にした遊歩道に入る。

右の溝は、地下水を汲み上げて時々流れを作っている「せせらぎ水路」。
この道は、今の私のような「障害者」には車が来ないのでありがたい。
200mほどで遊歩道を離れ、行政道路と言われている国道463号を渡る。
ここから小手指駅までの道は、ハナミズキの並木で、春には美しいピンクの「花」を咲かせる。

結局、小手指駅まで45分もかかった。いつもの倍だ。

10:49発新木場行き各駅停車に乗車。

次の西所沢駅で、狭山線に乗り換え。

11:03分発の西武球場行きに乗り込む。

またまた1駅だけ、次の下山口駅で下車する。

この駅で下りたのは初めてだ。

ご覧の通り、わが所沢市では「中学校に冷房を設置するかどうか」を問う住民投票が2月15日に実施される。実に恥ずかしい。
そんなことさえ決められない市議会なんて必要ない。
それはともかく、駅前のコンビニで昼食用のおにぎりとお茶を購入。
荒幡富士までの道がちゃんと分かるかどうか心配だったが、ちゃんと道標があったのでありがたかった。

神明橋で柳瀬川を渡る。この橋は昭和40年の竣工。

柳瀬川は狭山湖に源を発し、所沢市域を東西に貫流、志木市で新河岸川に合流する一級河川。
東武東上線には柳瀬川駅がある。
ここからは狭山丘陵に向かって道は登っていく。
途中、荒幡自主防災会なる組織が設定した、隣組の「0次避難場所」なる標識を至るところで発見。

ここで近所の人が集まった後、市などが指定した1次避難場所に避難するのだろうかと思っていたら、「一時避難場所」があった。

ただ、これも防災会の設定だった。「0次」→「一時」の順に避難するのだろうか。
用語の使い方を統一した方がいい気がした。0次も「一時避難場所」の一種であろう。
それはまあいいとして荒幡富士に向かう。

大谷石?の擁壁が続く道をゆるやかに登っていく。

このあたり、高齢者のハイカーの姿が目についた。
いずれも単独の男性。今日は当然のことながら、抜かれてばかり。
30分ほどかかって、埼玉県狭山丘陵いきものふれあいの里なる場所にたどりついた。

ここにも遊歩道があるようだが、今回はパスして、荒幡富士に直行。
すぐ目の前に現れた。

おお、なかなか立派な築山ではないか。
旧荒幡村には浅間神社のほかに、三島、氷川、神明、松尾の各社が祀られていたが、明治5年の社格制定で、浅間神社が村社に列せられ、他4社は無格社となった。
このため、村内の統一と民心の安定を図るため、明治14年、村内の浅間久保にあった浅間神社を西ヶ谷松尾神社の場所(現在地)に移し、他3社も合祀した。
これに伴い、もとの浅間神社の傍らにあった富士塚も移転することになり、明治17年に起工。戸数100戸足らずの村民が農閑期を利用して、土を盛り続けること16年。標高約100mの丘の上に、高さ18mという全国最大級の富士塚が明治32年に完成した。
頂上の標高は119mである。
経緯は大正10年に建立された荒幡新富士築山碑(大町桂月撰文)に記されている。

まずは、浅間神社に登山の安全と右足の早期治癒を祈願。


そして登山開始。


参道(登山道)には、猿田彦大神や松尾大神などの石碑が林立している。


道はすべて石段になっており、しかも狭い。

こちらは松葉杖で一段一段ゆっくり登るので、後から登ってくる人、上から下りてくる人に道を譲りながら、ということになる。
道が折り返すたびに合目が増える。
だいたい10歩ほどで1合増える計算だ。


5合目から見下ろす浅間神社。

所沢市街も見えてきた。

7分ほどかかって登頂。
頂上からは富士山がほんとにうっすらと見えた(左)。

あとから登ってきたおじさんが「ああ、富士山は見えないなあ」「もう少し早ければ見えたのになあ」と連発しているので、「うっすらと見えますよ」と教えてあげたら、「ああ、ほんとだ。じーっと見てれば分かるわ」と気づいてくれた。
このおじさんのグループの人は「蛭ヶ岳も見える」「あれは雁ヶ腹摺山か」と口々に話しており、夏には山登りをする人のように思われた。
犬の散歩の人もいたが、しっかりとしたハイキング仕度で来ている人も多かった。
西武ドームの右上に見えるのが雁ヶ腹摺山。

こちらは所沢方面。

新宿の超高層ビル群。

ちゃんと眺望を解説してくれる看板もあった。

頂上の真ん中に立つ石の祠は、富士塚完成時に祀ったものらしい。

「明治三十二年四月吉日」「粂川石工 藤堂寅之助」とある。
上の「宿」はどういう意味だろうか。

まあ一応360度のパノラマも満喫したので下山。
松葉杖なので一歩一歩慎重に。
この後は八国山緑地方面に向かう。
地図ロイドを見て一番近い道を選んだら、途中から通行止め。
普段なら強行突破するのだが、今日は松葉杖なので、正規の道を行った。
(つづく)
【2015年1月17日(土)】雪洞訓練
雪洞内での楽しい夕食も済んだ。もう寝るしか、することがない。
その前にトイレを済ませておかなければ。
外へは、雪が乾いているので、テントシューズのまま出入りできるが、私のは丈が足首までしかないので、ちょっと勝手が悪い。でも仕方ない。
すでに、雪がかなり積もっており、扉代わりのツェルトを埋めようとしていた。
雪を除けて、外に出て、Sさんが掘ってくれたトイレまで行くと、もう真ん中の溝は埋まっていた。
戻って、シュラフにもぐり込む。
今回初めて、シュラフカバーを使った。
これのおかげでシュラフは全く濡れずに済んだ。
満腹とお酒のせいだろうか、比較的寝付きはよかった。
でも、やはり夜中に目が覚めてしまった。トイレに行きたい。
出入り口側に寝ているSさんをまたいで、狭い「玄関」に達し、出ようとすると、またしても積雪がひどい。さすがにここは雪洞が掘れるだけあって、吹きだまりなのだ。
用を足して、シューズの雪をほろって、またまたシュラフにもぐり込む。
室温は2~3℃くらいだったのだろうか。
暮れの金峰山の冬季小屋が-11℃だったのを考えると、超あたたかい。
夜中に、他のメンバーがトイレに行ったのに気づいたのは、Sさんの1回だけ。
みんな、よく我慢できたなあ。
【行程】2015年1月17日(土)
湯元駐車場(7:45)~スキー場ゲレンデ最上部(8:40)~尾根(11:05休憩・昼食11:30)~雪洞設営地点2240m(12:05)~雪洞完成(14:30)
※所要時間:4時間20分(歩行時間3時間50分)
※登った山:なし
※歩行距離:3.4km
【2015年1月18日(日)】雪洞訓練
朝6時頃再び目が覚めてトイレへ。
もう起きてしまうつもりだったので、今度は登山靴を履いた。
ツェルトに積もった雪を押しのけて脱出。
トイレへの道も完全に埋まっていたので、スコップで道を作りながら進む。
トイレ自体も半分埋まっていたので、掘り起こし。
その後、用を足す。
戻ったが、まだ誰も起きる気配がない。
仕方なく、靴を脱いで、もう一度、シュラフへ。
でも7時くらいだろうか、Tさんがごそごそし始めたのを合図に、みな起きることになった。
彼はかわいそうに、天井からのしずくに攻められて、シュラフも衣服も濡れてしまい、ほとんど眠れなかったという。
着替えのズボンがあったので、それを提供した。
朝食は、昨日の具(鶏肉は売り切れ)をコンソメスープで煮て、マカロニを投入。
微妙な味ではあったが、貴重なカロリーなので、ばぐばぐ食べた。
パッキングを済ませて、9時に出発。

外に置いておいた、わかんやアイゼンは完全に雪に埋もれていたが、すぐ発掘できた。
天気は完全な雪。前白根への登頂は諦め、まっすぐ下山する。

一晩で15~20cmくらい積もっただろうか。
ラッセルだが、下りは楽だ。
急坂の途中、Sさんの地元の山岳会の方々が登ってくるのに出くわす。
やはりラッセルがしんどいようで、「途中でいやになるかも」と話していた。
この後、彼らのトレースを利用して、尻セード。
小刻みだが、まあまあ滑れる。尻敷きは、東京都のゴミ袋である。
下るにつれ、雪は少なくなり、木の根も増えたので、尻セード適地はなくなってしまった。
どんどん下り、前日テントが張ってあった場所に、まだテントがあるのを発見。
昨日会った人が雪除けをしていた。
昨日はまだ早い時間だったのに、下山しなかったようだ。今日もすでに10時を過ぎているのに、まだここにいる。雪中宿泊訓練だろうか。
テントの向こうには雪のブロックを積んで、風よけのバリケードが作ってあった。
まもなくゲレンデの最上部に出た。

ここまで雪洞から1時間15分ほど。登りの3分の1以下で、あっという間だ。
新雪で50cmは積もっていようかというゲレンデを、Tさんが果敢にブルーシートで挑戦。

しかし、雪が深すぎて、足でこいでいるような状態。
私はこずるく、彼が圧雪にしてくれた跡をたどり、結構いい気分。
新雪のゲレンデを下り切り、整地されたゲレンデまで下りてきた。
しかし、風のせいなのか、上部のリフトは動いておらず、スキーヤーは誰もいない。
ここなら滑るかもと思って滑ってみたが、今度は傾斜が足りず、やはり足でこがないと進まない。
諦めて歩いていたら、Tさんがブルーシートに腹ばいになって滑ってきた。
「この方が滑りますよ」
早速真似てみたら、その通り。
でもさすがに、頭から滑り続けるのは怖いので、スピードが少しでてから、尻セードに切り替え。
さらにスピードが出てきたので、ちょっとブレーキをかけようと足を雪面に着いた途端、事故は起きた。起こるべくして。
12本爪の深いアイゼンが雪に突き刺さり、スピードを緩めるどころか完全に止まってしまった。
その時、右足首を強くひねり、激痛が走った。
(やってしまった)
と思った。
尻セードを12本爪アイゼンでやるのは危険だと実は知っていた。
以前、ちょっと引っかけて(危なかった)と思ったことがある。
今回も、もうゲレンデに出て来たのだから、アイゼンを外せばよかったのだ。
一瞬それも考えたが、つい横着してしまった。
おそるおそる足を伸ばすと、足首があらぬ方向を向いた。
(あ、折れてる)
と思った。
しかし、幸いなことにというか、ありがたいことに、痛みが全然ない。
そういうものなのだろうか。
さっきまではしゃいでいた私が急に動かなくなってしまったので、Tんが「Kさ~ん、もう終わりですか?」と声をかけてきた。
「ごめん、骨折した」と答える。
「え、まじすか? Sさ~ん、Kさん骨折したそうです」
Sさん、Hさんが駆け寄る。ここから、Sさんの機敏なレスキューが始まる。
まず、私の足が曲がらないようスコップの柄で固定(ストックは短くなからなかった)。
私が地面に座ったまま足を開いて、Sさんがその股の中に腰を下ろす。二人にツェルトが巻き付けられた。Sさんはウエストバッグを腰に付ける。
ツェルトはおんぶひも、バッグが私の「イス」代わりだ。
ザックなどの荷物はTさんがブルーシートに載せて引きずっていく。
Sさんが私を背負って歩き始めたが、ツェルトが短すぎて、私の手がうまくSさんの肩から前に回せない。
悪戦苦闘しているうちに、Tさんが「シートに乗ってもらったらどうですか」と提案。
方針を変更する。
私は自分のザックに足を乗せ、誰かのザックを背もたれにして、引きずられていく。
この頃になってやっと、(おれはとんでもないことをしてしまった)という実感がわいてきた。
(みんな、この後ゆっくり温泉に浸かって温まるつもりだったろうに、台無しにしてしまった)
(こんなアホの面倒を見させてしまって、本当に申し訳ない)
しかし、「申し訳ない」という言葉で済むようなことではない気がして、その言葉はなかなか発することができなかった。
しばらく進むと、我々の様子がおかしいことに気づいたのか、スキー場のパトロール員がスノーモービルで駆け寄ってきた。
事情を説明すると、「では、すぐボートを持ってきます」と言って、いったん引き上げて行った。
(ああ、スキー場の人にも迷惑をかけてしまった)という気持ちと(スキー場での事故で助かった)という気持ちが交錯した。
間もなくボートは到着した。
私はブルーシートのまま、ボートに乗せられ、す巻きにされた。
空気穴を確保してくれなかったので、顔の前を自力で少し開けた。
「では、下の救護室に運びますので、皆さんはあとで寄ってください」
背中に雪面の細かい凸凹を感じながら、ゲレンデを下っていく。
震えが出てきた。寒くなってきたのか、緊張が解けたのか。
しばらくしてす巻きを解かれると、そこは屋内だったことにびっくりした。
ボートは屋内まで入ったのだろうか。よく覚えていない。
その部屋には2人の男性の方がいて、応急処置をしてくれた。
まず、靴を脱ぐ。まだ変な力がかからない限り痛くない。
靴下も脱がされる。ぱんぱんに腫れているのを見て、係の人は「ああ、たぶん腓骨が折れてますね」と言った。
とにかく、シーネをあててくれるという。
そうなると「大」がやりにくくなるので、2人に抱えてもらい先にトイレへ。
戻ると、診察台に横にさせられ、丁寧にシーネをあててくれた。
そうこうしているうちに、仲間が到着。

足を伸ばし足先が少し上になるようにして車に乗せてくださいという救護班の指示で、Sさんたちが車内のセッティングをしてくれた。
丁重にお礼をして辞す。ここの支払いは不要とのこと。
本当に親身に処置していただいた。完治したら、お礼にうかがうつもりだ。
日光か宇都宮の病院に行かなければいけないと思っていたが、救護班の人は自宅の近くの病院の方がいいという。
その助言に従い、まっすぐ帰宅することにした。
【行程】2015年1月18日(日)
雪洞(9:00)~スキー場ゲレンデ最上部(10:15)~事故地点(10:20)
※所要時間:1時間20分(歩行時間:同)
※登った山:なし
※歩行距離:2km
私の車は宇都宮市の大谷にある栃木県勤労者山岳連盟の事務所前に置いてあるので、当然、そこを経由する。
ここでSさん、Hさんとはお別れ。
おわびとお礼を丁重に述べた。
帰りの運転はさいたま市在住のTさん。
私が送っていくつもりが、逆になってしまった。
Tさんは3か月ほど前にやはり山で捻挫して、松葉杖生活をしばらく送った「先輩」なので、いろいろとその時の話を聞いて、勉強した。
自宅には午後4時半に到着。
今度は、家内の車に乗って、3人でこの日の救急指定病院である所沢第一病院へ。
ここで、Tさんを解放。駅まで歩かせることになり、申し訳なかった。
ここの担当医師が、まるでやる気がないのがありあり。
レントゲンを撮ったのに画像も見せてくれない。
「手術はしなくても大丈夫」「1週間以内くらいに、紹介状持って、この医院に行って」「あすから会社に行ってもかまわない」
と言って、ギブスをつけておしまい。
さすがに画像は見たかったので、会計を待っている間に、看護士さんに頼んで見せてもらった。腓骨がぽっきり折れていた。
(これで、ギブスをしておけば、自然に骨がくっつくんだあ)
と思ったが、それは大間違いだった。
【2015年1月19日(月)】骨折
さすがに翌日から出社するのはきつかったし、どうせ休むなら医院に行ってしまおうと、翌月曜日、紹介された花園整形外科内科医院に行ったら、「これは手術しないと」との診断でびっくり。脱臼もしているので靱帯もかなり損傷している可能性があるという。
前日の話はいったい何だったのか。
【2015年1月20日(火)】骨折
結局、翌20日、紹介された西埼玉中央病院に入院。22日に手術を行った。
術後2週間の入院生活(2月6日退院)。2月いっぱいは松葉杖生活とあいなった。
山を普通に下山している時の怪我ならまだしも、ゲレンデでふざけている時の怪我だったことが悔やまれてならない。
これで軽く3か月は棒に振った。どのくらい経ったら骨折前のレベルで山を歩けるようになるのかも分からない。
いろんな意味で勉強させられた山行となった。
【2015年1月16日(金)】雪洞訓練
栃木在住の高校の後輩Sさんから、1月11~12日で雪洞訓練をしないかとのお誘いがあった。
12日は別件があったので、次週であればと返信。他の参加予定者も異存なく、その17~18日の日程で決した。
もう1人の後輩Tさんは前夜から栃木入りして、栃木県勤労者山岳連盟の事務所に泊まるという。Sさんと酒盛りをするつもりだ。
一応、奥日光の日光湯元スキー場駐車場に当日朝9時集合の予定なのだが、どうしよう。
迷った挙げ句、私も前泊組に合流することにした。
16日(金)は午後6時の終業とともにダッシュで帰宅。あらかじめ用意しておいた装備をパジェロミニに積み込み、8時前に所沢を出発した。
目標は10時着。所沢ICから高速に乗る前に、コンビニで今夜の酒とつまみを調達し、一路宇都宮へ。
途中、埼玉県内では雨が降られた。明日は大丈夫だろうか。
東北道を鹿沼ICで下り、最短経路で大谷にある事務所へ。
どの建物か分からず、グーグルマップで再度確認して、ちょうど10時に到着。
私以外の参加者3人全員がすでに集結していた。
Sさん、Tさんのほかは、Sさんの職場の同僚で女性のHさんである。
4人で楽しく歓談して、12時前に就寝。
座布団の上にシュラフ。ほろ酔いだったので熟睡できた。
【2015年1月17日(土)】雪洞訓練
5時起床。おにぎりと唐揚げで朝食を済ませ、6時に出発。
4人そろってSさんの車。私の車はノーマルタイヤなので、どっかでチェーンを巻かないといけない。助かる。
最終コンビニで非常食を含め3食分の菓子パンを購入。お勤めも済ます。
下界は晴れているのだが、山の方は雪雲。
男体山はかろうじて見えているが、白根山方面は真っ白だ。
なんとTさんは観光も含め、人生43年目にして初めての日光なんだそう。
私はわずか2か月ぶり。
彼が初めて見る中禅寺湖は強風のため白波立っていた。
戦場ヶ原まで登ってくると、路面は圧雪状態で、雪もふつうに降っている。
でも茶屋は冬季も営業しているという。
7時半頃、スキー場の駐車場に到着。

吹雪というほどではないが、しっかり雪が降っており、風も少々ある。
しっかり準備を整える。

7:45出発。

スキー場が登山口だ。


まずはゲレンデを登っていく。

今日は邪魔になるので、大きな一眼レフは置いてきた。
CASIOのコンパクトカメラのお世話になる。
ゲレンデは緩斜面だが、いつもの倍近くあるザックが重く、結構堪える。

これでも飯豊に3泊4日で行った時よりは余程軽いはずなのだが。
今回は、冬用シュラフ、シュラフカバー、ツェルト、12本爪アイゼン、スコップ、ピッケル、着替え、防寒具、雨具、ガスストーブ、コッフェル、個人食料、共同食料、酒、その他小物類という装備。テントがないだけ、まだマシか。
スキー場はまだ営業開始前。雪上車がゲレンデをくまなく走って、滑走面に積もった雪を踏み固めている。
しばらく歩くと、暑くなってきたということで、1枚脱ぐ。

私はダウンの上にレインウエアのままで暑くもないので、そのままだった。
時折、強い風が吹く。


前方はしっかり雲があるが、後ろを振り返ると晴れ間も見える。

今日は冬型の気圧配置。奥日光はちょうど日本海側と太平洋側の境にあたり、冬型になると決まって雪だ。
もくもくと歩を進める。

1時間近く歩いて、標高差にして150mほど登ってきたあたりでゲレンデが尽きた。

ここから、あの柵を越えて、登山道に入る。
右手に砂防ダムのある谷を見ながら進む。

左手には急斜面のゲレンデがまだ続いている。

ここから、等高線の密な直登コースを450mも登らなければならない。
昨夜、改めて地図を見て、うんざりしたものだが、この時点ではザックの重さにも慣れてきて、何とか行けそうな気分になっていた。
夏道はいったん谷へ下りるようだが、我々は直進。

雪はさほど深くなく、新しい足跡がある。
Sさんは「今日のものでしょう」と言う。先行者がいるみたいだ。
なんて思っていたら、ゲレンデ最頂部あたりに1人用のテントを発見。

前夜ここで泊まって、早朝出た人がいたのだろう。
どのあたりでアイゼンを装着したのか忘れてしまったが、このあたりではもう装着済みだったような気がする。なにせ斜面が急だから。
ピッケルの持ち手については「山側ね~。折り返すたびに持ち替えて」とSさんから指示。
ああ、そうだったなあと思い出す。
ピッケルを使うのは、初の雪山に行った八ヶ岳・天狗以来だからほぼ3年ぶり。
すっかり使い方を忘れてしまっていた。
Sさんは「12月に来た時は、もっと積もっていたのに、解けたのかなあ。雪洞作れるかなあ」と不安顔。

ラッセルしなくて楽なのはいいが、穴を掘れないのであれば訓練にならない。
たいしたラッセルではないが、4人で先頭を交代しながら、猛烈な急坂をゆっくり登っていく。

Hさんは足首捻挫から復帰したばかりだが、実に楽しそうだ。

Sさんはこの日のメンバーの中では一番のベテラン。冬山経験も豊富で、本日のパーティーは彼無しでは成立しない。まさに「S学校」である。
その先生のSさんがアイゼンを忘れてしまい、この日はHさん持参の6本爪を借りていた。

まあ、この日の状態なら、12本爪でなくても問題はない。
先頭を交代して、後ろに回る。

こんなきつい登りでは、何でもない標識に励まされる。

こちらの標識には「湯元」と書いてある。

黙々と登ること2時間半近く。やっと尾根が見えてきた。あそこで標高2170mほど。

しかもなんと晴れている。が、猛烈な風。
尾根に乗る手前で小休止。時間はまだ11時を少し回ったところだが、お昼にする。
と言っても、どっかり座り込むのではなく、立ったまま、パンを2個かじる。
ここで、前白根山(2373m)から下りてきたという単独男性とすれ違う。
主に話していたのはSさんだが、雪の量を訊ねていたようだ。
やはり少ないらしい。
さっきのテントの人だとのことだった。
我々も30分弱の休憩で出発。この後は、尾根筋のゆるやかな道だ。

でも風が強く、こんなシュカブラ(風紋)も。

風が横面をたたくので、目無し帽をかぶっていたが、口や鼻を覆うとメガネが曇ってしまうので、結局あごまでしか隠せない。
ほほが冷たいのは変わらず。雪山はコンタクトが必要だが、生まれてから一度もしたことがない。
なだらかと言いつつ、だんだん傾斜もきつくなってきた。


時折、陽が射すと霧氷がきれいだ。

尾根に出てから30分ほど登ると、Sさんがいきなり道をそれ、左の斜面を下りていく。
いつも雪洞を掘るところらしい。
尾根の上はせいぜい50cmほどしか積もっていないが、ここは吹きだまりで、かなりの積雪があるようだ。
Sさんの指示で、さっそく雪洞掘りが始まる。


真ん中に幅1.5mほどの柱を残して、2か所から間口1mほどの横穴を掘り進んでいく。


高さは1.2mくらいか。

狭い空間での作業なので、すぐに息が上がる。筋肉にもくる。
穴掘りも交代しながら。スコップを持たない方は排雪係だ。

奥行き2.5mほども進むと、やはり雪が少なめなのか、木の幹やブッシュにぶつかったので、ストップ。やや狭いが致し方ない。
左右の貫通は柱を奥行き1.5m分くらい残して。
天井は内部の熱で解けた水が落ちて来ないよう、ゆるやかなドーム状に整形。
片方の入口を雪のブロックでふさぎ、もう片方はツェルトで出入り口にする。
風に飛ばされないよう、ピッケルで固定した。
製作途中、6人のパーティーが下山してきて、我々の作業を興味深そうに見学して行った。
ちょっと誇らしい気分。
だいたい2時間くらいで完成。ザックを奥にしまい、中にブルーシートと銀マットを敷いて、それぞれの居場所を確保する。

色が赤いのは、赤いツェルトを通して光が入ってくるため。
出入り口側のHさんが寒そうだったので、この後、場所を変わってあげた。
柱の奥、真ん中が調理空間だが、シートが滑ってストーブが置けない。
床面がちゃんと平らになっていなかったようだ。
もう一度、スコップで削り、整地し直して、やっと安定した。
とりあえず、中央からはシートを外して、雪の上に直接ストーブをセッティング。
これで、素敵な一夜の宿は完成だ。


アロマのろうそくも灯してムード満点。
時間は午後2時半。予想外に雪が少なく、予定より1時間半くらい早く着いたため、作業もまだ陽が高いうちに終わってしまった。
まだ夕食には早いので、前白根に登ってきてしまおうかという案もあったが、これだけ落ち着いてしまうと、外に出る気になる人はゼロ。
迷うことなく、宴会に突入してしまった。
酒はきんきんに冷えた日本酒と、焼酎、赤ワイン、ウイスキー。
さすがに焼酎とウイスキーはお湯で割った。
今夜のメニューは鳥鍋である。
大量の肉と野菜、キノコなどを皆で手分けして運び上げてきた。
まずは焼き肉。タンとハツ。

味付けは塩コショウだけだが、実にうまかった。
みなピラニアのような食欲で、あっという間に完食。
続いて、鶏鍋用の鶏肉を炒める。

このボリューム。
シメジやゴボウ、ネギなども加え、〆はうどん。

もう満腹である。
食事を終えたのが6時過ぎか。
外はもう真っ暗で、もうすることは何もない。
7時には就寝ということになった。
左右に2人ずつ並び、真ん中に4人の足を集める体勢だ。
(つづく)
【2015年1月11日(日)】蓼科山
山頂への最後の直登でラッセルを強いられている。

しばらく登って、また私に交代。
O君のストックを借りる。これは意外に楽だ。
楽と言っても、少しマシだという程度なのだが。
頂上台地に乗るまであと標高差50mというあたりで森林限界を抜ける。

と同時に、雪は固くなり、ズボズボ埋まらない分、楽になったが、傾斜がどんどん増して、滑落の危険が出てきた。
少し我慢したが、やはりここは安全策。
坂の途中だが、アイゼンを装着することにした。
O君は私を抜かして、少し登ったが、やはりアイゼンを付けることにしたようだ。

12本爪は、彼は今回が初めて。私もまだ3回目だ。
アイスバーンになっていなくて助かった。
森林限界を抜けても風がそんなに強くないのがありがたい。
下界からはあんなに雲の流れが速かったのに。
ただ、残念なことにこのあたりからガスの中に突入した。
アイゼン装着は10分ほどで完了。
その間に、さっきの人に抜かれてしまった。
ピッケルもほしいところだったが、私はそもそも持って来ていない。
O君は車の中にあったが、私が「いらないよ」と言ってしまった。
記憶では、ほぼ頂上まで樹林だったのだが、間違いだった。
かなりの急勾配なので、四つんばいで登る。
その後、すこし傾斜が緩くなったので、斜めに登っていたら、パンツをアイゼンで蹴とばしてしまい、買ったばかりなのに小さな穴を開けてしまった。
頂上台地に乗る少し手前に赤いポールがあったが、その先が真っ白で道が分からない。

登りはとにかく高い方へ行けばいいのだが、下りの時に正しい道を見つけられるか、つまりこのポールを発見できるかどうか心配だ。
ほとんどホワイトアウト寸前の上に、猛烈な風なので、目なし帽を被ったのだが、自分の息でメガネが曇り、それが凍ってしまって、視界が悪すぎるのだ。
なんとか次のポールを見つけ、頂上を目指す。

進行方向にエビのしっぽが付いていたので、帰りは色がわかりにくかろうと思い、氷をたたき落とした。
ほとんど先が見えず、路面の足跡も確認できないような状態の中、O君が先行の人影を見つけてくれ、その人について行くと、あっと言う間に頂上に着いた。

ひどい風で寒くてたまらないので、写真だけ撮ってもらってすぐ退散。

写した写真をあとで見たら、二人ともまつげやまゆ毛に霧氷がついていた。
村山元首相のようだった。
山頂ヒュッテの横を通って、下山するも、やはり下山口が分からない。

自分的には随分、右にずれているように思ったので、もっと左じゃない?と声をかけてそちらへ進んでみたが、どうも違う。
地図ロイドを確認すると、左にズレすぎていることが分かり、右へ軌道修正するとポールが出現。O君が正しかった。
なんとか道を見つけることができた。
少し下ると、ゲレンデを登っていたと思しきパーティーが、ちょうど我々がアイゼンを着けたところで装着していた。

吹きさらしの雪が固い部分は慎重に下り、樹林帯に入った途端、持参したゴミ袋で尻セードを試みる。
しかし、2、3箇所少し滑れるところがあっただけで、あとはトレースの凸凹が激しく、うまくいかなかった。

でも飛ぶように下りて来て、将軍平には道探し時間も含め、頂上から30分ちょっとで到着。

体も温たまったので、小屋の前に腰を下ろして昼食。アイゼンも外す。
さっき、アイゼンを着けながら1口2口かじったパンの残りともう1つを食べた。
ポットのお湯で、卵スープを作ったが、かき混ぜているうちにぬるくなってしまい、飲み終わることには水になっていた。
O君はこの気温(たぶん-8℃くらい)なのにおにぎり。でも固くなってはいなかったようだ。
雪もしんしんと降ってきており、食べ終わったらすぐ出発。
今度はアイゼンなしで滑るように下っていく。

ゴミ袋を手にしていたが、もう尻セードができるようなところはなかった。
悔しいので、トレースのついていない雪の中を元気に下っていたら、勢い余って2度ほど転倒。雪の中に転げた。
全然痛くないし、体についた雪もすぐにほろえたのだが、この時、ザックのサイドポケットに雪がたくさん入ってしまい、あとで車の中で解けてザックを濡らしてしまうという失態を演じた。
登りで抜かされた単独の男性を、この下りで抜かす。
彼はまだアイゼンをしていた。
この雪の状態なら絶対アイゼンははずした方が楽だ。
途中、若い女性も含めた5人くらいのパーティーとすれ違ったが、あの時間からでは頂上は無理だろう。
途中で、つづら折りのトレースを無視して真っすぐ下り、O君の前に出る。
傾斜が緩やかになっても走るように下っていたら、O君に「もう少しゆっくり行こう。さすがに平らになるときついわ」と引き止められた。
登りでは気づかなかった「馬返し」の道標。

七合目には将軍平から30分で下ってきた。コースタイムは50分なので異常に早い。

これも雪さまさま。
O君が「さすがに運動してのどが乾いた」というので、彼のザックの水を取って上げたら、完全に凍っていて飲めない。
私のアクエリアスはまだ全面結氷はしてないので、提供したら、飲み口の部分が凍っていたので、それを押し込んで飲んだ。

引き続きピストンを続ける。

林道を過ぎてからが異常に長く感じたが

午後2時すぎに駅に到着。


さっさとゴンドラに乗って下る。

ゲレンデを尻セードで下ることも一瞬頭をかすめたが、止めておいた。
改めてスキー場を見ると、3連休の中日にもかかわらず、往年の賑わいは全くない。
そこそこ人はいるが、みんな余裕で滑れる。
山麓駅に下りると、まずトイレ。
観光センターの中は暖かくてホッとしたが、土産物屋みたいなのはなく、単なる待合室だった。
重たい靴を脱いでO君の車に乗り込む。
温泉は、諏訪南ICに向かう道沿いに近い「縄文の湯」にする。

400円は今どき安い。
一昨年夏、O君と来た時、駐車場が混んでいて諦めたことがあるが、今回はそんなことないだろう。
そう思っていたら、今回もほぼ満車。軽のスペースに無理やり突っ込む。
しかし、浴室もかなりの混雑。
O君と露天風呂に入っていたら、「ここはぬるくて温まらない」というので、内風呂に。
帰りは、IC近くの蕎麦処「山の恵」に行くことにしたが(O君がネット検索で発見)、「本日は完売しました」の貼り紙があり、残念至極。

致し方なく、中央道にのって八ヶ岳SAに立ち寄る。

「清里カレー」にそそられたが、朝のバイキングでカレーは食べたし、ちょっと高めなので断念。
「スタミナ丼」にした。かなり辛かった。

食後、そのまま大月駅まで送ってもらい、バイバイ。
派手な富士山のイルミネーションがあった。

電車に乗って間もなく、中野駅での人身事故の影響で最終的には35分遅れ。
結局帰宅は8時を過ぎてしまった。
それにしても、蓼科展望のリベンジはならなかったが、冬山らしさをいくつも体験できて、楽しかった。
O君も「はまりそ~」と喜んでいた。
【行程】2015年1月11日(日)
ちの旅館=白樺高原国際スキー場(蓼科牧場駅~御泉水自然園駅);登山口(9:00)~七合目(9:22)~(休憩5分)~将軍平(11:02休憩11:05)~(アイゼン装着10分)~山頂(12:31)~将軍平(13:05昼食13:15)~七合目(13:48)~登山口(14:07)
※所要時間:5時間7分(歩行時間:4時間39分)
※登った山:1座(新規なし)
※歩行距離:6.4km
【2015年1月10日(土)】蓼科山
高校の同級生O君が昨年11月に男体山に登るにあたり、アイゼンを購入した。
でも、その時は雪がほとんどなく使用できなかった。
早く使いたいから、どっか連れてってと、彼に懇願された。
とはいえ、私だって冬山はド素人である。
12本爪が生きて、自分でも登れるのは北八ツくらいしかない。
というわけで、蓼科山(2531m)に行くことにした。
彼は土日が休み。私は日月が休みということで、3連休の中日である11日に決行。
彼から「それなら土曜日のうちに現地入りして、スキーでもしている。茅野の駅周辺に宿をとるから、仕事が終わったらすぐ来ないか」とのお誘いがあったので、そういうことにした。
10日午後6時すぎに退社、徒歩で東京駅へ。
みどりの窓口で、新宿19時発の特急あずさの切符を購入。
指定席をお願いしたら、ガラガラだというので、やっぱり自由席にした。
その分、ホームで並ばなければいけなくなったが、先頭から5番目くらいだったので、席は自由に選べた。
ザックで席を確保してから、再びホームに出て、キオスクで買い出し。
缶チューハイとハイボール。つまみは、チーかま、牛タンジャーキーにチョコ。

ハイボール1缶だけで眠くなり、沈没してしまった。
21:20茅野着。宿は東口にあるのだが、スマホの地図が南北反対だったせいで西口に出てしまった。
少し歩いておかしいと気づき、もう一度確認して東口へ。
21:30すぎに、宿に着いた。「ちの旅館」である。
部屋は2階の「松」。
O君は案の定、電気、テレビ付けっぱなしで寝ていた。
テーブルの上には、酎ハイの缶が3つ空いていた。
起こすのは気が引けたが、自然に目を覚ましてくれたので、しばし焼酎「雲海」で歓談。
途中、さっと風呂に入り、12時前に就寝。
【2015年1月11日(日)】蓼科山
翌朝は6時半に起床。
窓の外を見ると、晴れてはいるが、山の方には雲がしっかりとかかっている。
あれがとれてくれるだろうか。
7時前に1階に下りて朝食。バイキング方式だ。イチゴとカレーがうれしかった。

8時前にO君の車で出発。
スキー場まではちょうど30km。白樺湖は結氷して、真っ白く雪が積もっていた。
このあたりは昭和の高原の雰囲気が残っていて、気持ちがいい。
8時半頃、スキー場に到着。直近の駐車場が満車だったので、路駐。
スキー場は朝早くから、団体さんなどでかなり賑わっていた。

野外の切符売り場で、ゴンドラ往復券(920円)を購入。
まだ8:40前なので、始発の8:50までしばらく待つ。寒い。

山頂方向を見ると、雲がものすごい勢いで流れている。

上は風が強そうだ。
車山の方に目を移すと、山頂のすぐ上に雲があるので、雲の高さは2000mくらいか。
我々はロープウエーを降りたら、間もなく雲の中に入ることになるかもしれない。
ゲートが開いて、2番目のゴンドラに乗れたが、わりとすいているのに関係ないおじさんも乗り込んできて、すこし気まずい雰囲気。
ゲレンデを歩いて登っているパーティーが2組ほどいた。かなりの急勾配だから大変だ。
7分ほどで頂上駅に到着。標高1830m(山麓駅は1560m)。

そこは私の嫌いな「恋人の聖地」だった。

でも、幸い風もそれほど強くはなく、雲もまだ高い。
迷わず出発することにする。9時ジャストだ。
登山口には御柱があった。

道標もあり、トレースもしっかりついている。

最初はほぼ平らな林の中だが、顔が異様に冷たい。

我慢して進む。

靴は冬用ニューシューズなので、今回は両くるぶしの上下計4か所にテーピングテープを貼ってきた。ひもは2段でゆるめに絞めたが、問題ないようだ。
雪も乾いていて、ありがたい。
林道を何度か横断するたびに傾斜が増してきて、体がやっと温まってきた。
顔も冷たくなくなった。

20分ほどで七合目に到着。標高はほぼ1900m。


ここには蓼科神社の鳥居があった。

おしっこ休憩して出発。雪はそこそこあるが、滑落しそうなところもないし、つぼ足のまま進む。

しばらくなだらかな登りが続く。

2100mを超えたあたりで、防火帯のように幅広い急な登りとなる。
この坂からは、背後の風景が見下ろせた。

美ヶ原方面だと思うが、ガスの中だった。
ここで先行者(単独男性、おそらくゲレンデの下から登ってきたと思われる)に追いつくが、追い抜きはせず5分ほどの休憩をとる。私は行動食のチョコを食べた。
この坂を登り切り、さらに進むあたりで、先行者を抜かす。
間もなく天狗の露地に出た。2200mあたり。

道標があったので、分岐を右折。
すぐ展望が開けた。車山高原スキー場やエコーバレースキー場が見えた。


天狗の露地と言われるくらいだから、岩場があるはず。わずかにその片鱗が雪の上から見えた。

それを撮ろうと、道を外れたら、胸まで雪に埋まってしまい、思わず「助けてくれ~」とO君を呼んでしまった。
でも何とか自力で脱出できた。
あれだけ埋まっても、靴には全く雪は入らない。
しかし、上を見ると、やはり天気はよくない。

将軍平までは標高差であと150mほどだが、依然として急坂が続く。


登山地図には「ザンゲ坂」と書いてある。
地形図を見ると、登山道は等高線と400mほども直交している。きついはずだ。
ここで小腹がすいたので、さっきのチョコを歩きながら1袋食べてしまう。
先頭のO君が、時々雪を踏み抜くので、消耗しているだろうと先頭を遅ればせながら代わる。


11時すぎに将軍平に到着。標高2350m。

登山口から2時間。夏季のコースタイム1時間半だから、まずまずか。
休みたいところであったが、少し風が出てきたので、お小水のみで樹林帯に逃げ込む。
つまり前進。

ところが、これまでのトレースはあらぬ方に行ってしまい、正規の道にはスキーのシュプールしか残っていない。
うぬぬ、この急登をラッセルしないといけないことになるとは。
コースタイムは30分だが、1時間はかかるなと覚悟。
(実際は1時間半もかかってしまった)
やむを得ない。道は真っすぐ登ればいいだけで、間違うことはないので、とにかく突き進む。

しばらくスキーの跡に従って登ったが、どうしても次の一歩が踏み出せないような埋まり方をするようになり、もう完全直登に切り替える。
このタイミングで、O君が前へ。

息も絶え絶えになりながらラッセルしていると、後方にさっき抜かした人とは別の人が追いついてきた。

でも、この人は我々には近づいてこない。
進んでラッセル隊の仲間に入るつもりはなさそうだ。
仕方ないので、O君と2人だけで交代でラッセルを続けた。

(つづく)
突然ですが、先日、前白根山から下山中、へまをして右足首を脱臼骨折してしまいました。
手術をして、現在、入院中です。
当日の顛末は後日ご報告します。無念です。
でも、基本的に元気です。
【2015年1月9日(金)】日の出山
日の出山(902m)の登りは木の階段が続き、結構傾斜がきつい。

頂上直前で、もう1人、単独男性に追いついた。

でも、頂上付近の写真を撮りながら登ったので、結局抜かすことはできなかった。

頂上部はお城のような石垣があるが、これはそれらしく作った近代の産物であろう。


たぶん、まがい物を作るべきではないという思想が希薄だった、昭和30年代以前と思われる。
頂上には平日にもかかわらず10人くらいのハイカーがいた。

12:35着なので、コースタイム2時間50分のところ、2時間25分。だいぶ短縮できた。


足元は霜が解けて、ちょっとどろんこだったが、天気がいいので眺望もいい。
御岳山(929m)と六ツ石山(1479m)、その向こうに鷹ノ巣山(1737m)。

本仁田山(中央左、1225m)と川苔山(右、1363m)。

麻生山(794m)。

丹沢。

大山(1252m)。

大岳山(1266m)。

都心方面。



富士山は浅間嶺(903m)の右に頂上部分だけちょこんと顔を見せていた。

こんないい天気なのに、富士山がまともに見えるところに行けなくて、ちょっともったい気もした。
かなり汗をかいていたので寒い。
ダウンをはおって、ホットココアと菓子パン2つの昼食。
撮影も含め30分ほど休んで出発。

時刻は1時過ぎ。これから3時間20分の道のりを2時間50分でクリアしないといけない。
南面する急な階段を下る。

前回(昨年4月27日)歩いた巻き道を合わせ、少し下ったクロモ上見晴台の下から、右へ回り込む。


ここで正面に麻生山。

そこから、いきなり日陰になる。

このあたりは広く伐採されている。

比較的平らなので、気持ちよく走って、麻生山のふもとの分岐を左へ。



分岐から5分ほどで頂上。日の出山から35分のところ、27分なのでまずまず。


下に「すばらしい眺め」と書いてあったのに、このくらいしか見えない。
竜ノ髭(768m)と、梅ノ木峠から三室山(647m)。


破線を頼って直進するが、なんか方向がおかしい気がする。

迷いつつもしばらく下ったが、いやな予感がして巻き道との分岐まで引き返した。
しかし、巻き道を行くと、さっきの道でどうやら正しかったことが分かった。

さっきは電波が通じなかったので確認できなかったが、山旅ロガーの履歴を見ても、さっきの道をあのまま進んで問題なかった。まだまだ甘い。

結局、この道探しと引き返しで、10分ほど無駄にしてしまった。
普段なら、どうってことないが今回はちょっと痛い。
引き続き、登り以外は走る。時間が結構厳しい。

ここはハセツネコースの65km地点のようだ。

この標柱に妙な案内がある。

タルクボの峰は一体どっちの矢印なんだ。
一応、安全策をとって、尾根の踏み跡に分け入ったが、まったく意味のない、むしろ危険な道だった。
すぐに登山道に合流して、間もなく分岐があった。


この黒の矢印は何のためのものなのか?
親切のつもりなのだろうが、自分しか分からない案内を書くのは止めてほしい。
タルクボの峰の頂上には送電線の鉄塔がある。

その基部に山名板がくくりつけてあった。

「峰」とも「頭」とも呼ぶようだ。ちなみに「タルクボ」は漢字で書くと、「樽窪」。
タルクボの峰も反対側に踏み跡はあったが、不明瞭なので大事をとって戻る。
これはほとんど時間の無駄にはならなかった。
麻生山を振り返る。

奥はさっき歩いたアタゴ尾根。

間もなく分岐が出現、右の金比羅方面に行きかけたが、「白岩山」と書いてあったので、「あ、そっちにも寄るんだった」とあわてて、左へ。

ずっと下り。左はフェンスがあって立ち入り禁止。

白岩山(632m)は小さな突起で

表示には「タルクボノ頭」「白岩山」「白石山」の三つの表記があり、「どっちが本当?」の落書きもあった。


この標高は地形図とは異なる。ここは何だか全く統一がとれていない。

これは地形図と同じ。

登山道に戻って引き続き走る。

ここはずっと日陰なのか、落ち葉に霜が下りたまま。

左手が開けて、お隣の勝峰山(454m)に至る尾根や都心方面が展望できた。



詳細登山図に書いてあった南沢山(573m)へは分岐に道標があった。

「あじさい山方面」とある。
ここにも、うれしいことに古い山名板があった。


この先の踏み跡は荒れていたが、方向的には間違っていないので、戻らずに進む。

まもなく巻き道に出た。
作業動などと交差しながら、ほぼ平坦な道を走る。


大小さまざまなこぶには必ずピークを経由する踏み跡がついている。
行かないと気が済まない人が一定数いるようだ。
登山道は金比羅山(468m)を巻いているので、適当なところで踏み跡に入る。
山頂らしきところに達したが、山名板などは何もない。

踏み跡はずっと先まで続いているが、神社に寄るには戻らないといけない。
地図ロイドで現在地を確認すると、468mピークはとっくに過ぎていた。
戻って、それらしき場所で山名板を探すが、見当たらない。

そこに踏み跡の分岐があり、左折して巻き道に戻る。

すこし走ると、大岩が出てきて、その前に祠。

さらに、すぐそこに琴平神社。

時間は15:12。麻生山からのコースタイム1時間55分のところ、ロスタイム含め1時間40分ほどで来た。
あと駅まで45分のところ、残り時間は同じく45分。
なんとか間に合いそうだ。
境内にこんな山名板が。

ここの標高は約440m。小さく修正してある数字も間違っている。
階段を下りると、展望台に出る。なかなかレトロな雰囲気だ。

五日市市街を見渡せる。



この先はしばらく、ツバキが咲く金比羅公園内の道。


そして最後は急勾配の舗装の下り。駆けると右膝に違和感が出てきたので、走るのはやめた。

すり足で下り、人里に出てきたのが、15:25頃。

電車の時間まであと30分ある。これは余裕で大丈夫そうだ。
すっかり陽も傾いてしまった。


五日市小学校の横を通るとちょうど下校時間。

緑のおじさんに「こんにちは~」と声をかけると、「山?」と聞かれたので、「そうです~」と会釈した。
10分ほどの余裕をもって五日市駅に到着。15:57の拝島行きに乗車。


食事にありつけるまで、まだ3時間はあるので、残りのクリームパンを電車の中で食べる。
1㍑のアクエリアスも、ここで飲み干した。
水分補給は、ハイドレーションもボトルホルダーも使わなかったので、本日はザックを前に抱えて飲む方式だった。面倒だった。
立川駅に16:30着。

駅北口から徒歩7分の銭湯「梅の湯」へ。

温泉ではないので、450円。
秋川駅から同じく徒歩7分で、「阿伎留の四季」という人工温泉があったが、入浴料900円だったので安い方にした。
梅の湯はよく温まった。
電気風呂というコーナーがあり、入ってみたらビリビリしてびっくりして、すぐ避難した。
かなり疲れたので、少しの酒で酔っぱらってしまいそうだ。
予防のため、コンビニでソフトを買い、胃の内壁をコーティングする。
予定より早く駅に戻って来られたので、座れる快速に乗ったら、何度も待ち合わせで停車しているうちに、思いの外時間がかかり、宴会のスタート時間に数分遅刻してしまった。


楽しい酒だった。しかし、この日は最低8kmくらいは走ったので、腕の方が筋肉痛。
やはり歩くのと走るのとでは疲れ方が違うことが、よく分かった。
【行程】2015年1月9日(金)
新所沢=二俣尾(10:10)~愛宕神社(10:34)~愛宕山(11:15)~三室山(11:30)~梅野木峠(11:47)~高峰山(12:05)~竜の髭(12:19)~日の出山(12:35撮影・昼食13:07)~麻生山(13:34道探し&戻り13:47)~タルクボノ峰(14:06)~白岩山(14:15)~南沢山(14:47)~金比羅山(15:07)~琴平神社(15:12)~武蔵五日市(15:48)=立川
※所要時間:5時間38分(歩行時間:5時間6分)
※登った山:10座(うち新規9座:愛宕山、三室山、高峰山、竜の髭、麻生山、タルクボノ峰、白岩山、南沢山、金比羅山)
※歩行距離:18.4km
【2015年1月9日(金)】日の出山
タイトルに日の出山とあるが、日の出山が目的ではない。
この日は、夜7時から千駄木でテツの飲み会があるので、それまでにお風呂も済ませて駆けつけたい。
となると電車で行ける近場。
奥多摩で標的を探したところ、二俣尾駅から日の出山(902m)に登り、金比羅尾根を武蔵五日市駅まで下れば、「登った山」もたくさん稼げることが判明。このコースに決めた。
前日、神保町の石井スポーツで雪洞用スコップを買ったついでに、トレランシューズも買ったので、今回は積極的に走ることもテーマにした。
この関係で、一眼レフの大きなカメラは持参せず、コンパクトカメラだけにした。
6時半に起床。8:15に出発。
通勤・通学客とともに8:34新所沢発の電車に乗り、東村山、小川、拝島、青梅と乗り換えて、二俣尾駅に向かう。
青梅線では、南の車窓にくっきりと富士山が見えた。
今日のルートから富士山は見えるだろうか。
青梅に着いて、ホームにあるレトロな待合室で乗り継ぎの電車を待っていたら、構内アナウンスで妙なことを言っている。次の奥多摩行きは9:51だ、と。
あれ、事前に駅探で調べたときは9:40に二俣尾に着くはずだったがどうなっているのか?
改めて、駅探を見てみると、拝島でわざわざ1本見送っていたことがわかった。
4分の待ち合わせだったのに、なぜか15分ほどあると勘違いしていて、のんびりしていたのだ。
これで計算がかなり狂ってしまった。二俣尾着が計画より20分以上遅れて10:03。

予定している帰りの電車が武蔵五日市発15:57なので、5時間50分しかない。
コースタイムは6時間10分なので、これは必然的に走らねばならなくなった。
とにかくストレッチをして10:10に出発。
初めて履いたトレランシューズだが、履き心地はいい。
この道を車で通るたびに気になっていた書店「多摩書房」。こんな姿でも頑張っている。

国道を渡り、多摩川に向かって下っていくと、左手に「山高水長(さんこうすいちょう)」と刻んだ石碑が目に飛び込んできた。

初めて聞く言葉だったが、不朽の功績や名誉を讃えて言う表現で、「山のごとく高く、川のように長い」という意味らしい。
何を讃えているかというと、この先にある奥多摩橋の建設のことだった。

この橋は、吉野村柚木と三田村二俣尾(現在はいずれも青梅市)を結ぶ橋である。
古くから両地区は密接な結びつきがあったが、このあたりの多摩川は渓谷が深く、急流なため容易に橋を架けることができなかった。
そのため、村人たちは「竹ノ下の渡し」などの渡し舟で渡るしかなかった。
しかし、近代になって人の往来が頻繁になるに従い、架橋の気運が高まり、大正9年2月、地元に架橋促進委員会が発足。
その後、資金捻出に努め、同12年3月には両村議会の決議を経て、東京府に府費の補助を願い出た。昭和2年4月に認可され、11年11月11日に着工。同14年3月31日に竣工し、5月15日に開通式が行われた。
総工費11万600円。橋長176m、幅員4.5m、高さ33m。
石碑の末尾にはこう記されている。
「推フニ工ヲ企テテ以来実ニ二十余年 此間昭和初年ノ農村不況アリ 其後ノ物価騰貴アリ 種々ノ困苦ニ遭ヒシガ 両区及ビ内外当事者ノ努力ハアラユル障害ヲ克服シテ前人ノ成シ難カリシ事ヲ完成スルニ至レリ 乃チ茲ニ其梗概(こうがい=大略)ヲ記シテ後昆(こうこん=後世の人)ニ伝フト云爾(しかのみ=これにほかならないの意)」(旧字、異体字は新字に直した)
これを読むと、「山高水長」と銘打った当時の気分がよくわかる。
奥多摩橋という名称自体、当時としては奥多摩を代表する橋という自負をもって命名されたに違いない。
道路はのちに改修されて、当時の雰囲気は分からないが、欄干から乗り出して見ると、見事なブレースドリブアーチ橋(アーチ部分をトラスにした橋)である。

全体のフォルムはこの影で想像してほしい。

戦前の鋼アーチ橋としては最大スパン(108m)であることに加え、アーチライズ(アーチの高さ)の大きい優美な橋であることから、平成21年に土木学会の「選奨土木遺産」に選定されている。
思いがけず貴重なものを見てしまった。
橋からの眺めも素晴らしい。
北西に高水三山。

本仁田山(1225m)。

三室山(467m)方面。

多摩川下流。

橋を渡った突き当たりを左折、200mほどで右手に愛宕神社の鳥居が見える。

門前の道は、かつての鎌倉街道の1つだったようだ。

沢を石橋で渡って境内に入る。

本殿へは階段を登る。

今年、何度目かの初詣。というか安全祈願。

振り返ると、景色がいい。

青梅丘陵が東西に横たわっている。


登山道は本殿の左を進む。

登山口に、俳人で登山家の福田寥汀(1905~1988)の句碑。

「徂く春の旅山ひと夜渓ひと夜」。なかなかいい句だ。
植林の中を黙々と歩く。



石井スポーツの店員さんは「ソックスは登山用でなくていい」と言っていたが、心配なので厚手にした。
冬だから別に蒸れないし、靴底の接地する感じもいい。
ニュー冬靴と違って、トレランシューズは初日から快調だ。
10分ほど歩いて、即清寺からの道を左から合わせると、石仏が続々と現れた。

「山内新四国八十八ヶ所霊場」とあるが、いきなり第55番だ。
丁目石もいきなり8丁目から出現。

今、登っているのは愛宕神社の奥宮がある愛宕山(584m)なのに、里宮からではなく即清寺からの道の方が幅をきかせている印象だ。
それも、この「盛上げ隊」の仕業のようだ。

いや、「札所」自体はかなり古いもののようなので、神仏習合の時代の産物と考えればいいのだろう。
64番と65番。

72番から81番までが集中しているところもあった。

84番は千手観音。「第八十四番 讃州 矢嶋寺写」とあるので、四国八十八ヶ所をそのままなぞっているようだが、「屋島寺」が正しい。当時は、あまり漢字は気にしなかったもかもだが。

最後の88番はさすがに立派で4面に様々は仏像が彫られている。


やっと石塔シリーズが終わったというあたりで、おじさんが1人地べたに腰を下ろして休んでいた。
まだ、序盤だが大丈夫だろうか。
こちらは、シューズの調子がよく、かなりのハイペースで登る。

奥の院には駅から1時間5分で着いた。下界からの標高差は350mほど。

結構なスピードで登ってきたが、石塔群の撮影などに時間をとられ、それほど早くはない。


手水鉢の水は完全に凍っていた。

ここから三室山までは標高差60mほど。


愛宕山から15分で到着。


駅からのコースタイム1時間半のところ、1時間20分だった。
東側が開けており、都心方面が望めた。

アップにするとよく分かる。

こちらは青梅丘陵。

下りには巨岩が散見された。


体も温まったので、三室山から下りや平坦な道は走ることにした。

一眼レフを提げていないので走りやすい。
登りは無理しないで歩くが、ペースはいつもよりは早め。
こういう展望の利かないコースは走るのに適している。
途中、重爆撃機「飛龍」墜落の地の説明書きを発見。

昭和20年8月11日というから終戦直前だが、浜松基地から熊谷基地に向かっていた「飛龍」がこの山中に墜落。春日改造大尉以下12名が全員死亡した。原因は不明とのこと。
梅ノ木峠に出る手前の655mピークは何となく気になったので、巻かずに登ってみたが、山名板などは何もなかった。
ただ、木には「柚木共有」の文字がペンキで書かれていた。

「柚木」とはこのあたりの地区の名称である。
下りで左手が開け、これから登る高峰山(755m)と日の出山、奥に大岳山(1266m)がほぼ一直線に並んで見えた。

梅ノ木峠は車道が交差している場所で、景色がいい。


はるか南に丹沢の山並みが遠望できる。

アップ。

鈴木元都知事筆の石碑があった。

アンテナまでは舗装された車道を行く。

手前で左のダートに移る。

アンテナを振り返る。

高峰山は巻き道が太いので、1回間違ってそちらに行きかけたが、すぐに戻って、尾根に取り付く。

このコースには、ところどころにこういう標高を示す杭があった。

植林の中を登る。

頂上もこんな状態で全く展望なし。


軽やかに下り、巻き道と合流。

すぐに、次の768mピークへの尾根道に分け入るが、このルートは登山地図にも地形図にも表記がない。
でも当然、踏み跡があったので、そちらに行く。

ここは、事前に吉備人出版の「詳細登山図」で「竜ノ髭」という名称があることを確認してあるので、無駄足にはならない。

頂上には、朽ちた山名板と、ビニールテープにマジックで書いた表示があった。


ここも軽やかに下り、すぐ日の出山への登りとなる。
ここで老夫婦に追いついたが、彼らは巻き道を行ってしまった。

彼らは早くも、つるつる温泉直行だろうか。
(つづく)
【2015年1月5日(月)】洞爺湖
1月4~6日にかけて、札幌の実家に娘と帰省した。
このうち5日は娘と2人で洞爺湖にドライブに出かけた。
今回は世間では正月休みも明けた平日なので、同じ年のいとこもお仕事で付き合えないので、私が遊びに連れて行くことに。
洞爺湖は距離的にも手頃だし、湖と山があるので、ぶらりと遊びに行くにはちょうどいいところだ。
高速は使わず、国道230号で向かう。
中山峠で寄ったトイレはとてもきれいで、こんな正月飾りで迎えてくれた。

しかし、中山峠も昔とは随分、雰囲気が変わってしまった。
娘に見せたかった羊蹄山は雲に隠れて見えなかった。
喜茂別まで下ってくると、正面に尻別岳(1107m)が見えた。

いずれ、この山にも登ってみたい。
雪は意外に少なく、このあたりでも舗装面が露出していた。
サイロ展望台で休憩。ここは230号経由で洞爺湖に行く時には必ず立ち寄る場所だ。

天候はまずまず。ここからの眺めはすばらしい。中島の最高峰はトーノシケヌプリ(455m)。

左の小さいのが昭和新山(398m)、中央が有珠山(737m)。

中島の右に浮かぶのは、観音島と弁天島。

ほとんどの人がサングラスをかけた団体さんは中国人だった。

騒がしいので、早々に避難。湖畔に向かう。

振り返ると羊蹄山が見えるはずだが、すそ野しか見えなかった。

湖畔に行く前に、2000年の噴火跡を見学。
遊歩道を歩こうとしたら、冬季は閉鎖中。

諦めて、車で行ける金比羅火口に向かう。
ここは数年前のお正月、息子と来たことがある。
その時は、駐車場に管理人も誰もいなかったが、今回はしっかりいて、1000円徴収された。
でも、その光景は迫力満点で、娘もびっくりしていた。

雪に埋もれた火口って、あまり見たことがない気がする。
こちらは洞爺湖温泉。手前はかなり被害に遭っている。

保存されている被災した建物。

温泉街の拡大。

中島の全景。

羊蹄山を遠望。

洞爺湖サミットが行われたザ・ウィンザーホテル。

溶岩ドームが雄々しい有珠山。

噴火湾。

娘は一面の雪に大喜び。

ちょうどお昼になったので、湖畔のラーメン屋で味噌ラーメン。
娘のリクエストでラーメンにしたわけだが、評価は「ふつう」とのこと。
お腹も落ち着いたところで、入浴。
前夜の同窓会で、お薦めを聞いたら、「やはりサンパレスでしょう」とのことだったので、「なんてったって宇宙一」のサンパレスへ。

HPで見ると、入浴料800円とあったので、「意外に安いな」と思っていたら、1人1500円の請求。「え、800円じゃないの?」「ただいま、冬休み料金になっておりまして」とのこと。それにしても倍以上とは。
プールに入ろうが入るまいが、同じ料金のようだ。
もちろん、手前どもはお風呂だけ。
娘と別れて、男湯へ。

浴室はすごい。まず脱衣所が広いし、カランが大宴会のように行列をなして並んでいる。
で、カランと浴室は別室。
その奥に露天風呂。これが、目の前に洞爺湖がずどん。

私もにっこり。

ここは水深が1.2mもあり、誰もいない瞬間を見計らって、泳いでしまった。
ゆかい、ゆかい。
内湯からも当然、中島は見える。

のんびり浸かり、しっかり洗って、待ち合わせ場所へ。

娘も「すごかったね~」と大満足した様子だったので、これは1500円でも、よしとしよう。
それでは、サンパレスを後にして、同窓生がやっているスイーツのお店へ。


岡田屋さんは、私より8期したの後輩が専務を務めていらっしゃる食堂。

「白いおしるこ」が大人気だ。
娘はあたたかい「白いおしるこ」をオーダー。
私は、あずきアイスが白いおしるこの真ん中に浮いた「洞爺湖おしるこ」にした。

これが、めちゃめちゃうまかった。
ここは、ニシンそばやカツカレーも美味しいと評判。
次は食事をしに来よう。
お腹も心も満足したので、再び娘のリクエストに従い、初詣へ。
私は年が明けてから何度神社に行ったかわからないくらいだが、彼女は初めて。
おみくじが引けるところがいいというので、この辺では一番大きい虻田神社へ。


この神社は北海道でもかなり古い部類に入る。
文化元年(1804年)、虻田場所(漁場)開設に伴い、場所請負人の和田茂平が松前藩主松前章広の命を受け、稲荷神社として創建された。
文政五年(1822年)の有珠山噴火、大正11年の長輪線(現在のJR室蘭本線)敷設の際に、場所を移転、現在に至る。
平成6年に開創190年を記念し、社名を「虻田神社」に改めたとのことだ。
参拝を終え、帰途につく。
その前に、すぐ近くにある洞爺駅を車から撮影。

なんか近代的な駅になっているなあ。
この駅は、昭和3年に虻田駅として開業、昭和37年に現在の名称に変更された。
帰りは高速に乗った方が早いのだが、支笏湖も見たいので、美笛峠経由で。
途中休憩した支笏湖畔のバス停にあったトイレは、暖房ががんがん効いていて暑いくらいだった。
午後6時には帰宅。久しぶりに実家での一族だんらんの夜を過ごした。
(おわり)