千葉県には高い山がない。最高峰は標高わずか408mの愛宕山(南房総市)である。
都道府県別の最高峰としては、最も低い。
でも、今回、富山や杉ノ木峠を歩いてみて、千葉の山は怖いと思った。
この季節、奥多摩や丹沢の山は木々の葉が落ちて、見通しがいい。日は高くないが、光は地面までよく届いて、明るい感じがする。
それに比べて、温暖で常緑広葉樹の森で覆われている房総の山は夏と変わらない鬱蒼とした雰囲気を残している。
立ち入り難いのである。意を決して足を踏み入れても、暗い。
北国育ちの私には見たことのない植物が、たくさんある。不気味なのだ。
だから、どうにもビクビクした山歩きになってしまった。
富山を下った後は、那古船形まで足を伸ばして、那古観音にお参りするつもりだった。
内房線、外房線を通じて、大正時代に建てられた木造の駅はみな、海を意識してか、屋根も壁も青の色調で統一されている。その中でも、那古船形駅はなつかしい車寄せのある名建築だ。
名駅舎を訪ねて、その周辺を散歩するのを、勝手に「駅旅」と名付けて楽しんでいるが、今回は山歩き+駅旅コラボのプランだったのだ。
でも、富山を歩きながら、地形図を見ていて、気になる峠を見つけた。
木ノ根峠合併して南房総市になる前の富山町と富浦町を結ぶ峠で、明らかに古い街道の匂いがする。
二つの町の境界あたりの海岸線は断崖絶壁になっており、江戸時代にはろくな道がなかったはず。
おそらく舟で行き来したことだろう。
陸を通るなら、丘陵の低いこのあたりでおかしくない。
さっき、駅の観光案内所でもらった観光マップの裏をよく読んでみると、はたしてそうだった。
「安房でも代表的な峠の一つで史書などの記録も多い」とある。
峠にはかつて2軒の茶店があり、安藤広重や十返舎一九、松平定信らも越えたらしい。
行くしかない。
富山を下山し、富山中学校前の分岐で、水仙遊歩道に向かうハイカーたちを見送り、ひとり南に向かう。
ふもとの集落は高崎という。
このあたりは、立派なイヌマキの生け垣の家が並ぶ。これも、房総独特の景観だ。
3mに達するような要塞のような生け垣も時々見かける。

内房線の線路をわたると、すぐ左手の崖にやや小ぶりのやぐらが掘ってあった。

浦賀水道をはさんで、三浦半島と房総半島南部を中心に分布する中世の墓地兼供養施設である。
ここのは奥壁に仏像が浮き彫りにされている。
まもなく、右手に湯谷堂が見える。

ここには小林一茶の句額があるというが、外からはよく見えなかった。
それにしても、このあたりの墓地には、色とりどりの花がたくさん供えられている。
春のお彼岸もまだまだ先だと言うのに、山の暗さに反して、墓は明るい。
こんな風景にも、房総は「花の里」なのだなあと、改めて思う。
しばらく行くと車道は尽きて、登山道となる。
「旧木ノ根街道」という古い標識があった。
その隣に「房州低名山・木ノ根峠コース」ともある。ハイキングコースになっているようだ。

しかし、登り始めて、びっくり。
とても昔の街道とは思えない細い道で、しかもいきなりジグザグの登り。
先日発表した説(昔の街道は勾配もゆるやかで道は広い)は早くも撤回しなければいけないのか、と思っていたら、間もなく道は落ち着きを取り戻し、自説の撤回は免れた。
帰りに、電車の中で検索してみたところによると、頼朝の時代にはすでにこの峠は開かれていた。
明治18年、東側に木ノ根隧道が、大正7年に内房線が開業すると、この峠道は徐々に廃れてしまったようだ。
峠には登り口から10分程度で着く。ここからの眺めはすばらしい。
眼下には砂浜の岩井海岸が広がり、浮島の向こうに三浦半島も見える。
広重が「絶景なるかな」と感嘆したらしいが、むべなるかなである。

(中央の島が浮島)
いやあ、来てよかった。
峠は切通状にやや削られており、石仏が2体(1体は頭が欠けている)、道普請を記念した江戸期の石碑(写真上段左)などが残り、往年の峠らしい雰囲気がうれしい。

左に茶店跡という矢印の標識があったが、どこが茶店跡なのかは現地に標識がなく不明だった。
水を貯めた跡があったので、そこなのだろうか。
それにしても、「木ノ根峠 171.0m」という標識があったが、これは明らかに間違っている。
地形図によると、その標高はもう少し南にあるピークの高さであり、峠の標高は地形図上は140~150mの間である。
観光パンフには156mとあるが、この根拠もよく分からない。
「冷水ピーク方面 左へ」という新しい標識があるので、踏み跡を進んでみた。
そうすると間もなく北側にまた視界が開かれ、雄大な景色が広がった。
ここが「冷水ピーク」とのことだが、標高は分からない。やはり地形図上は150mに満たない。

でも、岩井駅を出発した内房線を眺めることもできた。
さて、峠に戻る。すでに2時半を過ぎている。那古観音に行くには来た道を引き返さないと時間が足りない。
しかし、ピストンは嫌いだ。
よし、今回は那古観音は諦めた。峠は越えないと意味がない。頑張って、富浦駅まで歩くことにした。
が、富山側と違って、富浦側は道が悪い。倒木も多いし、ほとんど人の手が入っていない気がする。
峠を越えたとはいえ、しばらく緩やかな登りが続く。本当の峠はもう少し奥だった。
まあ、それはいいのだが、どんどん道が悪くなる。というか、分からなくなる。
ルートファインディングと言うと大げさだが、正しい道を維持するにはそれなりの注意が必要だ。
途中、地形図上の道は尾根の左に下っていくのに、踏み跡は尾根の右に続いている箇所があった。
尾根は見えているので、しばらく踏み跡に従っていたが、トラバースしている斜面もきつくなり、踏み跡も細くなる一方なので、思い切って、もう一度尾根に戻った。すると、そこが旧道だった。
ホッとする間もなく、その道が土砂崩れで寸断されている。
これを越えたが、その先の道がはっきりしない上に、前方にはヤブが立ちはだかるばかり。
やむなく、手前の斜面をまっすぐ下る。幸い、県道が見えていたので安心だった。
同じ目にあった人がいるのだろう、誰かが下った痕跡がある。
県道にたどり着いた時には、体中、枯れ葉だらけだった。
3時15分。ここでもう一度、思案する。
この道を富山方面に戻れば、明治18年に掘られたというトンネルを見ることができる。
しかし、この時点で、そのトンネルが明治の隧道とは知らない。ただ、なんか怪しいとは思っている。
そういう状況だ。
結局、当初の方針通り、前進と決めた。
房総の田舎の集落をきちんと見ておきたかったのだ。
富浦駅までに「丹生」という集落がある。これが目当てだ。
集落というより、沿線そのものが非常に興味深かった。
富浦は日本一の「びわの里」だという。
沿線にも「○○びわ園」という看板がたくさんある。にもかかわらず、びわの木が一本もない。
あれ? びわって木になるんじゃなかったっけ?
だが、謎はすぐ解けた。みんなビニールハウスの中に収まっていたのだ。

もうひとつ、謎が・・・
このあたり、びわの他にソテツも栽培している。

これ、食用とは思えない。何に利用されているんだろう。
道を歩いている人がいれば、聞いてみるのだけど、誰もいない。
こればかりは「?」のまま帰るしかなかった。
でも、またしても検索でなんとなく分かった。
そのまま観葉植物として販売しているようだ。
やはり南房総はソテツの産地で、そこそこ育ったものが3~5万円で売られている。
貫禄のある姿になるには何十年もかかるようで、そういうのは何十万円もするらしい。
房総は東京に近いという地の理はあるにしろ、いろんな工夫をして農村はなんとか成立しているんだな。
来て、よかった。
温かい気持ちになって、富浦駅に着いたのは4:15。

22分の特急があったが、特急料金をケチって、5:12の普通にのることに。
まだ1時間あるので、駅前の中華やさんで、ラーメン・チャーハン定食で腹ごしらえ。
帰りの電車は、花摘みのお客さんで超満員。一席だけ空いていた席にねじりこみ、爆睡して帰りました。
山は怖いけど、里は明るい房総の旅でした。
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28日土曜日は同窓会だった。
ということもあり、翌29日は軽めのところに出かけた。
房総は「南総里見八犬伝」のふるさと、富山(349.5m)。
この双耳峰は昨夏、鋸山に登ってから、少々気になっていた。
最寄りの岩井駅までは新宿さざなみ1号という特急で行った。
袖ヶ浦を過ぎたあたりから、右前方に冠雪した山並みが!

丹沢だ。
冬はあそこまで見えるんだなあ。
車内には結構、山支度の人が乗っており、「この前の大雪で、みんなここまで避難してきたのかな」なんて思っていたら、鋸山を控える浜金谷でも、富山のある岩井でも大勢の人が下りた。

げげ、これだけの方々と並んで車道をアプローチしていくのは、いやだ。
彼らと少し時間をずらす意味もあり、南房総市役所富山支所の写真を撮りに向かった。コレクション。
徒歩5分。
かつ、昼食の調達。コンビニくらいかるかと思ったら、何もない。
幸い、国道沿いに酒屋があったので、そこで菓子パンをゲットした。
という感じで時間をつぶして駅に戻ったら、なんとさっきの方々がみなバスに乗って出発するところ。
なんだ、彼らの目的は、道の駅近くにある「とみやま水仙遊歩道」だったんだ。
ほっとして、歩き出す。10:15出発。
10分ほどで福聚院というお寺の前を通った。
ここに珍しいものがあった。安房勝山藩主の酒井家が寺に来る時に用いた駕籠の置き場だそうだ。

私も全国の神社仏閣、文化財をわりと歩いている方だと思うが、こんなのは初めて見た。
さらに進むと道ばたに、水仙が咲いている。ここにも、あそこにも。まるで水仙ロードである。

富山から下山した後、おれも水仙遊歩道に行こうかなあとも思ったけど、これで十分だ。
もちろん、自生しているわけじゃないだろう。
町ぐるみで植えているんだね。
ただ車道を歩いているだけで、水仙のほか、椿や菜の花まで咲いているのに出会える。
関東平野はあんなに雪が降って、その後も寒くて、日陰の雪はまだ解けていないのに、房総はもう花の季節。
そういえば、富山にも全然、雪が降った形跡がない。

駅から30分ほどで、登山口である福満寺に到着。
門前に、大正元年建立の「富山表参道」の石碑がある。ここは信仰の山でもあるのだ。

とりあえず、休憩。昨日の酒のせいで、トイレが近い。軽く体操もして、登り始めた。
落ち葉が積もったコンクリート舗装の坂をえっちらおっちら登る。

道の横の斜面には、ところどころ水仙畑がある。
静かな山歩きになると思っていたら、下山してくるハイカーと次から次に出会う。
おばさま方のグループに追い付いたりもして、意外に人が多い。
登山道には1合目、2合目と標識があるが、4~6合目は見逃した(というか、本当にあったのか?)
いきなり7合目になり、びっくり(ちなみに、8、9合目も見かけなかった)。
後半は急な階段が続くが、この季節だし、汗をかくほどでもない。
双耳峰のうちの南峰直下に、仁王門跡がある。
立派な礎石を含む基礎がそのまま残り、高い石段の上には、古ぼけた観音堂がたたずんでいた。
これが、実にいい雰囲気。

おばさま方が、「これ、お寺? 神社? 手をたたいていいの?」と仲間に聞いていて、誰も答えられなかったので、思わず「観音様ですから、お寺ですよ」と口を出してしまった。
う~む。あの年齢で、寺と神社の区別もつかないとは・・・
「観音」もそうだけど、「堂」もお寺の言い方。神社は「社」になる。
ああいう正方形の寄せ棟建築(宝形造)は、お寺に独特のものだ。
写真の若者は、静かに手を合わせていたぞ!
南峰のピークは観音堂のすぐ上にあるが、木々が邪魔して、展望はよくない。
いったん、仁王門跡まで下りて、山の東側を巻いて、北峰に向かう。
途中、縁結びの杉と呼ばれる大きな杉を左に見て、展望台に出る。
ここは「八犬士終焉の地」ということになっている。
富山の真のピーク、北峰まではここからひと登り。12:05に到着した。

風が強かったが、たくさんの人がお昼を楽しんでいた。
晴れていれば、富士山も見えるのだが、あいにくそちら方面は曇り。
大島や利島、横浜のランドマークタワーはなんとか見えるのだが。
まあ、眼下の岩井海岸、館山市街、鋸山などはくっきり見えた。

(一番奥の細かくギザギザした山並みが鋸山)
私もここでお昼。酒屋で買ったパンと水筒のお湯でもどしたお汁粉で、さっと済ませ、早々に下山。
ふもとにある「八犬伝」ゆかりの「伏姫籠穴」という洞穴に立ち寄った。
案内にも書いてあったが、なぜ架空の物語の遺跡が実際にあるのか?

たぶん、後世の人が、物語にゆかりのある場所としてこじつけたのだろうけど、洞穴自体は馬琴が書く以前から、あったものでしょう。
この辺によくある古墳時代の横穴墓や、中世のやぐらとも形は全くことなるし、いつ掘られたのだろうか。
これは謎の遺構である。
次は木ノ根峠に向かいます。
鳳来寺という名前は学生時代から、何となく記憶にあった。
大学時代、北海道から上京してきて、なんとはなしに全国の道路地図帳をめくることが多かったが、愛知県を見ると、なぜか三河の山間地に目がいった。
そこには茶臼山高原と鳳来寺山が目立つように載っていた。
長野勤務時代、足助と明智には行ったことがある。明智は美濃だけど、イメージ的にはほぼ同じエリアだ。
このあたり、とくに高い山はないのに、山が深い感じがする。
今回、飯田線で奥三河に入ったが、新城をすぎて、大海あたりになるともう山の中だ。
長篠城という駅があって、次が鳳来寺山の玄関口である本長篠駅だが、「本」とは名ばかりのさみしい駅前だ。
帰りにパンを買う店すらなくて、困ったくらいだ。
鳳来寺山は地形図では標高695mとなっているが、現地ではそのピークは採用せず、ひとつ南のピークに山頂の標識を立て、684mとしている。

こういうのは、とても悩ましい。ピークハンターとしては、684mに達して登頂とするのは、ずるい気がするのだ。
天気が悪いし、なるべく早く下山したいから、「いいこと」にしてしまいたい気もするが、わずが数百m歩くのを惜しむのも恥ずかしい。
行ってみた。標識がないので確たる自信はないが、「瑠璃山」と小さな標識がある高さ5~6mほどの岩峰が、本当の山頂のようだ。

ふつうなら、「ラッキー! これで2つ山を登ったことになる♪」とほくそ笑むのだが、今回ばかりは、それははばかられる。あくまで「鳳来寺山」ひとつとカウントしました。
瑠璃山さん、ごめんなさい。
行程をはしょって、いきなり山頂に行ってしまったが、この山の魅力はなんと言っても、1425段あるという鳳来寺本堂への石段と林立するスギでしょう。

鳳来寺は702年に利修仙人が開山したとされる。
当地で様々な仏像を作っていたが、都の文武天皇から病気平癒祈願を再三命じられて、拒みきれず、鳳凰に乗って参内したというのが、「鳳来寺」の名の由来だそうだ。
コノハズク(仏法僧)の鳴く寺として有名だったそうだが、タクシーの運転手によると、いつからか聞かれなくなってしまったとのこと。
家光が建てた仁王門が国の重要文化財になっているが、全体に荒れた印象もある。
大正3年に焼けた本堂は昭和49年に再建されたが、最盛期に20以上あった僧坊は今2つ残るのみで、廃絶した僧坊の跡地にはそれぞれ「○○院跡」という石碑が立っている。

それにしても、人がいない。天気が悪い、季節も悪いとは言え、土曜日である。まだ、夕暮れにも間がある。
結局、1425段の石段を登った45分間ですれ違ったのは、わずか5人だった。
またまたタクシー運転手の談だが、本堂とほぼ同じ高さの東照宮の間近に達する自動車道{鳳来寺パークウエイ)ができてから、めっきり石段を歩く人が減ったという。
そういえば、参道の土産物屋や飲食店が軒並み、お休みしていたなあ。
本堂から奥の院へは、30分ほどの道のり。
雨でぬれた道がすべりやすい。
奥の院もかなり荒れていた。倒壊寸前とは言わないが、このまま放置はできない状態だ。

ここから10分で山頂、さらに10分で瑠璃山。この時点で午後3時。
手元の資料では、ここから鷹打場展望台経由で下山するには2時間かかる。
足元を考えると、慎重に下りなければならず、時間短縮は厳しい。
暗くなってしまうかも、と不安になったが、ひらめいた。
東照宮から自動車道に出て、車を呼べばいいのだ!
鷹打場からの展望も、山頂からの展望もゼロだったが、そういう日があってもいいでしょう。

しかし!
駐車場に着いて、タクシー会社に電話したが、どこも出ない。
ここから車道を延々歩くのは、かなりみじめだ。
駐車場の料金所のおじさんにタクシーを呼べないかと頼んでみたら、同じ結果だったけど、「遠いとこからでもいいです」と食い下がったら、新城市街から呼んでくれた。
30分以上待ったけど、ありがたかった。
この日、お昼は前夜泊まった、民宿のご主人が持たせてくれた大ぶりの「手作り大福」5個を行動食にして済ませた。腹が減って、本長篠駅前をうろついたが、おでん屋しかなかった。
電車はあと5分で来るから、のれんをくぐるわけにもいかない。
結局、豊橋まで我慢して、帰京した次第。
自宅まで、あと4時間。ああ長いなあ。
ここのところ、山ばかり行っていたので、廃線は久しぶり。
青崩峠に行くにあたり、翌日はどこに行こうかと検討を重ね、鳳来寺山に行くことに決めたのだが、それだけでは時間が余ってしまいそう。
ほかに何かないかと探していたら、本長篠駅から昔、鳳来寺の入り口まで線路が走っていたことを知り、しかも遺構がかなり残っている様子。
本長篠から、この廃線をたどって鳳来寺山に登ることにしたわけです。

豊橋鉄道田口線は今尾恵介編著「新鉄道廃線跡を歩く 3北陸・信州・東海編」(JTBパブリッシング)によると、開業は昭和4年。田口鉄道が、まず鳳来寺口(今の本長篠)~三河海老までの11.6㎞の営業を開始。昭和7年に三河田口まで延長され、全線22.6㎞が全通した。
典型的な山間部のローカル線だが、鳳来寺への参詣客や木材搬出、沿線住民の足として活躍した。その後、昭和30年代以降、収支が悪化、31年に豊橋鉄道と合併したが、昭和43年9月に廃止された。
田口線が現役の頃の旧版地形図を関東地方測量部で探したが、2万5000分の1では廃止直後の測量のものしか発行されていない。
5万分の1なら、あるのだろうが、それだと小さすぎる。
結局、現役の線路としては載っていないが、廃線跡は記載されていたので、2万5000分の1で我慢することにした。
田口線は本長篠駅のいわゆる「1番線」に乗り入れていたようだ。
このホームは現在使用されておらず、柵が設けられている。
飯田線に乗るには、線路を渡った島式ホームに行かなければならない。
現在の1番線は、この島式ホームにあり、田口線のホームにはもう番号はふられていない。

さて、歩こう。

田口線は写真奥の飯田線から分岐して、手前に向かって延びていた。
線路は左へ緩やかにカーブして、国道151号をわたる。
このあたり、廃線跡は舗装され、生活道路になっている。

さらに進むと内金トンネルがある。これも道路に転用されている。

しばらく行くと、舗装道路はとぎれ、正面にヤブが見える。
果敢に入っていくと、これぞ廃線という雰囲気の切通に出た。すばらしい。

両側の崖からかなりの落石があるが、廃線跡にそう大きな木は生えていない。
廃止から40年以上経って、ずっと放置されているわりには、歩きやすい。
この切通は100mくらいで終了。崖となって県道と交差している。線路は大井川橋梁となって、この県道をまたいでいたのだが、橋げたはすでになく、自分はこの崖(高さ10mほど?)を下りなければならない。
ヤブを滑るように下りて、県道に出る。
すると目の前に、大きな石組みの橋脚と橋台が現れた。なかなかの迫力である。

「新鉄道廃線跡を歩く」では、この先、旧鳳来寺駅までの記述がない。
だが、この間はトンネルの続く、見所の多い区間であることが歩いてみて、分かった。
ただ、この橋脚の向こうに行くのは、川を徒渉して、コンクリートの擁壁を登らなければならず、それはさすがに無理。線路は対岸の山腹を等高線に沿って続いているようだが、こちらからは様子はうかがえない。
川を渡る橋のあるところまで、1㎞ほどむなしく県道を歩く。
「岡」という集落で橋をわたり、山に向かった。地形図には築堤の表示があるが、現地には何もない。
完全に削平されてしまったようだ。
ただ、峠状のところの田口寄りの法面の上が廃線跡であることが想定されたので、かなりの急斜面だが、意を決して登ってみた。
これがよくなかった。
つるのような枝が縦横に生い茂っており、単純なヤブこぎのようにはいかない。
雨上がりで濡れた枝を何度もくぐったり、またいだりしているうちに、体はずぶぬれ。
何とか上にはたどりついたが、前方もさっきの切通とは大違いの繁茂状態で、突撃を断念。
再び何度も、枝と格闘を繰り返しながら下山した。
しばらく歩いてから、雨具の下に隠してたカメラのフードが取れていることに気づいて、呆然。
おそらく、あのヤブで落としてしまったのだろうが、とてもあの崖をまた登る気にはならない。
また買えばいい、と諦め、次の集落に向かう。
肩を落として、また県道を歩いていると、「大草」集落のあたりで、立派な築堤が見えた。

登ってみると、築堤の前後はトンネルである。
築堤の上には作業小屋のようなものがあり、車も通れる状態。
まずは、戻る形になるが、本長篠側の大草トンネルに入ってみる。

なんと素掘りである。
長さはどのくらいだろう。200mくらいだったろうか。
懐中電灯を忘れてきてしまったが、トンネルがまっすぐだったので、光が入り、真っ暗になることはなかった。
で、出て、うれし、びっくり。
ホームの跡があるではないか!
うう、美しい。三河大草駅の跡である。

しかし、なぜこんな所に駅が? 集落の真ん中である築堤の上に作ればいいものを。
よくよく地形図を見ると、駅から県道方向に延びる点線がある。
駅に車は横付けできず、数百m歩いて来なければならない場所だったのだ。
ここより本長篠側は幸か不幸か、ひどいヤブなので、回れ右をして、田口方向に進むことにする。
大草トンネルをもう1回くぐり、もう一度築堤の上を歩き、短い富保トンネルに入る。
このトンネルは車が走れる状態だ。

抜けると、また築堤となり、さらにトンネルがある。第一峯トンネルだ。
中はかつて物置として使われていたような形跡がある。
長いので、足元が真っ暗になり怖かったが、なんとか、これも通過。
しかし、向こう側の出口はこんな状態。

巨大な落石に、少々おじけづく。
そしてすぐに第2峯トンネル。これは短いが、かなり中まで土砂が入り込んでいる。

抜けた先は再び築堤となるが、生活道路で分断されており、いったん下りて、また上る。
すると、かなり切り立った切通となり、その向こうに第3峯トンネルが見える。

第3峯トンネルを抜けると、左から林道が入り込んでいる。
出て行く道はないので、廃線跡に合流している形だ。
おそらく、このあたりの廃線跡は廃止後しばらく林道として使用されたのだろう。
引き続き第4峯トンネルが待っている。

この先は、再び県道を橋(傘川橋梁)で渡る形になるが、本長篠側に橋台に残るだけ。
こちらは再び、ヤブこぎとなる。このあたり、つる枝が多くて、本当に進みみくい。
県道の反対側にはしばらく路盤が残っている。

やがて廃線跡は県道に溶け込み、小さな峠を越える。このあたりかなりの勾配だ。
県道を下っていくと、左手にまた、路盤が見えてきた。
その上を歩いて、この日の廃線歩きは終了。
鳳来寺駅跡は鳳来寺の参道入口にあったようだが、今は奥平仙千代最期の地として整備されている。

2駅分4.8㎞の廃線歩きだったが、2時間半を要した。
この先、廃線は18㎞も続き、遺構もかなり残っているようだ。
昨年、倒壊してしまったという終点の三河田口駅舎も見てみたいが、今度はいつ来れることやら。
それにしても、この路線、かなりの山岳路線である。
採算がとれていた時代があったということを想像するのはむずかしい。
山の生活が成立していたということである。
山を歩いても廃線を歩いても、感じることは同じだ。
日本はほんとうに大きなものを失ってしまった。
さて、時間はもう午後1時、昼飯も食っていない。
これから鳳来寺山に登るのは、ちょっと無謀かもしれないが、何とか暗くなる前には下りて来られるだろう。
国道152号線は「道路」ファン(←そういう人がいればだけど)にとっては、ロマンをそそられる道の筆頭だろう。
最近は「酷道」などというふれ込みで、とても国道とは思えない「ひどい」道がよく紹介されるが、152号は「未開通」区間が連続する国道として有名だ。
長野県上田市と静岡県浜松市を結ぶ延長248㎞の国道だが、そのうち、南信州の地蔵峠と青崩峠が未開通区間。いずれも他の林道で迂回は可能だが、いまなお「幻の国道」となっている。
かつて、同じ様な道路に権兵衛峠があった。これは長野県の伊那市と塩尻市を結ぶ中央アルプスを越える峠だが、私が大学に入った1981年には未開通だった。
自転車部の先輩が、当時、この峠を自転車で越えた記事が「サイクルスポーツ」に載ったのを、よく覚えている。
権兵衛峠は間もなく車の通行が可能になり、2006年には長大なトンネルも開通した。
それはともかく青崩峠である。
私にとっては学生時代から権兵衛峠と並んで、気になる峠だった。
で、やっと30年来の夢が叶い、青崩峠を訪ねる機会が到来した。
19日、19:26東京発のひかり683号で出発。この日は豊橋に泊まる。
もう熱海あたりから雨になっており、天気予報通りとは言え、明日への不安が募る。
翌20日は6:00豊橋発の飯田線天竜峡行きに乗車。
8:10、定刻よりやや遅れて水窪(みさくぼ)に到着。

ここはまだ雨だが、回りの山はうっすら雪化粧している。
青崩峠は雪であることは間違いない。
少々の不安と少々の期待が胸をよぎる。
地形図を見ると、峠のふもとの集落池島の手前、梅島から秋葉街道らしき点線がある。
タクシーを梅島で下車。ここから歩き始めた。時間は8:50。
水窪市街は標高350m、梅島は500m。このあたりでは家の屋根がもう白くなっている。

秋葉街道は火伏せの神として江戸時代に信仰を集めた秋葉神社(浜松市天竜区)に通じる道のことで、信州から秋葉神社に通じるこの道は信州街道とも呼ばれたそうだ。
道はすぐに、車の通れない道となる。

私の愛する旧街道である。ところどころ、崩落があるが、廃屋などが風情を醸し出す。

池島の集落に入ると、いったん車道となり、国道152号に合流。番号的には格下なのに格段に立派な国道474号が分岐している。この先にある草木トンネルは三遠南信道の一部として開通し、青崩峠の東となりにある兵越峠の下を貫通する予定だったが、地盤が弱いことが後に判明。三遠南信道は青崩峠の下を通ることになった。
このため、草木トンネルは高規格道路から一般道路に格下げされてしまうという数奇な運命をたどっている。
ここから青崩峠までは4㎞。積雪は2㎝となり、チェーンアイゼンを装着する。
途中まで車のわだちがあったが、雪におじけづいたのか、引き返した跡があった。
雪はどんどん深くなる。未明までに積もったようで、今ははらはらと舞っている程度だ。
ほぼ中間地点に足神神社があった。

由来は以下の通り。

名前の通り、足の神様で「健脚祈願」と書いた絵馬がたくさんぶら下がっていたが、足の木偶も奉納されていた。
足をけがした人の快癒祈願だろうか。

私も本日の無事を祈願する。
この先、瑟平(しっぺい)太郎の墓、木地屋の墓などを見ながら高度を稼いでいくが、途中の辰之戸(たつんど)集落跡のあたりで積雪が10㎝に達し、スパッツを装着する。もともと雨具ははいていたので、これで下半身は万全。道はラッセルと言っていい状態になった。
間もなく正面に「塩の道」という大きな石碑が見えてきた。
ここから林道(国道)を離れ、いわゆる旧秋葉街道に入っていく。
「崩落のため通行止め」と書いてあるが、「ごめんなさい」して進んでいく。

峠の頂上までは20分の道のり。雪は積もっていても、ルートを見失うほどではない。
さくさく歩いて、林道の行き止まり地点に合流する。
この先が国道の未開通区間だ。
このあたりで、いきなり雪が深くなる。20㎝はあるだろうか。
でも峠にはものの5分もかからないで着いた。標高1082m。
静岡県とは言え、やはり山には雪が降るのだ。
誰の踏み跡もない、処女地。快感だ。10:50。

ようやくあこがれの場所に立てたわけだが、あまり感慨に浸っている雰囲気ではない。
峠だけに、風が強い。
さて、仕事はこれから。
頂上の写真を撮らないといけない。石碑や石仏が雪に埋もれておらず、むしろ雰囲気のある写真が撮れたのだが、別の不安がよぎる。
「こんな所をお薦めしていいものか?」
やはり、夏に来るべきだったか。「通行止め」だったことも問題だ。
まあ、最悪の場合、紹介スポットは足神神社にしてしまおう。
そう決意して、信州側に下山を始める。
こちらは遊歩道部分が遠州側より、かなり長い。車道に達してからも長い。
大きな不安がよぎる。
しかも積雪は50㎝。さすが信州。
最初は遊歩道の柵が顔を出しているので、道は分かったが、柵のないところは、もう勘である。

(こんな感じ)
幸い、風もなく、見通しも悪くなかったので、迷うことなく、車道に下りることができた。
ホッとしました。
しかし、車道に出ても延々ラッセル。
驚いたことに、あれだけ雪の中を歩いても、靴の中は全く濡れなかった。
登山靴って大したものだと感心しました。
八重河内の集落にたどり着いたのは1時半。
ここで秋葉街道の梁ノ木島番所に立ち寄り、まだ宿に入るのは早いので、和田の集落(旧和田宿)まで歩き、さびれた宿場町の風情を味わってから、4時半、民宿島畑に投宿しました。

夕食は「山コース」。いい熊肉が入ったということで、鍋はクマ。あとは鹿肉のサラダやコロッケ。汁も鹿肉でした。クマは脂っこくて固いというイメージでしたが、ここのは非常においしかった。

ここのご主人には大変よくしていただきました。
明治25年の宿帳も見せてくれ、めくってみると実に興味深かった。
菓子や青物、魚、材木などなどあらゆる商人がこの街道を通っていることが分かり、1月2月の冬季も客足は絶えない。むしろ、農閑期ということで多くのお百姓さんが盛んに秋葉山に詣でている。
往来はひっきりなしだから、冬でも踏み跡はあったろうが、あの雪の中を越えたのである。
そう思うと、なかなか感慨深い旅であった。
いやあ、すごい雪でした。
なにもあんな日にぶつからなくても・・・
青崩峠は積雪30㎝、越えた信州側は深いところで50㎝はありました。
当然、こんな日に来る人などはなく、延々ラッセル。

(厚く雪化粧した青崩峠の石碑・石仏)
べちゃべちゃの雪ではなかったけど、サラサラでもない、
適当に湿った歯応え(足応え?)のある雪でした。
しかし、降ってるだけで、基本穏やかな天候でよかった。
とくに信州側は、もし吹雪いていたら、完全に道を失ったでしょう。
比較的軽装だったことも緊張を強いられました。
幸い、遊歩道の柵がところどころに顔を出しており、道をはずれずに林道までたどりつくことができました。
そこからも1時間以上ラッセルだったけど。
この日は遠山郷の民宿島畑に宿泊。熊鍋と鹿汁といただきました。
翌日は休日なので、豊橋鉄道田口線の廃線跡と鳳来寺山を歩いてきました。

(旧田口線の三河大草駅跡)
廃線は一部ヤブこぎをしてずぶぬれ。
おまけに木と格闘しているうちに、カメラのフードを落としてしまい、涙。
鳳来寺山も雨模様で眺望はゼロでしたが、鳳来寺本堂への石段は見事でした。

(本堂へと続く石段。全部で1425段あるとか)
なかなかハードな2日間だったので、日曜日は久々に休養しました。天気も悪かったし。
詳細は明日以降書きます。
目的地は遠州と信州の国境、青崩峠。
国道152号線の未開通区間です。
ついでに近くの熊伏山に足を伸ばして来ようと思っていたのですが、今夜から里でも雪の予報。
山は諦めるとしても、峠がどのくらいの積雪になるか。
こんな時期に、こんな所へ行く人はめったにいないだろうから、トレースはついていないはず。
積雪が多ければ、私がラッセルすることになる。
少々気が重い。草木トンネルの入口あたりから飯田市側の遠山郷まで10km以上歩くことになるし。
写真も、現地が真っ白だと、かなり困る。
まあ、行ってみるしかないですね。
翌日は休みなので、鳳来寺山を登るか、豊橋鉄道田口線の廃線跡を歩くつもりだけど、これも天気次第。
なるべく降りませんよう。
それでは行ってきます。
湯ノ沢峠に下りてきたのは10:40。
出かける前は、ここから天目山温泉に下るつもりでいた。
でも、介山荘に「湯ノ沢峠からの下りは崩落箇所があり危険」との貼り紙があった。
ご主人によると、「山歩いている人なら大丈夫ですよ」と言ってくれたが、「危険」を口実に少し足を伸ばそうと思い直した。
コースタイム8時間超というのが不安だったが、ここまでかなりいいペースで来ているので、迷わず米背負峠まで縦走を続けることにした。
小金沢山以来、姿を見ていない彼女は、ここから下りると言っていたが、どうしたろうか?
峠のすぐ下にある、避難小屋で休憩しているかもしれない。
避難小屋は向学のため、必ず中の状態を見ることにしているが、今回はちょっと躊躇した。
彼女は、また私と会うのは間が悪いとでも思っている、としか思えないくらいのペースで歩いている。
扉を開けて、気まずい思いもしたくない。
とはいえ、ここで休んでいるとしたら、当然、私が来ることも想定しているだろう、ビクビクする必要はない、と扉を開けたら、
いなかった。

ホッとすると同時に、ちょっと複雑な気分。こんな休むのにちょうどいい場所、タイミングなのに通過しなたんて、余程、私と顔を合わせたくなかったのかしら。
避難小屋は布団も毛布の配備もあり、とても清潔。
ここは天目山温泉側からは車道が通じているので、手入れも比較的楽なのかもしれない。
ノートのコメントは元旦に泊まった方のが最新だった。
大月側は登山道だが、5分も歩けば、林道の終点に出るようだ。
この峠は車では越えられないが、自転車なら容易である。
峠からひと登りすると、草原状の台地に出る。
「湯ノ沢峠のお花畑」と看板があるが、当然、冬枯れで何も咲いていない。
季節には何が咲くのだろう。
植物はからっきし知識がないので、今年はすこし勉強したいと思っている。
昨年はやっとトリカブトを覚えた。あれって、猛毒なのに、どこにでもあるのね。きれいで目立つし。
ちなみに、もう例の足跡はない。彼女はやはり急いで温泉へ下っていったようだ。
次のピーク、大蔵高丸(1781m)へは背の高いササの中の道を、2、3回巻いて登っていく。
頂上は高原といった雰囲気で、展望はほぼ360度。
これまであまり見えなかった北側も木々の間から覗ける。
今日歩いてきた白谷丸、黒岳、川胡桃沢ノ頭と、ず~っと向こうに熊沢山らしきササの斜面が見える。
あの陰が大菩薩峠だ。
当然、正面には富士山が相変わらずある。だんだんに雲の腹巻きを身に着けてきたが。

ここからハマイバ丸まではほぼ平坦な稜線歩き。左右の展望もよく、丹沢の不動ノ峰あたりの雰囲気に似ている。
それにしても「ハマイバ丸」である。
カタカナの地名はどうも気になる。
「ハマイ場」:「ハマう」なんて古語は思いつかない。
「浜茨」:なぜ山の中に浜?
と思い悩んでいたが、着いてみたら、いきなり答えが出た。
「破魔射場」と標識があったからだ。
なるほど。破魔矢を射た場所だったのか。
検索してみると、由来の諸説を検討しているのが見つかった。
その中で、信ぴょう性がありそうなのが、これ。
田野の狩人池永新左衛門ほか二、三人の話では、「あの峰の南側は鹿のハメ遊ぶ所で、秋十月十五日から一週間ぐらい、夜になると鹿がメタハミ出してタケる。
そのためにハメーバ(小暮理太郎氏の説によるとハマイバからの転訛らしい)というので良い狩場だった。
焼山の奥、赤山沢のツメにもハメーバという所がある」と聞いた。
そうすると鹿の狩り場ということになる。
これによると、破魔矢は関係ないことになっちゃう。
それより、ハメ遊ぶとか、メタハミ出すとか、タケるって何だろ?
ハマイバ丸は南側のみが開けていて、やはり富士山が望める。
ここから少し下ると大きなケルンがあり、環境保護を訴える朽ちた看板の木がベンチのように置かれていた。

お昼にするのに持ってこい場所だったが、思わずそのまま下ってしまった。
下る途中、「ぎゃっ」という声が聞こえたかと思うと、お尻の真っ白なシカが森の中に駆け込んでいくのが見えた。
シカの足跡はあちこちにあったが、全くその姿を見られなかっただけに僥倖だった。
それにしても、何に驚いたのだろう。
あまりに距離があったので、私ではないだろう。
そうこうしているうちに、天下石である。
高さ3mくらいの巨石だ。

由来はよく分からないが、武田信玄が天下取りを誓った石、な~んて伝説でも残っているのだろうか。
看板に「天下石山頂」とある。
ここはピークというよりは、舌状の尾根の先端って印象なのだが、せっかく「山」と名乗ってくれているので、登った山の一つとしてカウントさせていただくことにした←かなりずるい
ここから一つピークを越えて、急坂を下りたところが米背負(こめしょい)峠。12:20着。
お腹もすいたので、ここで昼食とする。
しかし、眺望ゼロ。風が強くて寒いし暗い。
おまけにコンロのガスが終わりかけで火力が弱く、なかなか湯が沸かない。
スペアを持ってきているので、取り換えればいいのだが、なんか面倒なので、沸騰させるのを諦め、乾燥食料をもどして食べる。にゅうめんとカニ雑炊。にゅうめんはうまかった。
ここはいかにも昔からの峠道のような名称だが、大月側が完全に崩落していて、どこに道がついていたのかよく分からない。ふもとに下りて、天目山温泉のおじさんに聞いたら、
「昔の人は、むしろ大鹿峠を使ったそうだよ」
と言っていた。
大鹿峠は米背負峠の南にある峠である。
寒いので早々に出発。米背負沢沿いにどんどん下っていく。
沢がところどころ凍っている。

軽快に下っていったが、心の中ではいつも「慎重に」と唱えている。
急がないといけない時も、「急がなくちゃ」なんて思ってはいけない。
心の中でつぶやくだけで、それが行動に現れる。
とくに、ここを下れば今日は終わり、という時が一番危ない。
でも、思わぬ恐怖に見舞われた。
あともう少しで林道に出るというあたりで、「パーン」という谷にこだまする猛烈な銃声!
昔、ハンター仲間同士で、獲物と間違って撃ってしまい、友人を殺してしまったという事件を聞いたことがある。
「おれはシカじゃありませんよ~」
と、おびえながら歩いた。
正味、クマより怖かった。
それでも、林道に出られて、ひと安心。
これから1時間は歩くわけだが、山の緊張感からは解き放たれた感じがする。
最後の関門が大蔵隧道だった。
このトンネル、カーブしているくせに照明がない。
今回初めてのヘッドライト使用である。こんな下界で使うことになるとは思わなかった。
でも、あってよかった。
地面に天井から落ちてきた水滴が凍ってできた、氷筍がたっくさんあったからだ。
ライトがなかったらつまずいて転んでいただろう。
で、ようやく2:15温泉に到着。ゆっくり湯につかり、4時のバスで帰途につきました。
(おしまい)
大菩薩峠に来たのは、これで3回目だ。
1度目はもう30年近く前の学生時代、塩山から自転車で登ってきた。
上日川峠まではふつうに車道が通じているので、乗ってこれたが、たぶんそこより上は「押し」だった。
きっと、帰りは来た道を乗って下りたはず。
あの頃は、マウンテンバイクなどというものはほとんど流通していなかったので、ふつうのサイクリング車である「ランドナー」だった。
ランドナーはマルチな自転車だった。オフロードからキャンピング、草レースまで全部これで走った。
登山道に分け入ることは、そんなに多くなかったが、高みを目指したいという気持ちは強かった。
自転車は基本的に道路を走るものなので、山の頂上にはほとんど行けない。
だから、我々にとって、ふつうに行ける高いところは、道路の峠だった。
大菩薩峠はその延長だったのだと思う。
当時、乗鞍まで自転車をかつぎあげたことがある。乗鞍スーパー林道で畳平に出て、そこからは押しとかつぎだった。3026mの頂上で自転車とともに写真を撮った。
高い所に行きたいだけなら、畳平に自転車を置いて、そこから歩けばいいだけなのだが、当時は自転車と一緒でなければ意味がなかった。
だから、本格的に山をやることはなかったのだろう。
前置きが長くなったが、2度目は昨年6月。猛暑だった。
今日(15日)は冬。雪はほとんどないが、気温は低い。マイナス10度だ。
朝は、5時45分に目が覚めた。
朝食もおいしい。なめこ汁があったかくて、おいしかった。
食後、ご主人の案内で日の出を見に出たが、あいにく東の空は雲に覆われ、ご来光は拝めなかった。
でも、細かくどれが何山と教えてくれた。
雲取から続く石尾根の峰々である七ツ石、鷹ノ巣、六ツ石。その背後に川乗山。右には高水三山、さらに右に目を移すと御前山、大岳山、三頭山の奥多摩三山に権現岳。遠く、筑波山も。
肉眼では見えなかったが、望遠レンズでスカイツリーも確認することができた。

(左の山のピークのすぐ右上あたりに、鉛筆のような影があるの、分かりますか?)
さて、今日は小金沢連嶺を縦走する。
小屋を7時に出発。すぐ樹林帯に入り、熊沢山(1978m)に登る。
登山道は頂上直下をトラバースしているが、ピークに続くと思われる踏み跡があるので、そちらに行ってみる。
東京都水道局の杭が、二つのピークに打ち込んであり、このどちらかが頂上なのだろう。
山頂を示す標柱、標識らしきものは何もなかった。
下ると、一面のササ原で視界が開ける。真正面にどど~んと富士山が見える。
手前に三ツ峠山を従えており、さすがに威厳に満ちている。

下りきると石丸峠。小さなピークを一つ巻いたところが牛ノ寝通りとの分岐。
ここから1957mと地形図にある無名のピークを正直に越えて、狼平に下る。
このあたりまでずっとササ原で見通しがいい。
小金沢山(2014m)への登りは再び樹林帯に入る。北斜面の道には雪が解けずに残っているが、南斜面はきれいに消えている。つまり、北から南へ歩いている私は、登りのみ雪道ということになり、アイゼンなしでも歩ける。
しかも、いつも正面に富士山。我ながら頭のいいコースどりだ。ふつうか。
8:15に山頂着。ここで、先に出発していた単独行女性に追いついた。
「とろとろ歩いているんで、お先にどうぞ」
と言われたけど、こちらも少し休みたい。
「はい」と言いつつ、写真を撮り続けていたら、先に行ってしまった。
このあと彼女の姿を見ることはなかった。急がせてしまったかなあ。
小金沢山の頂上は立ち枯れした木が目立つ。眺望は北側以外はだいたい見渡せる。
腰を下ろして、水筒のお湯を飲んだ。

実は時計代わりにしていたスマホが電池切れになってしまった。
前回、丹沢の小屋に泊まった時、あまりの寒さに電池切れになってしまったので、今回は電池式の充電器まで持ってきたのだが、これが全く役に立たなかった。
遭難した時に困るのは当然として、時計がなくなってしまったのが痛い。
人通りの多い山なら、人に聞くこともできるが、今回はまったく希望がない。
弱っていたら、ICレコーダーがあった。これが時刻を表示してくれるのである。
時間合わせはしてなかった(やり方を忘れた)けど、実際の時間とほぼ2時間半の時差があることが宿で確認できたので助かった。
小金沢山の頂上に立ったのは、10:45だったわけだ。
次のピークである牛奥ノ雁ケ腹摺山(1990m)には9時着。
それにしても長い名前だ。「うしおくのがんがはらすりやま」。漢字で8文字、カナで14字。ちゃんと調べたことはないが、おそらく全国で最も長い名前の部類だろう。
このあたりに雁ケ腹摺山という山が3つある。
頭になにも冠さない本家?の雁ケ腹摺山(1874m)と、笹子を冠する笹子雁ケ腹摺山(1358m)。
本家は、頂上からの風景が旧五百円札の裏のデザインに採用されたことでも有名だ。
名前は、山が高くガンが腹を摺るように移動することに由来するという。
しかし、たかだか10kmほどの範囲に、こんな複雑な名前の山が3つもあるのはなぜだろう。
①その昔、ある一つの山にその名が付いたが、他の山と混同されるようになった。
②その昔、ある一つの山にその名が付いたが、それを真似て、地元の山に付けた人がいた。
③あのあたりの山を総称して、そう言っていたが、その後、区別されるようになった。
なんて理由が考えられるだろうか。
腹摺に限らなければ、この地方には、本当に「雁」のつく地名が多い。
「雁坂峠」「雁峠」「雁道」「雁丸尾」などなど。
このあたりが、ガンの渡りの経路にあたっていたことは間違いないのだろう。
腹摺山からの下りは見晴らしがいい。下りきったササ原が賽の河原。
ここは東西に視界が開けており、それぞれ奥多摩の山々と南アルプスが望める。
左から御前山、大岳山、三頭山の順に並んでいた奥多摩三山のうち、大岳山は三頭山の陰に隠れてしまった。
またまた北斜面の樹林帯を登る。次は川胡桃沢ノ頭(1940m)。このあたり倒木が多い。
ひとつ、腹摺になって倒木をくぐらないといけない場所があり、かなり消耗した。
この山の登りがこのコースでは一番きつかった。
次のピーク黒岳までは樹林帯の中のなだらかな道。
眺望もないので、写真を撮る必要もなくピッチがあがる。
黒岳には9:55着。
頂上は直径30mほどの木が切り払われており、土饅頭状になっている。
めずらしく眺望はない。
にもかかわらず、小休止。あんパンを食べる。
なんと水筒の水が凍って、シャーベット状になっていた。
リュックの中のペットボトルの中のミルクティーも。
つねに揺らされていて凍りにくいはずなのに、かなり気温が低いのだろう。
黒岳から下ったところに、広葉樹の美しい疎林があった。

見取れて写真を撮っていると、「やまなしの森林100選」の看板が。
やはりなあ。
ここからひと登りで白谷丸。ここは奇岩があちこちに露出しているだけでなく、東から南、西への大パノラマが開けている。このコースの中でも抜群の眺望だ。
東の奥多摩三山は、大岳山が三頭山の右に位置を移し、大月周辺の山も一望のもと。正面には富士山が一段と近づき、その前山が三ツ峠山から西へ御坂山塊、毛無山へと連なる。

そして西には甲府盆地の向こうに壁のような南アルプス。さらに視線を右に移すと八ヶ岳が雲を散らしている。
ここから、左に崩落した白いザレ場を見ながら、急な坂を下ると湯ノ沢峠(1652m)である。
(つづく)
妙見ノ頭まで往復して、介山荘に戻ってきたのは2時半ごろ。
今まで、山小屋には5か所しか泊まったことがないが(羊蹄小屋、常念小屋、赤岳頂上山荘、雲取山荘、蛭ケ岳山荘)、こんなに早く着いたのは初めて。時間をもてあましてしまいそうだ。
でも、山ではこのくらいがいいのでしょう。
入ってみて、びっくり。玄関にストーブがたいてあってぽかぽか。
玄関ばかりではなく、廊下に食堂、各部屋にもたかれていて、寒いところはトイレだけ。
冬季500円割り増し料金は燃料費なのだろうけど、こんだけ暖めてもらえれば納得だ。
こんなことができるのも、管理人の車がここまで入れるからだろう。
クリスマスに泊まった蛭ケ岳山荘は、部屋に暖房なし(室温は朝方マイナス2度まで下がり、水筒の水がシャーベット状になっていた)、食堂の暖房も食事時間から消灯までの3時間ほど。
布団は冷え切っていて、入るのは勇気がいったので、ビバーク用に持ってきたシュラフを布団の中に入れて眠ったものだ。
それから比べると天国。小屋そのものも建て替え間もないのか、新しい民宿のよう。
宿泊客も11人と少なかったので、個室が与えられ、快適この上なかった。

でも、山に来て、こんないい思いをしていいのか! とちょっぴり申し訳ない気分にもなりました。
部屋の間仕切りは、グループの人数などに応じて、開けられるようになっていました。
この日は、隣の部屋との間仕切りを半分開け、そこにストーブを一つ置き、ストーブ1つで2部屋を暖めるという技を使っていました。
それにしても、客の到着前からたいていてくれるとは・・・
これまた申し訳ない気分です。着いてからで大丈夫ですよ~
部屋は西日も入っていたので、20度はあったのではないでしょうか?
ぬくぬくして眠くなりましたが、今寝てしまうと夜眠れなくなるので、我慢しました。
大菩薩峠と言えば、「音無の構え」の机竜之介が活躍する、中里介山作「大菩薩峠」ですが、あまりに長くて読んでいません。

廊下に初版本?がガラスケースに入って展示されていました。
時間があるので、食堂のテーブルを使って、この日の山行をメモ帳に整理しました。
何時にどこを通過したか、どこで何が見えたか、道はどんな状態だったか、どこでどんな人に会ったか・・・
そういうことをいちいち記憶しておけないし、いちいちその都度メモするのも大儀です。
歩くリズムが狂ってしまう。
そこで編み出したのが、ICレコーダーに録音するという手です。
これは便利。ペンやメモ帳を出し入れする手間はいらないし、書く時間も省略できる。
歩きながら、しゃべればいいのです。
小屋や帰宅後に、再生してメモに起こします。
1日の山行を振り返りながら、字にするのも楽しい作業です。
このブログはそのメモをもとに書いています。
録音する手法は2000年にネパール・ムスタンに行った時に思いつきました。
当時はカセットレコーダーでしたが、ずっと馬の上にいるので、メモがしにくい。
インタビュー用に持っていったレコーダーを有効利用したわけです。
メモ起こしも30分で終了。そのうち、次々と宿泊客が到着してきました。
まず、大阪から来たという高齢男性2人組。
続いて、一緒のバスに乗っていたことが判明した単独行の女性。
男3人、女1人の若者4人グループ。
最後に、富山から来たという高齢女性3人のグループです。
(以上は、食事のときに判明しました)
私を含め11人。
地図などを見ながら、自室ですこし時間をつぶし、日没前の4時半に外に出ました。
太陽は南アルプスの赤石岳(たぶん)の左あたりに沈んでいきます。

妙見ノ頭を往復した時にはかなり強い風が吹いていましたが、今はなぎの状態。
気温は低いけど、穏やかな日の入りでした。

介山の文学碑も夕日に照らされ光っています。後方はもちろん富士山。
夕食は5時半から。これまた感激です。
主食はカレーなのですが、付け合わせというか、おかずの種類が豊富。ポテトサラダがおいしい。

ほんでもって、お正月ということで甲州ワイン(白)のサービスも。
しかも冷えてる! この冷え方は冷蔵庫ではありません。自然冷却ですね。
カレーも美味。蛭ケ岳山荘のレトルトカレーとは比較になりません。
思わず、おかわりしてしまいました。
食事中、単独女性と蛭ケ岳の話から、ヒルの話になり、いろいろと教わりました。
スパッツをしても、虫よけスプレーをかけても、あまり効かないとか。
地面に立ち上がって、うようよしている姿を想像すると、私もたじろぎそうです。
夏の裏丹沢は遠慮しておきます。
食事後、ご主人の案内で、みんなで夜景を見に出ました。
東京・横浜方面は雲が出ていて、よく見えませんでしたが、埼玉方面と西側直下の甲府盆地は見えました。

比較的明るい中央のあたりが石和温泉だそうです。
さて、食堂にいったん戻りましたが、若者グループがずっとお酒を飲みながら歓談しているので、部屋に引っ込みました。男性二人組は早々に就寝。
私もさらなるデザートのアイスキャンデーをほおばって、8時には床に入りました(消灯は9時)
若者たちは依然元気ですが、8時半には撤収するはず。
山小屋はこれがありがたい。
おかげさまで、暖かい布団でぐっすり眠れました。
(つづく)
週末、小菅から大菩薩峠、小金沢連嶺を歩いて来ました。
初日は快晴、2日目は薄曇り時々晴れという天気でしたが、両日とも眺望は問題なしでした。
今年に入って4回、山行に出かけましたが、偶然、いずれも古い街道筋を歩くか、交差するコースになりました。
甲州古道、中道往還、正丸峠、旧青梅街道です。
これらの道に共通するのは、やはり生活の往来に使われていたために、普通の登山道よりは勾配が緩やかということです。
そして、沿道に石仏、石塔、石碑がぽつぽつと残っていることでしょうか。
そこに刻んである年号を見るたびに、ささやかな興奮を覚えます。
ところが、小菅から大菩薩峠に至る旧青梅街道には、その種のものがほとんどありませんでした。
峠には首の欠けた地蔵、少し登った妙見ノ頭には「妙見大菩薩」の新しい碑があるだけ。
あと、小菅村の集落に馬頭観音がいくつかありますが、山道に、とくに分岐などに何もないのはとても不思議です。
大菩薩峠は明治11年に北西にある柳沢峠が開通するまで、甲州裏街道として往来の盛んだったところなのに、なぜなのでしょう。
今回の山行で一番、気になったのはこの点でした。
さて、とりあえず行程を振り返ってみます。
14日:小菅村役場(8:15)~小菅バス停(8:40)~白糸の滝(9:50)~大菩薩峠登山口(10:30)~昼食(12:10~35)~フルコンバ(12:45)~大菩薩峠(13:35)=妙見ノ頭往復
15日:大菩薩峠(7:00)~石丸峠(7:25)~小金沢山(8:15)~牛奥ノ雁ケ腹摺山(9:00)~川胡桃沢ノ頭(9:30)~黒岳(9:55休憩10分)~湯ノ沢峠(10:40)~大蔵高丸(11:15)~ハマイバ丸(11:40)~米背負峠(12:20昼食25分)~やまと天目山温泉(14:15)
初日は実質5時間ほどしか歩いていませんが、標高差1300mほどを登りっぱなしだったので結構疲れました。
2日目はコースタイム8時間10分の行程を正味6時間半くらいで歩くという「ハイペース」だったのですが、アップダウンのリズムがよく、それほど疲れませんでした。
14日は朝4時半に起きて、5時前に出発。電車を乗り継いで、奥多摩駅から7:25発の小菅行きバスに乗りました。
バスには登山客が10人弱。私は終点まで行かず、小菅役場前で降りたのですが、私より先に行ったのは1人だけでした。この方とは、介山荘で一緒になりました。私とは違うルート、牛ノ寝通りを行ったそうです。
それにしても、このバスは寒かった。暖房を入れていないのか、たまらず、ホッカイロを取り出し、膝やももをひたすらこすり続けました。
小菅村役場前で降りたのは、全国の市役所・町村役場の写真をコレクションしているからです。
これまでいくつたまったか数えてはいませんが・・・
あ、マンホールも集めています。結構、地域色豊かで楽しいです。


なんとなく昔の宿場町だった面影を漂わす町並みの、とくに木造の家を撮影しながら、奥へ進んで行きます。
道ばたの石仏に備えられていたコップの水はかちんこちんに凍っていました。
気温はマイナス3度です。
道は白糸の滝の2.7km手前で砂利道になり、徐々に高度をかせいていきます。
車は現在、白糸の滝駐車場までしか行けません。
登山客のものと思しき車が5台ほど止まっていました。
白糸の滝へは駐車場から10分弱。
高さ36mの崖の上から流れ落ちる様はなかなか迫力があります。

説明板によれば、この滝、以前はこのあたりの地名をとって「今倉の滝」と言われていたのだそう。
それが、明治10年に、当時の藤原県令が大菩薩峠を小菅村を視察した際に、この滝を見学し、「一条の白い糸のようだ」とその美しさをたたえ、「白糸の滝」と名付けたのだという。
昔の県令はえらかったのだ。
ただ、この「藤原県令」というのはたぶん「藤村県令」の誤りであろう。
柳沢峠を開削したのは、山梨県令藤村紫朗だから。
林道に戻ると、間もなく通行止め。昨年の台風の影響か崖が崩落しているのだ。
なんと迂回路は川を渡った対岸。
そのまま行けば登山口まで10分しかかからないのに、迂回路はアップダウンもきつく30分近くかかってしまった。
やっと登山口まで来た。林道をそのまま行けば、雄滝を見学することもできるが、今回の目的の一つは旧街道を歩くこと。滝見物は諦めて、山道に入っていく。いきなり山腹を巻いて、ぐいぐい登っていくが、やはり勾配は緩やか。ただ、何度か道を付け替えた様子がうかがえ、今歩いている道が本当に江戸時代からの道なのか、判然としない。
でも、かなり上がると、間違いなく昔からの道と思えるところに出た。

この木は多くの旅人を見守ってきたのだろうか。
2回目の沢を越えると、奥多摩方面が少しだけ開け、ピラミッド形の山が見えてきた。
方向と形から言って、「御前山」かなと思いながら歩いていたが、これは正解だった。
しばらく登ると、その右に特徴的な山容の大岳山、そのさらに右に三頭山が見えてきたからだ。
山座同定は実に楽しい。というか、見えている山が何山か分からないと落ち着かない。
気になると、地図を見ながら見当を付けるのだが、いちいち立ち止まって地図を広げるのも、時間を食う。
進みたい、でも何山か確認したい、という小さな葛藤を抱えたまま歩いている時間が実に長い。
もう少し、ゆとりを持たないと。
そうこうしているうちに、疲れが出てきた。おかしい。こんな緩い坂で、こんな若い時間にきつくなるなんて・・・
やはり登りばかり続くからだろうか。確かにろくに休んでいないけど。
いい場所があったら、お昼にしようと決めて頑張って歩いていたが、なかなか腰を下ろせそうなところがない。
誰も通らないから(この日、出会ったのは3人のパーティ1組だけ)、道の真ん中にお店を広げてもいいのだが、やはり落ち着かない。
もう少し行ってみよう、もう少しと歩いているうちに、5分10分と歩き続け、とうとう本格的にお腹も空いてきた。見晴らしのいい平らな広い場所という条件は諦め、山側の斜面に登って昼食とした。
初めて食べる乾燥パスタ(ナポリタン)。パックを開けるのが少々早かったからか、少し芯が残っていたけど、結構おいしかった。
さて気を取り直して出発。10分も歩くと、北側に開けた鞍部フルコンバに出た。
なんだ、もう少し頑張れば、こんないい所があったのに。
木の陰に隠れた右の突起は飛龍だろうか。笠取山は左に隠れて見えない。

しかし、フルコンバとはいかなる由来があるのやら。
あとで介山荘のご主人に聞いてみたら、「古い飯場」つまり「フルハンバ」がなまったとのこと。
ここには昔(昭和初期くらいまで?)、物々交換や山仕事に来ている人の宿泊所兼作業小屋があったらしい。
もう跡形もないが、建物があったらしき平らな場所はある。
ただ、「古木場」つまり「フルコバ」がなまったとの説もあるらしい。
でも、木材の切り出し場を指す「木場」はふつう「きば」と読む。果たして「こば」とこの地方の人が言っていたかどうか。
カ行(kh)とハ行(h)は、よく変化するので、私は「飯場」説をとろうと思う。
この近くに「ノーメダワ」という地名もある。「ダワ」は峠とか鞍部を指す呼称だが、「ノーメ」は何だろう。
これは介山荘のご主人もお手上げだった。
ここからは道に雪が残っている場所が多くなる。
間もなく「ニワタシバ」という標識の立つ分岐だ。

ここも、地図に「荷渡し場」と書いていなければ???だったろう。
しかし、荷渡し作業をするほど、広いスペースがある場所ではない。
かつてここは、峠の両側の村人が、米や塩、クルミの皮、桐材の甲羅など、相手側に提供するものを置いて行った場所なのだという。
交換の方法は、一方から札のついた荷を担ぎ上げておき、他方がその荷物を受け取り、自分が持ってきた荷物をまた置いていく、という一種の「沈黙交易」だった。
数日放置されていても、物品が盗まれることはなかったという。
だとすれば、人が大勢集まる必要もなく、そんなに広いスペースは必要なかったのかもしれない。
(ただ、明治も末になると、物品が紛失することもあったので、無人の取引は中止されたらしい)
両者の境界である峠を荷渡し場としなかったのは、吹きっさらしの場所を避けたのだろう。
そして、荷渡し場が小菅よりにあるのは、それぞれの村からの距離を考慮したのかもしれない。
そんなことを考えているうちに峠に着いた。
大菩薩峠の由来は、その昔、源義光(平安後期)が奥州征伐の折、峠に差し掛かったところ、日が暮れて、兵も疲弊していた。水もなく困っていたところ、信仰していた北斗妙見大菩薩が夢のように現れ、北斗七星の方角に水があることを教えられた(フルコンバにある水場のことだろうか)。
兵たちは元気を取り戻し、奥州での戦いに勝利を収めた。
これによって、この峠を大菩薩峠と呼ぶようになったという。

1時35分。まだ日が高い。
大菩薩嶺まで行くのはおっくうなので、半年前に来た時にパスした妙見ノ頭まで往復することにする。
風が強い。
峠から100mも歩くと熊沢山の斜面の陰から富士山が姿を現す。
あちらさんも猛烈な風が吹いているのだろう。東に雲が引きちぎられるように流れている。
小さなピークを越えたところが賽の河原と呼ばれる鞍部。ここは「山と高原地図」に旧峠と表記されている。
旧大菩薩峠ということだ。
今の大菩薩峠は明治初年に小菅村民の奉仕によって開かれたという(これも明治11年の柳沢峠開通で徐々にさびれてゆく)。
それまでは、南にある石丸峠が使われていたらしい。
賽の河原の旧峠はいつ使われたものなのだろうか。
旧峠を「丹波山大菩薩道」、石丸峠を「小菅大菩薩道」と言い習わしたことがあったとのことなので、あるいは丹波山方面は賽の河原を、小菅方面は石丸峠を越えたということだったのかもしれない。
妙見ノ頭は旧峠のすぐ上のピークだ。標高は1980mくらい。
頂上に「妙見大菩薩」と刻んだ石碑があった。伝説の核となる場所のはずだが、訪れる人は少ないようだ.

(つづく)
刈場坂峠から、大野峠とは逆方向に少し登るとツツジ山(879m)。
10分で、山を1つ稼ぐ。ここからは武甲山がきれいに見えた。

すぐ刈場坂峠へ戻り、別荘地である「いこいの村」の裏を登っていく。
ひとこぶ越えると虚空蔵峠への分岐点。もう一つ越えると、車道に出て、そこが七曲り峠。
すぐに登山道に戻り、わりとしっかり登って、岩場も越えるとカバ岳(896m)だ。
林の中でとくに展望もない。山名の由来もよく分からない。「樺」と関係あるのだろうか。
下るとまた車道にでる。もう登山道には戻らず、そのまま歩いて間もなく大野峠。
ここには7月11日に熊の目撃情報があった、との貼り紙。
こんなに人の多いところにもいるのか。まあ、もう冬眠中だろう。
ひと登りすると、展望のいい小ピークに出る。パラグライダーの離陸台になっており、堂平山方面に6人がふわふわと浮かんでいた。
「今日は天気も穏やかだし、気持ちいいでしょうね」
と、居合わせたハイカーがつぶやいていました。

当然まだ日が高いので、まっすぐ芦ヶ久保に下りるようなことはせず、丸山に向かいます。
丸山は奥武蔵最高峰なんだそう。考えたこともなかった。
で、960mの展望台からは360度の大パノラマ。西から時計とは逆回りに、両神山、甲武信岳、白岩山、武甲山(雲取山はこの陰に隠れている)、天目山、大岳山、丹沢。北には赤城や榛名が見えます。
西には、ほんのかすかに浅間らしきシルエットも確認できました。
八ヶ岳も見えるはずでしたが、残念ながら見えませんでした。
ここからは防火帯の中をひたすら下る。気持ちよく歩いていたら、霜が解けた路面でつるりと滑って転倒。
尻餅こそつかなかったが、手が泥だらけ。あぶない、あぶない。
日向山への分岐に入ると、ものすごい密な植林帯の中で、日が全く入らず、非常に薄気味悪い。
延々とこの暗い道が続くような気がして、怖くなった。
たぶん10分程度だったんだろうけど。
車道に出て、すぐのところに木の子茶屋がある。
しし鍋が名物らしい。今度は、のんびり来てみたい。
日向山へはここから10分ほど。さっきは隠れていた雲取山が武甲山のすぐ右に見えたのがうれしかった。

この写真では分かりにくいけど、右下にちょこんと覗いているのがそうです。
さて、もう4時。だいぶ日も傾いてきました。
さくさく下ります。
4:22に日没。4:57の電車で帰宅しました。おしまい
西武線沿線の住民なので、奥武蔵に行くのはとても楽です。
連休3日目の9日、疲れを翌週に残さないよう、近場ということで、奥武蔵にしました。
正丸峠を中心にしたあたりです。
正丸峠や奥武蔵グリーンラインは、学生時代、練習コースとしてよく自転車で走ったので、とても懐かしい。
ほぼ30年ぶりの再訪となりました。
当初は芦ヶ久保駅から大野峠に登り、カバ岳を経て刈場坂峠、虚空蔵峠、川越山、正丸峠、小高山、正丸駅というコースを想定していたのですが、これだと太陽に向かって歩く形になるので、逆コースにしました。
その方が、もし余力と時間があれば、丸山、日向山を加えることもできると思いまして。
この日の行程です。
正丸駅(9:05)~大蔵山(10:00)~小高山(10:10休憩10:20)~正丸峠(10:35)~正丸山(11:05)~川越山(11:10)~旧正丸峠(11:20)~虚空蔵峠(12:00)~刈場坂峠(12:25昼食13:00)~ツツジ山(13:10)~カバ岳(13:50)~大野峠(14:05)~丸山(14:45休憩15:00)~日向山(16:00)~芦ヶ久保駅(16:45)
正丸駅からは5年ほど前に伊豆ケ岳に登ったのと同じ道を進みます。
今日も快晴です。
途中の分岐で右に折れ、ふたご岩、かめ岩などを経て尾根に出ると、あとはなだらか。
到着した分岐は長岩峠だと思ったら、標識に「大蔵山」とある。
地形図には載っていない山だが、このあたりの地名としては「大蔵山」というのはあるようだ。
いずれにしろ、「登った山」の一つに加えることにする。
右に折れて下るとすぐ長岩峠、同じくらい登り返すと西側の展望が開けた。小高山(720m)である。
ベンチがあるので腰を下ろし、水筒の熱湯を注いでココアを飲む。
正面には、昨年11月に歩いたばかりの武川岳、蔦岩山、二子岳と連なる稜線が見える。
ここは正丸峠と伊豆ケ岳を結ぶコースで人気があるのか、ハイカーが次々にやってくる。

ここから小さなこぶを3つ越えて下ったところが正丸峠だが、一つめのこぶからの眺望がいい。
これから登る川越山(実は正丸山だった)や奥武蔵グリーンラインの稜線が一望できる。
このこぶには巻き道があるので、この景色を見ないで通過するハイカーも多いと思う。
もったいない。
正丸峠には昭和16年創業という奥村茶屋がある。ジンギスカンが有名なようだ。
各種ステッカーが売っている(ライダー向けなのだろうか)が、700円は高い。
この峠は学生時代に通った縁があって、茶屋の主人にいろいろ話を聞きたい気もしたが、まだ歩き始めたばかりで大休止する気分にもなれなかったので、パスしてしまったが、帰宅後、調べてみた。
飯能と秩父を結ぶ正丸峠に車の通る道が開通したのは、昭和12年のこと。
バスが通ったのは昭和15年で、茶屋の開店がその翌年。
車が通るようになったと言っても、当初は大八車を引いたり、徒歩で越えた人も当時は多かったはず。
茶屋はそんな人々にとっても、バスの乗客にとっても、憩いの場所だったに違いない。
そして、峠の下に国道299号の正丸トンネルが開通したのが昭和57年(ちなみに鉄道が開通したのは昭和44年)。
これには少々驚いた。
私がこのあたりを徘徊し始めたのは昭和56年だから、まだ開通前だったのだ。
しかも前年ということは、あのあたりで大工事が行われていたはずだが、全く記憶がない。
今度、自転車部の先輩に会う機会があったら、聞いてみたい。
さて、ここからは都心のビル群が見えるのだが、かなり霞んでいて、かすかにシルエットを確認できたくらい。
スカイツリーを見つけることはできなかった。
ここのすぐ上にあずま屋があり「展望台」ということになっているが、木々のせいで展望はあまりよくない。
ただ、ここで初めて武甲山が顔を出した。このあと、ずっと彼には同伴していただくことになる。
ものすごい木の階段(あまりの段差に登りで利用している人はおそらくいまい)の脇を直登し、たどりついたピークには「正丸山」とある。
地図にある川越山を登っているのだと思っていたが、川越山はもう一つ先のピークだった。
川越山にはハンターのおじさんがたたずんでいた。
聞くと、獲物はシカだという。でも、この日の山行ではシカもサルも見かけなかった。
ここから、どどんと下ると旧正丸峠。昭和12年にバス道路が開通するまで、人はこの道を通っていたのである。
あるいは、道路開通後もしばらくは、徒歩の人はこちらを通っていたのかもしれない。
昔の街道らしい傾斜のゆるやかな道が右と左に続いていた。
ここから、4つのこぶを正直に越え、2つのピークをトラバースすると林道に出る。虚空蔵峠だ。
小さな祠の中に納まっているのが虚空蔵様だろうか。
刈場坂峠へは登山道は避けて、林道を歩く。昔、自転車で何度も走った道だ。
刈場坂峠は北側が開けている。こんなに眺めがよかったっけと、びっくりした。
手前に堂平山、その向こうに赤城や榛名、そのさらに向こうには尾瀬や苗場方面の山々が白く見える。
学生時代は走るばかりで、全然景色なんて気にしてなかったんだなあ。もったいない。

<上の写真、中央がたぶん榛名山です。背後は上越国境の山々と思われますが、きちんとは同定できません。
刈場坂峠にはかつて茶屋があったはずですが、なくなっていました。
自宅に帰って、当時の写真をひっくり返してみたのですが、茶屋の写っている写真はありませんでした。残念。
ここで、3日連続の日清ラーメンもっちり太麺を食べ、昼食としました。
焼き豚の代わりにソーセージを入れました。すきなんです(つづく)
敬愛するおつ山さんをまねて、私の山行記録を整理してみました。
反転させる技術もないので、ただの羅列です。
1974年は小6。これが「山に登った~」という実感のある最初の山行です。
家族で登りました。
以下、途中で「=自転車」とあるのは、山の途中まで自転車で行ったもの、もしくは頂上まで自転車をかつぎあげたものです。
【小学】
1974・6月:ニセコアンヌプリ(北海道)
【中学】
1975・8月:羊蹄山(北海道)
1976・8月:樽前山(北海道)
1977・8月:旭岳(北海道)
【高校】
1978・6月:十勝岳(北海道)
1980・10月:藻岩山(北海道)
【大学】
1982・3・16:六甲山(兵庫県)=自転車
1982・9月:天上山(東京都)
1982・11月:高尾山、影信山(東京都・神奈川)
1982・11月:御嶽山(東京都)=自転車
1983・3・25:阿蘇山(熊本県)=自転車
1983・5・22:城峯山(埼玉県)=自転車
1983・9・16:美ヶ原(長野県)=自転車
1983・9・26:乗鞍岳(長野県・岐阜県)=自転車
1983・10・30:大山(神奈川県)
1984・3・23:韓国岳(鹿児島県・宮崎県)
【山形勤務時代】
1985・8・16:吾妻小富士(福島県)
1986・8・13:岩木山(青森県)
1987・8・7:どんでん山(新潟県)=自転車
1988・8月:月山(山形県)
【東京勤務時代】
1990・7・20:那須茶臼山(栃木県)
1990・11・19:金時山(神奈川県、静岡県)
【長野勤務時代】
1994・8・12:駒ヶ岳(北海道)
1994・10・14:戸隠山(長野県)
1994・10・23:北横岳(長野県)
1994・11月:冠着山(長野県)
1995・8・27:黒姫山(長野県)
【再び東京勤務時代】
〈子供たちと〉
1996・4月:百蔵山(山梨県)
1996・12・15:石割山(山梨県)
2001・5・5:夫神山(長野県)
2001・10・21:足和田山(山梨県)
2001・11・23:三ツ峠山(山梨県)
〈クライミング仲間たちと〉
2005・9・23:鋸山(東京都)
2006・5・15:二上山(奈良県・大阪府)
2006・6・24:伊豆ケ岳(埼玉県)
2006・6・29~30:富士山(静岡県・山梨県)
2006・7・30:常念岳(長野県)
〈ほぼ単独行〉
2011・1・23:御嶽山、大岳山(東京都)
2011・2・5:御前山(東京都)
2011・5・15:黒岳(山梨県)
2011・5・21:武甲山(埼玉県)
2011・6・28:大菩薩嶺(山梨県)
2011・7・3:笠取山(山梨県・埼玉県)
2011・7・23:高尾山・影信山(東京都・神奈川県)
2011・8・5:岩櫃山(群馬県)
2011・8・6:谷川岳(群馬県)
2011・8・15:木曽駒ヶ岳、宝剣岳(長野県)
2011・8・19:紋別岳(北海道)
2011・8・27:鋸山(千葉県)
2011・9・10:飯縄山(長野県)
2011・9・18:本社ケ丸(山梨県)
2011・9・23:三ノ塔(神奈川県)
2011・9・24~25:阿弥陀岳、赤岳、硫黄岳(長野県・山梨県)
2011・10・1:高取山(神奈川県)
2011・10・2:越前岳(静岡県)
2011・10・8:秩父御岳山(埼玉県)
2011・10・9:矢倉岳(静岡県)
2011・10・10:倉岳山、高畑山(山梨県)
2011・10・29:釜伏山(埼玉県)
2011・11・3:武川岳(埼玉県)
2011・11・5~6日:雲取山、七ツ石山(埼玉県、東京都)
2011・11・12:赤城山(群馬県)
2011・11・20:日向山(神奈川県)
2011・11・23:榛名山(群馬県)
2011・11・27:毛無山(静岡県・山梨県)
2011・12・10:箱根・神山(神奈川県)
2011・12・17:沢口山(静岡県)
2011・12・24~25:蛭ケ岳、丹沢山、塔ノ岳(神奈川県)
2011・12・30:三国山、大洞山(山梨県、静岡県)
2012・1・7:浅間嶺(東京都)
2012・1・8:三方分山、パノラマ台(山梨県)
2012・1・9:川越山、丸山(埼玉県)
今週末は小菅から西上し、介山荘に泊まって、翌日は小金沢山経由で湯の沢峠から下山します。
いやあ、今朝は冷え込みましたね。昨夜も帰り、風が強くて震え上がりました。
今日は、精進湖の続きです。
「山と鉄」というタイトルのわりには、「山」ばかりで申し訳ない気分です。
「鉄」もお休みしているわけではありません。
昨年は、男鹿線、五能線、弘南鉄道、花輪線、釜石線、長野電鉄、石北本線、釧網本線、飯山線、飯田線、水郡線、大井川鉄道などを乗り鉄し、暮れには、廃止間近の長野電鉄屋代線の駅舎撮影に行って来ました。
大晦日は午後から出勤だったので、午前中、鶴見線国道駅を訪ねてきました。
ここは生麦事件の現場が近いので、そのあたりも歩きました。
「生麦」は地名なので仕方ないんだけど、病院もマンションもみんな「生麦」「生麦」で、歴史の教科書で殺人事件の現場というイメージのある当方にとっては、なんか生々しくて不思議な感じがしました。
生麦はかつては漁師町だったようで、魚屋さんが多い。
この日は正月用の魚を売り出す「生麦魚河岸祭り」が開かれており、私も「生麦」という名のお食事処で、「生麦丼」という3色丼をいただきました。さすがにおいしかったです。

なんて、寄り道をしてしまいましたが、精進湖です。
三方分山からパノラマ台までの尾根歩きは、それなりにアップダウンがありますが、それほどきつくはありません。左手に富士山、右手に南アルプスがいつも木々の間から見えます。挟み打ちにあっている気分で、「もっと挟んで~」などとMな気分になります。
精進峠でマウンテンバイクの方に会いました。
本栖湖からパノラマ台を越えて来たのだそう。
ハイカーが比較的少ないこの季節が彼らにとってはシーズンなのかもしれません。
精進湖への下りを巧みなハンドルさばきで下りて行きました。
根子峠からパノラマ台までの登りは、マウンテンバイクなら快適な下りとなるだろう幅広の緩やかな道です。
そしてパノラマ台には大勢の人がいました。

ちょうどお昼どきだったこともあり、皆さん思い思いに弁当を広げたり、カップ麺をすすったり。
確かに、ここは開けていますね。眼下の精進湖は言うに及ばす、西湖や河口湖も見え、御坂山塊の王岳、鬼ケ岳、十二ケ岳などがきれいに連なって見えるのに、見取れてしまいました。

しばし景色を堪能し、烏帽子岳を経て本栖湖畔にさくさく下山したのですが、ここで想定外の事態が!
タクシーを呼んで、車の置いてある精進集落まで戻る予定だったのですが、「本栖湖から精進湖までだと、本栖湖まで迎えに行く方が長くて商売にならない。貸し切り料金で5000円くらいいただかないと」と言われてしまった。
う~む。「それでも稼働しないよりマシでしょ」と言いたかったが、先方も厳しい経営を強いられているのだろうから無理強いはせず、5000円ケチって精進湖まで歩くことにしました。幸いまだ日は高い。
でもこれが結果として正解でした。
私の好きな廃道と廃屋に出会えたからです。
精進湖へは、青木ヶ原樹林の端っこの暗い気味の悪い遊歩道をひたすら歩きます。速足で。
国道に出てホッとして、精進湖畔の道に入ると、立派な宇の岬トンネルに出ます。
このトンネルの竣工は1989年。やけに新しい。ピンと来て、トンネルの影に回ってみると、ありました。
草むらの向こうに入口が固められた旧トンネルが。

トンネル内の廃道歩きができないのは残念ですが、上にこれまた興味をそそられる建物が。
明らかに休業中のホテルです。
入口はトンネルの向こうのよう。
「精進ホテル」上野精養軒直営とあります。
ゲートは固く閉ざされていますが、少々失礼させていただきました。
なかなか高級そうなリゾートホテルです。
車寄せの地面にはぺんぺん草が生えていましたが、窓ガラスも割れておらず、閉めたのはわりと最近と見ました。
精進湖は富士五湖の中でも一番地味ですから、経営も苦しかったのだろうなあ。
わりと釣り人は安定的に来ていそうだけど、彼らはこんなホテルには泊まらないだろうし。

調べてみると、ずいぶん由緒あるホテルだったようです。
1894年に来日した英国人ハリー・スチュワート・ホイットウォーズという人が、精進湖とそこから見える富士山の美しさに魅了され、山梨県では初めての洋式ホテル「精進ホテル」を1895年に開業。1937年以降は上野精養軒が経営していたとのこと。
いつから休業していたのか、正確には分かりませんでしたが、2008年3月に富士急に売却されているので、その前年くらいでしょうか。
富士急は翌年に新装オープンさせる計画だったようですが、いまだ実現していません。
栄枯盛衰ですなあ。私はどうも「枯・衰」に感情移入してしまう方でして。
しみじみした気分でおまけ付きの山行を終えました。
ちなみに帰りは、上九一色小学校近くの「上九の湯」で汗を流し、高速で帰宅しました。
精進湖に初めて行ったのは大学1年の3月でしたか。
免許取り立てでドライブに行き、白糸の滝の駐車場で、隣の車の横っ腹を激しく凹ませてしまいました。
もちろん逃げずに(逃げられずに)、持ち主が戻ってくるのを待ち、謝罪の上、後日修理代を支払いました。
3万円でしたが、貧乏学生にとっては痛い出費でした。
今回、精進湖から三方分山を登ろうと思ったのは、昨年、朝霧高原から毛無山を登った時、帰りに精進湖畔のホテル山田荘で日帰り温泉に入りまして、おおここの山からの眺めもいいだろうなあと思ったからです。
ちなみに、この温泉は、上九温泉「日之出の湯」を名乗っています。
さて、この日の行程は以下の通りです。
精進(8:50)~女坂峠(9:35)~五湖山(10:10)~女坂峠(10:35)~三方分山(11:10昼食11:50)~精進峠(12:15)~パノラマ台(13:05休憩13:25)~本栖隧道(14:10)~精進湖入口(15:00)~精進(16:00)
朝5時半に所沢の自宅を出発。高速代をケチって、たらたらと下を来たら、精進湖まで3時間もかかってしまった。
登り口の精進集落は、かつての中道往還の宿場町だった。中道往還は駿河と甲斐を結んだ街道で、峠道としては、甲府側の左右口(うばぐち)峠が有名であるが、ここ女坂(阿難坂)も難所であった。
峠の手前の集落は当時の面影を色濃く残している。

上の写真は、五湖山への稜線から見た精進集落の眺めである。茅葺きの民家など空き家も多かったが、何とかこの景観を残してほしいものだ。
峠道はおそらく近代になってから築いたと思われる石垣がところどころ崩れながらも残っている。
牛馬が歩くことを想定した勾配で普請してあるので、歩きやすい。
こういう峠道を歩いていると、往来が賑やかだった時代のことがしのばれ、何とも言えない気分になる。
前日歩いた浅間尾根もそうだが、機械力がない時代につくった街道は本当にいとおしい。

そんな気分に浸っているうちに峠に到着。どれも顔が欠けて、小石で代用している石仏に迎えられた。
「女坂」の名は、むかし身重な女性が道中出産後、母子ともに亡くなり、その供養のため、子を抱いた地蔵を安置したことに由来するというが、子抱き地蔵は見あたらなかった。
ここで右に折れて五湖山(1340m)をピストンする。
10分ほど登ったところにある小ピークからの眺めがすばらしい。
眼下に精進湖。南東の正面に富士山、振り返ると少々、木々に隠れているが、奥多摩から奥秩父にかけての長い稜線が連なっている。
前日に引き続き、風もなくポカポカ。実際は氷点下なのに、不思議なものだ。
ここの景色を見れば、五湖山まで行かなくてもいいのではと思うくらいだ。
ただ、三方分山の右に北からひとつひとつ見えてくる南アルプスの白峰三山と八ヶ岳を見るには、もう少し登った方がいい。いずれも白銀に光り神々しい。

五湖山は早々に退散。女坂峠に戻って、本日のメインイベントである三方分山(1422m)に挑む。
峠で挨拶した老夫婦の楽しげな話し声が後ろから聞こえ、自然にペースが上がる。
急坂続きなので、きつい。
でも、冬枯れの木々の間から、いつも富士山が見えるので勇気づけられる。
汗もあまり出ないし、やはり冬はいい。
傾斜がゆるくなりササ原に出ると頂上はすぐそこだ。
南側が開けており、真正面に富士山が見える。逆光でややかすんだ感じだが、ここからの富士山も端正なお姿だ。

この眺めを満喫しながら、本日は早めの昼食。メニューは前日と同じ日清のラーメンもっちり太麺。なにしろ5個入りセットを買ってしまったので、仕方ない。明日も同じだ。
それはいいのだが、箸を忘れた。これで二度目。仕方ないので、適当な枝を拾い、箸代わりにする。
細い枝はわずかな湾曲でも使いづらい。かっこ悪いが直径1㎝くらいの太い枝で、麺をかっこむ。
さっきのお二人、老夫婦と思っていたら、おそらく違う。女性が「うちではこうなのよ」などと言っている。
単なる山友達なのか、それ以上なのか。
そんなことを思いながら、立ち上がり、パノラマ台へ向かった。
(つづく)
3連休、予定通り、連日、山を歩いて来ました。気持ちよかった~
7日:払沢の滝入口~時坂峠~浅間嶺~数馬(鉄道・バス利用)
8日:精進湖~女坂~五湖山~三方分山~パノラマ台~本栖湖~精進湖(マイカー利用)
9日:正丸駅~小高山~正丸峠~川越山~刈場坂峠~大野峠~丸山~日向山~芦ヶ久保駅(鉄道利用)
8日は少し雲が出て、富士山が顔を出したり隠れたりでしたが、あとの2日はずっと快晴で、もう最高でした。
今日は7日の山行を振り返ってみます。
歩き始めたのは午前10時頃。払沢の滝入口ではハイカーの方が2グループ10人ほどバスを下りました。
高齢のご婦人が混じっているグループは少々、声が高い。
のんびり歩いて、やりすごします。
日陰の路面にはうっすら雪が残っています。今朝降ったのでしょう。
この季節、こんな風景も魅力のひとつです。
時々、車道に出ながら、雰囲気のある山村の中を登って行き、まもなく時坂峠。
ここからが浅間尾根。かつては甲州古道と呼ばれ、甲州と江戸を結ぶ重要な脇往還でもあり、地域の人の生活道路でした。
土木技術が発達していない前近代は、谷筋に道を作るより、尾根を通す方が楽なことが少なくなかったようです。
ずいぶん昔にトレッキングしたネパールでも、道は基本的に尾根にあったと記憶しています。

しばらく林道を歩くと、峠の茶屋に着きます。なんと、創業1686年!
ご主人は何代目になるのでしょう?
ここは北側が開けていて、眺めは抜群。右に大岳山、左に三頭山。正面は御前山かと思ったら、ご主人が「あれは前御前だよ」と教えてくれました。
そっか、本物はあの後ろに隠れているんだ。
確かに、少し進むと、御前山が姿を見せてくれました。
浅間尾根は奥多摩三山をいっぺんに見られるコースなんですね。いやあ感激。
この茶屋は、うどんが名物と下山してから知りました。今度はご主人と雑談しに来たいものです。
少々下ると、そば処「みちこ」。この日は休業中でしたが(営業は11月まで)、400年の歴史がある民家を利用しているんだそうです。
さて、ここからは本格的な登り。落ち葉をラッセルしながら、昼過ぎに浅間嶺(903m)の展望台に到着。
南側、笹尾根の向こうに真っ白な富士山が顔をのぞかせています。

富士山はいつ見ても、どこから見ても、心がわきたちます。
お昼はここに決めました。風もなくポカポカで、まるで日だまりのよう。
インスタントラーメンとおにぎりで、のんびり過ごしました。
あとは尾根の北側に出たり南に出たりしながら、小ピークの「一本松」を通過し、下平バス停方面に下ることにしました。
というのも、地形図を見ると、南斜面に民家の記号があり、しかも幅員1.5m未満の道しか通っていない。
今時、こんな山の中で車なしで暮らせるわけがない、廃屋に違いないと、興味がそそられたわけです。
ところが!
なんと中からラジオ?の音が・・・人が住んでる!
確かにそんなに荒れていないので、離村してからまだ間もないかな、とは思ったのですが。
でも、謎が解けました。裏に回ってみると、モノレールがあるのです。
そう、よくみかん畑などで見かけるアレです。
それにしても長いし、勾配が急です。当然お年寄りが利用するのでしょうが、これはスリル満点です。
途中、落石でレールがひん曲がっていたので、ここ数か月は使われていない様子。
あの、ラジオの人は、用がある時は歩いて町まで通っているのでしょうか?
バス停のあたりまで下りてきたら、3人乗りの台車?がありました。これに乗るのかあ。
乗ってみたい気もします。
でも、調べてみたら、これに乗れるのは住民だけだそう。
檜原村が2003年に設置した「福祉モノレール」で、現在5か所にあるのだとか。最長2キロに及び、最大傾斜は45度。なんと下りは後ろ向きです。


ずいぶん、お金がかかったのでしょうが、ちゃんと山間地でも暮らせるインフラを作るのは大切だと思います。
できれば、生業も昔のように地元にあれば、いいのですが。
頑張れ! 炭焼きと林業!
4時過ぎに数馬に到着。蛇の湯温泉で汗(も、そんなにかきませんでしたが)を流し、帰宅いたしました。
さて、明日は富士山を間近に眺めます。
明日から3連休。天気も関東はまずまずの様子。
あす7日は払沢の滝から浅間尾根を歩いて、蛇の湯でひとっ風呂浴びて帰るという、のんびりコースにしました。
8、9日はまだちゃんとは決めていないけど、どっちかで精進湖の回りの山を歩きたいなと思ってます。
私の持っている昭文社の「山と高原地図・富士山」は2001年版で、タイトルも現在の「富士山 御坂・愛鷹」ではなく「富士・富士五湖」という旧版。
この前、籠坂峠に向かって下っている時、すれ違った人に道を訊ねられ、示された地図が最新版の「富士山」で、自分の地図には出ていないコースが示されていたのにショックを受け、今日新しいのを買ってしまいました。
帰宅したら、比較して、遊びます。
今年の箱根駅伝はすごかった。東洋大がぶっちぎりの総合優勝。10区のうち6人が区間賞、うち2人が区間新だった。
とくに柏原くん。トップでたすきを継いだので、これまでのように抜くべき相手はいない。
目標物がなくて、ピッチが落ちるのではないかと心配したが、全くそんなことはなかった。
ゴールした瞬間思わずテレビに向かって拍手をしてしまいました。
実は今年の箱根駅伝で注目していたのは、往路優勝のチームに贈られる寄木細工のトロフィーだ。
たまたま、先月、箱根に山歩きに行ったときに立ち寄った寄木細工の店が、そのトロフィーを毎年作っている作家さん(金指勝悦さん)の店だった。
これまでレースは見ていても、表彰式までは見ていなかったので、そういうものが贈られているとは全く知らなかった。
今回は表彰式までしっかり見て、今年のトロフィーを確認しました。見事なものでした。
ところで、箱根駅伝では最優秀選手に「金栗四三賞」というものが贈られているのを、遅ればせながら知った。
この「かなぐり・しそう」という人は調べてみると、1911年に日本人として初めてオリンピックに出場した、日本における「マラソンの父」と呼ばれている人だそうだ。
1920年に始まった箱根駅伝の創設にも尽力した方だが、富士登山駅伝の元祖でもあるらしい。
う~む、おもしろい。
この人は初めて高地トレーニングを創案したりしているだけに、山を走ることに興味があったと見える。
富士登山駅伝はこれまた調べてみると、1925年に始まり、2回の中断をはさんで1976年から毎年8月の第一日曜日に開かれている。これが8月下旬くらいに毎年テレビで放送されるのを見るのが楽しみだった。
富士山を走って登るという過酷さもさることながら、大砂走りでたすきを渡す時の転倒シーンがまた圧巻だった。
1990年から自衛隊勢が優勝を独占して、おもしろみが半減したためか、2005年から自衛隊の部と一般の部に分かれ、翌年を最後にテレビ放映も打ち切りになってしまった。ファンとしてはとても残念だ。
登山駅伝と言えば、最近、登山道を走る人が増えている。トレイルランニングというらしい。
奥多摩では大会も開かれているらしい。
下りでひざを痛めた経験がある私としては、走って登ることもさることながら、走って下ることができる人はすごいと思う。
ただ、正直に言うと、山は歩いてほしいなあ、と思わなくもない。なんか危ないからである。
実際、転倒や転落などの事故も多いらしいし。
まあ、それはいい。先日、山中湖の東の稜線を歩いていたら、バイクが2台、三国山から三国峠を下っていった。
頂上にはマウンテンバイクの方々が休んでいた。
自分は学生時代、自転車をやっていただけに、自転車で山道を走りたくなる気持ちは分かる。
マウンテンバイクなどという名前からして、それ用なんだから、仕方ないかとも思う。
だけど、バイクはまずい。道を荒らすし、第一、山にエンジンを持ち込むべきではないでしょう。
たぶん、バイク雑誌などでは、走れるコースとして紹介されているのかも。
困ったものです。
ここのところ、立て続けに遭難関連の本を読んでいます。
羽根田治さんの「山の遭難」(平凡社新書)、共著の「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」(山と渓谷社)とか、別冊山と渓谷の「遭難防止マニュアル」です。
自分自身かなり、道迷いや防寒、非常食などには気にかけているつもりでしたが、まだまだ甘いことが分かりました。
私は悪天候のときは登らないし、本格的な冬山もやらないし、地図を見るのはすきで、いつも「あの山は何山?」と山座同定をしながら登っているので、防寒、道迷いは大丈夫のつもり。
問題は、転倒・転落で怪我をして動けなくなった場合です。
これに対する意識がかなり薄かった。とくにほとんどが単独行なので。
そこで参考になったのが、「遭難防止マニュアル」に載っていた、両神山での遭難した多田さんへのインタビュー記事でした。
多田さんは道迷いの上、転落し、怪我をして14日後に発見救出されたのですが、その体験は大いに参考になりました。
・携帯がまもなく電池切れになった→電池式充電器が必要
・転落の際、メガネを亡くした→スペアのメガネを持っていった方がいい
・時計を流された→自分は携帯を時計代わりにしているので、腕時計にすべき
・自分の捜索状況が分からず不安→ラジオがあった方がいい
・暖をとるために焚き火をした→コンロだけではなくライターが必要
・怪我の応急処置→勉強しておいた方がいい
などなど、自分に足りなかったことを挙げたらキリがありません。
道迷いはしない自信があるようなことを書いておきながら、何ですが、昨年2度ばかり道を失いました。
一度は笠取山の登山口。完全に思い違いで、別のところから入山してしまい、すぐに道がなくなった。
あれっと思い、地図を見直したら、入口を間違えていたことが分かり、すぐ引き返しました。
二度目は釜伏山。たぶんヘアピンで曲がる方向に道があったのに気づかず、直進してしまい、しばらくして道がなくなってしまった。このときはすぐ先に尾根が見えていたので、そのまま登り、尾根を進んで、登山道に合流した。
後者は山頂にも車道が走っているような山だったので強行したが、本来は戻るべきだったろう。
今年もたくさん登るつもりだが、さまざまな想定をして、不測の事態に対応できるようにしようと思う。
その準備こそが、不測の事態を呼び込まないことにつながるとも思うので。
ちなみに、トムラウシ遭難事件についても、いろいろと思うことがあったので、いずれ。
見よう見まねで、ここまで来ましたが、大丈夫かな。
ここでは主に、自分の山行について書いていこうと思っております。
昨年は32回出かけて、119座に登頂しました。
今年もとりあえず、花粉が飛び始める2月中旬まで、雪の少ない低山を中心に歩きます。
今度の3連休は、小屋泊はせず、一日づつ奥武蔵、奥多摩、富士五湖近辺を歩いてくるつもり。
よろしくお願いします。