山と鉄

山歩き、乗り鉄、廃線・廃道歩き、廃村歩き、駅舎探訪などの日々を記録します

両神山(下)

両神山のつづきです(5月26~27日)

清滝小屋。
まだ5時半で明るい。寝具があったので、それを拝借。敷布団の上にテントマットを敷き、シュラフの上に毛布をかけて、寝床を準備。暗くなるまで、記録作業と持ってきた新聞を読み、7時にラジオのニュースをイヤホンで聞きながらシュラフにもぐり込んだ。

今夜の同宿者は、宿泊者名簿によれば、先程の3人と、東京から来た若者2人組み、そして福岡から来た単独の男性。私を含めると7人が泊まっている。
(ちなみに外のテン場には5張りくらいのテントが張られていた)
家族連れは食事が終わって、すぐシュラフに入り、6時半には寝てしまった。
2人組みはしばらくおしゃべりしていたが、7時過ぎには静かになった。

明日は明るくなったら起きようと決めて寝る。自分も8時過ぎには眠りに落ちたようだ。
夜中に何度か目が覚めたが、おおかた眠れた。朝方、夢を見た。
起きたら、大雪が降っていた。
小屋番のおばちゃんに「アイゼン持ってきてないので、貸してくれませんか」と頼んでいる。
「私は持ってないのよ、死んだじいちゃんのが残ってたかなあ」などと言っている。

で、目が覚めると明るくなっていた。時計を見ると、4時20分。
まだ、周りはみな寝ているが起きることにした。
室内は火気厳禁ということなので、コンロと食材を持って、炊事場に向かう。
キツツキが木をつつくトトトトトという音が聞こえる。
気温は8℃。晴天でさわやかな朝だ。
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メニューはインスタントラーメンとソーセージ。ソーセージはラーメンと一緒にゆでるのが私流だ。ってほど、大したものではないが。
冬に買ったラーメンがこれでやっとはけた。

部屋に戻ると、みなさんもう起きていた。
○んこも何とか出たので安心して、5時半に出発。
最初から全く容赦のない急坂で、ジグザグになっているのだけが救い。
七滝沢経由で日向大谷に向かう道との分岐から先は鈴ヶ坂。
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ここで熊鈴のストッパーをはずす。ちりんちりん音が鳴る。
鈴ヶ坂は最初、木の根がつくる階段のような道だが、間もなく踏み固められた歩きやすい道になる。それにしても随分なジグザグだ。
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登り切ると産体尾根に出る。ここでようやく一部展望が開け、両神山の支脈が見える。
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ここから先も勾配は相変わらず急で、何か所かクサリ場にも出くわす。
頂上直下にある両神神社奥社には6:15に到着。しばし休憩。
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狼のような狛犬が印象的だ。
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ここから先はしばらく下り気味のほぼ平坦な道が続き、ラストに急登が待っている。
それもわずかで、間もなく山頂にたどりつく。6:55。
標高1723m。日本百名山である。自身21座目。
頂上には、比較的新しい石祠と山頂の標柱、首のない観音像(神像?)、「太元講」が建立した「御嶽山国常立尊」の石碑、日本観光地百選入選記念の石碑などがある。
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晴れているので展望を期待したが、あいにく富士山は見えなかった。
ただ、GWに登った甲武信岳や三宝山が見えたのはうれしかった。
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3週間前は、あちらからここを眺めたのだっけ。
これから歩くことになるギザギザの尾根も確認できた。
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頂上で、同宿していたのとは多分違う若者2人組みに追いつかれる。
彼らとは、この後、何度もピークごとに顔を合わせることになる。
シャッターを押してくれと頼まれたおじさんはジーンズを履いているし、かなり軽装。
今朝、下から登ってきて、もう登頂しているのもすごいが、この後下山して、この日午前10時から開催されるトレイルラン大会に出る予定だと言うのだから驚く。
当然、走って下りないと間に合わない。
「せっかくここまで来て、走るだけで、山頂に来ないのは損だからね」だって。
もうとっくに60歳は超えているように見えたが、異常な元気さだ。

前夜からずっと携帯は圏外だったが、山頂はかろうじて通じたので、関係方面に無事だけを伝えて、縦走にとりかかる。
いきなり、急なクサリ場を下り、前東岳は気づかずに通過。7:40東岳着。
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ここも岩場の頂上だが、わずかなスペースにベンチがあり、八丁峠からのハイカーが休んでいた。それにしても、次から次と、登りも下りもクサリ場の連続である。
私は一眼レフのカメラをいつも肩にかけて歩いているのだが、クサリ場では首にかけたり、首から腕に通したりする。非常に面倒である。
しかし、命には代えられないし、カメラがぶらぶらして岩にぶつかって壊れるといけないので、固定するしかない。

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(クサリの順番待ちか、立ちすくむ登山者。対岸から見ると岩場は垂直に見える)

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(これをまた登るんですか? と呆れてしまう西岳の“絶壁”)

用意してきた軍手をして、腕力にも頼って登り下りする。
本当はジムでのクライミングの経験から、そんなことをしてはいけないことは知っていたのだが、ついつい力を使ってしまう。おかげで、翌日は腕がひどい筋肉痛になった。
とにかく、この激しいアップダウン、フィールドアスレチック気分じゃないとやってられない。
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(これも怖い)

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(なんて花だっけ?)

途中に小さな祠があったが、ここの賽銭はすごい。
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100円玉がごろごろある。みな身の危険を感じて、思わず神様に頼って奮発してしまうのだろう。

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(今度はこれを下りるんですかい)

で、西岳に8:35着。
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ここも展望は周辺の山のみ。
さらにこの先、クサリ場のアップダウンは続く。
例の青年2人組みは、上りは若いだけに早いが、下りが遅い。
どうしても下りで必ず追いついてしまう。

次のピークは行蔵峠。
八丁峠から来る人は、ここを西岳と思ってしまうのだろう。
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「行蔵峠」の標柱を見て、がっかりしていた。

相変わらずクサリはきついが、本当に新緑が目にまぶしい。
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こんな穏やかな表情を見せられると、両神山は厳しい山なのか、やさしい山なのか分からなくなってしまう。たぶん、両方の神様がいるのだろう。

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行く手にはまだまだ鋸の刃のような稜線が続いているが、あそこまでは行かない。
手前の八丁峠で山を下りる。
峠の手前に基礎の跡があった。
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たぶん、ニッチツ(旧日本窒素工業)が石灰岩を運ぶのに使ったケーブルの跡だろう。
地面はアスファルトで固めており、まだ油くさかった。

八丁峠には9:20到着。展望はなし。
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ここは古い峠道なので、やはり道が緩やかな傾斜になるよう、ジグザグになっており、下りやすい。
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ちょうど10時、車道に出る。上落合橋。
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バス停のある出合まで、この先2時間。帰りのバスは11:45発というのがあるが、それには間に合いそうもない。
次は2時半なので、まっすぐ下ると時間が余りすぎる。
寄り道をすることにした。

まずはわざわざ林道を登り、八丁隧道を見に行く。
地形図で見ると20分くらいで行けるかなあと思ったが、30分かかった。
途中、ニッチツの鉱山道路への分岐があったが、もう閉山になっているのか道は封鎖されていた。ちょっと歩いてみたい気がしたが、奥の柵が高いので断念。
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八丁隧道は古いトンネルを想像していたが、昭和54年に完成したコンクリートの隧道だった。
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ここは学生時代、国道299号の志賀坂峠から、いつか自転車で来ようと目を付けていた道だった。まさか徒歩で来るとは思わなかった。
それにしても、学生時代には、ここは出来たてほやほやのトンネルだったのだ。全く知らなかった。

この新八丁峠から、ニッチツの石灰岩鉱山の跡が見下ろせた。
あそこに下りてしまえば、さっきの鉱山道路を経由して上落合橋に戻れるだろう。
あくまでピストンを避けたい私は、ちょっと冒険心を起こして、道路脇の崖を下っていった。そう苦労することもなく、鉱山跡に下りて来られた。
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いつ、閉山になったのか分からないが、さびたクレーンのワイヤーはまだ空高く張ったままだった。いつ千切れてしまうのだろう。

鉱山道路はそれほど荒れていなかった。
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さて、さっきの林道に出た。これからは延々車道を歩く。
この林道、ライダーの多いことは十分予想されたが、確かに次から次へと爆音を鳴らしてやってくる。
彼らは、私のような登山者をどう見ているのだろう。アウトドアを愛する同類だと思っているのか、歩く人にはかなわない、もしくは迷惑をかけていると引け目を感じているのか、ちんたら歩くなんてバカだなあと思っているのか。
少なくともこちらは、排気ガスをまき散らすバカ野郎ども、とは思っていない。自転車をやっている時は、すれ違うライダーともよく挨拶を交わしたものだ。旅を愛する仲間という意識だろうか。たまたま、今回歩いている時、頭を下げていったライダーがいた。
素直にうれしくて、そんなことを考えてしまった。

下界に下りてくると俄然、緑が濃くなる。
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この道路の沿線にはニッチツがらみの廃墟がたくさんある。
実はこれを探訪するのも、この縦走の目的であった。
下山してからも楽しみがあるのだから、ありがたい。
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上は坑口の跡と工場の跡である。

もう少し下ってくると、鉱山職員たちの団地の廃村がある。
ここは見事である。
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旧大滝村小倉沢区、標高950mにある村である。
ここには長屋のほか、保育園や公衆浴場、講堂などもあった。
ある長屋を覗いてみると、1976年のカレンダーがかかっていた。
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別の長屋は1989年だった。空き家になった時期は家によって随分違うらしい。

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(これは講堂)

別の長屋を覗いた途端、外から何やら電気的な雑音が聞こえてきた。
「えっ、防犯センサー?」。ビクッとしたら、正午のチャイムが鳴り始めた。
無人の村にまだ毎日チャイムが流れ続けているのだ。
不気味といえば不気味である。
この村が最終的に放棄されたのはいつなのか。
村が立てた掲示板には平成2年(1990年)とあったので、それよりは新しい。
いろいろ見るに、公衆浴場の注意書きの日付が平成8年12月だったので、古くてもその頃ということになる。
これほど大規模な廃村は始めて見た。不謹慎ながら萌えてしまった。お邪魔致しました。

さらに林道を下っていくと、操業中のニッチツ鉱業所がある。
ただ、その近辺も廃屋が軒を連ねている。
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これは学校だろうか。
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感動的なのは銭湯。
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従業員及びその家族専用とのことだが、このあたりにそれ以外の人は住んでいないだろう。おそらく登山者向けの表示に違いない。

操業中のニッチツ工場
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ここの近くには木造の郵便局があった。その名も秩父鉱山簡易郵便局。
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幟の新しさからして平日は今も営業していると思われるが、おそらくここには人がほとんど住んでいまい。果たして必要なのか。

これで両神山とニッチツの旅は終了。あとはバス停へ急ぐだけ。
計算では、早く着いて30分は待つことになる。
そんなに待つのもバカバカしいので、途中の景色のいい道端で渓流を眺めながら、遅いお昼にする。アルファ米とフリーズドライの麻婆茄子。この技術は大したものだ。
結構うまかった。

で出合のバス停に2:10着。まだ20分あるので、次のバス停まで歩くことに。
しかし、次のバス停がなかなか現れず、あせったが、まあこのあたりなら手を挙げれば止まってくれるだろうと信じて、とにかく歩く。
2:30相原橋バス停着。間に合った。
ここで、西武バスに乗り、三峰口へ。そして6時前に無事自宅へ着いたのでした。

次回は北陸、乗り鉄の旅(5月18~20日)を報告します。
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両神山(上)

両神山に登りたい。ずっと、そう思ってきた。
せっかく、埼玉に住んでいるのだから。

両神山を登る場合、車で登山口の日向大谷に行き、頂上までピストンする人が多いだろう。これなら十分、日帰りが可能だ。
しかし、私はピストンが嫌いである。
あまり、物事にこだわりのない方だが、行列とピストンだけは嫌いである。できれば避けたい。
となると縦走することになる。
縦走なら、日向大谷~山頂~八丁峠~出合(中津川方面)というのが標準的なコースとなろう。
物理的にマイカーは使えないので、バスを利用することになるが、そうするとこの行程を6時間で歩かないといけない。到底無理だ。もちろんタクシーを呼ぶほど金持ちではない。
では、清滝小屋で1泊するとなると、初日は2時間しか歩かないことになる。
時間がもったいない。

ここで思考がストップして、しばらく棚上げになっていたのだが、いいことを思いついた。
両神山から東に延びる尾根の先端にある四阿屋(あずまや)山を午前中に登り、午後から両神山に向かえば、時間が有効に使える。
計画はこうだ。
10:17三峰口駅着。10:20発の小鹿野町営バスで四阿屋山の登山口のひとつ小森で下車。四阿屋山は3時間で登下山できる。道の駅「両神温泉薬師の湯」に午後2時までに下りてくれば、ここから徒歩10分ほどのところにある両神庁舎前バス停で、14:17発の日向大谷行きに乗れる。日向大谷には30分で到着。午後3時から登り始めて、5時には小屋に着ける。
翌日は、6時に出れば、どんなにゆっくり歩いても出合午後2時30分発のバスに間に合う。自宅には明るいうちに着ける計算だ。うひひ

というわけで、5月26日、比較的ゆっくり起きて、8:54所沢発の特急ちちぶ7号に乗車。この電車だと、秩父鉄道への乗り換えは御花畑駅まで歩くことなく、西武秩父駅で乗れる。
ただ、ハッと気づいた。秩父鉄道はSuicaが使えないんだった。
西武秩父で一旦下車するつもりだったので、ついついSuicaで乗ってしまった。
三峰口で精算をしなければいけない。
私のような人がたくさんいて、精算窓口が混み合うことは分かっている。
とっとと精算を済ませないと、3分の待ち合わせしかないバスが発車してしまいかねない。
それには、三峰口行きの電車の先頭車両の先頭座席に陣取り、三峰口に着いたら窓口までダッシュすることだ。
急いで、特急から秩父鉄道に乗り換え、所期の目的を達したのだが、あわてていたせいか、帽子を脱いだまま、特急に置き忘れてしまった。ああ、失敗。今日は暑くなりそうだから、随分焼けてしまうだろう。

結局、窓口は一番で通過、バスにも一番乗りだったのだが、他の多くのハイカーたちが精算を済ますのを運転手は待っていてくれた。
でも、そのハイカーたちは15人くらいのグループで、「まだ来るから待ってね、もう3人来るから」と頼んでいたから、待っていたのであって、私一人出遅れていたのだったら間違いなく待っていなかっただろう。

というのも、この運転手。かなり性格が悪い。
「発車します」とも「ご乗車ありがとうございます」とも、一切言わない。
以前、秩父御岳山に登った時も、このバスに乗ったが、たぶん同じ運転手だろう。
あの時もそうだった。
しかも、性格が悪いだけではない。
危ないのだ。乗客が乗り切っていない間に、エンジンをかけて脅かしたり、ドアが締め切らない状態のまま、走り出したりする。

小森で、礼も言わすに私は下りた。他のハイカーたちはおそらく薬師の湯から四阿屋山に登るのだろう。ここで下りたのは私だけだった。
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ここで、2日間のコースタイムを記しておく。
26日:10:45小森バス停~11:40展望休憩所(休憩5分)~12:10四阿屋山(昼食20分)~13:25道の駅(休憩20分)~14:10両神庁舎前=14:45日向大谷~15:25会所~17:00清滝小屋(泊)
27日:5:30清滝小屋~6:55両神山(休憩15分)~7:40東岳(休憩10分)~8:35西岳(休憩5分)~9:20八丁峠(休憩10分)~10:00上落合橋~10:30八丁隧道~10:55上落合橋~11:45赤沢橋(ニッチツ廃村見学30分)~12:55雁掛トンネル~(出合)~14:30相原橋

バス停のすぐ隣に、場違いな古い洋館があった。古いお医者さんの家かなと思ったら、「近藤酒店」とあった。店舗風の構えではないのだが。
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まもなくハイキングコースの入り口。気持ちのいい田園風景である。
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宝泉寺を右手に見て、山道へ分け入っていく。
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30分ほど登ると一旦、車道に出て、しばし車道歩き。
左手には、武甲山が「真横」から見える。
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こうして見ると、どれだけ武甲山が削られてしまったのか、よく分かる。
車道の行き止まりからは急な階段となり、その中腹に展望休憩所がある。水休憩をとった。ここからは武甲山のほか、大持山、小持山、丸山、堂平山、大霧山など、この春までに登った山々が一つの連なりのように見える。
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ちょっと感激する。
両神神社奥社を過ぎると
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クサリ場が出現、岩場もあるがそれほど危なくもない。
山頂直下はこんな感じ。
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奥社から10分で登頂。
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山頂は西側が開けていて、これから登る両神山が間近に見える。
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でも、まだ実感は湧かない。
むしろ、二子山の鋭さに驚く。あれにもいずれ登ることになるのだろうが、かなり厳しそうだ。
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山頂には小さな石祠があり、「大天狗 小天狗」と彫ってあった。建立は明治17年。
賽銭を数えてみると、258円あった。
ここで、昼食。おにぎり2個をいただいたところで、さっきのバスに同乗していた方々が次々にやってきた。狭い山頂が立錐の余地もないほどになったので退散。
休憩所近くまで来た道を戻り、その後は道の駅方面の道を行く。あくまでピストンは最小限にする。
途中の展望所からは両神村の集落が望めた。
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道の駅には午後1時半前に到着。時間的には余裕だ。
アイスモナカを買って、ベンチに座ると、おじさんが埼玉県の観光アンケートですと声をかけてきた。時間もあるし応じることにする。
「ここでお金をいくら使いましたか?」
「このアイスを買っただけ。120円です」
「お泊まりは?」
「山小屋に泊まります」
「おいくらですか?」
「無人小屋なので無料です。お金落とさなくてすいません」
といったやりとりをして、出発。
薬師の湯の名の由来となった法養寺薬師堂や両神神社を参拝し、10分ほどで両神庁舎前バス停に着く。
ストレッチをしながら5分ほど待つと、バスがやってきた。
乗客は私1人。こんな時間に山に向かう人はいないのだろう。
バスはどんどん山へ分け入っていくが、出原というところはそこそこ大きな集落で驚いた。
登山口の日向大谷には午後2時40分着。
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バス停周辺は駐車場になっていて、かなりの台数がある。相当の数の登山客が入っているのだろう。このうち、どれくらいが下山してくるだろうか。
小屋では静かに泊まりたいので、「みんな下りてしまえ~」と心の中で叫ぶ。

バス停のすぐ上に両神神社里宮がある。
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その隣が民宿両神山荘だ。
ここで両神山のバッヂが売っているようだ。
ちょうど下山してきた男性2人組みが「バッジ買ってく?」なんて話している。
「いや、いい」なんて会話を横目に、民宿へ行ったら、バッチが最後の1個だった。
(あぶね~)
500円払って、店を出ると入れ替わりにさっきの2人組みが入ってきて
「バッジください」という。(あれ、買わないんじゃなかったの?)
「今、売り切れちゃった。あの人で最後。次入るのは1か月後」などと民宿の人が言っている。(おいおい、ちょっと無神経だぜ。おれが悪者みたいじゃん。そういう時は、「ごめんなさ~い。なくなっちゃったの~」くらいにとどめておかないと。それに次の仕入れ時期を言われても、そんなに何度も来ないって)

とにかく、私は聞こえないふりをして、そそくさと逃げ出す。
さて、いよいよ本番だ。清滝小屋まではここから3.8km。
しばらくはしっかりと踏み固められた非常に歩きやすい道。勾配もそれほどきつくない。
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さすがに信仰の山だけあって、沿道には石像や石碑が多い。
最初に迎えてくれるのが、観蔵院霊神。
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意味はよく分からない。
あとは、○○童子といろんな童子の名を記した石碑。これが丁目表示のように連続する。
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風化して、中の詰め物が露出してしまった石膏像?もあった。
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産体尾根との分岐となる会所の先で沢を渡り、何度も渡り返す。
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天気も好く新緑が目に鮮やか。日陰なので涼しくさわやかだ。
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八海山という場所を過ぎると、道は沢を離れ、山腹をぐいぐい登っていく。
路傍には、こんな神像が何度か登場する。
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弘法の井戸まで来ると、小屋は間もなくだ。
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午後5時。2時間とちょっとで、清滝小屋に到着。ここまでは予定通りである。
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ここは先代の小屋が1989年に火災で焼失し、ログハウス風の現在の小屋が再建されたが、2008年7月から営業を休止している。
おそらく、登山口まで2時間という距離で、登山口には風呂のある民宿もあるから、おそらく営業が成り立つほど、客が入らないのだろう。
とは言っても閉鎖されているわけではなく、1階部分は登山者に開放されており、炊事場(水道)も自由に使える。無論、無料だ。
到着した日は、5月31日までの工期でトイレの新築工事が行われていた。
4日後に完成ということで、ほとんど出来上がっていた。

作業員の青年が、小屋の事務室の使用を許されていたようで、普段はシャッターが下ろされているこの部屋の扉が開いていた。
中には、冷蔵庫やテレビ、電子レンジなどの電化製品があった。電気が通っているのだろうか。
作業員はこの小屋で寝泊まりして、作業を続けているはずだが、時々は里に下りるのだろう(民宿両神山荘泊か)。この日は5時で仕事を切り上げ、シャッターを下ろして下山していった。通勤も大変である。いい給料になるに違いない。

さて、お腹が空いた。とにかく晩飯だ。
炊事場に行くと、すでに3人の家族連れが調理を始めていた。
お隣はそうめん(冷や麦?)。熱湯で乾麺をゆでて、それをタレに付けて食べていた。「麺が熱い」とか「タレがぬるい」とか文句を言いつつも楽しそうだった。
こちらはその脇で、静かにフリーズドライのカレーうどんと昼の残りのおにぎり一つ。
あっと言う間に食べ終わり、小屋に戻る。

つづきは次回。
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鎌倉アルプス

先週は思いの外忙しく、ブログが書けませんでした。
やっと、鎌倉アルプス(5月12日)の報告ができます。

この日、北鎌倉駅を下りたのは、もう11時を過ぎていた。でも、今日はそんなに歩くわけではない。余裕だ。
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駅前の通りには出ず、すぐ踏切を渡り、線路に沿って北側を歩く。
土曜日とあって、鎌倉はかなりの賑わいだ。
明月院への入り口を左に見て、間もなく鎌倉街道に合流。狭い歩道を高校生たちとすれ違いながら、しばらく歩くと、建長寺の西外門が正面に見える。
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これは昭和59年の再建だが、明の竹西筆と言われる「天下禅林」の扁額が掲げられている。建長寺がわが国初の禅宗専門道場であることを示している。
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西外門をくぐって、左手に総門。天明3年(1783)に京都の般舟三昧院の門として建立されたが、昭和18年に移築されたものだそうだ。
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扁額には「巨福山」。建長寺の正式名称は「巨福山建長興国禅寺」なので、その山号である。
山号は、ここの地名である「巨福呂(こぶくろ)」から採った。
ちなみに「建長」の寺号は建長5年(1253)に落慶したので、創建時の元号を採用したことになる。

総門の奥に、巨大な三門がある。国の重要文化財。安永4年(1775)建立の堂々たる重層門である。唐破風には後深草天皇宸筆と伝える「建長興国善寺」の額が見える。
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なんて、寺を見学しに来たのではない。拝観料を取られたので、ひと通り見ておかないと、というだけ。
でも、国宝の梵鐘(開基の北条時頼が発願し、開山の蘭渓道隆が銘文を撰した創建当時の数少ない遺品)と、国重文の仏殿(お江の名で知られる2代将軍秀忠の正室の霊廟として1628年に芝・増上寺に建立されたものを、1647年に移築)は見逃せない。

これらを確認したら、喧騒を避けて、奥へと入っていく。
その前にもう一つ寄り道。河村瑞軒の墓である。江戸時代に東回り航路、西回り航路を開いて、教科書にも載っている豪商だ。伊勢の人だったはずだが、なぜここに墓があるのか。
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どうやら、建長寺の裏に別荘があったという縁によるものらしい。

さて、もとの道に戻ると、しばらく階段が続く。
途中、天狗像がいくつも立つ場所に出るが、登り詰めたところが半僧坊大権現を祀るお堂である。
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半僧坊大権現は、明治期の建長寺中興の祖と言われる霄(あおぞら)貫道が明治23年に、静岡県の奥山方広寺の半僧坊権現を勧請し、建長寺の鎮守としたのが始まり。それほど歴史は古くないが、各地から信仰を集め、最盛期には講社数百、五万人以上の信者を数えたという。その盛況ぶりは、境内のあちこちに林立する石碑が物語っている。

さらに、ほんの少し登ったところが、建長寺の奥の院、勝上嶽(しょうじょうけん)の山頂(147m)である。展望台があり、鎌倉市街を一望のもとに望むことができるが、この日は曇っており、期待していた富士山は拝めなかった。
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さて、ここからが本格的なハイキングコースとなる。鎌倉アルプス本番である。
すれ違う人の服装も一気に観光客からハイカーへと変わる。
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ただ、さすが都会の中のオアシスだけあって、ちょっと木々が途切れると、こんな風景も見ることができる。横浜のランドマークタワーである。
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5分も歩かないうちに十王岩に出る。
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鎌倉時代に彫られたとみられる摩崖仏で、左から如意輪観音、地蔵、閻魔であると言われているが、風化が激しく判別はむずかしい。
もともとは、やぐらの奥壁だったが、側壁や天井が失われて、露出してしまったらしい。

このあたりからは若宮大路がまっすぐに由比ヶ浜まで延びているのがよく分かる。
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しばらく行くと、弘法大師の石像が見えてくる。ここが鷲峰山(じゅぶさん)の山頂(127m)にあたる。こんな低い山でも、名前を付いているおかげで、私のコレクションも増えていく。うひひ。

ここからすぐ、覚園寺への道とそのまま鎌倉アルプスを進む道の分岐あたりに、百八やぐらが展開している。108というが、実際は大小200近くあるらしい。
やぐらは鎌倉時代から室町時代前半にかけて、三浦半島や房総半島を中心に造られた武士や僧侶の墓所・供養所のことで、四角い洞窟状になっている。
とくに鎌倉の山中には多く、背に山を抱えた寺院にはたいてい、やぐらがある。
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ここのやぐらの特徴は、頭の欠けた石像が多いことだ。
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これらの像は明治30年代に、百八やぐらを「弘法大師八十八箇所霊場」として、八十八体の大師像を篤志家が安置したものだが、当時、この像の首を懐に入れて賭場に行くと、ツキがよいと信じられていたため、ことごとく首がはねられたとも言われている。

石像は後世のものだが、浮き彫りの五輪塔や五輪塔そのものは当時のものだ。
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ここには様々なタイプのやぐらがあり、まさにやぐらの博物館である。

くまなく見て行きたいところだが、お腹も空いてきた。茶屋まで急ごう。
ウグイスのさえずりを聞きながら、緑の中をずんずん行くと、左手にゴルフ場が見えてくる。そこは、鎌倉アルプスの最高峰、すなわち鎌倉市の最高地点、大平山(159m)である。
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かなり開けた場所で、大勢のハイカーがお弁当を広げていた。

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鎌倉市街の向こうに相模湾も望むことができる。

10分ほどで、峠の茶屋に到着。
ここは六国峠(158m)。「天園」と呼ばれている場所だ。時計を見ると、もう2時。
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すこし張り込んで、ミニ豚汁とおにぎりのセット600円、タケノコの天ぷら600円、それと缶ビールもいただいた。くーうまい。
のんびりと休憩したところで出発。
すこし下にある、もう一つの茶店、天園休憩所を右手に見て、下っていく。

下りの途中に貝吹地蔵があった。
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元弘3年(1333)、新田義貞軍に攻められ、総崩れとなった鎌倉勢。北条高時の首は敵に渡すまいと、主君の首の埋葬場所を探していた家臣が道に迷った時、一体の地蔵がホラ貝を吹いて現れ、導いてくれたという伝説に基づく。

さらに道は高度を下げ、下界に下りたところが瑞泉寺である。
急に天気がよくなってきた。
この寺は、多くの文学者に愛されたのか、たくさんの歌碑や句碑がある。
大宅壮一に久保田万太郎、吉野秀雄、山崎方代などなど。
それはともかく、緑の鮮やかな境内にいやされる。
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開山は夢窓疎石。仏殿背後にある庭園も礎石の作と伝えられる。
凝灰岩の山を削って、垂直な岩盤を出し、そこに洞窟をうがって、前には池をしつらえる。
独特の作庭で、一見、やぐらを転用したものかと思ってしまった。
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もうひとつ、この寺は花の寺でもあった。
2月には見事な黄梅が咲くらしい。写真でみると、驚くほど黄色い。これも梅なのか。
その時期にまた来てみたいが、混むんだろうなあ。
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さて、あとは帰途につくのみ。
駅に向かって歩き出すが、途中の史跡についつい立ち寄ってしまう。
永福寺跡から出てきた礎石たち。
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官幣中社鎌倉宮は鮮やかな紅白の鳥居。
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厄割石にかわらけをぶつけて割ると、厄が落ちるという。
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かわらけ1枚100円だが、もったいないので、もう割れている皿を拾って、ぶつけた。
こんなことをしたら、厄が逆に増えるかもしれないが。

頼朝の墓では、熱く接吻をしているカップルを目撃してしまった。
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誰も来ないと思っていたのだろうが、ここは観光地。しかも墓前である。
何も、こんなところでしなくてもいいでしょう。
私の気配に気づいて、あわてて離れたが、しっかり目撃しましたよ。

もう日も傾いてきた。バスに乗るつもりもあったが、結局、鎌倉駅まで歩いてしまった。
それにしても、帰宅を急ぐ観光客ですごい混雑。
とても、あれじゃあ電車で座れそうもない。
よし、鎌倉で飲んで行こう!
小町通りを戻ると、「生しらすあります」の看板に惹かれ、ろばた焼き「卯月」に突入。
後で調べたら人気店だったようで、まだ時間も早かったからか座ることができた。
カウンターで、あれこれと注文。升酒を散々飲んで、空いた電車に乗って、気持ちよく帰りました。

この翌週に北陸へ3日間の旅に出たのですが、次回は26~27日で歩いてきた両神山を報告します。
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鶴見線

4月30日も山行する予定だったが、前日(4月29日)の丹沢登山でくたくたになり、断念。鶴見線沿線を歩くことにした。
ここは首都圏の中にあって、ローカル線の香りが濃厚な路線だ。

鶴見線は東海道線の鶴見駅と扇町駅を結ぶ7.0kmの路線で、浅野駅から海芝浦駅にいたる海芝浦支線(1.7km)と、武蔵白石駅から大川駅にいたる大川支線(1.0km)の2本の支線がある。
総延長は9.7kmということになる。

駅は鶴見駅を含め13。鶴見駅を除き、すべて無人駅である。
このため、鶴見線から他の路線に乗り換える際には、鶴見駅で改札を通らなければならない。
ただ、鶴見線内の移動は理論上、ただで乗り降りすることができてしまう(もちろん違法)。

本日の主たる目的地は大川駅。
ここは朝晩の通勤時間帯しか列車が運行されていないため、日中に行くには、武蔵白石駅から歩くしかない。
ただ、この日は南武線の支線の終点・浜川崎駅から歩いた。

支線の起点・尻手駅から浜川崎行き普通列車(2両)に乗り込む。
10:24発、浜川崎に10:31着。
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ここで、鶴見線に乗り換えるには、一旦改札を出て道路を渡り、鶴見線専用の改札を通っていかなくてはならない。
今回はここから歩く。

この辺は京浜工業地帯の一角で、かつては多くの労働者でにぎわっていたはずだ。
しかし、道沿いの商店は軒並み閉店している。
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オートメーション化による労働者の減少、コンビニの普及、社員食堂の充実などなど、逆風に耐えきれなかったのだろう。

鶴見線沿いに歩いていくと、左手にJFEの工場が見えてくる。
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その構内にある、運河を渡る道路が鉄橋になっている。これはおそらく、構内を走っていた貨物用の線路の名残だろう。

このあたりの道路はトラックやタンクローリーばかり走っており、砂ぼこりと排ガスの臭いがひどい。工場ばかりではなく、倉庫やスクラップ処理場も目につく。
ブラジルからの出稼ぎの人が多いのか、ポルトガル語の貼り紙を見つけた。
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間もなく武蔵白石駅に到着。看板には「安善駅長」とあるが、今は安善駅に駅員はいない。かつて、武蔵白石駅はとなりの安善駅の管轄だったということだ。
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大川支線は武蔵白石駅が起点ということになっているが、大川行きの鶴見線は武蔵白石駅を通過する。かつては大川支線用のホームもあり、停車していたのだが、様々な事情によりホームが撤去され、電車は通過せざるをえなくなったのだ。

道を左折し、大川支線に沿って歩く。
線路は青草が繁殖しており、ほとんど廃線のような状態。
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平日でも9往復しか走っていないのだから無理もない。

踏切にはいちいち正面にある企業の名が付けられている。
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中間地点で運河を渡るが、その鉄橋「第5橋りょう」は、塗装がまちまち。
複数のペイント会社にコンペをさせたのか、一つ一つに会社名が書かれている。
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1988年以来塗り直されていないので、ところどころサビだらけである。

武蔵白石駅から15分ほどで大川駅に到着。駅も廃線のムードを漂わせている。
周辺には日清製粉や三菱化工機などの大企業が並ぶ。
鶴見線で通勤する人も多いのだろう。2008年で1日平均の乗客数は1009人だった。
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上の時刻表でお分かりの通り、平日は朝4本、夜5本のみの運行。
上の数字は下りている人を計算していないので、夕方の5本で1000人を運んでいる計算。つまり1本あたり200人が乗っている。
平日に乗ったことがないので、何両編成なのか分からないが、結構な混雑であることが推測される。しかし、日中は8時間以上も電車は来ないのだ(近くにバスの便があり、武蔵白石駅までは徒歩15分の距離ではあるが)

ちなみに、駅の名称は日本初の製紙技師として富士製紙など多くの製紙会社を興し、「日本の製紙王」と呼ばれた大川平三郎に由来する。この駅のある埋め立て地の「島」は大川町と称する。工場だけなので、人口はゼロ。

駅舎は木造平屋建てで、片流れの桟瓦屋根がある。
幅5m、奥行き2mほどで本当に小さい。
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側面に切妻屋根の小屋が隣接していた痕跡が残っているが、トイレでもあったのか。
羽目板張りで、白っぽく塗装しているが、ところどころ剥げている。
大正15年開業の駅で、この駅舎は昭和25年に完成したものだ。

ドアが二つあるがいずれも閉まっている。
ちょうど、JRの人が券売機にたまった運賃を集金に来て扉を開けたので、中をちらりと覗いたら、券売機の裏側があるだけだった。

改札も木のまま。しぶい。
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線路は正面の日清製粉の壁で行き止まり。
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かつては周辺の企業へ貨物用が引き込まれていた。今は使用されていない。
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大川駅を訪ねたのは2度目。ここはわりと好きだ。
工場ばかりの極めて無機的な空間に、ここだけなぜかぬくもりがある。
工場には人がいるはずなのに、人を感じない。
でも、この駅は人がいないのに、人を感じる。不思議なものだ。
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さて、せっかくなので大川町を一周することにした。
歩道のつつじが満開だ。
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ちなみにバスはこんなに走っている。
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島の東岸は遊歩道になっており、釣り人が何人か糸を垂れていた。
聞くと「シーバス」が釣れるという。魚にはとんと疎いので「海の船?」、からかわれたかな?と思ったが、調べてみるとスズキのことだった。

対岸には、こんな恐竜みたいな鉄骨があった。荷揚げ用の何かだろうか。
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さずがに、殺伐とした感じを払拭しようとしているのか、沿道の植栽が豊かだ。
オオシマザクラにクスノキ、クロガネモチ、ユズリハ、マテバシイなどなど。

大川駅裏の公園のくずかごにはコンビニ弁当のからがたくさんあった。
季節もよくなってきたので、労働者たちは公園でお昼を食べているのだろう。

ちなみに、これはめずらしい手動の踏切。
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武蔵白石駅に戻り、昼飯を食えるところを探す。
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あまり期待していなかったが、駅のすぐ横に焼き肉屋があった。
生姜焼き定食を注文。
かなりのボリュームで600円。これはお得だ。

満腹で安善駅方面に向かって歩き出す。まだ鶴見線には乗らない。
間もなく、境運河を渡ると、そこは横浜市。鶴見区寛政町だ。
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寛政町という名に惹かれた。
寛政は江戸時代、18世紀末の元号である。
調べてみると、ここは宝暦14年(1764)に開発された(埋め立て地ではなく、もともと陸地だった)荒井新田の西半分に当たり、天明8年(1788)に検地を実施。翌寛政元年から年貢が取り立てられた。このため、寛政耕地と呼ばれるようになったのだという。

箱根駅伝出場を目指す、B級大学の奮闘を描いた三浦しをん『風が強くふいている』に「寛政大学」というのが登場するが、ここには「寛政中学校」が実在する。

線路際を離れて、住宅街に入ってみると、高い煙突が見えた。銭湯だ。
「安善湯」とある。安善町は隣だから、最寄りの駅名から採ったのだろう。
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安善は安田財閥の創始者、安田善次郎から来ている。
このあたりの駅名の多くは、たいてい明治・大正の実業家に由来する。
鶴見小野駅は小野重行、浅野駅は浅野総一郎(浅野財閥創始者)、武蔵白石駅は白石元治郎(日本鋼管社長)といった具合だ。

なかなか味わい深い銭湯だが、開店は3:30からとのことで、まだ入れない。
土地の人に聞くと、寛政町は戦前、「横山工業」の社宅街で、この銭湯ももとはと言えば、社員のためのお風呂だった。
それが、戦後、社宅が住民らに売却され、だんだん建て替えられていったのだという。
確かに、この付近は碁盤の目状にきっちりと区画されているし、往年の社宅もわずかながら残っている。
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2軒長屋だったと言うが、残っているものもほとんど1軒に切断されている。
玄関に持ち送り付きの庇が付いているのが特徴だ。

住民の形は「横山工業」と言っていたが、ネットなどでは「浅野セメント」との記述がある。地名辞典では「日本電解製鉄所」の社宅だったという。
情報が錯綜しているが、いずれ確認してみたい。

線路沿いの道に出ると、通りに面した家は商店だったのか、中堅幹部の家だったのか2階建ての社宅が並んで残っている。
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寛政町、なかなか面白い。と見取れているうちに、安善駅に到着。
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もう閉店しているが、駅前のたばこ屋がしぶい。これも角で切断されている。
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寛政中学を見学して、さらに浅野駅まで歩いた。
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この駅では猫が暮らしている。
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鶴見行きが行ってしまった。
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次の電車で隣の弁天橋駅まで移動。
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ここはJFEエンジニアリングや旭硝子の玄関駅だ。
ここから鶴見小野駅まで歩く。
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ここに張り出されていた鶴見線沿線の旅のポスターに、安善駅から埋め立て地の方に15分くらい歩くと旧国鉄時代の遺構として、1986年に廃止された浜安善駅の駅舎が残っているとの記述があった。
う、これを見逃すわけにはいかない、と思い、また安善駅へ戻る。
歩き始めたが、線路は米軍施設に入っていったまま、フェンス越しに見ても駅舎らしきものはない。
それでもカメラを向けていたら、遠くにいる守衛さんから「ごら~」と怒鳴られた。
この線路は廃線ではなくJR貨物の専用線として、今も米軍施設に石油などを運んでいるらしい。
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結局見つけられなかった。もしかしたら、もう撤去されているのかもしれない(ポスターをよく見たら、「この情報は2009年3月現在のものです」とあったので)。
無駄足となったのは構わないが、さっきお昼をいっぱいいただいたせいか、もよおして来てしまった。
とにかく安善駅まで急いで戻ったが、なんとトイレがない!
コンビニもないし、まさか民家にトイレを貸してください、とお願いするわけにもいかない。万事休す。と思ったが、そうだ、銭湯があった。時間は4時。もう開いている。走った。

番台に人はおらず、すいませーん、お金ここに置きますと言って、まずトイレに走る。ふ~、ギリギリセーフであった。

○んこ代450円みたいな感じになったが、思いがけなく風呂に入ることになった。
いやタオル代230円もかかったから、680円か。
しかし、ここの風呂は一見の価値がある。
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八角形の浴室の中央に直径2.5mほど(深さ約55cm)の浴槽があり、半分に仕切ってある。向かって右の方が若干熱かった。
上には円形の明かりとり兼蒸気抜きがあり、四角形の塔となっている。
ペンキ絵がまたすばらしい。
正面は富士山、右手に近江の海岸風景。
筆者は「早川」とある。早川と言えば、日本に数少なくなったペンキ絵師(背景画家)の一人、早川利光さんであろう。2009年4月に73歳で亡くなった。
ここの絵には「平20.11.6」とあるので、亡くなる半年前の作品である。

まだ早い時間なので、客は私ひとり。入浴セットを持ってきているわけではないから、湯に浸かるだけだったが、この空間を独り占めできたのは贅沢だった。
店の奥さんに創業年を聞いてみたら、「100年くらい前かなあ」と言われたが、詳しいことは知らないみたいだ。100年はいかにも古すぎるが、昭和初期としても80年くらいにはなっている。
見どころは浴室だけではない。
たとえば、番台の飾り板とか
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体重計
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しばらく脱衣場でのんびりしてから、帰途に付きました。

次回は先週行った鎌倉アルプスをお届けします。
今夜から、北陸の旅に出ます。
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渡良瀬遊水池

さて、明日(4月22日)はどこに行こうか。まだ花粉が怖いので山はやめとく。午後から天気も崩れるというので、近場だ。地図をなんとなく眺めているとハート形の湖に目が止まった。
その中に群馬と栃木の県境線が入り組んで引かれている。
ふ~む、これは旧河道だな。で、地名を見ると、渡良瀬遊水池!
すべてが頭の中でつながり、一気にここに行きたくなった。

栗橋で東武日光線の新栃木行き普通列車に乗り換えて、約20分。10:16、藤岡で下車する。
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藤岡駅は昭和4年の開業。駅舎は当時からのもののようだ。
木造平屋で、寄せ棟風のトタン屋根。車寄せはなく、庇を張り出させている。
大正から昭和にかけての典型的なタイプだ。
駅舎の横に「鉄道開通記念碑」が立っていた。

さて、まずは駅前散策。
藤岡町は平成の大合併の際に、隣接の大平町、岩舟町と3町で「みかも市」を新設する方向で協議を進めていたが、結局破談。2010年3月、大平町、都賀町とともに栃木市に編入されるという、紆余曲折を経た。

駅前ははっきり言って悲惨である。
ちゃんと鉄道も走っていて、首都圏にも近い、このような町がここまで寂れるのは、ちょっと異常だ。
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まだ営業している店もあるのだろうが、日曜日ということもあり、ほとんどがシャッターを下ろしている。およそ活気というものがない。
しかも、閉店した店もつい最近までやっていたんですが・・という感じではなく、看板の色あせ具合からして、もう10~20年前には店じまいしている様子なのだ。
寂れた町は嫌いではないが、ここまで衰退すると暗たんたる気分になる。

とぼとぼと渡良瀬遊水池に向かう。
堤防の上に上る前に、おあつらえ向きに「渡良瀬遊水池湿地資料館」があった。
ちょっと、ここで勉強して行こう。
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渡良瀬遊水池は群馬、栃木、茨城、埼玉の4県にまたがるわが国最大級の遊水池である。
遊水池というのは、豪雨などで川の水位が上がった時に、水を貯めておく場所で、下流の洪水を防ぐ役割がある。
渡良瀬遊水池には渡良瀬川、思川、巴波(うずま)川の3本の川が流れ込み、約4㌔下流で利根川に合流している。
その広さは約33平方km(網走湖とほぼ同じ)で、外周は約30km。
洪水調整容量1億7680万立方mというのは、芦ノ湖とほぼ同じ水の量を貯められるということだ。

この周辺は有史以来の洪水常襲地域で、ひとたび大雨が降ると、利根川の水が逆流して被害を大きくしたという。
また、足尾銅山の鉱毒により、農作物や川魚にも被害が出始めた。
このため、政府は洪水防止とともに、鉱毒の地中埋設を図るため、この地域を遊水池とすることに決定。これによって、集団移住を強制されたのが谷中村だった。
栃木県議会が谷中村の買収費を含む臨時土木費を可決したのが、明治37年(1904)12月。39年までに300戸が村を離れた。
それでも、こうした措置に納得できない村民もおり、家屋が強制執行により破壊された後も、16戸が仮小屋を建てて頑強に抵抗を続けた。
その指導者が、かの田中正造だった。
その谷中村跡を訪ねるのも、今回の大きな目的である。

とにかく堤防に上ってみた。
遊水池といっても、常時水が貯まっているのは、ハート形の谷中湖だけで、それ以外は見渡す限りの葦原だ。
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水が最後に貯まることになっている場所にはゴルフ場がある。
超大型の台風が梅雨前線を刺激し、関東に1週間くらい停滞したら、このゴルフ場も水に沈んでしまうかもしれない。それを承知の上で営業しているのだろう。

とにかく堤防の上の道をひたすら歩く。自転車やランニングの人も多い。
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振り返ると、太平山らしき山が見える。
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遊水池で漁?をしている人がいた。
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監視塔?
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遊水池化の工事はひとまず大正7年には完成していた。
しかし昭和22年のカスリーン台風の際に、堤防があちこちで決壊。死者は関東一円で1100人に達した。このため、利根川の改修計画が全面的に見直され、遊水池に3つの調整池を設けることになった。
第一調整池は昭和45年、第二は昭和47年、第三は平成9年にそれぞれ完成した。
昭和57年以降、遊水池による水量調整が行われたのは10回で、この時は一部の葦原が泥の海になった。

30分ほどで谷中湖の入り口(北エントランス)に着いた。
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この近くにカスリーン台風当時の決壊地点を示す碑があった。
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「決潰口碑」とある。

谷中湖は正式には「渡良瀬貯水池」という。「遊水池」の中に「調整池」があり、その中に「貯水池」があるのだ。
貯水池は常に水が貯まっており、洪水調整のほか、水道水の供給や水質の浄化の役割を担っている。
湖畔の展望台からは、こんな風に見える。
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葦原のアシの丈は思いの外高い。軽く2mはある。
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ハートのくびれた部分の北側が谷中村跡だ。
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家屋の跡は、みな微高地となっている。これは洪水を避けるためだ。いよいよという時にはさらに土を盛り上げた上に建てた「水塚」という小屋に避難した。
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(大野孫衛門屋敷跡)

この先には、神社やお寺、墓地の跡がある。
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これは共同墓地の跡。
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ほとんどの墓碑は子孫が移転先などに持っていたのだろうが、若干が残されていた。
寛政、享和、文政、天保など江戸時代の元号が記されている。
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雷電神社跡。ここで田中正造が村人たちを激励したという。
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谷中村連絡箱に置かれているノートを見ると、谷中村の悲劇を今回の原発事故による故郷喪失と結びつけて考えている人が多いことが分かった。

谷中村は何度も立村以来、何度も洪水に襲われてきたが、その度に立ち直り、洪水によって運ばれてきた肥沃な土によって生きてきた。
治水は全国で古代からずっと行われてきたが、自然の猛威にはかなわなかった。
川とともに生きるということは、そういうことだったのだ。

しかし、明治になって谷中村は、日本の富国強兵を支える足尾銅山と、洪水から流域住民の生命は守られるべきであるという近代的な思想の犠牲になった。
多くの国民は当時、「谷中村はかわいそうだが、致し方ない」と思ったことだろう。
村民の中にもそう思って諦めた人が多かったかもしれない。
ただ、その場合、故郷を追われる人に対しては十分な補償がなされなければいけない。
それが十分だったかどうか。

さて、もういい時間だ。雲行きも怪しい。家路を急ぐ。
谷中湖の真ん中を突っ切る道を通り、西の出口に出る。
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東武日光線の柳生駅まで歩いて、電車に乗った。
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間もなく雨が降ってきた。どうやら間に合った。

おまけ
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次回は鶴見線紀行の報告をします。
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総社古墳群

4月21日は20年ぶりに前橋の総社古墳群を訪ねた。
高崎には八高線で行った。高崎線を使った方が早いのだが、八高線の方がローカル線らしくて好きだから。

古墳群の最寄り駅は上越線の群馬総社駅。12:20発水上行き普通列車までは、少々時間がある。前回、高崎に来た時はだるま弁当を買ったが、今回はそんなものを買っても車内で食べる暇があまりないので、駅そばにした。
3、4番ホームにある「たかべん」で、かき揚げそばを食べた。
値段は350円。味の方はいまいち。中の下といったところ。

12:35群馬総社着。この駅はかつて3本のホームがあったようだが、1本は撤去され、2番ホームが欠番となっている。
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駅は大正10年の開業。駅舎は当時からのものだ。
切妻造りの木造平屋建て。赤い桟瓦を葺いている。車寄せの三角破風に掲げられた青い駅名板も国鉄時代からのもので、下に添え書きされているローマ字が懐かしい。
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駅前にこけしのモニュメントがあり、「群馬の近代こけし」とある。
東北を中心としたこけしは「伝統こけし」だが、ここは明治以降に発展した創作こけしの産地で、年1回コンクールなども開かれているようである。知らなかった。
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さて、駅前を線路に並行して走る県道107号線を南下する。
20年前も歩いた道で、おぼろげながら記憶がある。
間もなく東西に走る道路に突き当たるのだが、その手前に諏訪神社があったので寄ってみた。
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社殿は上諏訪社・下諏訪社の両方を合わせたため、三間社の中央を挟んで東西に拝礼場がある特殊な構造になっている。
境内には石塔や石仏がたくさんある。
庚申塔や二十二夜塔などはどこにでもあるが、ここの石仏は高さ15~20㎝程度のものが多く、とてもかわいい。
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これらは一体何なんだろう。
首をひねりながら、最初の古墳、二子山古墳へと急ぐ。
と言っても、何かあるとすぐ立ち止まり記録に残す癖がある。

こういう昔ながらの商店を見つけると、シャッターを押さずにはいられない。
だから1日の撮影枚数は軽く500枚を超えてしまう。
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二子山古墳はちょうど桜が散ってしまっていた。
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一週間前だとさぞかし華やかだったことだろう。
桜の代わりに、ハナダイコンが紫色に墳丘を彩っていた。
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二子山古墳は全長90mの前方後円墳。6世紀末の築造とみられ、前方部と後円部にそれぞれ横穴式石室がある。前方部のものが古く6世紀末、後円部は7世紀初めらしい。
いずれも中を見学することはできない。
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(これは柵越しに撮ったもの)

墳頂には豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)の石碑がある。
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第10代崇神天皇の第一皇子である。群馬の大豪族・上毛野君の始祖と言われていることから、この古墳がその墓と考えられ、明治9年までその可能性がある墓として墓丁が置かれていたという。実際は時代が全く異なる。

総社古墳群で現在、手軽に見学できるのは、この二子山古墳をはじめとして、遠見山古墳、愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳の5基である。
うち、遠見山と愛宕山を除く3基は国の史跡に指定されている。
これらが築かれたのは6~7世紀にかけてで、ちょうど聖徳太子が活躍した頃を前後する時代ということになる。
中央の大和政権と密接なかかわりのあった大首長の墓と考えられている。

ちょっと寄り道をして元景寺を訪ねた。
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ここには天明3年の浅間焼けで被災し、利根川によって流されてきた多数の遺体を引き上げて合葬した際の供養塔がある。
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この寺にも小さな石仏がたくさんあるので、境内で桜の花びらの掃除をしていたご婦人に聞いてみると、「昔、目の悪い人が願掛けをして、治ったお礼に奉納したものと聞いている」と教えてくれた。あちこちにある石仏のすべてがそういう理由ではないのだろうが、おそらく庶民が何らかの気持ちを込めて納めたものであることは間違いないのだろう。
土地の方々の信心深さがうかがえる。
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よく見ると、どれも素朴な顔立ちだ。

ここには戦国時代以来の総社城主だった秋元氏の墓所もある。
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道端の道祖神
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遠見山古墳は全長約80mの前方後円墳。6世紀初め頃の築造とされるが、詳細はよく分からない。墳頂部が一部伐採されていたので、発掘調査の予定でもあるのかと思ったら、単なる地権者の都合らしい。
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本来はもっと高さがあったのだろうが、1604年に総社城が築かれた際に、遠見のための櫓が作られ、上部がかなり削平されてしまったようだ。

総社は古墳の町であるとともに、中世から近世にかけての城下町でもあり、宿場町であることが歩いてみて分かった。
越後三国道の宿場だったそうだ。今もその面影が造り酒屋など古い建物に偲ぶことができる。
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愛宕山古墳は一辺56mの大型方墳。築造は7世紀の第2四半期とされる。
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石室は開口しており、自由に見学することができる。
石材は切石ではないが、加工が施されている。
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奥壁の手前に家形石棺が安置されており、盗掘の穴が開いている。
それにしても古墳時代の人は、こんな巨石をどのようにして積み上げたのだろう。
相当な労力がかかったはずだ。当時の豪族の権力の強さが想像できる。

近くにある光厳寺は大寺院である。
例の秋元氏の開基で、様々な文化財が残る。
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中でも興味を惹かれたのは「力田遺愛碑」。
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1601年に総社城主となった秋元長朝は農業振興のため、利根川からこの地に天狗岩用水を引いた。後世(1776年)、この用水に感謝した領民らが長朝の遺徳をしのんで建てたもの。「農民(力田者)のために愛を遺した碑」という意味だそうだ。

この正面にあるのが宝塔山古墳。墳頂に秋元氏の墓所の石塔があるので、この名が付いた。
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こちらも一辺54m、高さ11mの大型方墳。
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石室は全長12.4m。羨道、前室、玄室の3室構造で、安山岩をきれいに面取り加工した切石が用いられており、漆喰を塗った跡もみられる。
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これだけでも目を見張るのだが、驚くべきは石棺。
縄掛け突起付きの家形石棺は、下部が4辺とも格狭間(こうざま)の形にくり抜かれ、仏教文化の影響をみてとることができる。CIMG4145_convert_20120515095030.jpg
葬送に仏教の方式が取り入れられるに従い、遺体は火葬され、古墳も造られなくなるので、この石棺は古墳文化と仏教文化の過渡期を示す重要な資料だ。
不思議なのは、正面に開けられた八角形の穴。これが何のためにあるのかは謎だ。
それにしても石室の壁のこの切石の精巧さは見事だ。
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蛇穴山(じゃけつさん)古墳は宝塔山古墳のすぐ東にある。
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一辺39mの方墳で、高さは現状で約5m。8世紀初頭の築造とされる。
宝塔山と比べるとやや貧相な印象だが、石室は負けていない。
まず斜めに開き、前庭部を構成する開口部が斬新。
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石室の規模は奥行き3m、幅2.6m、高さ1.8mと宝塔山よりかなり小さいが、天井と奥壁、左右の壁の計4面がすべて巨大な1つの石で築いてある。
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このシンプルさ。宝塔山に対して対抗意識があるとしか思えない。
これらが全く管理人もおかずに自由に見学できる状態になっているのは、ある意味奇跡的だ。ほとんど、いたずらされた形跡がないのも、地元で大切にされている証しだろう。

大切にされていると言えば、古墳の傍らにこんな碑を見つけた。
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全文を引用する。

弁財天勧請之碑
此の地蛇穴山古墳は往事周囲に水湟(すいごう)をめぐらす 石室奥壁の銘文により寛文十一年弁財天遷座のことが明かで水湟を弁天池と称しその痕跡は昭和の始め頃まで遺された この弁天池の一部に総社小学校プールが建設されるに当り学童の水難防除祈願のために古事に因み江の島弁財天を勧請鎮座を行い蛇穴山弁財天と奉称する 願わくば学童安泰の為にご加護を給わらんことを 此の事績を遺さんと有志謀りてこの祈念碑を茲(ここ)に建立する
昭和四十三年十月吉日
総社町史跡愛存会会長 岸 甲 撰文謹書

※カッコ内の読みは筆者による

全く気づかなかったが、もう一度古墳に入って見てみると、奥壁に梵字らしいものが確かに彫られている。文章はよく判読できなかったが、後で調べてみると、「江嶋弁天」「遷座所」などの記述があるようだ。
もちろん、それが書かれたのは寛文11年だから1670年のことである。

それにしても、昭和43年という高度成長のピークにあった時代に、たたりをおそれて弁財天を祀り、碑を残すというのは感動的だ。
この土地の歴史を築いてきた人々は尊敬に値する。

実は、そのプールも小学校も近くに移転し、現在、小学校の跡地は公民館と広大な駐車場になっている。その際に市教委がプールの跡も発掘調査をしたが、古墳の周濠がプールにほとんど壊されることなく残っていたという。
今はそのまま埋め戻されているが、その部分が国の史跡に追加してされれば、復元整備がされることになるかもしれない。

公民館の近くにある総社資料館を覗いてみた。
ここは、40年ほど前まで操業していた「本間酒造」の蔵を借りて、地域の考古資料や民俗資料などが展示されていた。
本間酒造の銘柄は「惣嬉(ソオウレシ)」と言ったんだそうだ。
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さっきの力田遺愛碑の拓本もあった。
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さて、これで一応、総社古墳群散歩はおしまい。
この後は、古墳の主たちの子孫たちが残した山王廃寺へと向かう。
山王廃寺は現在の日枝神社(宝塔山古墳の南西約1km)の周辺にあったと古代の寺院。出土した奈良時代の寺院のものとみられる石製の鴟尾(しび)
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金堂の塔心礎
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柱の根巻石
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などが日枝神社の境内に集められている。
ここで出土した瓦に「放光寺」とあり、この山王廃寺が高崎市の山上碑や「上野国交替実録帳」に記された放光寺であるとみられている。
奈良や京都ならいざ知らず、こんな地方で古代の文献と考古資料が一致する例は極めてめずらしい。
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ちなみに日枝神社の正面には、石造の立派な建物があるが、これは現代の石工、阿久津石材店の事務所だった。
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ここから延々、新前橋駅まで歩き、帰りは高崎線経由で帰宅しました。

あすは渡良瀬遊水池を報告します。
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磐越西線・越後線

会津・新潟の旅のつづきです(4月15日)

午前5時31分、会津若松発。新潟行きの普通列車(5両編成)。
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さすがに眠い。喜多方まではほぼ北上。普通列車だが、堂島、笈川、姥堂、会津豊川駅は通過した。

喜多方からは進路を西にとる。
田んぼの中をキツネが通り抜けるのが見えた。

昨日立ち寄った山都駅を過ぎ、次の荻野駅近くの阿賀川は競艇場になっていた。
西会津町の中心地、野尻駅のあたりからずっと霧が立ちこめ、うすぼんやりした景色。つい眠くなる。
それにしても、阿賀川は只見川と同様、ダム発電所が多い。

越後との国境駅、徳沢までしばらく阿賀川は渓谷となる。
徳沢駅で列車交換。新潟からの列車はキハ47形だった。
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新潟県に入ると、家並みの印象が変わる。
会津には普通にあった兜形の屋根があまり見られなくなる。
あっても、屋根中央の煙出しの突起がない。

このあたりの川は昨年の豪雨の影響がまだ残っており、川岸の木々が軒並みなぎ倒されていた。
乗客はほとんどいない。しばらく、私の乗った車両は、私1人だった。

五泉駅に7:38着。
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ここからタクシーで城下町の村松に向かう。
村松方面にはかつて私鉄の蒲原鉄道が走っており、信越本線の加茂駅まで結んでいた。
加茂-村松間は1985年に、村松-五泉間は99年に廃止された。

五泉から村松までの廃線跡は県道に沿って残っており、
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途中に展示施設があった。
地元の周佐義雄さんという方が私費を投じて設けたもののようだ。
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モハ71が保存されていた。

村松駅は取り壊されず、現在バスターミナルとなっている。
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ここから歩き始めることにする。
村松と言えば、日本さくら名所100選にも選ばれている村松公園に行くべきだが、今年の寒さで4月中旬のこの時期、まだつぼみのまま。
そちらは諦め、村松3万石の城下町をじっくり歩いた。
村松は旧町名があちこちに、その由来の説明した表示板がある。
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武家屋敷跡は東丁と西丁に分かれてあり、計24棟が現存している。
かなり改築されて、往年の面影を失っているものもあるが、当時のままと思しきものもいくつか発見できる。
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武家屋敷に特徴的なのは「杉ぐね」と呼ばれる垣根である。
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「ぐね」は、屋敷林のことを言う「家久根」の「久根」であろう。杉を成長させずに垣根にしてしまったようだ。

商店街は町を貫く国道290号に沿ってある。
城下町らしく、中心部で道は何度も鍵状に屈曲している。
店も地方都市の例に漏れず、シャッター街化しているが、それが昭和の香りをそのままとどめており、旅人にとってはそそられる。
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豪雪地らしく、雁木も発達してる。
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町はずれからは残雪の白山が見えた。
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城跡公園では梅が満開だった。
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めずらしい横式の歩行者用信号。
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お昼は、五泉に戻って、ご当地B級グルメの「さといも麺」を駅前の食堂で食べる。
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めちゃめちゃうまいというわけではないが、まあ珍しいもので、話のネタにはなるという程度か。まだ、ネタにしたことはないけれど。

さて、磐越西線の旅を再開。
13:04発の快速あがの新潟行きに乗り込む。
その前に、五泉駅から村松に向かう蒲原鉄道の廃線跡が、跨線橋から見えた。
右奥に向かってカーブしていくのが蒲原鉄道。
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磐越西線は新津で終わり。その先、新潟までは信越本線となる。
新津を過ぎると新潟まで15kmほどの沿線はずっと住宅地。新潟も政令指定都市だけあって、大きな町になったものだ。

13:36新潟着。若干遅れて着いたので、4番ホームの越後線へ急ぐ。
4分の待ち合わせで、内野行き普通(2両)に乗り込む。
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車内はロングシートで、乗客も多い。

新潟大学前までは乗ったことがあるが、その先は未乗車区間。
14:07内野着。駅のホームの脇にソメイヨシノの木があったが、つぼみがピンクにふくらんでおり、明日には開花!みたいな勢いだった。
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これは内野駅。
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駅前では朝市をやっていたが、もう2時前であり、どんどん店じまいしていた。
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14:23吉田行き普通(2両)に乗る。こちらはボックスシート。
となりのボックスに陣取った男子高校生3人。1人は音楽、1人は携帯メール、1人はゲームに夢中で、ほとんど会話がなかった。驚いた。

越後曽根駅で列車交換のため2分停車。
右手前方に弥彦山が見えてきた。
左手には残雪の山々が見える。手前には田植えをしていない茶色い田んぼが広がり、これが早春の新潟の風景なのだろう。

14:54吉田着。ここは東三条と弥彦を結ぶ弥彦線との交差駅。
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下車して、町を少し散策する。
よくある地方の商店街。こんな感じである。
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15:42吉田発。柏崎行き普通(2両)
丘陵の間の平地をひたすら走る。景色が単調でつい眠くなる。
ガムも効果がない。
小島谷駅で5分の待ち合わせの間に、駅舎を撮りに行く。このくらいの時間だと、なかなかスリルがある。
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この列車、ガラスが汚く、陽が差すと汚れに反射して車窓は何も見えなくなる。
列車の窓の清掃を励行してほしい。

16:56柏崎着。ここでもしばらく散策する。
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柏崎は原発の町かと思ったら、水球の町だった。
駅前通りにあるクジラ形のプランター。
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古い洋風建築が雁木の上に顔を出している。
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柏崎神社は先の中越地震で鳥居が倒壊、他の石造物にも大きな被害が出ていた。
まだ、あの時の爪痕があちこちに残っているのに驚かされる。
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これは海岸に捨てた除雪した雪の残骸。
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海岸まで来ると、海の向こうにうっすらと佐渡が見えた。

18:03柏崎発。快速くびき野5号新潟行き。
このあたり、里にもものすごい残雪があり、豪雪地帯であることを改めて痛感。
18:31長岡着。
駅弁「越路弁当」を買い、新幹線Maxとき344号(18:38発)に乗り込む。
これで3日にわたった会津・新潟の旅はおしまい。

今回、新潟もきちんと見ていないところが少なくないことに気づいた。
これからが少し意識して行きたい。
乗りつぶし対象としては弥彦線、白新線、ほくほく線がターゲットだ。
町としては、村上、新発田、栃尾、小千谷、塩沢いくらでもある。
山とも組み合わせて考えてみよう。

次回は群馬の古墳群めぐりです。

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只見線2

只見線のつづきです(4月14日)

東山温泉は古い温泉街で、昔ながらの雰囲気が残っているのが気に入った。朝早く起きて、そぼふる雨の中、あたりを散策した。
まずはなつかしい射的。
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羽黒山神社の鳥居の高さに対して、扁額の大きさにも目を見張る。
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旅館「向瀧」は建物が国の登録有形文化財だ。
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この温泉街にも竹久夢二の歌碑があった。
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説明板によれば、夢二は3回当地を訪れており、大川端に揺れる月見草から、この歌の着想を得たという。この前、それは銚子だとこの前知ったばかりなのだが、地元の人はみな、自分のところこそ、と思いたいのだろうか。

さて、昨日残してある只見線の駅舎めぐりに出かける。
会津若松駅の次は七日町(なぬかまち)駅(昭和9年開業、昭和23年完成)。ここは三セクの会津鉄道との共用駅だ。
かつては「ナヌカマチ」というカタカナ表記の駅舎がユニークだったが、平成14年に改装され、何だかわざとらしい構えになってしまった。
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無人駅だが、駅カフェがある。訪ねた時は早朝だったので、まだ営業しておらず、トイレだけ借りた。

次の西若松駅(大正15年開業、平成17年完成)も新しい。
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会津鉄道はここで分かれ、まっすぐ南下。只見線はカーブして西へ向かう。
その最初が会津本郷駅(大正15年開業、平成13年完成)
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次の会津高田駅(大正15年開業、平成13年完成)は旧会津高田町の中心部にある駅だが、デザインが会津本郷駅とほとんど同じ。これはいただけない。JRはこんな手抜きをしてはいけない。
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伊佐須美(いさすみ)神社にも寄った。ここは会津の総鎮守で極めて由緒ある神社のようだ。でも、4年前の10月に相次いで2回火災が発生、本殿、拝殿、神楽殿などが焼失してしまった。
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聞くと、放火らしいが、まだ犯人は捕まっていないという。

それにしても来年に再建が予定されている社殿がすごい。
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これは古代出雲大社の再現である。高さはなんと32m。
寄付金で資金は集めるのだろうが、いくらかかるのか。
災い転じて福となす、ということか。これが完成したら、絶対放火させてはいけない。

さて、駅舎めぐりを再開。
根岸駅(昭和9年開業、昭和35年完成)
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新鶴駅(昭和15年開業、平成13年完成)
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これは会津本郷駅と全く同じ。時計があるのと壁の色が違うだけだ。

若宮駅(昭和9年開業、昭和35年完成)
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こちらは根岸駅とよく似ている。

次は会津坂下駅なので、これにて只見線福島編は終了。
これから、しばし文化財めぐりに転じる。

これは亀ヶ森古墳。全長127mで、宮城県名取市の雷神山古墳(168m)に次いで東北第2の前方後円墳である。
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4世紀後半、古墳時代前期の古墳だが、この隣にもう1世代前の古墳、鎮守森古墳がある。全長55mで、こちらは前方後方墳。4世紀中頃の築造である。
こういう田園風景の中にある古墳は心が和む。

古墳は、その傾斜が耕作に適さないので、土地利用としては引き続き後世の墓が営まれたり、社が建てられたりする。
亀ヶ森古墳も江戸時代以降の墓が前方部に営まれ、後円部には稲荷神社が鎮座していた。

少し車を走らせると、新宮熊野神社というやはり由緒ある神社があり、ここには「長床」と呼ばれる特殊な拝殿がある。
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9間×4間の茅葺き寄棟造りの巨大な建築で、ものすごい迫力がある。
鎌倉時代初期に造られ、慶長の大地震で倒壊したが、再建された。
東北にはときどき、こういうものが残っているので、あなどれない。

これは磐越西線の一ノ戸川鉄橋。SLは黒い煙をはきながら疾走する風景がテレビなどでもよく紹介される橋だ。
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明治43年の完成で、全長445m、水面からの高さは17m。
石積みの橋脚の上に鋼鉄の橋げたがかけられ、完成当時は東洋一と言われたそうだ。

立ち寄った磐越西線の山都駅。
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ここはそばが有名な町だが、駅前の食堂で喜多方ラーメンを食べてしまった。

「愛なき人生は暗黒なり」「汗なき社会は堕落なり」
そんなセリフだけは聞いたことがあったが、この詩をよんだ人物のことは知らなかった。
蓮沼門三という人で、旧山都町大字相川地区に生まれた方だそうだ。
その「生誕の地」が公園のようになっていた。
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蓮沼氏は明治15年生まれ。苦学して東京府師範学校に入り、寄宿舎で美化清掃にひとり努めたという。それが全学生の共感するところとなり、多くの同士とともに「修養団」を創設。様々な啓蒙運動を行って、昭和55年に永眠した。
そういう方だった。

「旧一戸村制札場」「伝佐原義連の墓」「久山寺」などを見学し、旧熱塩駅へ。
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ここは旧国鉄日中線の終着駅だったが、昭和59年に廃止となり、以来、日中線記念館として一般公開されている。

日中線は日本と中国のことではなく、さらに北にある日中温泉まで延伸する予定だったので、この名がある。当初は野岩羽線と言ったので、日中温泉どころではなく、下野(栃木)と岩代(福島)、羽前(山形)を結ぶ壮大な構想だったのだ。
ここは、この前、読売新聞でノンフィクション作家の梯久美子さんが紹介していた路線だ。

記念館でいろいろと見学していると、地元の警察OBの方が遊びに来ていて、「ここはね、運行本数が少なくて、日中走らない日中線なんて呼ばれてたんだ」と笑っていた。
「でも、汽車なんて走ってないとみんな思って、踏切で止まらないものだから、事故は多かったんだよ」と警官らしいことも教えてくれた。
駅舎はドイツの田舎風なのだが、改札は相当にしぶい。
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転車台やラッセル車の展示もあった。
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ついでに熱塩温泉まで足を延ばした。
示現寺はまだ雪の中。
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共同浴場があったが、今回はパス。
このあと、喜多方郊外のいくつかの寺を回って会津若松へ。
結局、時間がおしてしまい、蔵の町並みを歩くことはできなかった。
またゆっくりと訪ねよう。

レンタカーを返却し、駅弁を買って只見線に乗り込む。
会津川口まで往復、とんぼ返りだ。川口より先は乗り残すことになるが、もしかしたら廃線になるかもしれない。今のうちに乗っておく。
16:49発。2両編成だ。
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駅弁は蔵出弁当。やや少なめだが、まあいい。
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内容はそれほど特別なことはないが、容器が会津塗だというのがウリなのだろう。

列車は2つ目の西若松で14分も停車。あとから若松を出た会津鉄道の列車に抜かれてしまった。
土曜日ではあるが、通学時間帯でもあり、かなり乗っている。
西若松を過ぎると、車窓は一気に田園風景となる。田植え前の田んぼ。茶色い大地が広がる。
気温が高いのか、残雪から水蒸気が上っている。
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早戸のあたりの只見川。もう夜の帳が下りてきた。
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18:51会津川口着。12分の待ち合わせで19:03折り返し。
その間に、代行バスを撮影。何人かが乗り継いで行った。
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20:55会津若松に到着。今夜は駅前の「駅前フジグランドホテル」に宿泊。
ここに泊まると、すぐ近くにある入浴施設「富士の湯」を利用することができる。
さあ、明日は5時半の列車に乗る。さっさと寝よう。

つづく
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只見線1

ちょっと遡って、4月13~15日に行ってきた会津の旅を報告します。

概略は以下の通り(=は鉄道、-はレンタカー)

13日:大宮=郡山=会津若松-只見-東山温泉
14日:東山温泉-会津坂下-喜多方-会津若松=会津川口=会津若松
15日:会津若松=五泉=新潟=柏崎=長岡=川越

初日は只見線の駅舎撮影、2日目は只見線の駅舎撮影と只見線の乗り鉄、3日目は磐越西線、越後線の乗り鉄であった。

まずは13日。当初は12日の夜に郡山に入って1泊し、始発で会津若松に向かう予定だったが、12日夜に所用ができてしまい、13日の早朝発つことになった。

7:06大宮発(Maxやまびこ203号)、8:20郡山着。
磐越西線に乗り換え、8:32発快速会津ライナー会津若松行き(6両編成)に乗り込む。
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この列車には、あかべこのイラストが描かれている。
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まだ残雪の深い安達太良山が右に見える。
里も中山宿あたりから雪が残り出した。
上戸(じょうこ)を過ぎて間もなく左手に猪苗代湖が見えてきた。
風が強いのか白波が立っている。
ここに来るのはいつ以来だろう。10年ぶりくらいか。

トンネルを抜け臨時駅の猪苗代湖畔駅を通過すると、正面に磐梯山が見えてくる。
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しばらくは前に右手にそして後ろにと、磐梯山と寄り添って走ることになる。
運転士はさぞや気持ちがいいだろう。

途中、軽便鉄道「沼尻鉄道」が分岐していた川桁駅の駅前に「沼尻軽便鉄道」の記念碑が立っているのが見えた。
翁島駅を過ぎると、会津盆地に向かって、列車は大きくカーブを繰り返しながら下っていく。磐梯山が右に見えたり左に見えたり。いろんな角度から見ることになるので、磐梯山の表情の変化が楽しい。
右前方には、真っ白な飯豊連峰が見えた。
会津若松には9:43に到着。
駅舎を撮影して、トヨタレンタカーに向かう。
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駅舎は鶴ヶ城を意識しているのだろう。

本日はお昼ごろまでに只見町の旧叶津番所に行かなければならない。
まっすぐ行くと早く着きすぎるので、時間の許す限り、只見線の駅舎に立ち寄りながら行く。
只見線は会津若松から会津坂下まで会津盆地の南半を縁取るように迂回しているので、とりあえず、ここはショートカット。会津坂下駅(大正15年開業、昭和2年)に直行する。
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ここは昭和初期の典型的な駅舎で、切妻屋根の平屋で正面に三角屋根の車寄せを有する。
知らなかったのだが、この町は春日八郎の故郷のようで、駅前に銅像が立っていた。
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次の塔寺駅(昭和3年開業、平成14年完成)からは残雪とのお付き合いが続く。
ホームへの屋根付き階段が事実上の駅舎である。
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ただ待合室も立派である。
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七折峠は旧道を通って次の駅に向かう。すると、こんなすばらしい景色に出会うことができる。
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会津坂本駅(昭和3年開業、昭和59年完成)は北海道によくある貨車を転用したもの。
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カラーリングが少々かっこ付けている。

会津柳津駅(昭和3年開業、昭和2年完成)は東北の駅100選に選ばれている。
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外観はそうめずらしくもないが、内部の格天井が見ものだ。
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郷戸駅(昭和16年開業、昭和53年完成)はかなり安易。昔の電話ボックスを横倒しにしたようなデザインだ。
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駅周辺はまだ、こんな雪である。
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さて時間がなくなった。番所まですっ飛ばす。
旧叶津番所は、八十里越えの会津側の関所のようなもので、代々名主の長谷部家が関守を務めてきた。その末裔が20数年前まで住んでいたという。
今は千葉の不動産会社の社長さんが買い取って、会員制の別荘にしている。
すばらしい活用法だ。
ただ、私が訪ねた時は、ちょうど屋根のふき替え工事が始まる前で、屋敷の前に足場が組んであり、ちゃんとした写真が撮れなかったのが残念だった。
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それにしても、このあたりは雪深い。この時期でまだ1m以上の残雪がある。
お地蔵さまも重たそうだ。
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真冬には3mくらいになるという。
これには、北国育ちの私もさすがに驚いた。

用も済んだので、駅舎撮影を再開する。
とにかく福島県側をすべて制覇しようと、臨時駅の田子倉駅に向かおうとしたが、田子倉ダムの下で国道252号は冬期通行止めのまま。
諦めて、只見駅(昭和38年開業・完成)から始める。
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実は只見線は昨年秋の豪雨で線路が寸断され、会津川口より奥は不通の状態が続いている。
つまり、「廃線」状態なのだ。
廃線状態というのはどういうものか。
次の会津蒲生駅(昭和38年開業・完成)で思い知らされる。
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つまり線路の除雪が全くされないのである。列車が通らないのだからする必要がないのだ。
駅の待合室は板でふさがれている。
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途中、寸断されて若松方面に戻れなくなった車両がトンネルの中に避難しているのを見つけた。
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何ともシュールというか、悲しい光景である。

この先には路盤が流されてしまった箇所も確認することができた。
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只見線は営業係数的に言うと、JR東日本のお荷物である。
252号線が冬期閉鎖されるので、福島と新潟を結ぶこの大赤字線が残っているようなものだが、この災害を奇貨として、JRは岩泉線と同じ運命をたどらせる気があるような気がしてならない。

会津塩沢駅(昭和40年開業・完成)もこんな状態。
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会津大塩駅(昭和40年開業、昭和38年完成)
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会津横田駅(昭和38年開業・完成)
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会津越川駅(昭和40年開業、昭和39年完成)
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本名駅(昭和40年開業、昭和39年完成)。だいぶ雪が少なくなってきた。
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そして最大の破損箇所がここだ。橋を新たに架けなくてはならない。
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今、列車が来ているのは、ここ会津川口駅(昭和31年開業、昭和62年完成)まで。ここから奥、只見までは代行バスが運行している。
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この駅は郵便局と農協が併設されている。

はい、どんどん行きます。
会津中川駅(昭和31年開業、昭和32年完成)
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こうして、会津を冠する駅名が多いのは、只見線が1971年に全通した比較的新しい路線だからだ。塩沢駅も横田駅もみなすでに存在しているので、区別するために必要だったわけ。

会津水沼駅(昭和31年開業、昭和32年完成)
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この先、只見川と国道252号線に沿って走るあたりで、美しいコンクリート製重連アーチ橋があった。
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その只見川に面した早戸駅(昭和31年開業、平成19年完成)は、コンクリート打ちっ放しのモダンな駅舎。
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会津宮下駅(昭和16年開業、昭和17年完成)は塗装を塗り直して、きれいになっている。
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会津西方駅(昭和16年開業、平成14年完成)もできたてほやほやという感じである。
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この写真は鉄道ではなく、252号の旧道(廃道)である。もうかなり崩壊が進んでいるのが分かる。
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ここは、廃道研究家の石井あつ子さんが、NHKの「熱中人」で紹介された時に歩いたところである。
私も歩いてみようかと思ったが、「わかん」でもない限り無理なので止めた。
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会津檜原駅(昭和16年開業、平成15年完成)
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このあたりは、古い民家が多く、昔ながらの景観を保っている。
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滝谷駅(昭和16年完成、平成13年完成)。この辺は新しい駅舎が多い。
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会津柳津駅に忘れ物を取りに戻ったら、ちょうど列車が来ていた。
会津川口行きであった。
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手ぶれしてすいません。
柳津の温泉街はとても雰囲気がいい。改めて泊まりに来たくなる。
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夕食は東山温泉でB級グルメのソースカツ丼を食べた。
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量も十分で、とてもうまかった。
カロリーを気にして、普段カツ丼は食べないようにしていただけに、懐かしかった。

つづく
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甲武信岳2

甲武信岳つづきです(5月5~6日)

甲武信岳の北の稜線を下り、午後2時45分に十文字小屋に到着。
平屋だが丸太組みのがっしりとした造り。昭和42年の創業で、まわりに群生しているシャクナゲで有名な小屋だ。
荷を下ろすと、小屋番の宗村みち子さんがお茶を出してくれた。

前夜、湯沼鉱泉に泊まったことを話すと、話が盛り上がった。
「私もあそこのおじさんに連れてってもらって、水晶を拾ってきたことがあるよ」
「あの人は男のロマンを追い求めてきたからねえ」と、半ばあきれ顔で話してくれた。

十文字小屋は名前の通り、十文字峠にある。
中山道の脇往還として昔は多くの人の往来があった街道だ。
埼玉県側の栃本から長野県側の梓山まで、一里ごとに観音様が5体置かれている。
峠の標高は、小屋で売られているバッジに2035mとあるが、鞍部の高さは1960mちょっとしかない。街道はもっと高い位置を通っていたということなのだろうか。
小屋のHPに、小屋が2035mの地点にあると書いてあるが、実際は(地形図上は)1970mほどしかない。どこから出てきた数字なのだろう。

それはともかく、まだ時間が若いので、少々散歩をすることにした。
まずは10分ほど長野県側に歩いたところにあるカモシカ展望台。
ここからは今日歩いてきた三宝山からの稜線や八ヶ岳などがくっきりと見えた。
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(これは武信白岩山)

小屋に戻る途中に「乙女の森」という矢印があり、そちらにも行ってみる。
そこは枯れ木の林だった。なぜ、これが乙女なのかは謎だ。
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このあと、十文字山(2072m)をピストンする。
10分くらいで登れるかと思ったら以外に距離があり、空身なのに結構疲れてしまった。
ハンガーノックに近い感じだった。
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頂上は全く展望がきかなかった。

小屋に戻ると、今夜同宿する中高年のご婦人3人がストーブを囲んでおしゃべりの真っ最中。こちらは、後ろのテーブルでメモ書きを済ませ、5時半の夕食まで、ストーブに当たらせてもらう。と言っても、私はほぼ、ニコニコ聞いているだけだ。
彼女たちは名古屋から車で来たという。
みな若い頃、キスリングの時代から山を歩いており、結婚してからは子供を山に連れ歩いたようだ。
「ほんと迷惑だったろうねえ」と高笑いしている。そうかもしれないが、いい経験にはなっただろう。

さてお食事は、タケノコ御飯に山菜の天ぷら、タケノコの土佐煮、その他である。
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どれもおいしい。
めずらしく缶ビールを飲んでしまった。下界で飲むのとは違い、どんどん体に吸収されていく感じがした。
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(山小屋のストーブまわりはこんな雰囲気。ランプの宿である)
山菜は、地のものではなく、宗村さんの実家がある長岡から持ってきたものらしい。
泊まり客のいない日などは時々、長岡まで帰るそうだが、大変だ。
彼女は始め、甲武信小屋を手伝っていたが、十文字小屋の先代が亡くなったので、こちらを任されることになり、もう10数年になるという。
自ら30㌔の荷物を背負って、歩荷もするそうだ。

それにしても、GWに宿泊客4人とはいかにも少ない。
「ここは下りれちゃうから。甲武信小屋は今日なら4、50人泊まってるんじゃないかな」
ああ、なるほど。ここは毛木平まで1時間半の距離。私みたいに2:45に着くくらいなら、4時半までには駐車場に下りれるから、日帰りができてしまう。
ここが混むのは、シャクナゲの季節、6月上旬の土日くらいだそうだ。

テレビニュースで北九州から来た中高年のグループ6人が白馬で遭難死したと言っている。
かなりの軽装だったようだ。
疲れているところに天候が急変し、厚着をする前に低体温症となり、そのまま逝ってしまった、と推測された。
6人中4人が医者だったのに。残念なことである。

7時には布団に入った。
ここは雑魚寝式ではなく、すべてベッド。3段ベッドが各部屋に並び、計40床ある。
ただ、収容人員は80人で、混んでいる時は1ベットに2人寝てもらう計算だ。
ただ、さすがに見ず知らずの人と同衾というのはイヤだろうから、同じグループやカップルに限ってということにしているらしい。
隣の部屋でしばらくおしゃべりしていた3人組もすぐに静かになり、安眠できた。

4時に起床し、外の様子を見る。
赤い太陽が出ていた。
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昨夜から時々、雨がぱらついていたが、今朝もぱらぱら落ちてくる。
予報は晴れなのだが、午後はところにより雷雨もしくは雹が降るという。
栃本までコースタイムで7時間。5時半に出れば午後1時に着く計算。なんとか雨に当たらないよう、と思っていたが、朝からこの調子なら、諦めがついた。
完全な雨装備で5時半に出発した。
昨日着いた時は気温が20℃あったが、いまは5℃まで下がっている。

秩父側に下るには、尾根づたいに行って栃本に出るルートと谷に下りて川又に出るルートがある。今回は旧街道が目的なので、尾根づたいに行く。
その分岐までは、ほぼ等高線に沿った平らな道で、石も倒木もコケだらけだ。
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分岐には15分で到着。そのすぐ先に四里観音があった。
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地形図では、分岐からかなり急な下りになるはずなのだが、道は依然として緩やかである。
実際の地形と地図が合致せず、現在地を正確につかめない状態のまま6:10に四里観音避難小屋に到着。
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ここにトイレがあったので飛び込む。
もよおしてきた頃だったので、ちょうどよかった。
小屋の扉を開けると、40代くらいの男性が朝食を摂っていた。
昨夜、川又から登ってきたという。甲武信岳には登らず、十文字を越えるだけで下山するのだそうだ。
ここは平成2年の完成。小屋でログハウス風で快適そうだ。
いつか使わせてもらうかもしれない。
日が差してきて、もうしばらくは降らない気配なので、ここでゴアを脱ぐ。

依然として、尾根と登山道の位置関係が地形図通りではない。
この道はなかなか眺望に恵まれないが、ときおり木々の合間から、左手に十文字山や弁慶岩、梓白岩など1本西の稜線が見える。
道は東を巻いたり、西を巻いたりしつつ進む。大山を巻いて通過しそうなところで、道をはずれ、尾根へ取り付く。
大山山頂は何の表示もなかったが、ここで間違いないことには自信があった。
倒木がひどく、山頂はこんなありさま。
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長居は無用なので、早々に下る。
下りは踏み跡もなく、道のあった右を意識して下っていくが、なかなか合流しないので少々不安になった。
それでも10分くらいで合流。気がついたら、手のひらに木の枝が刺さったのか、血が出ていた。

間もなく、奥秩父林道の終点に出る。
この林道は中津川林道の支線で、この付近は完全な廃道状態になっている。
落石がひどいし、もう廃道になってから10年以上たつのだろう、立木もかなり生長している。
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こういうのを見ると、果たしてこの道は必要だったのだろうかと思う。
林道を作ることが山を傷めていることは間違いない。
ただ、もちろん林業振興のため必要であることも少なくないだろう。
いつ建設されたのかきちんと調べていないが、当時は必要とされたのだろう。
おそらく、その後、安い外材の輸入によって、日本林業はほぼ壊滅状態となり、丁寧なメンテナンスが必要な山奥の林道は、たった一度の自然災害で復旧工事もされず見捨てられていく。この林道もその1つに違いない。
だが、その見通しの甘さを、誰が責められるだろう。

たぶん、こうした林道は地元の要望のもとに作られている。
そこには林業関係者もあれば、土木関係者の利害もあっただろう。
日本には基本的に、道を通すことを善とする思想がある。
誰かが「おそらくこれは近い将来、無用の長物となる」と思っても、それを言うことは、はばかられただろうし、言っても通用しなかったに違いない。
こうして、作った人、作ってほしい人の思いとは裏腹に山は荒れていった。

この種の廃道はそうした人間の悲しさの象徴であるように思う。
でも、我々は過去を断罪することはできないが、学ぶことはできる。
この道は本当に作るべきなのか、このダムは? この原発は?
今しか見ていないと、人は同じ過ちを繰り返してしまう。

めずらしく、そんな考え事をしながら歩いているうちに三里観音にたどり着いた。
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時間は7時40分。
地形図に記号がある地点より250mほどずれている。
この付近の表記は、あまり信用できない。

石仏をよく見ると、建立した人物の名が彫られている。
上田平右エ門と大村久兵衛。
帰宅して調べてみると、上田氏は信州・居倉の人、大村氏は栃本の関守ということだった。
建立年代は彫られてなかったが、幕末の1864年だとのことである。
この街道、他の街道と違って明治期に拡幅されたりはしなかったのか、ずっと道幅が細い。
街道らしいところと言えば、ピークを避けていることとこの里程観音だ。
当方は、ピークハントをしているので、たびたび街道をはずれることになるのだが。

次のピーク、赤沢山へはかなり早い段階から尾根に取り付き、「これか?」「これか?」と思いながら、いくつも小ピークを越えた。
いい加減まだかい?と思ったところで、眼前に巨大な岩壁が現れて、震え上がった。
「これは登れないぞ~」
でも、回り込む道があり、岩壁の頂上に上がることができた。
ここからの眺望は見事であった。
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昨日から今日にかけて歩いてきたコースが一望できる。
三宝山には雲が迫っており、あちらはもう雨が降っているのかもしれない。
たぶん、ここにはあまり人が来ないのだろうが、絶好の展望台である。
頂上はここからすぐ。8:25分着。「赤沢山」と書いた青いテープがぶらさがっていた。
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ここから黙々と1時間ほど歩き、二里観音に到着。
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ここには白泰山避難小屋がある。
この小屋は四里観音小屋よりかなり古そうだが、内側はブロック壁の堅固な造り。鉄の扉が重々しい。
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ここには誰もおらず、のんびりと一息入れた。室温は10℃。
15畳ほどの板の間があり、土間はコンクリートで大きな薪ストーブが鎮座している。
ノートを見ると、狭山市の古家さんという方が、この小屋の清掃など管理をしてくれているようだ。おかげでとても清潔であった。
ノートに「ありがとうございます」と書いてきた。

すぐ近くののそき岩からは甲武信岳が望める。あちらはもう雨か。
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こっちも曇ってきて、風が冷たくなってきた。
小屋でゴアを着込む。10:20出発。

すこし歩くと、案の定、雨がぱらついてきた。
カメラをゴアの中に隠して進み、白泰山への分岐に到着。
ここはきちんと道標があるからありがたい。
登っていく途中の道標は熊に襲われたのか、ズタズタになっていたが。
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頂上は、展望なし。
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銘板に満足して下る。これで、今回登った山は9座を数え、今年通算101座、生まれてからは346座ということになりました。

雨は白泰山を下る頃には一旦止んだのだが、あたりは雲がたれ込め、暗くなってきた。
これはまた来るぞ~、せめて一里観音まで待ってくれ~と祈っていたが、ものの5分で降り出した。
これは本降りになるに違いないので、改めてゴアを着込み、下も雨具を履く。

間もなくものすごい雷鳴が頭上から落ちてきた。
ガーンとかゴーンとかズドーンとか、バラバラバラとか、遠くで鳴るゴロゴロとは全く違う音である。稲光もピカピカ、あたりを照らし、恐ろしいのなんのって。
樹林帯の中なので、自分に落ちることはないだろうと慰めつつ、速足で下る。
じきに雨足が強くなり、とうとう雹まで落ちてきた。
雹の中を歩くのは50年近いの人生で初めてだ。
直径6~7mmのが体のあちこちに当たって痛いほど。
手でおわんを作ると、玉入れのようにどんどん溜まっくるので、水分代わりに食べました。
結構イケるわ。
チューブの水が無くなりピンチだったので助かりました。

一里観音に11:10着。
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何とかカメラが濡れないように、ささっと撮影。先を急ぐ。
11:30、林道との交差点に出たところで、いきなり雨が止み、陽も差してきた。
しかし、上半身はずぶぬれ。手入れもしないでもう20年近く使ってきたゴアは雨具の用を為さず、べちゃべちゃだった。

もう降らないだろうとふんで、ゴアを脱ぎ、長袖シャツだけで歩く。
見事な植林の中を、さくさく行く。
もう少しで栃本集落に着きそうというところで、古びた東屋があり、そこで着替えがてら昼食とする。
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シャツも濡れていたので、これですっきりした。
昼食はお湯でもどすパスタと卵スープ。やっと一息つきました。
バスの時間を調べると、1:34栃本関所発というのがある。
まだ正午なので、ゆっくりお昼を食べても十分間に合いそうだ。

植林の中にある両面神社にこれまでの無事の礼を言う。
栃本関所跡のバス停には12:55着。時間まであと40分もあるので、集落を散歩する。
ここは何度来てもすばらしい。信州に日本のチロルと呼ばれるところがあるが、ここはさしずめ関東のチロルといった雰囲気だ。
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メロディーバスの愛称で親しまれている秩父市営バスは5分遅れで到着。
この頃からまた雨が降り出し、4時近くまで降り続いた。
大滝温泉遊湯館で汗を流し、秩父鉄道、西武線を乗り継いで5時すぎに帰宅。
ニュースをみたら、私が経験した雷雨など鼻くそと言っていいくらいの被害が北関東で出ていた。
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甲武信岳1

連休の後半は雨を避けて、5、6日で奥秩父に行ってきた。

行程は以下の通り。

5日:毛木平(6:20)~千曲川水源(8:50)~水師(9:50)~甲武信岳(10:15休憩25分)~三宝岩(11:20昼食40分)~武信白岩山(12:55)~大山(13:50休憩10分)~十文字小屋(14:45休憩20分)~カモシカ展望台、十文字山往復~十文字小屋(16:05)

6日:十文字小屋(5:30)~四里観音避難小屋(6:10休憩10分)~大山(6:50)~三里観音(7:40)~赤沢山(8:25休憩10分)~二里観音(9:35休憩15分)~白泰山(10:20)~一里観音(11:10)~東屋(12:00昼食25分)~栃本関所跡(12:55)

4日は雨の残る予報だったので、この日は移動日とした。
午後、自宅を出て、中央線、小海線と鈍行を乗り継いで、信濃川上に着いたのが17:16。バスの時間にはまだ1時間もあるので、今夜の宿、湯沼鉱泉旅館まではタクシーを使う。3700円。

登山の人は、梓山の白木屋旅館を使う人が多いようだが、何度電話をしてもつながらなかったので、他の宿ということで、「鉱泉」の名に惹かれて、ここに予約を入れた。
しかし、その電話の時から、雰囲気が妙だった。
「ああ、4日かい? 大丈夫だと思うよ」
(え?「思う」って、どうゆうこと)
そんな調子で、でも、朝、登山口まで送ってくれるというので、決めたのだ。
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着いた時はかなりの雨になっていた。
すぐ風呂に入りたかったが、「せっかくだから、天然水晶洞とミズバショウを見て来なさい」という。
あまり気が進まなかったが、15分で回れるというので行った。
その洞窟は、緑色のハート形水晶が世界で初めて見つかったところらしく、それをガラス越しに見学することができるのだが、洞窟内が世界各地の様々な石の展示施設になっていて、それを、この旅館のおやじさんが無料で公開しているというわけだ。
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要するに、石のコレクターだったのである。
泊まっていたお客さんも、山屋ではなく石屋だった。
珍しい石を求めて、山中を彷徨い歩く方々である。
洞窟を出ると幸い雨は止んでいて、道路を渡ると、ミズバショウの咲く湿原に出た。
もうすっかり薄暗くなり、ミズバショウも盛りを過ぎていたが、水晶よりは楽しめた。
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食事は結構おいしかった。
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風呂は壊れた倉庫の中のようなところで、これはがっかり。
これではお客さんは石屋さんしか寄りつかないだろう。

夜はよく眠れた。空はまだ雲が残っているが、予報通り晴れそうだ。
おやじさんの運転する車で毛木平へ。
「あそこは毛木平じゃなくて毛木場だ」
と訂正されたが、確かに「毛木場駐車場」とあった。
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駐車場には20数台の車が駐まっており、なんと大阪ナンバーや和歌山ナンバーに加え、大分ナンバーまであった。遠路はるばる、百名山めぐりだろうか。

念入りに体操をして、6:20出発。最初は林道の延長のようななだらかな道を延々と歩く。カラマツとシラカバの林だ。
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左手には千曲川がゴーゴーと大きな音を立てて流れている。

ナメ滝にはコースタイム通り、1時間半かかった。
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この先、路面に雪が残り始める。
アイスバーンもあって少々危ないのでチェーンを履く。

別に早く歩いているつもりはないのだが、結局、甲武信岳の頂上までの間に10パーティーほどを抜いた。
こちらは今回からハイドロなんちゃらという、ザックの中に入れたビニールタンクからチューブを外に引いて、歩いたままで水分補給ができる装備を取り入れたので、水休憩すらしなくなったからだ。
結局、千曲川水源に到着する8:50まで2時間半一切休まなかった。
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水源と言っても、沢はまだ雪に埋もれたままで、水が湧きだしてくるポイントは確認することができなかった。
でも、登るにつれて、ゴーゴーと怖いほどの音を立てていた千曲川が、ジョロジョロになり、最後はチョロチョロとかわいくなっていったのが印象的だった。

途中、小さな沢を渡るとき、積もった雪を踏み抜いてしまうことがあった。
幸い、靴をぬらすことはなかったが、あれはびっくりする。

さて、ここからは急な上りとなる。
えっちらおっちら20分くらいかけて登り、甲武信岳からのびる稜線にたどり着く。
ここから頂上までは15分ほどだが、その前にピークを1つ稼ぐため、反対方向の水師(2396m)に向かう。
雪はしっかり積もっており、歩く人が少ないのか、つぼ足状態である。
スパッツをしていないので、靴に雪が入るのを何度もほろう。

途中、突然、左手南側が開け、富士山が目に飛び込んでくる。
思わず、「お~っ」と声が漏れる。
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この岩場に、黄色い上下の防寒着を着た男性がわかんを付けて休んでいた。
岩と一体になっているような休み方で、かなり長く縦走しているのだろう。
聞くと、今日で3日目だという。
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こちらは、ザックをさっきの分岐にデポして、ゴアも着ていない軽装なので、ちょっと恥ずかしかった。
水師の読み方は、この方が「みずし」と発音したので分かった。
ここから頂上まではほんの5分。全く眺望はないが、字が薄れてほとんど読めない木札だけがぶら下がっていた。
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すぐ引き返すと、さっきの男性はまだ同じ格好のまま休んでいた。

ザックを拾って、甲武信への登りにかかる。
最初は雪道だが、まもなく乾いた岩場となり、眺望が開ける。
西に国師と金峰山、その右手に八ヶ岳、もちろん富士も見える。
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(これは八ヶ岳)

10:15甲武信岳(2475m)に登頂。そういえば、ここは百名山。とくに百名山にはこだわっていないが、自身20座目ということになる。
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狭い山頂には十数人が休んでおり、それぞれ早い昼食を食べている。
当方がひととおり写真を撮って、メモ帳に記録を付けていたら、ろうあの方に質問された。
「あの山はなんて山か」と聞いているようだ。
こちらが地図を広げていたからだろう。分かる範囲で教えてあげた。
彼は札幌から来ていて、百名山制覇を目指しているという。
自分も実家が札幌だと筆談で答えたら、握手を求められた。

ここからの展望で多くを占めるのが西正面に見える奥秩父の盟友、国師ヶ岳と金峰山だろう。
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あちらは大弛峠まで車で来れば、あっと言う間にピストンができそうだ。
でも、ピストンが嫌いな私はたぶんそういうことはしないだろう。

甲武信岳山頂は少々風が吹いていたが、収まるとぽかぽかと暖かい。
ここでお昼にしたかったが、狭いので止めて、人があまりいなそうな三宝山で摂る方針を決め、北の稜線を下りる。
道はこんな感じだ。
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実は、盟主である甲武信岳よりも三宝山(2483m)の方が8mほど高い。
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(尖った岩は三宝岩)
甲州、武州、信州の3国の国境に位置すること、円すい形の山容が、ずんぐりした三宝山よりも好まれたのだろう。

三宝山への登り返しはきつかった。
そんなに急でもないのにバテバテで何度も立ち止まる。
やはり甲武信岳への登りで休まなかったのが響いているのだろう。
まだまだ、未熟者だ。

山頂の直前に左へ踏み跡があるので、行ってみたら、三宝岩に出た。
ここは見晴らしがいい。山頂はどうせ樹林の中だから、ここでお昼にする。
まずは撮影。
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中央が甲武信岳、その左が木賊山だ。コルに甲武信小屋があるはずだが見えない。
岩陰に座り、アルファ米の五目御飯とお湯でもどす豚汁。結構うまかった。
食後、三宝岩のてっぺんに登ってみた。いい気分。
甲武信岳と富士山が重なってみえた。
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40分ほどのんびりして出発。頂上は広場状になっていたが、やはり樹林に囲まれていた。
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写真だけ撮って通過する。ここからは長い下りだ。
冬と違って、春の雪はでこぼこになっていて歩きにくい。
下り切ったところが尻岩。ほんとうお尻のように二つに割れた岩が前後に二つ並んでいる。
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ここからは武信白岩山(2288m)への登りとなる。
道は巻いたまま、頂上を通過してしまいそうだったので、見当を付けて、尾根に出る。
尾根はブッシュもなく雪も少ないので逆に歩きやすい。間もなく、ピークに達し、おあつらえ向きに木札があった。
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この先の岩場からの眺望は抜群。正面にドーム状の岩峰、
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背後には三宝山、右手(東)の峰々は地図を見ると、奥多摩方面の笠取山、唐松尾山、白石山であることが分かって感激した。その稜線の向こうに雲取山らしき山影も見えた。
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あまりに景色がいいので、ここで10分ほど休憩して、鼻の穴をふくらませた。

岩峰のたもとに着くと、道標に「武信白岩山→」とあり、その先の岩に「×」マークがある。昭文社の地図に「東の岩峰は登山禁止」と書かれているものだろう。
それにしても、昭文社の地図ではさっきのピークが武信白岩山であり、そこには木札もあった。
しかし、道標ではこの岩峰が武信白岩山であることを示している。
「白岩」という名称から考えて、この岩峰を「白岩山」とする方が理にかなっている。
さて、どっちが正しいのか。
後で、十文字小屋の女将に聞いてみたら、道標が正しいとのこと。木札は諏訪の人が勝手に設置したのだという。
問題は、私自身が武信白岩山を登ったことになるのか、ということだ。
結論から言うと登ったことにした。
①本当の白岩山は登山禁止である②木札のあるピークと岩峰のピークでは、木札の方が標高が高い、というのが理由。まあ、自分に採点が甘くなるのは仕方あるまい。
このあたりので、右手に武甲山や秩父湖そして、明日歩く予定の栃本への稜線が確認できた。わあ、秩父だあと思ったら、何だかやけに安心した。
やっぱ、なんだかんだ言って、山では緊張しているんだなあと気づいた次第。

大山(2226m)には午後1時50分着。ここからも奥多摩方面や八ヶ岳の展望がよい。
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(右は三宝山)
実は、この1つ手前のピークが大山だと思って、わざわざ道をはずれて登っていったのだが、間違いだった。読図もまだまだだわい。

ここからすぐクサリ場が続く。先行している中高年のグループは、なかなか進まない。
ストックなど手に持っているからだ。
クサリ場では面倒でも、ストックはザックにくくりつけておいた方がいい。
横着しないことが肝心だ。
彼らに道を譲ってもらい、あとはさくさく下る。
雪もなく、チェーンもはずした。
午後2時45分、十文字小屋(十文字峠は1963m)に到着。今夜の宿だ。
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つづく
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丹沢山行2

丹沢のつづきです(4月29日)

4時半にシュラフから抜け出した。まだ日の出前だが、うっすらと明るい。
さて富士山は見えるか。
おお、一面の雲海の向こうに、その雄姿を惜しげもなくさらしている。
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手前の黒い山は、今日歩くことになる雨山である。

西丹沢の山塊は島のようになっていて、雲が波のように押し寄せている。
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神秘的な光景だ。
この雨山と檜岳の間のコルを雲が滝のように流れ落ちてゆく。
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この様子だと、今日こそきれいに晴れるだろう。

しばらく雲の動きを堪能し、朝食。
朝もまた豪華だ。
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鮭に卵焼き、冷や奴におしんこ、ミニトマトにキュウリ、フルーツはバナナとリンゴのミカン。満足じゃ。

案の定、出発する頃(6:25)には、ほとんど雲は消え去った。
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鍋割峠までは急な下り坂。峠には、安全登山を祈った石仏がたたずむ。
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一度登り返したピークが茅ノ木棚沢ノ頭。ここから雨山峠までは、クサリ場やヤセ尾根が続き、緊張の連続。「この先は…経験者向きの登山道です」と注意書きされた看板があったのもうなずける。真剣にクサリをつかむため手袋をしたほどだ。

ただ、この道は右手に畦ヶ丸から檜洞丸、蛭ヶ岳、不動ノ峰、丹沢山そして塔ノ岳と丹沢の主峰が居並ぶように見える絶好の稜線だ。
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(檜洞丸=左=と蛭ヶ岳=右=)

下ると雨山峠(958m)。ピンクのヤマザクラが満開だった。
富士山も実に美しい。
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ここから35分ほどで雨山(1176m)に到着。頂上からは伊豆・箱根方面の展望が開けている。
ここまでは、花崗岩の道だったが、この後は緑泥片岩の道となる。
檜岳(「ひのきだっか」と読む)は1167m。あまり展望はないが、木々のわずかな切れ目から秦野方面をのぞくことができた。

この日も昨日に続いて気温は高くなる予報だが、雲がない分、昨日より湿度が低いのか、とても涼しくしのぎやすい。
しかも、この先はこれまでの急なアップダウンがうそのような台地状のなだらかな尾根道。こういう道もないとやってられない。
下りが少しきつくなる直前に、目の前に富士山が飛び込んできて、思わず「ほ~」と声を上げてしまった。
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日本人はこの山があって、本当に幸せだと思う。
やはり富士山の眺望がすばらしい伊勢沢ノ頭(1177m)を通過して、9:55秦野峠(840m)着。ここで大休止をとる。
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なんたって、すごく急な下り坂だった。下りなのに途中で休んだほど。わずか1.6kmの下りを50分のコースタイムに設定してある理由がよく分かった。
この下りで、この日やっと1人目のハイカーとすれ違ったのだった。

とにかく、腐らないうちに昨日買ったおにぎりの残りを食べる。
そして、コースの検討だ。
この先は南東にあるシダンゴ山への標識しかない。
でも、当方は西の日影山、丹沢湖方面に進むつもりだ。
この道は、昭文社の地図では破線になっているが、2万5000分の1の地形図には載っていないのだ。地形も入り組んでおり、わかりにくい。

何とか見通しをつけて出発。ここから右の踏み跡に分け入れば、間もなく三角点のある小ピークに到達するはず、と急斜面を登り始めたのだが、いくら登ってもどんどん新たな斜面が見えてくるばかり。
これはおかしいと思って振り返ると、登るべき小ピークと思しき突起が正面に見える。なんと、私はさっき下ってきた尾根をすこしずれた場所で登り返していたのだ。

早めに気づいてよかったが、今登ってきた急斜面を下るのは相当に怖い。
しかも踏み跡が不鮮明だったため、登り口にたどり着けず、見覚えのない谷に出てしまった。まさかこんなところで道迷いか、と少々あせったが、谷を越えて反対側の尾根に登ったら、もとの道に戻れて、ひと安心した。

ここから登るべき山は確定できたのでいいのだが、昭文社の地図の表示とは道が違う。
たぶん、最初から正しく登っていたとしても、地図と違うので引き返しただろう。
結局は最初に間違って正解だったのだ。と考えることにした。20分ほどのロスで済んだのは幸いだった。
秦野峠のすぐ先の水場で水を補給できたのも幸いした。

さて、その行くべき道だが、これまたきつい。
次のピークは無名だが、これだけ登ったのだから、「登った山」に数えたいところ。
それには、私のルールでは名前が必要なのだ。
地図にはない名前を書いた木札がぶらさがってないものか。
と思っていたら、あった~~~!
ラッキーと近付いてみたら、「秦野峠→」という案内だった。がっくし。
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ピークの先はしばらく平らな尾根道で踏み跡も不明瞭になったが、とくに迷うこともなく秦野峠林道に出た。
出る直前に、中高年の女性2人とすれ違った。
「こっちの道はお薦めしません。秦野峠に行きたいのなら、林道を行った方が安全です」と聞かれもしないのに声をかけたら、
「私たちバリエーションやってるんですけど、楽しみにして来たのに」
と言う。よく見ると、手には何から書き込みをした地図を持っている。
「これは失礼しました。バリエーションやってらっしゃるなら、全然大丈夫です」
と言って見送った。ああいう方もいるんだなあ。

それにしても、さすがに地形図に表記のない道を行くのは、こんなに明るい空でも心細いものだ。
下に集落や道路が見えたり、人と会ったりすると、ホッとする。
で、次のピークはきちんと名のある場所。日影山(876m)だ。
これまた、ひどい急坂。こんな地味なところで、こんなに苦労するとは。
頂上もスギ林のなかで展望は全くなし。
木の札すらないのかと泣きそうになったが、シカ柵の壊れた場所にかかっていた。
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いやあ、助かった。

この先はシカ柵に沿って進む。じきに竹ヤブが出てきて、背の倍もあるようなヤブをくぐり抜けていく。とは言っても、ヤブこぎではなく、ちゃんと道幅だけ伐採されているのでとくに苦はない。
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途中、竹ヤブの途切れたところから丹沢湖が見えた。
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それにしても、このあたりの新緑は美しい。
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紅葉は山から下りてくるが、新緑は山を登っていくものなのだと、山肌を見て実感する。
標高1200m以上になると、まだ枯れ木のままだ。

約2時間にわたる地図にない道の踏破を終えて、丹沢湖と大野山を結ぶハイキングコースに合流する。
ここから一気に人が増えた。
ベンチのある小ピークまでわずか15分の間に、6組17人とすれ違った。

昭文社の地図に「ベンチ」とある地点を目指す。そこで昼食だ。
13:05着。幸い、空いていた。
メニューはアルファ米のドライカレー。待ち時間15分の間にメモをとる。少し横にもなった。30分で出発。

20分ほどで再び林道に出て、さらに30分で大野山の頂上に。
ここは牧場ということで、ソフトクリームを期待していたのだが、頂上には売店がなく、またまたがっくし。
でも頂上はヤマザクラが満開だった。
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ここからはまっすぐ下れば御殿場線の谷峨駅まで1時間10分なのだが、地図にあるジグザグ道(おそらく相当に急な下り坂)に恐れをなして、わざわざ、高杉、市間、鍛治屋敷集落を経て、山北駅へ向かう道を採った。なんと、これが2時間50分かかった。

ただ、牧場の中を突っ切り、
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それぞれの集落の雰囲気もとてもよかった。
高杉は菜の花畑の中に茅葺きの家があった。
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市間集落は茶畑の向こうにピンクの桜が咲き、まるで桃源郷のようだった。
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また、山北市街に抜ける旧安戸隧道の向こうには、かつての街道の商店が廃屋となっていた。
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古い電話ボックスもこんな風に転用されていた。
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山北駅前もさびれていつつも、昭和の洋風建築が残り、レトロな雰囲気を醸し出していた。これはこのまま残してほしいものだ。
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それにしてもくたびれた。
駅裏に日帰り温泉「さくらの湯」があるとのことで、汗を流すことができたが、頭を洗うだけで息が切れる始末。
延々11時間歩き続ければ、こんな低山でもへとへとになりますわ。
今後は少し余力を残せるようなプランにしようと誓ったのでありました。

次回は甲武信岳山行を報告します。
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丹沢山行1

大型連休の前半、もう花粉症の季節も終わったとみなし、ほぼ2か月ぶりに山へ出かけた。
まずは丹沢である。

4月中旬以降の駅舎探訪など、まだ記録していないが、ひとまずすっとばすことにする。
山行の行程は以下の通り。

4月28日:秦野駅=ヤビツ峠(8:35)~岳ノ台(9:10休憩10分)~菩提峠(9:50)~二ノ塔(10:45)~三ノ塔(11:00休憩10分)~烏尾山(11:30休憩20分)~行者ヶ岳(12:05)~急病人救助現場(30分停滞)~新大日(13:00昼食15分)~木ノ又大日(13:30)~塔ノ岳(13:55休憩5分)~小丸(14:45)~鍋割山(15:10)

4月29日:鍋割山荘(6:25)~鍋割峠(6:40)~雨山峠(7:25)~雨山(8:00休憩15分)~檜岳(8:40休憩10分)~伊勢沢ノ頭(9:20休憩5分)~秦野峠(9:55休憩15分)~〈道迷い〉~日影山(12:00休憩10分)~秦野峠分岐(12:50)~小ピーク(13:05昼食30分)~大野山(14:40)~高杉集落(15:10)~山北駅(17:30)

28日は曇りのち晴れの予報だったが、秦野に着いた時点(7:30)でもまだ厚い雲がたれ込めている。どうなることやら。
バス停は予想通りの行列。座れないのは覚悟していたが、ヤビツ峠(761m)まで50分の立ちはやはりきついので、ザックから携帯用イスを取り出し、座る。これは楽だった。

峠に着く頃には晴れてきた。というか、雲の上に出ただけだった。
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峠には自転車の方やら車で来た方やらで大にぎわい。
ここに来たのは学生時代、大山を登りに来た時以来だからもう30年ぶりくらいのこと。
当時はもっと、ひっそりとしていたような気もする。
こんなに大きなバス転回スペースはなかったのではないか。

国民宿舎丹沢ホームのヤビツ峠売店というのがあって、
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店番らしきご老人が店先をうろうろしている。
大した物は売っていない。パンとかチョコとか行動食のたぐいだ。
ある青年が店内に入り、ゴミを捨てようとしたのか、店番のじいさんに「人の家に来て、ゴミを捨てるやつがいるか!」と怒られていた。

う~ん、確かにそれはしちゃいけないのだが、じいさんも誰かを怒鳴りたいという感じで手ぐすね引いて待っているような雰囲気だ。
でも本当はやさしい人なのではないか、とも思い、
「あのお、登山届けを出す所はどこですか?」
と、知っているのにわざと聞いてみた。すると
「トイレの前にあるよ」
と、つっけんどんに言われた。そんなのも見つけられないのか、と言わんばかりの口調。
きっと、最近のハイカーのマナーの悪さに常にイライラしてしまっているのだろう。

まあ、とにかく出発だ。
表尾根を行くには、舗装道路をそのまま下り富士見山荘から登るのが定番のようだが、当方は岳ノ台経由のコースを取った。
1つでもピークを稼ぎたいからだ。
どうやら表尾根が雲と晴れの境界になっているようで、左は雲、右は晴れで、ときどき左から雲が流れてくる。
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歩き始めてすぐ、2人の若者に抜かれた。「暑いですね」と声をかけると、
「ええ、ぼくらは蓑毛から登ってきたので、もう汗だくです」
との答え。
こちらも寒さ対策はしてきたが、暑さのことは考えなかった。
半袖を持って来なかったのは失敗だった。

それにしても新緑と桜が美しい。桜はマメザクラか。
花びらが小さくて、スズランのように下を向いて咲いている。
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振り返ると、大山が見えた。南から雲の波が押し寄せている。
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岳ノ台(899m)には30分ほどで到着。
ここには小さな展望塔があり、雲海の向こうに春の富士山が見えた。
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下ると30分ほどで、菩提峠。
ここまで、最初に抜かれた若者2人のほかは1人としかすれ違わなかった。
道路を歩くよりよほどいいコースなのだが、あまり歩かれていないようだ。

菩提峠には車が何台か駐まっており、ここから歩く人も多いらしい。
富士見山荘にも興味があるが、ここから標高差にして50m下らないといけない。
止めた。
ここからゲートのある林道を少し歩き、富士見山荘からの登山道と交差したところから山道に入る。
交差点では、小学生のグループがいて、引率の方が、檜洞丸がどうのと言っていた。
ひえ~あの子たちを1泊するとは言え、檜洞丸まで連れていくんかいと驚いた。

ここから二ノ塔まではかなり急な登りもある。
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でも、振り返ると大山の雄姿に励まされる。
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二ノ塔には林道分岐から45分ほどで到着。
ベンチがいくつかあったが、みな埋まっていたので休憩はしないで、そのまま通過した。
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三ノ塔はすぐそこに見える。
このあたりから箱根方面の展望が開けた。
これは金時山である。
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相変わらす下界は厚い雲に覆われている。
15分で三ノ塔(1205m)に到着。昨年秋以来、半年ぶり。ここから烏尾山までは昨年歩いた道だ。
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富士山はもちろん、塔ノ岳に至る表尾根が一望できる。
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ここから見下ろす烏尾山も味わい深い。
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10分ほど休んで出発。お地蔵さんに見守られ、急坂を下る。
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ほんの少し登り返すと烏尾山(1136m)。
昨年来た時は、台風直後で小屋の修理をしている最中だった。
烏尾山荘の中を見てみたかったので、かき氷のイチゴ(400円)を注文した。
外で食べる方が気持ちいいのだろうが、中の方が涼しいので、中で食べた。
なんと室温は21度。外は23度はありそうだ。
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小屋番の人に聞くと、今年は雪が多かったらしい。
でも3月初旬以降は新たに降ることもなく、解けるのも早かったようだ。
結局20分休んで出発。
行者ヶ岳(1209m)には知らぬ間に着いてしまった。休むスペースもないし、通過。
ここからの下りは鎖場があるが、それほど行列はできていなかった。
それより、正面の山腹で停滞しているグループがあり、それを遠目に眺めて、となりのパーティの若者が「やばいよ、あれ、心肺停止してんじゃん?」とつぶやいている。
望遠で見てみると確かに、心臓マッサージをしている様子がうかがえる。

それにしては緊迫感が感じられず、「訓練じゃないの?」と思いつつ彼らの横を通ったら、訓練ではなく、60代の男性が顔面蒼白でマッサージを受けている状況だった。
間もなく神奈川県警のヘリが救助にやってきて、急病人を運んでいった。
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でも、見ている限り、蘇生はしなかった。
おそらく心筋梗塞と思われるが、やはり山は万全な体調で登らないと何が起こるか分からない。自戒しなくては。

気を取り直して、歩を進める。
新大日の手前に書策小屋というのがあると地図には出ているが、何もなかった。
きっと取り壊されてしまったのだろう。
帰宅後、調べてみると、書策小屋は日本最高齢の小屋番渋谷書策(かいさく)さんがずっと守ってきた小屋だったらしい。8年ほど前、88歳になる直前まで営業していらっしゃり、3年前の7月、93歳で大往生を遂げたそうだ。
何も知らず、申し訳ありませんでした。
たぶん、ここが小屋の跡地かと思われる。
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新大日には午後1時に到着。ここでお昼にする。
緑色の新大日茶屋があるが閉まっている。
GWにも開けないということは、もう営業していないということなのだろうか。
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大倉尾根にはたくさんの小屋や茶屋があるが、こちら表尾根にこうした施設がどんどんなくなっていくのは淋しい気がする。
みな、下からペットボトルで飲料を持ってくるようになったし、山の上で高い飲み物を買わなくなってしまったのだろうなあ。

すぐ先には木ノ又小屋がある。これも書策さんが開いた小屋だというが、こちらは健在だ。
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塔ノ岳への最後の登りで、鹿に出会った。親子で3頭いた。
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鹿の食害がいろいろと問題になっているようだが、彼らは芽を出したばかりの草をむさぼるように食べていた。

塔ノ岳(1491m)には2時前に到着。廃屋となった日の出山荘が迎えてくれる。
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大倉尾根からの登山客は表尾根の比ではない。
塔ノ岳への最短コースなのだから、当然か。
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塔ノ岳に来るのは昨年のクリスマス以来。相変わらず、人が多い。
関東の低山では、高尾山、大山に次いで、ハイカーの多い山という印象がある。
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これだけ人が多いと長居は無用。写真だけ撮って早々に大倉尾根を下る。
金冷しから右に折れて、鍋割山稜に入る。
途中、大倉尾根の花立山荘が雲の切れ間に見えた。
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標高1200内外のこのあたりまで来ると、桜も咲いていないし、若葉もまだだ。
木々は晩秋の景色とあまり変わらない。ただ、地面には様々な植物が顔を出し始めている。名前が分からないのが残念だ。
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午後3時10分、本日の目的地、鍋割山荘(1272m)に到着。
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南は依然として雲海。西に見えるはずの富士山もかすんでしまって見えない。
夕方になれば、蛭ヶ岳の時のように見えてくるだろう。
すこし小屋の中で休むことにする。

前日電話で予約した時には「そんなに混んでいない」と言っていたのだが、着いてみると「今日は混んでてねえ、屋根裏で寝てもらえる?」と言われた。
もちろん、こちらに異存はない。
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屋根裏は背が立たないので、かがんで歩かなければいけない。
それはいいのだが、一番の問題は、出入りが面倒だということ。
いちいち垂直のはしごを上り下りしなければならず、夜のトイレが厄介そうだ。
ただ、部屋はぽかぽかと暖かく、布団を背にのんびりと文庫本などを読んで、夕食を待った。

鍋割山荘の食事はものすごく人気があると聞いていた。
鍋焼きうどん(1000円)も有名だが、朝晩の食事が豪華であると。
それほど食事にうるさくないつもりだが、出てきたメニューに目を見張った。
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(メカジキのチーズ焼き。これは8人分)
主食はチラシ寿司、メーンディッシュ(と言いたくなる)はメカジキのチーズ焼き、それにおでんと天ぷら(カボチャ+レンコン)、みそ汁にフルーツまで付く。これで1泊2食6300円は安い。
蛭ヶ岳山荘なんて、晩はカレー、朝は漬けものだけなのに7500円もする。山が深いと言えばそれまでだけど、この差は大きい。

お腹いっぱいになって、カメラを抱えて外に出る。
やった! やはり富士山が顔を出していた。
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雲の動きが速く、いろんな表情を見せる。
日が暮れてからは、こんな笠雲も出た。
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この日の宿泊客は32人。うち家族連れが2組。
まず、この子供たちが賑やか。あと、お酒を飲んでいる方々。
当方は、ちょっと世代的に合う人がおらず、酒もあまり山では飲まない質なので、7時には屋根裏に引き上げていたのだが、消灯の9時までは全く眠れなかった。
まあ、そうは言っても9時に寝れれば十分なので、イライラはしない。

布団がちょっと湿っていたので、テントシートをシーツ代わりに敷き、シュラフで寝たのだが、寝返りを打つたびに独特の音が出るので、それがご迷惑ではないかと気になって、あまり安眠できなかった。

つづく

追伸 連休後半は十文字小屋に泊まって甲武信岳に登ってきた。帰り、激しい雷雨と雹に襲われたが、無事帰還。
こちらも追い追い報告します。
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熱海・初島

4月7~8日は伊豆に慰安旅行に行ってきた。
いつもハードな旅をしているので、たまにはこういうのもいい。
車で熱海へ。船で初島に渡り、ゆっくり散歩。
温泉にのんびり浸かって、おいしい磯料理を食べる。
翌日もぶらぶら散歩して、あとは帰るだけ。いいものです。

初島で昼食を食べるためには、熱海発11:55のフェリーに乗るのがちょうどいい。
でも、高速の渋滞を想定して早めに出たら、11時前に着いてしまった。
せっかくなので、港のすぐ近くから出ている熱海ロープウエイに乗って、熱海城へ行く。
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山頂駅は秘宝館になっており、チケットはセット券もある。
前に並んでいたおじさんはセット券を買ったようで、売り場のおねえさんに「セットで○○円になります」と大声で言われていた。少し配慮してあげてもいいものを。
当方も興味がないではないが、時間が限られているので断念。
往復チケットのみとする。

わずか3分で八幡山頂上駅に到着。標高100mちょっとだが、熱海の温泉街や初島がよく見える。
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頂上は桜が満開で大勢の花見客でにぎわっていた。
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熱海城は昭和34年に建てられた完全なつくりものだ。城自体存在しなかった。
説明板には「北条氏歴代の名将たちも・・築城を希望しながら果たし得なかった所」と堂々と書いてあり、「昭和時代に再建された大阪城、名古屋城をはるかにしのぐ日本一の天守閣」と自慢している。
まあ、ここまであっけらかんとやってくれるなら、まあいいかとも思ってしまう。
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それより気になったのは、「あいじょう岬」なる名所。
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ここは「愛情」と「愛錠」をかけているようだが、どうも「錠」は縛られるような印象をもたれないのだろうか。

さて、下って船に乗る。
イルドバカンス3世号。
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風が強くて少し寒かったが、ずっと甲板にいた。カモメがえさをねだってずっと追いかけてきていた。
以前、利尻島に行った時、カモメに口移しでかっぱえびせんをあげたことがある。
口にくわえて上を向いているとカモメがものすごいスピードで迫ってきて、えびせんを奪っていくのだ。今回は、えびせんが手元になく、参戦しなかった。
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25分で初島に到着。港に食堂がずらりと並んでおり、どの店にするか迷ってしまう。
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結局、田中屋という店に入り、岩のりラーメンを注文。いろんな刺身の定食もあったが、夜に出るだろうことが予想されるので、昼食らしいものにした。
腹ごしらえを終えて、島内を一周する。

まずは初島小中学校。ここの校歌はなんと阿久悠作詞・三木たかし作曲だ。
タイトルは「地球の丸さを知る子供たち」。
校舎はログハウス風だ。
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島の最高点(標高51m)に近いところに灯台がある。ここは上に登ることができる。
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天気もよく、大島を望むことができた。
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2時間もかからず一周し、熱海に戻る。
今夜の宿は熱海温泉からは少々はずれた網代温泉。高台にあるので、窓から太平洋を望むことができる。
日の出間もなくの初島も美しかった。
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2日目はあちこちほっつき歩いた。
まずは国道135号線の旧道のトンネル「網代隧道」
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続いて、貫一お宮の像
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来宮駅
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来宮神社の大樟
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驚いたのが伊豆山神社の鳥居。なんとあのキョンキョンが奉納している。
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ネットで調べたところ、伊豆山神社と関係のある初島の初木神社の禰宜の方とキョンキョンはお知り合いだそうで、その縁から、こういう仕儀になったようだ。

そんなこんなで、ゆる~い伊豆の旅はおしまい。

GW後半は、4日に川上村に泊まって、5~6日で甲武信岳を登ってくることにしました。
泊まりは十文字小屋。小屋周辺はもう雪はないそうですが、甲武信岳周辺はまだ60cmほどの雪があるそう。頑張ってきます。
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銚子電鉄3

銚子電鉄第3弾(4月1日)

笠上黒生駅から坂を下り、台地の中腹にあるのが本銚子駅。
「ほんちょうし」ではなく、「もとちょうし」
ここも木造のこじんまりした、なかなかしぶい駅だ。
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改札の駅員さんが入るスペースが外にある。雨の時はどうしたのだろう。
今は当然無人駅である。

市街地に下りてくると、坂東三十三か所観音霊場の二十七番札所、飯沼観音(圓福寺)がある。新しい大仏と五重塔が目立つが、創建は空海と伝わり、相当に古い。
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銚子の町は漁業よりも、この寺の門前町としてもともとは発展したとのことで、大伽藍は戦中の空襲でほとんどが焼けてしまったそうだ。

本銚子駅の次、観音駅はもちろん飯沼観音の最寄りにあるというのが由来。
一見、ゴシック様式の教会のような外観だが、もう少しメルヘンチック。
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駅構内では、たい焼きとタコ焼きが販売されていた。

近くにはさびれたたたずまいの飲み屋街があった。
住宅の中にぽつぽつと飲み屋があって不思議な雰囲気だ。
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しかし、「サザエさん」は著作権上大丈夫かしら。

次の仲ノ町駅はなんだか銭湯の玄関のよう。
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周囲はヤマサ醤油の工場だらけ。
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歴史の古さを感じさせるレンガの塀も続いていた。
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ヤマサの商標は、紀州出身ということで当初、山笠にキの文字を考えたが、紀伊徳川家と同じ船印だったので避け、キを横向きにしたら、サと読めることから、「ヤマサ」になったのだそうだ。
山笠の右上にある「上」の文字は、1864年、「ヒゲタ」や「キッコーマン」など他の6メーカーとともに「最上醤油」の称号を賜ったため付け加えたという。

もう夕方5時を回っているので、見学が無理なことは承知で工場の入り口に向かった。
そこには「美味しい しょうゆソフトクリーム」という看板があって、そそられたが、当然売店も閉まっていた。
また次回のお楽しみということにしよう。

銚子駅の写真は去年撮影済みなので省略。
帰りの特急しおさい16号の発車まで、まだ時間があるので、いかにも駅前食堂というたたずまいの吉原食堂で、まぐろ刺身定食を食す。
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まぐろは柔らかく、とろろが付いているのがうれしかった。900円
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まだ、銚子には心残りがある。工場見学としょうゆソフト、それから利根川方面や銚子港を見ていない。また来るつもりだ。

ところで、GW前半の28、29日は鍋割山荘泊で丹沢を歩いてきた。
山の上も暑いくらいで日焼けしてしまった。
早朝の雲海と富士山は最高でした。
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30日は鶴見線界隈を歩き、偶然見つけた銭湯、安善湯につかってきた。
昔懐かしい、いい湯だった。
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