山と鉄

山歩き、乗り鉄、廃線・廃道歩き、廃村歩き、駅舎探訪などの日々を記録します

旧東海道Ⅲ(下)

【2016年5月12日(木)】旧東海道
六郷神社の境内に入る。
参道がかなり立派だ。
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左手には神職の方のお住まいと思しき住宅があった。
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貞享二年(1685年)に六郷中町の有志が願主となって奉納された狛犬。
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この頃になると、「現世利益」を造立願意とするものが増えてくるが、これはまだ中世的な「二世安楽」。
造形的にも他には類を見ない独創的なもので、実にユーモラスである。

明治16年(1883年)に架けられた旧六郷橋の親柱が、境内に保存されていた。
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慶長五年(1600年)に家康が架設した六郷橋は貞享五年(1688年)の洪水で流され、それ以後は186年の長きにわたり、橋は架けられなかった。
明治7年(1874年)に八幡塚村の名主鈴木左内が私財を投じて、有料橋を架けたが、この「左内橋」も4年後には流失してしまう。
そこで明治16年、八幡塚村と対岸の川崎駅の有志が共同で、木橋の「旧六郷橋」を建設した。これは明治30年(1897年)に架け替えられ、電車も通るようになったが、明治43年(1910年)の台風による洪水で再び流失。大正14年(1925年)に鉄筋コンクリート製のタイドアーチ式の先代「六郷橋」が開通した。
旧六郷橋の遺構である親柱は昭和元年(1926年)、切妻屋根を付して、六郷神社境内に保存された。この屋根は2年前に更新されたものである。

氷川神社などの境内社。
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広橋真光伯爵(1902~97年)が謹書した石製の古い扁額。
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真光(ただみつ)は戦前の内務官僚で、近衛文麿、東条英機両首相の秘書官を務めた人物。

これは井戸枠だろうか。
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その他さまざまな石碑が林立する。
六郷講社の碑。
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こちらは御嶽講社(右)。
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東郷平八郎の筆になる忠魂碑。
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六郷神社創建の由来を記した「旗懸之杉由来」碑。
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いったん、南側の「正門」に出てみた。
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鳥居の手前に、梶原景時寄進と伝えられる石造の太鼓橋「神橋」が残されている。
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この穴は何だろう。
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やっと拝殿。
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もちろん参拝する。
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向かって左側に神楽殿。
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近所の奥様方がくつろいでいた。
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第一京浜は新六郷橋へと登っていくが、旧東海道はその左側を旧渡船場へと続いている。
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その沿道には、古い町工場が昭和の雰囲気を漂わせていた。
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六郷橋のバス停を通過。
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新六郷橋のガードをくぐる。
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すると右手に大田区立の公園「宮本台緑地」に出る。
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ここには先代六郷橋の遺構が保存されていた。
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これは鉄製のゲートだったのだろう。
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近くには、「六郷の渡し跡」の案内板が立っていた。
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多摩川の土手の下には「止め天神」。
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「止め」とは「川止め」のことではなく、天神様が8代吉宗公の落馬を止めたという故事にちなむという。
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「通りゃんせ」の標柱。
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江戸時代には成立していたわらべうただが、発祥の地は小田原の菅原神社もしくは川越の三芳野神社と言われている。
なぜ、ここにあるのか。単に天神様だからか。
しかし、この歌、「帰りはこわい」の意味がよく分からない。
諸説あるようだが、いずれも「こわい」話だ。

千年石と万年石。
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もともとは力石だったが、村人が健康で長生きできるように願い、ここに安置して、なぜるようになったという。

もう夕暮れということもあり、社殿には灯りがともっていた。
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お参りして、土手に登る。
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多摩川である。
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京急の六郷橋。
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もうすっかり日も暮れてしまったので、本日の旧道歩きはこれにて終了。
六郷土手駅から戻ることにする。
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その前に駅周辺を偵察。
老舗っぽい和菓子「梅泉の伊東」。
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この角を右折すると、旅館街。
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宿場町だった時代の名残だろう。
連れ込みも可なのだろうが、見た感じは健全な宿に感じられた。

打ち上げは雑色駅近くでと思っていたが、面倒なので、近くの店に入ってしまった。
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とにもかくにも。キンキンに冷えた生ビール。
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つまみは赤貝とイワシの刺身。
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40分ほどでさくっと切り上げ、電車に乗る。
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炭水化物を何も食べなかったので、乗り換え駅の品川で、広島みはら港町「八天堂」のくりーむパンを購入。
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甘さ控えめでヘルシーだったが、もう少し甘くてもよかったかな。
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というわけで会社にはもちろん戻らず、直帰。
次回の旧東海道は六郷土手からのスタートになる。

(おわり)
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旧東海道Ⅲ(上)

【2016年5月12日(木)】旧東海道
この日は平日だが、午後品川に仕事ができたので、会社には「直帰」ということにして、旧東海道歩きの続きをすることにした。
仕事は午後5時前に終了。5時過ぎに品川駅から京急線に乗った。
前回(5月8日)は梅屋敷駅まで歩いたので、今回はそこから歩くことになる。
平和島で各駅停車に乗り換えて梅屋敷に着いたのは17:19。
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早速、歩き始める。
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しばらくは味気ない、第一京浜を南下する。
拡幅工事が予定されているのか、右側は幅広く空き地になっている。
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取り残された、これら昭和の香りのする飲み屋なども早晩、取り壊されるのであろう。
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駅から200mほどで、右手に梅屋敷公園が現れた。
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江戸時代の商人、山本忠左衛門がこの地で和中散(道中の常備薬)の売薬所を始めた。
その子、久三郎が文政年間(19世紀初め)、三千坪の敷地に梅の木100本をはじめ、カキツバタなどの花々を植え、茶屋を開いたのが、梅屋敷の始まりとされている。
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当時は12代将軍家慶が鷹狩の休憩所にしたほとで、東海道を行き交う旅人にも親しまれ、梅の咲く春には大勢の観梅客で賑わったという。
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その後、明治天皇がことのほか梅屋敷を愛し、明治元年(1868年)から30年(1898年)までの間に9回も行幸したという。
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とくに明治6年3月6日の観梅のおりには自ら梅の木をお手植えされたとのこと。
この梅は後に「仙粧梅」と呼ばれて、庶民にも親しまれたらしい。
そんな由緒もあり、梅屋敷は昭和8年に史蹟に指定され、昭和28年、大田区に譲与された。
ゆえに、正式には「大田区立聖蹟蒲田梅屋敷公園」という。
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当然のごとく、すでに梅は終わっていたが、キショウブが見頃を迎えていた。
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園内には、かつて自然石の里程標があったらしい。
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(これは復元)
「距日本橋三里十八丁」「蒲田村山本屋」と刻まれていたとのこと。

伊藤博文や木戸孝允が梅屋敷で新年の宴会を開いた時、二人が合作した絵の中にも、その里程標は描かれていたという。
残念ながら、里程標は戦後失われてしまった。
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このほか、梅屋敷とゆかりの深い山本久蔵の句碑が残されていた。
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天保五年(1834年)の建立で「神酒ささぐ間に鶯の初音かな 麦住亭梅久」と刻まれている。

こちらは久蔵が弘化三年(1846年)に梅路と号して建立したもの。
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「しら梅の梢や月の高みくら 七十五歳梅路」「松竹は表にうらハ梅の春 六十五歳梅志」「弘化三年のとしきく月 梅家女誌」
とある。梅志とは久蔵の妻のことであろう。
二人の墓は蒲田の妙典寺にあるという。

こちらは復元された歌碑。
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「旅人の神に手向の幣代や白絹咲きし庭中乃梅 狂歌堂真顔」
真顔は江戸後期に数寄屋橋で汁粉屋を営んでいた狂歌師、戯作者だそうだ。
旅人だけでなく、文人も集まる場所だったのだろう。

園内にはかつて多数のこうした石碑があったらしいが、戦後の混乱期にほとんどが失われてしまった。
今はそれらしく整備がなされてはいるものの、当時の風景とはまるで違うのだろう。
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ここも拡幅範囲内になっているようだが、つぶされてしまうのだろうか。
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何らかの形で残してほしいものだが。

ここに「大田区体育館」の門柱があるのは、かつてここが体育館への入口だった名残だろうか。
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さて、第一京浜に戻ろう。
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日本橋まで15km。さっき「三里十八丁」とあったが、ほぼその通りだ。
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多摩堤通りと交差。右折するとJRの蒲田駅だ。
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京急蒲田駅に続く高架線。
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夫婦橋で呑川を渡る。
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すぐに京急蒲田駅。
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かなり巨大な駅だ。
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第一京浜をまたぐ京急羽田線。
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羽田線は2段になっていた。
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六郷用水は多摩川の狛江市付近から引いた農業用水で、今の世田谷区や大田区を潤していた。
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慶長二年(1597年)から14年を要して築かれたが、今は大半が埋め立てられており、跡地の一部が「六郷用水物語」として遊歩道になっている。

第一京浜があまりに殺伐としているので、ちょっと脇道を歩いてみた。
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右手に熊野神社があったので参拝。
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石の扁額は破損がひどく、結構古そうだ。
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でも社殿は比較的新しかった。
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お隣の稲荷神社。
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狛犬に力石。
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少し進むと雑色駅に到着。
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ここの商店街はかなり楽しそうだ。
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帰りはここで途中下車して、一杯やって行こうかという気になる。
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でも明るいうちはまだ歩くことにしよう。

う~ん、でもそそられる~
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再び、六郷用水通過。
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間もなく、六郷神社の門前に。
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このあたりは多摩川を渡る六郷の渡しがあり、かつてはかなり賑わっていたらしい。
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天喜五年(1057年)、東北地方で起こった反乱の平定のため、源頼義・義家父子が向かうことになった。
その途上、ここにあった大杉に源氏の白旗を掲げて、軍勢を募り、石清水八幡宮に戦勝を祈願した。
見事、乱(前九年の役)を平らげた父子は戦勝を祝って、石清水八幡宮をここに勧請した。それが、六郷神社の始まりとされる。

(つづく)
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旧東海道Ⅱ(4)

【2016年5月8日(日)】旧東海道
磐井神社を後にして、南下を続ける。
密厳院を探しに、第一京浜を離れたが、なかなかたどり着けない。
今にも取り壊されそうな古いアパートを見つけただけ。
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どうやら、すぐ手前を左折して迷ってしまったようで、随分遠回りをさせられた。
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ここには、八百屋お七を供養するために造立された地蔵菩薩が安置されている。
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彼女は、恋人に会いたいばかりに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑(天和三年=1683年)に処された人物である。
地蔵はお七の三回忌にあたる貞享二年(1685年)に、小石川村百万遍念仏講中が建立。
最初は鈴ヶ森刑場にあったが、ある日一夜にしてこの寺に飛来したという伝説がある。
その隣には、寛文二年(1662年)建立の庚申塔。
石造舟形で阿弥陀如来を彫った庚申塔としては、かなり古いものだという。

境内にはそのほか、いくつもの石仏・石塔が集められていた。
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太子堂。
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本堂そのものは近代的なビルだった。
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参拝は省略して、東海道に戻る。
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しばらく行くと、大森神社。
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社殿そのものは新しい。
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ここも見学だけにとどめ、先に進む。間もなく平和島駅。
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平和島駅に寄るために、ちょっと行き過ぎたので、数百m戻る。
二又の左手が旧東海道。今は三原通りと呼ばれている。
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この先900mは当時の幅員を比較的よく残しているのだそうだ。
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なんと廻船問屋が健在だった。
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右手に美原不動尊。
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提灯に灯りがともっている。
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本堂の中では法要を営んでいる様子だった。
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古く見えるが、昭和25年に建立されたばかりのようだ。
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この通りのお店はみんなシャッターに浮世絵の絵柄が書かれている。
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戦前は、映画館や芝居小屋、寄席などがひしめく繁華街だったらしい。
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「三原」の語源は「北原」「中原」「南原」と三つの原があるからだった。
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こうした案内板をいくつも設置してくれて、とても親切だ。

「中氷の氷」は評判だったらしい。いつ頃の話なのか知りたかった。
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休憩用のベンチもあちこちに。
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まだ、通りはしばらく続く。
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旧東海道の標柱はあるが、街道歩きの人はあまり見かけない。
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ほとんどが地元の人。その証拠に自転車が多い。
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左手に徳浄寺。なんかインド風。
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創業享保元年(1716年)の老舗「餅甚」。
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内川を渡る。
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ここは羽田に向かう羽田道の基点。
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かつて、歌舞伎「浮世塚比翼稲妻」(鶴屋南北作)で有名な旅籠「駿河屋」があったので、「するがや通り」とも呼ばれるとのこと。

三原通りは大森警察署の手前で産業道路及び第一京浜と再び合流する。
その大森警察署の裏に、西南戦争(1877年)と日清戦争(1894~95年)に旧大森村から従軍し、戦死した兵士の慰霊碑が並んでいる。
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警察署あった場所にはもともと、大森町役場・大森区役所があったとのこと。
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昭和6年に建設された鉄筋コンクリート3階建ての建物だったという。
昭和15年に役所が移転したのちは、ずっと警察署として使用されてきた。

ちょっと街道から外れて、大林寺に向かう。
この辺は、かつて町工場が多かった地区なのだろうか。
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鰯のおいしそうな店。ゆっくり飲みに来たいが、そう簡単には来られないだろうなあ。
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享保14年(1729年)に、大森村の甲子講という日蓮宗の信者たちが建てた池上道道標が境内にあるというので、わざわざ来たのだが、もう門が閉じられていた。
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参拝は午後4時半まで、とある。
今はもう6時前。全然お話にならなかった。
池上道とは池上本門寺に至る道のことで、今の京急梅屋敷駅あたりで東海道から分かれていたというから、ある時期にここに移設されてきたのだろう。

覗き見するだけで諦めた。
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なんだか、じわじわくる名前のお店だ。八百長だから激安できるのだろうか。
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日没前に第一京浜沿いの貴船神社に参拝。
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最近、少し移転したような雰囲気がある。
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さて、本日はこのくらいにしておこう。
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梅屋敷駅から帰ることにする。
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その前に、高架下にぽつんと残った洋品店「橋本屋」をチェック。
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もう6時になってしまった。
この日は4時間弱で12kmほど歩いた。
10日にわたるGWはこれにて終了。
10日のうち勤務は1日、札幌帰省2日、残り7日は鎌倉の超低山も含めみな山だった。
われながら呆れます。

(おわり)

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旧東海道Ⅱ(3)

【2016年5月8日(日)】旧東海道
立会川商店街から浜川砲台に向かう。
その途中で旧東海道を横切る。
その交差点で、立会川に架かるのが浜川橋。
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家康の時代に初めて架けられ、今の橋は昭和9年(1934年)の竣工だという。
江戸時代、鈴ヶ森刑場に送られる罪人を家族がこの橋で見送ったことから、「涙橋」とも呼ばれたらしい。

川に沿って、海の方へしばらく歩く。
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おお、幟が出てきた。観光名所なのだ。
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新浜川公園に、砲台の大砲が復元展示されていた。
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嘉永六年(1853年)のペリー来航を受けて、鮫洲に下屋敷を持っていた土佐藩は幕府に砲台を築くことを願い出る。
翌年ペリーが再び来るまでに、土佐藩は8門の大砲を備えた砲台を築いた。
そこに、佐久間象山から砲術を学んだ20歳の坂本龍馬がいたわけである。
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ついでに、土佐名物、鯨のモニュメントまであった。
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さらには黒船?
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龍馬の遺跡を後にして、旧街道に戻る。
浜川橋を渡ると、右手に天祖神社。
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結構、大きな鳥居だ。
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境内には厳島神社。
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本殿。
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略式で参拝して、再び街道へ。
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競馬場通りを渡る。
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見事な看板建築。
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今歩いているのは、このあたり。
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旧街道らしいカーブを描いている。
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こちらもレトロな感じ。
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鈴ヶ森中学校。
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私にとっては、鈴ヶ森と言えば刑場なので、かなり際どい名称に思えるが、地元にとっては普通に地名なのだから、全然違和感はないのだろう。
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浜川神社の標柱はあったが、神社そのものはどこにも見当たらなかった。
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せっかく横に案内板があるのに、神社に伝わる文書のことばかり書かれていて、肝心の社殿のことは触れていなかった。

鈴ヶ森刑場跡は旧東海道と第一京浜が合流する地点にある。
まずは仏様のために、題目を唱えなければならない。
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池上本門寺の二十五世貫首日顗(にちぎ)の筆になるもので、元禄十一年(1698年)もしくは元文六年(1741年)の建立と考えられているそうだ。
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なぜか鯉塚。
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「永代 鈴ヶ森 御花講新橋」とあるが意味はよく分からない。
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磔のための柱を差し込んだ台石。
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柱の上部に罪人を縛り付け、刺し殺したらしい。

火あぶりの刑で使われた火炎台。
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ここに鉄柱を差し込んで罪人を縛り付け、足元に薪を積んで生きたまま焼き殺されたという。あの八百屋お七もそのように処刑された。

ついでに水難者の供養塔もある。
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「一切の業障海は皆妄想より生ず」
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「海のようにひろがり満ちている人間の一切の業(行為)の過ちも、それに原因する心身のさまざまな障りも、すべて自分中心に考える妄想から起こる」という仏教の教えである。

受刑者の墓。
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ここは「鈴ヶ森遺跡」として都の旧跡に指定されている。
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鈴ヶ森刑場は慶安四年(1651年)に開設されたお仕置き場である。
間口40間、奥行き9間の規模があった。
第一京浜の拡幅により、遺構はほとんど残っていないらしい。

となりにある大経寺は実に近代的だが、当時受刑者を供養するために立てられた寺だ。
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首洗の井。
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大地震や火災で横死した方々を供養する「殃死者供養塔」。
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馬頭観世音まであった。
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とにかく死にまつわるものをすべて集めてきたというか、ここに建立したようだ。
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何度も手を合わせて、刑場跡を後にする。
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この先、旧東海道はしばらく第一京浜に吸収される。
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味気ない国道歩きが続く。
右手に大森海岸駅。
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さらに南下すると、歩道に「磐井の井戸」跡がある。
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「磐井」と呼ばれる古い井戸で、もともとは磐井神社の境内にあり、東海道を行き交う旅人の喉を潤した。
「霊水」または「薬水」と呼ばれるほど親しまれたが、道路の拡幅により歩道上に残されてしまった。
土地の人々は、心正しければ清水、よこしまならば塩水の味がすると伝えている。

その磐井神社はすぐ先。
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かつては武蔵国の八幡社の総社に定められたほど格式が高く、10世紀に編纂された『延喜式』にも記載されている式内社だ。
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別名、鈴森八幡宮とも呼ばれ、歴代の徳川将軍も参詣したと伝えられている。
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この神社には、鈴石と呼ばれる不思議な石が保管されているそうだ。
延暦年間(782~806年)に武蔵国国司だった石川氏が奉納した神功皇后ゆかりの石と伝わる。
これを打つと鈴のような音がしたことから、「鈴石」と呼ばれ、「鈴ヶ森」の地名の由来にもなったという。

ここには、鳥の文様が浮き出した自然石の「鳥石」も保管されているのだとか。
江戸時代の書家松下烏石(?~1779年)が寄進したものとされる。
その由来を記したのが、この「鳥石碑」(元文六年=1741年建立)。
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その隣に、ほとんど文字が読めないが、竹岡先生書学碑(寛政八年=1796年建立)。
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その右に、復(退)筆塚(天明六年=1786年建立)。
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他にも、皇太子の野立記念碑や力石など、様々なものが集められていた。
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(つづく)
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旧東海道Ⅱ(2)

【2016年5月8日(日)】旧東海道
海晏寺境内を散策中。
これは与謝蕪村とともに「天明の六俳客」と呼ばれた春秋庵白雄の墓。
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その師匠にあたる白井鳥酔の墓もあったらしいが特定できなかった。
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その他の施設は比較的新しい。
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岩倉具視らの墓は裏の丘の上にあるとのことなので、墓地への階段を登ってみた。
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しかし、見当たらない。
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隈川宗悦。調べてみたら、幕末から明治期に活躍した医者だった。
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探し回った結果、岩倉や春嶽の墓は柵で囲われ、立ち入れないところにあることが分かった。
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柵の隙間から撮影したが、家族や侍女の名前しか見つからない。
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春嶽本人の墓はこれだろうか。
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どうもよく分からないので、境内から出て、外側に回ってみることにした。

大回りをして、寺の裏側に来たが、入口や拝所や案内板があるわけでもない。
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やっぱり柵から覗くしかなかったが、結局は春嶽の墓も岩倉の墓も特定できなかった。
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仕方ないので、諦めて旧東海道に戻る。
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このあたりにも古い家屋が残っている。
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仙台坂公園の横を通って、青物横丁のバス停に下りてきた。
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もう1時間以上歩いているのに、まだ青物横丁から進んでいないなんて。
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この調子では、生きているうちに京の都には着けないかもしれない。

歩道橋から仙台坂を望む。
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その名は近くに仙台藩の下屋敷があったことにちなむ。
下を仙台坂トンネルが貫通する1本南の通りが、本来の仙台坂だが、交通量が多くなったため、この池上通りが新たに仙台坂と呼ばれるようになったという。

こちらは第一京浜(国道15号)。
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旧東海道を右折した地点に戻るべく、しばらく第一京浜を歩く。
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「299m」とは、正確な距離というより、目に訴える数字にしたかったのだろう。

再び幸稲荷神社の前を通過。
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さっき見た石塔だが、正面に「鮫洲正観世音菩薩道場」、側面に「建長三年 最明寺時頼郷安置」と刻まれている。
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建長三年(1251年)、品川の海に大きな鮫の死体が上がったのを不審に思った漁師がその腹を割いたところ、中から観音菩薩の木像が出てきたという。
それから、このあたりを鮫洲と呼ぶようになり、時の執権北条時頼がこの観音像を安置する堂宇として開山したのが海晏寺であることを、この一文は示している。

この先は竜馬ゆかりの道だ。
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品川から離れて、随分静かな雰囲気になった。
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老舗っぽい赤飯のお店「蒲田屋」。
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鮫洲駅にも立ち寄っておく。
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鮫洲と言えば、運転免許試験場。それだけに、その手の代書屋さんが駅前にある。
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この辺の見どころを案内図で確認。
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また、街道を離れ、山内容堂の墓に行かなくてはならない。

駅の中には、こんなボックスがあった。
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容堂の墓に行くべく、再び第一京浜を渡る。
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渡ると、国道沿いは大井公園となっており、ここに仙台藩の下屋敷跡があったことを示す碑があった。
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容堂の墓はその南にある。
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巨大な墓石である。
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塚の真上に墓石を置かないのは何か意味があるのだろうか。
山内容堂(豊信)はいわずと知れた幕末期の土佐藩主。開明的な言動が災いし、一時、大井村の下屋敷に蟄居させられたことがある。
維新後は内国事務総長となったが、すぐに引退。明治5年に45歳の若さで亡くなった。
遺言によって、大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていたこの地に葬られたのだそうだ。

敷地内にはいくつか係累の墓があった。
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大井公園を後にして、旧街道に戻る。

鮫洲駅の東には八幡神社が鎮座する。
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境内には出世稲荷。
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扉で閉ざされているが神楽殿。
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社務所かな。
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百度石。
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平林九兵衛は明治期の政治家。
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小さな富士塚。
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池があるから弁財天かな。
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鳥居をくぐって、やっと街道に出る。
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鮫洲商店街のシンボルはやはり鮫だった。
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おそば屋さんの「鈴乃家」。
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格子窓の家。
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もう廃業してしまったのか、「矢部食品」。
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これはもう判読不能。
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右手に白玉稲荷神社への路地。行ってみよう。
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白玉だけど、やはり稲荷だから赤い。
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路地はやはり生活臭にあふれている。
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おお、民謡歌手大塚文雄の道場を発見。
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嶺雲寺。境内はパスした。
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老舗の風情がある蕎麦の「吉田家」。
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のれんがかっこいい。
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たけのこせんべい? 変わった煎餅を売っている「大黒屋」。
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仲町稲荷神社。これも行ってみよう。
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地元のおばさんがお掃除をしていた。
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このあたりの商店街がかなり寂れている。
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昔ながらの煙草屋さん。
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右折すると、いきなり賑やかになった。立会川商店街だ。
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こういうディープな感じには、かなりそそられる。
しかも甘味とラーメンというのが何とも不思議な組み合わせ。
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ここは龍馬ゆかりの街であった。
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嘉永六年(1853年)の黒船来航のおり、龍馬は土佐藩の品川下屋敷近くにあった浜川砲台の警護にあたった。
地元の方々は、龍馬が志を立てた原点であると認識して、慕っているようだ。
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ここから浜川砲台跡までは200mとのことなので、そちらにも行ってみることにする。
その前に立会川駅もチェック。
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何だか、街道歩きというよりは、旧街道をはさんで左右ジグザグにうろついている感じだ。

駅前で立会川にかかる橋は、ボラちゃん橋というらしい。
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この橋が京急線の高架化に伴い人道橋となったのを機会に、愛称を公募したところ、「ボラちゃん橋」が一番多く寄せられたという。
平成15年にボラが大量発生して、立会川が一躍有名になったにちなむらしい。

今も少しは来るのだろうか。
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この汚染状態では難しいのかもしれない。
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それにしても、何の色だろう。

一つ下流の端は弁天橋。
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砲台そばが食べられる大村庵本店。
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いつか、立会川のそばめぐりもしてみたい。

(つづく)
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