【2019年6月8日(土)】長万部
長万部町の町民センターで停滞中。
「鉄道村」の展示室を見学し終えて、次のコーナーへ。
これは、さっき行ってきた静狩湿原の航空写真。

ここは泥炭地なのだそうだ。

続いて、静狩金山の様子。

静狩金山が発見されたのは明治23年(1890年)で、大正6年(1917年)に採掘が始まった。
昭和8年(1933年)からは静狩金山株式会社が経営し、昭和15年頃の最盛期には従業員の数が1600人に達したという。
しかし、昭和18年、不要不急の金山は操業を休止するとの政府の方針により閉山することとなったのだとか。

採掘された金鉱石(石英安山岩)。

当時は鉱山の周辺に何百もの社宅が並ぶ賑わいぶりだった。

当時の製錬所や鉱山事務所。

函館本線の静狩トンネルと当時の坑道。

鉱山跡は現在も地形図に残されているが、集落は完全に消滅している。
もう閉山後75年以上経過しているので、ほとんど森に戻ってしまっている気がするが、いずれ訪ねてみたいと思っている。

(静狩鉱山歌)
次は、長万部出身の作家和田芳恵のコーナー。

和田芳恵は明治39年(1906年)生まれで、読売文学賞や川端康成文学賞などを受賞しているが、基本的には地味な作家という印象だ。

直筆の色紙。

作品群。実は1冊も読んだことはない。

埋蔵文化財の資料室に移動。

北海道式石冠と呼ばれる縄文時代の擦り石。

ナイフ形石器の接合資料。

同じ場所から出土した石器の破片を集めて、くっつくかどうか一つ一つ試していく。
くっついたものを重ねていくと、縄文人が石材をどのように割って石器を作ったのかがわかるという非常に貴重な資料だ。

北方文化との交流を示す石刃。

新聞でも紹介されたようだ。

静狩貝塚の解説パネルもあった。

お次は民俗資料。

昔は「長万部劇場」なんて施設もあったのか。

昭和14年(1939年)に改築されたばかりの長万部駅舎。まだ木造だ。

昭和30年代だろうか、賑わう長万部駅前商店街。「蟹めし」の文字も見える。

長万部町の変形マンホール。アヤメは町の花である。

町民センターの南隣に植木蒼悦の記念館が建つ。

十字架があれば教会に見えるような建物だ。

無料だったが、時間の都合で見学は割愛。次の機会に。
というわけで、やっと長万部温泉街に移動。
まずは温泉街のはずれにある大円寺に啄木の歌碑を訪ねた。

かなり立派な寺院である。


歌碑は前庭にあった。「かの旅の夜汽車の窓におもひたる我がゆくすゑのかなしかりしか」

啄木は明治41年(1909年)4月19日、小樽から夜汽車に乗って長万部で夜を明かし、翌朝8時40分に函館に着いたという。

それが最後の函館だった。
啄木の歌はとても分かりやすく、胸にすとんと入ってくる。
温泉街には全国各地どこにでもある廃屋。

中央にある長万部町の町章は「長」の字を図案化したものである。

長万部温泉の中でも最も人気があるのが、この丸金旅館。

源泉100%でもちろん日帰り入浴可能。最初はここに入ろうと思っていたのだ。

その向かいには長万部温泉ホテルが構えている。

丸金の隣に、温泉旅館もりかわ。建て直して間もない感じだ。

丸金の向かいに巨大な石碑が立っていた。「長万部温泉発祥之地」である。

石碑の説明によると、この温泉は町の天然ガス試掘の際、昭和30年(1955年)に湧出したそうだ。

その後、温泉街が形成されたというから、かなり新しい温泉なのだ。

スナックけい。これは廃業しているようだ。昔は温泉客で大いに繁盛したのだろうに。

スナックキャンドルは何とか生き残っているのだろうか。

ホテル四国屋は、四国出身の人が創業したのかしら。

温泉旅館の「昇月」。見た目は地味だが現役である。

ホテルあづま。長万部温泉なんて実は聞いたことがなかったのに、かなりの数の宿があってちょっとびっくりだ。

カフェバーMIMOZA。

福屋旅館は建物はきれいだが、廃業したっぽい。

150mほどで温泉街は終了。長万部保線管理所の前で引き返す。

温泉街の雰囲気。

昔はもっと華やかだったのだろう。

これらは昔、何か商売をしていたのかなあ。


長万部町の町章と町の花アヤメを大胆にあしらったマンホール。

脇道に入ると、もう1軒あった。温泉大成館。

脇道の突き当りにビジネスホテルエクセルイン。
ここは温泉を引いているわけではないようだ。

大成館の向かいには廃業した旅館が残る。

こちらが玄関だが、宿の名称は分からなかった。

庭の池の縁石は遺跡のように残っていたが。

温泉街を後にして、駅前通りの銭湯栄湯に行ってみたら、廃業していた。

いくら「廃」が好きな私とはいえ、こういう施設は現役で頑張っていてほしいだけに残念だ。
こうなったら、ついでに長万部町役場のコレクションもしてしまおう。

かなり新しく立派な庁舎であった。

1998年に竣工したらしい。

長万部は難読地名の入門編として全国的にも知られた町だが、人口はピーク時の3分の1にあたる5000人余りしかいない。

立派な町民憲章の石碑。

役場の周辺には、このほかにもいろんなモニュメントがあった。
こちらは長万部開基110年を記念したもの。

昭和58年(1983年)に建立された。

北海道新幹線の長万部駅は当然高架化されるようだ。

花壇。花時計にはなっていない。

かなり古びた長万部町商工会。

もう12時半近いので、さすがにお腹が空いてきた。
なにかいい店がないか探しながら進む。「てんぷら幹」。天ぷらという気分ではない。

検索して、ここは?と思った中華料理屋は休業日だったので、やむなく南下を続ける。
国道沿いにもいろいろあるが、かにめしが食いたいわけではない。

だからこれらはスルー。

この迎賓館風の「長万部市場」は見事に廃墟。

カニの巨大な広告塔が泣いている。

この建物もおそらくドライブインだったと思われるが、もぬけの殻。


ゲーム・お食事のビクトリーも時代に付いて行けず。


ラーメン、そば、洋食、弁当、売店など幅広く展開していたドライブイン「ヒデ」も森に還ろうとしていた。



長万部郊外の国道沿いは廃墟街道の様相を呈している。


もちろん、現役ばりばりのかにめし屋や成功したレストランもあるのだが。


しかし、私の好みではないので、見送った。
ちょっと、ごちゃごちゃしたゲストハウスの前を通過。

なおも、廃レストランは続く。

道の駅風の店構えだが、「漁師の家」もつぶれてしまった。

極めつけはファミリーレストラン「アイドル」。

さっきの迎賓館もそうだが、こういうタイプは絶対成功しない。
成金が道楽気分で始めた商売に違いないからだ。趣味が悪すぎる。
国縫まで南下してきた。
2014年3月に閉校した長万部町立国縫小学校。

かつては「国縫」を「訓縫」と書いたこともあった。

5年前に閉校したばかりなので、校舎はきれいに残っている。

ただ、とくに再利用されている気配はなかった。

5年前に時計が止まったままだった。

校庭にシャクシャイン古戦場跡の碑が立っていた。

シャクシャインは1669年に和人の不当な扱いに立ちあがったアイヌの英雄である。
(「1906函館本線」につづく)
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【2019年6月8日(日)】長万部
長万部町の写万部山(499m)から下山した。
これから、函館本線の駅舎を回りながら南下し、本日の宿泊地である道の駅「みそぎの郷きこない」に向かう予定だ。
函館本線のうち長万部駅以南で未撮影の駅(駅跡含む)は、北豊津、山越、野田生、落部、石倉、本石倉の6駅のみ。
それだけでは時間が余ってしまうので、沿線の見どころにも寄り道しながら行くことにした。
まずは写万部山のふもとにある静狩貝塚から。

途中にあった農家の廃墟。

貝塚には登山口から5分ほどで到着した。

縄文時代後期初頭(約4000年前)の遺跡で、約1万平方㍍に範囲にわたって厚さ50~100cmの貝殻が堆積しているという。

海岸から2kmほど内陸にあり、当時は今よりかなり温暖で、海岸線もかなり内陸まで入り込んでいたのだろう。

とくに国や道の指定史跡にはなっていないようだった。

次は、これまた近くにある静狩湿原。

遊歩道が整備されているようだ。
でも、まだお花の季節には早いのか、ただの荒れ地にしか見えず、散策はカットした。

夏にはトキソウやイソツツジなどが咲くらしい。

そんな季節に、ついでがあったら立ち寄ってみよう。

近くには「左オタモイ川」という変わった名前の川が流れていた。

そこにかかるのは「静狩12号農道橋」という味気ない名前の橋だった。

では、その農道を通って、国道に戻ろう。

復習。オタモイ(272m)山の後ろに写万部山。

国道に戻る途中に、古い鳥居が目に飛び込んできたので急停車。

鳥居の隣にあった大木はイチイだった。

樹齢300年以上、樹高は10mで、かつては漁船が目印にしていたという。

海から目印にできるほど背が高いようにも思えないが。

傍らにあった祠の名称は不明。

馬頭観世音が安置されていた。

国道37号に出ると、海岸に立派な石碑があったので、また停車。

静狩原野開拓記念碑だったが、なんと記号は緒方竹虎であった。
竹虎は朝日新聞副社長から政界に転身し、自由党総裁を務めたこともある政治家だが、出身は山形県で北海道とは縁がないはず。

でも、調べてみたら、昭和29年(1954年)に4か月半ほど北海道開発庁長官を務めたことがある。

おそらく、その時に建立したものだろう。
では事故が多発しているという国道を南下する。

この廃屋はJRの車窓からも見えるので気になっていたのだが、やっと写真に収めることができた。

「名物 海の幸(帆立料)理」「○○食(堂)」との表記が読み取れる。
この後もこうした廃屋がたくさん登場するが、ドライブインは本当に盛衰が激しい。
長万部市街に入り、飯生(いいなり)神社を訪ねた。

この鳥居は昭和55年(1980年)に建立されたものらしい。

神社の境内には、もともとヲシャマンベ陣屋跡があった。

安政二年(1855年)、南部藩は恵山(函館市)から幌別(登別市)までの海岸線を警備するよう幕府に命じられ、箱館に陣屋を設け、ここ長万部には翌年、出張陣屋を築いた。

しかし、長万部沿岸が遠浅なので、そもそも外国船が容易に近づけないことが判明。
陣屋を置く必要がなくなり、さらに翌年の12月、引き払ってしまった。
とても寿命の短い陣屋だったのである。

飯生神社は天照大神、大国主命、倉稲魂命の三柱の神を祀る。

長万部の総鎮守だ。

この神社は、安永二年(1773年)、松前藩が番屋を立てたのが創始。
神様は文化十三年(1816年)に伏見稲荷神社から勧請されたとのことだ。

階段を登って、木造の鳥居をくぐる。

左手には、鎮座二百年記念之碑があった。道南はさすが古いものが多い。

参道を進むと

正面に拝殿。

謹んで、参拝させていただいた。

2014年の伊勢神宮式年遷宮を記念して植樹されたイチイの木。

高台にある境内から長万部の市街地を俯瞰。昭和40年代のたたずまいが残っていた。

標高差が20mくらいしかないスキー場を横目に

長万部温泉街に足を踏み入れる。

いや、その前に長万部の文化ゾーンを見ておこう。
最も北に位置するのが、平和祈念館。

館の前庭に、峠三吉(1917~1953年)の原爆詩碑があった。

北海道とはとくにゆかりのない、しかも共産党の党員だった峠の詩碑があるということは、長万部町にはかつて革新町政の時代があったのだろうか。

「八月六日」の詩碑もあり、かなりの思い入れがあったことが分かる。

前庭には、札幌出身の本郷新(年)の作品がたくさん野外展示されていた。
1953年の「嵐の中の母子像」。

この連作は広島平和祈念資料館や北海道立近代美術館にもある。

1966年の「鳥を抱く女」。

これは、札幌芸術の森野外美術館で見たことがある。

1978年の「北の母子像」。

1979年の「鳥の詩」。

「栄光と破滅の峰に一人起つもの これをしも彫刻家というべきか」とは本郷新の言葉だ。

こちらは函館出身の彫刻家(石彫)、池田譲の作品群「宿る81~83」。

これも池田譲の「影の立像」(1986年)。

これら現代彫刻の背後に石仏が多数安置された施設があった。

付近から集められたものだろう。

解説は、仏像研究家の森川不覚。

もう一つ、本郷新の作品。「戦没学生記念像」(1950年)。

本郷には戦争に関連した作品が多い。

祈念館の中には入らず、隣の町民センターへ移動。

こちらには、二股ラジウム温泉の石灰華(樋口石)の大きな標本が野外展示されている。

二股温泉にある巨大な石灰華ドームは、米国イエローストーン国立公園のものと世界に2つしかないのだという。

こちらは静狩鉱山で産した金鉱石。

これは昭和17年(1942年)に採掘されたもので、静狩金山神社の御手洗石として使用されていたのだそうだ。

では、町民センターの中へ。
貼り紙は隣に記念館がある函館出身の水墨画家植木蒼悦。

館内には鉄道村のほか、埋蔵文化財資料室など、いくつかの展示室がある。

ホールに軌道自転車。どこで使用していたものだろう。

青函船舶鉄道管理局長万部機関区のモニュメント。

鉄道村には、SLのプレートがずらり。

平成元年というから、ちょうど30年前の静狩駅の時刻表。手書きである。

腕木式信号機の部品など、鉄道用品の数々。

各種信号機。解説できるほどの知識は全くない。

長万部駅周辺の駅の駅名標。北豊津駅以外は現役だ。

北豊津駅は2017年3月4日に廃止され、信号場になっている。

蕨岱駅も北豊津駅と同時に廃止。旭浜駅は2006年3月18日に廃駅となった。

懐かしい国鉄時代の資料。

そういえば、これも国鉄時代の駅名標だろうか。

お蔭さまで鉄分をたっぷり補給できました。
(つづく)
【2019年4月29日(月)】美唄ラン
JR函館本線の峰延駅から美唄駅に向かって国道12号線を歩いている。
目下、美唄橋を渡り、美唄の市街地に差し掛かったところ。

わりと細い美唄川。奥にJRの鉄橋が見える。

こちらは、そこそこ有名らしいネパールカレーの店「STAR」。

「熊澤板金」は、そば屋かと思った。

板金の会社なのに、石がたくさん。

道路の反対側にも熊澤板金の工場があった。

三角屋根の住宅街。廃車を添えて。(フランス料理のメニュー風)

本物のそば処「匠庵」。そば打ち道場も兼ねている。

「美唄高校」前には、バスが3社も停まる。こんな小さな町に3社も競合しているとは。

現在の高校名は美唄尚栄高校。美自校バスだけ旧称のままだ。

昭和40年代に建てられたと思しき住宅群。

法宣寺前を通過。

このあたりは寺町を形成している感じだ。

今度は何寺だろう。随分規模が大きい。

常願寺であった。

参拝は省略させていただいた。

門前から一礼のみで通過。

向かいには正教寺。

その先に老舗風の的場旅館。

SUZU美容室はもう廃業していた。

これは「福よし」の看板なのだが、「サハリン近いぞ北海道」というコピーの真意が全くよくわからない。せっかく店に行ったのだから聞けばよかった。

右に行くと銀河通。

線路をくぐるようだ。

いよいよ駅前の商店街に入ってきた。

ハクチョウとマガンをあしらった美唄市のマンホール。

丸吉の手前で右折すると

かなり老朽化したビルが見えてきた。

旧ローヤルホテルである。

その向かいには、食堂の「美かど屋」。

というわけで、ようやく美唄駅に到着。

時刻は14:04。峰延駅から約10kmを2時間15分ほどで歩き切った。

ここから集合場所の「ゆ~りん館」まで5kmもあるので、この先はもうバスで行くことにした。

バスの時間は14:35と分かっている。

まだ30分あるので、さっそく駅舎を見学。

かなり大きな駅舎だと思ったが、実はほとんど歩道橋の覆い屋であった。

現在の美唄駅は2002年2月5日にオープンした橋上駅である。

通路には、安田侃の作品「翔生」が置かれていた。
2002年の作品なので、駅のリニューアルオープンに合わせて制作したものだろう。

1日平均の乗車人員は1300人(2014年度)もおり、当然、有人駅である。

駅の反対側(東口)もほぼ同じ構造になっている。

外観も全く同じ。

東口のロータリーに啄木の歌碑があった。

「石狩の美国といへる停車場の柵に乾してありし赤き布片かな」
美国と言えば積丹の町であり、駅もないので、これは「美唄」の誤りとされている。
啄木は明治41年(1908年)1月20日、釧路へ赴く途中、美唄を通過しているという。
高架橋の窓から旭川方面を望む。

改札の中は入場券を買わないと入れないので、これにて駅の見学は終了。

お昼はパンを1個たべただけで、お腹が空いたので、何か買いに商店街へ。
すぐ近くに、老舗っぽい御菓子司、長栄堂があったので、ここで調達することにする。

選んだのは、美唄くるみ餅とチョコレート饅頭。

どちらも美味しく元気が出た。

これから乗るのは市民バス。

ちゃんと待合室があった。

駅の西側も回って、東側のゆ~りん館に行くので、結構時間がかかる。

待っている間に、美唄駅ホームとローヤルホテルが入居していた新興ビルの写真も撮っておいた。


それでは、バスに乗車。料金は一律200円である。

国道の駅前交差点で、完走してきたランナーたちを発見。

手を振ったが、気づいてもらえなかった。さすがに相当疲れている様子だった。

バスはいろんなところを巡っていく。まずは美唄市郷土資料館。

ボケてしまったが、中央公園。

意外に立派な美唄市役所。

職員住宅と思しき平屋の長屋。

市立美唄児童館。

などなどを経て、15時前に「ゆ~りん館」に到着。

20数分のバスの旅だった。

ここに来るのは、2015年8月15日に黒岳に登った時以来なので4年ぶりだ。

やれやれ、やっと着いた。今日は13kmのランを含め30km近く歩いた。

もう太ももはすでにパンパン。温泉でゆっくり体をほぐすことにしよう。

ここは、ナトリウム-炭酸水素塩泉(弱アルカリ性低張性冷鉱泉)。旧泉質名は重曹泉。
源泉の温度は16.9℃で、ph値は7.6。
自然湧出で毎分1920リットルも湧き出しているという。

浴室は大勢の人がいて、撮影は困難だった。
でも、すでに到着している仲間たちもいて、語らいながら、のんびりと過ごした。
湯上りは休憩室で、当然ながらビールをぷはっ。

バスの時間まで、皆さんときょう一日を振り返った。
バスは16:35に出発。

コアビバイの前で下りて、打ち上げ会場の福よしへ向かう。


途中、再び、郷土資料館の前を通過。

間もなく飲み屋街に入ったが、かなりさびれている。


バス停から数分、17時に福よしに到着。

走らなかった人も含め、総勢30人ほどが集結。再びビールで乾杯。

もつ串、エビチリ、手羽先、ゴボウ揚げ、フライドポテトなどが次々に出てきた。
名物のもつそばを食べたかったが、残念ながらコースには入っていなかった。
宴会は大いに盛り上がり、19:30にはお開きとなった。

帰りの列車は19:50発なので、ちょっと速足で駅まで歩く。

幸いギリギリで間に合い、自由席も空いていたので、皆さん座ることができた。
札幌まではわずか35分。あっという間に着いてしまった。
しかし、明日からまたお出かけなので、すすきので飲み直しなどということはせず、真っすぐに帰宅した。
自分のランの実力も分かったし、駅舎の撮影もできたし、仲間とわいわい楽しく飲めたし、充実した1日だった。
しかし、翌日は太もものひどい筋肉痛と膝の痛みで、ほとんどロボット状態。
階段を真っすぐ下ることができなくなっていた。
【行程】2019年4月29日
新札幌駅(7:31)~大麻駅(8:08)~江別市役所(8:47)~新江別橋(9:10)~石狩川碑(9:29)~越後神社(9:46)~江別大橋(10:01)~豊幌駅(10:36)
※所要時間:3時間5分
※歩行距離:19.2km(うち走行距離:13.5km)
峰延駅(11:48)~沼貝神社(12:30)~光珠内駅(12:52)~美唄橋(13:36)~美唄駅(14:04)
※所要時間:2時間16分
※歩行距離:9.9km
◆通算歩行距離:29.1km(5時間21分)
【2019年4月29日(月)】美唄ラン
「ビバラン」をリタイヤして、美唄市の峰延駅から美唄駅に向かって国道12号線を歩いている。
途中にあった旧光珠内中央小学校に寄り道。

校舎はまだ現役時代のまま残されていた。

同校は1980年(昭和55年)4月に、沼南小学校と拓北小学校が統合する形で開校。

10年前の2009年3月に閉校した。

旧産炭地の美唄市は過疎化が激しく、ピーク時には9万人以上いた人口が現在は2万1347人(今年4月末現在)にまで減少している。なんと4分の1以下だ。
それに少子化も輪をかけ、当然ながら小中学校の統廃合も進んでいる。

休日だが、旧校庭に遊びにくる子供すらいない。

1902年(明治35年)に植樹された「長葉川柳」という柳の木だけが、ずっと学校の盛衰を見つめている。

統合してできた学校すら廃校になるのだから、北海道の地方は極めて厳しい状況にあると言わざるを得ない。

学校のすぐ先には、屯田砲兵隊の本部跡を示す石碑があった。

ツタに覆われてしまった廃屋。

里にはスイセンが咲き乱れているが、まだ山の方は冬枯れのままだ。

光珠内中央バス停。北海道はバス停にも待合所があるところが多い。雪のためだろう。

バス停の名称も10年前までは「光珠内中央小学校前」だったのだろうか。

やけに屋根の傾斜が急な家だこと。珍しいので撮っておいた。

番号が多い北海道の地名。

12:50、光珠内バス停に到着。

ここを左折すると光珠内駅だ。

建て替えられていない昔ながらの駅である。うれしい。

光珠内駅は1920年(大正9年)9月11日、国鉄函館本線の光珠信号所として開設された。

駅に昇格したのは、1952年(昭和27年)4月10日。
それから30年を記念した石碑が駅前に建てられていた。

警報機が鳴り始めたので、あわててホームに行くと、緑の車体が目に飛び込んできた。

特急ライラック22号札幌行きであった。

列車を見送ってから駅舎を見学する。ホーム側からの外観。

改めて、正面から駅舎の中に入る。

待合室はわりとがらんどうな感じ。

無人化されたのは1978年(昭和53年)10月2日のことである。

この駅舎は駅に昇格した際に建てられたものなのだろうか。

きっぷ受箱。

手書きの古い周辺図が地面に無造作に置かれていた。資料館に収めたい代物だ。

跨線橋の入口があえて狭くされていた。雪が吹き込むのを防ぐためだろう。

この跨線橋も峰延駅と同様、1968年(昭和43年)に設置されたものだ。

こちらもポスターゼロ。

ホームは単式、島式複合型の2面3線である。

駅舎側(右側)の1番線が上り、2、3番線が下りのホームになっている。

ホームから残雪の樺戸山地がくっきりと見えた。

なかなか絵になる。

駅名は当地の地名によるが、語源はアイヌ語の「カウシナイ(わな・ある・川)」に由来するという。

随分、格好いい漢字を当てたものだ。

2、3番線のある島式ホームは広くて長い。

1日平均の乗車人員は2014年度で21人だった。

旭川方面。

駅舎の写真を撮るためだけなら、ここからまた列車に乗って美唄まで行けばいいのだが、まだ時間もあるし、このまま美唄まで歩くことにした。

国道に再び出ると、間もなく光珠内北バス停を通過。

光珠内北の交差点には、陸上自衛隊美唄駐屯地への標識が立っていた。

札幌から57km地点のあたりで

1両編成の岩見沢行き普通列車とすれ違う。

国道の跨線橋から俯瞰した函館本線。複線である。

春の樺戸山地。

跨線橋で線路をまたぎ、函館本線は右手に移った。

この後、下り列車が来るのが分かっていたので待っていたら、間もなくランナーたちを乗せた列車が通過していった。

それらしい服装の人を見つけて手を振ったが、誰も気づいてくれなかった。

さあ、この先は直線道路の長さ日本一の区間(29.2km)に差し掛かる。

実際、真っすぐなのだが、沿道にわりと障害物が多いので、はるか先まで直線という実感は、車で走っていてもあまりない。

この先は徐々に美唄の市街地へと入っていく。
もう2代前の元号になってしまった「昭和」ハイヤー。

美唄市はサイクルツーリズムに力を入れている。

「21線」はわかるが、「国」って何だろう。国道のことか。

私の好きな三角屋根のお宅。スイセンが咲いているが、もうお住まいではないようだ。

立派なレンガ造りの煙突のある家。

「美自校」とは、美唄自動車学校のこと。路線バスも運行するバス会社でもある。

「25年兵」のバス停にちょっと、びっくり。

明治25年(1892年)に屯田兵が入植したことにちなむ地名かと想像して調べてみたら、まさにその通りであった。
かつては「美唄二十四年兵」「二十五年兵」「二十七年兵」という地名があったらしい。
もはや行政地名としては現存しないが、バス停などにその名をとどめていると、敬愛する今尾恵介さんが紹介している一文を見つけた。
美唄やきとり「福よし」の看板が現れた。今夜の宴会会場だ。
テンションが上がる。

ホームセンター「クリエート セキ」は1915年(大正4年)創業の現役企業。
美唄の市街地で金物店を営んでいる。これは移転前の旧施設である。

こちらは廃業したパチンコ店。

59km地点までやってきた。

開拓地らしい地名の「進徳」。

「進徳生活館」はかなり年季が入っていた。

続いて、繁盛していそうなドライブインが登場。

「レストラン藤観光」である。

中央バスの車庫前を通過。

光珠内に沼貝神社があったが、美唄には沼貝寺があった。

「沼貝って何?」って思って調べてみたら、美唄市はかつて沼貝町といったそうだ。

「美唄」の地名は、アイヌ語の「ピパイ(カラス貝・川)」、「ピパオマナイ(カラス貝・ある・川)」、あるいは「ピパオイ(カラス貝・多い・所)」のいずれかから転訛したとされる。
「沼貝」はこれらアイヌ語地名を意訳したものだそうだ。
現在の美唄駅が1891年(明治24年)に設置される際、駅名は「沼貝」ではなく「美唄」が採用された。
それに伴い駅周辺の地名が翌年、「字ピパイ」と名付けられ、1900年に「美唄」に改称。
町名も1926年(大正15年)に「美唄町」に改められた。
変更の理由は、ちゃんとは調べていないが、おそらくアイヌ語の原語に近いものにしようとしたのではなく、「沼」より「美」の方がイメージがいいと考えたのだろう。

美唄のハスカップ果汁液が「ドラキュラの葡萄」として販売されているようだ。

(つづく)
【2019年4月29日(月)】美唄ラン
新札幌から美唄まで53kmを走る「ビバラン」を19km(走ったのは13km)でリタイヤし、豊幌駅から列車に乗った。
11:13、乗り換え駅の岩見沢に到着。

この時点で全員を抜かしたことになる(笑)
次の旭川行きまでは20分ほど待ち合わせ時間があるので、構内をちょっとだけ探索した。

跨線橋から北の方角に見えたのは、JR岩見沢運転所の建物。

旭川行きの列車が出る3番線のホームには、農業用馬の木彫が展示されている。

1980年に設置されたもののようだ。
他にあまり見るところもないので、早々に列車に乗り込む。

11:33、定刻通りに発車。

間もなく、車窓には広大な田園風景が広がった。

7分で、下車駅の峰延駅に到着。ここはもう美唄市である。

ここで下りて、隣の光珠内駅まで歩き、峰延駅と光珠内駅を撮影してしまう計画である。

駅前には北海道のローカル駅には定番の農協倉庫があった。

下り立った2番線のホーム。

峰延駅は1891年(明治24年)7月5日、北海道炭礦鉄道の「峯延駅」として開業した。

2面2線の相対式ホームになっている。

かつて、ここから岩見沢駅や石狩月形駅方面へのバスが出ていたようだが、廃止されたのだろう。「のりかえ」の案内板が塗りつぶされていた。

現在の書体に改められたのは1900年(明治33年)のことである。

1906年(明治39年)には国鉄に移管されている。

2番線は島式ホームになっているが、3番線は使用されていない。

跨線橋が設置されたのは、1968年(昭和43年)のこと。

ポスター1枚貼られておらず、すっきりしている。

跨線橋から眺めると、1番線と2番線の間に、かつては中線もあったことが分かる。

上りの副本線として使用されていたらしいが、すでに線路は撤去済みだ。

跨線橋から駅前広場を望む。

1番線(上り線)に下りてきた。

峰延駅が無人化されたのは1984年(昭和59年)3月31日。JRに移管される前のことだ。

この駅舎が建てられたのは、いつなのかよく分からない。

切符売り場らしき窓口の跡がないので、たぶん無人化された後のことだろう。

このちょっと凹んだ空間がユニークだった。

峰延駅の外観。ホーム側とほぼ同じデザインである。

跨線橋はもう半世紀の歴史を経たことになる。

ささやかな駅前ロータリー。花壇が愛らしい。

駅前にあった三角屋根の木造家屋。


駅前商店の高橋商店はもう自販機のみの営業のようだ。

それでは、いざ光珠内駅に向かって出発。

峰延農協農機具センターの前を通過すると

すぐに国道12号と交差する。国道沿いのヤベ洋品店は現役だ。

対岸に寺の跡らしきものがあったが、信号が赤なので撮影だけに留めた。

こんな感じで沿線にあるものを、逐一写真に収めながら歩いていく。

このあたりは中央バスが運行しているようだ。1日5往復だけのようだが。

峰延駐在所と峰延郵便局。


田舎の駅は大抵ボロボロなのに、警察と郵便局だけはどんな僻地でも立派だ。
峰延橋で北海道幹線用水路を渡る。

左前方(北の方角)に隈根尻山(971m)などの樺戸山地が見えてきた。

そこを特急カムイ20号札幌行きが走り去る。

歩き始めて10分ほどで、右手に北海道日油の工場前を通過。日本油脂の子会社だ。

左手には「屯田砲兵隊移駐之地」と書かれた大きな石碑が現れた。

1893年(明治26年)6月10日、各県から集まった30戸がこの地に、屯田兵の砲兵隊として入植したのだそうだ。

まだ10分ちょっとしか歩いていないのに、地名はもう「光珠内南」になった。

意外に近いのかもと思ったが、結果としてそう甘くはなかった。
廃屋になっているが、昔ながらの木造家屋。美しい。

こちらは完全につぶれてしまっている。

「ミツカン酢」のホーロー看板が懐かしい。

札幌から54km地点。走り始めたのは新札幌なので、移動距離はもう少し短い。

北海道によくある「○○線」地名。

国道沿いなのに、このあたりは古い木造家屋がわりと目立つ。

右手は三笠市の市名の由来ともなった三笠山(594m)方面。

左手に、由緒ありげな樹木が現れた。とくに案内板の存在などを確かめはしなかった。

こういう木造家屋を見ると、小樽にあった祖父母の家を思い出す。

またまた屯田兵の遺跡。今度は砲兵隊の練兵場の跡だった。

「兵」だけあって、開拓の合間にちゃんと軍事訓練もしていたのだ。

裏面に「昭和二十五年建立」と書かれていた。

樺戸山地にはまだ随分、雪が残っている。すがすがしい気分になる。

遠方に歩道橋が見える。あれはもしかして光珠内駅前なのだろうか。
ちょっと期待してしまう。

一見新しそうだが、1階部分の壁がレンガ。わりと古いのかもしれない。

踏切に防風林に樺戸山地。

光珠山善来寺の参道前を通過。

ここまで3km弱歩いてきた。まだランナーたちは誰も抜かしてこない。

沼貝神社なるものがあったので立ち寄った。

境内にあった「太平洋戦殉没者慰霊碑」。

同じく「開基六十年記念碑」。

そして「五十年記念碑」。

さらには、光珠内開拓100年を記念した「拓魂百代」の碑。

これは何を記念したものか不明。

「祖霊碑」や杉の献木を記念した碑もあった。


年間行事はかなりたくさんあるようだ。氏子さんがまだたくさんいるのだろう。

無事に、ゆ~りん館にたどり着けますよう。

地面にはエゾエンゴサクが咲き乱れていた。

鎧姿の神像にご挨拶して退去する。

お隣に光珠内中央自治会館地域ふれあいセンター。長ったらしい名称だ。

歩道橋までたどり着いたが、老朽化のため通行止め。

駅前の歩道橋ではなく、学校のためのものだった。

せっかくなので、学校(廃校)も見学していこう。

さっきの避難場所の標識には「光珠内中央小学校」と書かれていたが、この校歌を読むと、かつては沼南小学校といったらしい。

「沼南小中学校跡地之碑」もちゃんとあった。

こちらは統合後の「光珠内中央小学校」校歌の歌碑である。

(つづく)