【2015年5月8日(金)】白川郷・五箇山
白川郷から30分ほどで、菅沼集落の駐車場に到着。
ここは国道から、集落を眺められる。


コンパクトにまとまっている印象だ。
白川郷は岐阜県だが、ここは富山県になる。
ぶらぶらと集落の中に入っていく。


のれんがなかなか素敵だ。

こちらはそれぞれの家が似ている気がする。

塩硝の館。昔はこの集落で火薬を作っていた。

神明宮に参拝。


昔懐かしいというか、現役時代をリアルタイムでは知らないポンプ車。

上平村は合併して、今は南砺市の一部になっている。

めずらしい入母屋の合掌造り。五箇山民俗館になっている。

いいなあ、こういう木槽。

ちょっと厳しいけど逆さ合掌。ていうか、これで本当の合掌の形は完成?

雰囲気のよさそうな食事処吾郎平。

あ、こっちの方が逆さ合掌くっきり。

トタン屋根に布団干してあるところが、生活感あってよろしい。
「ばっか」だと思ったら「かっぱ」だった。

ちょっと覗いてみた。
おもしろいサイダーがある。のどが渇いたので「ブラック」の方をいただいた。


ガラナよりくせのない味だった。
こちらは手作り民芸品のお店。


私は荻町より、こっちの集落の方が静かですきだ。
でもまあ、そろそろ引き上げますか。




帰りは地下エレベーターで駐車場に戻る。


さあ、最後の相倉集落には15分ほどで到着。こちらは菅沼よりは大きな集落だ。
まずは、巨大な残雪のお出迎えにびっくり。

ここが雪捨て場のひとつだったのだろう。
荻町や菅沼と違って傾斜地にあるのが、ここの特徴だろうか。


石垣で築いた棚田もある。

民宿の庄七は茅葺きの屋根をぶち抜いて明り取りを作っている。

こちらは内部見学のできる勇助だが、もう閉まっていた。

地主神社に参拝。


境内に皇太子殿下の歌碑があった。

「五箇山をおとづれし日の夕餉時森に響かふこきりこの唄」
う~ん、誠に失礼ながら、あまりに普通だ。
ここは残雪が多い。北海道の春を思い出す。


もう午後3時半をすぎ、観光客もほとんどいない。


おや、こんな道が通じていた。

旧五箇山街道か。歩いてみたいが、まだ雪の中かも。
植えたものだろうけど、水芭蕉が咲いていてびっくり。

集落のはずれからは人形山(1726m)が見えた。

こんな伝説があるという。
仲のよい姉妹が、母の病気平癒を白山に祈願していた。お告げに従って、湯治に通い、病気が治ったので、お礼に山の権現にお詣りしたが、吹雪に閉じ込められ2人とも亡くなってしまった。
翌春、手をつないだ二人の姿が雪形となって現れ、以後毎年、人形の残雪が現れるようになったので、人形山と呼ばれるようになった、と。
相倉伝統産業館。

集落の全景。

奥は相念寺。

岩も合掌造りのよう。

与茂四郎も屋根に窓があけられている。

地面に届く茅葺き屋根。

高台より。

ここに秋篠宮殿下の歌碑もあった。

「暮らし映す合掌造りの町並みを見つつ歩めり妹と吾子らと」
こちらも普通だ。
合掌造りの3集落を駆け足でめぐり、今宵の宿に向かう。
金沢の奥座敷、湯涌温泉の「お宿やました」である。
本当は白山スーパー林道(今は「白山白川郷ホワイトロード」というらしい)を走りたかったが、6月中旬まで冬季閉鎖とのことなので、お話にならない。
こちらからだと医王山直下の夕霧峠を越えていく道と刀利ダムを経由する道があるが、いずれも冬季閉鎖が解除されていない可能性がある。
最短コースの刀利ダムルートは通れるか、宿に電話して聞いてみた。
すると、女将さんが出て、「わからないので観光協会に聞いてみる」とのこと。
もう5月だし、標高は350mしかないから大丈夫だろうと思ってはいたが、折り返しの電話は「OK」でホッとした。
その刀利ダムである。

農林省の管轄のようだ。昭和41年の竣工。

湖面は静か。

午後5時すぎ、無事、宿に到着。

なかなかくつろげる部屋である。
とにかく、まずはお風呂。

アルカリ性のつるつるの湯だった。
そして楽しみにしていたお食事。
これがメニュー。

順に並べていきましょう。







どれもこれもおいしくて、みんな残さず食べてしまった。
痛風のためビールは飲めないので、地酒5種バラエティセットを注文。


すっかり、ほろ酔い。満腹になったことともあり、あっという間に寝入ってしまった。
明日は、医王山に登る。おやすみなさい。
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【2015年5月8日(金)】白川郷・五箇山
白川郷をそぞろ歩きながら、食事の店を探している。

ここは食堂ではない。

この村から日露戦争に出征して戦死した方の慰霊碑のようだ。

お、あれは重要文化財の和田家住宅。あとで見学しよう。

やっと、よさげな店があった。白水園。合掌造りの店だ。

店内はこんな雰囲気。

とろろそば(700円)をいただく。

混んでいるので、多少時間がかかると言われたが、意外に早く出て来た。
ここの名物は、熊鍋の「おやじ和膳」(2000円)と飛騨牛の「朴葉みそ和膳」(1650円)のようで、となりのお兄さんは熊鍋を食べていたが、私は夜に備えて少食で。
ぺろりと平らげて、再び散策。
白川郷と言えば合掌造りなのだが、新緑も見事だ。

とりあえず、集落を一望する展望台に向かう。
右手に、立派な診療所がある。

左手にはにぎわっている旅館。

荻町のバス停。

展望台は荻町城跡であり、ここから山道を標高差50mほど登る。


春の花が真っ盛り。



すこし登ると、荻町集落のはずれの方が見下ろせる。

おお~残雪の山々がかっこいい。

のんびり登っていたら、手をつないだ若いカップルが駆け足でぬかして行った。

7分ほどで登頂。いやいや、すばらしい。


さすがに世界遺産だけあって、人工的な景観としてはピカイチである。

少しずつ角度を変えてみよう。



そうそう、ここは荻町城跡だった。

これはその空濠跡である。

今度は車道を通って、再び集落へ下りて来た。


車で来る中国人もいるのか。

合掌造りが見直される前は、みなこんなタイプの建物に建て替えられていったのだろう。
これはこれでかなり古いし、味わいがあって好きだ。


残雪は白山方面の山だろう。

さて、観光客をかきわけ、和田家に向かう。


おお、中にも人がいるいる。

この角度が撮影スポットとして人気らしい。

入場料300円を払って、見学させていただく。

和田家は代々、村の名主を務めた家柄で、子孫は白川町長にもなっている。

2階は養蚕をしたお部屋。


窓からの眺めも悪くない。

ゆっくり見学して辞去。水路沿いを歩く。


和田家を振り返る。

まだ、このあたりは田植え前。

神田家も見学施設だが、中を見るのは1軒だけでいいだろう。

神田家の見事なお庭。

こちらは白川郷最大級の合掌造り、長瀬家。

これも外観だけに留める。
もうこどもの日は終わったが、まあ季節感があっていいでしょう。

ギザのピラミッド風な並び。

その向かい側の風景。

中国人は本当に写真が好きである。

この辺に大挙しているのは、ほとんど中国人。

西洋人は騒がず、どっしり座ってアイスを食べている。

私もいただくとしよう。今日は暑いくらいだ。



沢の水を引いて飲み物を冷やしている。なんとも涼しげ。

ちょっとトイレへ。トイレも合掌造り風。

集落の南の方は比較的人が少ない。



白川町で最大の合掌造り、明善寺庫裏。5階建てで江戸末期の築造だそうだ。

あれれ、全体の写真を写すのを忘れてしまったようだ。

明善寺鐘楼門。


石畳は丸みを帯びている。これはめずらしい。

明善寺本堂。

白川郷の茅葺きはどれも美しい。
泊まってみたい民宿久松。

ナショナルトラストが買い取った旧寺口家住宅。

白川八幡神社。

なんと里にもまだ雪が残っていてびっくり。

境内にある釈迦堂。

寛永四年(1627年)に荻町城主が病気平癒のお礼に寄進したものだとか。
荻町のメインストリート。


ここには合掌造りは少ない。
通りから離れた場所に合掌造りは残っている。

さて、これで集落はほぼひと回りした。またであい橋を渡って、車に戻ろう。

白川郷には濃飛バス、岐阜バス、加越能バスの3社が乗り入れているようだ。

これが私の借りたレンタカー。

では、次の合掌造り集落、五箇山菅沼集落に向かう。
(つづく)
【2015年5月8日(金)】白川郷・五箇山
世間では6日までの5連休で、GWは終わったようだが、当方はさらに8~10日まで3連休が残っている。
平日がからんでいるので、このタイミングなら宿も取りやすいかと思い、本GWで初めて泊りがけで出かけることにした。
せっかく北陸新幹線が開通したのだから、富山・金沢方面に出かけよう。
というわけで、宿は金沢の奥座敷・湯涌温泉にとり、白川郷&医王山の旅に出た。
東京7:20発のかがやき503号金沢行きに乗車。
今日はとてもいい天気だ。
北陸新幹線に乗るのは4月3日の金沢出張以来2回目。
静かで乗り心地はとてもいい。
1時間で長野を過ぎ、周辺には残雪の山が目立ってくる。
日本海側に出ると、まだまだ山はまだら模様。



新幹線があまりに早いので、何という山なのか特定できないまま、どんどん進んでいく。
でも、これは分かった。中央が剱岳(2999m)。

田んぼはちょうど水を張り始めたところだ。
9:34富山着。

駅舎も新築され、広い空間となっている。

改札を出たら、屋内に地鉄のホームがあってびっくり。


駅前までしか達していなかった地鉄は、北陸新幹線開通に合わせ、富山駅構内に乗り入れたようだ。



近年、路面電車が見直されつつあるが、その先鞭を切ったのが富山地方鉄道である。
応援したい。
新装オープンした富山駅。

奥が電鉄富山駅のビル。

立山や宇奈月行きの電車はここから出る。
駅前でレンタカーを借りて、白川郷に向かう。
おっと、その前に「登った山」をひとつ稼いでおきたい。
富山の超低山、呉羽山(145m)である。
南北に走る稜線に沿って、ドライブウエイが走っており、駐車場から10分で登頂できる。
しばらくドライブを楽しみ、しらとり広場の駐車場に車をとめる。

ここから30秒も歩かずに展望台。

眺望は予想以上である。眼下に富山市街。

中心部。

その向こうに剱岳。大窓、小窓がはっきり分かる。

その右は大日岳(2501m)。立山(3015m)は惜しくも雲の中。

雄大な富山平野。

さて一旦、駐車場に戻る。呉羽山は駐車場の逆側を登る。

おっとその前に、せっかくなのでモダンなトイレを活用。

白鳥城址の石碑を横目に歩き出す。

ひと登りで東出丸跡。

わりと森の中。


三の丸跡、空濠跡を通過。


結構きつい階段を登って、二の丸跡。


もうひとふんばりで頂上の本丸跡に着いた。



なんと、ここは一等三角点であった。やっぱりかっこいい。

しかも隣には天測点があった。


天測点とは、天文測量をするために設置された基準点のこと。
昭和29年からの5年間に、全国で48か所の一等三角点のすぐそばに置かれたという。
けっこうな大きさだ。
現存するのは43基で、ここ天測点には「第十九」のプレートがはめ込まれている。
白鳥城についても説明しておこう。
寿永二年(1183年)に木曽義仲の武将今井四郎兼平が陣を張ったとするのが最初の記録。
その後、豊臣秀吉が富山城の佐々成政を攻める際に、陣を構えたことで知られる。
展望にはあまり恵まれなかった。さて下ろう。

車に戻り、改めて白川郷に向かう。
このあたりの車、とくに農家の車は、ずいぶん無茶な運転をする。
家の近くの道は私道のように思っているみたいだ。
富山西インターから北陸道に乗り、小矢部砺波ジャンクションで東海北陸道に入る。
白川郷までは庄川沿いをさかのぼり、1時間とちょっとだ。
まっすぐ来たら11時には着いていただろう。
東京から、かつては秘境と呼ばれた白川郷まで、わずが3時間半。
以前は名古屋経由で延々バスに乗り、6時間以上かかった気がする。
このGWは猛烈な混雑だっただろう。
私が訪ねたこの日も平日ではあったが、それなりの人出だった。
でも、ごったがえすというほどではなく、平日狙いで来たのは正解だった。
というわけで、白川郷の大駐車場に到着。

この大型バスの群れに恐れをなす。
集落に行くには、あの、であい橋なる吊り橋で庄川を渡らねばならない。

吊り橋のたもとまで来ると、周辺にある合掌造りの土産物屋さんが見下ろせる。

あれは移築だろうか。
さて、渡りましょう。庄川は雪解け水を含んでかなりの激流になっている。怖いほどだ。


渡り切ったところにあるのが、秋葉神社。

秋葉神社は浜松市に総本宮がある火伏せの神。
天明の飢饉の際、疫病も流行し、村で230人もの死者が出たことから、建てたものらしい。
さて早速、合掌造りの集落に入る。

マンホールはもちろん合掌造りデザインだが、なんだか大味。

民宿幸エ門。


消火栓も古風だが、ごつい。

通りに面した合掌造りはたいていお土産物屋さんになっている。

とにかく、もうお昼時なので、飯にしよう。
本日のメインは旅館での夕食なので、お昼はとくにこだわらない。何でもいい。
と、目に入った店に駆け寄ってみたら、なんと本日休業。

GWの5連休で疲れ切ってしまったのか、こんなに観光客が来ているのに店を開けないとは。まあ、従業員にも休みをあげないといかんもんなあ。
こっちは修学旅行生が入るのか入らないのか、のれんの前でうだうだしているので通過。

おお、後ろに残雪の山々が。あれは三方崩山(2059m)だろうか。
(つづく)
【2015年4月29日(水)】小鹿野市街
小鹿野市街を散策中。
太田甘池堂の裏手に薬師堂がある。


通称、鷹巣下薬師というらしい。その昔境内に高い木があり、その木に鷹が巣をかけていたことから、そう呼ばれるようになったとのこと。
古くから、お参りすれば、目の病気が治ると信じられてきたという。
第六分団詰所と理容かねた。

本陣の裏手の方に愛宕神社がある。


本堂は明治37年の建立で、防火の神だそうだ。

上一丁目の交差点にある「小鹿野町道路元標」。

大正11年の内務省令に基づき、市町村ごとに路線の起点・終点を表示する標識が全国各地に設置されたが、その一つ。
昔の街道風の建物が並ぶ。

菓子舗「八宮松雪堂」。

八坂神社。

これらは昭和40~50年代?



つぶれて駐車場になったガソリンスタンド。

さらに昔は明治3年開校の小鹿野郷学校だった。

のちに小鹿野小学校となり、明治24年までこの地にあった。
広大な空き地。

表通りはひととおり歩いたので、一本北の通りを少し歩いてみる。榎街道と呼ばれる。

かつてはこの道に面して代官所跡があり、罪人を縛り付けた「しばられ榎」があったことから、榎街道と呼ばれるようになったという。
再び表通りに戻り、今度は路地を抜けて一本南の通りを歩いてみる。


八木写真館の跡。つぶれたのではなく、新店舗に移っただけのよう。

成田横丁と呼ばれるあたり。かなり庶民的な雰囲気。




そのまま朝日通りに抜けると、粗末な食堂を訪ねてきたカップルが「昼は終了しました」の紙を見て、がっかりしている。

何も知らなかったが、ここが有名な「わらじカツ丼」の元祖、安田屋らしい。
小林さんのお宅なので、「安田屋」というのは屋号なのだろう。
しかし「安田屋」という看板もなく、小さな「料理店」という表札しかない。
休日ともなると、ここにライダーたちが列をなすという。
銘菓梅しぐれの「こだまや」。

さすがに古い街道の町だけあって、菓子舗が多い。
この朝日通り界隈には大正から昭和中期にかけて、射的場、遊技場、各種飲食店が軒を連ね、映画館も「愛宕座」「小鹿野キネマ」「翁(おきな)館」と3つもあったという。
昔の地方都市の賑わいというものを見ておきたかった。
さらに朝日通りを進む。さびれぶりがよく分かる。




これはかつてスナックだったんだろうなあ。

さて再び路地をつたって表通りに出よう。

さびれると人心もすさむのか。

小鹿野散策マップに載っている、原町信号に近い旧家たち。
たね・釣り具の「一二三矢(ひふみや)」。

食料品の吾妻屋。元祖味付けホルモンが名物とか。

こちらの路地には「足寄」というラーメン・焼肉の店があってびっくり。

足寄出身の人が経営しているのだろうか。
あちこち、ゆっくり歩いているうちに、小腹がすいてきたので、私も「わらじカツ丼」とやらを食べていくことにした。
この時点では「安田屋」のことは知らなかったので、さっき見かけた「昭和」で食べようと向かうも、すでに閉店。

しかたなく、観光交流館の中にある「ゑびす屋」にする。

850円。ごはんは少な目にしてもらった。

ここのおばちゃん(70前だという)にいろいろと聞いた。
わらじはやはり、わらじの形をしたカツが2枚乗っているからだという。
元祖の安田屋のことはここで聞いた。戦前からやっているらしい。
私はそこの「おこぼれでやってます」と謙遜していた。
この町は古い宿場町で、隣の群馬だけでなく山梨や長野に行く人々が行きかい、やはり昔はずいぶんにぎやかだったらしい。
満腹になって店を出た。もう旧跡めぐりはおしまい。温泉に向かう。
今回は、「小鹿野」「日帰り温泉」で検索して見つけた、西谷津温泉「宮本の湯」。


宿も兼ねた大きな施設だったが、入浴客は少なく、一瞬ひとりになれたくらい。

温泉なのだが、塩素のにおいもした。
でも、さっぱりした。
飯能手前の299号で若干滞ったが、7時半前に帰宅できた。
街歩きもできて楽しい山行だった。
【2015年4月29日(水)】小鹿野市街
諏訪山(1207m)を登った後、何度も車を止めて、国道299号沿線をあれこれ見学しながら、小鹿野市街まで下ってきた。

正面は武甲山(1304m)。

ここは村歌舞伎で有名な町である。

市街地の入口に、町歩きマップが掲げられてあるのを見て、どうせならと車を駐車場に置いて、のんびり街歩きを楽しむことにした。

昭和のかおりが漂う街並みをゆっくり歩く。


昭和より古いにおいも混ざっている。

ただ、ご多聞にもれず、シャッターも目立つ。


こちらは、ただ休日だから休んでいるだけだろうけど。

通りのあちこちに、こうした小鹿野歌舞伎の写真掲げられている。


とりあえず、いくつかレトロな建物を見て行こう。
旧警備詰所。これは小鹿野町消防団第七分団の詰所だった。町内会の夜警の際には、ここが休憩所として使用されたとのこと。

金子薬局。

この立派な蔵づくりの建物は明治29年の建築。

小鹿野銀行、秩父銀行、埼玉銀行、埼玉りそな銀行と変遷してきた銀行の蔵・倉庫として利用されてきたが、現在は町観光商業情報館に衣替えしている。
きれいに改修された夢鹿蔵。

浅見商店。明治初期より絹糸紡績原料買継商として栄えた家だ。

こちらはそれらしく新築した須崎旅館。

現在の第七分団。

あれ、日通ってタクシーもやってたっけ。

と思って調べてみたら、秩父丸通タクシーだった。
日通と同じロゴに見えるが、傘下企業なのだろうか。
丸清精肉店。肉の味噌漬がウリのようだ。

今はもう診療をやめている旧荻野医院。木造の擬洋風建築で、昔の個人医院はこんな感じの建物が多かった。


ちょっと通りをはずれて、十輪寺へ。


仁王門をくぐる。


正面に芭蕉の句碑。

「梅が香にのっと日の出る山路かな」
芭蕉の流れをくむ小鹿野の俳人・中阿坊朴叟が芭蕉の百年忌に立てたものらしい。
早春の山道を歩いていると、梅の香りにさそわれるかのように、太陽がのっという感じで顔を出した、というくらいの意味のようだが、どこの山道なのかは調べ切れなかった。
朴叟さんが小鹿野の里によく合った句だと思ったのかもしれない。
本堂。

境内に立つ板碑。

時の鐘。戦時中に鐘は供出されたが、昭和40年に再建された。今も時を告げているという。

裏道で井戸を見つけた。

また表通りに出る。
常盤屋。

なぜか、この店には数学の問題と解答が貼り出されていた。

よく見ると「ときわ英数研」というスタンプが押してあるので、ここの息子さんかどなたかが、塾の先生をしているのかもしれない。
それにしても、ユニークだ。
向かいに、その名もずばり「昭和」という食堂。

幟が出ているが、この町は「わらじカツ丼」なるものが名物なのか。
昭和レトロ続きます。


本陣は当時からの建物なのだろうが、だいぶ改修されている。
明和二年(1765年)に代官の出張所として発足し、その後、本陣として利用されたとのこと。


宮沢賢治が泊まったことがある宿だそうで、今は観光交流館になっている


裏には、「雨ニモ負ケズ」の詩碑があった。

おっと、こんなポスターが。

宇都宮餃子、讃岐うどんと並び立つとは大きく出た。
しかも、吉高由里子を起用するなんて金をかけている。
上一丁目の信号を渡ると、越後屋旅館。

向かいに、羊羹の太田甘池堂。

空き地。こういう風情が好きだ。

(つづく)