山と鉄

山歩き、乗り鉄、廃線・廃道歩き、廃村歩き、駅舎探訪などの日々を記録します

早稲田界隈

【2015年1月31日】早稲田界隈
2週間にわたる入院のせいで月間出勤日数が足りず、本日は無理やり休日出勤。
一応仕事はあったのだが、2時間ほどで終わってしまったので、職場には誰もいないし、引き上げることにした。
ただ、まだ日も高いし、このまま真っすぐ帰るのはもったいない。
2月末まで本格的な登山は禁足にしてあるので、都内の超低山でも登ってから帰ろうと、検索したら、戸山公園の箱根山(45m)が引っかかってきた。
そうだ、そんな山が確かにあった。
山手線内の最高峰である。
なんと、地下鉄の早稲田駅から歩いて行ける。通勤ルート上ではないか。
即決で、そこに寄ってから帰ることにした。

午後3時頃、早稲田駅に降り立ち、何やら賑わっている穴八幡宮の手前を左折。
緩やかな坂を登っていく。
すると間もなく戸山公園の標識が現れた。
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意外に近い。

すぐ先の道路を横断。その名も箱根山通り。
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戸山公園は2地区に分かれており、こちらは「箱根山地区」というらしい。
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園内にはグランドもあり、野球少年たちの元気な声が響き渡っていた。

せせらぎ広場を横に見ながら、奥へと入っていく。
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花の広場を過ぎると、箱根山の入口。
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もう目の前に、こんもりした高まりが見える。
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ふもとをしばらく巻いて歩く。
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山頂には人影が見える。“登山者”もそれなりにいるようだ。
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すぐには登らず、まず山腹の“中間道”を1周する。
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階段以外にも踏み跡があるが、ツツジを荒らすのでやめてね、との標識。
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箱根山の全景。
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説明板があったので、お勉強タイム。
この周辺はかつて源頼朝の御家人和田義盛の領地で、和田村と外山村に属していたことから、和田外山と言われていた。
寛文八年(1668年)に尾張徳川家の下屋敷となり、約45万㎡にわたる広大な敷地は「戸山荘」と呼ばれるようになった。
邸内には回遊式築山泉水庭が設けられ、巨大な築山(玉円峰)が築かれた。
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それがこの箱根山である。
明治維新後は陸軍戸山学校用地となり、戦後はその一部が公園化された。
玉円峰は明治以降、誰言うともなく「箱根山」と呼ばれるようになったという。
庭園に小田原宿を模した町並みが築かれたというので、おそらくそこから見える山ということで、そう呼ばれるようになったのかもしれない。
尾張藩下屋敷を偲ぶ唯一の遺構である。

さらに周遊。
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階段は全部で東西北の3か所ある。
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私は西口から登った。
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頂上には、44.6mの三角点。
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桜の時期になると山頂で花見の宴を繰り広げる人がいるらしいが、「禁止」とのことである。
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また、近くの事務所で「登頂証明書」も発行してくれるらしい。
ご希望の方はどうぞ。

まわりは木々に囲まれ、眺望は必ずしもよくない。
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東側には都営戸山ハイツアパートが並んでいる。
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南側には戸山教会。
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下山は東側の階段から。
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戸山ハイツアパートの給水塔?が見える。
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西山麓に「箱根山 陸軍戸山学校址」の石碑があった。
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ちょっと教会にも立ち寄ってみた。
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宗派は日本基督教団。
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建てられたのは1949~50年にかけてのことらしい。

地下部分は堅固な石積みの造りである。
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GHQが都の建設局に敷地提供を命じて建てたものだそうだ。
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帰りは戸山ハイツの脇を通って早稲田駅に向かう。
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戸山ハイツは陸軍戸山学校の跡地に木造の都営住宅が建てたのが始まり。
戦後初の大規模都営住宅で、昭和40年代に高層化されたという。
戸山公園を取り囲むように35棟が並んでいる。
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都営アパートはどこも住民の高齢化が進んでいるようで、1階の商店街は転業したり廃業したりしてしまった店が多い。
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それにしても、公園利用者なのか、このあたりで立ち小便をする不届き者が少なくないらしい。こんな注意書きを見つけた。
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ただ、正確に言うと、箱根山にはトイレはない。戸山公園にある。
それに、「大」はここでしてもいいようにも読めてしまう。

早稲田大学に近づいてくると、こんな落書きが。
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「馬超」って何のことか分からなかったが、「孫権」の名が出てくるので、三国志の時代の人物だろうか。
調べてみると、やはりそうだった。蜀の将軍で曹操に反乱を起こして敗れた人物らしい。
なぜそれが早稲田なのか。
これって、早稲田の人自身が書いているように読めるが、「お前は孫権」の「お前」が誰なのかも気になる。
いずれにしても謎である。

穴八幡宮まで戻ってきた。
随分賑わっているのが気になって、ちょっと覗いてみることにした。
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ここは「高田馬場の流鏑馬」の起源となった神社である。
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露店が並ぶ参道を登ると、拝殿には大行列。
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いったい今日は何があるんだ?。
これも調べてみたら、冬至の日から節分の日にかけて、お金にご利益がある「一陽来復」の御守を授かることができるらしい。
これは江戸時代から続く風習のようだ。
それで、期間中の休日はこんな人出になるわけだ。

私もお金は欲しいが、「並ぶ」のがとにかく嫌いなたちなので、もちろん御守は断念。
布袋様にだけ、ご挨拶して街に戻る。
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あとは、早稲田の学生が行くような安い大衆酒場で1杯だけひっかけて帰りたい。
そんな店を探して、ちょっとその辺をうろついてみた。

穴八幡宮の鳥居前。そのはすむかいに元近衛騎兵連隊、大隈重信がひいきにしていたらしい三朝庵というそば屋があった。
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でも、ここは何となく高そうなので、とりあえずパス。

早稲田通りを早稲田駅まで戻って左折するも、何もない。
早大通りに出て右折、また早稲田通りに戻ることにする。
途中、右手に銭湯を発見。鶴巻湯。完全なビル型銭湯だ。
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しかし、当方は風呂より酒だ。

このすぐ先で今度は天祖神社を発見したので、ついでに参拝していく。
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天祖と言えば、奥多摩の天祖山(1723m)を思い出すが、その系列なのだろう。
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案内板によれば、天和二年(1682年)に榎町からここに移されたとのこと。
当時、このあたりは一面のミョウガ畑だったらしく、「茗荷畑の神明宮」と呼ばれていたそうだ。
昭和20年の空襲で焼けたが、昭和41年に再建された。

早稲田通りに出て、また早稲田駅に戻るが、一向に飲み屋は見つからない。
昔、見覚えのある学生街みたいなの探しているのだが。
それはぐるっと一周して、三朝庵から北東に下りる道にあった。
グランド坂と呼ばれる道だ。
しかし結局ここにも何もなかった。
ちょっとそそられたのは、このレトロは洋服屋さんだけ。
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でも、ここでは飲めない。

とうとう正面に大隈講堂が見えてきた。
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前庭に早稲田の校歌「早稲田の栄光」歌碑。
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創立70周年を記念して、昭和22年に作られた歌だそうだ。
作詞は西条八十、作曲は芥川也寸志。
私の母校ではないので歌えない。

うろうろしている間に本格的にお腹がすいてきてしまった。
もう酒は諦め、ラーメンに方針を切り替える。
また、早稲田駅へ戻るのも面倒なので、都電の早稲田駅方面に向かう。

新目白通りに面して、面白そうな油そばの店があったので、思い切って入ってみた。
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「武蔵野アブラ学会」早稲田総本店である。

店内はかなり狭い。1人なのでカウンターに案内されたが、席の1人分の幅が体の幅より狭い。
客は数人いたが、みな学生風。
私は600円の油そばを注文した。とりあえずは定番で。
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油そばを食べるのは初めてだったが、汁がないことにびっくり。
まずくはなかったが、やはり汁があるラーメンの方が好きなので、もう油そばは食べないだろう。

お腹もふくらんだところで、都電に乗る。
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近くには、なつかしいフレーズのたばこ屋さん。
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ショッキングピンクの電車がやってきた。
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さて、どこまで乗ろうか。
西武線には池袋から乗ることにして、雑司ヶ谷で下りることにしょう。
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駅4つ分だ。

5分ほどで到着。
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目の前の通りを西に進む。すると、また布袋様。
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今日は随分と縁がある。布袋尊は千客万来、商売繁盛の神様なので、取りあえず手を合わせておく。

明治通りに出る1本手前の道を右折すると、立ち呑みの店を発見。
「かぶら屋」という看板。チェーン店のようだ。
カウンターしかないような大衆酒場が第一希望なのだが、もうそんなことは言ってられない。
ここならほんとに1杯で済みそうなので、思わずのれんをくぐってしまった。
静岡起源の店のようで、メニューには黒おでんが豊富。
私は熱燗と大根、さつま揚げを注文。
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このあと、しらたきも頼んで、お会計は確か720円だったかな。
さっきの油そばの量が少な目だったので、これでお腹もちょうどいい具合。

随分と寄り道してしまったが、7時前には帰宅。
箱根山以外は何も決めずに歩き始めたが、いろいろと発見があってなかなか面白かった。

※所要時間:約2時間半
※登った山:1座(箱根山)
※歩行距離:不明
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三軒茶屋~祐天寺

【2015年11月16日】三軒茶屋~祐天寺
この日、三軒茶屋の昭和女子大学に仕事があったので、この機会にまた散歩をしよう。
スマホの地図を見て、方針を検討。
学生時代2年間過ごした祐天寺まで下馬を経由して歩くことにした。
1時間くらいで行けるだろう。

昭和女子大学は1920年(大正9年)に日本女子高等学院として創立された。
創立者は詩人の人見東明。よく知らない人だ。
1980年には創立60周年を記念して、キャンパス内に人見記念講堂が開設されている。
卒業した著名人には、登山家の田部井淳子、歌人の馬場あき子、タレントの壇蜜などがいる。

仕事を終えて正門に向かっていると、左手に歌碑を見つけた。
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創立15周年当時の校長、松平俊子のご母堂である鍋島栄子刀自の歌だそうだ。
松平とか鍋島とか、明らかに旧大名家の出のようなので調べてみた。
すると、鍋島栄子はもともと公家の出のようである。
権大納言広橋胤保の五女として生まれ、1881年(明治14年)に当時イタリア公使であった鍋島直大と結婚。外交官夫人として活躍し、「鹿鳴館の華」と呼ばれたそうだ。
日本赤十字篤志会会長も務め、日清・日露戦争の際には負傷兵の看護にもあたったというから、ナイチンゲールのような方だったのだろう。

その歌というのは「庭の教え」と題される作品。
「ふみまよふ人 こそなけれ 何処にも 庭のおしへの 道しある世は」
そんな庭の教えとはどんなものか知りたいものである。

さて校門を出て左折。国道246号を避けるように、さらに左折して細い路地を住宅街に入っていく。
このあたりも太子堂であることを知ってびっくり。
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東急世田谷線に西太子堂駅というのがあるので、太子堂というのはてっきりあっちの方だと思い込んでいたが、改めて地図を見ると、246をはさんで南北に広がっていた。
その由来は、三丁目にある円泉寺に聖徳太子を祀った太子堂があることにちなむという。
かつては太子堂村といったが、1889年(明治22年)の町村制施行に伴い、近隣の池尻村、三宿村、若林村、下北沢村、代田村、経堂在家村などと合併して世田ヶ谷村になっている。

世田谷区はほとんどが住宅地になっていることもあり、大木の保存には気を配っているようで「保存樹木」という制度がある(他の区にもあるようだ)。
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この木はスズカケノキで昭和53年に指定されている。

10分も歩かないうちに、太子堂を離れ、下馬に入った。
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下馬は祐天寺から近いこともあり、よく聞く地名だったが、実は訪ねるのは初めてかもしれない。
地名の由来を調べてみると、荏原郡下馬引沢村の省略のようで、源頼朝が遠征に向かう途中、この地を通過した折り、土砂崩れにあったので、「以後ここを通る時は、馬を曳いて渡れ」と命じたのが由来とされる。「げば」が起源ということだ。

世田谷区立下馬図書館を過ぎて、児童公園の脇を歩いていく。
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すると右手、通りの真ん中に大きな樹木がそびえている。
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これも保存樹木であったが、それより目を引いたのが、あたりに林立する古い団地風のアパート。
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都営下馬アパートだそうだ。
駒沢練兵場の跡地に建設された大規模な都営団地で、現在も40数棟あるという。
古いもので1958年築というから、半世紀以上の歳月を積み重ねている。
さすがに建て替えの話もあるようだが、現在居住している人がいる以上、そう簡単ではないらしい。
お住まいなのはおそらく低所得の高齢者だろうから、むやみに追い出すわけにもいくまい。
都心にいきなり出現したミステリーゾーンのようで気持ちが高ぶった。

三宿通りを渡ると、おしゃれなアップルパイのお店があった。
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「ジャーマニー・スミス」は青山にも店がある有名店のようだ。
ジャーマニー・スミスって、古いメージャーリーグの選手の名前らしいが、関係あるのだろうか。

この先すぐに世田谷公園があったので、この中を通過していくことにした。
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平日の午後ということもあり、小さな子供を遊ばせているお母さんの姿が目立った。

紅葉にはまだ少し早い。
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なんと園内に線路を発見。
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「せたがや ミニSLチビクロ号」が走っているらしい。
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大人70円とは安い。

乗ってみたかったが、あいにこの日は運休日。
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平日の運行は水曜日だけみたいだ。
世田谷区の区制50周年を記念して、昭和57年に開業したとのこと。
もう30年以上になる。立派なもんだ。

これがSL乗り場の「せたがや公園駅」。
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注意書きを読むと、未就学児ひとりだけの乗車は認めていないが、大人ひとりだけは大丈夫のようだ。ふふふ。

園内を3分かけて1周する。全長280m。
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当初は本当の蒸気機関車だったが、今は電気式になっているらしい。

世田谷公園は池尻にある。
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池尻は、北沢川と烏山川が合流して目黒川となる付近で、沼沢地帯をなしていた。
その池の出口という意味で、池尻と呼ばれるようになったという。
今はそんな面影はどこにもない。
北沢川や烏山川もほとんど暗渠になっており、地形図で河道を追うのも難しい。

またまた保存樹木。
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そしてこのあたりが世田谷区と目黒区の境界。
青鳥特別支援学校を過ぎて、三宿病院の前に出ると、もう目黒区上目黒。
目黒の地名の由来は諸説あるようなので、割愛させていただく。

坂を下ると、めずらしい刃物のとぎ屋さんがあった。
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字が白くてよく見えないが、包丁は700円から1000円で研いでもらえるようだ。

バス通りに下りてきた。
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こういう昭和の匂いぷんぷんのお店が好きだ。

すぐに蛇崩(じゃくずれ)という交差点に出る。
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面白い地名なので、ここは通ることにしていた。
以下、目黒区のHPによる。
地名「蛇崩」の由来は、江戸時代に編さんされた「新編武蔵風土記稿」によると「昔、大水の際、崩れた崖から大蛇が出たことから、この地名が生まれた」と記している。
また一説には、「砂崩(さくずれ、土堤崩をいう古語)」が、「じゃくずれ」に転化し、付近を流れる蛇行屈曲した川の状態から、「蛇崩」の文字を当てたのではないか」とも言われている。
いずれにしても、蛇崩地域の北側を蛇行する蛇崩川が浸食した地形がもたらした地名といえよう。

これなど、下馬の由来にも符合する。
かつて、このあたりは土砂崩れの起きやすい傾斜地だったのだ。
「蛇崩」は1932年(昭和7年)に行政地名としては消滅しているので、交差点の名として残っているのは貴重である。

交差点のすぐ横に銭湯「寿湯」。
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営業時間前なのでシャッターが下りているが、まだ現役で頑張っているようだ。
いずれ銭湯に入るためだけに訪ねてみたい気もするが、貧乏性の私には無理か。

右折して五本木通りをさらに下る。
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下り切ったところが蛇崩橋。
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この下には暗渠化された蛇崩川が流れており、現在は緑道となっている。
蛇崩川は目黒川の支流。世田谷区弦巻から東流し、上馬、三軒茶屋、下馬を経て、中目黒駅付近で目黒川に注ぐ全長5.2kmの川である。
かつてこの付近は湧水に富み、流域は水田地として、豊穰な土地であったという。
そんな時代の風景を見てみたかった。

いつのまにか五本木に差しかかっている。
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1968年(昭和43年)の「住居表示に関する法律」による町名変更で、それまでの上目黒五丁目、三谷町の一部および中目黒三丁目の一部が、五本木一~三丁目となった。
1932年(昭和7年)の区制施行によって姿を消した五本木の名が復活した形だ。
旧守屋教育会館郷土資料室(目黒区五本木二丁目)裏手の庚申塔群の中に、「上目黒五本木組 庚申供養塔 文化七庚午年十一月吉日」と記されている碑面がある。旧上目黒村は、上知、宿山、石川、五本木という四つの「組」から成っていた。
これから類推すると、五本木という地名は中世にさかのぼれるそうだ。
そもそもの由来は、五本の大樹があり、それがこの地の特徴を成していたことから、地名となったのではないかといわれている。
前述の庚申塔群の前を走る細い道は、かつての「鎌倉街道」だったらしい。
明治のころは「昼間でさえ、身の毛がよだつほど薄暗く、元気のよい若者でも通ることを恐れた」ほど淋しい土地だったようだ。(以上、目黒区HPより)

川を渡ると再び登りになる。
東京はゆっくり歩くと坂の多い町だと分かる。
下り切ったところには、大抵かつて川だった暗渠がある。
ブラタモリではないが、そういうことを意識しながら歩くのは楽しい。
五本木一丁目商店街まで登ってきた。
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左手に見えるのは田切公園。
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ここに、地名に関する説明板があった。
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「田切」とは、川の両岸の傾斜地のことをいうらしい。
「たぎる」とは最近、「煮えたぎる」とか「燃えたぎる」といった用法でしか使われなくなったが、もともとは水が勢いよくほとばしる意味だったという。
急流が流れる様だ。
ここは蛇崩川の支流中の沢が削った斜面で、まさに田切地形だ。
明治22年の町村制施行で目黒村大字上目黒字田切になったが、昭和7年の区制施行の際に消滅している。
その名を偲んで、この公園の名を「田切公園」としたとあるので、目黒区は立派である。

さて、ここから祐天寺駅までは一直線。
東横線の線路をくぐって最初に見えるのは、みずほ銀行祐天寺支店。
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学生時代、ここは合併前なので富士銀行だった。
私が初めて口座を開いた銀行だ。

この角を左折する。右手にあるセブンイレブンはゲームセンターだった。
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あの時代このあたりのコンビニと言えば、駒沢通りにあった「パンプキン」だけだった気がする。
もちろん、24時間営業の店などまだなく、セブンイレブンもその名の通り、朝7時から夜11時までの営業だった。

この通りに、鉄道マニアのカレー屋さん「ナイアガラ」があったはずだが、ない!
ええっ、廃業した?
現役時代は一度も行ったことがなかったが、就職して東京勤務になってから一度だけ興味本位で行ったことがある。
カレーが模型の列車に乗ってレールの上を運ばれてきた記憶がある。
とくに愛着があった店ではないが、ランドマーク的存在だっただけにショックである。

もう一度、ガードをくぐり、かつて通った銭湯を見に行く。
またしても、ない。跡地は低層マンションになっていた。
もちろん、ほとんどの家庭に内風呂がある時代だし、学芸大学も都立大学も沿線からいなくなり、学生も減ったのだろう。
名前も忘れてしまったので調べてみたら「越の湯」だった。
廃業は2003年11月頃のことらしい。

残念な思いで、かつて住んでいた下宿に向かう。
すると、「ナイアガラ」があるではないか。移転しただけだった。
HPを見てみると、平成25年3月に創業の地でリニューアルオープンとのこと。
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こちらも本日運休。開いていたら、話のタネに食べていったかもしれない。

裏通りで見つけた廃屋。
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下宿近くにあった巨大な車輪。
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C57 117号機関車の主動輪だそう。
117号は主に九州で活躍した機関車で、1973年4月に宮崎県植樹祭に向かう昭和天皇のお召し列車を牽引したことで知られる。
「日本最後の国鉄蒸気機関車牽引のお召し列車」だそうである。
それがなぜこんなところにと思ったら、なんと所有者があの「ナイアガラ」だったのだ。それは今回訪ねて初めて知った。
ご主人やはり筋金入りのテツである。
私は学生時代、この動輪の横にいつも通学用のバイクを置いていた。
今さらながらすいません。

私の下宿は老夫婦が経営している大判焼きの店だった。
経営していると言っても、たぶん小遣い稼ぎ程度で、年金と家賃でゆうゆう暮らしていたはずだ。
今は息子夫婦が住んでいるのか、人手に渡ったのかよくわからないが、こんなこじゃれた家屋になっていた。
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この奥にあった下宿棟は取り壊され、更地になっていた。
裏の幼稚園や隣の花屋さんは昔のままなのに、かなり残念だ。
実は15年前に訪ねたことがあり、その時すでに建て替えられていたのだが。

当時私が暮らしていたのは、玄関・トイレ共同、風呂なし、4畳半日当たりなしの部屋で月26000円だった。
それでも高く感じて、3年目からは多摩川を渡った新丸子に引っ越した。
そこの家賃は確か17000円だったと思う。

昔の通学路である通りを駅に向かう。
1軒1軒眺めていく。見覚えのある店もあり、初めて見る店もある。
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(こんなのはなかった)

変わってほしくないと思うのは、こちらの勝手なのだが、変わっていないとホッとする。
そのうちの一つがこれ。
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私の下宿を世話してくれた山下商事さん。
ご主人はあの時点でそれなりの年だったと思うが、もう80を超えているのではないか。店はこの日閉まっていたが、廃業している雰囲気ではなかった。
ちょっとお顔を拝見したかった気もするし、その後の祐天寺の話なども聞きたかった。向こうは私のことなど当然覚えていないだろうが、物件は覚えているだろうから。

駅は改修中だった。
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横浜銀行が入った駅舎だったが、それも様変わりするのだろう。
ちょうど1時間の散策。感慨深い街歩きであった。

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桐蔭学園周辺

【2015年11月12日(木)】桐蔭学園周辺
横浜の桐蔭学園に仕事が入ったので行ってきた。
最近、仕事で外に出ることがあまりなくなったので、貴重な機会だ。
ちょっとだけ周辺を散歩してから社に帰ることにした。

都心から桐蔭学園まではいろんなルートがあるようだが、小田急線柿生駅からだと路線バスが桐蔭学園前まで連れて行ってくれるようなので、まずは柿生駅を目指した。
新宿から快速急行藤沢行きに乗って、新百合ヶ丘で乗り換え。
1駅で柿生だ。9:29着。
柿生駅
北口のバスターミナル4番線から9:40発の「桐蔭学園」行きに乗る。
もうこんな時間なのに、制服姿の高校生を含めすでに20人近く並んでいた。

柿生(かきお)という地名は、その名の通り「柿」と関係あるらしいことは聞いたことがあったが、いい機会なので、ちょっと調べてみた。
すると、確かにそうだった。

柿生の地名は駅名としては残っているが、行政地名としては消滅している。
実は「柿生」は明治時代に生まれた新しい地名なのである。
江戸時代には、このあたりに上麻生、下麻生、早野、王禅寺、古沢、万福寺、片平、五力田、栗木、黒川の10か村があった。
これらが1889年(明治22年)の町村制施行の際、合併して「柿生村」が成立した。
「生」は「麻生」からとったものと推測されるが、では「柿」はどこから来たのか。
この地域が、日本で初めて発見された甘柿である「禅寺丸柿」の原産地であることにちなむという。

「禅寺丸柿」は鎌倉時代の1214年(健保2年)に、現在の川崎市麻生区にある王禅寺の山中に自生しているのが発見されたという。
それまで知られていた柿はいずれも渋柿だったので、日本最古の甘柿という位置づけになっている。
その後、この寺は1333(元弘3年)の新田義貞の鎌倉攻めの兵火で焼失。
室町幕府から再建の命を受けた等海上人が栽培を広めたとされている。
生産の最盛期は明治末から昭和初期で、1932年(昭和7年)には柿生村だけで938㌧もの収穫があった。
しかし、新参の富有柿との競争に敗れて、急速に衰退し、昭和40年代後半には市場から姿を消してしまった。
現在は、地元の「柿生禅寺丸柿保存会」が細々と栽培を続けているそうだ。
バスの中から1本、柿の木を見つけたのが、それだったのかもしれない。

ちなみに、柿生村は1939年(昭和14年)に川崎市に編入した際に消滅。
そのかわり、旧村だった10か村の名は現在も行政地名として生き残っている。
合併した際に新しく生まれた地名だけが用なしとなったわけだ。

9:55に桐蔭学園バス停に到着。
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地形図にあった碑の記号は日露戦争の戦没者慰霊碑だった。
文面には「日露戦没紀念碑」とある。
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目の前に神社の鳥居が見えるが、この碑はもともとこの神社の境内に建立されたものだろう。
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神社は帰りに参拝させてもらうことにして、とにかく仕事仕事。
桐蔭学園のキャンパスには初めて来たが、実に広大で迷ってしまった。
それでも何とかお目当ての中学部校舎にたどり着き、仕事は2時間ほどで終了。

帰りはグランドの脇を通って、バス停を目指す。
桐蔭学園と言えば、甲子園の常連校で全国有数の進学校というイメージがあるが、その沿革も含め、これもちょっと調べてみた。
するとおもしろいことが分かった。

創設は昭和39年。この地が選ばれた理由はHPを見る限りでは分からなかったが、校舎の設計にはあの丹下健三が携わっていた。
学園には幼稚園から小学、中学、高校、大学とすべてそろっており、中学・高校は高2まで男子部と女子部に分かれているが、高3で合流するという奇妙は方式をとっている。
中学・高校は1学年1000人を超えるマンモス校なので、学力の差が大きいらしい。

創立7年目で甲子園に初出場・初優勝という偉業を成し遂げ、以来、甲子園出場は春5回、夏6回という実績を持つ。サッカーやラグビーも全国優勝の経験がある強豪校だ。
学業の方でも90年代には東大合格者数が100人を超えることもあり、「神奈川御三家」とまで言われたが、近年はなぜか10人前後に低迷している。

卒業生で有名なのは、何と言っても時の人、巨人の高橋由伸新監督だろう。
ほかには、アナウンサーの小倉淳、俳優の織田裕二に水嶋ヒロ、タレントの西川史子、アーティストのデーモン閣下、漫画家のやくみつるなど個性豊かな人材を輩出している。

バス停から神社の階段を登った。
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その名も「鐵神社」。「くろがね」と読ませるらしい。
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「由緒 沿革」を記した説明板には、「新編武蔵風土記稿」によると、天文年間(1533~1555年)の創建と伝わる、と書かれている。
当初は青木明神もしくは杉山明神と呼ばれていたが、明治初年に上鐵、中鐵、下鐵の3か村が合併して鐵村が成立したのを機に、神社名も「鐵神社」に改めたという。
なお、現在の本殿は昭和45年、鳥居は昭和49年に建立されたものだ。

境内には摂社が二つある。
ひとつは山倉山大六天王尊。
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もうひとつは瘡守稲荷。
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これは皮膚病の神様で、明治38年に鐵村の臼井太郎吉が、耳を病む五女ワカの治癒を稲荷に祈願するとたちまち快癒したので、ここに瘡守稲荷を請願して塔を建てたのだという。

さて、「鐵村」なる地名だが。
てっきり消滅した地名と思っていたら、「鉄町子供の遊び場」なる表示を見つけたので、調べてみた。
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なんと現役であった。
桐蔭学園の住所そのものが、横浜市青葉区鉄町であった。

この周辺はかつて鐵村であったが、1889年に周辺12か村と合併し、都筑郡中里村大字鐵となった。
その後、1939年に横浜市に編入され、鉄町と改称された。

その字面から、古代・中世の製鉄と関係のありそうな地名に思えるが、その関連を示す証拠は確認されていないという。
鎌倉時代には「黒金」と表記されていたことから、語源は「畔曲(くろがね)」で、畦道が曲がっているところという意味ではないかという説もある。
「柿生」といい、「鐵」といい、こんな郊外の住宅地にも、それなりの由来があって面白い。

参拝した後、横浜桐蔭大学の校舎の西側に回り込む。
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このあたりにはまだ猫の額ほどの畑がまだ残っていた。
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左手の竹林の中に踏み跡があるので、それを下る。
「くそしるな」という看板が目を引く。
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これは「くそするな」という意味だろうが、このあたりの方言では「す」と「し」が混同しているのだろうか。
むしろ、「くそひるな」が訛ったものと考えた方が「ひ」と「し」の混同で理解しやすいようにも思う。

竹林の中には古い墓がいくつもあった。
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下り切って舗装道路に出ると、すぐ先に宗英寺の鎮守堂がある。
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石段の脇に、「石坂供養塔」の石柱を見つけた。
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境内はイチョウの落ち葉でいっぱい。もうすっかり秋も深まってきた。
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お堂の手前には力石が安置されていた。
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「萬助力石」という。
昭和51年に建立された説明板によると、文化・文政のころ、当地の住人で「力萬助」と呼ばれた村谷萬助が多摩川河畔より五里の道のりを一人で背負って来て、ここに奉納した石だという。

石には「奉納上鐵三十六貫余」と刻まれているので、重さは約130kgということになる。
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脇から下りるとその宗英寺。
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ここには庚申塔ではなく、めずらしい庚申幢(こうしんどう)があった。
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幢とは、筒形の幕に経文を書いて仏殿の飾りにした旗のようなもので、これはそれの石造版。初めて見た。
製作は江戸時代で、四角柱の3面に「見ざる」「言わざる」「聞かざる」が浮き彫りされているので、庚申信仰に関わるものだと考えられている。

寺の右の細い道を登っていくと、車道は終わり、道は竹林へと入っていく。
その前に「鉄火松跡」という石碑があった。
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これについても帰宅後調べてみた。
こんな話が伝わっているという。

このあたりは鐵村と早野村の境界に位置する。
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かつて両者に争いごとが起こり、裁判に持ち込まれた。
殿様の裁きは「真っ赤に焼けた鉄の棒を長く持っていた方が正しい」というものだった。
先手の鐵村はすぐに放り投げ、後手の早野村はすこし時間が後だったので鉄棒は少し冷えており、早野村の勝ちだった。
この裁判が、ここにあった老木の下で行われたので「鉄火松」と呼ばれるようになったらしい。
また一説には、このあたりで賭場が開かれていたからとも言われる。
博徒のことを「テッカ師」と呼んだことにちなむらしい。
その松が昭和18~19年頃に枯れてしまい、22年1月4日に伐採されたとのこと。
1本の松を偲んで碑まで建てられるとは、よほど親しまれていたのだろう。

ここから竹林の中に入る。
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まわりはみな住宅地だが、なぜか、標高70mほどのこの稜線だけ開発を免れている。
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ものの5分で通り抜けて、出たところがもみの木台。
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丘陵地を切り開いてつくった新興住宅地である。

目指すはふるさと札幌にも同じ地名がある「すすき野」。
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由来はかつて、付近にすすきが多く見られたからだという。
「すすきの」の地名は札幌が有名だが、あちこちにあるようだ。
相模原にもある。すすきはとくに珍しい植物ではないから。すすき野も全国に多かったのだろう。

町名表示板を確認して、「すすき野二丁目」バス停から、12:59発の東急バスに乗る。
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1時間ほどの散歩だった。

行き先は、往路とは違い、東急田園都市線あずみ野駅。
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駅前の食堂でステーキランチ(850円)を食べ、大手町の会社に戻った。

(おわり)
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御坊・紀勢本線(1)

【2015年7月29日(水)】御坊・紀勢本線
紀勢本線新宮方面への御坊駅始発は7:08。
これに間に合わせるには、紀州鉄道西御坊駅6:53発の列車に乗ればいい。
紀州鉄道各駅の駅舎の写真を撮って廃線跡もたどりたいので、宿を5時に出発することにして、4時半に起床。
ここのところ連日の4時台起き。
それでも、ちっともつらくないのは、それだけ年をとったということだろう。

宿を出ようとしたら玄関に鍵がかかっている。客は勝手に開けられない仕組みのようだ。
厨房やプライベートルームに「すいませ~ん」と声をかけたが、返事がない。
しかたなく裏口から出ることにした。
宿の人には、あすは5時から5時半の間に出ると言っておいたのになあ。

それはともかく、今日もいい天気。
まずは目の前にある紀伊御坊駅の復習。
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車両が何本か停泊している。
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駅近くの元酒店。
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踏切を渡る。
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御坊市のマンホール。
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中央に市の花木ハマボウ、周囲に市の花コギクと市の木クロガネモチ。

ほんの5分ほどで、学門駅。「学問」ではない。
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ホームの端っこに学門地蔵が祀られていた。表札の「学問」は間違い。
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駅前の元ラーメン店。鹿児島ラーメンだったようだ。
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きれいなシャッター街。
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ここは時間が来れば開くはず。
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こちらは、かなり厳しそう。
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しぶい店構えの朝日整骨所。
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再び、踏切を渡る。
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御坊市役所。人口2万5000人に満たない小都市にしては大きい。
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東京にオリンピックを呼んだ男、和田・フレッド・勇(1907~2001年)の顕彰碑。
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大水害水位標。昭和28年7月18日の大洪水時の最高水位を示す。
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市役所前駅。線路は廃線の雰囲気を漂わせている。
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ここもホームだけの駅。
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大浜通りを経て、元宮通りを南下する。
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ほとんどの店がはるか以前に営業を終えている。
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こちらはまだ現役のようだ。
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お詣りすると母乳の出がよくなると言われる椿地蔵。
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新薗橋で下川を渡る手前を右折。
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松原通りを西進する。
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間もなく紀州鉄道の終点、西御坊駅。
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始発電車がすでに出発の準備をしていた。
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西御坊駅は昭和6年の開業。
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駅舎内に自転車置き場がある。
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改札口。
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まだ電車には乗らず、路地を抜けて、駅の反対側に出る。
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この鉄道の経営体である「紀州鉄道株式会社」は実質、リゾート開発を軸とするホテル・不動産会社である。
経営難に陥っていた、御坊臨港鉄道を磐梯鉄道不動産(1969年に廃止された磐梯急行電鉄の旧経営陣が設立した会社)が1972年に約1億円で買収して、「紀州鉄道」を名乗った。
本社は東京・千代田区にあり、軽井沢や箱根など全国9か所に「紀州鉄道」の名を冠したホテルを経営している。
そういうユニークな会社なのだ。
西御坊より先0.7km(日出紡績前駅と日高川駅があった)が廃止されたのは1989年4月のこと。
紀州鉄道線自体(全2.7km)も廃止されても仕方ない経営状態なのだろうが、鉄道会社系のホテルという「信用」を維持するためにも、走らせ続けるのだろう。

廃線となった区間もほとんど線路は残っている。
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さすがに橋は外されたようだが。
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そうこうしているうちに始発電車が発車した。
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線路は立ち入り禁止になっているところと、黙認状態のところがある。
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当然、立ち入り禁止のところには入らなかった。
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踏切はアスファルトでつぶされていた。
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線路が残っている廃線跡はなんだかうれしい。
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駐車場状態になっているところも。
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このあたりは歩けてしまう。
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わりと住宅街の中である。
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それなりに哀愁が漂う。
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なんと警報機が残っていた。
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途中の日出紡績前駅の場所が分からないまま、かつての終着駅である日高川駅跡に着いてしまった。
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石積みのホームが残っていたが、ほとんど夏草に埋もれていた。
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市も紀州鉄道も、この廃線跡を整備する気はないようだ。
いや、再開発がないのなら、このままでいいのです。
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わずか700mだったが、久々に廃線の旅を楽しんだ。

戻りがてら、ちょっと町並みも歩いてみる。
御坊にも金山寺味噌。やまだ本店。
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小竹八幡神社。
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ここの蝉時雨は異常で、あんなすごいのは初めてだった。
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境内には、薗浦廻船衆が寄進した石灯籠や明治時代の石造りの時計台が残る。
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政治家・田淵豊吉が生まれた伊勢屋。
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ベンガラの格子が印象的な金山寺味噌の堀河屋野村。
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毎日牛乳は大阪に本社があるので、関東の人はあまりなじみがないが、関西出張時は時々見かけた。
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薗家。
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笹野家の蔵。
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路地に残るレンガ塀。
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下川を渡る。
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「オダレ(軒先の垂木の小口を隠すための横板)が映える民家」と、散策マップにあるが、手前の家のことだろうか。

旧町内で一番古い民家は改修中だった。
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その向かいに、堀河屋林業。
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御坊の名の由来となっている日高別院。
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まだ早朝とて、門は固く閉ざされていた。
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つりがねまんじゅうの菊水堂。
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時計をみると、電車の時間がかなり迫っている。
マジやばいので、またまた走った。
それでも写真を撮りたい欲求は抑えられない。
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天性寺。
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大谷呉服店。
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なんだなんだ。
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ギリギリで着いて、窓口で切符を買おうとしたら、奥に「硬券」が見える。
やった!と思ったが、おばちゃんが「もう出るから、そのまま乗って!」と追い立てられ、切符は買えず終い。残念。
文字通り、写真を撮る暇もなく飛び乗り、すぐに発車(6:53)。危なかった。

(つづく)
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新今宮・東大阪(下)

【2015年4月20日(月)】大阪
今宮戎神社の参拝を終え、ホテルに戻る。
でも時間もあるし、新今宮まで意外に近いことがわかったので帰りは歩くことにした。
路上探検である。
まずはカラーの大阪市マンホール。堂々たる大阪城。
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こんな落書きは序の口。
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児童公園は夜間は入れません。厳重に鍵がかかっている。
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ホームレスの住みつきを防止するためだろう。

はい、落書き続きます。
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この貼り紙にも驚き。おにぎり50円、うどん100円の安さ。
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「恵美須」はもちろん今宮戎に由来する地名だろう。
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長屋。
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閉じてしまったお店。
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ここは現役。
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ひなびた飲み屋街の朝。
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「大隅アパート」はこのあたりに展開する格安のアパートのようだ。
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これが重要。
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正面を阪堺電車が横切る。広告は「質店」。
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本当は、この日午前中、阪堺電車に乗り鉄するつもりだったのだが、仕事が入ってしまった。
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阪堺電車はJR新今宮駅のガード下をくぐる。
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こちらは阪堺電車の新今宮駅前という名の駅。「駅前」を名乗るのが奥ゆかしい。
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その駅前には、レトロなビルヂングが残る。
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まだ簡宿のままと思われる福田屋。
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駅の真ん前にで~んと立つ、あいりんの職安。
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部屋に戻って、コンビニで調達した朝食をいただく。
リハビリその他すべて済ませて、9時前にチェックアウト。
10時に東大阪市役所のアポを入れてある。

再び新今宮駅。
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ホームから巨大な大隅アパートが見えた。
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極端なラッピング電車が入線。パッと見、ドアがどこだか分からない。
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大阪環状線に乗って、森ノ宮で乗り換え。
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せっかくだから外に出てみたが、激しく雨が降っているうえに、駅舎は改修中。
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大阪城が雨にかすんでいた。
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駅名の由来となった森之宮神社にも参拝。
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正式には、鵲森宮(かささぎもりのみや)という。
聖徳太子が物部守屋との戦いに際して戦勝を祈願し、勝った暁には四天王を祀ることを誓った。戦勝後の崇峻天皇2年(589年)七月、まず両親の用明天皇と穴穂部間人皇后を祀って鎮守とした。
推古天皇6年(598年)4月に、聖徳太子の命で新羅に渡った吉士盤金(きしのいわかね)が2羽のカササギを持ち帰り、ここで飼っていたことから、ここが「鵲の森」と呼ばれるようになったという。

こんな自己PRもなされていた。
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さて、地下鉄に乗り換え。
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近鉄けいはんな線直通の地下鉄中央線で荒本へ。
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地上に出ると、高速道路の真下。
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雨の中、歩くこと5分ほどで、東大阪市役所。
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人口50万人を超え、大阪では大阪市、堺市につぐ大都市ではあるが、あまりにでかい。

東大阪市のマンホールは「ひ」の字を鳩の形にした市章で、市の花の梅を描いている。
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こちらは、ラグビーの町であることを意識したもの。
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東大阪市には花園ラグビー場がある。
2019年のワールドカップ開催会場にも決定し、祝福の垂れ幕がかかっていた。
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というわけで東大阪市役所での営業を終了。
次の訪問先に向かう。
荒本から近鉄に乗り、近鉄高井田駅からJR高井田中央駅に乗り換え。
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ここから、2008年に城東貨物線から旅客転換されたJRおおさか東線に乗って、河内永和駅へ。
逆方向は放出行き。
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放出は「はなてん」と読む。大阪の人はみな知っている有名な難読地名だ。
こうして「放出」が並んでいるのを見ると、「大放出」という感じだ。

放出行きは見送る。
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JR河内永和駅に到着。
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私鉄の場合、駅名に「西武秩父」とか「京急久里浜」とか会社名が入っているのは珍しくないが、「JR」が入っているのは新鮮。
これは、当然、近鉄の河内永和駅が先にあったためだが、JRをつけない方法もあったはず。
新今宮はJRも南海も「新今宮」だし。
JRはプライドが高いので、あとから乗っかる感じになるのはいやだったのでしょうか。

この路線は次の「JR俊徳道」「JR長瀬」とJR付きの駅名が3つ連続する。
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JR河内永和駅で、同僚と集合して、駅前の喫茶店でお昼。
久々にドライカレーを食す。ちょっと量が少なくて残念。

食後、再びおおさか東線でJR長瀬に移動。
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現場へ移動途中、こんな看板を発見。
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こんなにでかく書かないとやめさせられない地区なのだろうか。

このあたりは町工場の多いところだ。
でも、めでたい名前の銭湯がつぶれていた。
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この後、無事仕事を終え、大阪本社の元同僚とキタで飲んでから最終の1本前の新幹線で帰京。
17日(金)の伊豆から始まった長い旅を終えたのでありました。

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