大谷嶺・八紘嶺に行った翌週、6日が西丹沢の加入道~大室山周回、その夜は奥箒沢のキャンプ場に泊まり、翌7日は久々の沢登りでモロクボ沢を遡行しました。
先週の3連休は、初日が赤城山ハイキング、2日目が雨の日光白根山、3日目が山梨の乾徳山と、ぶつ切り山行を敢行しました。
この週末は、秋山郷に出張を作ったので、山頂泊で苗場山に登ってきます。
来週は夏休みなので、北アルプスの入り口を徘徊します。
4日かけて、島々~徳本峠~霞沢岳往復~上高地~焼岳~西穂独標~上高地のコース。
その次は、金曜日に奈良出張が入ったので、8月3日に伊吹山、4日に御在所山。
帰京してから、2度目の夏休みで、信州の四阿山、草津白根山ハイキングをしてきます。
なんと、この中に百名山が5つも入っている(すでに登っている赤城山は除く)。
我ながら、驚きです。
夏の計画はここまで決まっています。
頑張ります!
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6月30日。10:20、大谷嶺に登頂した。

ここは標高2000m。西暦2000年には多くの登山者が訪れたことだろう。
しかし正確には、1999.7m。こうなるとノストラダムスの大予言である。
標柱をよく見ると、山名の部分が削り取られている。

おそらく「行田山」と書かれていたのを削り、マジックで下に「大谷嶺」と書いたのだろう。削られた方は、なぜか削られた部分にではなく、左に小さく「行田山」と書いている。
山頂は山梨県早川町と静岡県葵区との境界にあるが、この標柱を立てたのは、早川町の方。
となると、こういう経緯が想像される。
山梨県側では古来「行田山」と呼んできたから、その名前で立てた。
しかし、この山は静岡側から登るのが便利であり、登山者も静岡県民が圧倒的に多いと思われる。地形図に山名表記はないが、昭文社の地図には「大谷嶺(行田山)」となっており、行田山はサブの扱いだ。
勝手に「行田山」を名乗られて、怒った静岡の方が削ったのだろう。
「山」は残してあるのは削るのに疲れてしまったのかもしれない。
削られた山梨側が、その上に書き直さなかったのは、勝手にやってしまったことにちょっぴり反省したからか、書き直したらまた削られてしまったからか。
とにかく、静岡側と相談して、お金も出し合い、二つの名前を併記すれば登山者にとってはありがたかったのに。
もしかしたら、話し合ったけど物別れに終わって、早川町が意地で立てたのかもしれないけど。
それにしても、みにくい争いを登山者は見せられることになった。残念である。
こちらの方はさすがに消せなかったのか、となりにマジックで「大谷嶺」と書かれている。

やはり標高に合わせて2000年に作られたもののようだ。
山頂はわりと広々としている。

ただ、南側はすぐに切れ落ちており、崩壊はまさに山頂から始まっている。
その縁に丸太のベンチがあり、どっかりと座って大休止とした。
チョコをかじる。
休んでいるうちに晴れてくることを期待したが、叶わなかった。
ここでも20分ほど休み、記念撮影をして出発。

この先は下り基調だが、地形図を見ると、結構なアップダウンがある。
まずは五色の頭(1859m)まで40分の道のり。
ここからは崩落地形から離れ、緑したたる樹林帯の中を歩く。

あたりは濃いガスに包まれている。

35分ほどで、五色の頭に着いた。

O君がこんな小さな手書きの文字を見つけてくれた。
よくよく回りを見ると、こんな古い木の道標も地面に置いてあった。

ここは樹林帯で地形もはっきりせず、およそピークとは思えないところで、標識すら見過ごすところだった。
ここから八紘嶺へは55分とある。
距離は大谷嶺~五色の頭までより短いが、かなり険しいようだ。
ロープ場もあちこちにあった。

たぶん、このあたりが山地図に「最低のコル」と呼ばれるところ。

雨も落ちてきたので、もうゴアを着込んだ。
そして、小さなコブを越えたところがキレット。

標高はいずれも1780m。あと140m登らないといけない。

結構きつい。私は遅れ気味だ。
12:10、八紘嶺(1918m)に到着。五色の頭から50分。またまた5分早かった。

標識は山梨によくある古いタイプ。丸太を輪切りにして1文字ずつ書くパターンだ。
これはいつ頃、流行ったものなのだろう。
山頂には確か3人の女性グループがいた。正確な人数は忘れた。
とにかく、ここで昼食とする。
みなそれぞれのガスストーブで、それぞれのラーメン。
私は野菜ちゃんぽんのカップ麺。O君からおにぎりを一ついただいた。
こちらからは焼き鳥の缶詰をお裾分け。
これも山では案外うまい。
これはO君、ラーメンをすするの図。

大谷嶺は湿気ですこしむあっとした印象だったが、少々冷える。
気温が下がってきているのかもしれない。
温かいラーメンがちょうどよかった。
山頂はそれほど広くはなく、岩がごつごつしている。

昼食中、雨に降られず助かった。
ここから北に向かうと3時間ちょっとで七面山(1989m)に通じる。
結構な縦走になるが、どちらもバスの便があるので、わりとやりやすいかもしれない。
本日は無論、車をデポしてある安倍峠方面に向かう。
去り際の記念撮影。

これから延々下りである。
駐車場は標高1320mほどだから、600mも下らないといけない。
それも、この天気だから、路面は滑りやすい。
随分気を遣った。

つづら折れの道やロープ場も通過していく。


途中、富士見台という展望スポットがあるはずだが、たぶん何も見えない。
O君は「エア感動をしよう!」と提案。
何も見えなくても、「すげ~、めっちゃきれい!」とかって、感動するのだそうだ。
いろんなことを思いつくものだ。
私もふざけて、ガレ場の歌を作った。
淡谷のり子や越路吹雪が歌った「枯葉」のままに「ガレ場よ~」と歌ったのだが、O君のお友達には分かってもらえなかった。
歌が下手すぎた。
で、その富士見台。何の標識のなかったので通過してしまい、エア感動をする暇がなかったのだが、たぶんここのことだった。

展望どころか、崩落の危険があるため通行止めになっていた。
この後は安倍峠への稜線を離れ、枝尾根を下っていく。
その途中に安倍峠への分岐。

実はこの先も随分写真を撮ったのだが、原因不明の故障で写っていなかった。
家に帰ってセットし直したら、自然に直っていたので、雨水が一部しみこんでいたのかもしれない。
スタッフバッグでカバーしていたのになあ。
というわけで、この後は写真なし。
14:10ごろ、安倍峠下の登山口に到着。
ここで先行していた女性3人組みに追いついた。
あとは大谷嶺の登山口に車で向かうだけだが、わがままを聞いてもらう。
「安倍峠が見たい!」
今日は富士山も何も見えないのは分かっているが、昨日越えられなかった峠をぜひ確認しておきたかったのだ。
2人には快く許してもらい、ありがたかったのだが、なんと道は静岡側も峠直前にゲートがあり、峠まで行くことはできなかった。
梅ヶ島温泉から安倍峠~バラの段~奥大光山を歩く周回コースがあるので、今度はそちらでリベンジしたい。
車で下山途中、鯉ヶ滝(恋仇)という美しい滝があったが、写真が失敗して見せられないのが悔しい。
この滝にまつわる恋の伝説もよくできた話だったが、看板の写真もないので、説明できないのが残念だ。
で、私の車の置いてあるよしとみ荘に到着。
2人は登山口に置いたO君の車を取りに行き、少し下ったところにある日帰り温泉「黄金の湯」で待ち合わせることにした。
2人を見送ってから、愛車に乗ろうとして、愕然。また鍵がない。
O君と来ると雨になることもそうだが、鍵のトラブルも発生する。
いや、これは彼のせいではない。
今回はザックを文字通りひっくり返して探したが見当たらない。
当然、鍋割山の時のように車に刺さったままというわけでもない。
これは、あいつの車の中に落としたとか考えられない。
で、連絡をとろうとしたが、なんと携帯番号を知らない。
メールを送ったが気づいてくれるだろうか。
悶々とした時間を過ごしているうちに、思い出した。
靴を履き替えた時、車のキーをその靴の中に入れたんだった。
彼もメールを読んだらしく戻ってきてくれた。
すぐに靴の中を確認して、キーを発見。事なきを得た。いやあ、まいった。
よしとみ荘の方に「お風呂どうぞ」と誘ってもらったが、黄金の湯で待ち合わせているので、丁重にお礼を言っておいとまする。
黄金の湯もアルカリ性の温泉だが、よしとみ荘と違って硫黄臭は全くない。
すこしぬるめなので、のんびり浸かり、午後4時半に解散。
O君は裾野に、彼女は浜松に、私は所沢へ戻る。
新東名からも富士山は見えず。
東名の大渋滞が恐ろしかったので、御殿場で下りて、東富士五湖道路・中央道・圏央道ルートで帰る。
中央道も小仏トンネルを先頭に大渋滞だったので、大月で下りて高尾までは国道20号。結局4時間半かかり、帰宅したのは9時すぎ。
登山より疲れました。
でも、安倍奥には楽しい山が結構ありそうなので、また秋に出かけてみたい。
【行程】
大谷崩登山口(7:55)~扇の要(8:20)~新窪乗越(9:25休憩9:40)~大谷嶺(10:20休憩10:40)~五色ノ頭(11:15)~八紘嶺(12:10昼食12:50)~富士見台下の分岐(13:50)~安倍峠下登山口(14:10)
※所要時間:6時間15分(歩行5時間)
※登った山:3座(大谷嶺、五色の頭、八紘嶺)
静岡の奥座敷・梅ヶ島温泉の夜が明けた。
カーテン越しに見える外は、それほど明るくない。
夜中にぱらついていた雨は上がっているものの、窓から見えるまわりの山には幻想的な雲がかかっている。

さすが、バロムクロスをすると必ず雨になる私とO君のコンビ。約束をたがえない。
朝7時半に迎えに来てくれると言うので、6時に起床。
6時半に朝食をいただいた。

ちょっと味の濃いおかずが多かったが、ところてんがうれしかった。
宿での朝食はいつも御飯1杯と決めている。
学生時代はがっついて、おひつを空にしたもんだが。
7時半少し前にO君登場。
同窓会以来2週間ぶり。友人を連れてくると言っていたが、なんと女性、しかも美人でびっくり。あいつもなかなか隅に置けない。
スキー仲間なんだそうだ。
すでに彼女の車を本日の山行ゴール地点にあたる安倍峠近くの駐車場にデポして来たというので、私の車は宿にこのまま置かせてもらい、3人で大谷嶺の登山口に向かう。
安倍川沿いに新田集落まで下り、右折して大谷川沿いの林道を登り返す。
その行き止まりが登山口である。

駐車スペースのすぐ脇まで、荒々しい川と堰堤が迫っている。

かわいい案内標識を見ると、どうやらここは日本三大崩れの一つで大谷崩(おおやくずれ)と言うらしい。

地形図をよくよく見ると、大谷嶺の山頂から西方向と南東方向の稜線に延々と「土がけ」の記号が続いている。その距離約3.5km。高さは800mもあり、崩壊面積は180haに及ぶ。崩れた土砂の量はダンプ2000万台分だそうだ。
さらなる土砂の流出を防ぐため、延々と砂防工事が続けられている。
これは大変な仕事である。
そして、この図によれば、登山道はこの崩落地形のど真ん中を歩いていくことになっている。
「ほんとかよ~」と思ったが本当だった。
いずれにしろ、登山靴に履き替え、軽く体操して、7:55に出発。
ものの5分も歩かないうちに、文学碑があった。
「五重塔」で知られる幸田露伴の次女、幸田文(あや)である。
私はここでガツンとやられた気分になった。
ここは日本三大崩れの一つである。そういえば、そのもう一つに行ったことがある。
去年のちょうど今頃、雨飾山を登る前日に塩の道を歩いた時、稗田山崩れという場所を通った。そこにも幸田文の文学碑があった。
そうだ、思い出した。
あの時は、へえあの和服のおばちゃんがこんな所に取材に来たんだ~、何か縁があったんだろうかくらいにしか気に留めなかったが、ここにも来ているとなると、関心は明らかに「崩れ」にある。
気になったので帰宅してから調べてみた。
そうしたら、彼女はなんとその名もずばり「崩れ」という小説ともエッセーともつかない作品を書いていた。

読んでみると、彼女は稗田山やここばかりではなく、もう一つの三大崩れ、常願寺川の鳶山(とびやま)崩れのほか、富士山の大沢崩れなどあちこちの崩壊地形を訪ねている。
そして彼女が、「崩れ」に初めて魅せられたのは、まさにここ大谷崩だった。
文学碑には「崩壊は憚ることなくその陽その風のもとに、皮のむけ崩れた肌をさらして…」と最初の印象を刻んでいる。

幸田文が「崩れ」を訪ね歩いたのは72歳の時のことで、作品は「婦人之友」に1976年から77年にかけて連載されたという。
ある人のブログによると、文学碑は先に挙げた4か所のほかに、栃木県・男体山、鹿児島県・桜島、静岡県・由比など3か所にある。これほど多くの文学碑が建てられた作品は珍しいのではないか。
ちなみに、ここの文学碑は1997年の建立。最も早く建てられたのは、稗田山のもので92年。これは3年後の集中豪雨による土砂崩れで流されてしまったが、翌年見つかって再建されたとのこと。
こんな話を聞くと、本当に日本は災害大国だという思いを強くする。
それで、大谷崩だが、最初の大崩壊が起きたのは宝永4年(1707)10月5日の宝永東海地震の際。
宝永火口ができた富士山の大噴火のわずか1月半前のことである。
いやいや、なかなか進まなくて申し訳ない。
ここは標高1247m。

稜線(新窪乗越)の標高差は約750m。これを山地図は2時間弱で登らせようとしている。
かなりの直登・急登であることが想像される。
ハイキングコースだなんて、そんな甘っちょろいものではない。

最初のうちは樹林帯を歩くが

すぐに大谷崩の渦中に入る。

途中こんな石を積み上げただけの「石仏」に出くわす。

この要塞のようなのは本谷砂防ダム。

昭和58年の完成で、高さ14.5m、長さ96.5mもある。
で、これを登り切ったところが「扇の要」。

崩落地形の末端的な意味だろうが、実際はまだまだ下まで土砂は崩れている。
これだけ崩れて岩だらけでも、樹木が繁茂しているということは、岩の移動が止まっているということだろう。

人間と自然との闘いである。
こう書くと、自然は「強い」ものというイメージで受け止められるかもしれないが、幸田文は案内してくれた富士砂防工事事務所の所長から「地質的に弱いところといいましょうかねえ」という言葉を引き出し、認識を改めている。
「巨大なエネルギーは弱さから発している」と、幸田文が感動とともに会得するくだりが「崩れ」の中で最も印象的なシーンだ。
それにしても、ガスが濃い。

でも、これだけ急勾配だと、上が見えない方がめげないで済むのかもしれない。
急坂を1時間近く登っているうちに

なんとなくガスが薄れてきた。


おお、これは! 期待を抱かせる展開。
なんと槍や剱を想起させる岩峰が姿を現した。

見よ、この急傾斜。

これなどは氷河のようにも見える。


氷ならぬ岩河。実際に岩が流れたのだ。
下の方もガスが晴れてきた気がする。

われわれの鉄壁コンビもついに崩壊か、と期待したが、実は我々の絆は日本三大崩れですら破壊することができなかった。
結局、大谷嶺に着く頃には、大谷崩は再び厚い霧に閉ざされ、八紘嶺への道々、とうとう雨が降ってきた。
O君が連れてきた友人は心の中で「いやぁ~ん、そんな山行に呼ばないでぇ」と心の中で叫んでいたそうである(彼女のヤマレコより)
申し訳ありません。
でも、次のニペソツはバロムクロスできないので、きっと晴れることでしょう。
とにかく、乗越までは霧の晴れ間を楽しみつつ登ることができた。

これは大谷嶺の大同心と名付けよう。
で、9:25、新窪乗越に到着。山地図タイムより25分も早かった。

この急坂をよく頑張った。
ここの看板は、日本語のほかに英語、中国語、韓国語で書かれている。
本当に日本って親切な国だ。

初めて知ったが、中国語では「注意」することを「小心」というらしい。
日本では「小心者」という言い方が一般的だが、臆病になれということなら、山にぴったりの表現だ。
大谷嶺の稜線の南側は巨大な崩壊地形だが、北側はたおやかな斜面で、緑が美しい。

これはヤブウツギだろうか。まだつぼみのままだ。

さて15分ほど休んで出発。

稜線に出たから少しは楽になるかと思ったが、そうは問屋が卸さない。
結構な登りが続く。
だが木々の間から時々、崩落の上部の姿が垣間見える。

あれは大谷嶺の手前のピークだが、ほとんど山頂直下から崩れているのが分かる。

つまり稜線のすぐ右は崖になっているわけで、登山道は危険を避けて、少し左側の緑の中に付いている。

おお、なんと青空が!

大いに期待を抱かせたが、これが見納めであった。
またすぐにガスがかかってきてしまった。

さっき見えたピークを越えると

一旦少し下って

40mほど登り返す。
景色が見えなくなると、見るべきものは足もとということになる。

霧の山中はみずみずしいのだ。と負け惜しみをつぶやく。
頂上はもうすぐだ。
(つづく)
蛾ヶ岳(ひるがたけ)山行を終え、駅舎撮影に繰り出す。
その前にまず四尾連集落をちょっぴり見学。
茅葺きの上にトタンをかぶせた屋根の古い民家が軒を連ねる。

立派なお堂もあった。

市川大門へ下っていく途中に「浄身石(じょうしんせき)」と呼ばれる石がある。

ここには清水が湧いている。その昔、木花咲邪姫が富士山の噴火から難を逃れるため、四尾連湖に向かう途中、急に陣痛が起きて、ここで出産。この石に座して、身を清めたという伝説が伝わっている。
さらに下ると、蛾ヶ岳が展望できる場所があった。

なかなか姿のいい山ではないか。
ここは清水の集落。

帯那集落を経て、市川大門の市街地を抜けて、少し甲府方面に戻る感じで、甲斐上野駅を目指す。
このあたりは身延線の駅間距離が非常に短い。
甲斐上野駅は2003年に建て替えられた真新しい駅である。開業は1928年。

ちょうど電車が来たので、ホームに入ってパチリ。

ついでに役場コレクション。

市川三郷町役場三珠庁舎。旧三珠町役場である。
旧三珠町のマンホールは「歌舞伎の里」。

田舎歌舞伎の町のようだ。
次は芦川駅。また電車がやってきた。今度は下りだ。


駅舎はホームの待合室のみ。こちらは1997年の改築で開業は1929年。

市川三郷町役場の本庁舎は合併後に建てたのか、随分近代的な建物だ。

次の市川本町、市川大門駅は3月に撮影済み、その先の鰍沢口、落居、甲斐岩間、久那土駅も2011年5月に撮ってあるので、さらに南の市ノ瀬駅まで、すっ飛ばすことになる。
ただ、身延線に沿った県道9号線はその時に通った道なので、面白くない。
たまたま山越えの道があるが、これは途中まで四尾連湖への道を戻ることになる。
山に登る前に市川上野駅や芦川駅を撮っておけば、同じ道を何度も行ったり来たりしたり、時間を無駄にしたりしないで済んだが、仕方ない。
朝は富士山が隠れてしまいやしないかと急いでいたのだ。
結局、湖への道をしばらく戻る。
また来てしまった帯那集落。

峠近くまで来ると、富士川沿いの集落が見下ろせた。

すっかり晴れてしまったが、やはり高い山には雲がかかっている。
ここは堀切集落。

こんなかわいい案内標識もあった。

下ると、身延町の久保集落。

近くに、「三保寿楽の湯」という日帰り温泉らしき施設があったが、土地の人に聞いてみたら、もうつぶれてしまったとのこと。
ちょっと不便だったのかもしれない。
この先にめずらしい石碑があった。

道店橋の竣工記念碑である。竣工は大正11年4月。そう古いものではない。
普請委員の方々や、渡り初めをした人の名前が刻まれている。
たぶん、立派な石橋だったのではないかと想像するが、今の橋はこんなに味気ないものになっている。

この山道(県道414号)を下りきると、久那土集落で県道9号に合流する。
集落を抜けて、すこし登ったところからの眺めが素晴らしい。

久那土集落が一望できる。
県道9号が国道300号と合流する近くに市ノ瀬駅がある。1932年開業。

着くと、駅前で女子高校生が一人、立って本を読んでいた。
たぶん、今電車から降りて、迎えを待っているところなのだろう。
思った通り、ほんの数分で車が迎えに来た。
次は旧下部町の中心街にある甲斐常葉駅。これで「かいときわ」と読む。

ここも新しい、ちょっとしゃれた駅だ。2000年の改築だそうである。
1927年の開業で、1950年には1日あたり900人の利用者があったが、今や75人(2009年)に減ってしまった。
近くにこんな案内板があった。

「身延町のスカイツリー」かあ。標高が634mで同じってだけなんだけど、ここにも「あやかり」屋さんがいたわけだ。
役場コレクション、身延町役場下部庁舎。

主はデイサービスセンターで、役所機能はもう出張所並みになっている印象だ。
次の下部温泉駅に行く途中、こんな建物があった。

一瞬、下部ホテルの廃墟かと思ったが、従業員の寮だった。
ちゃんと現役だった。失礼しました。
で、下部温泉駅。

なかなか駅名板に貫禄がある。

1927年に下部駅として開業したが、91年に下部温泉駅に改称している。
ここは昭和の雰囲気を残した温泉街だ。


随分前に家族で泊まった記憶があるのだが、いつだったかよく思い出せない。
この温泉は毛無山への登山基地でもある。どん詰まりの集落は「湯之奥」と言って、金山で有名なところだ。
その湯之奥集落に門西家という国の重要文化財の住宅があるので見学に行った。
行ってびっくり。
この集落は急な石畳の道に沿って家が並んでおり、車では入れない。

とても風情のある山村だ。
石畳の道の脇にはきれいな水が流れている側溝があり、その水を引き込んだ洗い場などもある。

門西家住宅は茅葺きの重厚な建物で、江戸中期の築という。

まだ現役の住宅で、今も門西さんがお住まいだ。
集落を詰めると、神社がある。

湯の奥山神社だ。
ぽつんと離れて、小さな石仏がたたずんでいた。

3分ほど歩くと、願かけ地蔵がある。

どの石仏にもクマのプーさんのバスタオルが掛けられていた。
車に戻る道からは集落が一望できる。

実に美しい。こんな村で生まれたかったなあと思ったりする。
さて、温泉街に戻る。ひと風呂浴びたいところだが、今夜の宿も温泉なんだから我慢我慢。
駅近くにある金山博物館を見学しに立ち寄ったら、なんと入館料500円。

300円なら入ったのだが。金山の勉強したかったなあ。
あとはひたすら駅舎の旅だ。
波高島駅。

これで「はだかじま」と読む。1927年に甲斐下山駅として開業、38年に現在の駅名に改称された。
地名の由来は駅前に説明板があった。
古来、富士川や常葉川の氾濫が頻発するため、水田稲作に適さず、畑作が主だったため「畑ヶ島」と呼ばれていたのが、転じたという。
「裸島」ではなかった。
駅近くからは、きれいなスカイラインを描いた身延山が見えた。

これまた待合室のみの塩之沢駅。1933年開業。

ここにも電車がやってきた。

随分日も傾いてきたが、もう1か所、文化財に立ち寄る。
身延町の旧市川家住宅。

1803年の建築だそうだ。もう210年経っている。
身延駅は撮影済みなので甲斐大島駅。

これまた新しい。2000年に改築だそうだ。開業は1919年。
南部町役場南部分庁舎。

随分立派なので、本庁舎かと思った。
すぐ近くに内船駅がある。「うつぶな」と読む。

南部町の中心駅で1918年の開業。現在の駅舎は1967年に建てられたものだ。
これをもって本日の撮影は終了。近くのコンビニで今夜と翌日の食料・飲料を購入。
国道52号に出て、身延に戻る。
途中、旧榧ノ木隧道に立ち寄り

梅ヶ島温泉に通じる安倍峠への分岐を目指す。
で、その分岐を左折した途端、この林道は土砂崩れのため、静岡方面には抜けられませんとの看板が!
じぇじぇじぇじぇじぇ~~~~
なんかそんな気もしたんだよなあ。
でも事前の確認を怠ってしまった。
このまま行けば30分くらいで着けるはずだが、ここを抜けられないとなると、52号をこのまま南下して清水に出て、静清バイパスで西進、また延々北上という長大な遠回りになる。市街地を通過するので、何時間かかるか分からない。
現在5時半。宿には8時までにチェックインすると申し込みの際に伝えてあったので、早速、宿に電話。これこれの次第で、8時過ぎるかもしれません。
「それは大変ですが、気をつけて」
とにかく気を取り直すしかない。
幸い、夕食抜きのプランで申し込んであるので、食事で迷惑をかける心配はない。
憮然として52号を走っていると、新東名の新清水まで6kmの標識が。
そうか新東名があったんだ。
これを使えば、市街地を走らないで済むし、随分手前で西進できる。
結局1時間半ちょっとで宿に着いた。

(これは朝の写真)
旅館よしとみ荘は梅ヶ島温泉街からは1軒ぽつんと離れた宿。
夕食抜きプラン6100円のところ、じゃらんポイント300円分を使い、5800円で泊まれた。
まずはお風呂だ。写真がないが、浴室は独り占め。
硫黄の匂いがかなり強いぬるぬるした湯である。
のんびり浸かり、山歩きと運転の疲れを癒やす。
部屋に戻ったら、さっきコンビニで買った唐揚げ弁当で夕食。量はこれで十分。
しばらくパソコン作業をして、10時に就寝。
晴れることを期待したいが、多分無理だろう。
何と言っても、明日の相棒は一緒に歩くと降水確率100%の最凶コンビなのだから。
(つづく)
6月8日(土)の雁ヶ腹摺山以来、3週間ぶりの山。
その間にのど風邪を引いてしまい、どうなることかと思ったが、何とかこの週末に間に合った。
静岡県裾野市に住む高校の同期O君から、「今度、涼しいとこに行こう。2500m以上!」と誘われ続け、6月30日(日)に安倍奥の大谷嶺・八紘嶺に登る約束をした。
彼からは、八ヶ岳の県界尾根・真教寺尾根の提案を受けたが、調べてみたら、なんと標高差1300m、9時間のコース。
「ちょっと病み上がりには無理です」
とギブアップ。しかも、予報は必ずしもよくない。
晴れマークがあるのは、むしろ静岡方面なので、「伊豆の猫越岳とかどう?」と提案するも反応なし。
むむ、1000m程度の山など行く気がしないのだな。
あれこれ悩むうちに、静岡市の奥座敷・梅ヶ島温泉を拠点に、車を2台使えば、大谷嶺(2000m)と八紘嶺(1918m)という山を5時間程度で縦走できることが判明。
2500mには足りないが、これでどうだ!地元だぞ!ってな勢いでメールする。
O君からは「日曜日ね」との返事があったので、土曜日の夜、梅ヶ島温泉の民宿に予約を入れてしまった。
なんたって、所沢からだと4時間は軽くかかる。
当日未明に出て、帰りも4時間以上(実際は4時間半かかった)運転するのはご免だ。
となると、土曜日どうする?
まっすぐ梅ヶ島に行くだけではもったいない。
晴れるはずの猫越岳にも未練があったが、ここも遠い。
縦走するには単独だとバスとタクシーも使わなくてはいけない。
考えた挙げ句、病み上がりの足慣らしということで軽めのところ。
今年3月に断念した山梨の蛾ヶ岳(ひるがたけ)に登ることにした。
四尾連湖畔に近い登山口から登り1時間半程度。
基本ピストンだが、帰りは四尾連湖をぐるりと回り込めば、違う道も歩ける。
時間は余るだろうから、午後は身延線の駅舎撮影をしながら、梅ヶ島温泉に向かえばいい。
久しぶりに「鉄」も混じった楽しそうな週末だ。
しかし、この計画には大きな落とし穴があった。
それに気づくのは、夕方の午後5時半を過ぎてからのことだ。
6月29日(土)。午前4時半に目覚ましをかけ、前夜にパッキングは済ませておいたので、4:50に出発。
圏央道、中央道で市川三郷町方面に向かう。
曇り空で富士山の眺望は諦めていたが、大月で富士山が見えて、俄然テンションが上がる。
これはラッキー。途中、事故のため勝沼~一宮御坂間が通行止めで強制的に下ろされるが、気にならない。一宮からもう一度乗り直し、次の甲府南で下りる。
3月に駅旅をした市川大門駅近くで左折。四尾連湖への登りにかかる。
本当は、駅から歩く登山道があるのだが、今日はショートカットする。
7:30、登山口の駐車場に到着。

駐車代金は400円で、徒歩2~3分のところにある四尾連湖畔の水明荘まで支払いを、との案内看板があったので、素直に歩いていく。
四尾連湖の名の由来調べていないのでよく分からない。
が、ここの看板によると、富士五湖に、北の明見湖、南の浮島沼を加えて富士八湖の一つなのだという。

「甲斐国唯一の景勝地」とあるが、それを言うなら「随一」であろう。
それと「世にも珍しい山上湖」ともあったが、これも大げさ。山の上にある湖など、とくに珍しくない。
実は、四尾連湖を訪ねるのは初めてである。
高校時代に「地理の狼」と呼ばれたほど、地理には強かったが、この湖の存在を知ったのは随分最近になってからだ。

それほど俗化されておらず、雰囲気のいいところだ。
青空であれば、湖面の青ももう少し鮮やかだったのだろうが、回りの緑を映し、これはこれでとても美しかった。
白鳥のボートは余計だった気がするが。
湖畔には2つの茶店(宿)があり、そのうちの水明荘に駐車料金を払う。
蛾ヶ岳のバッジがあったので購入。500円だった。
駐車場に戻ると、管理人さんが到着していて、未払いの車のナンバーをチェックしていた。
すでに支払いを終えた私には、愛想良く挨拶してくれた。
さて、8時ちょうどに出発。

登山届のポストがあったので、一応名前を書き込む。
歩き始めてすぐ右折。林道から登山道に入る。

登山口はちょうど標高900m。頂上までの標高差は400m弱だ。
最初はジグザグを繰り返しながら、山腹を尾根に向かう。
病み上がりなので、体の調子を図りながら、ゆっくりゆっくり歩く。
傾斜が結構きついので、ゆっくりとしか歩けない。
道端にはもうキノコが生えていた。

キノコは秋のものと思っていたら、こんな時期からもう始まっているのだ。
20分ほどで稜線に出た。

標識には「大畠山」とあるが、ここは山頂ではなく、正確には「大畠山の肩」と呼ばれるところ。標高は1100mだから、もう標高差で半分登ってきた。
ここから先、頂上直下の西肩峠までは、ゆるやかなアップダウンの続く、ほとんど疲れない道。ここまでの登りで随分息が上がったが、この道で体力を回復できた、

途中、白い花が咲いていた。何の花だろう。

ところどころ、ヤセ尾根があるが、とくに危険なことはない。
ずっと樹林帯で眺望もほとんど得られなかった。
西肩峠(1175m)には9時ちょうどに到着。

こんなに丁寧な(標高入りの)手作り案内標識があった。
そして、昭和21年に設置された六地蔵がたたずんでいた。

一見かわいらしいが、よく見ると、妖怪人間ベムのようでちょっと怖い。
さて、ここから道は左に大きく屈曲して頂上に向かう。

かなりの急坂を10分ほど登ると到着。蛾ヶ岳1279m。

(自分で撮ると、ちょっと気持ち悪い)
なぜ、蛾(が)と書いて「ひる」と読ませるのかは不明だ。
ここからは真正面に富士山が見えるはずなのだが、見事に雲の中。
大月からは見えたのだが、実に残念。

その代わり、手前の竜ヶ岳ははっきり見えた。

振り返ると、南アルプスが一望できるはずだったが、これもNG。
でも、眼下に四尾連湖が望めた。緑のバームクーヘンのよう。

それから、こちらは四尾連の集落。

下りで立ち寄る予定の大畠山。

全景にすると、このように見える。

ご覧のように、南アルプスは雲の中だ。
頂上には、60代のご婦人がいらした。
「こんにちは~」と声をかけると、私が登ってきたのに気づかなかったらしく
「あ~~びっくりした」との反応。
「ここからの下りがきついと聞いたから、ストックを出してたの」
その作業に集中していたようだ。
聞くところによると、彼女は昨日、市川大門駅から登って、湖畔の宿に宿泊。
今日はここ蛾ヶ岳を登り、三方分山を経由して精進湖まで歩くとのこと。
改めて地図を見ると、ものすごくアップダウンが激しく、しかも長いコースで、通好みのルートである。単独だし、ザックも年季が入っていたから、相当なベテランだろう。
田部井さんに似ていた気がしたが、まさか本人ではあるまい。
こちらはしばし休憩。
山頂には、小さな石の祠があった。

20分ほど、ゆっくりして山頂をあとにする(9:30)。

ここの山名標は非常に味気ないものだった。
下りは来た道を引き返すだけなので、無心というか、何も考えずサクサク下る。
実は、途中にいくつか小さなピークがあって、登山道はそれらを巻いている。
地形図には山の名前は書いていなくても、別の資料に書いてあることもあるので、今回は「新・分県登山ガイド 山梨県の山」も見て、ないことを確認してきた。
だから、わざわざ尾根道に入らず、巻き道を素直に下ってきたのだが、それが間違いだった。
湖畔の宿で駐車料金を支払った時、手書きの登山地図をもらったのだが、途中に「小高山」という山が書いてあるではないか。
それを見たのは、もう下山してから。
なんとなくいい加減な地図のような気がして、一瞥してポケットにしまってしまったのだが、きちんと見ておけばよかった。
「登った山」を一つ損してしまった。
そんなことは思いもよらず、私はずんずん歩いている。

晴れていると緑も映えるのだが、曇の日の緑もしっとりしていて悪くはない。
10:10大畠山の肩を通過。
ここは直進。登りの時とは別の道を行く。
まもなく分岐があり

右へ行くと、大畠山(1118m)。
肩から5分で頂上に着いた。

ここにはテレビ局のアンテナがあるだけで展望はゼロだが、山名標もあってよかった。
ちょっぴり休憩。
この先はしばらく車も通れるような道。

20分ほどで、四尾連峠に着いた。

ここは文学碑公園ということになっていて、野沢一の文学碑が立っている。
野沢一とは初めて聞く名だが、碑の裏面の説明によると、明治37年に山梨県一宮町で生まれた人だ。
法政大学に進んだが、25歳で退学し、四尾連湖畔に隠棲したという。
高村光太郎の弟子らしい。
その野沢一の文学碑には、氏の作品の一節「ああされど湖のみは いつもながらの風光に……」と、四尾連湖を讃える文章が刻まれている。
ここは市川大門に下る道との交差点になっており、

旧増穂町方面を望むことができた。
当方は直進して、子安神社に向かう。

尾根道を行くと、10分ほどで神社に到着。

年に1回、10月に神楽が奉納されるらしいが、建物は随分傷んでいる。


氏子は四尾連集落の住民のようだが、過疎と高齢化が進んで手入れが行き届かないのかもしれない。そんなに山奥ではないのだが。
本殿には、たくさんのひしゃくが奉納されていた。

子安というくらいだから、子宝の神様で、産湯をつかった際のひしゃくを納めているのかもしれない。
ここからほんの少し歩くと湖畔に出る。
水明荘のちょうど対岸。キャンプ場があるところだ。

湖面には、カヌー遊びをしている子供たち歓声が響いていた。

岸辺を半周する。
散歩している家族連れとか、釣り人もいた。
ここは静かだが、いろんな楽しみ方ができる場所らしい。
11:30に水明荘に戻ってきた。
ここでお昼にする。おにぎりは買ってあるが、ラーメンを注文した。550円。

特別美味というわけではなかったが、おにぎり1個も加えてお腹はふくらんだ。
歩行は3時間弱。病み上がりのいい足慣らしになった。
しかしまだ、正午前。今夜の宿、梅ヶ島温泉までは駅舎撮影をしながら向かうことにする。
【行程】
四尾連湖登山口(8:00)~大畠山の肩(8:20)~西肩峠(9:00)~蛾ヶ岳(9:10休憩・撮影9:30)~大畠山(10:15休憩10:20)~四尾連峠(10:40撮影10:45)~子安神社(11:00撮影11:10)~四尾連湖畔(11:30)
※所要時間:3時間半(歩行2時間50分)
※登った山:2座(蛾ヶ岳、大畠山)